星稜・山下智将監督代行3年ぶり聖地導き涙 父智茂さん「よう我慢した。頑張ったな」感謝/石川
<高校野球石川大会:星稜4-3小松大谷>◇25日◇決勝◇石川県立野球場
山下智茂名誉監督(77)の長男で、5月末から監督代行を務める星稜・山下智将部長(40)が涙の優勝を勝ち取り、3年ぶり21度目の甲子園に導いた。
◇ ◇ ◇
1点リードも一打同点の9回2死二塁。左前打で同点を狙った走者を星稜の津沢泰成外野手(3年)が本塁好返球で刺した。劇的な幕切れに星稜ナインは喜びを爆発。山下監督代行はベンチの奥で泣いていた。「ホッとしています。本当によく粘った。我慢して、よくまとまってくれた。感謝したい」。今までとはひと味違う優勝をかみしめた。
先発マーガード真偉輝(まいき)キアン投手(3年)が2回までに3失点。だが、2回に犠打をはさむ5連打で追いつき、3回に津沢の左前打で勝ち越した。エース右腕は立ち直り、7回途中から武内涼太投手(2年)が好救援で締めた。
センバツまで指揮を執った林和成氏(47)に代わり、4月に就任した田中辰治監督(45)が5月下旬から体調不良で休養。山下部長が監督代行で緊急登板した。19年春も監督代行で北信越を制した経験があるが、今回はチームに与えた動揺も大きかった。「足を引っ張らないよう、選手のいいところを伸ばそうと」。一方で「今の3年生をずっと見てきた」自負もあった。
父智茂さんからは毎試合後、短いメールが届いた。球場で優勝を見届けてくれた父から「よう我慢した。頑張ったな。ありがとう」と感謝された。関係者によると、甲子園大会までは指揮を執ることが濃厚だ。
19年夏に全国準優勝したが、20年は甲子園大会が中止され、21年は石川大会を涙の途中辞退…。主将の佐々木優太捕手(3年)は言った。「僕らの代は先輩の思いも背負っていた」。8強入りしたセンバツとはひと味違う星稜が、甲子園に帰ってくる。【柏原誠】
◆山下智将(やました・としまさ)1981年(昭56)8月17日、金沢市生まれ。星稜では2年夏に控えの内野手で甲子園に出場。3年時は主将。専大では準硬式でプレーし、卒業後は専大付(東京)でコーチ。金沢星稜大の事務職員を経て11年に星稜に教員として戻った。13年から野球部部長。保健体育教諭。既婚。
▽星稜・津沢(3回に決勝の左前打。9回2死の守備では本塁への好返球で勝利を決める捕殺) 前の回に自分が本塁でアウトになっていたので、飛んできたら絶対刺してやると思っていました。
○…小松大谷が因縁対決に敗れた。1点を追う9回1死から4番吉田創登(そうと)内野手(3年)が二塁打。2死後、井上蒼太内野手(3年)の左前打で本塁に飛び込んだが、間一髪アウトで2年連続甲子園の夢が散った。吉田は「惜しくても負けは負け。勝ち切れなかった」と号泣。星稜には14年夏の決勝で9回に8点差を大逆転されてサヨナラ負け。翌15年夏の準々決勝は9回に4得点で逆転サヨナラでリベンジ。だが19年夏の決勝は同点の9回表に満塁弾を浴びて敗れた。毎回劇的なライバル物語。新チームで借りを返しにいく。
<高校野球石川大会:星稜4-3小松大谷>◇25日◇決勝◇石川県立野球場
山下智茂名誉監督(77)の長男で、5月末から監督代行を務める星稜・山下智将部長(40)が涙の優勝を勝ち取り、3年ぶり21度目の甲子園に導いた。
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1点リードも一打同点の9回2死二塁。左前打で同点を狙った走者を星稜の津沢泰成外野手(3年)が本塁好返球で刺した。劇的な幕切れに星稜ナインは喜びを爆発。山下監督代行はベンチの奥で泣いていた。「ホッとしています。本当によく粘った。我慢して、よくまとまってくれた。感謝したい」。今までとはひと味違う優勝をかみしめた。
