《狂人日记》鲁迅(下)
七
わたしは彼等の手段を悟った。手取り早く殺してしまうことは、いやでもあるし、またやろうともしないのだ。罪祟りを恐れているから、衆みなの者が連絡を取って網を張り詰め、わたしに自害を迫っているのだ。四五日このかた往来の男女の様子を見ても、アニキの行動を見ても八九分通りは悟られて来た。一番都合のいいのは、帯を解いて梁はりに掛け、自分で縊くびれて死ねば彼等に殺人の罪名がないわけだ。そうすれば自然願いが通って皆大喜びで鼠泣きするだろう。しかし驚き恐れ憂い悲しんで死んでも、いくらか痩せるくらいでまんざら役に立たないことはない。
彼等は死肉を食べつつある!――何かの本に書いてあったことを想い出したが、「海乙那かいおつな」という一種の代物がある。眼光めつきと様子がとても醜い。いつも死肉を食って、どんな大きな骨でもパリパリと咬み砕き、腹の中に嚥のみ下してしまう。想い出しても恐ろしいものだが、この「海乙那」は狼の親類で、狼は犬の本家である。先日趙家の犬めが幾度も乃公を見たが、さてこそ彼も一味徒党で、もう接洽ひきあいもすんでいるのだろう。あの親爺がいくら地面を眺めたって、乃公を胡魔化すことが出来るもんか。中にも気の毒なのは乃公のアニキだ。彼だって人間だ。恐ろしい事とも思わずに何ゆえ仲間を集めて乃公を食うのだろう。やっぱり永年ながねんのしきたりで悪い事とは思っていないのだろう。それとも良心を喪失してしまって、知っていながらことさら犯しているのだろう。
わたしは食人者を呪う。まず彼から発起して食人の人達を勧誘し、また彼から先手をつける。
八
実際この種の道理は今になってみると、彼等もわかり切っているのだ。
ひょっくり一人の男が来た。年頃は二十前後で、人相はあまりハッキリしていないが、顔じゅうに笑いを浮べてわたしに向ってお辞儀をした。彼の笑いは本当の笑いとは見えない。わたしは訊いてみた。
「人食いの仕事は旨く行ったかね」
彼はやっぱり笑いながら話した。
「餓饉年じゃあるまいし、人を食うことなど出来やしません」
わたしは彼が仲間であることにすぐに気がついた。人を食うのを喜ぶのだろうと思うと、勇気百倍して無理にも訊いてやろうと思う。
「うまく行ったかえ」
「そんなことを訊いてどうするんだ。お前は本統ほんとうにわかるのかね。冗当を言っているんじゃないかな。きょうは大層いい天気だよ」
天気もいいし月も明るい。だが乃公はお前に訊くつもりだ。
「うまく行ったかえ」
彼はいけないと思っているのだろう。あいまいの返辞をした。
「いけ……」
「いけない? あいつ等はもう食ってしまったんだろう」
「ありもしないこと」
「ありもしないこと? 狼村ろうそんでは現在食べているし、本にもちゃんと書いてある。出来立てのほやほやだ」
彼は顔色を変えて鉄のように青くなり目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって言った。
「あるかもしれないが、まあそんなものさ……」
「まあそんなものだ。じゃ旨く行ったんだね」
「わたしはお前とそんな話をするのはいやだ。どうしてもお前は間違っている。話をすればするほど間違って来る」
わたしは跳び上って眼を開けると、体じゅうが汗びっしょりになり、その人の姿は見えない。年頃はわたしのアニキよりもずっと若いがこいつはテッキリ仲間の一人に違いない。きっと彼等の親達が彼に教えて、そうしてまた彼の子供に伝えるのだろう。だから小さな子供等が皆憎らしげにわたしを見る。
九
自分で人を食えば、人から食われる恐れがあるので、皆疑い深い目付をして顔と顔と覗き合う。この心さえ除き去れば安心して仕事が出来、道を歩いても飯を食っても睡眠しても、何と朗らかなものであろう。ただこの一本の閾しきい、一つの関所があればこそ、彼らは親子、兄弟、夫婦、朋友、師弟、仇敵、各々相識しらざる者までも皆一団にかたまって、互に勧め合い互に牽制し合い、死んでもこの一歩を跨ぎ去ろうとはしない。
一〇
朝早くアニキの所へ行ってみると、彼は堂門の外で空を眺めていた。わたしは彼の後ろから近寄って門前に立ち塞がり、いとも静かにいとも親しげに彼に向って言った。
「兄さん、わたしはあなたに言いたいことがある」
「お前、言ってごらん」
彼は顔をこちらに向けて頭を動かした。
「わたしは二つ三つ話をすればいいのだが、旨く言い出せるかしら。兄さん、大抵初めの野蛮人は皆人を食っていた。後になると心の持方が違って来て、中には人を食わぬ者もあり、その人達は質たちのいい方で人間に成り変り、真の人間に成り変った。またある者は虫ケラ同様にいつまでも人を食っていた。またある者は魚鳥や猿に変化し、それから人間に成り変った。またある者は善いことをしようとは思わず、今でもやはり虫ケラだ。この人を食う人達は人を食わぬ人達に比べてみると、いかにも忌わしい愧はずべき者ではないか。おそらく虫ケラが猿に劣るよりももっと甚だしい。
易牙えきがが彼の子供を蒸して桀紂けっちゅうに食わせたのはずっと昔のことで誰だってよくわからぬが、盤古が天地を開闢かいびゃくしてから、ずっと易牙の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと徐錫林じょしゃくりんまで、徐錫林から狼村で捉まった男までずっと食い続けて来たのかもしれない。去年も城内で犯人が殺されると、癆症ろうしょう病みの人が彼の血を饅頭に※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたして食った。
