舞踏会(上)
芥川龍之介

       一

 明治十九年十一月三日の夜であつた。当時十七歳だつた――家けの令嬢明子あきこは、頭の禿げた父親と一しよに、今夜の舞踏会が催さるべき鹿鳴館ろくめいくあんの階段を上つて行つた。明あかるい瓦斯ガスの光に照らされた、幅の広い階段の両側には、殆ほとんど人工に近い大輪の菊の花が、三重の籬まがきを造つてゐた。菊は一番奥のがうす紅べに、中程のが濃い黄色、一番前のがまつ白な花びらを流蘇ふさの如く乱してゐるのであつた。さうしてその菊の籬の尽きるあたり、階段の上の舞踏室からは、もう陽気な管絃楽の音が、抑へ難い幸福の吐息のやうに、休みなく溢れて来るのであつた。
 明子は夙つとに仏蘭西フランス語と舞踏との教育を受けてゐた。が、正式の舞踏会に臨むのは、今夜がまだ生まれて始めてであつた。だから彼女は馬車の中でも、折々話しかける父親に、上うはの空の返事ばかり与へてゐた。それ程彼女の胸の中には、愉快なる不安とでも形容すべき、一種の落着かない心もちが根を張つてゐたのであつた。彼女は馬車が鹿鳴館の前に止るまで、何度いら立たしい眼を挙げて、窓の外に流れて行く東京の町の乏しい燈火ともしびを、見つめた事だか知れなかつた。
 が、鹿鳴館の中へはひると、間もなく彼女はその不安を忘れるやうな事件に遭遇した。と云ふのは階段の丁度中程まで来かかつた時、二人は一足先に上つて行く支那の大官に追ひついた。すると大官は肥満した体を開いて、二人を先へ通らせながら、呆あきれたやうな視線を明子へ投げた。初々うひうひしい薔薇色の舞踏服、品好く頸へかけた水色のリボン、それから濃い髪に匂つてゐるたつた一輪の薔薇の花――実際その夜の明子の姿は、この長い辮髪べんぱつを垂れた支那の大官の眼を驚かすべく、開化の日本の少女の美を遺憾ゐかんなく具へてゐたのであつた。と思ふと又階段を急ぎ足に下りて来た、若い燕尾服の日本人も、途中で二人にすれ違ひながら、反射的にちよいと振り返つて、やはり呆あきれたやうな一瞥いちべつを明子の後姿に浴せかけた。それから何故か思ひついたやうに、白い襟飾ネクタイへ手をやつて見て、又菊の中を忙しく玄関の方へ下りて行つた。
二人が階段を上り切ると、二階の舞踏室の入口には、半白の頬鬚ほほひげを蓄へた主人役の伯爵が、胸間に幾つかの勲章を帯びて、路易ルイ十五世式の装ひを凝こらした年上の伯爵夫人と一しよに、大様おほやうに客を迎へてゐた。明子はこの伯爵でさへ、彼女の姿を見た時には、その老獪らうくあいらしい顔の何処かに、一瞬間無邪気な驚嘆の色が去来したのを見のがさなかつた。人の好い明子の父親は、嬉しさうな微笑を浮べながら、伯爵とその夫人とへ手短てみじかに娘を紹介した。彼女は羞恥しうちと得意とを交かはる交がはる味つた。が、その暇にも権高けんだかな伯爵夫人の顔だちに、一点下品な気があるのを感づくだけの余裕があつた。
 舞踏室の中にも至る所に、菊の花が美しく咲き乱れてゐた。さうして又至る所に、相手を待つてゐる婦人たちのレエスや花や象牙の扇が、爽かな香水の匂の中に、音のない波の如く動いてゐた。明子はすぐに父親と分れて、その綺羅きらびやかな婦人たちの或一団と一しよになつた。それは皆同じやうな水色や薔薇色の舞踏服を着た、同年輩らしい少女であつた。彼等は彼女を迎へると、小鳥のやうにさざめき立つて、口口に今夜の彼女の姿が美しい事を褒め立てたりした。
 が、彼女がその仲間へはひるや否や、見知らない仏蘭西フランスの海軍将校が、何処からか静に歩み寄つた。さうして両腕を垂れた儘、叮嚀に日本風の会釈ゑしやくをした。明子はかすかながら血の色が、頬に上つて来るのを意識した。しかしその会釈が何を意味するかは、問ふまでもなく明かだつた。だから彼女は手にしてゐた扇を預つて貰ふべく、隣に立つてゐる水色の舞踏服の令嬢をふり返つた。と同時に意外にも、その仏蘭西の海軍将校は、ちらりと頬に微笑の影を浮べながら、異様なアクサンを帯びた日本語で、はつきりと彼女にかう云つた。
「一しよに踊つては下さいませんか。」