先発マーガード真偉輝(まいき)キアン投手(3年)が2回までに3失点。だが、2回に犠打をはさむ5連打で追いつき、3回に津沢の左前打で勝ち越した。エース右腕は立ち直り、7回途中から武内涼太投手(2年)が好救援で締めた。
センバツまで指揮を執った林和成氏(47)に代わり、4月に就任した田中辰治監督(45)が5月下旬から体調不良で休養。山下部長が監督代行で緊急登板した。19年春も監督代行で北信越を制した経験があるが、今回はチームに与えた動揺も大きかった。「足を引っ張らないよう、選手のいいところを伸ばそうと」。一方で「今の3年生をずっと見てきた」自負もあった。
父智茂さんからは毎試合後、短いメールが届いた。球場で優勝を見届けてくれた父から「よう我慢した。頑張ったな。ありがとう」と感謝された。関係者によると、甲子園大会までは指揮を執ることが濃厚だ。
19年夏に全国準優勝したが、20年は甲子園大会が中止され、21年は石川大会を涙の途中辞退…。主将の佐々木優太捕手(3年)は言った。「僕らの代は先輩の思いも背負っていた」。8強入りしたセンバツとはひと味違う星稜が、甲子園に帰ってくる。【柏原誠】
◆山下智将(やました・としまさ)1981年(昭56)8月17日、金沢市生まれ。星稜では2年夏に控えの内野手で甲子園に出場。3年時は主将。専大では準硬式でプレーし、卒業後は専大付(東京)でコーチ。金沢星稜大の事務職員を経て11年に星稜に教員として戻った。13年から野球部部長。保健体育教諭。既婚。
▽星稜・津沢(3回に決勝の左前打。9回2死の守備では本塁への好返球で勝利を決める捕殺) 前の回に自分が本塁でアウトになっていたので、飛んできたら絶対刺してやると思っていました。
○…小松大谷が因縁対決に敗れた。1点を追う9回1死から4番吉田創登(そうと)内野手(3年)が二塁打。2死後、井上蒼太内野手(3年)の左前打で本塁に飛び込んだが、間一髪アウトで2年連続甲子園の夢が散った。吉田は「惜しくても負けは負け。勝ち切れなかった」と号泣。星稜には14年夏の決勝で9回に8点差を大逆転されてサヨナラ負け。翌15年夏の準々決勝は9回に4得点で逆転サヨナラでリベンジ。だが19年夏の決勝は同点の9回表に満塁弾を浴びて敗れた。毎回劇的なライバル物語。新チームで借りを返しにいく。
#清水大雅# 高尔夫新天地加油[跪了]
イ・ボミ支えた清水重憲キャディー長男・大雅が4差6位発進 履正社野球部出身/日刊アマゴルフ
<日刊アマゴルフ2022:第48回全日本シングルプレーヤーズ選手権関西大会>◇第1日◇25日◇よみうりカントリークラブ(6936ヤード、パー72)◇出場70人(棄権1)◇曇り時々晴れ、30・6度、西南西の風2・4メートル
初出場の清水大雅(21=日大)が、首位と4打差6位で発進した。4バーディー、5ボギーで回り1オーバーの73。イ・ボミ(韓国)の賞金女王時代を支えた清水重憲キャディー(48)の長男。履正社野球部では19年夏の甲子園で優勝を経験するも、ベンチ入りできずゴルフに転向した経緯がある。プロへの第1歩として初優勝を目指す。大同一輝(30=ベアズパウ)が3アンダーで首位に立った。
◇ ◇ ◇
本格的にゴルフを始めてからまだ3年ほど。初出場の21歳清水が、V争いに絡んだ。8番パー3、10メートルの下りのパットを沈めて勢いに乗る。続く9番パー5で2メートルを入れて連続バーディー。15番パー4ではチップインバーディーを奪った。ただ、1メートル半のパーパットを3つ外したことで「ショートパットが決まれば、もうちょっといけたかも知れないです」と苦笑いした。
父はイ・ボミの専属で知られ、現在もツアーで有力選手のバッグを担ぐ清水キャディー。「お父さんの活躍は小さい頃から知っていました。ゴルフを始めて疑問に思ったことを聞くと、シンプルな答えが返ってくる。『難しく考えなくていい』と、言われます」。