あの人達がわたしを食おうとすれば、全くあなた一人では法返しがつくまい。しかし何も向うへ行って仲間入をしなければならぬということはあるまい。あの人達がわたしを食えばあなたもまた食われる。結局仲間同志の食い合いだ。けれどちょっと方針を変えてこの場ですぐに改めれば、人々は太平無事で、たとい今までの仕来しきたりがどうあろうとも、わたしどもは今日こんにち特別の改良をすることが出来る。なに、出来ないと被仰おっしゃるるのか。兄さん、あなたがやればきっと出来ると思う。こないだ小作人が減租を要求した時、あなたが出来ないと撥ねつけたように」
最初彼はただ冷笑するのみであったが、まもなく眼が気味悪く光って来て、彼等の秘密を説き破った頃には顔じゅうが真青になった。表門の外には大勢の人が立っていて、趙貴翁と彼の犬もその中に交って皆恐る恐る近寄って来た。ある者は顔を見られぬように頬かぶりをしていたようでもあった。ある者はやはりいつもの青面あおづらで出歯でっぱを抑えて笑っていた。わたしは彼等が皆一つ仲間の食人種であることを知っているが、彼等の考かんがえが皆一様でないことも知っている。その一種は昔からの仕来りで人を食っても構わないと思っている者で、他の一種は人を食ってはいけないと知りながら、やはり食いたいと思っている者である。彼等は他人に説破されることを恐れているのでわたしの話を聞くとますます腹を立て口を尖らせて冷笑している。
この時アニキはたちまち兇相を現わし、大喝一声した。
「皆出て行け、気狂きちがいを見て何が面白い」
同時にわたしは彼等の巧妙な手段を悟った。彼等は改心しないばかりか、すでに用心深く手配して気狂という名をわたしにかぶせ、いずれわたしを食べる時に無事に辻褄を合せるつもりだ。衆みなが一人の悪人を食った小作人の話もまさにこの方法で、これこそ彼等の常用手段だ。
陳老五は憤々ぷんぷんしながらやって来た。どんなにわたしの口を抑えようが、わたしはどこまでも言ってやる。
「お前達は改心せよ。真心から改心せよ。ウン、解ったか。人を食う人は将来世の中に容れられず、生きてゆかれるはずがない。お前達が改心せずにいれば、自分もまた食い尽されてしまう。仲間が殖ふえれば殖えるほど本当の人間に依って滅亡されてしまう。猟師が、狼を狩り尽すように――虫ケラ同様に」
彼等は皆陳老五に追払われてしまった。陳老五はわたしに勧めて部屋に帰らせた。部屋の中は真暗で横梁よこはりと椽木たるきが頭の上で震えていた。しばらく震えているうちに、大おおいに持上ってわたしの身体の上に堆積した。
何という重みだろう。撥ね返すことも出来ない。彼等の考は、わたしが死ねばいいと思っているのだ。わたしはこの重みが※(「言+虚」、第4水準2-88-74)うそであることを知っているから、押除おしのけると、身体中の汗が出た。しかしどこまでも言ってやる。
「お前はすぐに改心しろ、真心から改心しろ、ウン解ったか。人を食う奴は将来容れられるはずがない」
一一
太陽も出ない。門も開かない。毎日二度の御飯だ。
わたしは箸をひねってアニキの事を想い出した。解った。妹の死んだ訳も全く彼だ。あの時妹はようやく五歳になったばかり、そのいじらしい可愛らしい様子は今も眼の前にある。母親は泣き続けていると、彼は母親に勧めて、泣いちゃいけないと言ったのは、大方自分で食ったので、泣き出されたら多少気の毒にもなる。しかし果して気の毒に思うかしら……
妹はアニキに食われた。母は妹が無くなったことを知っている。わたしはまあ知らないことにしておこう。
母も知ってるに違いない。が泣いた時には何にも言わない。大方当り前だと思っているのだろう。そこで想い出したが、わたしが四五歳の時、堂前に涼んでいるとアニキが言った。親の病には、子たる者は自ら一片ひときれの肉を切取ってそれを煮て、親に食わせるのが好よき人というべきだ。母もそうしちゃいけないとは言わなかった。一片食えばだんだんどっさり食うものだ。けれどあの日の泣き方は今想い出しても、人の悲しみを催す。これはまったく奇妙なことだ。
一二
想像することも出来ない。
四千年来、時々人を食う地方が今ようやくわかった。わたしも永年ながねんその中に交っていたのだ。アニキが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん。
わたしは知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよ乃公の番が来たんだ……
四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。
一三
人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。
救えよ救え。子供……
(一九一八年四月)
底本:「魯迅全集」改造社
1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
七
わたしは彼等の手段を悟った。手取り早く殺してしまうことは、いやでもあるし、またやろうともしないのだ。罪祟りを恐れているから、衆みなの者が連絡を取って網を張り詰め、わたしに自害を迫っているのだ。四五日このかた往来の男女の様子を見ても、アニキの行動を見ても八九分通りは悟られて来た。一番都合のいいのは、帯を解いて梁はりに掛け、自分で縊くびれて死ねば彼等に殺人の罪名がないわけだ。そうすれば自然願いが通って皆大喜びで鼠泣きするだろう。しかし驚き恐れ憂い悲しんで死んでも、いくらか痩せるくらいでまんざら役に立たないことはない。