 間もなく明子は、その仏蘭西の海軍将校と、「美しく青きダニウブ」のヴアルスを踊つてゐた。相手の将校は、頬の日に焼けた、眼鼻立ちの鮮あざやかな、濃い口髭のある男であつた。彼女はその相手の軍服の左の肩に、長い手袋を嵌はめた手を預くべく、余りに背が低かつた。が、場馴れてゐる海軍将校は、巧に彼女をあしらつて、軽々と群集の中を舞ひ歩いた。さうして時々彼女の耳に、愛想の好い仏蘭西語の御世辞さへも囁ささやいた。
彼女はその優しい言葉に、恥しさうな微笑を酬いながら、時々彼等が踊つてゐる舞踏室の周囲へ眼を投げた。皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬ちりめんの幔幕まんまくや、爪を張つた蒼竜さうりゆうが身をうねらせてゐる支那の国旗の下には、花瓶々々の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰欝いんうつな金色を、人波の間にちらつかせてゐた。しかもその人波は、三鞭酒シヤンパアニユのやうに湧き立つて来る、花々しい独逸ドイツ管絃楽の旋律の風に煽られて、暫くも目まぐるしい動揺を止めなかつた。明子はやはり踊つてゐる友達の一人と眼を合はすと、互に愉快さうな頷うなづきを忙しい中に送り合つた。が、その瞬間には、もう違つた踊り手が、まるで大きな蛾がが狂ふやうに、何処からか其処へ現れてゐた。
 しかし明子はその間にも、相手の仏蘭西の海軍将校の眼が、彼女の一挙一動に注意してゐるのを知つてゐた。それは全くこの日本に慣れない外国人が、如何に彼女の快活な舞踏ぶりに、興味があつたかを語るものであつた。こんな美しい令嬢も、やはり紙と竹との家の中に、人形の如く住んでゐるのであらうか。さうして細い金属の箸で、青い花の描いてある手のひら程の茶碗から、米粒を挾んで食べてゐるのであらうか。――彼の眼の中にはかう云ふ疑問が、何度も人懐しい微笑と共に往来するやうであつた。明子にはそれが可笑をかしくもあれば、同時に又誇らしくもあつた。だから彼女の華奢きやしやな薔薇色の踊り靴は、物珍しさうな相手の視線が折々足もとへ落ちる度に、一層身軽く滑なめらかな床の上を辷すべつて行くのであつた。
 が、やがて相手の将校は、この児猫のやうな令嬢の疲れたらしいのに気がついたと見えて、劬いたはるやうに顔を覗きこみながら、
「もつと続けて踊りませうか。」
「ノン・メルシイ。」
 明子は息をはずませながら、今度ははつきりとかう答へた。
 するとその仏蘭西の海軍将校は、まだヴアルスの歩みを続けながら、前後左右に動いてゐるレエスや花の波を縫つて、壁側かべぎはの花瓶の菊の方へ、悠々と彼女を連れて行つた。さうして最後の一廻転の後、其処にあつた椅子の上へ、鮮あざやかに彼女を掛けさせると、自分は一旦軍服の胸を張つて、それから又前のやうに恭うやうやしく日本風の会釈をした。

