京アニ裁判 青葉真司被告に死刑を求刑 検察
2023年12月7日 20時28分
「京都アニメーション」のスタジオが放火され、社員36人が死亡した事件の裁判で、殺人などの罪に問われている青葉真司被告(45)に対し、検察は7日、死刑を求刑しました。一方、被告の弁護士は、責任能力はなかったとして改めて無罪を主張しました。
青葉真司被告(45)は、4年前の2019年7月、京都市伏見区の「京都アニメーション」の第1スタジオで、ガソリンをまいて火をつけ、社員36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせたなどとして殺人や放火などの罪に問われています。
京都地方裁判所で開かれた7日の裁判で、検察は、「京アニに筋違いの恨みを持った復しゅうで、日本刑事裁判史上、突出して多い被害者の人数と言える。強固な殺意に基づき計画的に事件を起こし、ガソリンを使った放火の危険性は十分に認識していた。被害者が逃げても猛スピードで煙などが追ってきて、まさに地獄のような恐怖や無念さは察するにあまりある」と主張しました。
そのうえで、「京アニに作品を盗用されたという妄想が動機の形成に影響したが、限定的で極刑を免れる要素にはならない。遺族や被害者の苦しみや悲しみはあまりに深く処罰感情もしゅん烈だ」と述べ被告には事件当時、完全な責任能力があったとして死刑を求刑しました。
被告は、紺のジャージ姿で車いすに乗って出廷し、検察から死刑が求刑されたときややうつむきほとんど動く様子はありませんでした。
一方、被告の弁護士は「建物の2階、3階に被害が及んだり、火の回りが早かったりしたことなど被告には予期しない結果だった」としたうえで、「被告は妄想の中で生き、妄想の中で今回の事件を起こしていた」などと述べ、精神障害により責任能力はなかったなどとして改めて無罪を主張しました。
被告は、6日行われた被告人質問では、「多大に申し訳ないという気持ちはある」と述べ初めて遺族や被害者に謝罪していて、7日は最後に「きちんと質問に答えてきたのでこの場において、つけ加えて話すことはありません」と述べました。
3か月余りにわたった審理が終わり、今後、裁判員や裁判官が評議を行ったうえで、判決は来月25日に言い渡される予定です。
7日の検察の論告の詳細です。
検察は、はじめに「被告は京アニに筋違いの恨みを募らせ、復しゅうのため、第1スタジオにガソリンを使って放火した。ほかに類例を見ない凄惨(せいさん)な大量放火殺人事件だ」と述べました。
そして、死刑を選択する上で考慮されるべき要素を順に説明していきました。
死刑選択 考慮されるべき要素
「結果の重大性」
はじめに結果の重大性について述べました。
この中では「36人の尊い命が奪われ、けがのなかった2人も含めて34人が命を奪われかけたうえ全身にやけどを負うなど、殺人や殺人未遂事件として日本の刑事裁判史上突出して多い被害者の人数といえる。必死に逃げようとするも猛スピードで炎や煙が迫って、まさに地獄のような恐怖は筆舌に尽くしがたく、被害者の無念さは察するにあまりある」と主張しました。
また、「同僚の多数が亡くなり、助けてあげられなかったことで強い自責の念に駆られている人や、事件後、休職を余儀なくされ、いまだに復帰できていない人もいる。いずれの被害者にも一切の落ち度はない」としました。
さらに、「亡くなったのは、京アニに憧れ、人の心を動かすアニメを作るために集まってきた方々で、『宝』である従業員が多数奪われ会社そのものにも損害を与えた」と述べました。
「計画性と悪質性」
次に、計画性や悪質性について説明しました。
