✨#佐藤拓也[超话]# 出演预定情报总结(2月更新)
【番剧】
热播中「狩龙人拉格纳(ラグナクリムゾン)」バロム・シェエラ
热播中「足球小将(キャプテン翼)第二季」日向小次郎
热播中「特搜组大吾:救国的橘色部队(め組の大吾 救国のオレンジ)」椿拓人
2024年4月「Re:Monster怪物转生」ゴブ朗主役
2024 吸血鬼育儿奋斗「Delico‘s Nursery」ディーノ・クラシコ
2024「新米オッサン冒険者、
最強パーティに死ぬほど鍛えられて無敵になる。」リック主役
【BLCD】
12/26「男子高校生、はじめての First Note」 一樹(攻)
3/27「ブルースカイコンプレックスeighth」元親(攻)
3/27「食べたくなっちゃった」氷見野秋貴 (受)
制作决定「素人ヤンキー♂危機一発!!REPLAY」有川(受)
制作决定「それでも俺のものになる続編」榊明斗(攻)
【EVENT/生放送(目前已决定有网络配信=)】
1/11「小西克幸と平川大輔のアブナイ同窓会」
1/13、14「READPIA リーディックシアター「トリカゴ」
1/20「恋と深空」リリース生放送
2/4 「DIG-ROCK CHANNEL supported by animelo #8」
2/4 朗読劇フォアレーゼン 神奈川公演
2/4「碧蓝幻想TV」嘉宾
2/11「碧蓝幻想TV」嘉宾
2/17 「羽多野渉・ 佐藤拓也のSBS」ペロミ2024冬!1部、2部
2/26「Helios R 广播 マンデーナイトヒーロー」嘉宾
3/2、3/3「ほし×こえ」仙台
3/10「Story Teller 朗読・吸血鬼 Sable」第2回
3/23「Delico‘s Nursery @ AnimeJapan 2024」
6/1、6/2「Tales of Festival 2024」
【企划CD/BD/DVD(部分动画圆盘略)】
10/2「悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる」
1/5 TRIGGER「KISS IN THE MUSIC」
1/24「碧蓝幻想」The Six Dragons' Mini Album
2/23「VAZZROCK」ROCK DOWN vol.4 -There are many ways to go.-
2/17 「羽多野渉・佐藤拓也のScat Babys Show!!~SFP部のヨガ体験~」
【近期游戏】
1/18「恋与深空」黎深(日配)
手游「Break My Case」在間樹帆
手游「イケメン王子 美女と野獣の最後の恋」シルヴィオ
多平台「破晓传说」DLC“Beyong the Dawn”奥尔芬
PC乙游「闇色の魔珠」ヴィクトル
手游「よしまほ」サナ
手游「夢職人と忘れじの黒い妖精」コミル
手游「碧蓝幻想」ル・オー(光龍)
中文手游「悠久之树」希里亚、兰卡
中文手游「欢迎来到梦乐园」伊斯雷尔、京彦、弗兰克
iOS/Android/Steam/PS4「BLEACH Brave Souls」痣城剣八
2024夏「刀剑神域SAOVS」エス
2024年NS「DIG-ROCK -Documentary of Youthful Sounds-」
2024夏NS「月影の鎖 ~狂爛モラトリアム~」藤堂雅
【近期吹替】
「DOC(ドック)あすへのカルテ 2」
「人渣反派自救系统」改编动画「穿书自救指南」岳清源
「海豹突击队 第六季」
【广播剧配信】
『悪役令嬢は隣国の王太子に溺愛される ~森の妖精と不思議なツリーゲート~』
『わるいこと、教えてください』
『真実の愛を見つけたと言われて婚約破棄されたので、復縁を迫られても今さらもう遅いです!』
『ぼくの奥さんは魔法少女かもしれない』
『身ごもり契約花嫁~ご執心社長に買われて愛を孕みました~』
『高良くんと天城くん 2』
【线下】
京成電鉄「四ツ木駅」アナウンス
【每周广播】
「羽多野渉・佐藤拓也のScat Babys Show!!」每周五
【月度ニコ生放送】
「羽多野渉・佐藤拓也のSBS!!」
「佐藤拓也のちょっとやってみて!!」
【固定映像配信】
「佐藤サン、もう1杯」双周周四YouTube
「佐藤サン、もう1軒」每月最后周四Rakuten TV
「佐藤拓也×堀江瞬 アニメみたいに!」
YouTube
- 部分资源整理可见超话分区
【番剧】
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2024年4月「Re:Monster怪物转生」ゴブ朗主役
2024 吸血鬼育儿奋斗「Delico‘s Nursery」ディーノ・クラシコ
2024「新米オッサン冒険者、
最強パーティに死ぬほど鍛えられて無敵になる。」リック主役
【BLCD】
12/26「男子高校生、はじめての First Note」 一樹(攻)
3/27「ブルースカイコンプレックスeighth」元親(攻)
3/27「食べたくなっちゃった」氷見野秋貴 (受)
制作决定「素人ヤンキー♂危機一発!!REPLAY」有川(受)
制作决定「それでも俺のものになる続編」榊明斗(攻)
【EVENT/生放送(目前已决定有网络配信=)】
1/11「小西克幸と平川大輔のアブナイ同窓会」
1/13、14「READPIA リーディックシアター「トリカゴ」
1/20「恋と深空」リリース生放送
2/4 「DIG-ROCK CHANNEL supported by animelo #8」
2/4 朗読劇フォアレーゼン 神奈川公演
2/4「碧蓝幻想TV」嘉宾
2/11「碧蓝幻想TV」嘉宾
2/17 「羽多野渉・ 佐藤拓也のSBS」ペロミ2024冬!1部、2部
2/26「Helios R 广播 マンデーナイトヒーロー」嘉宾
3/2、3/3「ほし×こえ」仙台
3/10「Story Teller 朗読・吸血鬼 Sable」第2回
3/23「Delico‘s Nursery @ AnimeJapan 2024」
6/1、6/2「Tales of Festival 2024」
