虽有柳絮因风起,不改荷花向日倾——消息频出下,魔都楼市的逻辑没有变
“怎么看拍卖频出高溢价”老友周老板发来一则昨天拍卖的讯息
原来是浦东世茂滨江,一套233平49楼房子拍卖,同类房子2月成交价2700,却拍出2900万的高溢价
财主当然理解周老板言外之意,不是讲楼市横盘么,不是4月份二手房成交量腰斩么?低迷市场下为何有还能有高溢价出现?
其实一点也不奇怪,调控至今,沪上存量那房市场看似横盘,其实局部热点从来都没停止转换,也就是老话说的“平静之下,暗流涌动”
首先在3月份连出“妙招”精准降温后,驱动去年楼市大热的双引擎之一,老破小学区房彻底哑火,阴跌不止,比如浦东内环知名的几个学区地段,潍坊梅园和崮山路(正好连接浦东一梯队名校明珠福外六师);但是“内冷外热”,购买力转移后,中外环次新房其实还迎来一波补涨,3月份存量房成交量3.94万套,就是这一波成交热点的体现
当然,在中外环次新房,比较有代表性的如浦东高行北蔡三林,浦西普陀的大华万里,春节后成交量放大补涨后,也不出例外的进入横盘,中间有个很有趣的现象,就是浦东的普陀的大华万里,作为魔都价格最低的中环地段,实际是被一些受困于浦东北蔡三林次新房稀缺,求之不得的买家,在春节后把价格顶上去的
笔者不由想起一句西谚“金钱永不眠”,的确充分竞争的市场经济下,”钱”即购买力是最聪明的,汉字里钱亦通”泉”,购买力也和水一样,哪里价值被低估就水银泻地一样流向那里,魔都这样的国际化大都市,发展至今,地铁网线已经如毛细血管一样深入肌理,城市格局和地段价值已经开始重塑,对于一个张江上班的码农,同样使用轨道交通的话,普陀万里和闵行古美与浦东的三林北蔡,其实几无区别;是以但凡有低估和价格有落差的板块,购买力会蜂拥而至,直至价格与同地段齐平
所以世茂滨江的拍卖(此小区是上海换手率最高的小区,流动性很强,很受投资客追捧),拍出高溢价也不以为奇,因为调控之后,按住了学区房这个空头,楼市气氛由狂热转为相对理性,购买力仍在蓄势待发,只等有性价比房源出现,所谓“万事俱备只欠东风”,世茂滨江这套49楼233平三房,楼层房型俱佳,而且虽则拍卖也无清房之忧,一年也难得出来几套,所以高溢价符合市场规律,前不久笔者提及的上海滩花园洋房的拍卖,最后落槌价与二手成交价几乎趋同,也是同一道理;以前大家顾虑的拍卖房新规,即不带房票会影响定价,现在看来,上海本地购买力也足以支撑
“那么对于学区房怎么看,还有房地产税等消息,对楼市的影响”周老板又来天问
学区房的问题,笔者已说过太多,学区房带动房价快速上涨,这不原罪,但客观导致了这个结果,所以学区房被精准降温后,从长期来看,价值仍然存在但会减弱,中短期来看,价格在横盘下挫后,应该会企稳
关于楼市的逻辑,笔者早就有言在先,七普人口数据出来后,城镇化率已达64%,一般来说,一个国家城镇化70%,基本上是阶段性的顶点,房地产市场发展会减缓,但魔都的楼市逻辑不同,目前我国的发展,不但是城镇化而且是大城市化,所以对上海楼市来说,未来增长空间仍然不小;记得笔者去年四月就说过,货币增发下,上海不动产是最优良的资产,这个逻辑是没有变的;但是去年以来的量价齐飙,算是一轮周期(3~5年)的顶点了,下一波高峰期要到起码三年以后了
关于房地产税,从来没有一个国家在征房地产税后,房价下降的;目前之所以“试点”而不是大面积推广,侧重点是平抑房价,须知自从2003年,楼市开启“黄金时代”后,房价只涨不跌,已造成居民的“不动产信仰”,因三四年一次,所以常规的楼市调控,效果呈边际递减的趋势,所以“重症需下猛药”,举个不恰当例子,对于重复感冒的人,必须感冒药加大剂量,那么对调控打破“房价信仰”,房地产税敲山震虎,无疑会起到调节作用
但是楼市作为经济压舱石作用没有变化,一个450万亿的不动产市场,首先要的是稳定
笔者行笔到这里,不由想起19年刷屏热议的“康波理论”,其时大家纷纷戏谑“人生发财靠康波”,如今看来,当初的预测,基本都变为现实了,楼市和大宗商品市场,2020年起进入牛市,如今回头看,2019年的魔都楼市,应该是近五年最好的入场机会;可惜的是,大部分人由“看不懂到追不上,白白浪费了这次机会,虽然亡羊补牢,但毕竟加了资金才入手,毕竟“意难平”
由于楼市比起资本市场,有一定的滞后性,笔者觉得,今年下半年市场,剔除学区房来说,整个市场成交仍延续去年的热度,其实四月份的2.4万套,看似成交量腰斩,但在调控初起之下,还有这个成交量,不但不能证明楼市温度骤降,去年大火的o申城楼市,成交月均不过2.8万套;与其说下半年横盘,不如说热点转换,地段价值在重新塑型中,真正的“横盘”,要从2022年起了
毕竟,450万亿体量的房地产市场,稳健才是当前要义,对于上海来说,唯一要担心的,是抑制住涨幅,平稳进入下一个房地产周期
“怎么看拍卖频出高溢价”老友周老板发来一则昨天拍卖的讯息
原来是浦东世茂滨江,一套233平49楼房子拍卖,同类房子2月成交价2700,却拍出2900万的高溢价
财主当然理解周老板言外之意,不是讲楼市横盘么,不是4月份二手房成交量腰斩么?低迷市场下为何有还能有高溢价出现?