野球をしていた頃は厳しかったという。「『素振りをせんでいいんか?』。(自主練を)サボッていると叱られました」。高校は名門の履正社へ。3年時に春の選抜出場、夏は全国制覇を達成。ただベンチ入りできず、悔しい思いをした。
日本一になった3年前の夏-。人生の決断をする。
「このまま野球を続けていいのか。ゴルフの方が可能性があるのではないかと考えました。お父さんがゴルフの世界にいるので、いいタイミングだと思った」
目標はプロゴルファー。ただ甘い世界ではないことも知っている。「目指してはいますが、まだプロになると言える力はありません」。どこまでも謙虚。まずは結果を重ね、自信をつかみたい。【益子浩一】
◆清水大雅(しみず・たいが)2001年(平13)5月17日、大阪・八尾市生まれ。小4から野球を始める。投手で、大阪八尾ボーイズから履正社へ。日大ではゴルフ部。173センチ、61キロ。
イ・ボミ支えた清水重憲キャディー長男・大雅が4差6位発進 履正社野球部出身/日刊アマゴルフ
<日刊アマゴルフ2022:第48回全日本シングルプレーヤーズ選手権関西大会>◇第1日◇25日◇よみうりカントリークラブ(6936ヤード、パー72)◇出場70人(棄権1)◇曇り時々晴れ、30・6度、西南西の風2・4メートル
初出場の清水大雅(21=日大)が、首位と4打差6位で発進した。4バーディー、5ボギーで回り1オーバーの73。イ・ボミ(韓国)の賞金女王時代を支えた清水重憲キャディー(48)の長男。履正社野球部では19年夏の甲子園で優勝を経験するも、ベンチ入りできずゴルフに転向した経緯がある。プロへの第1歩として初優勝を目指す。大同一輝(30=ベアズパウ)が3アンダーで首位に立った。
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本格的にゴルフを始めてからまだ3年ほど。初出場の21歳清水が、V争いに絡んだ。8番パー3、10メートルの下りのパットを沈めて勢いに乗る。続く9番パー5で2メートルを入れて連続バーディー。15番パー4ではチップインバーディーを奪った。ただ、1メートル半のパーパットを3つ外したことで「ショートパットが決まれば、もうちょっといけたかも知れないです」と苦笑いした。
父はイ・ボミの専属で知られ、現在もツアーで有力選手のバッグを担ぐ清水キャディー。「お父さんの活躍は小さい頃から知っていました。ゴルフを始めて疑問に思ったことを聞くと、シンプルな答えが返ってくる。『難しく考えなくていい』と、言われます」。
野球をしていた頃は厳しかったという。「『素振りをせんでいいんか?』。(自主練を)サボッていると叱られました」。高校は名門の履正社へ。3年時に春の選抜出場、夏は全国制覇を達成。ただベンチ入りできず、悔しい思いをした。
日本一になった3年前の夏-。人生の決断をする。
「このまま野球を続けていいのか。ゴルフの方が可能性があるのではないかと考えました。お父さんがゴルフの世界にいるので、いいタイミングだと思った」
目標はプロゴルファー。ただ甘い世界ではないことも知っている。「目指してはいますが、まだプロになると言える力はありません」。どこまでも謙虚。まずは結果を重ね、自信をつかみたい。【益子浩一】
◆清水大雅(しみず・たいが)2001年(平13)5月17日、大阪・八尾市生まれ。小4から野球を始める。投手で、大阪八尾ボーイズから履正社へ。日大ではゴルフ部。173センチ、61キロ。
星稜3年ぶり21度目V、山下監督代行涙「本当によく粘った」ピンチ連続も1点差守りきる/石川
<高校野球石川大会:星稜4-3小松大谷>◇25日◇決勝◇石川県立野球場
星稜が接戦を制し、3年ぶり21度目の優勝を果たした。
