池田恒興の歴史
「池田恒興」(いけだつねおき)は、「織田信長」と密接な関係にあり、歴史的な戦いにも関連した人物。2014年(平成26年)に地上波テレビで放送されたコミック原作のドラマ「信長協奏曲」では、俳優の「向井理」さんが池田恒興を演じています。織田信長の生涯をはじめ、「桶狭間の戦い」や「清須会議」(きよすかいぎ)などを語る際には、池田恒興を外すことができません。この池田恒興について詳しく解説します。
池田恒興の生涯
池田恒興と織田信長の関係
池田恒興と織田信長は乳兄弟(ちきょうだい)の関係でした。
池田恒興の父親である「池田恒利」(いけだつねとし)没後、池田恒興の実母であった「養徳院」(ようとくいん)が、織田信長の父親「織田信秀」(おだのぶひで)の乳母になったためです。
そのため、両者には直接的な血縁関係はありませんが池田恒興と織田信長はとても身近な存在となりました。
それを裏付けるように、池田恒興が10歳ごろになると、織田信長に小姓として仕えています。
桶狭間の戦いにおける活躍
織田信長が劣勢とされる状況から大きな逆転を果たしたのが「桶狭間の戦い」。池田恒興はこの戦いの勝利にも大きく関係しています。
経験と兵力に大きな差があり、かつ身分も違う「今川義元」(いまがわよしもと)の軍に対して、まだ名前が広く知られていない織田信長では、多くの人が勝てると思っていませんでした。
戦力差が多大なため、勝つには籠城作戦を取るべきという意見が多く出ていた中で、池田恒興が提案したのが積極的に攻める奇襲作戦です。
この奇襲作戦を採用した織田信長は、今川義元を討ち取ることに成功。織田信長は「桶狭間の戦い」から全国に名前が一気に広がっていったため、池田恒興は織田信長の知名度上昇に大きく貢献した存在と言えます。また池田恒興自身も「桶狭間の戦い」に参加しています。
領主としての活躍
「桶狭間の戦い」以後、池田恒興は複数の城主を経験しています。きっかけは尾張地方(現在の愛知県西部)にある犬山城(愛知県犬山市)の城主「織田信清」(おだのぶきよ:織田信長の従兄弟)の敵対。1547年(天文16年)に、織田信長は犬山城を攻め落とします。そののち1570年(元亀元年)、池田恒興が犬山城の城主となったのです。
また、池田恒興は1574年(天正2年)には東美濃(現在の岐阜県南部)にある小里城、1579年(天正7年)には、摂津(現在の兵庫県南東部)にある有岡城の城主も務めています。
本能寺の変以後における活躍と清州会議
織田信長が「明智光秀」により奇襲を受けた「本能寺の変」ののち、「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)にも参加し、池田恒興は豊臣秀吉による明智光秀の討伐に力を貸しました。
さらに、織田信長の後継者を決める「清洲会議」に参加した重臣4名中のひとりにも選出。いかに織田信長に近い存在であったかが分かります。
清洲会議で池田恒興が支持したのは、織田信長の意志を継ぐ豊臣秀吉。しかしながら豊臣秀吉を強く推していたというわけでなく、「柴田勝家」(しばたかついえ)と豊臣秀吉が対立にあった際は、あくまで中立的な立場を取っていたそうです。
それでも豊臣秀吉から離れるということはなく、徳川家康と争った「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)では豊臣秀吉につきます。ただこの戦いにおいて自身の長男である「池田元助」(いけだもとすけ)と共に敗れて亡くなり、これが池田恒興の最後となってしまいました。
池田恒興の墓
「小牧・長久手の戦い」で敗れ、亡くなった池田恒興が池田元助と共に今も眠っているのは、岐阜県揖斐郡池田町本郷にある龍徳寺西側。他にも「小牧・長久手の戦い」で命を落とした武将を供養している忠烈塔(ちゅうれいとう)が設置されています。これは忠義をもって君主のために戦死した霊を称える塔です。