「被告は多くの人を殺せるように過去の事件を参考に危険性を承知のうえガソリンを用いた放火という手段を選び、多数の人が働いている第1スタジオを選択した。包丁を持参して京都に入り、第1スタジオやホームセンターを下見したほかガソリンの携行缶やバケツなどを購入するなど着々と準備を進めていた」と主張しました。
その上で「一貫して『確実に多くの人数を殺害する』という強固な殺意を抱き続け、大量のガソリンをまいて放火するという生命侵害の危険性が極めて高い残虐な行為だ。第1スタジオ内の従業員を一瞬にして阿鼻(あび)叫喚の渦に巻き込み非道極まりない」と述べました。
「動機」
続いて、動機についてです。
被告が応募した小説が京アニ大賞に落選したことで、小説家になる夢に破れ、うまくいかない人生の責任を京アニに転嫁したことが動機とした上で「その筋違いの恨みこそが動機の本質で、何の落ち度もない京アニに責任転嫁するのは理不尽そのもので、身勝手極まりない」と主張しました。
そのうえで「確かに、京アニに作品を盗用されたという妄想が動機の形成に影響したが、限定的で極刑を免れる要素にはならない」と主張しました。
「遺族や被害者の処罰感情」
続いて、遺族や被害者の処罰感情についてです。
検察は「遺族たちは愛するわが子が、夫が、妻が、母が、父が兄弟姉妹が、何の落ち度もないのに、ただ第1スタジオにいたというだけで予想もしない突然の凶行によって理不尽にも命を奪われた。遺族たちが受けた衝撃や怒り、悲しみは察するにあまりある」と述べました。
また、「『被告には一番重い死刑を望む』など極刑を望む遺族が多数で、あまりの喪失感、絶望感から処罰感情を述べられない人もいる。遺族や被害者の苦しみや悲しみはあまりに深く処罰感情もしゅん烈だ」としました。
「社会的影響と被告の情状」
そして、終盤には事件が及ぼした社会的反響についても言及しました。
検察は「アニメ文化をけん引する会社の社屋が燃え尽くされ、社員の多くが犠牲になり、社会をしんかんさせた。被告が『秋葉原無差別殺傷事件の犯人に共感していた。同じようにしたかった』と述べていたように、自身の境遇への不充足感を晴らすなどのために今回の事件を参考にして類似の事件を起こす人が出てくるおそれがある」と述べました。
その上で「予防として今回のような事件が決して許されないことを社会にきぜんと示す必要性がある」と強調しました。
「死刑を求刑」
そして最後に「被告は遺族や被害者に対して『申し訳ありません』と述べるのみで、反省の弁は極めて表面的なものにすぎない」と述べたうえで、「死刑が確定したほかの事件との均衡からも今回の事件では極刑を回避すべき事情はない」として、検察は死刑を求刑しました。
2023年12月7日 20時28分
「京都アニメーション」のスタジオが放火され、社員36人が死亡した事件の裁判で、殺人などの罪に問われている青葉真司被告(45)に対し、検察は7日、死刑を求刑しました。一方、被告の弁護士は、責任能力はなかったとして改めて無罪を主張しました。
青葉真司被告(45)は、4年前の2019年7月、京都市伏見区の「京都アニメーション」の第1スタジオで、ガソリンをまいて火をつけ、社員36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせたなどとして殺人や放火などの罪に問われています。
京都地方裁判所で開かれた7日の裁判で、検察は、「京アニに筋違いの恨みを持った復しゅうで、日本刑事裁判史上、突出して多い被害者の人数と言える。強固な殺意に基づき計画的に事件を起こし、ガソリンを使った放火の危険性は十分に認識していた。被害者が逃げても猛スピードで煙などが追ってきて、まさに地獄のような恐怖や無念さは察するにあまりある」と主張しました。
