【中村屋酒店の兄弟】
たった1行のセリフに隠された感情 藤原季節が23歳新人監督から気付かされたこと
昨年、「くれなずめ」「明日の食卓」「空白」「のさりの島」など映画に出演、ドラマでも活躍する藤原季節(29)。本作の映画「中村屋酒店の兄弟」(白磯大知監督)は第30回東京学生映画祭でグランプリなどを受賞し、撮影から3年たっての劇場公開が決まった。監督からオファーを受けた当初、「出演をお断りした」と明かす。そのワケは?
映画「中村屋酒店の兄弟」、オファー当初は「出演をお断りした」
昨年、「くれなずめ」「明日の食卓」「空白」「のさりの島」など映画に出演、ドラマでも活躍する藤原季節(29)。本作の映画「中村屋酒店の兄弟」(白磯大知監督)は第30回東京学生映画祭でグランプリなどを受賞し、撮影から3年たっての劇場公開が決まった。監督からオファーを受けた当初、「出演をお断りした」と明かす。そのワケは?(取材・文=平辻哲也)
同作は昨今、なくなりつつある酒店を舞台に、親からの店を継いだ兄・弘文(長尾卓磨)と東京からワケあって帰ってきた弟・和馬(藤原)を描く45分の中編。兄弟の近くて遠い距離感を絶妙に描き、第13回田辺・弁慶映画祭TBSラジオ賞、第30回東京学生映画祭グランプリ、第11回下北沢映画祭観客賞などを受賞。この快挙に、W主演の長尾が劇場公開へと動き、3月4日、東京・シネクイントでのレイトショー先行公開、同18日からの全国17館での順次公開が決まった。
「長尾さんをはじめとしたみなさんの努力の積み重ねですね。今だからこそ、誰かの心に届くかもしれない。その可能性を感じてくれた人が積み重なって全国まで行けたんだと思います」
しかし、3年前は劇場公開など思いもよらないことだった。監督は17歳から俳優活動し、独学で脚本を学んだという当時23歳の白磯大知。スタッフも映画未経験という自主映画だった。
「共通の知人を介してオファーを頂きました。最初は『この作品の面白さを理解することができません』とお断りしました。この脚本は、何も激しいことは起こらない。当時は何を撮りたいかつかめなかったんですよ。今思えば、安易な考えだったし、監督の白磯君に敬意をちゃんと払っていなかったんですよね。自分の未熟さですけども」
その後、一度も会わずに断ったことが脳裏に引っかかり、改めて渋谷のカフェで監督との時間を作ってもらった。「そこで白磯君がどういうことを描きたいかっていうことを丁寧に教えてくれたんですが、人となりがとても魅力的だった。『兄弟の距離感を描きたい』という言葉を聞いて、その場でもう一度読み直しました。そうしたら、たった1行のセリフにたくさんの語られてない感情が隠れているんだと気づき、僕にとってチャレンジになるのでやらせてください、とお願いしたんです」。
北海道札幌市出身、19歳で上京「最初から俳優をやるつもりで東京に出てきた」
劇中では、微妙なすれ違いの感情が描かれる。「トークイベントのゲストに来てくれた村上虹郎君が『褒めてばかりでもつまらないので、思ったことを言います。兄弟が楽しすぎる気がした』と言ってくれたんですね。その事をずっと考えました。それで分かったのは、楽しんでいるんじゃなくて、楽しんでいるふりをしているんだな、ということ。その裏にはきっと語られてない感情がたくさんあって、家族や兄弟としゃべっている時の自分も、何かを演じているんだなってことです。そんなことがちょっとずつ見えてきました」。
妹と姉がいるそうで、和馬の気持ちには「自分にも思い当たる節がありますね。気恥ずかしさだったり、東京で好き勝手やっていることの後ろめたさ、それをカモフラージュするためにちょっと明るく話してみたり……」。