其实一点也不奇怪,调控至今,沪上存量那房市场看似横盘,其实局部热点从来都没停止转换,也就是老话说的“平静之下,暗流涌动”
首先在3月份连出“妙招”精准降温后,驱动去年楼市大热的双引擎之一,老破小学区房彻底哑火,阴跌不止,比如浦东内环知名的几个学区地段,潍坊梅园和崮山路(正好连接浦东一梯队名校明珠福外六师);但是“内冷外热”,购买力转移后,中外环次新房其实还迎来一波补涨,3月份存量房成交量3.94万套,就是这一波成交热点的体现
当然,在中外环次新房,比较有代表性的如浦东高行北蔡三林,浦西普陀的大华万里,春节后成交量放大补涨后,也不出例外的进入横盘,中间有个很有趣的现象,就是浦东的普陀的大华万里,作为魔都价格最低的中环地段,实际是被一些受困于浦东北蔡三林次新房稀缺,求之不得的买家,在春节后把价格顶上去的
笔者不由想起一句西谚“金钱永不眠”,的确充分竞争的市场经济下,”钱”即购买力是最聪明的,汉字里钱亦通”泉”,购买力也和水一样,哪里价值被低估就水银泻地一样流向那里,魔都这样的国际化大都市,发展至今,地铁网线已经如毛细血管一样深入肌理,城市格局和地段价值已经开始重塑,对于一个张江上班的码农,同样使用轨道交通的话,普陀万里和闵行古美与浦东的三林北蔡,其实几无区别;是以但凡有低估和价格有落差的板块,购买力会蜂拥而至,直至价格与同地段齐平
所以世茂滨江的拍卖(此小区是上海换手率最高的小区,流动性很强,很受投资客追捧),拍出高溢价也不以为奇,因为调控之后,按住了学区房这个空头,楼市气氛由狂热转为相对理性,购买力仍在蓄势待发,只等有性价比房源出现,所谓“万事俱备只欠东风”,世茂滨江这套49楼233平三房,楼层房型俱佳,而且虽则拍卖也无清房之忧,一年也难得出来几套,所以高溢价符合市场规律,前不久笔者提及的上海滩花园洋房的拍卖,最后落槌价与二手成交价几乎趋同,也是同一道理;以前大家顾虑的拍卖房新规,即不带房票会影响定价,现在看来,上海本地购买力也足以支撑
“那么对于学区房怎么看,还有房地产税等消息,对楼市的影响”周老板又来天问
学区房的问题,笔者已说过太多,学区房带动房价快速上涨,这不原罪,但客观导致了这个结果,所以学区房被精准降温后,从长期来看,价值仍然存在但会减弱,中短期来看,价格在横盘下挫后,应该会企稳
关于楼市的逻辑,笔者早就有言在先,七普人口数据出来后,城镇化率已达64%,一般来说,一个国家城镇化70%,基本上是阶段性的顶点,房地产市场发展会减缓,但魔都的楼市逻辑不同,目前我国的发展,不但是城镇化而且是大城市化,所以对上海楼市来说,未来增长空间仍然不小;记得笔者去年四月就说过,货币增发下,上海不动产是最优良的资产,这个逻辑是没有变的;但是去年以来的量价齐飙,算是一轮周期(3~5年)的顶点了,下一波高峰期要到起码三年以后了
关于房地产税,从来没有一个国家在征房地产税后,房价下降的;目前之所以“试点”而不是大面积推广,侧重点是平抑房价,须知自从2003年,楼市开启“黄金时代”后,房价只涨不跌,已造成居民的“不动产信仰”,因三四年一次,所以常规的楼市调控,效果呈边际递减的趋势,所以“重症需下猛药”,举个不恰当例子,对于重复感冒的人,必须感冒药加大剂量,那么对调控打破“房价信仰”,房地产税敲山震虎,无疑会起到调节作用
但是楼市作为经济压舱石作用没有变化,一个450万亿的不动产市场,首先要的是稳定
笔者行笔到这里,不由想起19年刷屏热议的“康波理论”,其时大家纷纷戏谑“人生发财靠康波”,如今看来,当初的预测,基本都变为现实了,楼市和大宗商品市场,2020年起进入牛市,如今回头看,2019年的魔都楼市,应该是近五年最好的入场机会;可惜的是,大部分人由“看不懂到追不上,白白浪费了这次机会,虽然亡羊补牢,但毕竟加了资金才入手,毕竟“意难平”
由于楼市比起资本市场,有一定的滞后性,笔者觉得,今年下半年市场,剔除学区房来说,整个市场成交仍延续去年的热度,其实四月份的2.4万套,看似成交量腰斩,但在调控初起之下,还有这个成交量,不但不能证明楼市温度骤降,去年大火的o申城楼市,成交月均不过2.8万套;与其说下半年横盘,不如说热点转换,地段价值在重新塑型中,真正的“横盘”,要从2022年起了
毕竟,450万亿体量的房地产市场,稳健才是当前要义,对于上海来说,唯一要担心的,是抑制住涨幅,平稳进入下一个房地产周期
キリ番踏んだら私のターン
2021.05.10 更新 ツイート
あなたの「明日も頑張ろうスイッチ」が、コロナ禍でも残り続けますように
長井短
エッセイ
ゆとり世代
ミレニアル世代
平成生まれ
キリ踏ん
頭がうまく動かない日々が1ヶ月くらい続いている。
何か考えようとしても、1つのことを考えられる時間は1分くらいしか続かなくて、気づけば別のことを考えてしまう。Aを考えてたのにBを、Bを考えてたのにCを、ってな具合にGくらいまで思考が転々とすると、ようやくAに戻ってくる。その繰り返し。不便この上ない。
こういうのって今までも時々あって、それは大抵の場合演劇の本番前だった。そうです。私は今本番前なのです!!
本来なら5月4日が初日だったはずの舞台だけど、緊急事態宣言によって現在初日は5月12日に伸びています……。文句を言っても仕方ないので前向きに日々を過ごしてるけど、そうは言っても、5月4日が初日のつもりで毎日を過ごしていたから、今どうやって過ごせばいいのかわからない。
ディズニーランドに行きたすぎてそろそろ限界ということ…現場からは以上です。
今まで色々な文章を書いてきたけど、演劇のことを書いたことはほとんどなくて、なんとなく自分の中で演劇のことを書くのはしっくりこないから避けていました。でも、今回ばかりは演劇のことしか考えられなそうなので、演劇の話をします。私にとっての演劇の話です。
ゲロ吐きそうでも舞台に立っちゃうのはなんでだろう
演劇を始めてから、もうすぐ10年が経つ。19歳の頃から毎年、多いときは年7、8本。少なくても年2本は舞台に立ってきた。通算でどのくらいの数になるのかはわからないけど、小さな劇場も大きな劇場も立たせてもらえてわかったのは、演劇ってマジで面倒くさいってこと。
演劇出身なんですって言うと時々言われる言葉の中に「演劇いいよね! やっぱり! 演劇が好きって俳優さん多いもんね!」ってのがある。超同意なんだけど、正直私の演劇への思いはそんな愛だけのものではなくて、憎もあるの。
だってさ? マジで緊張すんだもんあれ。何度舞台に立っても、舞台袖で出番を待っていると、歯茎がむずむずして全歯ポロっといっちゃうんじゃねーかって気持ちになる。台詞を言っている最中に舌を噛み切る夢を見た回数は数え切れないし、私の知らない間に台本が大幅に変更されて舞台上で立ちすくむ悪夢に週2でうなされる。超ストレス。
無事に今日が終わっても、また明日も同じ緊張が襲ってくると思うとキレそうになる。大きい声を出すからかどんどんお腹と背中が筋肉痛になっていって、声帯回復のために食べたくもないステーキを食べる時、ステーキを食べられるような残高状況じゃないことを思い出し冷や汗をかく。
文句ばかりだ。それなのに、どうしても私は劇場に戻っていってしまう。行ったら疲れるってわかってるのに、気付くと埃っぽい舞台袖でプチゲロを我慢しているのだ。
なんでだろう。どうしてあんな奴のところに、私は抱かれに行ってしまうんですか……?
