经典美文 :
语言大师
叶圣陶笔下
的
印光法师
和
弘一法师
文 / 叶圣陶《两法师》
在到功德林去会见弘一法师的路上,我怀着似乎从来不曾有过的洁净的心情;
也可以说带着渴望。
弘一法师就是李叔同先生,我对于他的书画篆刻都中意。
以后数年,听人说李先生已经出了家,在西湖某寺,现在称弘一了。
于是不免向丰子恺先生询问关于弘一法师的种种。
十分感兴趣之余,自然来了见一见的愿望。
以后遇见子恺先生,他常常告诉我弘一法师的近况。
记得有一次给我看弘一法师的来信,中间有 “ 叶居士 ” 云云,
我看了很觉惭愧,虽然 “ 居士 ” 不是什么特别的尊称。
一天,我去上班,劈面来三辆人力车。
最先是个和尚,我并不介意。
第二是子恺先生,他惊喜似地向我点头。
我也点头,心里就闪电般想起 “ 后面一定是他 ”。
人力车夫跑得很快,第三辆一霎经过时,
我见坐着的果然是个和尚,清癯的脸,颔下有稀疏的长髯。
我的感情有点激动,“ 他来了!”
这样想着,屡屡回头望那越去越远的车篷的后影。
第二天,就接到子恺先生的信,约我星期日到功德林去会见。
弘一法师是深深尝了世间味,探了艺术之宫的,
却回过来过那种通常以为枯寂的持律念佛的生活,
他的态度该是怎样,
他的言论该是怎样,
实在难以悬揣。
走上功德林的扶梯,被侍者导引进那房间时,近十位先到的人恬静地起立相迎。
靠窗的左角,正是光线最明亮的地方,站着那位弘一法师,带笑的容颜,细小的眼眸子放出晶莹的光。
丏尊先生给我介绍之后,叫我坐在弘一法师的侧边。
弘一法师坐下来之后,就悠然数着手里的念珠。
我想一颗念珠一声 “ 阿弥陀佛 ” 吧,
本来没有什么话要向他谈,见这样更沉入近乎催眠状态的凝思,言语是全不需要了。
可怪的是在座一些人,
或是他的旧友,
或是他的学生,
在这难得的会晤时,似乎该有好些抒情的话与他谈,然而大家也只默然。
未必因僧俗殊途,尘净异致,而有所矜持吧。
或许他们以为这样默对一二小时,已胜于十年的晤谈了。
晴秋的午前,时光在恬然的静默中经过,觉得有难言的美。
随后又来了几位客,向弘一法师问几时来的,到什么地方去那些话。
他的回答总是一句短语,可是殷勤极了,有如倾诉整个心愿。
因为弘一法师是过午不食的,十一点钟就开始聚餐。
我看他那曾经挥洒书画、弹奏钢琴的手郑重地夹起一荚豇豆来,欢喜满足地送入口中去咀嚼的那种神情,真惭愧自己平时的乱吞胡咽。
“ 这碟子是酱油吧?”
以为他要酱油,某君想把酱油碟子移到他前面。
“ 不,是这个日本的居士要。”
果然,这位日本人道谢了,法师于无形中体会到他的愿欲。
石岑先生爱谈人生问题,著有《人生哲学》,席间他请弘一法师谈些关于人生的意见。
“ 惭愧 ”,
弘一法师虔敬地回答,
“ 没有研究,不能说什么。”
我想,问他像他这样的生活,达到了怎样一种境界,或者比较落实一点儿。
然而健康的人不自觉健康,哀乐的当时也不能描状哀乐;
境界又岂是说得出的。
我就把这意思遣开,从侧面看弘一法师的长髯以及眼边细密的皱纹,出神久之。
饭后,他说约定了去见印光法师,谁愿意去可同去。
印光法师这个名字知道得很久了, 并且见过他的文钞,是现代净土宗的大师,自然也想见一见。
同去者计七八人。
决定不坐人力车,弘一法师拔脚就走,我开始惊异他步履的轻捷。
他的脚是赤着的,穿一双布缕缠成的行脚鞋。
这是独特健康的象征啊,同行的一群人哪里有第二双这样的脚。
惭愧,我这年轻人常常落在他背后。
我在他背后这样想:
他的行止笑语,真所谓纯任自然,使人永不能忘,然而在这背后却是极严谨的戒律。
丏尊先生告诉我,他曾经叹息中国的律宗有待振起,可见他是持律极严的。
他念佛,他过午不食,都为的持律。
但持律而到达非由 “ 外铄 ” 的程度,人就只觉得他一切纯任自然了。
似乎他的心非常之安,躁忿全消,到处自得;
似乎他以为这世间十分平和,十分宁静,自己处身其间,甚而至于会把它淡忘。
他与我们差不多处在不同的两个世界。
到新闸太平寺,有人家借这里办丧事,乐工以为吊客来了,预备吹打起来,
及见我们中间有一个和尚,而且问起的也是和尚,才知道误会,
