島左近(嶋左近)の歴史
筒井家家臣時代
筒井順慶家臣時代
島左近は1540年(天文9年)、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)に生まれました。

いつから「筒井順慶」(つついじゅんけい)に仕えていたか定かではありませんが、少なくとも1570年(元亀元年)頃には仕えていたと言われています。

島左近は、筒井家の猛将として、大和国を巡って「松永久秀」(まつながひさひで)と激闘を繰り広げました。

1577年(天正5年)、「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)で松永久秀を倒し、筒井順慶は大和を平定。

その後、島左近は「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)の援軍として、播磨(現在の兵庫県)攻めに参戦。毛利軍に包囲され、「山中鹿介」(やまなかしかのすけ)が籠城する「上月城」への救援に参加しています。

1579年(天正7年)には、謀反を起こした「荒木村重」(あらきむらしげ)が籠城する「有岡城」攻めに参加。

「本能寺の変」後、筒井順慶は、豊臣秀吉に対する態度をはっきりさせなかったことを理由に苦しい立場に立たされましたが、大和一国は安堵されました。

1583年(天正11年)、島左近は筒井順慶に従い、滝川一益(たきがわかずます)を攻めるために伊勢(現在の三重県)に出陣。その後、「柴田勝家」軍と戦うために近江(現在の滋賀県)へ。敗れた柴田勝家は、「北ノ庄城」で自刃しました。

1584年(天正12年)頃、島左近は椿井城主となります。また同年、小牧・長久手で豊臣秀吉と「徳川家康」が交戦中に、筒井順慶が死去。養子「筒井定次」(つついさだつぐ)が跡を継ぎました。
翌年、豊臣秀吉は畿内を羽柴一門で固めるため、大規模な国替えを敢行。筒井家は大和から伊賀(現在の三重県)へ移封されます。

筒井家との決別
伊賀における島左近についての記録は、ほとんど残っていませんが、筒井家が伊賀へ移封されてから数年のうちに筒井家を去ったという説が有力です。

その理由としては、2つの有力な説が唱えられています。筒井定次の水不足に対する裁定への不服と、筒井定次への絶望です。

水不足対策裁定への不服
発端は、夏の水不足でした。「中坊飛騨」(なかのぼうひだ)が用水路をせき止め、自分の領地内の田に水が回るようにしてしまったことで、島左近の領地の田には水が回ってきません。困った領民達は、島左近のもとに対応の陳情に訪れました。
島左近はまず、中坊飛騨に用水路のせき止めをやめるよう依頼。中坊飛騨が断ったため、新しい用水路を作って自分の領地の田に水が流れるようにしました。その結果、自分の領地の田に水が回ってこなくなった中坊飛騨は、主君・筒井定次に直訴。対処を求めたのです。

筒井定次と中坊飛騨は、昵懇(じっこん:打ち解けて付き合う仲であること)の間柄でした。そのため、訴えを聞いた筒井定次は、今回の一件について、島左近に非があると裁定。新しく作った用水路を壊すよう命令します。水不足自体は、その後の降雨によって解消されましたが、島左近にとって決別を決めるのには十分な出来事だったと言えるのです。
筒井定次への絶望
筒井順慶の跡を継いだ筒井定次は、色欲に溺れていたと言われています。島左近は、そんな筒井定次を諫めていました。
しかし、筒井定次もその取り巻きも耳を貸すことはなく、そんな状況に愛想を尽かし、島左近は筒井家を去ったと言われています。

島左近が筒井家を去った大きな理由として伝わっているのはこの2つ。いずれにしても、島左近は筒井定次が主君として仕えるべき人物であるのかということに疑問を感じ、筒井家を去ったことに違いありません。

筒井家との決別後
筒井家を去ったあとの島左近の消息は、はっきりしていないのが実情です。伊勢の「蒲生氏郷」(がもううじさと)に仕えたという資料もありますが、「羽柴秀長」(はしばひでなが)に仕えたという資料も存在。

また、筒井家を去ったあとすぐに「石田三成」に仕えたという資料もあります。このあと、島左近が次に歴史の表舞台に登場するのは、小田原征伐のときです。

石田三成に仕える
破格の条件
島左近が石田三成の家臣になった時期については諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。