撮影現場で「唇のスクラブ」ってやつに初めて出会った。ざらざらしたお手拭きで唇を拭く感覚なんだけど、物凄く気持ちいいし唇がツルツルになる。欲しい。
悪口ばっかり言ってますけど、これら全てを一瞬で帳消しにするキュンポイントが演劇にはある。その一瞬は本番直前の舞台袖、M0っていう「この曲がかかったらマジで開演です」っていう合図の曲が流れた時。大抵の場合、M0の音量が上がるのと同時に、劇場は暗くなっていく。真っ暗闇の中に爆音でM0が響いたら、私たちは舞台上にスタンバイするんだけど、その、歩み出す前の1秒にも満たない時間が、私は演劇の中で一番好きだ。
舞台裏にいる俳優、演出部さん、舞台監督さん、楽屋にいる俳優、客席奥にいる音響さん照明さん。劇場内にいる色んな年齢の色んな役割の人たちが一斉に「やるか~」って静かに息を吸うこの瞬間、私は他のどんな時間よりも一人ではないって感じるの。誰かと一緒に働くことは大変だけど楽しくて素晴らしいことなんだって気持ちでいっぱいになる。あ~演劇やりたいなぁ。早く劇場に行きたいなぁ。
やりたいからやる、っていう姿勢がシンプルで好きだった。なんでやってるんだろうって考えても考えても結局、「だってやりたいから」にしか行きつかない。でも、やりたいからやるなんてことが叶いにくい世の中になった今、何か今までとは違う大義名分みたいなものがほしくなった。なくてもいいものみたいに扱われることに、抵抗したいのかもしれない。
あなたの「明日も頑張ろうスイッチ」はなんですか?
演劇は別に、見たってお腹も膨れないし、病気だって治せない。演劇にできることなんて多くない。けど、でも、いい大人が汗をかきながら舞台上を駆けずり回っている様を見ると、私は勇気が湧く。どんな人間も、大きい声を出すと唾が飛ぶし、走り回れば汗をかくっていう当たり前のことを思い出せるから。自分ではない人間も、自分と同じように生きているってことがわかると「明日も頑張るか」って、私は思える。「明日も頑張ろう」と思えなくなっちゃうと、生きていくのはしんどい。だから、世の中には出来るだけ多くの、色んな種類の「明日も頑張ろうスイッチ」みたいなものがあった方が良いなと思うの。自分の出演する演劇も、そのスイッチになりますようにと祈りながら楽屋から舞台へ、上手から下手へ、私は移動しているのかもしれない。「やりたいからやる」とは別の、私が演劇をやる理由は、たぶんこの祈りだ。
きっと、祈っているのは私だけではない。わざわざチケットを買って、劇場まで足を運んでくれるお客さんのその行動にだって、同じように祈りがこもっている。またこの劇団を見れますように、もっと大きなライブハウスに進出できますように、あなたが引退しませんように。立場が違う私たちは、祈りあうことで支え合っているのだ。それができるって、なんて豊かなことだろう。
切羽詰まってる世の中だから、摂取すればすぐに効くロキソニンみたいなものが幸せを作る唯一の方法みたいになっている気がしていて、それもそれで良いんだけど。効いてるかわからない漢方を飲み続けることにも幸せはあるのだ。忘れないでほしいのだ。
不細工で要領の悪い不便な演劇も、存在できる世界がいいなと思います。私は演劇が好きです。
希望你的“明天也要努力的开关”,即使是日冕之祸也能继续留下。
长井短
井随笔|井宽松世代#千禧年世代#平成出生#终结
大脑无法正常运转的日子持续了一个月左右
看。
即使想思考什么,思考一件事的时间也只能持续1分钟左右,等回过神来,就会想别的事情。想着A却想到了B,想着B却想到了C,不知不觉地思考到了G,终于回到了A。如此反复。不便至极。
到现在为止,这种情况也时有发生,而且大多是在戏剧正式演出之前。是的。我现在是正式演出前!!
本来5月4日应该是第一天的舞台,但是根据紧急事态宣言现在第一天延长到了5月12日…。因为抱怨也没有办法,所以每天都在积极地度过。话虽这么说,但因为把5月4日当作第一天来过,所以不知道现在该怎么过。
去了太多迪士尼乐园,差不多到了极限了…以上是现场的情况。(见图)
至今为止写了很多文章,但几乎没写过戏剧,总觉得自己一直在回避写戏剧。但是,这次好像只想到戏剧,所以我要讲戏剧。对我来说,戏剧的故事。
即使快要呕吐也要站在舞台上是为什么呢?
从开始演话剧到现在已经快10年了。从19岁开始每年,多的时候一年7、8部。每年至少有2部在舞台上演出。总计有多少人我不知道,不过无论小剧场还是大剧场,我都知道演戏真的很麻烦。
说到我是戏剧出身,经常有人说:“演戏真好啊!果然!喜欢演戏的演员很多啊!”有这样的。虽然我非常同意,但说实话,我对戏剧的想法并不仅仅是爱,也有恨。
因为,真的很紧张啊。无论站在舞台上多少次,只要站在舞台的袖子上等待出场,就会觉得牙龈发痒,全牙都要脱落了。在说台词的过程中,做过无数次咬断舌头的梦,在我不知道的情况下,剧本被大幅度修改,在舞台上站着的噩梦每周有2次。即使今天平安无事地结束了,一想到明天也会有同样的紧张袭来,就会忍不住生气。不知道是不是因为大声说话,肚子和背部的肌肉越来越痛,为了恢复声带而吃不想吃的牛排的时候,想起自己的结余状况不是能吃牛排的程度,不禁冒冷汗。
尽是抱怨。尽管如此,我还是回到了剧场。明明知道去了会很累,回过神来却发现自己正用布满灰尘的舞台袖子忍受着小呕吐。
为什么呢?为什么我要去那种家伙那里被他抱着呢?
在拍摄现场第一次见到了“嘴唇磨砂膏”。虽然是用粗糙的手擦嘴唇的感觉,但是非常舒服。(见图)
虽然我总是说一些不好的话,但在一瞬间,所有这些戏剧中有这样的扣人心弦的地方。
那一瞬间是正式演出前的舞台袖子,播放MO这首“如果这首曲子播放的话真的要开演了”的信号的曲子的时候。一般情况下,MO的音量上升的同时,剧场也会变暗。在一片漆黑中,如果MO响起轰鸣声,我们就会在舞台上待命,而那迈开脚步前不到一秒的时间,是我最喜欢的戏剧。
在后台的演员、导演、舞台导演,在后台的演员,在观众席深处的音响、照明。在剧场里各种年龄各种角色的人们一齐说“要做吗~”安静地吸气的这一瞬间,我感觉比其他任何时间都不是一个人。和别人一起工作虽然很辛苦,但是很开心,感觉很棒。啊~想演话剧啊。真想早点去剧场啊。
因为想做所以做,这种态度很简单,我很喜欢。为什么要这么做呢,想了又想,结果只能是“因为想做”。但是,因为想做而去做的事情很难实现的现在,我想要一个与以往不同的名分。也许是想抵抗被当成可有可无的东西。
你的“明天也要努力的开关”是什么?