そのうえで、「京アニに作品を盗用されたという妄想が動機の形成に影響したが、限定的で極刑を免れる要素にはならない。遺族や被害者の苦しみや悲しみはあまりに深く処罰感情もしゅん烈だ」と述べ被告には事件当時、完全な責任能力があったとして死刑を求刑しました。
被告は、紺のジャージ姿で車いすに乗って出廷し、検察から死刑が求刑されたときややうつむきほとんど動く様子はありませんでした。
一方、被告の弁護士は「建物の2階、3階に被害が及んだり、火の回りが早かったりしたことなど被告には予期しない結果だった」としたうえで、「被告は妄想の中で生き、妄想の中で今回の事件を起こしていた」などと述べ、精神障害により責任能力はなかったなどとして改めて無罪を主張しました。
被告は、6日行われた被告人質問では、「多大に申し訳ないという気持ちはある」と述べ初めて遺族や被害者に謝罪していて、7日は最後に「きちんと質問に答えてきたのでこの場において、つけ加えて話すことはありません」と述べました。
3か月余りにわたった審理が終わり、今後、裁判員や裁判官が評議を行ったうえで、判決は来月25日に言い渡される予定です。
7日の検察の論告の詳細です。
検察は、はじめに「被告は京アニに筋違いの恨みを募らせ、復しゅうのため、第1スタジオにガソリンを使って放火した。ほかに類例を見ない凄惨(せいさん)な大量放火殺人事件だ」と述べました。
そして、死刑を選択する上で考慮されるべき要素を順に説明していきました。
死刑選択 考慮されるべき要素
「結果の重大性」
はじめに結果の重大性について述べました。
この中では「36人の尊い命が奪われ、けがのなかった2人も含めて34人が命を奪われかけたうえ全身にやけどを負うなど、殺人や殺人未遂事件として日本の刑事裁判史上突出して多い被害者の人数といえる。必死に逃げようとするも猛スピードで炎や煙が迫って、まさに地獄のような恐怖は筆舌に尽くしがたく、被害者の無念さは察するにあまりある」と主張しました。
また、「同僚の多数が亡くなり、助けてあげられなかったことで強い自責の念に駆られている人や、事件後、休職を余儀なくされ、いまだに復帰できていない人もいる。いずれの被害者にも一切の落ち度はない」としました。
さらに、「亡くなったのは、京アニに憧れ、人の心を動かすアニメを作るために集まってきた方々で、『宝』である従業員が多数奪われ会社そのものにも損害を与えた」と述べました。
「計画性と悪質性」
次に、計画性や悪質性について説明しました。
「被告は多くの人を殺せるように過去の事件を参考に危険性を承知のうえガソリンを用いた放火という手段を選び、多数の人が働いている第1スタジオを選択した。包丁を持参して京都に入り、第1スタジオやホームセンターを下見したほかガソリンの携行缶やバケツなどを購入するなど着々と準備を進めていた」と主張しました。
その上で「一貫して『確実に多くの人数を殺害する』という強固な殺意を抱き続け、大量のガソリンをまいて放火するという生命侵害の危険性が極めて高い残虐な行為だ。第1スタジオ内の従業員を一瞬にして阿鼻(あび)叫喚の渦に巻き込み非道極まりない」と述べました。
「動機」
続いて、動機についてです。
被告が応募した小説が京アニ大賞に落選したことで、小説家になる夢に破れ、うまくいかない人生の責任を京アニに転嫁したことが動機とした上で「その筋違いの恨みこそが動機の本質で、何の落ち度もない京アニに責任転嫁するのは理不尽そのもので、身勝手極まりない」と主張しました。
そのうえで「確かに、京アニに作品を盗用されたという妄想が動機の形成に影響したが、限定的で極刑を免れる要素にはならない」と主張しました。
「遺族や被害者の処罰感情」
続いて、遺族や被害者の処罰感情についてです。