彼等は死肉を食べつつある!――何かの本に書いてあったことを想い出したが、「海乙那かいおつな」という一種の代物がある。眼光めつきと様子がとても醜い。いつも死肉を食って、どんな大きな骨でもパリパリと咬み砕き、腹の中に嚥のみ下してしまう。想い出しても恐ろしいものだが、この「海乙那」は狼の親類で、狼は犬の本家である。先日趙家の犬めが幾度も乃公を見たが、さてこそ彼も一味徒党で、もう接洽ひきあいもすんでいるのだろう。あの親爺がいくら地面を眺めたって、乃公を胡魔化すことが出来るもんか。中にも気の毒なのは乃公のアニキだ。彼だって人間だ。恐ろしい事とも思わずに何ゆえ仲間を集めて乃公を食うのだろう。やっぱり永年ながねんのしきたりで悪い事とは思っていないのだろう。それとも良心を喪失してしまって、知っていながらことさら犯しているのだろう。
わたしは食人者を呪う。まず彼から発起して食人の人達を勧誘し、また彼から先手をつける。
八
実際この種の道理は今になってみると、彼等もわかり切っているのだ。
ひょっくり一人の男が来た。年頃は二十前後で、人相はあまりハッキリしていないが、顔じゅうに笑いを浮べてわたしに向ってお辞儀をした。彼の笑いは本当の笑いとは見えない。わたしは訊いてみた。
「人食いの仕事は旨く行ったかね」
彼はやっぱり笑いながら話した。
「餓饉年じゃあるまいし、人を食うことなど出来やしません」
わたしは彼が仲間であることにすぐに気がついた。人を食うのを喜ぶのだろうと思うと、勇気百倍して無理にも訊いてやろうと思う。
「うまく行ったかえ」
「そんなことを訊いてどうするんだ。お前は本統ほんとうにわかるのかね。冗当を言っているんじゃないかな。きょうは大層いい天気だよ」
天気もいいし月も明るい。だが乃公はお前に訊くつもりだ。
「うまく行ったかえ」
彼はいけないと思っているのだろう。あいまいの返辞をした。
「いけ……」
「いけない? あいつ等はもう食ってしまったんだろう」
「ありもしないこと」
「ありもしないこと? 狼村ろうそんでは現在食べているし、本にもちゃんと書いてある。出来立てのほやほやだ」
彼は顔色を変えて鉄のように青くなり目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって言った。
「あるかもしれないが、まあそんなものさ……」
「まあそんなものだ。じゃ旨く行ったんだね」
「わたしはお前とそんな話をするのはいやだ。どうしてもお前は間違っている。話をすればするほど間違って来る」
わたしは跳び上って眼を開けると、体じゅうが汗びっしょりになり、その人の姿は見えない。年頃はわたしのアニキよりもずっと若いがこいつはテッキリ仲間の一人に違いない。きっと彼等の親達が彼に教えて、そうしてまた彼の子供に伝えるのだろう。だから小さな子供等が皆憎らしげにわたしを見る。
九
自分で人を食えば、人から食われる恐れがあるので、皆疑い深い目付をして顔と顔と覗き合う。この心さえ除き去れば安心して仕事が出来、道を歩いても飯を食っても睡眠しても、何と朗らかなものであろう。ただこの一本の閾しきい、一つの関所があればこそ、彼らは親子、兄弟、夫婦、朋友、師弟、仇敵、各々相識しらざる者までも皆一団にかたまって、互に勧め合い互に牽制し合い、死んでもこの一歩を跨ぎ去ろうとはしない。
一〇
朝早くアニキの所へ行ってみると、彼は堂門の外で空を眺めていた。わたしは彼の後ろから近寄って門前に立ち塞がり、いとも静かにいとも親しげに彼に向って言った。
「兄さん、わたしはあなたに言いたいことがある」
「お前、言ってごらん」
彼は顔をこちらに向けて頭を動かした。
「わたしは二つ三つ話をすればいいのだが、旨く言い出せるかしら。兄さん、大抵初めの野蛮人は皆人を食っていた。後になると心の持方が違って来て、中には人を食わぬ者もあり、その人達は質たちのいい方で人間に成り変り、真の人間に成り変った。またある者は虫ケラ同様にいつまでも人を食っていた。またある者は魚鳥や猿に変化し、それから人間に成り変った。またある者は善いことをしようとは思わず、今でもやはり虫ケラだ。この人を食う人達は人を食わぬ人達に比べてみると、いかにも忌わしい愧はずべき者ではないか。おそらく虫ケラが猿に劣るよりももっと甚だしい。
易牙えきがが彼の子供を蒸して桀紂けっちゅうに食わせたのはずっと昔のことで誰だってよくわからぬが、盤古が天地を開闢かいびゃくしてから、ずっと易牙の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと徐錫林じょしゃくりんまで、徐錫林から狼村で捉まった男までずっと食い続けて来たのかもしれない。去年も城内で犯人が殺されると、癆症ろうしょう病みの人が彼の血を饅頭に※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたして食った。
あの人達がわたしを食おうとすれば、全くあなた一人では法返しがつくまい。しかし何も向うへ行って仲間入をしなければならぬということはあるまい。あの人達がわたしを食えばあなたもまた食われる。結局仲間同志の食い合いだ。けれどちょっと方針を変えてこの場ですぐに改めれば、人々は太平無事で、たとい今までの仕来しきたりがどうあろうとも、わたしどもは今日こんにち特別の改良をすることが出来る。なに、出来ないと被仰おっしゃるるのか。兄さん、あなたがやればきっと出来ると思う。こないだ小作人が減租を要求した時、あなたが出来ないと撥ねつけたように」
