憧憬着能够原谅的人,也对不能原谅的自己感到失望。不逃避固然重要,但是不逃避也是一种痛苦的生活方式。皆实先生不会精疲力竭吗。与Buddy的羁绊会如何。稍后9点开始。福
許せる人に憧れたり許せない自分に失望したり。逃げないことも大切ですが、逃げないことはしんどい生き方でもあり。皆実さんはしんどくないんですかね。バディの絆はどうなる。この後9時から。福
許せる人に憧れたり許せない自分に失望したり。逃げないことも大切ですが、逃げないことはしんどい生き方でもあり。皆実さんはしんどくないんですかね。バディの絆はどうなる。この後9時から。福
#八木勇征[超话]#
八木勇征MCのトーク番組に先輩・片寄涼太がゲスト出演、2人で利きワインと即興芝居に挑戦
https://t.cn/A6p6AQ85
「夜な夜な不思議の館にて ~御曹司・八木勇征からの招待状~」は、八木が少しわがままだが憎めない御曹司として、“親戚のおじさん”の小沢一敬(スピードワゴン)、“有能な秘書”のいわたまありとともにゲストをもてなすトークバラエティ。今回の放送には八木の事務所の先輩である片寄が登場する。
冒頭では片寄が「後輩がMCを務める番組に出ることはほとんどないので、どう振る舞えばいいのか」と戸惑い、八木は小沢から「表情が固い!」と指摘される。その後、八木と片寄が学生時代にそれぞれサッカーでめざましい活躍をしていたことが判明し、徐々に和やかな雰囲気に。小沢に「これだけイケメンで、サッカーが上手だとモテたでしょ?」と聞かれると、八木は「まったくモテませんでした! 高校時代は男ばかりのクラスで3年間を過ごしました」と振り返る。
“利きワイン”に挑戦中の八木勇征(FANTASTICS from EXILE TRIBE)、片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)。(c)BS朝日[拡大]
また八木は片寄とともに“利きワイン”と即興芝居に挑戦。大のワイン好きである片寄の前で、八木はまさかの行動に出る。即興芝居では八木と片寄が1分間のショートコントの芝居に挑む。
八木勇征(FANTASTICS from EXILE TRIBE)コメント
LDHのアーティストの方がお客さまに来てくださるのは初めてですし、それがデビュー前からお世話になっている涼太さんだなんて。不思議な感覚で、最初は緊張しました。涼太さんはいろいろな話をしてくださり、嬉しかったです。そのおかげで僕もだんだんとリラックスできました。今回は無我夢中でいろんなことに挑戦して、絶対面白くなっていると思うのでご期待ください!
番組が始まって3カ月が経ち、小沢さん、いわたさんとの“トリオ感”はとても良くなっています! これからもいろんなお客さまを迎えて、番組の幅を広げていきたいと思います。
ゲームの「原神」はすればするほどハマる“沼ゲーム”ですね。プライベートでもプレイしていて、この前はどうしてもお気に入りのキャラクターが欲しくて、課金して手に入れちゃいました(笑)。
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)コメント
八木くんはデビューしたての頃、一生懸命ピュアに頑張っている姿がすごく印象に残っています。忙しくなり、いろんな仕事をやっていく中で、どう変わっているのかと思いましたが、しゃべっているうちに、「あ、そうだ、そうだ。こういうヤツだ」と思い出しました(笑)。良い意味で全然変わっていなくて、安心しました。
僕たちがこういう形で共演することはなかなかないので、僕も八木くんも最初は探り探りだったと思います。どう2人の関係がシンクロしていくのか楽しみに見てもらいたいです。
小沢一敬(スピードワゴン)コメント
八木くんと片寄くんの温かいやりとりが素晴らしかったです。2人はバランスが良いし、先輩が後輩の番組に来てくれるなんて幸せなことですよね。僕は以前、劇団EXILEのメンバーが主演する映画の台本を書いたことがあって、今日で完全にこの番組全体がEXILEファミリー、いやTRIBEになったと思います。
この番組は、レギュラー3人の関係性が二等辺三角形だとすると、俺といわたさんが45度ずつを担っていて、残り90度を頑張る八木さんの姿をこれからもぜひ見ていただきたいです。
「原神」は純粋にゲームとして楽しめるところが気に入っています。先日、大きな漫才の大会(THE SECOND)があり、プライベートではここ2週間ほどプレイできていませんでしたが、そろそろ再開します。
いわたまあり コメント
片寄さんの前で見せる八木さんの“後輩感”が可愛らしくて印象的でした。今回は利きワインのあと、みなさんがさらにリラックスしていて、その中で時折見せる小沢さんの眠たそうな表情を見逃さないでください(笑)。
これまでの放送を見ると、3人(八木、小沢、いわた)のやりとりがしっかり成立していて、おふたりに感謝しています。さらに有能な秘書を目指しつつ、そろそろ私の“素”が出せたらいいなと思っています。
八木勇征MCのトーク番組に先輩・片寄涼太がゲスト出演、2人で利きワインと即興芝居に挑戦
https://t.cn/A6p6AQ85
「夜な夜な不思議の館にて ~御曹司・八木勇征からの招待状~」は、八木が少しわがままだが憎めない御曹司として、“親戚のおじさん”の小沢一敬(スピードワゴン)、“有能な秘書”のいわたまありとともにゲストをもてなすトークバラエティ。今回の放送には八木の事務所の先輩である片寄が登場する。
冒頭では片寄が「後輩がMCを務める番組に出ることはほとんどないので、どう振る舞えばいいのか」と戸惑い、八木は小沢から「表情が固い!」と指摘される。その後、八木と片寄が学生時代にそれぞれサッカーでめざましい活躍をしていたことが判明し、徐々に和やかな雰囲気に。小沢に「これだけイケメンで、サッカーが上手だとモテたでしょ?」と聞かれると、八木は「まったくモテませんでした! 高校時代は男ばかりのクラスで3年間を過ごしました」と振り返る。
“利きワイン”に挑戦中の八木勇征(FANTASTICS from EXILE TRIBE)、片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)。(c)BS朝日[拡大]
また八木は片寄とともに“利きワイン”と即興芝居に挑戦。大のワイン好きである片寄の前で、八木はまさかの行動に出る。即興芝居では八木と片寄が1分間のショートコントの芝居に挑む。
八木勇征(FANTASTICS from EXILE TRIBE)コメント
LDHのアーティストの方がお客さまに来てくださるのは初めてですし、それがデビュー前からお世話になっている涼太さんだなんて。不思議な感覚で、最初は緊張しました。涼太さんはいろいろな話をしてくださり、嬉しかったです。そのおかげで僕もだんだんとリラックスできました。今回は無我夢中でいろんなことに挑戦して、絶対面白くなっていると思うのでご期待ください!