话剧就另当别论了,看了肚子也胀不起来,病也治不好。戏剧能做的事情并不多。但是,当我看到优秀的大人一边流汗一边在舞台上奔跑的样子,我就会鼓起勇气。不管是什么样的人,只要大声说话就会唾沫横飞,到处跑就会出汗,这是理所当然的事情。明白了不是自己的人也和自己一样活着,我就会想“明天也要努力吗”。不想“明天也要努力”的话,活下去就会很辛苦。所以,我觉得世界上最好有尽可能多的、各种各样的“明天也要努力的开关”那样的东西。也许我一边祈祷着自己出演的戏剧也能成为那个开关,一边从后台移动到舞台,从擅长移动到笨拙。与“因为想做所以做”不同,我做话剧的理由大概是这个祈祷。
祈祷的人一定不止我一个。特意买票来到剧场的观众们的行动,也同样包含着祈祷。希望还能看到这个剧团,希望能进军更大的live house,希望你不要引退。立场不同的我们,通过祈祷来相互支持。
能做到这一点,真是太幸福了。
在这个急迫的世界里,我觉得只要摄取就能立刻见效的罗青素就成了制造幸福的唯一方法,这也很好。持续服用不知道是否有效的汉方药,也是一种幸福。希望不要忘记丑陋的、不得要领的、不方便的戏剧也能存在的世界真好。
我喜欢戏剧。
2021.05.10 更新 ツイート
あなたの「明日も頑張ろうスイッチ」が、コロナ禍でも残り続けますように
長井短
エッセイ
ゆとり世代
ミレニアル世代
平成生まれ
キリ踏ん
頭がうまく動かない日々が1ヶ月くらい続いている。
何か考えようとしても、1つのことを考えられる時間は1分くらいしか続かなくて、気づけば別のことを考えてしまう。Aを考えてたのにBを、Bを考えてたのにCを、ってな具合にGくらいまで思考が転々とすると、ようやくAに戻ってくる。その繰り返し。不便この上ない。
こういうのって今までも時々あって、それは大抵の場合演劇の本番前だった。そうです。私は今本番前なのです!!
本来なら5月4日が初日だったはずの舞台だけど、緊急事態宣言によって現在初日は5月12日に伸びています……。文句を言っても仕方ないので前向きに日々を過ごしてるけど、そうは言っても、5月4日が初日のつもりで毎日を過ごしていたから、今どうやって過ごせばいいのかわからない。
ディズニーランドに行きたすぎてそろそろ限界ということ…現場からは以上です。
今まで色々な文章を書いてきたけど、演劇のことを書いたことはほとんどなくて、なんとなく自分の中で演劇のことを書くのはしっくりこないから避けていました。でも、今回ばかりは演劇のことしか考えられなそうなので、演劇の話をします。私にとっての演劇の話です。
ゲロ吐きそうでも舞台に立っちゃうのはなんでだろう
演劇を始めてから、もうすぐ10年が経つ。19歳の頃から毎年、多いときは年7、8本。少なくても年2本は舞台に立ってきた。通算でどのくらいの数になるのかはわからないけど、小さな劇場も大きな劇場も立たせてもらえてわかったのは、演劇ってマジで面倒くさいってこと。
演劇出身なんですって言うと時々言われる言葉の中に「演劇いいよね! やっぱり! 演劇が好きって俳優さん多いもんね!」ってのがある。超同意なんだけど、正直私の演劇への思いはそんな愛だけのものではなくて、憎もあるの。
だってさ? マジで緊張すんだもんあれ。何度舞台に立っても、舞台袖で出番を待っていると、歯茎がむずむずして全歯ポロっといっちゃうんじゃねーかって気持ちになる。台詞を言っている最中に舌を噛み切る夢を見た回数は数え切れないし、私の知らない間に台本が大幅に変更されて舞台上で立ちすくむ悪夢に週2でうなされる。超ストレス。
無事に今日が終わっても、また明日も同じ緊張が襲ってくると思うとキレそうになる。大きい声を出すからかどんどんお腹と背中が筋肉痛になっていって、声帯回復のために食べたくもないステーキを食べる時、ステーキを食べられるような残高状況じゃないことを思い出し冷や汗をかく。
文句ばかりだ。それなのに、どうしても私は劇場に戻っていってしまう。行ったら疲れるってわかってるのに、気付くと埃っぽい舞台袖でプチゲロを我慢しているのだ。
なんでだろう。どうしてあんな奴のところに、私は抱かれに行ってしまうんですか……?
撮影現場で「唇のスクラブ」ってやつに初めて出会った。ざらざらしたお手拭きで唇を拭く感覚なんだけど、物凄く気持ちいいし唇がツルツルになる。欲しい。
悪口ばっかり言ってますけど、これら全てを一瞬で帳消しにするキュンポイントが演劇にはある。その一瞬は本番直前の舞台袖、M0っていう「この曲がかかったらマジで開演です」っていう合図の曲が流れた時。大抵の場合、M0の音量が上がるのと同時に、劇場は暗くなっていく。真っ暗闇の中に爆音でM0が響いたら、私たちは舞台上にスタンバイするんだけど、その、歩み出す前の1秒にも満たない時間が、私は演劇の中で一番好きだ。
舞台裏にいる俳優、演出部さん、舞台監督さん、楽屋にいる俳優、客席奥にいる音響さん照明さん。劇場内にいる色んな年齢の色んな役割の人たちが一斉に「やるか~」って静かに息を吸うこの瞬間、私は他のどんな時間よりも一人ではないって感じるの。誰かと一緒に働くことは大変だけど楽しくて素晴らしいことなんだって気持ちでいっぱいになる。あ~演劇やりたいなぁ。早く劇場に行きたいなぁ。
やりたいからやる、っていう姿勢がシンプルで好きだった。なんでやってるんだろうって考えても考えても結局、「だってやりたいから」にしか行きつかない。でも、やりたいからやるなんてことが叶いにくい世の中になった今、何か今までとは違う大義名分みたいなものがほしくなった。なくてもいいものみたいに扱われることに、抵抗したいのかもしれない。
あなたの「明日も頑張ろうスイッチ」はなんですか?