検察は「遺族たちは愛するわが子が、夫が、妻が、母が、父が兄弟姉妹が、何の落ち度もないのに、ただ第1スタジオにいたというだけで予想もしない突然の凶行によって理不尽にも命を奪われた。遺族たちが受けた衝撃や怒り、悲しみは察するにあまりある」と述べました。
また、「『被告には一番重い死刑を望む』など極刑を望む遺族が多数で、あまりの喪失感、絶望感から処罰感情を述べられない人もいる。遺族や被害者の苦しみや悲しみはあまりに深く処罰感情もしゅん烈だ」としました。
「社会的影響と被告の情状」
そして、終盤には事件が及ぼした社会的反響についても言及しました。
検察は「アニメ文化をけん引する会社の社屋が燃え尽くされ、社員の多くが犠牲になり、社会をしんかんさせた。被告が『秋葉原無差別殺傷事件の犯人に共感していた。同じようにしたかった』と述べていたように、自身の境遇への不充足感を晴らすなどのために今回の事件を参考にして類似の事件を起こす人が出てくるおそれがある」と述べました。
その上で「予防として今回のような事件が決して許されないことを社会にきぜんと示す必要性がある」と強調しました。
「死刑を求刑」
そして最後に「被告は遺族や被害者に対して『申し訳ありません』と述べるのみで、反省の弁は極めて表面的なものにすぎない」と述べたうえで、「死刑が確定したほかの事件との均衡からも今回の事件では極刑を回避すべき事情はない」として、検察は死刑を求刑しました。
灰原哀:正义感一经拨动你就会奋不顾身,非要揭发真相才肯罢休。为了不伤害任何人只好独自背负所有的压力,你这种少年般的危险性格,让人充满了极度的好奇。你能了解吗?正是你这种纯净的香气,反而会让她和我们,以及你自己,被那种既孤独又危险的味道牢牢地束缚住……(正義感に触発されて後先考えず、真実を追い求めてると思ったら、誰も傷つけまいと一人でプレッシャーをしよいこんでる、あなたのそういう少年のような危なっかしい性格、くるおしいほど興味深いけど。わかっているのかしら?その清潔な香りが、彼女や私達、そしてあなた自身を孤独で危険な匂いで縛り上げているのを…」
馬陵の戦いは孫臏と龐涓の最終決戦だが謎が多い
馬陵の戦いは史記の孫子呉起列伝に詳しく記述されています。
馬陵の戦いは同門の孫臏と龐涓の最終決戦にもなっており、孫臏の劇的な策により決着しました。
孫臏と龐涓の因縁の戦いは「囲魏救趙」や「龐涓この樹の下にて死せん」「遂に豎子の名を成さしむ」などの言葉でも有名です。
ただし、馬陵の戦いには謎が多く竹書紀年によれば、馬陵の戦いは二度あった事が分かります。
さらに、竹書紀年には馬陵の戦いでの主役のはずである龐涓や孫臏、田忌の名前がなく、代わりに斉の田肦や魏の穣疵なる将軍が戦った事になっています。
作家の宮城谷昌光氏も言及していますが、馬陵の戦いは謎が多いと言えます。
今回は史記だけではなく竹書紀年の馬陵の戦いも合わせて紹介する様にしました。
馬陵の戦いの経緯
孫臏と龐涓の第一ラウンドは紀元前354年に起きた桂陵の戦いであり、斉の孫臏の囲魏救趙の策により、魏の龐涓を破りました。
これが孫臏のデビュー戦でもあり、鮮やかに孫臏が勝利したわけです。
しかし、龐涓が仕えた魏は戦国七雄の最強国であり、桂陵の戦いで敗れた位では国は揺らぎませんでした。
孫臏と龐涓の因縁の戦いは紀元前342年に訪れる事になります。
史記によれば紀元前342年に魏と趙が韓を攻撃し、韓は斉に援軍を派遣したとあります。
紀元前342年は韓では昭侯の時代であり、申不害を宰相に任命し国力を伸ばしていた時期です。
こうした中で、韓は魏と趙に攻められ、韓の昭侯は申不害と相談し、斉に援軍を求める事を決めたのでしょう。
こうした中で斉の威王は田忌を将軍に任命し、田嬰と軍師の孫臏を付けました。