一説には、石田三成が水口(現在の滋賀県)4万石の知行をもらっているときに、島左近をその半分にあたる2万石の知行で召し抱えたという話が伝えられています。

また、石田三成が1595年(文禄4年)近江・佐和山(現在の)19万石の大名になったときに、島左近に2万石与えたとの説も存在。石田三成の知行が増えた場合には、それに応じて俸禄を増やすという提案に対し、島左近は「このままでけっこうでございます」と答えました。このやり取りを聞いた周囲は「この主君にしてこの家臣あり」だと感心したと言われています。
石田三成の補佐役
島左近については、武人としてのイメージが強いことは確かです。しかし、石田三成が事務方の奉行を務めていた関係から、島左近も槍働きばかりではなく、奉行の仕事を補佐することが多かったと言われています。

こうした働きについては証明できるだけの史料が残っていませんが、大和の検地奉行や、佐和山城下の整備などの手伝いをしていたという説が有力です。

波乱含みの晩年
豊臣秀吉の死
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。絶対的な権力者だった天下人の死によって、戦国大名が勢力拡大に向けてうごめくなど、国内は不穏な空気に包まれます。
豊臣秀吉の忘れ形見、「豊臣秀頼」を補佐する「五大老」の筆頭格に指名されていた徳川家康もそのひとり。

徳川家康は、石田三成ら「文治派」と「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)ら「武断派」の対立に目を付け、武断派の武将に接近するなど、動き始めました。

まず、豊臣秀吉が禁止していた大名間の婚姻を無断で敢行。伊達氏、福島氏らの武将と姻戚関係を結びました。この規則違反に対し、石田三成らが五大老のひとりだった「前田利家」(まえだとしいえ)に報告。これを受けた前田利家の指摘に対し、徳川家康は謝罪したと言われています。豊臣秀吉とは幼馴染で、側近中の側近でもあった前田利家の存在は、徳川家康にとっても、無視できないものでした。

1599年(慶長4年)前田利家が死去すると、徳川家康の天下人への「野心」が表面化し始めます。その象徴とも言えたのが、「五奉行」のひとりである石田三成を政権から「追放」した出来事でした。

石田三成と対立を深めていた武断派の七将が、石田三成の館を襲撃します。石田三成は、徳川家康の館に逃げ込み、仲裁を依頼。徳川家康は、仲裁する条件として石田三成の佐和山への蟄居(ちっきょ:閉門して、屋敷の部屋から出ないこと)を挙げました。この条件を受け入れたことで、石田三成は政権から離れることとなったのです。
徳川家康殺害を進言
島左近は石田三成に対し、複数回に亘って徳川家康殺害を進言したことが伝えられています。武断派七将による襲撃をきっかけとして、石田三成が佐和山に蟄居する際、島左近は、徳川家康を殺害するなら今しかないと進言。しかし、石田三成の同意を得られなかったことで、徳川家康殺害計画は実現しませんでした。

徳川家康殺害が実行に移されたものの、「未遂」に終わったことも。「常山紀談」、「東照宮御実紀」によると、徳川家康が会津征伐に向かう際に、「長束正家」(なつかまさいえ)が城主を務める「水口城」に立ち寄ります。

これを聞きつけた島左近は、夜襲による徳川家康殺害を石田三成に進言。数度の説得の末、石田三成の許可を取り付け、水口城に向かいます。しかし、島左近らが到着したとき、徳川家康の姿はありませんでした。

こうして、徳川家康殺害が遂行されないうちに、石田三成を巡る状況は大きく変化。のちの日本を二分した、天下分け目の「関ヶ原の戦い」へとつながっていくのです。

石田三成挙兵
会津征伐が行なわれるきっかけとなったのは、1通の書状だったと言われています。それは「直江兼続」(なおえかねつぐ)が作成したと言われる「直江状」です。

上杉家に謀反の気配があるという噂が広まる中、徳川家康は上杉景勝に上洛して申し開きをするよう促しましたが、拒否されます。

その後、使者を介して再度上洛を促した徳川家康に対する返信と共に届けられたのがこの書状です。この内容に激怒した徳川家康は、会津征伐を決意しました。

「大谷吉継」(おおたによしつぐ)も、徳川家康による会津征伐に参加するため、領国・敦賀(現在の福井県)から軍勢を率いて東国に出発。途中で石田三成のいる佐和山に寄りました。そのとき、石田三成は徳川家康に対する挙兵の意思を大谷吉継に伝えます。

これに対し、大谷吉継はやめるように何度も説得しましたが、石田三成の意思は変わりません。一緒に挙兵して欲しいと依頼された大谷吉継は、「西軍」の総大将を「毛利輝元」(もうりてるもと)にすることを条件に受諾したと言われています。