自身は北海道札幌市出身。実家を飛び出したことも共通点。19歳の時に大学進学を機に上京したのだ。「最初から俳優をやるつもりで東京に出てきたんです。正確には大学には入学しているんですけど、3か月も通っていませんね……。なので、親には入学金の無駄遣いをさせてしまいました。泣いてましたね。だから、東京と実家で安息の地を探している和馬の気持ちは分かる部分もありました。実家に帰っても、どこかで何かを演じなきゃならない。自分の居場所を彼も探していたんだと思います」。
2013年に本格的に俳優活動をスタートし、以降、映画、ドラマ、舞台でキャリアを積み上げてきた。20年に第42回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を、21年には、第13回TAMA映画賞最優秀新進男優賞を授賞した。
今は、居場所を見つけられたのではないか。「確かに、カメラの前での居場所はできたように思えます。でも、僕ら俳優は、現実に帰ってこなきゃいけないですから。現実の世の中で生活をして生きていかなきゃいけないわけで、その居場所は自分自身でもう1回見つけないといけないと思っています」。
「中村屋酒店の兄弟」はいろんな気付きを与えてくれた作品になった。特に教えてくれたのは兄役の長尾だ。「スタッフは映画が初めての人が多く、不慣れな部分もあったんですけども、長尾さんは最後まで一つも文句を言わなかったんです。だから、僕も何も言わないようにしたんです。そうしたら、3日目から、スタッフが“段取りファースト”から“お芝居ファースト”に変わっていった。それは、僕たちの意識が伝わったんだと思います。はっきり伝えるっていうのは、自分の気持ちを伝えたいだけで、コミュニケーションって、そういうことだけではないんだと思いました」。
出演後は新たな関係性も生まれている。「長尾さんとは全然似ていないんですけど、映画を見ていると、兄弟に見えてくるから不思議ですね。日常生活でも、長男・長尾さん、次男・僕、三男・白磯君の三兄弟みたいな感じなんです。頻繁に連絡を取ったり、お酒を飲んだりするわけじゃないけど、久々に会うことができたら、みんなで近況報告を恥じらいながらする。そんな関係ができあがりました」。
コロナ禍となり自宅で映画鑑賞「インディーズ、メジャーに関わらず必要なもの」
映画は自身の原点だ。「(コロナ禍で)自宅での時間が増えると、大作ばかり観ていました。大好きなアル・パチーノの出演作とかを見ていましたが、先日は、インディーズ映画を見て、衝撃を受けました。『フタリノセカイ』(公開中)というトランスジェンダーの男性とシスジェンダーの女性カップルの話で、2人には子供が作れない。そこである決断をするシーンがあるんですけども、幸せにはあらゆるカタチがあっていいんだという希望の描き方に感動しました。そんな体験をすると、インディーズ、メジャーに関わらず、映画体験は必要なものだと改めて実感しました」。
藤原もそんな体験を与えられるような新しい映画との出会いを求めている。「新しい何かに出会うときって、自分を解体しないと出会えないんじゃないかな、と思っています。常に自分を疑ってみたり、自分は間違っているかもしれないと考え続けて、誰かが書いたセリフを言ってみた時に出会えるような気がします。そんな破壊と再生の旅を続けたいと思っています」。
「中村屋酒店の兄弟」は佳作というべき小作だが、藤原にとってはターニングポイントになったようだ。
たった1行のセリフに隠された感情 藤原季節が23歳新人監督から気付かされたこと
昨年、「くれなずめ」「明日の食卓」「空白」「のさりの島」など映画に出演、ドラマでも活躍する藤原季節(29)。本作の映画「中村屋酒店の兄弟」(白磯大知監督)は第30回東京学生映画祭でグランプリなどを受賞し、撮影から3年たっての劇場公開が決まった。監督からオファーを受けた当初、「出演をお断りした」と明かす。そのワケは?