池田恒兴(1536年-1584年5月18日),父亲为池田恒利,母亲为养德院。恒利很早就过世,母亲则成为织田信长的乳母,后来又成为织田信秀的侧室,因此恒兴是信长的乳兄弟,长大后成为信长的家臣,同时也是家中第一亲信。
简介
池田恒兴,父亲为池田恒利,母亲为养德院。恒利很早就过世,母亲则成为织田信长的乳母,后来又成为织田信秀的侧室,因此恒兴从小就跟信长相处,长大后成为信长亲信的家臣。信长弟织田信时被其家老角田新五所杀后,恒兴娶其妻为正室。
生平
1560年的桶狭间之战时,恒兴因为对美浓的攻略而有战功。
1570年时,在姊川之战非常活跃,建有战功,受封为犬山城主。之后参加过对武田家的长筱会战、以及对荒木村重之战。
1580年时,拜领荒木村重原本的领地摄津有冈。
1582年本能寺之变后,随羽柴秀吉参加山崎会战,攻灭明智光秀;同年清州会议时,站在秀吉这一方,拥立三法师为织田家家督。
1583年,成为美浓国大垣城主。
1584年发生小牧长久手之战,与三好秀次(即后来的丰臣秀次)准备要进攻三河时,遇到德川家康军队,在一番与永井传八郎直胜激战之后与其子池田元助双双战死,首级被安藤直次直胜取走。并在死前因敬佩对方武艺将佩刀筱雪赠予对方。法名“护国院雄岳宗英大居士”。
后来池田家由辉政继承,由于辉政后来娶德川家康之女为妻,仕途顺遂,奠定了池田家的基业。
「池田恒興」(いけだつねおき)は、「織田信長」と密接な関係にあり、歴史的な戦いにも関連した人物。2014年(平成26年)に地上波テレビで放送されたコミック原作のドラマ「信長協奏曲」では、俳優の「向井理」さんが池田恒興を演じています。織田信長の生涯をはじめ、「桶狭間の戦い」や「清須会議」(きよすかいぎ)などを語る際には、池田恒興を外すことができません。この池田恒興について詳しく解説します。
池田恒興の生涯
池田恒興と織田信長の関係
池田恒興と織田信長は乳兄弟(ちきょうだい)の関係でした。
池田恒興の父親である「池田恒利」(いけだつねとし)没後、池田恒興の実母であった「養徳院」(ようとくいん)が、織田信長の父親「織田信秀」(おだのぶひで)の乳母になったためです。
そのため、両者には直接的な血縁関係はありませんが池田恒興と織田信長はとても身近な存在となりました。
それを裏付けるように、池田恒興が10歳ごろになると、織田信長に小姓として仕えています。
桶狭間の戦いにおける活躍
織田信長が劣勢とされる状況から大きな逆転を果たしたのが「桶狭間の戦い」。池田恒興はこの戦いの勝利にも大きく関係しています。
経験と兵力に大きな差があり、かつ身分も違う「今川義元」(いまがわよしもと)の軍に対して、まだ名前が広く知られていない織田信長では、多くの人が勝てると思っていませんでした。
戦力差が多大なため、勝つには籠城作戦を取るべきという意見が多く出ていた中で、池田恒興が提案したのが積極的に攻める奇襲作戦です。
この奇襲作戦を採用した織田信長は、今川義元を討ち取ることに成功。織田信長は「桶狭間の戦い」から全国に名前が一気に広がっていったため、池田恒興は織田信長の知名度上昇に大きく貢献した存在と言えます。また池田恒興自身も「桶狭間の戦い」に参加しています。
領主としての活躍
「桶狭間の戦い」以後、池田恒興は複数の城主を経験しています。きっかけは尾張地方(現在の愛知県西部)にある犬山城(愛知県犬山市)の城主「織田信清」(おだのぶきよ:織田信長の従兄弟)の敵対。1547年(天文16年)に、織田信長は犬山城を攻め落とします。そののち1570年(元亀元年)、池田恒興が犬山城の城主となったのです。
また、池田恒興は1574年(天正2年)には東美濃(現在の岐阜県南部)にある小里城、1579年(天正7年)には、摂津(現在の兵庫県南東部)にある有岡城の城主も務めています。
本能寺の変以後における活躍と清州会議
織田信長が「明智光秀」により奇襲を受けた「本能寺の変」ののち、「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)にも参加し、池田恒興は豊臣秀吉による明智光秀の討伐に力を貸しました。