大谷吉継の承諾を取り付けた石田三成は大坂へ赴き、徳川家康の罪状を記した檄文(内府ちがひの条々)を作成。徳川家康に対して反旗を翻したのです。
関ヶ原の戦い
関ヶ原へ進軍開始
9月14日未明、西軍は関ヶ原に向けて進軍を開始します。石田三成軍は、笹尾山に本陣を設け、その200~300m東に島左近と「蒲生頼郷」(がもうよりさと)を配置しました。

小早川秀秋は、関ヶ原が一望でき戦の様子が良く見える松尾山に布陣。不穏な動きを見せる小早川秀秋を見張るかのように、大谷吉継が松尾山の麓に布陣します。

開戦
「松平忠吉」(まつだいらただよし)軍の発砲で合戦が開始。福島隊と宇喜多隊が激突する中、石田三成軍については、ちょっとした戦闘はあったものの、大きな戦闘には発展していません。

そこで、石田三成は島左近と蒲生頼郷に黒田長政隊への突撃を命じます。対する黒田長政隊は、迂回して石田三成軍の側面から鉄砲を乱射。この攻撃を受けた島左近は、ひとまず退却することを余儀なくされました。
西軍、機能せず
石田三成軍の横に布陣していたのは島津軍でした。しかし、島津軍は、ただ時間が経つのを待っているだけという感じで同じ場所で動く気配がありません。
たまりかねた石田三成が使者を送り、馬上から進撃するように伝えますが、島津義弘は、馬上からものを言われたことを無礼だとして、使者を追い返してしまいました。

その後、石田三成は直接、島津義弘に進撃を依頼しましたが、「戦の勝敗はもうついているから勝手にさせてもらう」と、要請を断られます。

島津義弘は、並の武将ではありません。西軍の戦いぶりを見て、東軍に勝つのは難しいと感じていたとも考えられます。加えて、前述したような、石田三成による数々の「不義理」が積み重なっていた経緯もあり、島津義弘は「動かない」という選択をしたのです。

石田三成が頼りにしていた「小西行長」(こにしゆきなが)隊も開始早々に戦線離脱します。懸命に戦っているのは宇喜多隊、大谷隊、石田軍くらい。残りの部隊は、東軍部隊が攻めてくれば応戦する程度だったと言われています。毛利隊、小早川隊という西軍の中で大規模だった部隊は、全く戦闘に参加する気配がありませんでした。
小早川秀秋の裏切り
宇喜多隊や大谷隊の奮闘で、西軍は優勢に戦を進めていました。東軍の総大将・徳川家康は、思わぬ苦戦にしびれを切らし、小早川隊に寝返りの決断を促す射撃をするように命じます。

驚いた小早川秀秋は、寝返ることを決め、大谷軍に突撃を開始。小早川秀秋の裏切りを知った、脇坂、朽木、小川、赤座の各部隊も続き、一斉に大谷隊に襲い掛かりました。大谷隊も必死に応戦しましたが、徐々に押され始め、大谷吉継は自刃しました。

小早川秀秋の裏切りによって、形勢は一気に東軍有利に傾きます。奮闘していた石田三成軍でしたが、東軍の勢いに負け、徐々に押され始めました。島左近は、石田三成を戦場から逃がそうと、敵軍に突撃。最後は銃弾を浴びて死んだと言われています。

鴻門の会

鴻門の会以前
紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。懐王は、項羽らを趙の救援後に函谷関より関中へ進軍するよう北上させ、一方劉邦(当時は沛公)には南方ルートの武関より関中へ進軍するよう命じた。命を受けた劉邦は軍を進めて秦軍と戦った。一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。関中に侵入し秦軍を撃破した。その際に秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。

この時項羽はまだ関中に至っていなかった。劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関を守る劉邦軍の兵を見る。更に、劉邦がすでに秦都咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、当陽君らを派遣して函谷関を攻撃し、関中へ入って戯水の西に軍を進めた。劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおうとしたのである。項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であり、劉邦の命運は風前の灯となった。
項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し一部始終を劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。関に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えて下さい」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、劉邦はこれを受け入れた。一方の項羽も項伯の取り成しにより怒りを和らげ、弁明を聞くことにした。そして翌日、後に言う「鴻門の会」が行われることとなった。

鴻門の会
翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、臣は河南に戦いました。思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。
項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて座った。范増は南向き上座に、劉邦は北向き下座に、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘(項羽の従弟)を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。
この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊噲に事態の深刻さを伝えた。樊噲は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊噲はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊噲は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊噲は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。秦王は暴虐で、人々は背きました。懐王は諸将に、先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。沛公は先に咸陽に入りましたが、宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。未だに恩賞もないのに、讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」と言うのみだった。
その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。