【企划CD/BD/DVD(部分动画圆盘略)】
10/2「悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる」
1/5 TRIGGER「KISS IN THE MUSIC」
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2/23「VAZZROCK」ROCK DOWN vol.4 -There are many ways to go.-
2/17 「羽多野渉・佐藤拓也のScat Babys Show!!~SFP部のヨガ体験~」
【近期游戏】
1/18「恋与深空」黎深(日配)
手游「Break My Case」在間樹帆
手游「イケメン王子 美女と野獣の最後の恋」シルヴィオ
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PC乙游「闇色の魔珠」ヴィクトル
手游「よしまほ」サナ
手游「夢職人と忘れじの黒い妖精」コミル
手游「碧蓝幻想」ル・オー(光龍)
中文手游「悠久之树」希里亚、兰卡
中文手游「欢迎来到梦乐园」伊斯雷尔、京彦、弗兰克
iOS/Android/Steam/PS4「BLEACH Brave Souls」痣城剣八
2024夏「刀剑神域SAOVS」エス
2024年NS「DIG-ROCK -Documentary of Youthful Sounds-」
2024夏NS「月影の鎖 ~狂爛モラトリアム~」藤堂雅
【近期吹替】
「DOC(ドック)あすへのカルテ 2」
「人渣反派自救系统」改编动画「穿书自救指南」岳清源
「海豹突击队 第六季」
【广播剧配信】
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『わるいこと、教えてください』
『真実の愛を見つけたと言われて婚約破棄されたので、復縁を迫られても今さらもう遅いです!』
『ぼくの奥さんは魔法少女かもしれない』
『身ごもり契約花嫁~ご執心社長に買われて愛を孕みました~』
『高良くんと天城くん 2』
【线下】
京成電鉄「四ツ木駅」アナウンス
【每周广播】
「羽多野渉・佐藤拓也のScat Babys Show!!」每周五
【月度ニコ生放送】
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「佐藤拓也のちょっとやってみて!!」
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トルイ
生涯
チンギス・カンの治世
『元朝秘史』には、幼少期にチンギス・カンによって滅ぼされたタタル部の残党に襲われたが、ボロクルの妻アルタニと、ジェルメとジェデイによって救われたという逸話が伝えられている。1206年にモンゴル帝国が建国された後、チンギス・カンは自らの諸子諸弟に民を分け与えたが、「末子」のトルイのみはチンギス・カン自らが率いる民を相続することが予定されていた。ただし、『元朝秘史』の記述などからジェデイ、バラらの率いる千人隊がチンギス・カンの生前から分与されていたようである。賈シラの伝記などから、トルイの領地はハンガイ・ダバー(杭海荅班)すなわちハンガイ山脈地方にあったと考えられている。
1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・カンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。特に、野狐嶺の戦い後の1212年にチグゥ・キュレゲンとともに要衝である徳興府周辺の諸城を平定したことは、『元朝秘史』をはじめ諸史料で特筆されている。
1219年にホラズム・シャー朝遠征(チンギス・カンの西征)が開始されると、再びチンギス・カンに従って、ここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマー・ワラー・アンナフル地方の諸都市の征服で指揮をとった。1220年秋にはホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣されている。しかし、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊をふくめて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に会い、また降服勧告を促す使者が殺害され、都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌1221年にはアラーウッディーンの三男でガズナ地方の領主ジャラールッディーンが大軍を率いて挙兵し、チンギス・カンがジョチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まってチンギス・カン本軍の後詰めを守った。
1225年暮れにはじまる西夏への遠征(第5次西夏遠征)で、翌1226年2月にはオゴデイとともに父に随行して西夏領内に侵攻している。トルイはこれらの諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。
監国期
1227年、チンギス・カンが没すると、父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続し、親族中で飛びぬけた財力と軍事力を獲得、後継のカアン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。トルイ監国期の政策としては、チンギス・カン死後に反モンゴル運動を始めた地域へのタンマチ派遣が知られる。タンマチは後にモンゴル帝国の国境地帯に広く派遣されたが、その中でもイランに派遣されたチョルマグンと遼東に派遣されたサリクタイはトルイ監国期に派遣を開始されている[9]。そしてチンギス・カンの死から2年後、後継のカアンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギス・カンが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第2代カアンに推し、即位させた。