さらに、織田信長の後継者を決める「清洲会議」に参加した重臣4名中のひとりにも選出。いかに織田信長に近い存在であったかが分かります。
清洲会議で池田恒興が支持したのは、織田信長の意志を継ぐ豊臣秀吉。しかしながら豊臣秀吉を強く推していたというわけでなく、「柴田勝家」(しばたかついえ)と豊臣秀吉が対立にあった際は、あくまで中立的な立場を取っていたそうです。
それでも豊臣秀吉から離れるということはなく、徳川家康と争った「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)では豊臣秀吉につきます。ただこの戦いにおいて自身の長男である「池田元助」(いけだもとすけ)と共に敗れて亡くなり、これが池田恒興の最後となってしまいました。
池田恒興の墓
「小牧・長久手の戦い」で敗れ、亡くなった池田恒興が池田元助と共に今も眠っているのは、岐阜県揖斐郡池田町本郷にある龍徳寺西側。他にも「小牧・長久手の戦い」で命を落とした武将を供養している忠烈塔(ちゅうれいとう)が設置されています。これは忠義をもって君主のために戦死した霊を称える塔です。
池田恒兴(1536年-1584年5月18日),父亲为池田恒利,母亲为养德院。恒利很早就过世,母亲则成为织田信长的乳母,后来又成为织田信秀的侧室,因此恒兴是信长的乳兄弟,长大后成为信长的家臣,同时也是家中第一亲信。
简介
池田恒兴,父亲为池田恒利,母亲为养德院。恒利很早就过世,母亲则成为织田信长的乳母,后来又成为织田信秀的侧室,因此恒兴从小就跟信长相处,长大后成为信长亲信的家臣。信长弟织田信时被其家老角田新五所杀后,恒兴娶其妻为正室。
生平
1560年的桶狭间之战时,恒兴因为对美浓的攻略而有战功。
1570年时,在姊川之战非常活跃,建有战功,受封为犬山城主。之后参加过对武田家的长筱会战、以及对荒木村重之战。
1580年时,拜领荒木村重原本的领地摄津有冈。
1582年本能寺之变后,随羽柴秀吉参加山崎会战,攻灭明智光秀;同年清州会议时,站在秀吉这一方,拥立三法师为织田家家督。
1583年,成为美浓国大垣城主。
1584年发生小牧长久手之战,与三好秀次(即后来的丰臣秀次)准备要进攻三河时,遇到德川家康军队,在一番与永井传八郎直胜激战之后与其子池田元助双双战死,首级被安藤直次直胜取走。并在死前因敬佩对方武艺将佩刀筱雪赠予对方。法名“护国院雄岳宗英大居士”。
后来池田家由辉政继承,由于辉政后来娶德川家康之女为妻,仕途顺遂,奠定了池田家的基业。
福田村事件 (2023)丨7.6分
【支援】:https://t.cn/A6YlfTRj
导演: 森达也
编剧: 佐伯俊道 / 荒井晴彦 / 井上淳一
主演: 井浦新 / 田中丽奈 / 永山瑛太 / 东出昌大 / 柄本明 / 更多...
类型: 剧情
制片国家/地区: 日本
语言: 日语
上映日期: 2023-09-01(日本)
片长: 137分钟
又名: People’s Violence / SEPTEMBER 1923
IMDb: tt28803217
剧情简介
福田村事件は1923年の震災当時、薬売りの行商人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺された事件。現在の千葉県野田市に存在した福田村三ツ堀の利根川で発生し、犠牲者は香川県の被差別部落出身者だった。各地で発生した朝鮮人虐殺は知られているが、少なくない数の中国人や日本人も殺されたことは歴史に埋もれているのが現状だ。
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导演: 森达也
编剧: 佐伯俊道 / 荒井晴彦 / 井上淳一
主演: 井浦新 / 田中丽奈 / 永山瑛太 / 东出昌大 / 柄本明 / 更多...