说道:
“ 他们都是佛教里的。”
寺役去通报时,弘一法师从包袱里取出一件大袖僧衣来
( 他平时穿的,袖子与我们的长衫袖子一样 ),
恭而敬之地穿上身,眉宇间异样地静穆。
我是欢喜四处看望的,见寺役走进去的沿街的那个房间里,有个躯体硕大的和尚刚洗了脸,背部略微佝着,我想这一定就是了。
果然,弘一法师头一个跨进去时,就对这位和尚屈膝拜伏,动作严谨且安详,
我心里肃然,有些人以为弘一法师该是和尚里的浪漫派,看见这样可知完全不对。
印光法师的皮肤呈褐色,肌理颇粗,一望而知是北方人;
头顶几乎全秃,发光亮;
脑额很阔;
浓眉底下一双眼睛这时虽不戴眼镜,却用戴了眼镜从眼镜上方射出眼光来的样子看人,嘴唇略微皱瘪,大概六十左右了,
弘一法师与印光法师并肩而坐,正是绝好的对比,一个是水样的秀美,飘逸,一个是山样的浑朴,凝重。
弘一法师合掌恳请了:
“ 几位居士都欢喜佛法,有曾经看了禅宗的语录的,
今来见法师,请有所开示,慈悲,慈悲。”
对于这 “ 慈悲,慈悲 ” 感到深长的趣味。
“ 嗯,看了语录,看了什么语录?”
印光法师的声音带有神秘味,我想这话里或者就藏着机锋吧。
没有人答应。
弘一法师就指石岑先生,说这位先生看了语录的。
石岑先生说也不专看哪几种语录,只研究过法相宗的义理。
这就开了印光法师的话源。
“ 他说学佛须要得实益,徒然嘴里说说,作几篇文字,没有道理。
他说人眼前最紧要的事情是了生死,生死不了,非常危险。
他说某先生只说自己才对,别人念佛就是迷信,真不应该。”
他说来声色有点儿严厉,间以呵喝。
弘一法师再作第二次恳请,希望于儒说佛法会通之点给我们开示。
“ 印光法师说二者本一致,无非教人父慈子孝兄友弟恭等等。
不过儒家说这是人的天职,人若不守天职就没有办法。
佛家用因果来说,那就深奥得多。
行善就有福,行恶就吃苦。
人谁愿意吃苦呢?”
他的话语很多,有零星的插话,有应验的故事,从其间可以窥见他的信仰与欢喜。
他显然以传道者自任,故遇有机缘不惮尽力宣传。
弘一法师似乎春原上一株小树,毫不愧怍地欣欣向荣,却没有凌驾旁的卉木而上之的气概。
在佛徒中,这位老人的地位崇高极了,从他的文钞里,有许多的信徒恳求他的指示,仿佛他就是往生净土的导引者。
弘一法师第三次 “ 慈悲,慈悲 ” 地恳求时,是说这里有讲经义的书,可让居士们 “ 请 ” 几部回去。
这个 “ 请 ” 字又有特别的味道。
房间的右角里,线袋、平袋的书堆着不少,不禁想起外间纷纷飞散的那些宣传品。
我分到黄智海演述的《阿弥陀经白话解释》,
大圆居士说的《般若波罗蜜多心经讲义》,
李荣祥编的《印光法师嘉言录》三种。
于是弘一法师又屈膝拜伏,辞别。
印光法师点着头,从不大敏捷的动作上显露他的老态。
待我们都辞别了走出房间,弘一法师伸两手,郑重而轻捷地把两扇门拉上了。
随即脱下那件大袖的僧衣,就人家停放在寺门内的包车上,方正平帖地把它摺好包起来。
弘一法师就要回到江湾子恺先生的家里,石岑先生予同先生和我就向他告别。
这位带有通常所谓仙气的和尚,将使我永远怀念了。
语言大师
叶圣陶笔下
的
印光法师
和
弘一法师
文 / 叶圣陶《两法师》
在到功德林去会见弘一法师的路上,我怀着似乎从来不曾有过的洁净的心情;
也可以说带着渴望。
弘一法师就是李叔同先生,我对于他的书画篆刻都中意。
以后数年,听人说李先生已经出了家,在西湖某寺,现在称弘一了。
于是不免向丰子恺先生询问关于弘一法师的种种。
十分感兴趣之余,自然来了见一见的愿望。
以后遇见子恺先生,他常常告诉我弘一法师的近况。
记得有一次给我看弘一法师的来信,中间有 “ 叶居士 ” 云云,
我看了很觉惭愧,虽然 “ 居士 ” 不是什么特别的尊称。
一天,我去上班,劈面来三辆人力车。
最先是个和尚,我并不介意。
第二是子恺先生,他惊喜似地向我点头。
我也点头,心里就闪电般想起 “ 后面一定是他 ”。
人力车夫跑得很快,第三辆一霎经过时,
我见坐着的果然是个和尚,清癯的脸,颔下有稀疏的长髯。
我的感情有点激动,“ 他来了!”