最初彼はただ冷笑するのみであったが、まもなく眼が気味悪く光って来て、彼等の秘密を説き破った頃には顔じゅうが真青になった。表門の外には大勢の人が立っていて、趙貴翁と彼の犬もその中に交って皆恐る恐る近寄って来た。ある者は顔を見られぬように頬かぶりをしていたようでもあった。ある者はやはりいつもの青面あおづらで出歯でっぱを抑えて笑っていた。わたしは彼等が皆一つ仲間の食人種であることを知っているが、彼等の考かんがえが皆一様でないことも知っている。その一種は昔からの仕来りで人を食っても構わないと思っている者で、他の一種は人を食ってはいけないと知りながら、やはり食いたいと思っている者である。彼等は他人に説破されることを恐れているのでわたしの話を聞くとますます腹を立て口を尖らせて冷笑している。
この時アニキはたちまち兇相を現わし、大喝一声した。
「皆出て行け、気狂きちがいを見て何が面白い」
同時にわたしは彼等の巧妙な手段を悟った。彼等は改心しないばかりか、すでに用心深く手配して気狂という名をわたしにかぶせ、いずれわたしを食べる時に無事に辻褄を合せるつもりだ。衆みなが一人の悪人を食った小作人の話もまさにこの方法で、これこそ彼等の常用手段だ。
陳老五は憤々ぷんぷんしながらやって来た。どんなにわたしの口を抑えようが、わたしはどこまでも言ってやる。
「お前達は改心せよ。真心から改心せよ。ウン、解ったか。人を食う人は将来世の中に容れられず、生きてゆかれるはずがない。お前達が改心せずにいれば、自分もまた食い尽されてしまう。仲間が殖ふえれば殖えるほど本当の人間に依って滅亡されてしまう。猟師が、狼を狩り尽すように――虫ケラ同様に」
彼等は皆陳老五に追払われてしまった。陳老五はわたしに勧めて部屋に帰らせた。部屋の中は真暗で横梁よこはりと椽木たるきが頭の上で震えていた。しばらく震えているうちに、大おおいに持上ってわたしの身体の上に堆積した。
何という重みだろう。撥ね返すことも出来ない。彼等の考は、わたしが死ねばいいと思っているのだ。わたしはこの重みが※(「言+虚」、第4水準2-88-74)うそであることを知っているから、押除おしのけると、身体中の汗が出た。しかしどこまでも言ってやる。
「お前はすぐに改心しろ、真心から改心しろ、ウン解ったか。人を食う奴は将来容れられるはずがない」
一一
太陽も出ない。門も開かない。毎日二度の御飯だ。
わたしは箸をひねってアニキの事を想い出した。解った。妹の死んだ訳も全く彼だ。あの時妹はようやく五歳になったばかり、そのいじらしい可愛らしい様子は今も眼の前にある。母親は泣き続けていると、彼は母親に勧めて、泣いちゃいけないと言ったのは、大方自分で食ったので、泣き出されたら多少気の毒にもなる。しかし果して気の毒に思うかしら……
妹はアニキに食われた。母は妹が無くなったことを知っている。わたしはまあ知らないことにしておこう。
母も知ってるに違いない。が泣いた時には何にも言わない。大方当り前だと思っているのだろう。そこで想い出したが、わたしが四五歳の時、堂前に涼んでいるとアニキが言った。親の病には、子たる者は自ら一片ひときれの肉を切取ってそれを煮て、親に食わせるのが好よき人というべきだ。母もそうしちゃいけないとは言わなかった。一片食えばだんだんどっさり食うものだ。けれどあの日の泣き方は今想い出しても、人の悲しみを催す。これはまったく奇妙なことだ。
一二
想像することも出来ない。
四千年来、時々人を食う地方が今ようやくわかった。わたしも永年ながねんその中に交っていたのだ。アニキが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん。
わたしは知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよ乃公の番が来たんだ……
四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。
一三
人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。
救えよ救え。子供……
(一九一八年四月)
底本:「魯迅全集」改造社
1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
一、年末贯例,日本网络流行语TOP100(2023年)
年间大赏为今年最热门的动画作品【推しの子】
1:【推しの子】
2:君は完璧で究極のゲッター
3:王様戦隊キングオージャー
4:アイ(【推しの子】)
5:ARMORED CORE VI FIRES OF RUBICON
6:薩摩ホグワーツ
7:ひろがるスカイ!プリキュア
8:ブルーロック
9:もう疲れちゃって 全然動けなくてェ…
10:ブルーアーカイブ
11:星野アクア
12:半天狗
13:ソラ・ハレワタール
14:パモさん構文
15:夕凪ツバサ
16:Twitter
17:ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム
18:潔世一
19:聖園ミカ
20:有馬かな
21:ガンダム・キャリバーン
22:凪誠士郎
23:両面宿儺(呪術廻戦)
24:なんで笑ってるの?人殺し。
25:C4-621
26:糸師凛
27:伏黒甚爾
28:ピンガ(名探偵コナン)
29:テスカトリポカ(Fate)
30:千切豹馬
31:聖あげは
32:御影玲王
33:オーガポン
34:え、社内システム全てワンオペしている私を解雇ですか?
