鳥山石燕

生涯
正徳2年(1712年)頃に幕府の御坊主の家に生まれた。姓は佐野(さの)、諱は豊房(とよふさ)。字は不詳。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。

狩野派門人として狩野周信(かのう ちかのぶ。cf.)および玉燕に付いて絵を学び、御用絵師であったと伝わるが、詳しい事蹟は不明な点も多い。俳諧は東流斎燕志の門人であった。

画業としては肉筆作品(美人画など)や鬼子母神(東京都雑司ヶ谷)の『大森彦七図』、円融寺(埼玉県秩父市)の『景清牢破りの図』などの奉納額が主なものであった。奉納額の絵に歌舞伎役者の似顔を用いたことで評判をあつめた。浮世絵師のひとりと目されているが美人画や役者絵として版行された錦絵作品(一枚絵)はほとんど確認されておらず、版本としての作品が多い。浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を発明し版本にはじめて利用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』とも・1774年)であると伝えられている。
俳人としても広く活動し、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。

弟子は多く著名な人物では、喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜、歌川豊春などを育てており、のちにそれぞれ浮世絵師・戯作者などとして大きく成長している。

安永5年(1776年)に版本として刊行された妖怪画集『画図百鬼夜行』が高評を得て、3年後の安永8年(1779年)には続篇として『今昔画図続百鬼』を刊行。以後さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した。

天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。

妖怪画
鳥山石燕は壮年以後に出版された『画図百鬼夜行』をはじめとする版本で特にその名を知られるようになり、代表作となる。石燕の描く妖怪画は、後年葛飾北斎や歌川豊国・歌川豊広が合巻や読本などで描いている恐怖心や嗜虐性をいたずらにかきたてる種類のものではなく、『百鬼夜行絵巻』などの妖怪絵巻や赤本の「化物づくし」などに見られてきた、むしろ微笑みや奇妙さを誘う作風であるのが特徴である。
石燕の妖怪画は後世の画家たちにも多くの影響を与えており、石燕による作品がそのまま「妖怪」そのものを示すデザインとして用いられたりすることも多い。

昭和以降の日本あるいは日本人のもつ妖怪のイメージは漫画家・水木しげるに拠るところも大きいが、水木自身も妖怪画を石燕作品に取材したものが多く、日本人の思い描く妖怪の一角は水木を経ても石燕の著作によって大きく占められている。

俳人としても広く活動し、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。

松尾芭蕉
松尾芭蕉は、江戸時代前期の1644年(寛永21年)に伊賀国上野(いがのくにうえの:現在の三重県伊賀市)で農家の次男として誕生。

13歳で父と死に別れたため生活は苦しく、19歳で津藩(つはん:現在の三重県津市)の藩主「藤堂良勝」(とうどうよしかつ)の七男「藤堂良忠」(とうどうよしただ)の奉公人となりました。

実は、2歳年上の藤堂良忠とは幼い頃からお寺で机を並べて勉強した間柄。ともに俳句好きで気が合う友人同士でした。

松尾芭蕉は藤堂良忠の引き立てにより、句会にも参加。藩主の御曹司と貧しい農民の子では大きな身分差がありますが、俳句を通して対等に心が通じ合ったのです。

江戸で俳人を目指す
ところが、主人の藤堂良忠が25歳の若さで急死。松尾芭蕉は仕事を失ったものの、俳句だけは休むことなく続けて数々の作品を発表しました。
次第に実力が認められたため、江戸へ出て本格的な俳人になろうと決意します。松尾芭蕉が29歳のとき、地元の俳人30数名が左右に分かれ、各組ひとつずつ句を出し合って優劣を競うという句会が開催されました。

このとき、勝敗の判定を行った松尾芭蕉は、その内容を「貝おほひ」(かいおおい)という本にまとめ、「上野天神宮」(うえのてんじんぐう:三重県伊賀市)へ奉納。松尾芭蕉による初の俳諧集でした。これを置き土産に、松尾芭蕉は念願の江戸へ旅立ちます。

35歳で俳人として開花
江戸へ出た松尾芭蕉は日本橋に居を構えますが、まだ俳句だけでは生計を立てられず、水道工事の事務など様々な仕事に就きました。

32歳になった松尾芭蕉は、大坂から来た人気俳人「西山宗因」(にしやまそういん)の句会に招かれます。西山宗因は、革新的な俳句を作る談林派(だんりんは)のトップ。

その後しばらく、松尾芭蕉も談林調の俳句に傾倒しています。師匠の地位である、俳諧宗匠(はいかいそうしょう)となったのは35歳のとき。こうして松尾芭蕉はようやく一人前の俳人として世間に認められ、弟子も増えて、俳句一本で食べていけるようになったのです。

芭蕉庵の誕生
松尾芭蕉は37歳のときに深川村(ふかがわむら:現在の東京都江東区)の庵(いおり:草や竹で作った質素な住まい)へ転居。江戸の中心から不便で寂しい郊外へ移ると、ここから松尾芭蕉の真骨頂が発揮されます。