 その後又ポルカやマズユルカを踊つてから、明子はこの仏蘭西の海軍将校と腕を組んで、白と黄とうす紅と三重の菊の籬まがきの間を、階下の広い部屋へ下りて行つた。
此処には燕尾服や白い肩がしつきりなく去来する中に、銀や硝子ガラスの食器類に蔽おほはれた幾つかの食卓が、或は肉と松露しようろとの山を盛り上げたり、或はサンドウイツチとアイスクリイムとの塔を聳そばだてたり、或は又柘榴ざくろと無花果いちじゆくとの三角塔を築いたりしてゐた。殊に菊の花が埋め残した、部屋の一方の壁上には、巧な人工の葡萄蔓ぶだうつるが青々とからみついてゐる、美しい金色の格子があつた。さうしてその葡萄の葉の間には、蜂の巣のやうな葡萄の房が、累々るゐるゐと紫に下つてゐた。明子はその金色の格子の前に、頭の禿げた彼女の父親が、同年輩の紳士と並んで、葉巻を啣くはへてゐるのに遇つた。父親は明子の姿を見ると、満足さうにちよいと頷いたが、それぎり連れの方を向いて、又葉巻を燻くゆらせ始めた。
 仏蘭西の海軍将校は、明子と食卓の一つへ行つて、一しよにアイスクリイムの匙さじを取つた。彼女はその間も相手の眼が、折々彼女の手や髪や水色のリボンを掛けた頸くびへ注がれてゐるのに気がついた。それは勿論彼女にとつて、不快な事でも何でもなかつた。が、或刹那には女らしい疑ひも閃ひらめかずにはゐられなかつた。そこで黒い天鵞絨びろうどの胸に赤い椿の花をつけた、独逸人らしい若い女が二人の傍を通つた時、彼女はこの疑ひを仄ほのめかせる為に、かう云ふ感歎の言葉を発明した。
「西洋の女の方はほんたうに御美しうございますこと。」
 海軍将校はこの言葉を聞くと、思ひの外真面目に首を振つた。
「日本の女の方も美しいです。殊にあなたなぞは――」
「そんな事はこざいませんわ。」
「いえ、御世辞ではありません。その儘すぐに巴里パリの舞踏会へも出られます。さうしたら皆が驚くでせう。ワツトオの画の中の御姫様のやうですから。」
 明子はワツトオを知らなかつた。だから海軍将校の言葉が呼び起した、美しい過去の幻も――仄暗い森の噴水と凋すがれて行く薔薇との幻も、一瞬の後には名残りなく消え失せてしまはなければならなかつた。が、人一倍感じの鋭い彼女は、アイスクリイムの匙を動かしながら、僅にもう一つ残つてゐる話題に縋すがる事を忘れなかつた。
「私も巴里の舞踏会へ参つて見たうございますわ。」
海軍将校はかう云ひながら、二人の食卓を繞めぐつてゐる人波と菊の花とを見廻したが、忽ち皮肉な微笑の波が瞳の底に動いたと思ふと、アイスクリイムの匙を止めて、
「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。」と半ば独り語のやうにつけ加へた。

 一時間の後、明子と仏蘭西フランスの海軍将校とは、やはり腕を組んだ儘、大勢の日本人や外国人と一しよに、舞踏室の外にある星月夜の露台に佇んでゐた。
 欄干一つ隔へだてた露台の向うには、広い庭園を埋めた針葉樹が、ひつそりと枝を交し合つて、その梢こずゑに点々と鬼灯提燈ほほづきぢやうちんの火を透すかしてゐた。しかも冷かな空気の底には、下の庭園から上つて来る苔の匂や落葉の匂が、かすかに寂しい秋の呼吸を漂はせてゐるやうであつた。が、すぐ後の舞踏室では、やはりレエスや花の波が、十六菊を染め抜いた紫縮緬ちりめんの幕の下に、休みない動揺を続けてゐた。さうして又調子の高い管絃楽のつむじ風が、相不変あひかはらずその人間の海の上へ、用捨ようしやもなく鞭を加へてゐた。

イエローストーン国立公園
イエローストーン地区は北アメリカ大陸最大の火山地帯である。2015年現在、数百カ所から熱水を噴き上げている[2]。2014年には、1900回以上の地震を記録した。イエローストーン火山の根源となるホットスポットは地殻に固定されているが、イエローストーン国立公園を乗せた北アメリカプレートは南西方向に1年間に約4センチメートル移動しているので、イエローストーンの南西方向にはプレートの動きに平行して多くの噴火口跡が存在する。最古の噴火口は1800万年前のものである。イエローストーン国立公園では1890年以来、温泉や間欠泉で大火傷を負うなどして少なくとも22人が死亡している。

火山活動の歴史
巨大カルデラの形成を伴う超巨大な噴火が約210万年前、約130万年前、約64万年前の計3回起きたことが知られる。最後のカルデラ噴火は64万年前であるが、その噴火は比較的小さな噴火であったにも拘らず、セント・ヘレンズ山の1980年の噴火の1000倍の溶岩が噴出し、火山灰の地層はメキシコ湾に達する範囲で観察されている。直径60キロメートルの火口が形成され、1500キロメートル離れた場所でも3メートルの火山灰が堆積し、現在のアメリカ合衆国の面積の半分を覆ったとされる。210万年前の噴火では、ギャラティン山脈(英語版)の南側長さ80キロメートルの部分が吹き飛び、噴火後はカルデラ内の平地となった。それ以外にも小規模な噴火は約7万年前まで続いたが、その後は噴火は起きていない。