这样想着,屡屡回头望那越去越远的车篷的后影。
第二天,就接到子恺先生的信,约我星期日到功德林去会见。
弘一法师是深深尝了世间味,探了艺术之宫的,
却回过来过那种通常以为枯寂的持律念佛的生活,
他的态度该是怎样,
他的言论该是怎样,
实在难以悬揣。
走上功德林的扶梯,被侍者导引进那房间时,近十位先到的人恬静地起立相迎。
靠窗的左角,正是光线最明亮的地方,站着那位弘一法师,带笑的容颜,细小的眼眸子放出晶莹的光。
丏尊先生给我介绍之后,叫我坐在弘一法师的侧边。
弘一法师坐下来之后,就悠然数着手里的念珠。
我想一颗念珠一声 “ 阿弥陀佛 ” 吧,
本来没有什么话要向他谈,见这样更沉入近乎催眠状态的凝思,言语是全不需要了。
可怪的是在座一些人,
或是他的旧友,
或是他的学生,
在这难得的会晤时,似乎该有好些抒情的话与他谈,然而大家也只默然。
未必因僧俗殊途,尘净异致,而有所矜持吧。
或许他们以为这样默对一二小时,已胜于十年的晤谈了。
晴秋的午前,时光在恬然的静默中经过,觉得有难言的美。
随后又来了几位客,向弘一法师问几时来的,到什么地方去那些话。
他的回答总是一句短语,可是殷勤极了,有如倾诉整个心愿。
因为弘一法师是过午不食的,十一点钟就开始聚餐。
我看他那曾经挥洒书画、弹奏钢琴的手郑重地夹起一荚豇豆来,欢喜满足地送入口中去咀嚼的那种神情,真惭愧自己平时的乱吞胡咽。
“ 这碟子是酱油吧?”
以为他要酱油,某君想把酱油碟子移到他前面。
“ 不,是这个日本的居士要。”
果然,这位日本人道谢了,法师于无形中体会到他的愿欲。
石岑先生爱谈人生问题,著有《人生哲学》,席间他请弘一法师谈些关于人生的意见。
“ 惭愧 ”,
弘一法师虔敬地回答,
“ 没有研究,不能说什么。”
我想,问他像他这样的生活,达到了怎样一种境界,或者比较落实一点儿。
然而健康的人不自觉健康,哀乐的当时也不能描状哀乐;
境界又岂是说得出的。
我就把这意思遣开,从侧面看弘一法师的长髯以及眼边细密的皱纹,出神久之。
饭后,他说约定了去见印光法师,谁愿意去可同去。
印光法师这个名字知道得很久了, 并且见过他的文钞,是现代净土宗的大师,自然也想见一见。
同去者计七八人。
决定不坐人力车,弘一法师拔脚就走,我开始惊异他步履的轻捷。
他的脚是赤着的,穿一双布缕缠成的行脚鞋。
这是独特健康的象征啊,同行的一群人哪里有第二双这样的脚。
惭愧,我这年轻人常常落在他背后。
我在他背后这样想:
他的行止笑语,真所谓纯任自然,使人永不能忘,然而在这背后却是极严谨的戒律。
丏尊先生告诉我,他曾经叹息中国的律宗有待振起,可见他是持律极严的。
他念佛,他过午不食,都为的持律。
但持律而到达非由 “ 外铄 ” 的程度,人就只觉得他一切纯任自然了。
似乎他的心非常之安,躁忿全消,到处自得;
似乎他以为这世间十分平和,十分宁静,自己处身其间,甚而至于会把它淡忘。
他与我们差不多处在不同的两个世界。
到新闸太平寺,有人家借这里办丧事,乐工以为吊客来了,预备吹打起来,
及见我们中间有一个和尚,而且问起的也是和尚,才知道误会,
说道:
“ 他们都是佛教里的。”
寺役去通报时,弘一法师从包袱里取出一件大袖僧衣来
( 他平时穿的,袖子与我们的长衫袖子一样 ),
恭而敬之地穿上身,眉宇间异样地静穆。
我是欢喜四处看望的,见寺役走进去的沿街的那个房间里,有个躯体硕大的和尚刚洗了脸,背部略微佝着,我想这一定就是了。
果然,弘一法师头一个跨进去时,就对这位和尚屈膝拜伏,动作严谨且安详,
我心里肃然,有些人以为弘一法师该是和尚里的浪漫派,看见这样可知完全不对。
印光法师的皮肤呈褐色,肌理颇粗,一望而知是北方人;
头顶几乎全秃,发光亮;
脑额很阔;
浓眉底下一双眼睛这时虽不戴眼镜,却用戴了眼镜从眼镜上方射出眼光来的样子看人,嘴唇略微皱瘪,大概六十左右了,
弘一法师与印光法师并肩而坐,正是绝好的对比,一个是水样的秀美,飘逸,一个是山样的浑朴,凝重。
弘一法师合掌恳请了:
“ 几位居士都欢喜佛法,有曾经看了禅宗的语录的,
今来见法师,请有所开示,慈悲,慈悲。”
对于这 “ 慈悲,慈悲 ” 感到深长的趣味。
“ 嗯,看了语录,看了什么语录?”
印光法师的声音带有神秘味,我想这话里或者就藏着机锋吧。
没有人答应。
弘一法师就指石岑先生,说这位先生看了语录的。