类型: 剧情
制片国家/地区: 日本
语言: 日语
上映日期: 2023-09-01(日本)
片长: 137分钟
又名: People’s Violence / SEPTEMBER 1923
IMDb: tt28803217
剧情简介
福田村事件は1923年の震災当時、薬売りの行商人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺された事件。現在の千葉県野田市に存在した福田村三ツ堀の利根川で発生し、犠牲者は香川県の被差別部落出身者だった。各地で発生した朝鮮人虐殺は知られているが、少なくない数の中国人や日本人も殺されたことは歴史に埋もれているのが現状だ。
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尉繚子 戦せん威い第四
凡兵、有以道勝、有以威勝、有以力勝。講武料敵、使敵之氣失而師散、雖形全而不爲之用。此道勝也。
凡およそ兵へいは、道みちを以もって勝かつ有あり、威いを以もって勝かつ有あり、力ちからを以もって勝かつ有あり。武ぶを講こうじ敵てきを料はかり、敵てきの気きをして失うしないて師し散さんじ、形かたち全まったしと雖いえども之これが用ようを為なさざらしむ。此これ道みち勝かつなり。
審法制、明賞罰、便器用、使民有必戰之心。此威勝也。破軍殺將、乗闉發機、潰衆奪地、成功乃返。此力勝也。王侯知此所以三勝者、畢矣。
法制ほうせいを審つまびらかにし、賞しょう罰ばつを明あきらかにし、器き用ようを便べんにし、民たみをして必戦ひっせんの心こころ有あらしむ。此これ威い勝かつなり。軍ぐんを破やぶり将しょうを殺ころし、闉いんに乗じょうじ機きを発はっし、衆しゅうを潰ついやし地ちを奪うばい、功こうを成なして乃すなわち返かえる。此これ力ちからの勝しょうなり。王侯おうこう、此この三さん勝しょうする所以ゆえんの者ものを知しれば、畢おわんぬ。
夫將之所以戰者、民也。民之所以戰者、氣也。氣實則闘、氣奪則走。刑未加、兵未接、而所以奪敵者五。
夫それ将しょうの戦たたかう所以ゆえんの者ものは、民たみなり。民たみの戦たたかう所以ゆえんの者ものは、気きなり。気き、実みつれば則すなわち闘たたかい、気き、奪うばわるれば則すなわち走はしる。刑けい未いまだ加くわえず、兵へい未いまだ接まじえずして、敵てきを奪うばう所以ゆえんの者もの五いつつあり。
一曰、廟勝之論。二曰、受命之論。三曰、踰垠之論。四曰、深溝高壘之論。五曰、舉陳加刑之論。
一いちに曰いわく、廟勝びょうしょうの論ろん。二にに曰いわく、受命じゅめいの論ろん。三さんに曰いわく、踰ゆ垠ぎんの論ろん。四しに曰いわく、深溝しんこう高塁こうるいの論ろん。五ごに曰いわく、挙陣きょじん加か刑けいの論ろん。
此五者、先料敵而後動、是以撃虚奪之也。善用兵者、能奪人而不奪於人。
此この五いつつの者ものは、先まず敵てきを料はかりて後のち動うごき、是ここを以もって虚きょを撃うちて之これを奪うばうなり。善よく兵へいを用もちうる者ものは、能よく人ひとを奪うばいて人ひとに奪うばわれず。
奪者、心之機也。令者、一衆心也。衆不審、則數變。數變、則令雖出、衆不信矣。
奪うばうは、心こころの機きなり。令れいは、衆しゅうの心こころを一いつにするなり。衆しゅう、審つまびらかにせざれば、則すなわち数〻しばしば変へんず。数〻しばしば変へんずれば、則すなわち令れい出いづと雖いえども、衆しゅう、信しんぜず。
故令之之法、小過無更、小疑無中。
故ゆえに之これに令れいするの法ほうは、小しょう過かも更あらたむること無なく、小しょう疑ぎは中ちゅうすること無なかれ。