諸史料によると、トルイは1229年春に帝国の諸王・功臣にクリルタイを開くことを布告し、予定通り同年9月には新帝を決めるクリルタイが開催された。『世界征服者史』によると、最初に三日三晩にわたる大宴会が開かれた後、右翼諸王の代表であるチャガタイと、左翼諸王の代表であるテムゲ・オッチギンがオゴデイの手を取って玉座に導き、中軍を代表するトゥルイが祝杯を捧げるという儀式を経てオゴデイが即位したとされる[12]。
なお、かつては『元朝秘史』の記述に基づいてトルイは4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに自身のウルスの大部分の指揮権を譲ったと考えられていたが、現在ではこれは誤りでトルイはオゴデイの即位後も帝国内で最大の勢力を有したままであったと考えられている。
オゴデイ・カアンの治世
オゴデイが即位すると、即位後最初の大事業として第二次金朝遠征(モンゴル帝国の金朝征服)が実施された。この遠征においてトルイは一将軍として右翼軍を率いたが、これは帝国で最大の勢力を有するトルイと配下の諸将を引き離すオゴデイの意図があったと考えられている。トルイは右翼軍の司令官として金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた。
しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した[15]。深酒のためと言われるが、『集史』、『元史』といったモンゴル時代の基本史料はいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。『集史』および『元史』の原史料である『元朝実録』はいずれもトルイの子孫の政権で編まれた史料で、なおかつほぼ同時期に編纂された「国家編纂物」であり、「政権運営に大過なかったオゴデイを明確に否定はしないが、トルイ家こそが正統な支配者であると強調する」トルイ一族の見解が反映されたものと指摘されている。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。
生涯
チンギス・カンの治世
『元朝秘史』には、幼少期にチンギス・カンによって滅ぼされたタタル部の残党に襲われたが、ボロクルの妻アルタニと、ジェルメとジェデイによって救われたという逸話が伝えられている。1206年にモンゴル帝国が建国された後、チンギス・カンは自らの諸子諸弟に民を分け与えたが、「末子」のトルイのみはチンギス・カン自らが率いる民を相続することが予定されていた。ただし、『元朝秘史』の記述などからジェデイ、バラらの率いる千人隊がチンギス・カンの生前から分与されていたようである。賈シラの伝記などから、トルイの領地はハンガイ・ダバー(杭海荅班)すなわちハンガイ山脈地方にあったと考えられている。
1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・カンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。特に、野狐嶺の戦い後の1212年にチグゥ・キュレゲンとともに要衝である徳興府周辺の諸城を平定したことは、『元朝秘史』をはじめ諸史料で特筆されている。
1219年にホラズム・シャー朝遠征(チンギス・カンの西征)が開始されると、再びチンギス・カンに従って、ここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマー・ワラー・アンナフル地方の諸都市の征服で指揮をとった。1220年秋にはホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣されている。しかし、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊をふくめて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に会い、また降服勧告を促す使者が殺害され、都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌1221年にはアラーウッディーンの三男でガズナ地方の領主ジャラールッディーンが大軍を率いて挙兵し、チンギス・カンがジョチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まってチンギス・カン本軍の後詰めを守った。
1225年暮れにはじまる西夏への遠征(第5次西夏遠征)で、翌1226年2月にはオゴデイとともに父に随行して西夏領内に侵攻している。トルイはこれらの諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。
監国期
1227年、チンギス・カンが没すると、父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続し、親族中で飛びぬけた財力と軍事力を獲得、後継のカアン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。トルイ監国期の政策としては、チンギス・カン死後に反モンゴル運動を始めた地域へのタンマチ派遣が知られる。タンマチは後にモンゴル帝国の国境地帯に広く派遣されたが、その中でもイランに派遣されたチョルマグンと遼東に派遣されたサリクタイはトルイ監国期に派遣を開始されている[9]。そしてチンギス・カンの死から2年後、後継のカアンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギス・カンが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第2代カアンに推し、即位させた。