映画「中村屋酒店の兄弟」、オファー当初は「出演をお断りした」
昨年、「くれなずめ」「明日の食卓」「空白」「のさりの島」など映画に出演、ドラマでも活躍する藤原季節(29)。本作の映画「中村屋酒店の兄弟」(白磯大知監督)は第30回東京学生映画祭でグランプリなどを受賞し、撮影から3年たっての劇場公開が決まった。監督からオファーを受けた当初、「出演をお断りした」と明かす。そのワケは?(取材・文=平辻哲也)
同作は昨今、なくなりつつある酒店を舞台に、親からの店を継いだ兄・弘文(長尾卓磨)と東京からワケあって帰ってきた弟・和馬(藤原)を描く45分の中編。兄弟の近くて遠い距離感を絶妙に描き、第13回田辺・弁慶映画祭TBSラジオ賞、第30回東京学生映画祭グランプリ、第11回下北沢映画祭観客賞などを受賞。この快挙に、W主演の長尾が劇場公開へと動き、3月4日、東京・シネクイントでのレイトショー先行公開、同18日からの全国17館での順次公開が決まった。
「長尾さんをはじめとしたみなさんの努力の積み重ねですね。今だからこそ、誰かの心に届くかもしれない。その可能性を感じてくれた人が積み重なって全国まで行けたんだと思います」
しかし、3年前は劇場公開など思いもよらないことだった。監督は17歳から俳優活動し、独学で脚本を学んだという当時23歳の白磯大知。スタッフも映画未経験という自主映画だった。
「共通の知人を介してオファーを頂きました。最初は『この作品の面白さを理解することができません』とお断りしました。この脚本は、何も激しいことは起こらない。当時は何を撮りたいかつかめなかったんですよ。今思えば、安易な考えだったし、監督の白磯君に敬意をちゃんと払っていなかったんですよね。自分の未熟さですけども」
その後、一度も会わずに断ったことが脳裏に引っかかり、改めて渋谷のカフェで監督との時間を作ってもらった。「そこで白磯君がどういうことを描きたいかっていうことを丁寧に教えてくれたんですが、人となりがとても魅力的だった。『兄弟の距離感を描きたい』という言葉を聞いて、その場でもう一度読み直しました。そうしたら、たった1行のセリフにたくさんの語られてない感情が隠れているんだと気づき、僕にとってチャレンジになるのでやらせてください、とお願いしたんです」。
北海道札幌市出身、19歳で上京「最初から俳優をやるつもりで東京に出てきた」
劇中では、微妙なすれ違いの感情が描かれる。「トークイベントのゲストに来てくれた村上虹郎君が『褒めてばかりでもつまらないので、思ったことを言います。兄弟が楽しすぎる気がした』と言ってくれたんですね。その事をずっと考えました。それで分かったのは、楽しんでいるんじゃなくて、楽しんでいるふりをしているんだな、ということ。その裏にはきっと語られてない感情がたくさんあって、家族や兄弟としゃべっている時の自分も、何かを演じているんだなってことです。そんなことがちょっとずつ見えてきました」。
妹と姉がいるそうで、和馬の気持ちには「自分にも思い当たる節がありますね。気恥ずかしさだったり、東京で好き勝手やっていることの後ろめたさ、それをカモフラージュするためにちょっと明るく話してみたり……」。
自身は北海道札幌市出身。実家を飛び出したことも共通点。19歳の時に大学進学を機に上京したのだ。「最初から俳優をやるつもりで東京に出てきたんです。正確には大学には入学しているんですけど、3か月も通っていませんね……。なので、親には入学金の無駄遣いをさせてしまいました。泣いてましたね。だから、東京と実家で安息の地を探している和馬の気持ちは分かる部分もありました。実家に帰っても、どこかで何かを演じなきゃならない。自分の居場所を彼も探していたんだと思います」。
2013年に本格的に俳優活動をスタートし、以降、映画、ドラマ、舞台でキャリアを積み上げてきた。20年に第42回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を、21年には、第13回TAMA映画賞最優秀新進男優賞を授賞した。
今は、居場所を見つけられたのではないか。「確かに、カメラの前での居場所はできたように思えます。でも、僕ら俳優は、現実に帰ってこなきゃいけないですから。現実の世の中で生活をして生きていかなきゃいけないわけで、その居場所は自分自身でもう1回見つけないといけないと思っています」。