演劇は別に、見たってお腹も膨れないし、病気だって治せない。演劇にできることなんて多くない。けど、でも、いい大人が汗をかきながら舞台上を駆けずり回っている様を見ると、私は勇気が湧く。どんな人間も、大きい声を出すと唾が飛ぶし、走り回れば汗をかくっていう当たり前のことを思い出せるから。自分ではない人間も、自分と同じように生きているってことがわかると「明日も頑張るか」って、私は思える。「明日も頑張ろう」と思えなくなっちゃうと、生きていくのはしんどい。だから、世の中には出来るだけ多くの、色んな種類の「明日も頑張ろうスイッチ」みたいなものがあった方が良いなと思うの。自分の出演する演劇も、そのスイッチになりますようにと祈りながら楽屋から舞台へ、上手から下手へ、私は移動しているのかもしれない。「やりたいからやる」とは別の、私が演劇をやる理由は、たぶんこの祈りだ。
きっと、祈っているのは私だけではない。わざわざチケットを買って、劇場まで足を運んでくれるお客さんのその行動にだって、同じように祈りがこもっている。またこの劇団を見れますように、もっと大きなライブハウスに進出できますように、あなたが引退しませんように。立場が違う私たちは、祈りあうことで支え合っているのだ。それができるって、なんて豊かなことだろう。
切羽詰まってる世の中だから、摂取すればすぐに効くロキソニンみたいなものが幸せを作る唯一の方法みたいになっている気がしていて、それもそれで良いんだけど。効いてるかわからない漢方を飲み続けることにも幸せはあるのだ。忘れないでほしいのだ。
不細工で要領の悪い不便な演劇も、存在できる世界がいいなと思います。私は演劇が好きです。
希望你的“明天也要努力的开关”,即使是日冕之祸也能继续留下。
长井短
井随笔|井宽松世代#千禧年世代#平成出生#终结
大脑无法正常运转的日子持续了一个月左右
看。
即使想思考什么,思考一件事的时间也只能持续1分钟左右,等回过神来,就会想别的事情。想着A却想到了B,想着B却想到了C,不知不觉地思考到了G,终于回到了A。如此反复。不便至极。
到现在为止,这种情况也时有发生,而且大多是在戏剧正式演出之前。是的。我现在是正式演出前!!
本来5月4日应该是第一天的舞台,但是根据紧急事态宣言现在第一天延长到了5月12日…。因为抱怨也没有办法,所以每天都在积极地度过。话虽这么说,但因为把5月4日当作第一天来过,所以不知道现在该怎么过。
去了太多迪士尼乐园,差不多到了极限了…以上是现场的情况。(见图)
至今为止写了很多文章,但几乎没写过戏剧,总觉得自己一直在回避写戏剧。但是,这次好像只想到戏剧,所以我要讲戏剧。对我来说,戏剧的故事。
即使快要呕吐也要站在舞台上是为什么呢?
从开始演话剧到现在已经快10年了。从19岁开始每年,多的时候一年7、8部。每年至少有2部在舞台上演出。总计有多少人我不知道,不过无论小剧场还是大剧场,我都知道演戏真的很麻烦。
说到我是戏剧出身,经常有人说:“演戏真好啊!果然!喜欢演戏的演员很多啊!”有这样的。虽然我非常同意,但说实话,我对戏剧的想法并不仅仅是爱,也有恨。
因为,真的很紧张啊。无论站在舞台上多少次,只要站在舞台的袖子上等待出场,就会觉得牙龈发痒,全牙都要脱落了。在说台词的过程中,做过无数次咬断舌头的梦,在我不知道的情况下,剧本被大幅度修改,在舞台上站着的噩梦每周有2次。即使今天平安无事地结束了,一想到明天也会有同样的紧张袭来,就会忍不住生气。不知道是不是因为大声说话,肚子和背部的肌肉越来越痛,为了恢复声带而吃不想吃的牛排的时候,想起自己的结余状况不是能吃牛排的程度,不禁冒冷汗。
尽是抱怨。尽管如此,我还是回到了剧场。明明知道去了会很累,回过神来却发现自己正用布满灰尘的舞台袖子忍受着小呕吐。
为什么呢?为什么我要去那种家伙那里被他抱着呢?
在拍摄现场第一次见到了“嘴唇磨砂膏”。虽然是用粗糙的手擦嘴唇的感觉,但是非常舒服。(见图)
虽然我总是说一些不好的话,但在一瞬间,所有这些戏剧中有这样的扣人心弦的地方。
那一瞬间是正式演出前的舞台袖子,播放MO这首“如果这首曲子播放的话真的要开演了”的信号的曲子的时候。一般情况下,MO的音量上升的同时,剧场也会变暗。在一片漆黑中,如果MO响起轰鸣声,我们就会在舞台上待命,而那迈开脚步前不到一秒的时间,是我最喜欢的戏剧。
在后台的演员、导演、舞台导演,在后台的演员,在观众席深处的音响、照明。在剧场里各种年龄各种角色的人们一齐说“要做吗~”安静地吸气的这一瞬间,我感觉比其他任何时间都不是一个人。和别人一起工作虽然很辛苦,但是很开心,感觉很棒。啊~想演话剧啊。真想早点去剧场啊。
因为想做所以做,这种态度很简单,我很喜欢。为什么要这么做呢,想了又想,结果只能是“因为想做”。但是,因为想做而去做的事情很难实现的现在,我想要一个与以往不同的名分。也许是想抵抗被当成可有可无的东西。
你的“明天也要努力的开关”是什么?
话剧就另当别论了,看了肚子也胀不起来,病也治不好。戏剧能做的事情并不多。但是,当我看到优秀的大人一边流汗一边在舞台上奔跑的样子,我就会鼓起勇气。不管是什么样的人,只要大声说话就会唾沫横飞,到处跑就会出汗,这是理所当然的事情。明白了不是自己的人也和自己一样活着,我就会想“明天也要努力吗”。不想“明天也要努力”的话,活下去就会很辛苦。所以,我觉得世界上最好有尽可能多的、各种各样的“明天也要努力的开关”那样的东西。也许我一边祈祷着自己出演的戏剧也能成为那个开关,一边从后台移动到舞台,从擅长移动到笨拙。与“因为想做所以做”不同,我做话剧的理由大概是这个祈祷。
祈祷的人一定不止我一个。特意买票来到剧场的观众们的行动,也同样包含着祈祷。希望还能看到这个剧团,希望能进军更大的live house,希望你不要引退。立场不同的我们,通过祈祷来相互支持。
能做到这一点,真是太幸福了。
在这个急迫的世界里,我觉得只要摄取就能立刻见效的罗青素就成了制造幸福的唯一方法,这也很好。持续服用不知道是否有效的汉方药,也是一种幸福。希望不要忘记丑陋的、不得要领的、不方便的戏剧也能存在的世界真好。
我喜欢戏剧。
【桃李面包创始人:60岁退休创业,83岁成辽宁首富,最后套现近30亿】1
1995年的一天傍晚,辽宁丹东丝绸厂子弟学校的大门,走出一名老教师,这是他最后一天下班,明天,就正式退休了。
这名老教师名叫吴志刚,在这所子弟学校三尺讲台上当了几十年的教师,突然离开学校赋闲在家,老吴哪哪都不得劲,总想找点事做。
由于平日里素来喜欢吃面包,退休后闲来无事,他就在家里做面包玩。
此时的中国,改革开放进入了高潮期,很多人已经快速赚到了好几桶金,一跃成为富豪,更多人还在前仆后继。
老吴看着这热火朝天的时代,心也有点痒痒。
左右也无事可做,要不自己也卖点什么吧?