故上無疑令、則衆不二聽。動無疑事、則衆不二志。未有不信其心而能得其力者也。未有不得其力而能致其死戰者也。
故ゆえに上かみに疑ぎ令れいなければ、則すなわち衆しゅう、聴きくを二ふたつにせず。動うごくに疑事ぎじ無なければ、則すなわち衆しゅう、志こころざしを二ふたつにせず。未いまだ其その心こころを信しんぜずして能よく其その力ちからを得うる者ものは有あらざるなり。未いまだ其その力ちからを得えずして能よく其その死し戦せんを致いたす者ものは有あらざるなり。
故國必有禮信親愛之義、則可以飢易飽、國必有孝慈廉耻之俗、則可以死易生。古者率民、必先禮信而後爵禄、先廉耻而後刑罰、先親愛而後律其身。
故ゆえに国くにに必かならず礼信れいしん親愛しんあいの義ぎ有あらば、則すなわち飢きを以もって飽ほうに易かう可べく、国くにに必かならず孝こう慈じ廉れん恥ちの俗ぞく有あらば、則すなわち死しを以もって生せいに易かう可べし。古いにしえは民たみを率ひきいるに、必かならず礼信れいしんを先さきにして爵しゃく禄ろくを後あとにし、廉れん恥ちを先さきにして刑罰けいばつを後あとにし、親愛しんあいを先さきにして其その身みを律りっするを後あとにす。
故戰者、必本乎率身以勵衆士、如心之使四肢也。志不勵則士不死節。士不死節則衆不戰。
故ゆえに戦たたかいは、必かならず身みを率ひきいて以もって衆しゅう士しを励はげますに本もとづき、心こころの四肢ししを使つかうが如ごとし。志こころざし、励はげまさざれば、則すなわち士し、節せつに死しせず。士し、節せつに死しせざれば、則すなわち衆しゅう、戦たたかわず。
勵士之道、民之生不可不厚也。爵列之等、死喪之親、民之所營、不可不顯也。必也因民所生而制之、因民所營而顯之。
士しを励はげますの道みち、民たみの生せいは厚あつくせざる可べからざるなり。爵しゃく列れつの等とう、死し喪そうの親しん、民たみの営いとなむ所ところは、顕あらわさざる可べからざるなり。必かならずや民たみの生いくる所ところに因よりて之これを制せいし、民たみの営いとなむ所ところに因よりて之これを顕あらわす。
田禄之實、飲食之親、郷里相勸、死喪相救、兵役相從、此民之所勵也。使什伍如親戚、卒伯如朋友、止如堵牆、動如風雨、車不結轍、士不旋踵、此本戰之道也。
田禄でんろくの実じつ、飲いん食しょくの親しん、郷きょう里り相あい勧つとめ、死し喪そう相あい救すくい、兵役へいえき相あい従したがう、此これ民たみの励はげむ所ところなり。什じゅう伍ごは親戚しんせきの如ごとく、卒伯そつはくは朋友ほうゆうの如ごとく、止とどまること堵と牆しょうの如ごとく、動うごくこと風ふう雨うの如ごとく、車くるまは轍わだちを結むすばず、士しは踵きびすを旋めぐらさざらしむ。此これ本戦ほんせんの道みちなり。
地所以養民也。城所以守地也。戰所以守城也。故務耕者民不飢。務守者地不危。務戰者城不圍。三者先王之本務也。本務者、兵最急。
地ちは民たみを養やしなう所以ゆえんなり。城しろは地ちを守まもる所以ゆえんなり。戦たたかいは城しろを守まもる所以ゆえんなり。故ゆえに耕こうを務つとむれば民たみ飢うえず。守まもりを務つとむれば地ち危あやうからず。戦たたかいを務つとむれば城しろ囲かこまれず。三みつの者ものは先王せんおうの本ほん務むなり。本ほん務むは兵へい最もっとも急きゅうなり。
故先王專於兵有五焉。委積不多則士不行。賞禄不厚則民不勸。武士不選則衆不強。器用不備則力不壯。刑賞不中則衆不畏。
故ゆえに先王せんおう、兵へいに専もっぱらにすること、五いつつ有あり。委積いし多おおからざれば則すなわち士し行ゆかず。賞しょう禄ろく厚あつからざれば則すなわち民たみ勧すすまず。武士ぶし選えらばざれば則すなわち衆しゅう強つよからず。器き用よう備そなわらざれば則すなわち力ちから壮そうならず。刑けい賞しょう中あたらざれば則すなわち衆しゅう畏おそれず。