小松大谷に2回までに3点を先取されたが、2回に犠打をはさむ5連打ですぐさま3-3とした。3回には津沢泰成外野手(3年)の左前打で4-3と勝ち越した。
序盤は乱打戦の様相だったが、星稜は先発のマーガード真偉輝(まいき)キアン投手(3年)は3回以降を無失点。7回途中からは武内涼太投手(2年)が1点を守った。ただ、9イニングすべて走者を許す、ピンチの連続だった。
とくに9回は2死二塁から井上蒼太内野手(3年)に左前打されたが、同点を狙って本塁突入の吉田颯汰内野手(3年)をタッチアウト。歓声と悲鳴の幕切れだった。
苦難を乗り越えた。センバツまで指揮を執った林和成氏(47)に代わって4月に就任した田中辰治監督(45)が、5月下旬から体調不良で療養。山下智将(としまさ)部長(40)が監督代行(40)として今大会の指揮を執った。
山下監督代行は試合終了の瞬間、歓喜の選手たちを見つめながら静かに涙を流した。「うれしいのはもちろん、生徒の頑張りにホッとしています。こういう展開は予想していたけど、本当に投手と野手がよく粘った。私は経験が少ないが、とにかく足を引っ張らないように、選手のいいところを伸ばそうと思った。選手は我慢してよくまとまってくれた。感謝したいです」と冷静に話した。
元監督で星稜を強豪にした山下智茂氏(77)の長男。19年春の大会でも林監督の代行として県大会、北信越を制していた。
学校関係者によると、甲子園までは指揮をとることが濃厚になっている。
星稜は19年夏に奥川恭伸投手(ヤクルト)を擁して甲子園で準優勝。翌20年は甲子園大会が中止になり、さらに21年は新型コロナウイルスの感染拡大により、石川大会の準々決勝を前に出場を辞退した。先輩たちの無念を見てきた3年生が意地を見せ、3年ぶりに夏の甲子園に名乗りを上げた。
<高校野球石川大会:星稜4-3小松大谷>◇25日◇決勝◇石川県立野球場
星稜が接戦を制し、3年ぶり21度目の優勝を果たした。
小松大谷に2回までに3点を先取されたが、2回に犠打をはさむ5連打ですぐさま3-3とした。3回には津沢泰成外野手(3年)の左前打で4-3と勝ち越した。
序盤は乱打戦の様相だったが、星稜は先発のマーガード真偉輝(まいき)キアン投手(3年)は3回以降を無失点。7回途中からは武内涼太投手(2年)が1点を守った。ただ、9イニングすべて走者を許す、ピンチの連続だった。
とくに9回は2死二塁から井上蒼太内野手(3年)に左前打されたが、同点を狙って本塁突入の吉田颯汰内野手(3年)をタッチアウト。歓声と悲鳴の幕切れだった。
苦難を乗り越えた。センバツまで指揮を執った林和成氏(47)に代わって4月に就任した田中辰治監督(45)が、5月下旬から体調不良で療養。山下智将(としまさ)部長(40)が監督代行(40)として今大会の指揮を執った。
山下監督代行は試合終了の瞬間、歓喜の選手たちを見つめながら静かに涙を流した。「うれしいのはもちろん、生徒の頑張りにホッとしています。こういう展開は予想していたけど、本当に投手と野手がよく粘った。私は経験が少ないが、とにかく足を引っ張らないように、選手のいいところを伸ばそうと思った。選手は我慢してよくまとまってくれた。感謝したいです」と冷静に話した。
元監督で星稜を強豪にした山下智茂氏(77)の長男。19年春の大会でも林監督の代行として県大会、北信越を制していた。
学校関係者によると、甲子園までは指揮をとることが濃厚になっている。
星稜は19年夏に奥川恭伸投手(ヤクルト)を擁して甲子園で準優勝。翌20年は甲子園大会が中止になり、さらに21年は新型コロナウイルスの感染拡大により、石川大会の準々決勝を前に出場を辞退した。先輩たちの無念を見てきた3年生が意地を見せ、3年ぶりに夏の甲子園に名乗りを上げた。
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