这个想法一旦萌生,老吴内心就像长了一根草,唯一让他忐忑的就是:我这个年纪能行吗?
有天,老吴盯着饭桌上做好的面包,一拍大腿,不就是创业吗,有啥不行,就卖面包!
说干就干。
但很快,老吴就受到了第一个打击。
想卖新鲜面包,你首先得有个店面,其次还得有伙计,老吴出去转了一圈又一圈,发现好地段的铺面都太贵了,他一个退休老教师,无论如何也负担不起。
但这一圈圈转下来,老吴也并非一无所获,他发现大街小巷有很多早餐车,早餐车里卖的都是一些方便携带的便利早餐,他想,如果我把做好的面包放在这里卖,岂不是两全其美?
这想法让老吴激动不已,很快地,老吴拉着儿子,拿出这些年攒的钱,买了原材料,雇了几个工人,在家里做起了面包,因为当了一辈子的老师,他给自己面包品牌起了个颇有书香气息的名字——桃李,既给自己的半生做个总结,又寓意着将来可以把面包卖到满天下。
与市面上很多保质期较长的面包不同,桃李一出道,打的就是短保,保质期4-15天,让追求品质的人,吃得上新鲜无添加的面包,这是老吴的初衷,也正是这一初衷,桃李面包从一问世,就相当受欢迎,并迅速打开了丹东市场。
老吴的创业,如火如荼地开始了。
2
早餐车成为了老吴创业的突破口,最开始也不容易,为了保证面包的新鲜,老吴每天凌晨3点就开始配送,保证6点前可以送到街边,让赶着吃早饭的人群能够吃到新鲜的面包。
随着订单增加,老吴盘了个作坊,作为自己的面包生产基地。
但他并不满足于此,在勤奋地跑市场后,他先是拿下了很大一批早餐店,接着又把面包送进了丹东的各个店铺和超市。
老吴这条道,在市场上相当稀缺。
要知道,传统面包行业,短保的一般都是店面制作售卖,但这种模式比较受地域的限制,投入往往也比较大。
而那种可以进店铺和超市的包装面包,保质期都会很长,短则几个月,多则达半年以上,所以防腐剂必然少不了。
桃李面包既不走店铺,也不走长保,反而另辟蹊径,将短保面包做成长保的配送售卖模式,既满足人们追求健康的口味,又可以扩大销路,是个相当好的创业方向。
很快,老吴就成为丹东第一面包生产商,跑通了丹东市场后,老吴又一鼓作气,将桃李面包拓展到全东北,2007年,老吴和他的桃李面包,就拿下了整个东北市场。
那么,短保面包市场怎么就轮到老吴了呢?其他人就没人想得到吗?
其实并非是点子难想,而是短保面包实则是门苦生意。
首先,短保面包因为保质期短,没有防腐剂,所以对供应链的要求就相当高了。
其次,一旦滞销,短保面包面临的只能是过期销毁,风险极大。
因此,短保面包从生产、营销到物流配送,各个环节的容错空间都非常小。
每个人的成功都不是偶然,面对如此多的难题,老吴的智慧就显现出来了。
他是怎么确保面包在短短时间内,能快速配送到各个地方,再完成销售的呢?
3
"中央厨房+批发",直接复制,快速拓展疆土。
什么是"中央厨房"?前面讲了,老吴在丹东建了个生产车间,负责半径200km内地区的销售,超出范围或者到了另一个城市怎么办?
那么就再建一个工厂,产品辐射半径依然是200km以内,这样,一方面可以最大限度地保证产品新鲜,另一方面也可以降低物流成本。
这种中央厨房设置得越多,辐射面就越广,老吴的生意就越做越大。
中央厨房建好了,下一步就是配送。
桃李针对沃尔玛、家乐福等大型超市,以及城市中心的一些中小超市,采取的都是直营模式,商家自行配送对接。
针对远一些的县级超市、小卖部、便利店,则是分销模式,即每天从直营商家和经销商那里下订单。
两种模式,让桃李面包从生产到营销再到物流配送的各个环节都非常稳定,大大降低了退货率。
"以销定产",提高产销率
像桃李这种短保面包食品,一旦产销不匹配,很容易造成滞销带来亏损,从公司一建立,老吴就决定采用"以销定产"的模式进行生产。
所有的工厂都采取倒班模式,白天按照销售端的预估量进行生产,晚上集中生产实际订单与预估订单的差额,并严格保证,这两批产品都将在次日早上6点前准时上货,这样,就可以最大化的利用早高峰的时间段完成高额销售。
聚焦于少而精,降低成本
吃过桃李面包的都知道,吴志刚创办桃李面包20年了,实际上品种和花样并不多。
比如说市面上最常见销量最大的就是切片面包,也没有什么花里胡哨的装饰。
不追求品种多,把一样单品做到精致,追求单品的销售规模,是桃李又一降低成本的有效利器。
成本降低,到了大众手里,就会提高商品的性价比。便利+健康+便宜,桃李面包很快就在烘焙界所向披靡。
4
1997年,老吴的桃李面包就成为了辽宁最大的面包生产商,到了2005年,桃李成为了东北地区最大的面包生产商。
从2006年开始,桃李面包跳出东三省,迅速攻占华北地区,紧接着,开启西行、东走的全国化扩张之路。
到了2015年,吴志刚早已吃下了整个北方市场。
这一年,老吴成了老老吴,已经迈进了80岁大关。
这一年,他带着创立了20年的桃李面包成功上市,成为中国"面包第一股",市值一度超过400亿元。
吴志刚成为名副其实的烘焙巨头。
上市之后,吴志刚踌躇满志地举兵南下。
实际上在之前20年,南方市场也建立了一些生产基地,比如上海桃李在2000年就已经成立了,但是并未像北方地区那样形成规模化。
这一次吴志刚的目的是希望可以像曾经在东北拓展市场那样,吃下整个南方市场。
然而这一次,在北方靠固定模式复制成功的经验,到南方却偏偏水土不服了。
2015年,桃李先后在深圳、东莞、武汉、福州、厦门等南方大型城市成立了公司,然而到了2019年,这些城市的子公司几乎全线亏损。
刚刚我们盘点的那些,曾经让吴志刚引以为傲的优势,怎么在南方城市就成为了劣势了呢?