務此五者、靜能守其所固、動能成其所欲。夫以居攻出、則居欲重、陣欲堅、發欲畢、闘欲齊。
此この五ごつの者ものを務つとむれば、静せいなれば能よく其その固かたき所ところを守まもり、動どうなれば能よく其その欲ほっする所ところを成なす。夫それ居きょを以もって攻こうの出いづるには、則すなわち居きょは重おもからんことを欲ほっし、陣じんは堅かたからんことを欲ほっし、発はつは畢つくさんことを欲ほっし、闘とうは斉ひとしからんことを欲ほっす。
王國冨民、霸國冨士、僅存之國冨大夫、亡國冨倉府。所謂上滿下漏、患無所救。
王国おうこくは民たみを富とまし、覇は国こくは士しを富とまし、僅わずかに存そんするの国くには大たい夫ふを富とまし、亡国ぼうこくは倉そう府ふを富とます。所謂いわゆる上かみ満みちて下しも漏もるるは、患わざわい救すくう所ところ無なし。
故曰、舉賢任能、不時日而事利。明法審令、不卜筮而獲吉、貴功養勞、不禱祠而得福。
故ゆえに曰いわく、賢けんを挙あげ能のうを任にんずれば、時じ日じつならずして事こと、利りあり。法ほうを明あきらかにし令れいを審つまびらかにすれば、卜筮ぼくぜいせずして吉きつを獲え、功こうを貴たっとび労ろうを養やしなえば、禱とう祠しせずして福ふくを得う、と。
又曰、天時不如地利、地利不如人和。聖人所貴、人事而已。
又また曰いわく、天てんの時ときは地ちの利りに如しかず、地ちの利りは人ひとの和わに如しかず、と。聖人せいじんの貴たっとぶ所ところは、人じん事じのみ。
夫勤勞之師、將必先己。暑不張蓋、寒不重衣、險必下歩、軍井成而後飲、軍食熟而後飯、軍壘成而後舎、勞佚必以身同之。如此、師雖久而不老不弊。
夫それ勤労きんろうの師しは、将しょう必かならず己おのれを先さきにす。暑あつさにも蓋かさを張はらず、寒さむさにも衣いを重かさねず、険けんには必かならず下くだりて歩あるき、軍井ぐんせい成なりて後のちに飲のみ、軍ぐん食しょく熟じゅくして後のちに飯はんし、軍塁ぐんるい成なりて後のちに舎しゃし、労佚ろういつ必かならず身みを以もって之これを同おなじくす。此かくの如ごとくんば、師し久ひさしと雖いえども、老ろうせず弊へいせず。
凡兵、有以道勝、有以威勝、有以力勝。講武料敵、使敵之氣失而師散、雖形全而不爲之用。此道勝也。
凡およそ兵へいは、道みちを以もって勝かつ有あり、威いを以もって勝かつ有あり、力ちからを以もって勝かつ有あり。武ぶを講こうじ敵てきを料はかり、敵てきの気きをして失うしないて師し散さんじ、形かたち全まったしと雖いえども之これが用ようを為なさざらしむ。此これ道みち勝かつなり。
審法制、明賞罰、便器用、使民有必戰之心。此威勝也。破軍殺將、乗闉發機、潰衆奪地、成功乃返。此力勝也。王侯知此所以三勝者、畢矣。
法制ほうせいを審つまびらかにし、賞しょう罰ばつを明あきらかにし、器き用ようを便べんにし、民たみをして必戦ひっせんの心こころ有あらしむ。此これ威い勝かつなり。軍ぐんを破やぶり将しょうを殺ころし、闉いんに乗じょうじ機きを発はっし、衆しゅうを潰ついやし地ちを奪うばい、功こうを成なして乃すなわち返かえる。此これ力ちからの勝しょうなり。王侯おうこう、此この三さん勝しょうする所以ゆえんの者ものを知しれば、畢おわんぬ。
夫將之所以戰者、民也。民之所以戰者、氣也。氣實則闘、氣奪則走。刑未加、兵未接、而所以奪敵者五。
夫それ将しょうの戦たたかう所以ゆえんの者ものは、民たみなり。民たみの戦たたかう所以ゆえんの者ものは、気きなり。気き、実みつれば則すなわち闘たたかい、気き、奪うばわるれば則すなわち走はしる。刑けい未いまだ加くわえず、兵へい未いまだ接まじえずして、敵てきを奪うばう所以ゆえんの者もの五いつつあり。