鴻門の会以後
鴻門の会において劉邦の釈明を受け入れた格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。天下を平らげ劉邦を蜀巴の地へ左遷はしたものの、ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北につながった。

また范増も項羽が劉邦を討たなかったことに憤慨し、後々の離間の遠因となる。范増を失った楚軍は張良・陳平の策謀に対抗する力も失った。
この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後の破滅を招く事となった。

オペラ座の怪人
概要
新聞記者でもあったルルーの取材談のような疑似ノンフィクションテイストで書かれている。ルルーは執筆にあたり、実際のオペラ座(ガルニエ宮)の構造や地下の広大な奈落、建築経過などを詳しく取材しており、尚且つオペラ座が建設された当時の実際の幽霊話や陰惨な事件などを用いて、虚構と現実が入り交じったミステリアスな怪奇ロマンとして執筆した。

物語前半は、謎の『天使の声』に導かれ歌手として頭角を現す女優クリスティーヌ・ダーエと、彼女が謎の声に魅了されている様子を見て悩み苦しむ恋人ラウル・シャニュイ子爵の葛藤を中心とし、後半は『ファントム=怪人』ことエリックの暴走と悲劇的な素性、そして彼の秘密を知るペルシャ人・ダロガの手記という形で描かれている(この手記を手に入れたルルーが本作を執筆したという仮想現実構造になっている)。特に終盤はダロガが事実上の主役級になっているのが、後のミュージカル版等との大きな相違である。
あらすじ
舞台は1880年のパリ。年老いたマネージャーの退職日の夜、オペラ座の若手オペラ歌手のクリスティーヌはガラに出演して喝采を浴びる。幼馴染のラウル子爵はクリスティーヌの歌を聴き、彼女への愛を思い出す。この頃、オペラ座には謎の怪人が住み着いているという噂があり、月給2万フランと5番ボックス席の常時確保などを支配人に要求するなど、手紙や行動で、マネージャーに自身の存在を知らせていたという。怪人は音楽の才能に溢れ、投げ縄や奇術の達人でもあり、そしてクリスティーヌに恋をしていた。ガラの数日後、パリ国立オペラでは『ファウスト』を上演し、怪人の望みに反してカルロッタがプリマドンナとなり主役を演じる。上演中、カルロッタは声を失い、豪華なシャンデリアが客席に落下する。