究其原因,一是时机,二是南北差异。
吴志刚占领北方市场的时候,时机还早,90年代以及21世纪初,国内的面包行业还方兴未艾,像桃李这样主打新鲜、无防腐剂的短保面包,自然是新鲜事物,再加上性价比较高,大众的接受程度就很快。
等同行反应过来想要加入的时候,吴志刚早已把北方市场都吃透了。
而到了2015年,很多烘焙企业已经进入赛道,比如达利,就专门推出了短保品牌美焙辰,直接下场和桃李进行PK。
再者,就是南北差异的不同,导致北方下来的桃李品牌一定程度上水土不服。
南方的经济优于北方,这就导致南方人对生活品质的要求相对要高。
在北方,桃李主打性价比和便利,这让它发展地如鱼得水,但在南方,现做现卖、定位更高端的连锁烘焙店反而更受欢迎。
然而到了最近两年,北方地区的高端烘焙店也鳞次栉比了,大街小巷到处都是烘焙店,这些店面的面包,更加新鲜,花样更多,口味更好,桃李拿什么和这样的市场去比呢?
上市之后,昔日叱咤风云的烘焙大佬,也不可避免地陷入了很多企业都会遇到的困境:
全国扩张的失败,竞争的加剧以及企业的衰退。
5
吴志刚刚刚创立桃李面包的时候,是拉着儿子一起创的业。桃李面包也是名副其实的家族企业。
随着公司的不断发展,越来越多的吴家人加入到了进来。
到了2015年上市的时候,桃李面包的自然人股东中,吴志刚的亲属就足足有20多人。庞大的家族裙带,贯穿在公司的股权与管理层中。
家族企业有它的优势,那就是凝聚力会更强,但也有显而易见的弊端。
2019年,老吴84岁了,伴随着市场的亏损和不断收缩,他在退休二十余载后,再次做出了退休的决定。
从桃李面包董事长的位置上退下来后,老吴48岁的三儿子吴学亮接任董事长。当然, 大儿子和二儿子,以及老吴的老伴,都在公司担任着重要的核心职务。
老吴这一退,不单单是职位的变动问题,桃李整体的业绩也产生了非常明显的波动。
不过比业绩波动更引起人们注意的,是近年来,企业里这些家族人员的大规模减持。
直白点说,就是套现。
规模有多大呢?
2018年12月底,吴志刚已经83岁,桃李面包上市满三年解禁,从那一天起,吴志刚凭借22.4亿美元身价成功荣登辽宁首富,也是同年开始,吴家人就开始了持续减持套现。
有媒体计算,2019年初,84岁的吴志刚一退休,到今年两年多时间,吴家合计套现金额达到29.02亿元。
具体原因也很有意思。
董事长吴志刚先生为什么要套现呢?理由是,因已属高龄,由于个人生活需求而减持公司股份。
其余亲属,则称是因为个人资金需求而减持。
虽然桃李口口声声说大规模减持并非是对公司信心不足,但难免不让人疑惑,吴志刚一退休,这子子孙孙七大姑八大姨的,是不是不打算经营公司,直接分钱了?
毕竟,一个80多岁的老人,个人需求能有多大呢,大到需要几个亿资金来支撑,亲属又有什么急不可待的事情, 非巨额资金不可呢?
如今的桃李,不再是吴志刚的,而是属于整个吴氏家族的。具体原因不能妄猜,桃李的何去何从,还需要拭目以待。
不管怎么说,到今天,吴志刚已经退休2年了,昔日面包巨匠的一代传奇,终究是随着他的离开而落幕了。
1995年的一天傍晚,辽宁丹东丝绸厂子弟学校的大门,走出一名老教师,这是他最后一天下班,明天,就正式退休了。
这名老教师名叫吴志刚,在这所子弟学校三尺讲台上当了几十年的教师,突然离开学校赋闲在家,老吴哪哪都不得劲,总想找点事做。
由于平日里素来喜欢吃面包,退休后闲来无事,他就在家里做面包玩。
此时的中国,改革开放进入了高潮期,很多人已经快速赚到了好几桶金,一跃成为富豪,更多人还在前仆后继。
老吴看着这热火朝天的时代,心也有点痒痒。
左右也无事可做,要不自己也卖点什么吧?
这个想法一旦萌生,老吴内心就像长了一根草,唯一让他忐忑的就是:我这个年纪能行吗?
有天,老吴盯着饭桌上做好的面包,一拍大腿,不就是创业吗,有啥不行,就卖面包!
说干就干。
但很快,老吴就受到了第一个打击。
想卖新鲜面包,你首先得有个店面,其次还得有伙计,老吴出去转了一圈又一圈,发现好地段的铺面都太贵了,他一个退休老教师,无论如何也负担不起。
但这一圈圈转下来,老吴也并非一无所获,他发现大街小巷有很多早餐车,早餐车里卖的都是一些方便携带的便利早餐,他想,如果我把做好的面包放在这里卖,岂不是两全其美?
这想法让老吴激动不已,很快地,老吴拉着儿子,拿出这些年攒的钱,买了原材料,雇了几个工人,在家里做起了面包,因为当了一辈子的老师,他给自己面包品牌起了个颇有书香气息的名字——桃李,既给自己的半生做个总结,又寓意着将来可以把面包卖到满天下。
与市面上很多保质期较长的面包不同,桃李一出道,打的就是短保,保质期4-15天,让追求品质的人,吃得上新鲜无添加的面包,这是老吴的初衷,也正是这一初衷,桃李面包从一问世,就相当受欢迎,并迅速打开了丹东市场。
老吴的创业,如火如荼地开始了。
2
早餐车成为了老吴创业的突破口,最开始也不容易,为了保证面包的新鲜,老吴每天凌晨3点就开始配送,保证6点前可以送到街边,让赶着吃早饭的人群能够吃到新鲜的面包。
随着订单增加,老吴盘了个作坊,作为自己的面包生产基地。
但他并不满足于此,在勤奋地跑市场后,他先是拿下了很大一批早餐店,接着又把面包送进了丹东的各个店铺和超市。
老吴这条道,在市场上相当稀缺。
要知道,传统面包行业,短保的一般都是店面制作售卖,但这种模式比较受地域的限制,投入往往也比较大。
而那种可以进店铺和超市的包装面包,保质期都会很长,短则几个月,多则达半年以上,所以防腐剂必然少不了。
桃李面包既不走店铺,也不走长保,反而另辟蹊径,将短保面包做成长保的配送售卖模式,既满足人们追求健康的口味,又可以扩大销路,是个相当好的创业方向。
很快,老吴就成为丹东第一面包生产商,跑通了丹东市场后,老吴又一鼓作气,将桃李面包拓展到全东北,2007年,老吴和他的桃李面包,就拿下了整个东北市场。
那么,短保面包市场怎么就轮到老吴了呢?其他人就没人想得到吗?