近年の火山活動
アメリカ地質調査所は、2004-2006年にかけてイエローストーン公園の東西80キロメートル南北30キロメートルの範囲で地盤が最大12センチメートル上昇したことを報告している。これはそれまで観察されなかった現象で、その後も地盤の上昇が継続している。アメリカ地方紙デンバーポストは、米国地質監査局のリーズ地質科学者が、1999年にイエローストーン公園内の湖の底で高さ30メートル以上、長さ700メートルの巨大な隆起を発見したと伝えている。ノリス間欠泉地帯は、最も人気がある観光スポットだったが、地面の温度が100度を超えた地点が出たり、新しい間欠泉が出現し、遊歩道まで熱泥が溢れ出したため、2003年に立ち入り禁止となった。

2015年に発表されたユタ大学の過去45000回の地震を解析した研究では、イエローストーンの地下20キロメートルから50キロメートルまでに、東西80キロメートル南北40キロメートル(容積は約4.6万立方キロメートル)の世界最大のマグマだまりがあるとされ、ホットプルームからのマグマの供給を受けている。そのマグマだまりに貯蔵されたマグマは、カルデラ直下にある別のマグマだまり(1万立方キロメートル)に入る。これらの推定は、研究者がそれまで知られていたものよりも深い場所にあるマグマだまりに原因があると考えていた、イエローストーンから毎日放出されていた45トンもの二酸化炭素の説明において重要である。

今後予想される噴火
イエローストーンは60-70万年前毎の周期で巨大噴火を起こしており、前回の巨大噴火より既に60万年が経過しているので、いずれ近いうち(近いといっても地質学的時間スケールであって数千年から数万年)に巨大噴火が起こることが予想されている。噴火の規模は最悪ピナトゥボ山の噴火(1991年)の100倍以上の規模になるとされる。 ユタ大学イエローストーン火山観測所のボブ・スミス所長によれば、超巨大噴火が起きた場合、イエローストーン国立公園は完全に消えてなくなるという。イギリスの科学者によるシミュレーションでは、もし破局噴火が起きた場合、3-4日内に大量の火山灰がヨーロッパ大陸に着き、米国の75%の土地の環境が変わり、火山から半径1000キロメートル以内に住む90%の人が火山灰で窒息死し、地球の年平均気温は最大10度下がり、その寒冷気候は6年から10年間続くとされている。
沿革
この地域と人との関りは1万2千年前にまで遡り、地域内の大峡谷周辺の鉄分を含む黄色い石の存在から、インディアン達に“Mitzi-a-dazi”(「黄色い石のある川」の意)として知られていた(黄色い色は一般に信じられている様に硫黄分の色ではなく、熱水作用によって変色した鉄分の色である)。

イエローストーン地区で産出される黒曜石は、一帯で狩猟していたインディアン達によって石鏃やナイフとして利用されていた。それらは遠くミシシッピ川周辺でも発見されており、イエローストーン周辺で生活していた部族と、はるか東方の部族との交易を示唆する物とされている。

1806年にルイス・アンド・クラーク探検隊を離れて猟師達に加わった元隊員のジョン・コルター(英語版)が、非インディアンとして初めてこの地域を訪れたとされている。その後、クロウ族とブラックフット族の戦いに巻き込まれて負った重傷の床で、彼はこの地を「火と硫黄」の地であると述懐した。しかしこの記述は熱に冒されていたためのうわごとだと捉えられ、人々はその土地の事を「コルターの地獄」と呼んだ。

1857年にイエローストーン地区を探検したジム・ブリッジャーは沸騰する泉や空高く飛び出す水、ガラスや黄色い石で出来た山の事を人々に話したが、ブリッジャーは法螺吹きとして通っていた為にほとんど信じてもらえなかった。しかし彼の話に興味を持った探険家兼地質学者のフェルディナンド・ヴァンデヴィア・ヘイデン(en:F.V.Hayden)は、1859年にブリッジャーとアメリカ陸軍測量官のレイノルズを伴って2年の予定でミズーリ川上流の測量の旅に出かけた。一行はイエローストーン地区の入り口まで達したが、豪雪のために先に進めなかった。更に南北戦争のために探検は中止を余儀なくされ、ヘイデンが探検を再開するのは11年後になる。