「中村屋酒店の兄弟」はいろんな気付きを与えてくれた作品になった。特に教えてくれたのは兄役の長尾だ。「スタッフは映画が初めての人が多く、不慣れな部分もあったんですけども、長尾さんは最後まで一つも文句を言わなかったんです。だから、僕も何も言わないようにしたんです。そうしたら、3日目から、スタッフが“段取りファースト”から“お芝居ファースト”に変わっていった。それは、僕たちの意識が伝わったんだと思います。はっきり伝えるっていうのは、自分の気持ちを伝えたいだけで、コミュニケーションって、そういうことだけではないんだと思いました」。
出演後は新たな関係性も生まれている。「長尾さんとは全然似ていないんですけど、映画を見ていると、兄弟に見えてくるから不思議ですね。日常生活でも、長男・長尾さん、次男・僕、三男・白磯君の三兄弟みたいな感じなんです。頻繁に連絡を取ったり、お酒を飲んだりするわけじゃないけど、久々に会うことができたら、みんなで近況報告を恥じらいながらする。そんな関係ができあがりました」。
コロナ禍となり自宅で映画鑑賞「インディーズ、メジャーに関わらず必要なもの」
映画は自身の原点だ。「(コロナ禍で)自宅での時間が増えると、大作ばかり観ていました。大好きなアル・パチーノの出演作とかを見ていましたが、先日は、インディーズ映画を見て、衝撃を受けました。『フタリノセカイ』(公開中)というトランスジェンダーの男性とシスジェンダーの女性カップルの話で、2人には子供が作れない。そこである決断をするシーンがあるんですけども、幸せにはあらゆるカタチがあっていいんだという希望の描き方に感動しました。そんな体験をすると、インディーズ、メジャーに関わらず、映画体験は必要なものだと改めて実感しました」。
藤原もそんな体験を与えられるような新しい映画との出会いを求めている。「新しい何かに出会うときって、自分を解体しないと出会えないんじゃないかな、と思っています。常に自分を疑ってみたり、自分は間違っているかもしれないと考え続けて、誰かが書いたセリフを言ってみた時に出会えるような気がします。そんな破壊と再生の旅を続けたいと思っています」。
「中村屋酒店の兄弟」は佳作というべき小作だが、藤原にとってはターニングポイントになったようだ。
【#历史冷知识# 给猫下聘礼:古人养猫为什么如此注重仪式感?】
如今很多人都喜爱“吸猫”“云养猫”,但吸猫不是现代人的专利,古代猫奴爱起猫来的疯狂劲儿,不亚于现代人。
从达官贵人到文人墨客,无数人彻底沦为了“猫奴”。
从先秦开始,我国就有非常明确的关于猫的记载。
《庄子·秋水》记载“骐骥骅骝,一日而驰千里,捕鼠不如狸狴”,最开始把猫叫做狸,主要是用来抓老鼠守食粮的。
到了唐朝,中亚和西域开始向中国传入已经过驯养的猫种。波斯猫在当时被作为贡品进献给皇帝,一跃成为宫廷贵族喜爱的萌宠,被唤作“狸奴”。
李商隐诗中曾写道“鸳鸯瓦上狸奴睡”。
及至两宋,中国人对猫的喜爱达到了前所未有的高潮。
做一名合格铲屎官的准则
“聘猫”也称“纳猫”,而古人选猫,首先是看猫的颜值!
猫的形态颜色有种种不同,清朝咸丰年间黄汉编著的《猫苑》指导人们如何挑选一只适合自己的猫。
猫之毛色,以纯黄为上,纯白次之,纯黑又次之。——《猫苑》
古人最爱的是纯色猫,在纯色猫中又数橘猫为猫上猫。
选好猫后,接下来就是“聘猫”了。
宋代的纳猫流程最为完备,在这一历史时期,温驯体贴的猫超越了狗,成为文人骚客的心头最爱。
他们给喵咪起了爱称“狸奴”“小於莵”,而吸猫成癖的人则被成为“猫精”。
“纳猫如纳妾”说的就是宋代的纳猫流程。此时你若想要拥有一只猫咪,要先翻一翻《象吉备要通书》《居家必备》《玉匣记》等书,挑选一个“纳猫吉日”,写一份纳猫契,再为猫挑选聘礼,才算完成了聘猫的前期工作。
纳猫契与聘礼也十分讲究。
宋朝人买卖牲畜都要签订契约,只有买猫的契约写的是聘书,也称纳猫契,目的是缔结契约,请天上的神仙来做个见证。
纳猫契类似于婚书,主要内容有纳猫日期、猫的外貌以及纳猫人对它的要求:要好好抓老鼠,不能乱偷东西吃,不能到处乱跑。
聘礼分为两种。
如果聘来的猫是家猫生的小猫,就要给主人家送盐,有的地方也会送糖和茶叶等;如果聘来的猫是野猫,则要给猫妈妈送一串小鱼。
黄庭坚《乞猫》:“闻道狸奴将数子,买鱼穿柳聘衔蝉”,他行“买鱼穿柳”之礼聘猫上门 ,又给猫取了个雅号叫“衔蝉”,受他影响,后世的猫还有名为“衔蝉奴”“昆仑妲己”的。 做完这些前期工作后,才能带着猫回家。但别急,猫的回家路上也有规定!