石岑先生说也不专看哪几种语录,只研究过法相宗的义理。
这就开了印光法师的话源。
“ 他说学佛须要得实益,徒然嘴里说说,作几篇文字,没有道理。
他说人眼前最紧要的事情是了生死,生死不了,非常危险。
他说某先生只说自己才对,别人念佛就是迷信,真不应该。”
他说来声色有点儿严厉,间以呵喝。
弘一法师再作第二次恳请,希望于儒说佛法会通之点给我们开示。
“ 印光法师说二者本一致,无非教人父慈子孝兄友弟恭等等。
不过儒家说这是人的天职,人若不守天职就没有办法。
佛家用因果来说,那就深奥得多。
行善就有福,行恶就吃苦。
人谁愿意吃苦呢?”
他的话语很多,有零星的插话,有应验的故事,从其间可以窥见他的信仰与欢喜。
他显然以传道者自任,故遇有机缘不惮尽力宣传。
弘一法师似乎春原上一株小树,毫不愧怍地欣欣向荣,却没有凌驾旁的卉木而上之的气概。
在佛徒中,这位老人的地位崇高极了,从他的文钞里,有许多的信徒恳求他的指示,仿佛他就是往生净土的导引者。
弘一法师第三次 “ 慈悲,慈悲 ” 地恳求时,是说这里有讲经义的书,可让居士们 “ 请 ” 几部回去。
这个 “ 请 ” 字又有特别的味道。
房间的右角里,线袋、平袋的书堆着不少,不禁想起外间纷纷飞散的那些宣传品。
我分到黄智海演述的《阿弥陀经白话解释》,
大圆居士说的《般若波罗蜜多心经讲义》,
李荣祥编的《印光法师嘉言录》三种。
于是弘一法师又屈膝拜伏,辞别。
印光法师点着头,从不大敏捷的动作上显露他的老态。
待我们都辞别了走出房间,弘一法师伸两手,郑重而轻捷地把两扇门拉上了。
随即脱下那件大袖的僧衣,就人家停放在寺门内的包车上,方正平帖地把它摺好包起来。
弘一法师就要回到江湾子恺先生的家里,石岑先生予同先生和我就向他告别。
这位带有通常所谓仙气的和尚,将使我永远怀念了。
#茅子俊[超话]# [鮮花]#茅子俊奇花记# [鮮花]#奇花记# [鮮花]
闻曹牡丹甲齐鲁,作怀牡丹诗百绝
偶遇伊人动情思,缘定今生誓不移
一朝提名金銮殿,浮云蔽目胡不归
日日思君不见君,却已沦为花下妖
悔不当初追莫及,人妖殊途难成双
人生若如初相见,定与卿守比翼飞
期待5.28,见证#茅子俊常在田# 的期幻情缘~ @茅子俊
闻曹牡丹甲齐鲁,作怀牡丹诗百绝
偶遇伊人动情思,缘定今生誓不移
一朝提名金銮殿,浮云蔽目胡不归
日日思君不见君,却已沦为花下妖
悔不当初追莫及,人妖殊途难成双
人生若如初相见,定与卿守比翼飞
期待5.28,见证#茅子俊常在田# 的期幻情缘~ @茅子俊
【Johnny's net】弊社所属タレント岩橋玄樹(King & Prince)に関するご報告
平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
この度、弊社所属タレント岩橋玄樹(King & Prince)は、2021年3月31日をもちまして、King & Princeとしての活動を終えるとともに、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道へと進みますことをご報告申し上げます。
はじめに、ジャニーズJr.時代からご支援くださった関係者の皆様、そして、何より、活動再開を願い、今日まで待ち続けてくださったファンの皆様には急なご報告となりますこと、心よりお詫び申し上げるとともに、これまで岩橋にいただいた温かいご声援の数々に御礼申し上げます。
岩橋は、幼少期にパニック障害を患い、現在まで向き合ってまいりました。
2018年5月にKing & PrinceとしてCDデビューし、自身を取り巻く環境が大きく変化したことにより、心身のバランスを保つことが難しくなったことからパニック障害が悪化いたしました。この状況に直面し、将来ある一人の若者の人生として考えたときに、たとえデビュー直後の大切な時期であったとしても、目の前のことを優先して将来の可能性を失うことがあってはならないと考えました。大切なことを先送りすることなく、何より心身ともに健康で、長く社会で活躍できることが岩橋の人生にとって優先すべきことだと考えたことから、本人・ご家族・医師・メンバー・ジャニーズ事務所がそれぞれ話し合いを重ねた結果、2018年11月より芸能活動を休止した上で、治療に専念することといたしました。