これにより韓を攻めていた魏の太子申と龐涓は、韓への攻撃を中止し、斉軍へ備える事になります。
これが馬陵の戦いへの序曲となります。
孫臏の見解
魏の太子申と龐涓は斉に向かいますが、孫臏は次の様に述べました。
孫臏「三晋(魏、趙、韓)の兵は勇猛で剽悍であり、斉を軽んじ卑怯な輩だと思っております。
しかし、戦が巧みな者は相手の情勢に応じ、臨機応変に動くものです。
兵法には『百里の遠方から利益に釣られて動く者は大将を失い、五十里を利益に釣られて動くものは軍の半分しか達する事が出来ない』と聞いております」
孫臏は魏軍は斉軍を弱兵だと思って舐めているから、策を使えば簡単に釣り出す事が出来ると見解を述べています。
さらに、孫臏の優秀な所は龐涓を誘い出す為の策を考えてあった事でしょう。
魏軍は斉に向かいますが、斉軍が魏に入った事を知ると、魏軍は斉軍を追いかける形で魏に入りました。
竈の数
孫臏は魏の領内に入ると、10万の竈を造らせますが、翌日には5万に減らし、さらに翌日には3万に減らしました。
龐涓は三日に渡り斉軍を追いかけましたが、竈の数が日に日に減っている事を知ると、多いに喜び次の様に述べています。
龐涓「儂は斉の兵士が臆病な事は知っていたが、我が領内に入って3日で過半数が逃亡した事が分かった」
龐涓は歩兵を同行させず騎兵だけを率いて、斉軍を猛追する事になります。
龐涓は呆気なく孫臏の策に引っ掛かってしまった事になります。
ただし、龐涓を擁護するのであれば、龐涓は紀元前354年の桂陵の戦いの前に、趙の成侯が籠る邯鄲を陥落させています。
邯鄲は難攻不落とも呼ばれる堅城であり、邯鄲を陥落させた龐涓は己の武勇に絶対の自信もあったのでしょう。
孫臏としては、龐涓の性格を見極めても策だった可能性もあります。
孫臏は龐涓の行動を予測しており、決戦の場を馬陵に定めました。
龐涓の最期
孫臏が龐涓との戦いに馬陵を選んだのは、馬陵の道が狭く険阻であり、伏兵を配置するのに丁度良く、魏軍を弩の一斉射撃で壊滅出来ると考えた為です。
ここで孫臏は手の込んだ行いをし大樹を兵士に削らせ「龐涓この樹の下にて死せん」と書かせました。
孫臏の頭の中では龐涓の最期までイメージ出来ていたとも言えます。
孫臏は射撃が得意な弩兵を道の両端に隠して配置し、龐涓を待ち伏せていました。
さらに、孫臏は大樹の下で火が見えたら一斉に射撃する様に命じたわけです。
龐涓は勇猛な武将だったのからなのか、先頭を切って軍を進めたからなのかは不明ですが、大樹の下に到着し火を灯し「龐涓この樹の下にて死せん」の文字を見る事になります。
龐涓は驚きますが、次の瞬間に一万の弩が一斉に射撃され龐涓を狙いました。
魏軍は大混乱に陥り、龐涓も軍が崩壊した事を悟り「遂に豎子の名を成さしむ」の言葉を残す事になります。
龐涓は「こんな策が出来る奴は、この世で孫臏しかいない」と悟ったはずです。
龐涓は敗北を認め自害し、魏軍は多いに斉軍に打ち破られました。
魏軍の総大将である太子申は捕虜となり、馬陵の戦いは斉軍の大勝利となります。
紀元前342年の馬陵の戦いまでは魏は戦国七雄の最強国であり、魏の恵王に至っては天子気取りだった話がありますが、この戦いを境にして凋落が始まります。
魏は翌年には秦の商鞅が率いる軍にも大敗し、魏の公子卬は捕らえれました。
これにより魏は最強国から転落し、時代は戦国時代中期の形である秦斉二強時代に突入します。
竹書紀年の馬陵の戦い
馬陵の戦いは2度あった
最初に述べた様に、竹書紀年には史記とは違った形式での馬陵の戦いが描かれていました。
因みに、竹書紀年だと馬陵の戦いは、2度あった事が記述されています。
竹書紀年によると周の顕王24年(紀元前345年)に、魏が韓を馬陵で破ったとあります。