“用斗或桶,盛以布袋,至家讨著一棍,和猫盛桶中携回。路遇沟缺,须填石以过,使不过家,从吉方归。取猫拜堂灶及犬毕,将箸横插于土堆上,令不在家撒屎,仍使上床睡,便不走徃。” ——《崇正辟谬通书》
将猫纳回家时,要把它装在斗或桶里,外面再套上布袋,再找主人家讨要一双筷子也放在装猫的容器里。假使路上遇到坑洼,一定要用石头填平。
到家以后,先带着猫咪去拜家里的灶神和狗子,然后把讨要的筷子插在家中的土堆里,之后猫咪就会把这个土堆当成自己上厕所的地方。
这也许就是最早的猫砂了!
你以为在古代完成这些就能成为一个合格的铲屎官吗?
不不,这是门大学问!
猫生虱,桃叶与楝树根捣烂,热汤泡洗,虱皆死。樟脑末擦之,亦可。
——《行厨集》
现在的养猫人会给猫咪驱虫,而古人则发明了驱虫的中药,来避免喵咪身上长虱子。此外,他们还找到了判断猫咪有没有虱子的方法。
猫于黑暗中,逆循其毛,能出火星者为异,并不生蚤虱。
——《酉阳杂俎》
在黑暗的环境中,逆着毛撸猫,能撸出火星的话,就说明没有长跳蚤。
明代徐树丕在《识小录》中写“猫不食虾蟹”。《本草纲目》里记载:“薄荷,猫食之醉。陆农师曰:薄荷,猫之酒也”。
古人很早就知道猫咪不能吃虾和蟹,这种寒凉的东西会让猫咪拉肚子。同时,猫薄荷会让喵星人产生幻觉,醉态百出。
做完这些,还要给猫做绝育手术!
公猫必阉杀其雄气,化刚为柔,日见肥善。
——《猫苑》
古人一早便知道,给猫做绝育手术后,它会性情温顺,日益圆润。 猫奴自古就有,没想到铲屎官的技术在古代就如此成熟!
著名吸猫人士
宋代的吸猫产业极为发达。
集市上不仅卖猫窝、猫粮,还可以给猫美容。但说起吸猫成瘾的,诗人陆游必得榜上有名!
写出“铁马冰河入梦来”的陆游,其实是一个不折不扣的猫奴,也是写关于猫诗最多的诗人。
盐裹聘狸奴,常看戏座隅。
时时醉薄荷,夜夜占氍毹。
鼠穴功方列,鱼餐赏岂无。
仍当立名字,唤作小於菟。
这首诗名为《赠猫》,是陆游写来纪念自己成功纳猫。
他给猫咪的聘礼是盐巴,可见他领养的是一只家猫。但他用了猫薄荷,堂而皇之地戏弄小猫咪,还要戏称猫咪醉态百出,兴奋地去抓耗子。
陆游总觉得自己亏欠猫些什么,于是在《赠猫》其二中写道:“执鼠无功元不劾,一箪鱼饭以时来”,猫捉老鼠有功,我要喂它鱼饭来犒劳它。
此外,陆游还有“溪柴火软蛮毡暖 ,我与狸奴不出门”,“裹盐迎得小狸奴,尽护山房万卷书”等许多爱猫诗句,为自己的爱猫起名“於菟”。
同样在宋代,猫咪不仅入诗,更达到了画猫的巅峰!南宋画家李迪就是当中痴客!