諸史料によると、トルイは1229年春に帝国の諸王・功臣にクリルタイを開くことを布告し、予定通り同年9月には新帝を決めるクリルタイが開催された。『世界征服者史』によると、最初に三日三晩にわたる大宴会が開かれた後、右翼諸王の代表であるチャガタイと、左翼諸王の代表であるテムゲ・オッチギンがオゴデイの手を取って玉座に導き、中軍を代表するトゥルイが祝杯を捧げるという儀式を経てオゴデイが即位したとされる[12]。
なお、かつては『元朝秘史』の記述に基づいてトルイは4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに自身のウルスの大部分の指揮権を譲ったと考えられていたが、現在ではこれは誤りでトルイはオゴデイの即位後も帝国内で最大の勢力を有したままであったと考えられている。
オゴデイ・カアンの治世
オゴデイが即位すると、即位後最初の大事業として第二次金朝遠征(モンゴル帝国の金朝征服)が実施された。この遠征においてトルイは一将軍として右翼軍を率いたが、これは帝国で最大の勢力を有するトルイと配下の諸将を引き離すオゴデイの意図があったと考えられている。トルイは右翼軍の司令官として金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた。
しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した[15]。深酒のためと言われるが、『集史』、『元史』といったモンゴル時代の基本史料はいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。『集史』および『元史』の原史料である『元朝実録』はいずれもトルイの子孫の政権で編まれた史料で、なおかつほぼ同時期に編纂された「国家編纂物」であり、「政権運営に大過なかったオゴデイを明確に否定はしないが、トルイ家こそが正統な支配者であると強調する」トルイ一族の見解が反映されたものと指摘されている。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。
チンギス・カン(成吉思汗)
生涯
チンギス・カンの先祖
のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀にウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国という国も建てて繁栄したが、契丹族の遼がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟のアンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った。
生い立ち
チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、コンギラト氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。
父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族連合の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する。
諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。
さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った(ウルジャ河の戦い)。この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルを打ち破った。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
生涯
チンギス・カンの先祖
のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀にウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国という国も建てて繁栄したが、契丹族の遼がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟のアンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った。
生い立ち
チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、コンギラト氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。
父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族連合の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する。
諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。
さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った(ウルジャ河の戦い)。この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルを打ち破った。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
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