35:カマソッソ(Fate)
36:星野ルビー
37:時透無一郎
38:黒川あかね
39:お兄ちゃんはおしまい!
40:先生(ブルーアーカイブ)
41:にじさんじ
42:糸師冴
43:コンビニ(ブリトラ)
44:ミヒャエル・カイザー
45:ガンダム・シュバルゼッテ
46:ハンドラー・ウォルター
47:ウマ娘 プリティーダービー
48:MEMちょ
49:リタ・カニスカ
50:ククルカン(Fate)
51:蜂楽廻
52:Fate/samurai Remnant
53:夏油傑
54:サカバンバスピス
55:リコ(ポケットモンスター)
56:天内理子
57:シロコ*テラー
58:家入硝子
59:不死川玄弥
60:虹ヶ丘ましろ
61:シン・仮面ライダー
62:オルト・シバルバー
63:Garten of Banban
64:國神錬介
65:スイカゲーム
66:飛鳥馬トキ
67:九十九由基
68:砂狼シロコ
69:大豊娘娘
70:ひき肉です
71:ウネルミナモ
72:ホグワーツ・レガシー
73:Unwelcome School
74:デイビット・ゼム・ヴォイド
75:ラム(名探偵コナン)
76:ん、私ともあっちむいてホイをやるべき
77:ウルトラマンブレーザー
78:東方獣王国
79:五条悟
80:強風オールバック
81:ワザップジョルノ
82:エラン・ケレス(強化人士5号)
83:逃げたら一つ、進めば二つ
84:クワイエット・ゼロ
85:WhiteCUL
86:天国へ行く方法
87:セセリア・ドート
88:廣井きくり
89:プレナパテス
90:仮面ライダーギーツIX
91:天童アリス
92:ギラ(キングオージャー)
93:ネオユニヴァース(ウマ娘)
94:ラクレス・ハスティー
95:ベロバ
96:ルール無用JCJCタイムアタック
97:後藤ひとり
98:五十鈴大智
99:黒名蘭世
100:グリッドマン ユニバース
二、TikTok Awards Japan 2023
年间大賞:「ストリートスナップ」アノニマス(料理达人)
ハッシュタグ部門:「なぁぜなぁぜ」桃園ありさ(热门话题单词)
ミュージック部門:「アイドル」YOASOBI (最热歌曲,TikTok今年播放量高达78亿次)
グルメ&ヒットアイテム部門:ユニクロバッグ(优衣库的一种包)
スポーツ・エンタメ部門:最高の教師(电视剧)
特別賞:バスケ日本代表(日本男子排球国家队)
TikTok Songs TOP10见图三
(网红热门歌曲要成为主流热门歌曲,要跨越的这道壁垒,还是很难的)
三、补一条信息,韩国文化体育观光部和艺术经营支援中心12月1日发布的调整后的确定数据,2022年韩国演出行业销售额同比增长97.2%,为9725亿韩元(约合人民币53.5亿元)
文化体育观光部和艺术经营支援中心于今年6月9日至10月24日面向全国5286处演出设施和实体进行了调查。值得一提的是,去年销售额较疫前的2019年增长14%,演出行业明显呈现出增长势头。
在总销售额中,各类演出门票销售额同比大增155.7%,为5618亿韩元,占57.8%(其中,演唱会类别门票销售额占比超过六成)。表演场运转率50.2%,同比上升13个百分点。
年间大赏为今年最热门的动画作品【推しの子】
1:【推しの子】
2:君は完璧で究極のゲッター
3:王様戦隊キングオージャー
4:アイ(【推しの子】)
5:ARMORED CORE VI FIRES OF RUBICON
6:薩摩ホグワーツ
7:ひろがるスカイ!プリキュア
8:ブルーロック
9:もう疲れちゃって 全然動けなくてェ…
10:ブルーアーカイブ
11:星野アクア
12:半天狗
13:ソラ・ハレワタール
14:パモさん構文
15:夕凪ツバサ
16:Twitter
17:ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム
18:潔世一
19:聖園ミカ
20:有馬かな
21:ガンダム・キャリバーン
22:凪誠士郎
23:両面宿儺(呪術廻戦)
24:なんで笑ってるの?人殺し。
25:C4-621
26:糸師凛
27:伏黒甚爾
28:ピンガ(名探偵コナン)
29:テスカトリポカ(Fate)
30:千切豹馬
31:聖あげは
32:御影玲王
33:オーガポン
34:え、社内システム全てワンオペしている私を解雇ですか?