これが一度目の馬陵の戦いであり、魏が韓を破ったと書かれていました。
それから2年後の周の顕王26年に魏の穣疵なる将軍が鄭の孔夜将軍を梁赫の地で破ったとあります。
竹書紀年では鄭と書かれていますが、鄭の国は紀元前375年に韓の哀侯が滅ぼしており、韓は南鄭に遷都した事もあり、ここでいう鄭は韓の事を指します。
梁赫は韓の国内にある梁と赫であり、魏の穣疵将軍が韓の軍を二度に渡って打ち破ったと見る事が出来るはずです。
しかし、穣疵の戦いはこれだけでは終わらず、斉の田肦と馬陵で戦ったとあります。
これが竹書紀年が示す二度目の馬陵の戦いです。
竹書紀年を見る限りでは、馬陵の戦いでは孫臏、龐涓、田忌は登場せず、代わりに穣疵と田肦が戦った事になっています。
因みに、作家の宮城谷昌光氏は龐涓と穣疵が同一人物だとする可能性が僅かながらですが、残っていると指摘しています。
それによると、穣疵の「穣」は姓ではなく封邑の名であり、「疵」は小さな傷を指す言葉だと言います。
龐涓の「涓」は小さな流れを指す言葉であり、意味が似ている事で龐涓と穣疵が同一人物だと考える事が出来るそうです。
宮城谷昌光氏の説で考えると龐涓は穣に封じられていた事になり、穣は後に秦の領土となり秦の昭王の時代に絶大な力を持った魏冄が封じられた場所でもあります。
それを考えると龐涓と魏冄は無関係に思うかも知れませんが、同じ場所を封邑とした可能性が出て来ます。
馬陵の戦いの場所
竹書紀年を見ると、先に述べた様に馬陵の戦いが二度あった事が分かります。
これに関してですが、最初の魏と韓が戦った一度目の馬陵の戦いと魏と斉が戦った2度目の馬陵の戦いは別の場所で行われたのではないか?とも考えられています。
一般的には馬陵の戦いは魏と斉の戦いであり、魏の東方もしくは斉の西方で行われたと考えるのが普通でしょう。
しかし、一度目の馬陵の戦いは魏と韓の戦いであり、魏と韓が本国から離れ斉に近い馬陵で戦うのはおかしいとも言えるはずです。
それを考えると魏と韓が戦った馬陵の戦いと、魏と斉が戦った馬陵の戦いは別の場所で行われたとも考える事が出来ます。
馬陵の戦いは史記と竹書紀年でズレがあり、謎は大きいと感じています。
因みに、竹書紀年は戦国時代の魏の襄王の墓から出て来た代物です。
魏の襄王の在位期間は紀元前319年から紀元前296年であり、馬陵の戦いから数十年後に即位した人物だと分かります。
それに比べ司馬遷は馬陵の戦いから200年以上経った人物であり、竹書紀年の方が実際の馬陵の戦いに近いのではないかと感じております。
尚、個人的には馬陵の戦いでの孫臏の計略は余りにも見事すぎて、「戦場でこんなに鮮やかに策が決まるものなのか?」とする疑問もあります。
史記の馬陵の戦いは実際にあったとしても、かなり脚色が加えられている様に思いました。
ただし、馬陵の戦いで魏が敗れ、最強国から転落した事は間違ってはいない様に感じます。
馬陵の戦いは史記の孫子呉起列伝に詳しく記述されています。
馬陵の戦いは同門の孫臏と龐涓の最終決戦にもなっており、孫臏の劇的な策により決着しました。
孫臏と龐涓の因縁の戦いは「囲魏救趙」や「龐涓この樹の下にて死せん」「遂に豎子の名を成さしむ」などの言葉でも有名です。
ただし、馬陵の戦いには謎が多く竹書紀年によれば、馬陵の戦いは二度あった事が分かります。
さらに、竹書紀年には馬陵の戦いでの主役のはずである龐涓や孫臏、田忌の名前がなく、代わりに斉の田肦や魏の穣疵なる将軍が戦った事になっています。
作家の宮城谷昌光氏も言及していますが、馬陵の戦いは謎が多いと言えます。
今回は史記だけではなく竹書紀年の馬陵の戦いも合わせて紹介する様にしました。
馬陵の戦いの経緯
孫臏と龐涓の第一ラウンドは紀元前354年に起きた桂陵の戦いであり、斉の孫臏の囲魏救趙の策により、魏の龐涓を破りました。