一曰、廟勝之論。二曰、受命之論。三曰、踰垠之論。四曰、深溝高壘之論。五曰、舉陳加刑之論。
一いちに曰いわく、廟勝びょうしょうの論ろん。二にに曰いわく、受命じゅめいの論ろん。三さんに曰いわく、踰ゆ垠ぎんの論ろん。四しに曰いわく、深溝しんこう高塁こうるいの論ろん。五ごに曰いわく、挙陣きょじん加か刑けいの論ろん。
此五者、先料敵而後動、是以撃虚奪之也。善用兵者、能奪人而不奪於人。
此この五いつつの者ものは、先まず敵てきを料はかりて後のち動うごき、是ここを以もって虚きょを撃うちて之これを奪うばうなり。善よく兵へいを用もちうる者ものは、能よく人ひとを奪うばいて人ひとに奪うばわれず。
奪者、心之機也。令者、一衆心也。衆不審、則數變。數變、則令雖出、衆不信矣。
奪うばうは、心こころの機きなり。令れいは、衆しゅうの心こころを一いつにするなり。衆しゅう、審つまびらかにせざれば、則すなわち数〻しばしば変へんず。数〻しばしば変へんずれば、則すなわち令れい出いづと雖いえども、衆しゅう、信しんぜず。
故令之之法、小過無更、小疑無中。
故ゆえに之これに令れいするの法ほうは、小しょう過かも更あらたむること無なく、小しょう疑ぎは中ちゅうすること無なかれ。
故上無疑令、則衆不二聽。動無疑事、則衆不二志。未有不信其心而能得其力者也。未有不得其力而能致其死戰者也。
故ゆえに上かみに疑ぎ令れいなければ、則すなわち衆しゅう、聴きくを二ふたつにせず。動うごくに疑事ぎじ無なければ、則すなわち衆しゅう、志こころざしを二ふたつにせず。未いまだ其その心こころを信しんぜずして能よく其その力ちからを得うる者ものは有あらざるなり。未いまだ其その力ちからを得えずして能よく其その死し戦せんを致いたす者ものは有あらざるなり。
故國必有禮信親愛之義、則可以飢易飽、國必有孝慈廉耻之俗、則可以死易生。古者率民、必先禮信而後爵禄、先廉耻而後刑罰、先親愛而後律其身。
故ゆえに国くにに必かならず礼信れいしん親愛しんあいの義ぎ有あらば、則すなわち飢きを以もって飽ほうに易かう可べく、国くにに必かならず孝こう慈じ廉れん恥ちの俗ぞく有あらば、則すなわち死しを以もって生せいに易かう可べし。古いにしえは民たみを率ひきいるに、必かならず礼信れいしんを先さきにして爵しゃく禄ろくを後あとにし、廉れん恥ちを先さきにして刑罰けいばつを後あとにし、親愛しんあいを先さきにして其その身みを律りっするを後あとにす。
故戰者、必本乎率身以勵衆士、如心之使四肢也。志不勵則士不死節。士不死節則衆不戰。
故ゆえに戦たたかいは、必かならず身みを率ひきいて以もって衆しゅう士しを励はげますに本もとづき、心こころの四肢ししを使つかうが如ごとし。志こころざし、励はげまさざれば、則すなわち士し、節せつに死しせず。士し、節せつに死しせざれば、則すなわち衆しゅう、戦たたかわず。
勵士之道、民之生不可不厚也。爵列之等、死喪之親、民之所營、不可不顯也。必也因民所生而制之、因民所營而顯之。
士しを励はげますの道みち、民たみの生せいは厚あつくせざる可べからざるなり。爵しゃく列れつの等とう、死し喪そうの親しん、民たみの営いとなむ所ところは、顕あらわさざる可べからざるなり。必かならずや民たみの生いくる所ところに因よりて之これを制せいし、民たみの営いとなむ所ところに因よりて之これを顕あらわす。
田禄之實、飲食之親、郷里相勸、死喪相救、兵役相從、此民之所勵也。使什伍如親戚、卒伯如朋友、止如堵牆、動如風雨、車不結轍、士不旋踵、此本戰之道也。
