山梨県道志村のキャンプ場で、小倉美咲さんの行方がわからなくなってから9月21日で2年になります。2年前の2019年9月21日、私たちにとって大きく人生が変わってしまう出来事がありました。
21日に小学校の運動会が予定されていましたが悪天候が予想され、前日に9月24日への延期が決まりました。
そのため以前から友人に誘われていたキャンプに急きょ参加することになりました。
いつも横に私がいないと眠れない美咲も、前日の夜はキャンプが楽しみで長女と先に寝てくれました。
深夜、キャンプの準備が終わって子どもたちの布団を掛け直しながら「本当に可愛い子だなぁ」とほおをなでて、一生守ってあげないといけないなと思っていました。
21日の朝、雨が降ることもなく近所の人に見送られながら子どもたちと手を振り、山梨に向けて出発しました。(主人は仕事のため、次の日から参加予定でした)
車の中でおやつを食べたり、歌を歌ったり、どんな所なのかなぁと皆で楽しく話していました。
そして、キャンプ場についてお昼を食べたり、サイト横の南の森の中で3時間ほど遊んだりして過ごしました。
15:20頃にみんなで手作りのチョコバナナをジャンケンで勝った順に食べる楽しいおやつタイムが終わり、先に食べ終わった子どもたちが120メートルほど離れた所へ向かいました。
それから数分後、美咲がおやつを食べ終え「ママ、私もお姉ちゃんたちの所へ行ってもいい?」と聞いてきたので、「いいよ、いってらっしゃい」と答えました。
微笑みながらスキップして小走りで坂を下って行く娘の姿を見送りながら、ちゃんと声をかけてくれてお姉さんになったなぁとしみじみ成長を感じました。
まさかこの会話が美咲との最後の会話になるとは、当時は全く想像もしていませんでした。
この約10分後に美咲が行方不明になったことに気が付きました。
最初は迷子になってしまったのか、どこかに隠れているのだと思いましたが、どれだけ捜しても見つからず、1時間後に警察に通報しましたが見つけることができず、行方がわからないまま2年が経ちました。
あの日の美咲の笑顔やスキップして追いかけて行く姿は、今も目に焼き付いています。
思い出さない日はこの2年間1度もありませんでした。
「あの日に戻れるなら…」
何度も何度もあの時の自分を責め、悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、あの時の自分を許すことができませんでした。
あの日からずっと自分を責め続け、涙も一生分流しました。
「私の命は要らないから美咲を助けてほしい」と神様にお願いし続けました。
きっと私一人だったら、美咲が見つかる前に本当に命がなくなってしまっていたかもしれません。
この2年間を振り返ると、いつも誰かが私や家族を支えてくれました。
キャンプ場で娘の行方が突然わからなくなった時、支えてくれたのは一緒に行っていた友達でした。
友達が帰った後は、家族やたくさんの友達、ボランティアさんが支えてくれました。もちろん警察や消防、自衛隊の方々のご協力にも支えられました。
現地の捜索が打ち切りになり自宅に戻ってからは、長女を守り笑顔を取り戻すのと、美咲を見つけるために自分の全ての時間とエネルギーを注ぎました。
私が20日ほどキャンプ場で美咲の捜索をしている間、長女で当時小学4年生だった美咲の姉は、長女を支えるため先に帰宅した主人や主人の家族と、美咲や私の帰りを待っていました。
長女は当時、小学校で「美咲ちゃんのお姉ちゃん」と呼ばれて友達から名前で呼ばれなくなり、いつも顔色をうかがわれ「大丈夫?」と言われるたびに、気持ちを押し殺して「大丈夫だよ」と1日何十回も答えていたそうです。
学校で1年生を見るたびに「何で美咲が…」と思ってしまうことがつらかった、でも学校へ行きたくないと言ったら祖父母にも迷惑がかかる、と我慢して学校へ行っていたようです。
私が山梨から帰った日に「自分が自分じゃなくなっちゃった。本当に苦しかった」と泣きながら抱えていた思いを話してくれました。
娘を抱き締め、「無理しなくていいよ。頑張ったね。ごめんね」と一緒に声を出して何時間も泣きました。
21日に小学校の運動会が予定されていましたが悪天候が予想され、前日に9月24日への延期が決まりました。
そのため以前から友人に誘われていたキャンプに急きょ参加することになりました。