35:カマソッソ(Fate)
36:星野ルビー
37:時透無一郎
38:黒川あかね
39:お兄ちゃんはおしまい!
40:先生(ブルーアーカイブ)
41:にじさんじ
42:糸師冴
43:コンビニ(ブリトラ)
44:ミヒャエル・カイザー
45:ガンダム・シュバルゼッテ
46:ハンドラー・ウォルター
47:ウマ娘 プリティーダービー
48:MEMちょ
49:リタ・カニスカ
50:ククルカン(Fate)
51:蜂楽廻
52:Fate/samurai Remnant
53:夏油傑
54:サカバンバスピス
55:リコ(ポケットモンスター)
56:天内理子
57:シロコ*テラー
58:家入硝子
59:不死川玄弥
60:虹ヶ丘ましろ
61:シン・仮面ライダー
62:オルト・シバルバー
63:Garten of Banban
64:國神錬介
65:スイカゲーム
66:飛鳥馬トキ
67:九十九由基
68:砂狼シロコ
69:大豊娘娘
70:ひき肉です
71:ウネルミナモ
72:ホグワーツ・レガシー
73:Unwelcome School
74:デイビット・ゼム・ヴォイド
75:ラム(名探偵コナン)
76:ん、私ともあっちむいてホイをやるべき
77:ウルトラマンブレーザー
78:東方獣王国
79:五条悟
80:強風オールバック
81:ワザップジョルノ
82:エラン・ケレス(強化人士5号)
83:逃げたら一つ、進めば二つ
84:クワイエット・ゼロ
85:WhiteCUL
86:天国へ行く方法
87:セセリア・ドート
88:廣井きくり
89:プレナパテス
90:仮面ライダーギーツIX
91:天童アリス
92:ギラ(キングオージャー)
93:ネオユニヴァース(ウマ娘)
94:ラクレス・ハスティー
95:ベロバ
96:ルール無用JCJCタイムアタック
97:後藤ひとり
98:五十鈴大智
99:黒名蘭世
100:グリッドマン ユニバース
二、TikTok Awards Japan 2023
年间大賞:「ストリートスナップ」アノニマス(料理达人)
ハッシュタグ部門:「なぁぜなぁぜ」桃園ありさ(热门话题单词)
ミュージック部門:「アイドル」YOASOBI (最热歌曲,TikTok今年播放量高达78亿次)
グルメ&ヒットアイテム部門:ユニクロバッグ(优衣库的一种包)
スポーツ・エンタメ部門:最高の教師(电视剧)
特別賞:バスケ日本代表(日本男子排球国家队)
TikTok Songs TOP10见图三
(网红热门歌曲要成为主流热门歌曲,要跨越的这道壁垒,还是很难的)
三、补一条信息,韩国文化体育观光部和艺术经营支援中心12月1日发布的调整后的确定数据,2022年韩国演出行业销售额同比增长97.2%,为9725亿韩元(约合人民币53.5亿元)
文化体育观光部和艺术经营支援中心于今年6月9日至10月24日面向全国5286处演出设施和实体进行了调查。值得一提的是,去年销售额较疫前的2019年增长14%,演出行业明显呈现出增长势头。
在总销售额中,各类演出门票销售额同比大增155.7%,为5618亿韩元,占57.8%(其中,演唱会类别门票销售额占比超过六成)。表演场运转率50.2%,同比上升13个百分点。
ゴッホ
ごっほ
Vincent van Gogh
(1853―1890)
オランダの画家。後期印象派に属する。その短い生涯、さらに短い約10年ほどの画歴のなかで、あらゆるものに対する熱情と献身的な姿勢を示し続け、絵画に対しても同様に自身を燃焼し尽くすまで描き続け、その主観的、表現的な傾向は、20世紀の表現主義、フォービスムのもっとも影響力の多い原点となった。またその生涯にわたって友人のバン・ラパールやエミール・ベルナール、彼のもっともよき理解者であり後援者でもあった弟のテオに多くの手紙を書いたが、その膨大な書簡集は、それ自体「書簡文学」「告白文学」としてゴッホの人と生涯に対する強い関心を喚起するだけではなく、作品とのかかわりを示す貴重な資料となっている。
ゴッホは1853年3月30日オランダのフロート・ツンデルトに牧師を父として生まれる。家系には聖職者と装飾芸術家が多く出ている。幼児時代以来、素描に興味を示したが、80年画家になることを決意するまでいくつかの職を転々としている。69年、ゴッホは伯父の関係していた画商グーピルのハーグの店に勤め、73年にはロンドンの店に転勤。さらに2年後にはパリ支店に移り、ついでロンドンでの語学教師、77年ドルドレヒトの書店、78年ブリュッセルの伝道師養成所、同年ボリナージュの炭鉱での仮資格の伝道師としての勤務などがある。80年画家を決意、ブリュッセルで絵画を学ぶ。81年エッテン、同年末から83年ハーグ、83~85年ヌエネン、85年アントワープ(アンベルス)と各地で勉強を続けたが、本格的な画作の始まりはこのヌエネン時代で『じゃがいもを食べる人たち』(1885・アムステルダム国立美術館およびクレラー・ミュラー美術館)などがその代表作。