これが孫臏のデビュー戦でもあり、鮮やかに孫臏が勝利したわけです。
しかし、龐涓が仕えた魏は戦国七雄の最強国であり、桂陵の戦いで敗れた位では国は揺らぎませんでした。
孫臏と龐涓の因縁の戦いは紀元前342年に訪れる事になります。
史記によれば紀元前342年に魏と趙が韓を攻撃し、韓は斉に援軍を派遣したとあります。
紀元前342年は韓では昭侯の時代であり、申不害を宰相に任命し国力を伸ばしていた時期です。
こうした中で、韓は魏と趙に攻められ、韓の昭侯は申不害と相談し、斉に援軍を求める事を決めたのでしょう。
こうした中で斉の威王は田忌を将軍に任命し、田嬰と軍師の孫臏を付けました。
これにより韓を攻めていた魏の太子申と龐涓は、韓への攻撃を中止し、斉軍へ備える事になります。
これが馬陵の戦いへの序曲となります。
孫臏の見解
魏の太子申と龐涓は斉に向かいますが、孫臏は次の様に述べました。
孫臏「三晋(魏、趙、韓)の兵は勇猛で剽悍であり、斉を軽んじ卑怯な輩だと思っております。
しかし、戦が巧みな者は相手の情勢に応じ、臨機応変に動くものです。
兵法には『百里の遠方から利益に釣られて動く者は大将を失い、五十里を利益に釣られて動くものは軍の半分しか達する事が出来ない』と聞いております」
孫臏は魏軍は斉軍を弱兵だと思って舐めているから、策を使えば簡単に釣り出す事が出来ると見解を述べています。
さらに、孫臏の優秀な所は龐涓を誘い出す為の策を考えてあった事でしょう。
魏軍は斉に向かいますが、斉軍が魏に入った事を知ると、魏軍は斉軍を追いかける形で魏に入りました。
竈の数
孫臏は魏の領内に入ると、10万の竈を造らせますが、翌日には5万に減らし、さらに翌日には3万に減らしました。
龐涓は三日に渡り斉軍を追いかけましたが、竈の数が日に日に減っている事を知ると、多いに喜び次の様に述べています。
龐涓「儂は斉の兵士が臆病な事は知っていたが、我が領内に入って3日で過半数が逃亡した事が分かった」
龐涓は歩兵を同行させず騎兵だけを率いて、斉軍を猛追する事になります。
龐涓は呆気なく孫臏の策に引っ掛かってしまった事になります。
ただし、龐涓を擁護するのであれば、龐涓は紀元前354年の桂陵の戦いの前に、趙の成侯が籠る邯鄲を陥落させています。
邯鄲は難攻不落とも呼ばれる堅城であり、邯鄲を陥落させた龐涓は己の武勇に絶対の自信もあったのでしょう。
孫臏としては、龐涓の性格を見極めても策だった可能性もあります。
孫臏は龐涓の行動を予測しており、決戦の場を馬陵に定めました。
龐涓の最期
孫臏が龐涓との戦いに馬陵を選んだのは、馬陵の道が狭く険阻であり、伏兵を配置するのに丁度良く、魏軍を弩の一斉射撃で壊滅出来ると考えた為です。
ここで孫臏は手の込んだ行いをし大樹を兵士に削らせ「龐涓この樹の下にて死せん」と書かせました。
孫臏の頭の中では龐涓の最期までイメージ出来ていたとも言えます。
孫臏は射撃が得意な弩兵を道の両端に隠して配置し、龐涓を待ち伏せていました。
さらに、孫臏は大樹の下で火が見えたら一斉に射撃する様に命じたわけです。
龐涓は勇猛な武将だったのからなのか、先頭を切って軍を進めたからなのかは不明ですが、大樹の下に到着し火を灯し「龐涓この樹の下にて死せん」の文字を見る事になります。
龐涓は驚きますが、次の瞬間に一万の弩が一斉に射撃され龐涓を狙いました。
魏軍は大混乱に陥り、龐涓も軍が崩壊した事を悟り「遂に豎子の名を成さしむ」の言葉を残す事になります。
龐涓は「こんな策が出来る奴は、この世で孫臏しかいない」と悟ったはずです。
龐涓は敗北を認め自害し、魏軍は多いに斉軍に打ち破られました。
魏軍の総大将である太子申は捕虜となり、馬陵の戦いは斉軍の大勝利となります。