怪人はクリスティーヌをさらい、自身が住むオペラ座の地下室に連れていき、エリックと名乗る。エリックは、クリスティーヌが数日間共に過ごし、自分を愛するようになることを望む。しかしエリックはクリスティーヌに仮面を剥ぎ取られ、鼻も唇もなく、落ち窪んだ目、生来の醜悪な人相に壊死した黄色い皮膚で覆われた、見るもおぞましいミイラのような顔を見られてしまったため、考えを変える。クリスティーヌが自分のもとを離れることを恐れたエリックは、彼女を永遠に自分のものとする決心をするが、2週間後クリスティーヌがここを出たいと言うと、自分の指輪をはめて信頼を裏切らないことを条件に解放する。
その後のクリスティーヌは、自分の楽屋の裏から聞こえる『天使の声』の指導で歌唱力を付け頭角を現すが、その様子に嫉妬したクリスティーヌの恋人ラウルは、『天使の声』の謎を解こうと奔走する。オペラ座の屋根の上で、クリスティーヌはラウルに、エリックにさらわれたことを打ち明ける。このエリックこそ『天使の声』であり、その正体はオペラ座の地下に広がる広大な水路の空間に住み着いた怪人であった。ラウルはエリックが、二度とクリスティーヌを見つけられないようにすると約束。翌日決行するつもりだと語り、クリスティーヌもこれに同意する。その一方でクリスティーヌはエリックを哀れに思い、最後にエリックのために歌うまで出て行かないことに決める。しかしエリックがこれを盗み聞きし、強い嫉妬を抱いていることを、クリスティーヌもラウルも気付いていなかった。
翌日の夜、『ファウスト』上演中にエリックはついに、クリスティーヌを誘拐してオペラ座の地下深く消え、強引に結婚しようとする。もし拒否すれば地下室に仕掛けた爆弾を爆発させオペラ座を破壊すると脅すが、クリスティーヌは拒否する。残されたラウルは元ダロガ(ペルシャ語で国家警察の長官という意味)の謎のペルシャ人と共に、クリスティーヌを取り戻すためオペラ座の地下のエリックの隠れ家へと潜入するが、辿り着いた先は侵入者用の拷問部屋だった。エリックはこれに気づき、ペルシャ人とラウルに、合わせ鏡のトリックと赤道直下の様な高温による拷問を始める。そのため彼らと地上の人々を守るべく、クリスティーヌはエリックと結婚することに合意する。そして仕掛けが作動し消火用水が爆薬を水没させるが、その水はそのまま拷問部屋に流れ込む仕掛けになっていた。エリックはそのままラウルとダロガを水死させようとするが、それに気づいたクリスティーヌは、自らの命を絶たずにエリックの「生ける花嫁」となる事に同意するのでラウルを殺さないようエリックに懇願する。エリックは拷問部屋からラウルとダロガを出す。エリックはダロガを地上に帰すものの、ラウルは解放せず地下の奥深くに監禁する。隠れ家に戻ったエリックは、クリスティーヌが自分を待っていた事、近づいても逃げたりせず額にキスをさせてくれた事に感極まって涙を流し、彼女の足元に崩れ落ちる。クリスティーヌは「可哀想で不幸なエリック」と言って涙を流す。エリックは、母親さえも自分にキスをさせてくれた事は無かったと後にダロガに明かす。エリックは2人を解放することを決め、ラウルの監禁を解く。エリックの家で再会したラウルとクリスティーヌは喜び抱き合う。エリックは、自分が死んだらクリスティーヌが訪問して遺体を埋葬し、その際クリスティーヌに渡した金の指輪を遺体の指にはめてくれるよう約束させる。去り際、クリスティーヌはエリックの額にキスをして隠れ家を後にする。しばらくしてエリックはダロガを訪問し、拷問後の一連の出来事を彼に話し、最後が間近になったら合図に遺品を送るので、新聞に自分の死を伝える記事を載せてくれるように頼む。三週間後、レポック紙に「エリック死亡」の記事が掲載された。
登場人物
エリック: オペラ座の怪人、音楽の天使、オペラ・ゴースト。オペラ座で暗躍する人物。万能の天才だが、生まれつき骸骨のように醜い容貌を持つ。
クリスティーヌ・ダーエ: パリ国立オペラの若く美しいスウェーデン人ソプラノ歌手。怪人が恋をする。
ラウル・シャニュイ子爵: クリスティーヌの幼馴染の美青年。彼女と互いに恋するが、エリックが原因で亀裂が生じかける。
ペルシア人: エリックの過去を知る謎の男。エリックと異なり良識派。エリックと旧知の仲だが、彼の悪事をあまりよく思っていない。
フィリップ・シャニュイ伯爵: ラウルの兄。弟と異なり良識派の中年男性。クリスティーヌのことで暴走する弟を心配している。
アマンド・モンチャミン、ファーミン・リチャード: オペラ座の新しいマネージャー、怪人の要求に悩まされる日々を送る。
マダム・ジリー: リトル・メグの母、ボックス席案内員。エリックの知り合いの1人。
メグ・ジリー: マダム・ジリーの一人娘のバレリーナ。のちのカストロ・バルベザク男爵夫人。
デビエンヌ、ポリグニー: オペラ座の元マネージャー。かつてエリックの要求に苦しめられていたため、我慢の限界が来て引退しモンチャミンとリチャードにオペラ座の支配人の座を引き渡した。
ジョセフ・ブケー: 道具係チーフ、怪人の顔を見たため冒頭で彼に殺される。
カルロッタ: 我儘なプリマドンナ。パリ国立オペラのリード・ソプラノ。クリスティーヌを毛嫌いしている。
メルシエ: オペラ座の舞台装置マネージャー。
ガブリエル: 迷信的なコーラス・マスター。
ミフロイド: クリスティーヌが行方不明になった時に呼ばれた警視。クリスティーヌの失踪をシャニュイ兄弟のいざこざの巻き添えと決めてかかる。
レミー: マネージャーの秘書
警部補: 5番ボックス席の異変を捜査するために雇われた警部補。
ショー・サルタン: エリックがかつて設計した宮殿に住む王で、彼を殺そうとする。
ソレリ: リード・バレリーナ。フィリップと深い仲で、彼と行動を共にする。
リトル・ジャミス: オペラ座で語られるバレリーナ。
マダム・ヴァレリアス: クリスティーヌの保護者である人物。


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