1886年2月から88年2月までパリ時代。コルモンの画室に通い、ロートレックと知り合い、さらにピサロ、ゴーギャン、ベルナールたちとも知り合う。パリ時代は、すでにアントワープで知っていた浮世絵と新印象主義の影響下に、そしてまたパリの生活の雰囲気のなかで、色彩は一変して明るくなり、筆触は新印象主義風の点描となる。この時期約200点の油彩が制作された。
しかしパリでの生活は心身ともにゴッホを疲労させ、その療養と、他方では印象派、新印象派を超える芸術活動の拠点であることを目ざして、1888年2月アルルに移る。翌年5月までアルル時代。少なくともこの88年は、ゴッホの制作が飛躍的な展開を遂げ、彼の画作の頂点となる作品が生み出される時期である。『アルルの跳ね橋』『ひまわり』、あるいは郵便夫ムーランとその家族の肖像など、色彩の強さ、筆触の表現力、構図の安定性など、ゴッホの独創的世界の確立期である。新しい芸術村の建設を夢みる彼の呼びかけに応じ、同年秋からゴーギャンとの共同生活がなされる。その相互刺激は双方に影響を与え、ゴッホも総合主義風の装飾体系を部分的に取り入れた。しかし強烈な個性は互いに相いれず、12月23日ついにゴッホの最初の発作がおこりかみそりでゴーギャンに切りつけたが果たさず、自らの耳を切り落とすという「耳切り事件」となる。ゴッホは入院、翌年3月にも再入院。
1889年5月、サン・レミの病院に移り、翌年5月までがいわゆるサン・レミ時代。ここでも3回にわたり発作と脱力状態にみまわれるが、それ以外のときは、比較的自由な環境のもとで描き、病院外へも写生に出かけている。この時期は、ゴッホの内面の表現が、形態や筆触のリズム、テーマの選択などにより鋭く表面化する。すでにアルル時代の『夜のカフェ』(1888・エール大学美術館)で「赤と緑による恐るべき情念」の表現がなされており、また近年のゴッホ研究における精神分析的な解明によって、彼の作品の象徴言語の解読がさまざまになされているが、サン・レミ時代には、ゴッホの心の動揺そのものが、大地や糸杉や幻想的な夜空などにそのまま託される。『黄色い麦畑と糸杉』(1889・ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『星月夜』(1889・ニューヨーク近代美術館)など。他方、白を混ぜた中間色、すみれ色など、沈んだ内面を表徴する作品群もみられる。
1890年5月、印象派に親しい医師ガシェの滞在するオーベル・シュル・オワーズに移り、ガシェの監督下に療養と画作を行う。この最後の時期には、サン・レミ時代同様、ゴッホの内面の高揚と沈静がより頻繁な周期で作品に具体化し、後者がより多い。たとえば『カラスのいる麦畑』(ゴッホ美術館)、『荒れ模様の空と畑』(ゴッホ美術館)はいずれも90年7月の作品で、ともに強い筆触、すばやい仕上げで描かれているが、色彩の体系はまったく異なり、興奮と下降を示している。こうした彼の精神の動揺に拍車をかけたのが、終生彼を援助した弟テオの画商としての経営状態がよくなかったことであったらしい。同年7月27日彼はピストル自殺を試み、29日没。ド・ラ・ファイユが編集した最新の全作品目録(1970)は850点以上の油彩作品を数え上げている。なおオランダのオッテルローにあるクレラー・ミュラー美術館、アムステルダムのゴッホ美術館はゴッホの収集で世界的に有名。[中山公男]
『中山公男解説『現代世界美術全集8 ゴッホ』(1970・集英社)』▽『嘉門安雄著『ゴッホ』(1967・旺文社)』▽『カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄監訳『世界伝記双書6 ヴァン・ゴッホ』(1984・小学館)』▽『二見史郎・宇佐美英治他訳『ファン・ゴッホ書簡全集』全6巻(1984・みすず書房)』
ごっほ
Vincent van Gogh
(1853―1890)
オランダの画家。後期印象派に属する。その短い生涯、さらに短い約10年ほどの画歴のなかで、あらゆるものに対する熱情と献身的な姿勢を示し続け、絵画に対しても同様に自身を燃焼し尽くすまで描き続け、その主観的、表現的な傾向は、20世紀の表現主義、フォービスムのもっとも影響力の多い原点となった。またその生涯にわたって友人のバン・ラパールやエミール・ベルナール、彼のもっともよき理解者であり後援者でもあった弟のテオに多くの手紙を書いたが、その膨大な書簡集は、それ自体「書簡文学」「告白文学」としてゴッホの人と生涯に対する強い関心を喚起するだけではなく、作品とのかかわりを示す貴重な資料となっている。