紀元前342年の馬陵の戦いまでは魏は戦国七雄の最強国であり、魏の恵王に至っては天子気取りだった話がありますが、この戦いを境にして凋落が始まります。
魏は翌年には秦の商鞅が率いる軍にも大敗し、魏の公子卬は捕らえれました。
これにより魏は最強国から転落し、時代は戦国時代中期の形である秦斉二強時代に突入します。
竹書紀年の馬陵の戦い
馬陵の戦いは2度あった
最初に述べた様に、竹書紀年には史記とは違った形式での馬陵の戦いが描かれていました。
因みに、竹書紀年だと馬陵の戦いは、2度あった事が記述されています。
竹書紀年によると周の顕王24年(紀元前345年)に、魏が韓を馬陵で破ったとあります。
これが一度目の馬陵の戦いであり、魏が韓を破ったと書かれていました。
それから2年後の周の顕王26年に魏の穣疵なる将軍が鄭の孔夜将軍を梁赫の地で破ったとあります。
竹書紀年では鄭と書かれていますが、鄭の国は紀元前375年に韓の哀侯が滅ぼしており、韓は南鄭に遷都した事もあり、ここでいう鄭は韓の事を指します。
梁赫は韓の国内にある梁と赫であり、魏の穣疵将軍が韓の軍を二度に渡って打ち破ったと見る事が出来るはずです。
しかし、穣疵の戦いはこれだけでは終わらず、斉の田肦と馬陵で戦ったとあります。
これが竹書紀年が示す二度目の馬陵の戦いです。
竹書紀年を見る限りでは、馬陵の戦いでは孫臏、龐涓、田忌は登場せず、代わりに穣疵と田肦が戦った事になっています。
因みに、作家の宮城谷昌光氏は龐涓と穣疵が同一人物だとする可能性が僅かながらですが、残っていると指摘しています。
それによると、穣疵の「穣」は姓ではなく封邑の名であり、「疵」は小さな傷を指す言葉だと言います。
龐涓の「涓」は小さな流れを指す言葉であり、意味が似ている事で龐涓と穣疵が同一人物だと考える事が出来るそうです。
宮城谷昌光氏の説で考えると龐涓は穣に封じられていた事になり、穣は後に秦の領土となり秦の昭王の時代に絶大な力を持った魏冄が封じられた場所でもあります。
それを考えると龐涓と魏冄は無関係に思うかも知れませんが、同じ場所を封邑とした可能性が出て来ます。
馬陵の戦いの場所
竹書紀年を見ると、先に述べた様に馬陵の戦いが二度あった事が分かります。
これに関してですが、最初の魏と韓が戦った一度目の馬陵の戦いと魏と斉が戦った2度目の馬陵の戦いは別の場所で行われたのではないか?とも考えられています。
一般的には馬陵の戦いは魏と斉の戦いであり、魏の東方もしくは斉の西方で行われたと考えるのが普通でしょう。
しかし、一度目の馬陵の戦いは魏と韓の戦いであり、魏と韓が本国から離れ斉に近い馬陵で戦うのはおかしいとも言えるはずです。
それを考えると魏と韓が戦った馬陵の戦いと、魏と斉が戦った馬陵の戦いは別の場所で行われたとも考える事が出来ます。
馬陵の戦いは史記と竹書紀年でズレがあり、謎は大きいと感じています。
因みに、竹書紀年は戦国時代の魏の襄王の墓から出て来た代物です。
魏の襄王の在位期間は紀元前319年から紀元前296年であり、馬陵の戦いから数十年後に即位した人物だと分かります。
それに比べ司馬遷は馬陵の戦いから200年以上経った人物であり、竹書紀年の方が実際の馬陵の戦いに近いのではないかと感じております。
尚、個人的には馬陵の戦いでの孫臏の計略は余りにも見事すぎて、「戦場でこんなに鮮やかに策が決まるものなのか?」とする疑問もあります。
史記の馬陵の戦いは実際にあったとしても、かなり脚色が加えられている様に思いました。
ただし、馬陵の戦いで魏が敗れ、最強国から転落した事は間違ってはいない様に感じます。
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