休養期間中、岩橋は、King & Princeでの活動再開を目指してパニック障害の克服に努めてまいりました。症状が現れることもあれば落ち着くこともあり、一進一退を繰り返した約2年5か月に及ぶ活動休止期間を経て、最終的に岩橋自身が出した結論は、King & Princeとしての活動を終え、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道を進むというものでした。これは、パニック障害を克服する難しさとタレントという職業においてかかるプレッシャーや緊張感の大きさを知っている岩橋が、今の自分の状態を踏まえて今後の人生を見つめ直し、辿り着いた結論でございます。今回、岩橋より自分の言葉で申し出があり、その言葉から、岩橋がKing & Princeとファンの皆様を大切に思うからこその決断であることが伝わってまいりましたので、岩橋の意向を尊重することといたしました。
メンバーも6人でステージに立てる日が来ることを信じておりましたが、岩橋より決断を聞き、6人で話し合った結果、大切な仲間だからこそ前向きに送り出すべきだと考え、5人で歩んでいくことを決意いたしました。再び6人で活動することは叶いませんでしたが、メンバー自身がお互いに尊重した上での前向きな結論でございますので、何卒ご理解賜れますと幸甚に存じます。
岩橋につきましては、引き続き、パニック障害の治療を行いながら、新たな道を歩んでまいります。
そして、平野・永瀬・髙橋・岸・神宮寺につきましても、これから5人のKing & Princeとして新たな道を歩んでまいります。2021年3月31日をもちまして、歩む道は分かれることとなりますが、King & Princeが6人でデビューした事実はこれからも変わることはございません。岩橋にとって、King & Princeのメンバーとして過ごした時間は、苦しいことも多かったかもしれませんが、いつの日か「この経験があったからこそ今の自分がある」と言える日が来ることを心から願っております。そして、King & Princeのメンバーとして、皆様に応援していただいた経験は、これからの人生の糧となることと思います。
改めまして、ファンの皆様並びに関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。
岩橋が、パニック障害と向き合う中で、今日まで気持ちが途切れることなく、前を向いて進むことができたのは、応援してくださる皆様の存在によるものです。
そして、この休養期間中にご尽力いただきました病院関係者の皆様はじめ、ご支援くださいましたすべての方々に心より御礼申し上げます。
新たな道を歩むこととなります岩橋玄樹並びにKing & Princeを、これからも温かく見守っていただけますと幸甚に存じます。
なお、岩橋は、引き続き治療に取り組んでまいりますので、岩橋本人及びご家族並びに医療機関への取材等は、治療活動への支障や他の患者様、医療機関のご迷惑にもなりかねないことから、恐れ入りますが、差し控えていただきますよう、何卒ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
2021年3月29日
株式会社ジャニーズ事務所
岩橋玄樹(King & Prince)よりご報告
まずはじめに、応援してくださっているファンの皆様、そしてお世話になった関係者の皆様にきちんとしたご報告が長い間出来ていなかった事をお詫びいたします。
僕は2018年から、小さいころから患っていたパニック障害を治療するために、
入院をして、自分なりに頑張ってなんとか回復させて、
また皆さんの前にたてるよう、
またメンバーと一緒の時間を過ごせるよう、
これまで病気と向き合ってきました。
でも、現在も僕の病気は完全には治っていません。
僕の症状には波があり、ひどく症状が出てしまう時と、おさまっている時があります。
そんな自分の状態をうまく説明できなくて、なかなか周囲の方に理解してもらえない時もありました。
そして、休養をしてから2年以上が経過してしまい、
いつもそばで見守ってくれたメンバーや、
ずっと応援してくれているファンの皆さんに対して、