いつも横に私がいないと眠れない美咲も、前日の夜はキャンプが楽しみで長女と先に寝てくれました。
深夜、キャンプの準備が終わって子どもたちの布団を掛け直しながら「本当に可愛い子だなぁ」とほおをなでて、一生守ってあげないといけないなと思っていました。
21日の朝、雨が降ることもなく近所の人に見送られながら子どもたちと手を振り、山梨に向けて出発しました。(主人は仕事のため、次の日から参加予定でした)
車の中でおやつを食べたり、歌を歌ったり、どんな所なのかなぁと皆で楽しく話していました。
そして、キャンプ場についてお昼を食べたり、サイト横の南の森の中で3時間ほど遊んだりして過ごしました。
15:20頃にみんなで手作りのチョコバナナをジャンケンで勝った順に食べる楽しいおやつタイムが終わり、先に食べ終わった子どもたちが120メートルほど離れた所へ向かいました。
それから数分後、美咲がおやつを食べ終え「ママ、私もお姉ちゃんたちの所へ行ってもいい?」と聞いてきたので、「いいよ、いってらっしゃい」と答えました。
微笑みながらスキップして小走りで坂を下って行く娘の姿を見送りながら、ちゃんと声をかけてくれてお姉さんになったなぁとしみじみ成長を感じました。
まさかこの会話が美咲との最後の会話になるとは、当時は全く想像もしていませんでした。
この約10分後に美咲が行方不明になったことに気が付きました。
最初は迷子になってしまったのか、どこかに隠れているのだと思いましたが、どれだけ捜しても見つからず、1時間後に警察に通報しましたが見つけることができず、行方がわからないまま2年が経ちました。
あの日の美咲の笑顔やスキップして追いかけて行く姿は、今も目に焼き付いています。
思い出さない日はこの2年間1度もありませんでした。
「あの日に戻れるなら…」
何度も何度もあの時の自分を責め、悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、あの時の自分を許すことができませんでした。
あの日からずっと自分を責め続け、涙も一生分流しました。
「私の命は要らないから美咲を助けてほしい」と神様にお願いし続けました。
きっと私一人だったら、美咲が見つかる前に本当に命がなくなってしまっていたかもしれません。
この2年間を振り返ると、いつも誰かが私や家族を支えてくれました。
キャンプ場で娘の行方が突然わからなくなった時、支えてくれたのは一緒に行っていた友達でした。
友達が帰った後は、家族やたくさんの友達、ボランティアさんが支えてくれました。もちろん警察や消防、自衛隊の方々のご協力にも支えられました。
現地の捜索が打ち切りになり自宅に戻ってからは、長女を守り笑顔を取り戻すのと、美咲を見つけるために自分の全ての時間とエネルギーを注ぎました。
私が20日ほどキャンプ場で美咲の捜索をしている間、長女で当時小学4年生だった美咲の姉は、長女を支えるため先に帰宅した主人や主人の家族と、美咲や私の帰りを待っていました。
長女は当時、小学校で「美咲ちゃんのお姉ちゃん」と呼ばれて友達から名前で呼ばれなくなり、いつも顔色をうかがわれ「大丈夫?」と言われるたびに、気持ちを押し殺して「大丈夫だよ」と1日何十回も答えていたそうです。
学校で1年生を見るたびに「何で美咲が…」と思ってしまうことがつらかった、でも学校へ行きたくないと言ったら祖父母にも迷惑がかかる、と我慢して学校へ行っていたようです。
私が山梨から帰った日に「自分が自分じゃなくなっちゃった。本当に苦しかった」と泣きながら抱えていた思いを話してくれました。
娘を抱き締め、「無理しなくていいよ。頑張ったね。ごめんね」と一緒に声を出して何時間も泣きました。
《在最美的清秋,感悟一叶人生》 嘉荫掠影(9月20日)
初识嘉荫是从一条鱼开始。从市场买了大鳇鱼和川丁子,随意找一个饭店加工,新鲜美味熨帖着胃。鱼们都是在嘉荫河里天然自由生长的,所以它们都带着会抚慰人的灵气,一吃你的胃就有了记忆。大鳇鱼做成了红烧肉的感觉,少数几根大刺,省事省力。没有红烧肉的肥腻,没有红烧肉的干柴,吃起来入味有品,是我吃过的最好吃的鱼。川丁子油炸后肉质细嫩肥厚,小刺也可以入口。吃过鱼这个嘉荫也就具体知微了。