引越祝いに、「李下」(りか)という弟子がバナナの仲間である観葉植物・芭蕉(ばしょう)を庵に植えました。楕円形の大きな葉が特徴の芭蕉はやがて庵のシンボルとなり、人々はそこを「芭蕉庵」と呼んだことから松尾芭蕉の俳号が誕生したと言われます。
ある春の日、門人達が芭蕉庵に集まり、蛙(かえる)を主題に句を詠み合う催し「蛙合」(かわずあわせ)が行われました。このとき、松尾芭蕉の代表作「古池や かわず飛び込む 水の音」が生まれます。蛙と言えば鳴き声を詠むものという、常識的なパターンをひっくり返し、水の音を表現した画期的な句でした。

晩年は旅がライフワーク
松尾芭蕉は41歳の秋に関西へ旅行して以来、亡くなるまでの10年間、旅を重ねて多くの旅行記を残しました。最後の旅に出たのは1694年(元禄7年)5月。

松尾芭蕉は故郷の兄に完成したばかりの「奥の細道」を手渡し、京都や滋賀でなじみの人々と旧交を温めます。江戸へ戻ろうとした矢先、大坂の弟子の間で争いが起きたと聞き、仲裁へ出向きました。ところが到着して間もなく体調を崩し、病の床へ。

「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という辞世の句を残して息を引き取ります。享年は51歳。松尾芭蕉の遺言に従い、「義仲寺」(ぎちゅうじ:滋賀県大津市)に葬られました。

松尾芭蕉の作品
野ざらし紀行
1684年(貞享元年)、松尾芭蕉は弟子の「千里」(ちり)を伴い、名古屋から故郷・上野を通って近畿一円を巡る旅に出ました。里帰りをかねたこの旅の記録が「野ざらし紀行」です。
「死にもせぬ 旅寝の果てよ 秋の暮れ」の句には、野ざらし(遺体が風や雨にさらされて白骨になること)を覚悟で旅立ったのに、死にもせず幸運だったという意味。旅の間に松尾芭蕉は各地で門人を増やし、旅を日常とする暮らしに自信を持つようになったと言われます。

笈の小文・更科紀行
1687年(貞享4年)、松尾芭蕉は、東海道を通って伊勢へ向かう「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出発。名古屋、上野、奈良、大坂、伊勢、明石などを巡りました。

途中、父の33回忌法要にも参加。「ちちははの しきりに恋し きじの声」と、早世した父と死に目に会えなかった母への思いを詠みます。

復路は木曽路から信州に入り、棚田に映る田毎(たごと)の月で有名な姨捨山(おばすてやま)の夜景に感動。帰りの旅行記は「更科紀行」(さらしなきこう)にまとめられました。

奥の細道
「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」(月日は永遠の旅人であり、行く年来る年もまた旅人である)の有名な一文で始まる奥の細道は、松尾芭蕉の代表作。46歳になった1689年(元禄2年)、弟子の「曽良」(そら)を同行させ出発。

東北地方から北陸を南下して、岐阜県大垣に至る155日間2,400kmの旅でした。松尾芭蕉は行く先々で俳句を詠んだり、句会を開いたりして人々と交流を深めます。

奥州平泉(おうしゅうひらいずみ:現在の岩手県西磐井郡)の奥州藤原氏三代に思いを寄せた「夏草や つはものどもが 夢のあと」や、「しづかさや 岩にしみ入る せみの声」、「さみだれを 集めてはやし 最上川」など、名所旧跡をたどりながら多くの名句を詠みました。
松尾芭蕉の逸話
松尾芭蕉忍者説
松尾芭蕉の生まれ故郷である伊賀国上野は、忍者で有名な地。若い頃に松尾芭蕉が仕えた藤堂家の津藩には、忍者として知られる「服部半蔵」(はっとりはんぞう)一族の子孫がいたため、松尾芭蕉もここで忍者の技を学んだとの説があります。

また奥の細道には、江戸幕府の命を受け隠密(おんみつ:命を受けて諜報活動を行う者)として東北の様子を調査するという裏の目的があったという説も。しかしいずれも信憑性に欠け、それを裏付ける証拠はありません。

3代目まで建築された芭蕉庵
人生後半を旅に費やした松尾芭蕉は、身軽な暮らしを信条としていました。江戸の大火が飛び火して最初の芭蕉庵は焼失しますが、50人以上の知人、弟子達が基金を出し合い再建。しかし松尾芭蕉は奥の細道の旅に出る前、2代目芭蕉庵を人に譲ってしまいました。

松尾芭蕉が江戸に戻ってくると、弟子達は再びお金を出し合ってもとの芭蕉庵の近くに3代目の芭蕉庵を建築。しかし最後の旅先で客死したため、住んだ期間はわずかでした。

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