はっきりとした報告もできないまま、この先もこれ以上待たせてしまう事が、本当につらく感じてしまいました。
そのような気持ちを抱えて過ごす中で、色々な葛藤がありましたが、
とても勝手かもしれませんが、自分のなかでの一つのけじめとして、
2021年3月31日をもちましてKing & Princeからの脱退と、
ジャニーズ事務所を退所させていただく事になりました。
メンバーを含め、たくさんの方々が応援し続けて待ってくれているにも関わらず、自分の心の弱さから、皆さんとの約束を果たす事が出来なくなってしまった事を、本当に申し訳なく思っております。
ティアラの皆さん、ずっと僕の事を好きでいてくれてありがとうございました。常に心配をかけてしまったけれど、どんな時でもティアラの皆さんの気持ちはすごく伝わっていました。
約11年間応援してくれて本当にありがとうございました。
新しい道に進んでも僕はティアラの事が大好きです。
これまでお世話になった関係者の皆様、本当にありがとうございました。
皆様から色々な事を学ぶ事ができ、本当に楽しかったし、勉強になりました。
皆様のお力がなかったら、ここまで歩めなかったと思います。今後はその学んだ事を生かしながら、新しい道を進んでいきたいと思っております。
そして、いつも僕の居場所を守って、ずっと寄り添ってくれて、僕の決断を尊重してくれた、
紫耀、廉、海人、岸くん、神宮寺には言い表せないくらいの感謝の思いでいっぱいです。
中学生の頃からお互い切磋琢磨し、時には喧嘩をして、時には泣き、笑い、
本当に僕の青春時代をみんなと共に過ごせた事は、人生最高の思い出です。
そしてKing & Princeのメンバーとして一緒にデビュー出来た事は、人生最高の誇りです。
この先は、オスティアラとしてKing & Princeを応援し続けたいと思います。
僕はずっとずっとメンバーの事が本当に大好きです。
また、ここまで大きく成長させてくれて、僕の生きる意味を教えてくれた、ジャニーさんにもたくさん感謝しております。
ジャニーさんと出会ってなかったら僕はいませんでした。メンバーにもファンの皆さんにも会えなかったと思います。
ジャニーさんは僕にとって、お父さんのような存在でした。たくさん怒られ、たくさん褒めてくれ、最後の最後まで心配をしてくれていました。
ジャニーさんの教えてくれた事は芸能界問わず、社会に出ても大切な事ばかりです。
その事を胸に刻み、ジャニーさんが笑って、安心してもらえるような人生を歩んでいきたいと思っております。
この先、新しい道に進みますが、僕とメンバー、そしてティアラの絆は、この大きな空を通して永遠に繋がり続けると思います。
またこの先、大きな壁が立ち塞がる事もあると思いますが、その時は自分自身に『大丈夫』と言い聞かせ、1人の人間としてより強くなりたいです。
そして今後、病気が治った時はもっともっと笑っていたいです。
また、多くの先輩方、仲良くしてくれたジャニーズの皆さん全員に心の底から『本当にありがとうございました』と伝えたいです。
今後もきちんと自分の病気を克服するために、今までとは少しだけ環境を変えて、しっかりと自分のペースで治療を頑張ります。そして、応援してくださった皆さんにいつの日かまた再び笑顔を届けられるようにしっかりと人生を歩んでいきたいと思います。
本当にありがとうございました。
2021年3月29日
岩橋玄樹
平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
この度、弊社所属タレント岩橋玄樹(King & Prince)は、2021年3月31日をもちまして、King & Princeとしての活動を終えるとともに、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道へと進みますことをご報告申し上げます。
はじめに、ジャニーズJr.時代からご支援くださった関係者の皆様、そして、何より、活動再開を願い、今日まで待ち続けてくださったファンの皆様には急なご報告となりますこと、心よりお詫び申し上げるとともに、これまで岩橋にいただいた温かいご声援の数々に御礼申し上げます。
岩橋は、幼少期にパニック障害を患い、現在まで向き合ってまいりました。