モンタナ州測量長官ヘンリー・ウォシュバーン(英語版)率いる探検隊は、後にイエローストーン国立公園初代管理官となったナサニエル・ラングフォード(英語版)や陸軍派遣隊司令官グスタフ・ドーンと共に1870年に1ヶ月間イエローストーン地区を探検。地域の山などを名付け、標本を持ち帰った。

1871年、ヘイデンは政府支援により大規模な2度目の探検隊を率いてイエローストーン地区に赴いた。ヘイデンはイエローストーンの総括報告書をまとめ、その中にはウィリアム・ヘンリー・ジャクソン(英語版)による写真や、トーマス・モランによる絵が含まれていた。このレポートによって議会はイエローストーン地区をオークションにかけて売却する案を変更し、1872年3月1日にユリシーズ・グラント大統領はイエローストーン国立公園を設立する法案に署名した。
1872年に世界で最初の国立公園として指定される。1976年にユネスコの生物圏保護区に(グランドティトン地域と共同)、1978年に世界遺産に登録された。

隣接する保留地(Reservation)を持つショーショーニー族、バンノック族(英語版)などは、伝統文化としてのバッファロー狩りを19世紀末に合衆国政府から禁止されてきたが、長年の要求運動によって1990年代に狩猟権を回復し、現在、イエローストーン内でのバッファロー狩りを年に数度行っている。

20世紀前半に平原オオカミが白人牧場主による組織的な駆除によって絶滅し、公園内の生態系のバランスが崩れていたが、周辺のインディアン部族の粘り強い復活請願が実り、1995年より人間の手で生態系への再導入が行われ、生態系の再構築に成功した。この再導入は違法であるという判決が一時下されたものの、控訴審でその判決が覆された。ネ・ペルセ族が要請を受け、オオカミの管理育成にあたっている。

青木ヶ原

青木ヶ原樹海、あるいは富士の樹海とも呼ばれ、山頂から眺めると木々が風になびく様子が海原でうねる波のように見えることから「樹海」と名付けられたという説もある。樹海の歴史は約1200年とまだ浅く、若い森である。

富士箱根伊豆国立公園に属し、富士山原始林及び青木ヶ原樹海という名称で、国の天然記念物に指定されている。このほか国立公園の特別保護地区に指定されており、世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の富士山域に含まれる。
地理
富士山麓の北西、標高920 - 1300メートル付近に広がる。面積はおよそ30平方キロメートルである。貞観6年(864年)に、富士山の北西山麓で大規模な噴火活動(貞観大噴火)が発生した。流れ出た膨大な量の溶岩は大室山を迂回して流れ、森林地帯を焼き払った末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)に達し、大半を埋没させた。やがて溶岩地帯には、1200年の時を経てツガやヒノキを中心にハリモミ、ヒメコマツ、アカマツなどの針葉樹やミズナラなどの広葉樹の混合林である原始林が形成された。植物の垂直分布では落葉広葉樹が発達する山地帯にあたるが、水分や養分の少ない溶岩質の土壌であることから針葉樹が発達している。人為的攪乱の加わっていない原生林であると考えられているが、伐採が行われていた可能性が指摘され、石塁も発見されている。周辺には溶岩洞が数多くあり、富岳風穴、鳴沢氷穴、西湖蝙蝠穴はその大きなもので公開されている。

溶岩流の端には西湖、精進湖、本栖湖がある。864年の噴火以前には現在の青木ヶ原の地に剗の海という大きな湖があったが、溶岩流でその大部分が埋め立てられた末に西湖と精進湖とが残った。このいきさつは日本三代実録に記されている(→剗の海および富士山の噴火史#略年表を参照)。また紀元前4,000年紀に起きた噴火以前には、剗の海と本栖湖とを隔てる溶岩塊も存在せず、両者はひとつの大きな湖であったとされる。

樹海の中には国道139号などが通っている。樹海そばにある三湖台を登ると、頂上からは樹海が見渡せる。
生物
富士山周辺は日本有数の鳥の繁殖地であり哺乳類の宝庫である。確認された哺乳類の種類は42種に及ぶ。

青木ヶ原から山地帯にかけての一帯は特にツキノワグマの生息密度が高い。その他生息する大型哺乳類は、ニホンザル ニホンカモシカ、ニホンジカ、ニホンイノシシなどである。

観光
近くにキャンプ場や公園があり、青木ヶ原を通り抜けられる遊歩道も整備されており、森林浴には最適なところである。青木ヶ原と湖と富士山からなる景観も美しい。東京圏から容易に行けることもあり、人気の高い観光地である。青木ヶ原内のコウモリ穴にある西湖ネイチャーセンターでは富士河口湖町公認ガイドによる青木ヶ原散策も行われている。