其实并非是点子难想,而是短保面包实则是门苦生意。
首先,短保面包因为保质期短,没有防腐剂,所以对供应链的要求就相当高了。
其次,一旦滞销,短保面包面临的只能是过期销毁,风险极大。
因此,短保面包从生产、营销到物流配送,各个环节的容错空间都非常小。
每个人的成功都不是偶然,面对如此多的难题,老吴的智慧就显现出来了。
他是怎么确保面包在短短时间内,能快速配送到各个地方,再完成销售的呢?
3
"中央厨房+批发",直接复制,快速拓展疆土。
什么是"中央厨房"?前面讲了,老吴在丹东建了个生产车间,负责半径200km内地区的销售,超出范围或者到了另一个城市怎么办?
那么就再建一个工厂,产品辐射半径依然是200km以内,这样,一方面可以最大限度地保证产品新鲜,另一方面也可以降低物流成本。
这种中央厨房设置得越多,辐射面就越广,老吴的生意就越做越大。
中央厨房建好了,下一步就是配送。
桃李针对沃尔玛、家乐福等大型超市,以及城市中心的一些中小超市,采取的都是直营模式,商家自行配送对接。
针对远一些的县级超市、小卖部、便利店,则是分销模式,即每天从直营商家和经销商那里下订单。
两种模式,让桃李面包从生产到营销再到物流配送的各个环节都非常稳定,大大降低了退货率。
"以销定产",提高产销率
像桃李这种短保面包食品,一旦产销不匹配,很容易造成滞销带来亏损,从公司一建立,老吴就决定采用"以销定产"的模式进行生产。
所有的工厂都采取倒班模式,白天按照销售端的预估量进行生产,晚上集中生产实际订单与预估订单的差额,并严格保证,这两批产品都将在次日早上6点前准时上货,这样,就可以最大化的利用早高峰的时间段完成高额销售。
聚焦于少而精,降低成本
吃过桃李面包的都知道,吴志刚创办桃李面包20年了,实际上品种和花样并不多。
比如说市面上最常见销量最大的就是切片面包,也没有什么花里胡哨的装饰。
不追求品种多,把一样单品做到精致,追求单品的销售规模,是桃李又一降低成本的有效利器。
成本降低,到了大众手里,就会提高商品的性价比。便利+健康+便宜,桃李面包很快就在烘焙界所向披靡。
4
1997年,老吴的桃李面包就成为了辽宁最大的面包生产商,到了2005年,桃李成为了东北地区最大的面包生产商。
从2006年开始,桃李面包跳出东三省,迅速攻占华北地区,紧接着,开启西行、东走的全国化扩张之路。
到了2015年,吴志刚早已吃下了整个北方市场。
这一年,老吴成了老老吴,已经迈进了80岁大关。
这一年,他带着创立了20年的桃李面包成功上市,成为中国"面包第一股",市值一度超过400亿元。
吴志刚成为名副其实的烘焙巨头。
上市之后,吴志刚踌躇满志地举兵南下。
实际上在之前20年,南方市场也建立了一些生产基地,比如上海桃李在2000年就已经成立了,但是并未像北方地区那样形成规模化。
这一次吴志刚的目的是希望可以像曾经在东北拓展市场那样,吃下整个南方市场。
然而这一次,在北方靠固定模式复制成功的经验,到南方却偏偏水土不服了。
2015年,桃李先后在深圳、东莞、武汉、福州、厦门等南方大型城市成立了公司,然而到了2019年,这些城市的子公司几乎全线亏损。
刚刚我们盘点的那些,曾经让吴志刚引以为傲的优势,怎么在南方城市就成为了劣势了呢?
究其原因,一是时机,二是南北差异。
吴志刚占领北方市场的时候,时机还早,90年代以及21世纪初,国内的面包行业还方兴未艾,像桃李这样主打新鲜、无防腐剂的短保面包,自然是新鲜事物,再加上性价比较高,大众的接受程度就很快。
等同行反应过来想要加入的时候,吴志刚早已把北方市场都吃透了。
而到了2015年,很多烘焙企业已经进入赛道,比如达利,就专门推出了短保品牌美焙辰,直接下场和桃李进行PK。
再者,就是南北差异的不同,导致北方下来的桃李品牌一定程度上水土不服。
南方的经济优于北方,这就导致南方人对生活品质的要求相对要高。
在北方,桃李主打性价比和便利,这让它发展地如鱼得水,但在南方,现做现卖、定位更高端的连锁烘焙店反而更受欢迎。
然而到了最近两年,北方地区的高端烘焙店也鳞次栉比了,大街小巷到处都是烘焙店,这些店面的面包,更加新鲜,花样更多,口味更好,桃李拿什么和这样的市场去比呢?
上市之后,昔日叱咤风云的烘焙大佬,也不可避免地陷入了很多企业都会遇到的困境:
全国扩张的失败,竞争的加剧以及企业的衰退。
5
吴志刚刚刚创立桃李面包的时候,是拉着儿子一起创的业。桃李面包也是名副其实的家族企业。
随着公司的不断发展,越来越多的吴家人加入到了进来。
到了2015年上市的时候,桃李面包的自然人股东中,吴志刚的亲属就足足有20多人。庞大的家族裙带,贯穿在公司的股权与管理层中。
家族企业有它的优势,那就是凝聚力会更强,但也有显而易见的弊端。
2019年,老吴84岁了,伴随着市场的亏损和不断收缩,他在退休二十余载后,再次做出了退休的决定。
从桃李面包董事长的位置上退下来后,老吴48岁的三儿子吴学亮接任董事长。当然, 大儿子和二儿子,以及老吴的老伴,都在公司担任着重要的核心职务。
老吴这一退,不单单是职位的变动问题,桃李整体的业绩也产生了非常明显的波动。
不过比业绩波动更引起人们注意的,是近年来,企业里这些家族人员的大规模减持。
直白点说,就是套现。
规模有多大呢?
2018年12月底,吴志刚已经83岁,桃李面包上市满三年解禁,从那一天起,吴志刚凭借22.4亿美元身价成功荣登辽宁首富,也是同年开始,吴家人就开始了持续减持套现。
有媒体计算,2019年初,84岁的吴志刚一退休,到今年两年多时间,吴家合计套现金额达到29.02亿元。
具体原因也很有意思。
董事长吴志刚先生为什么要套现呢?理由是,因已属高龄,由于个人生活需求而减持公司股份。
其余亲属,则称是因为个人资金需求而减持。
虽然桃李口口声声说大规模减持并非是对公司信心不足,但难免不让人疑惑,吴志刚一退休,这子子孙孙七大姑八大姨的,是不是不打算经营公司,直接分钱了?
毕竟,一个80多岁的老人,个人需求能有多大呢,大到需要几个亿资金来支撑,亲属又有什么急不可待的事情, 非巨额资金不可呢?
如今的桃李,不再是吴志刚的,而是属于整个吴氏家族的。具体原因不能妄猜,桃李的何去何从,还需要拭目以待。
不管怎么说,到今天,吴志刚已经退休2年了,昔日面包巨匠的一代传奇,终究是随着他的离开而落幕了。
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