2018年5月にKing & PrinceとしてCDデビューし、自身を取り巻く環境が大きく変化したことにより、心身のバランスを保つことが難しくなったことからパニック障害が悪化いたしました。この状況に直面し、将来ある一人の若者の人生として考えたときに、たとえデビュー直後の大切な時期であったとしても、目の前のことを優先して将来の可能性を失うことがあってはならないと考えました。大切なことを先送りすることなく、何より心身ともに健康で、長く社会で活躍できることが岩橋の人生にとって優先すべきことだと考えたことから、本人・ご家族・医師・メンバー・ジャニーズ事務所がそれぞれ話し合いを重ねた結果、2018年11月より芸能活動を休止した上で、治療に専念することといたしました。
休養期間中、岩橋は、King & Princeでの活動再開を目指してパニック障害の克服に努めてまいりました。症状が現れることもあれば落ち着くこともあり、一進一退を繰り返した約2年5か月に及ぶ活動休止期間を経て、最終的に岩橋自身が出した結論は、King & Princeとしての活動を終え、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道を進むというものでした。これは、パニック障害を克服する難しさとタレントという職業においてかかるプレッシャーや緊張感の大きさを知っている岩橋が、今の自分の状態を踏まえて今後の人生を見つめ直し、辿り着いた結論でございます。今回、岩橋より自分の言葉で申し出があり、その言葉から、岩橋がKing & Princeとファンの皆様を大切に思うからこその決断であることが伝わってまいりましたので、岩橋の意向を尊重することといたしました。
メンバーも6人でステージに立てる日が来ることを信じておりましたが、岩橋より決断を聞き、6人で話し合った結果、大切な仲間だからこそ前向きに送り出すべきだと考え、5人で歩んでいくことを決意いたしました。再び6人で活動することは叶いませんでしたが、メンバー自身がお互いに尊重した上での前向きな結論でございますので、何卒ご理解賜れますと幸甚に存じます。
岩橋につきましては、引き続き、パニック障害の治療を行いながら、新たな道を歩んでまいります。
そして、平野・永瀬・髙橋・岸・神宮寺につきましても、これから5人のKing & Princeとして新たな道を歩んでまいります。2021年3月31日をもちまして、歩む道は分かれることとなりますが、King & Princeが6人でデビューした事実はこれからも変わることはございません。岩橋にとって、King & Princeのメンバーとして過ごした時間は、苦しいことも多かったかもしれませんが、いつの日か「この経験があったからこそ今の自分がある」と言える日が来ることを心から願っております。そして、King & Princeのメンバーとして、皆様に応援していただいた経験は、これからの人生の糧となることと思います。
改めまして、ファンの皆様並びに関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。
岩橋が、パニック障害と向き合う中で、今日まで気持ちが途切れることなく、前を向いて進むことができたのは、応援してくださる皆様の存在によるものです。
そして、この休養期間中にご尽力いただきました病院関係者の皆様はじめ、ご支援くださいましたすべての方々に心より御礼申し上げます。
新たな道を歩むこととなります岩橋玄樹並びにKing & Princeを、これからも温かく見守っていただけますと幸甚に存じます。
なお、岩橋は、引き続き治療に取り組んでまいりますので、岩橋本人及びご家族並びに医療機関への取材等は、治療活動への支障や他の患者様、医療機関のご迷惑にもなりかねないことから、恐れ入りますが、差し控えていただきますよう、何卒ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
2021年3月29日
株式会社ジャニーズ事務所
岩橋玄樹(King & Prince)よりご報告
まずはじめに、応援してくださっているファンの皆様、そしてお世話になった関係者の皆様にきちんとしたご報告が長い間出来ていなかった事をお詫びいたします。