反面、樹木が多く深い森であるため、少し道を外れると元の場所に戻ることが難しい。道を外れた場所の地面はむき出しの溶岩で出来ているために、大小さまざまの凹凸があるので、足をとられるなどして怪我をする可能性がある。俗説にあるような「一度入ったら出られない」ような恐ろしい場所ではないのだが、これらの危険を防ぐためには、何よりも遊歩道からそれないように心がけるなど、他の山々の森を訪れる時と同様に、ある程度は心得て行くことが必要とされる場所である。また、樹海一帯が文化財保護法における天然記念物、自然公園法における特別保護地区に指定されており、不用意に林内に立ち入り樹木等を損傷させた場合はそれぞれの法律に違反することになるため、法的な観点からも注意が必要である。
近年は、観光者によるゴミのポイ捨てに加え、外部から持ち込まれた粗大ゴミや産業廃棄物の不法投棄も多く、問題となっている。また、樹海の中でのキャンプの残骸など、冷やかしで訪れる人々によるゴミが増えている。これらのゴミは地元住民が定期的に始末しているとはいえ、他の観光地同様に、観光客のマナーが問われる問題である。さらに、溶岩を持ち帰り(自然公園法、森林法の違反行為である)オークションなどへ転売する行為も行われており、2009年には溶岩を盗んだとして森林窃盗などの容疑で逮捕者も出ている。なお、全国の有志による清掃活動や不審者に対する見回りなどのボランティア活動も強化されている。
俗説
「青木ヶ原樹海は一歩入ると出られない」という俗説があるが、先にも述べているように遊歩道もあり、案内看板も多く、近くにはキャンプ場や公園、樹海を一望できる展望台、風穴、氷穴などがある観光地であり、さらに富士河口湖町公認のネイチャーガイド付きのツアーもあるなど、ピクニック等を楽しむこともできる場所である。

問題なのは遊歩道を外れて森に入った場合で、遊歩道より200 - 300メートル以上離れた地点で遊歩道や案内看板が見えない場合は、360度どこを見ても木しかなく、高低差に乏しい特徴のない似たような風景が続いており、また足場が悪くまっすぐ進めないため迷って遭難する危険がある。もっとも、これは青木ヶ原樹海に限ったことではなく、深い森ならどこでも同じである。

「青木ヶ原樹海は自殺の名所」とされ、松本清張の『波の塔』で取り上げられたため有名になった。遺体が遊歩道からそう遠くない所で見つかることもある。

なお陸上自衛隊富士学校のレンジャー課程の大部分は青木ヶ原で行われる。コース創設当初、「二度と生きては帰れない」という噂から、誰も現地調査に行きたがらなかったのに対し、アメリカ陸軍レンジャー課程を修了した二人の幹部自衛官があっさりと目標地点まで踏破してみせて、訓練場として選定された。

方位磁針が使えない、電子機器が狂う
方位磁針が使えないというのは俗説である。溶岩の上にできたので地中に磁鉄鉱を多く含み、方位磁針に1・2度程度の若干の狂いは生じるが、俗に言われているように「方位が分からなくなる」ほど大きく狂うものではない(方位磁針は、人が立った状態で正しく胸の位置に持っていき使用すること)。実際に陸上自衛隊は、上記の経緯もあり、地図と方位磁針で樹海を踏破する訓練を行っている[7]。
また、派生形として「樹海の中ではデジタル時計の表示が狂う」「車の計器や放送機器に異常が発生する」等とも言われているが、科学的根拠のないデマである。同様に「GPSも使えない」という俗説もあるが、これは比較的低性能の機器を使用した際に、密生した樹木にGPS衛星の電波が遮られるためであり、高性能のGPSやQZSSの機器は正しく機能するし、また磁鉄鉱とは無関係である。携帯電話がつながらないというのも、樹木で電波が遮られるためであり、近年は移動体通信事業者の基地局が設置されて、つながりやすくなっている。

「飛行機が上空を通過すると計器が乱れるため、飛行禁止とされている」という俗説もあるが、民間機の飛行が制限されるのは、自衛隊・在日米軍の基地が近く、横田ラプコンのエリアとして指定されているという軍事上の理由と、山岳波という特殊な乱気流からであり(1966年にはこれが原因で英国海外航空機空中分解事故が発生している)、樹海の存在とは関係がない。


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