清晨,被嘉荫河的朝霞唤醒。四点醒来,晨曦渐起,雾锁清江,云蒸霞蔚。云雾变幻莫测,一会像一堵墙,把对岸阻隔开来,一会又都匆匆散去。一叶扁舟,忙碌在清晨的江上,钓鱼男人,独钓秋江,沉默而又恬淡。我们在秋天的寒风中,瑟瑟瑟发抖而又激动万分,等着太阳勇敢的冲破云雾,露出她的万丈光芒。嘉荫的晨光是摄人心魄的,一见你就被圈粉。
嘉荫县,是中国第一块恐龙化石的发生地,嘉荫恐龙国家地质公园“因龙而名”。从这里出土的化石,已经被装成了10具恐龙化石骨架。多国古生物学家和地质学家在嘉荫野外考察时,发现了新的大规模恐龙化石群,除甲嘴龙、虚骨龙外,还发现了甲龙化石、恐龙被皮肤化石和恐龙脚印化石,使“恐龙之乡”的名声更加远扬。
查资料得知,嘉荫县大地是一片英雄的热土。抗日战争期间,抗联三军、六军转战嘉荫,沿嘉荫河、云河、结烈河、乌拉嘎河建立密营,开辟了五条国际通道。历经光复佛山(嘉荫)县城、夜袭乌拉嘎金矿、攻取马连站、浴血乌云河等战斗数十次,沉重打了日本侵略者。解放战争期间,东北民主联军三战金山,歼灭国民党东北挺进军混成第二旅,使嘉荫成为东北解放区的稳固后方。重温历史中,不仅唤起我们对那场苦难和抗争的记忆,也将强居安思危的国防观念,激发我们为实现中华兴而奋斗。
走过一个地方,就是认识一个有格调的人,它的美景美食,朝晖夕映,风物人情,都是属于它的个性。嘉荫是一个有风味有格调的所在。
徐霞客说:丈夫当朝碧海而暮苍梧!我虽然不是大丈夫,但小女子也可以飘荡碧海,驰骋苍梧。在春夏秋冬,与时间为伍,与大地结伴,去见识,去经历!#与大美河山一起出发#
初识嘉荫是从一条鱼开始。从市场买了大鳇鱼和川丁子,随意找一个饭店加工,新鲜美味熨帖着胃。鱼们都是在嘉荫河里天然自由生长的,所以它们都带着会抚慰人的灵气,一吃你的胃就有了记忆。大鳇鱼做成了红烧肉的感觉,少数几根大刺,省事省力。没有红烧肉的肥腻,没有红烧肉的干柴,吃起来入味有品,是我吃过的最好吃的鱼。川丁子油炸后肉质细嫩肥厚,小刺也可以入口。吃过鱼这个嘉荫也就具体知微了。
清晨,被嘉荫河的朝霞唤醒。四点醒来,晨曦渐起,雾锁清江,云蒸霞蔚。云雾变幻莫测,一会像一堵墙,把对岸阻隔开来,一会又都匆匆散去。一叶扁舟,忙碌在清晨的江上,钓鱼男人,独钓秋江,沉默而又恬淡。我们在秋天的寒风中,瑟瑟瑟发抖而又激动万分,等着太阳勇敢的冲破云雾,露出她的万丈光芒。嘉荫的晨光是摄人心魄的,一见你就被圈粉。
嘉荫县,是中国第一块恐龙化石的发生地,嘉荫恐龙国家地质公园“因龙而名”。从这里出土的化石,已经被装成了10具恐龙化石骨架。多国古生物学家和地质学家在嘉荫野外考察时,发现了新的大规模恐龙化石群,除甲嘴龙、虚骨龙外,还发现了甲龙化石、恐龙被皮肤化石和恐龙脚印化石,使“恐龙之乡”的名声更加远扬。
查资料得知,嘉荫县大地是一片英雄的热土。抗日战争期间,抗联三军、六军转战嘉荫,沿嘉荫河、云河、结烈河、乌拉嘎河建立密营,开辟了五条国际通道。历经光复佛山(嘉荫)县城、夜袭乌拉嘎金矿、攻取马连站、浴血乌云河等战斗数十次,沉重打了日本侵略者。解放战争期间,东北民主联军三战金山,歼灭国民党东北挺进军混成第二旅,使嘉荫成为东北解放区的稳固后方。重温历史中,不仅唤起我们对那场苦难和抗争的记忆,也将强居安思危的国防观念,激发我们为实现中华兴而奋斗。
走过一个地方,就是认识一个有格调的人,它的美景美食,朝晖夕映,风物人情,都是属于它的个性。嘉荫是一个有风味有格调的所在。
徐霞客说:丈夫当朝碧海而暮苍梧!我虽然不是大丈夫,但小女子也可以飘荡碧海,驰骋苍梧。在春夏秋冬,与时间为伍,与大地结伴,去见识,去经历!#与大美河山一起出发#
感谢编导老师请我们喝奶茶[羞嗒嗒]
今天看了一期《典籍里的中国》本来是要了解中国的文化内涵没想到被徐霞客的伟大志向“大丈夫当朝游碧海而暮苍梧”以及他和母亲之间的感情感动哭[悲伤]
还有《茶馆》看到最后也哭了 在那样一个封建背景下 都是一些“人吃人”的制度有些人一生为了国家建功立业却不得志到头来没有落得一个好下场 而有些人则恰巧相反……百姓过得真的是民不聊生
让人感叹[悲伤]
今天看了一期《典籍里的中国》本来是要了解中国的文化内涵没想到被徐霞客的伟大志向“大丈夫当朝游碧海而暮苍梧”以及他和母亲之间的感情感动哭[悲伤]
还有《茶馆》看到最后也哭了 在那样一个封建背景下 都是一些“人吃人”的制度有些人一生为了国家建功立业却不得志到头来没有落得一个好下场 而有些人则恰巧相反……百姓过得真的是民不聊生
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