僕は2018年から、小さいころから患っていたパニック障害を治療するために、
入院をして、自分なりに頑張ってなんとか回復させて、
また皆さんの前にたてるよう、
またメンバーと一緒の時間を過ごせるよう、
これまで病気と向き合ってきました。
でも、現在も僕の病気は完全には治っていません。
僕の症状には波があり、ひどく症状が出てしまう時と、おさまっている時があります。
そんな自分の状態をうまく説明できなくて、なかなか周囲の方に理解してもらえない時もありました。
そして、休養をしてから2年以上が経過してしまい、
いつもそばで見守ってくれたメンバーや、
ずっと応援してくれているファンの皆さんに対して、
はっきりとした報告もできないまま、この先もこれ以上待たせてしまう事が、本当につらく感じてしまいました。
そのような気持ちを抱えて過ごす中で、色々な葛藤がありましたが、
とても勝手かもしれませんが、自分のなかでの一つのけじめとして、
2021年3月31日をもちましてKing & Princeからの脱退と、
ジャニーズ事務所を退所させていただく事になりました。
メンバーを含め、たくさんの方々が応援し続けて待ってくれているにも関わらず、自分の心の弱さから、皆さんとの約束を果たす事が出来なくなってしまった事を、本当に申し訳なく思っております。
ティアラの皆さん、ずっと僕の事を好きでいてくれてありがとうございました。常に心配をかけてしまったけれど、どんな時でもティアラの皆さんの気持ちはすごく伝わっていました。
約11年間応援してくれて本当にありがとうございました。
新しい道に進んでも僕はティアラの事が大好きです。
これまでお世話になった関係者の皆様、本当にありがとうございました。
皆様から色々な事を学ぶ事ができ、本当に楽しかったし、勉強になりました。
皆様のお力がなかったら、ここまで歩めなかったと思います。今後はその学んだ事を生かしながら、新しい道を進んでいきたいと思っております。
そして、いつも僕の居場所を守って、ずっと寄り添ってくれて、僕の決断を尊重してくれた、
紫耀、廉、海人、岸くん、神宮寺には言い表せないくらいの感謝の思いでいっぱいです。
中学生の頃からお互い切磋琢磨し、時には喧嘩をして、時には泣き、笑い、
本当に僕の青春時代をみんなと共に過ごせた事は、人生最高の思い出です。
そしてKing & Princeのメンバーとして一緒にデビュー出来た事は、人生最高の誇りです。
この先は、オスティアラとしてKing & Princeを応援し続けたいと思います。
僕はずっとずっとメンバーの事が本当に大好きです。
また、ここまで大きく成長させてくれて、僕の生きる意味を教えてくれた、ジャニーさんにもたくさん感謝しております。
ジャニーさんと出会ってなかったら僕はいませんでした。メンバーにもファンの皆さんにも会えなかったと思います。
ジャニーさんは僕にとって、お父さんのような存在でした。たくさん怒られ、たくさん褒めてくれ、最後の最後まで心配をしてくれていました。
ジャニーさんの教えてくれた事は芸能界問わず、社会に出ても大切な事ばかりです。
その事を胸に刻み、ジャニーさんが笑って、安心してもらえるような人生を歩んでいきたいと思っております。
この先、新しい道に進みますが、僕とメンバー、そしてティアラの絆は、この大きな空を通して永遠に繋がり続けると思います。
またこの先、大きな壁が立ち塞がる事もあると思いますが、その時は自分自身に『大丈夫』と言い聞かせ、1人の人間としてより強くなりたいです。
そして今後、病気が治った時はもっともっと笑っていたいです。
また、多くの先輩方、仲良くしてくれたジャニーズの皆さん全員に心の底から『本当にありがとうございました』と伝えたいです。
今後もきちんと自分の病気を克服するために、今までとは少しだけ環境を変えて、しっかりと自分のペースで治療を頑張ります。そして、応援してくださった皆さんにいつの日かまた再び笑顔を届けられるようにしっかりと人生を歩んでいきたいと思います。
本当にありがとうございました。
2021年3月29日
岩橋玄樹
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