番組が始まって3カ月が経ち、小沢さん、いわたさんとの“トリオ感”はとても良くなっています! これからもいろんなお客さまを迎えて、番組の幅を広げていきたいと思います。
ゲームの「原神」はすればするほどハマる“沼ゲーム”ですね。プライベートでもプレイしていて、この前はどうしてもお気に入りのキャラクターが欲しくて、課金して手に入れちゃいました(笑)。
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)コメント
八木くんはデビューしたての頃、一生懸命ピュアに頑張っている姿がすごく印象に残っています。忙しくなり、いろんな仕事をやっていく中で、どう変わっているのかと思いましたが、しゃべっているうちに、「あ、そうだ、そうだ。こういうヤツだ」と思い出しました(笑)。良い意味で全然変わっていなくて、安心しました。
僕たちがこういう形で共演することはなかなかないので、僕も八木くんも最初は探り探りだったと思います。どう2人の関係がシンクロしていくのか楽しみに見てもらいたいです。
小沢一敬(スピードワゴン)コメント
八木くんと片寄くんの温かいやりとりが素晴らしかったです。2人はバランスが良いし、先輩が後輩の番組に来てくれるなんて幸せなことですよね。僕は以前、劇団EXILEのメンバーが主演する映画の台本を書いたことがあって、今日で完全にこの番組全体がEXILEファミリー、いやTRIBEになったと思います。
この番組は、レギュラー3人の関係性が二等辺三角形だとすると、俺といわたさんが45度ずつを担っていて、残り90度を頑張る八木さんの姿をこれからもぜひ見ていただきたいです。
「原神」は純粋にゲームとして楽しめるところが気に入っています。先日、大きな漫才の大会(THE SECOND)があり、プライベートではここ2週間ほどプレイできていませんでしたが、そろそろ再開します。
いわたまあり コメント
片寄さんの前で見せる八木さんの“後輩感”が可愛らしくて印象的でした。今回は利きワインのあと、みなさんがさらにリラックスしていて、その中で時折見せる小沢さんの眠たそうな表情を見逃さないでください(笑)。
これまでの放送を見ると、3人(八木、小沢、いわた)のやりとりがしっかり成立していて、おふたりに感謝しています。さらに有能な秘書を目指しつつ、そろそろ私の“素”が出せたらいいなと思っています。
「武田家が滅亡」裏切り者が続出した“きっかけ” 窮地に立たされた勝頼、信用を失ったその理由
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
■同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。
そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。
■織田信長は高天神城の降伏を認めず
しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。
『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。
彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。
『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。
『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
■武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
甲斐の府中(甲府市)に人質としてあった梅雪の妻子は、雨夜に紛れて密かに脱出させたという(2月25日)。梅雪は武田一族であり(生母は武田信玄の姉)、その裏切りは武田勝頼にとってショックだっただろう。
■重臣にも裏切られた勝頼
梅雪が織田方に降ったことによって、甲斐への進軍は容易となった。勝頼は新府に戻るが、館に火をかけ(3月3日)、重臣の小山田信茂を頼ろうとした。しかし、信茂にも裏切られて、3月11日、追い詰められた勝頼は、妻子とともに田野(甲州市)で自害して果てる。名族・武田家はついに滅亡した。
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
■同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。
そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。
■織田信長は高天神城の降伏を認めず
しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。
『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。
彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。
『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。
『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
■武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
甲斐の府中(甲府市)に人質としてあった梅雪の妻子は、雨夜に紛れて密かに脱出させたという(2月25日)。梅雪は武田一族であり(生母は武田信玄の姉)、その裏切りは武田勝頼にとってショックだっただろう。
■重臣にも裏切られた勝頼
梅雪が織田方に降ったことによって、甲斐への進軍は容易となった。勝頼は新府に戻るが、館に火をかけ(3月3日)、重臣の小山田信茂を頼ろうとした。しかし、信茂にも裏切られて、3月11日、追い詰められた勝頼は、妻子とともに田野(甲州市)で自害して果てる。名族・武田家はついに滅亡した。
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
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