ゴッホは1853年3月30日オランダのフロート・ツンデルトに牧師を父として生まれる。家系には聖職者と装飾芸術家が多く出ている。幼児時代以来、素描に興味を示したが、80年画家になることを決意するまでいくつかの職を転々としている。69年、ゴッホは伯父の関係していた画商グーピルのハーグの店に勤め、73年にはロンドンの店に転勤。さらに2年後にはパリ支店に移り、ついでロンドンでの語学教師、77年ドルドレヒトの書店、78年ブリュッセルの伝道師養成所、同年ボリナージュの炭鉱での仮資格の伝道師としての勤務などがある。80年画家を決意、ブリュッセルで絵画を学ぶ。81年エッテン、同年末から83年ハーグ、83~85年ヌエネン、85年アントワープ(アンベルス)と各地で勉強を続けたが、本格的な画作の始まりはこのヌエネン時代で『じゃがいもを食べる人たち』(1885・アムステルダム国立美術館およびクレラー・ミュラー美術館)などがその代表作。
1886年2月から88年2月までパリ時代。コルモンの画室に通い、ロートレックと知り合い、さらにピサロ、ゴーギャン、ベルナールたちとも知り合う。パリ時代は、すでにアントワープで知っていた浮世絵と新印象主義の影響下に、そしてまたパリの生活の雰囲気のなかで、色彩は一変して明るくなり、筆触は新印象主義風の点描となる。この時期約200点の油彩が制作された。
しかしパリでの生活は心身ともにゴッホを疲労させ、その療養と、他方では印象派、新印象派を超える芸術活動の拠点であることを目ざして、1888年2月アルルに移る。翌年5月までアルル時代。少なくともこの88年は、ゴッホの制作が飛躍的な展開を遂げ、彼の画作の頂点となる作品が生み出される時期である。『アルルの跳ね橋』『ひまわり』、あるいは郵便夫ムーランとその家族の肖像など、色彩の強さ、筆触の表現力、構図の安定性など、ゴッホの独創的世界の確立期である。新しい芸術村の建設を夢みる彼の呼びかけに応じ、同年秋からゴーギャンとの共同生活がなされる。その相互刺激は双方に影響を与え、ゴッホも総合主義風の装飾体系を部分的に取り入れた。しかし強烈な個性は互いに相いれず、12月23日ついにゴッホの最初の発作がおこりかみそりでゴーギャンに切りつけたが果たさず、自らの耳を切り落とすという「耳切り事件」となる。ゴッホは入院、翌年3月にも再入院。
1889年5月、サン・レミの病院に移り、翌年5月までがいわゆるサン・レミ時代。ここでも3回にわたり発作と脱力状態にみまわれるが、それ以外のときは、比較的自由な環境のもとで描き、病院外へも写生に出かけている。この時期は、ゴッホの内面の表現が、形態や筆触のリズム、テーマの選択などにより鋭く表面化する。すでにアルル時代の『夜のカフェ』(1888・エール大学美術館)で「赤と緑による恐るべき情念」の表現がなされており、また近年のゴッホ研究における精神分析的な解明によって、彼の作品の象徴言語の解読がさまざまになされているが、サン・レミ時代には、ゴッホの心の動揺そのものが、大地や糸杉や幻想的な夜空などにそのまま託される。『黄色い麦畑と糸杉』(1889・ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『星月夜』(1889・ニューヨーク近代美術館)など。他方、白を混ぜた中間色、すみれ色など、沈んだ内面を表徴する作品群もみられる。
1890年5月、印象派に親しい医師ガシェの滞在するオーベル・シュル・オワーズに移り、ガシェの監督下に療養と画作を行う。この最後の時期には、サン・レミ時代同様、ゴッホの内面の高揚と沈静がより頻繁な周期で作品に具体化し、後者がより多い。たとえば『カラスのいる麦畑』(ゴッホ美術館)、『荒れ模様の空と畑』(ゴッホ美術館)はいずれも90年7月の作品で、ともに強い筆触、すばやい仕上げで描かれているが、色彩の体系はまったく異なり、興奮と下降を示している。こうした彼の精神の動揺に拍車をかけたのが、終生彼を援助した弟テオの画商としての経営状態がよくなかったことであったらしい。同年7月27日彼はピストル自殺を試み、29日没。ド・ラ・ファイユが編集した最新の全作品目録(1970)は850点以上の油彩作品を数え上げている。なおオランダのオッテルローにあるクレラー・ミュラー美術館、アムステルダムのゴッホ美術館はゴッホの収集で世界的に有名。[中山公男]
『中山公男解説『現代世界美術全集8 ゴッホ』(1970・集英社)』▽『嘉門安雄著『ゴッホ』(1967・旺文社)』▽『カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄監訳『世界伝記双書6 ヴァン・ゴッホ』(1984・小学館)』▽『二見史郎・宇佐美英治他訳『ファン・ゴッホ書簡全集』全6巻(1984・みすず書房)』
✋热门推荐