田禄でんろくの実じつ、飲いん食しょくの親しん、郷きょう里り相あい勧つとめ、死し喪そう相あい救すくい、兵役へいえき相あい従したがう、此これ民たみの励はげむ所ところなり。什じゅう伍ごは親戚しんせきの如ごとく、卒伯そつはくは朋友ほうゆうの如ごとく、止とどまること堵と牆しょうの如ごとく、動うごくこと風ふう雨うの如ごとく、車くるまは轍わだちを結むすばず、士しは踵きびすを旋めぐらさざらしむ。此これ本戦ほんせんの道みちなり。
地所以養民也。城所以守地也。戰所以守城也。故務耕者民不飢。務守者地不危。務戰者城不圍。三者先王之本務也。本務者、兵最急。
地ちは民たみを養やしなう所以ゆえんなり。城しろは地ちを守まもる所以ゆえんなり。戦たたかいは城しろを守まもる所以ゆえんなり。故ゆえに耕こうを務つとむれば民たみ飢うえず。守まもりを務つとむれば地ち危あやうからず。戦たたかいを務つとむれば城しろ囲かこまれず。三みつの者ものは先王せんおうの本ほん務むなり。本ほん務むは兵へい最もっとも急きゅうなり。
故先王專於兵有五焉。委積不多則士不行。賞禄不厚則民不勸。武士不選則衆不強。器用不備則力不壯。刑賞不中則衆不畏。
故ゆえに先王せんおう、兵へいに専もっぱらにすること、五いつつ有あり。委積いし多おおからざれば則すなわち士し行ゆかず。賞しょう禄ろく厚あつからざれば則すなわち民たみ勧すすまず。武士ぶし選えらばざれば則すなわち衆しゅう強つよからず。器き用よう備そなわらざれば則すなわち力ちから壮そうならず。刑けい賞しょう中あたらざれば則すなわち衆しゅう畏おそれず。
務此五者、靜能守其所固、動能成其所欲。夫以居攻出、則居欲重、陣欲堅、發欲畢、闘欲齊。
此この五ごつの者ものを務つとむれば、静せいなれば能よく其その固かたき所ところを守まもり、動どうなれば能よく其その欲ほっする所ところを成なす。夫それ居きょを以もって攻こうの出いづるには、則すなわち居きょは重おもからんことを欲ほっし、陣じんは堅かたからんことを欲ほっし、発はつは畢つくさんことを欲ほっし、闘とうは斉ひとしからんことを欲ほっす。
王國冨民、霸國冨士、僅存之國冨大夫、亡國冨倉府。所謂上滿下漏、患無所救。
王国おうこくは民たみを富とまし、覇は国こくは士しを富とまし、僅わずかに存そんするの国くには大たい夫ふを富とまし、亡国ぼうこくは倉そう府ふを富とます。所謂いわゆる上かみ満みちて下しも漏もるるは、患わざわい救すくう所ところ無なし。
故曰、舉賢任能、不時日而事利。明法審令、不卜筮而獲吉、貴功養勞、不禱祠而得福。
故ゆえに曰いわく、賢けんを挙あげ能のうを任にんずれば、時じ日じつならずして事こと、利りあり。法ほうを明あきらかにし令れいを審つまびらかにすれば、卜筮ぼくぜいせずして吉きつを獲え、功こうを貴たっとび労ろうを養やしなえば、禱とう祠しせずして福ふくを得う、と。
又曰、天時不如地利、地利不如人和。聖人所貴、人事而已。
又また曰いわく、天てんの時ときは地ちの利りに如しかず、地ちの利りは人ひとの和わに如しかず、と。聖人せいじんの貴たっとぶ所ところは、人じん事じのみ。
夫勤勞之師、將必先己。暑不張蓋、寒不重衣、險必下歩、軍井成而後飲、軍食熟而後飯、軍壘成而後舎、勞佚必以身同之。如此、師雖久而不老不弊。
夫それ勤労きんろうの師しは、将しょう必かならず己おのれを先さきにす。暑あつさにも蓋かさを張はらず、寒さむさにも衣いを重かさねず、険けんには必かならず下くだりて歩あるき、軍井ぐんせい成なりて後のちに飲のみ、軍ぐん食しょく熟じゅくして後のちに飯はんし、軍塁ぐんるい成なりて後のちに舎しゃし、労佚ろういつ必かならず身みを以もって之これを同おなじくす。此かくの如ごとくんば、師し久ひさしと雖いえども、老ろうせず弊へいせず。
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