他极爱猫咪,留下了《秋葵山石图》《狸奴小影》及《狸奴蜻蜓图》等传世佳作。 到了明清,出现了一位重度吸猫患者——嘉靖皇帝。他专门下令创办宫廷养猫专用地——猫儿房,赐给每只猫儿官职和昵称。
当爱猫死去时,嘉靖帝悲痛得几天不吃不喝,甚至要求大臣们写祭文为其超度,用金棺材下葬,造碑立冢。
乾隆皇帝也是铲屎官中的高端玩家。他让皇家画院把自己宠爱的猫咪画成图册,名为《狸奴影》,并以满汉双文标注了名字,以供自己观赏。
#猫咪# #铲屎官#
如今很多人都喜爱“吸猫”“云养猫”,但吸猫不是现代人的专利,古代猫奴爱起猫来的疯狂劲儿,不亚于现代人。
从达官贵人到文人墨客,无数人彻底沦为了“猫奴”。
从先秦开始,我国就有非常明确的关于猫的记载。
《庄子·秋水》记载“骐骥骅骝,一日而驰千里,捕鼠不如狸狴”,最开始把猫叫做狸,主要是用来抓老鼠守食粮的。
到了唐朝,中亚和西域开始向中国传入已经过驯养的猫种。波斯猫在当时被作为贡品进献给皇帝,一跃成为宫廷贵族喜爱的萌宠,被唤作“狸奴”。
李商隐诗中曾写道“鸳鸯瓦上狸奴睡”。
及至两宋,中国人对猫的喜爱达到了前所未有的高潮。
做一名合格铲屎官的准则
“聘猫”也称“纳猫”,而古人选猫,首先是看猫的颜值!
猫的形态颜色有种种不同,清朝咸丰年间黄汉编著的《猫苑》指导人们如何挑选一只适合自己的猫。
猫之毛色,以纯黄为上,纯白次之,纯黑又次之。——《猫苑》
古人最爱的是纯色猫,在纯色猫中又数橘猫为猫上猫。
选好猫后,接下来就是“聘猫”了。
宋代的纳猫流程最为完备,在这一历史时期,温驯体贴的猫超越了狗,成为文人骚客的心头最爱。
他们给喵咪起了爱称“狸奴”“小於莵”,而吸猫成癖的人则被成为“猫精”。
“纳猫如纳妾”说的就是宋代的纳猫流程。此时你若想要拥有一只猫咪,要先翻一翻《象吉备要通书》《居家必备》《玉匣记》等书,挑选一个“纳猫吉日”,写一份纳猫契,再为猫挑选聘礼,才算完成了聘猫的前期工作。
纳猫契与聘礼也十分讲究。
宋朝人买卖牲畜都要签订契约,只有买猫的契约写的是聘书,也称纳猫契,目的是缔结契约,请天上的神仙来做个见证。
纳猫契类似于婚书,主要内容有纳猫日期、猫的外貌以及纳猫人对它的要求:要好好抓老鼠,不能乱偷东西吃,不能到处乱跑。
聘礼分为两种。
如果聘来的猫是家猫生的小猫,就要给主人家送盐,有的地方也会送糖和茶叶等;如果聘来的猫是野猫,则要给猫妈妈送一串小鱼。
黄庭坚《乞猫》:“闻道狸奴将数子,买鱼穿柳聘衔蝉”,他行“买鱼穿柳”之礼聘猫上门 ,又给猫取了个雅号叫“衔蝉”,受他影响,后世的猫还有名为“衔蝉奴”“昆仑妲己”的。 做完这些前期工作后,才能带着猫回家。但别急,猫的回家路上也有规定!
“用斗或桶,盛以布袋,至家讨著一棍,和猫盛桶中携回。路遇沟缺,须填石以过,使不过家,从吉方归。取猫拜堂灶及犬毕,将箸横插于土堆上,令不在家撒屎,仍使上床睡,便不走徃。” ——《崇正辟谬通书》
将猫纳回家时,要把它装在斗或桶里,外面再套上布袋,再找主人家讨要一双筷子也放在装猫的容器里。假使路上遇到坑洼,一定要用石头填平。
到家以后,先带着猫咪去拜家里的灶神和狗子,然后把讨要的筷子插在家中的土堆里,之后猫咪就会把这个土堆当成自己上厕所的地方。
这也许就是最早的猫砂了!
你以为在古代完成这些就能成为一个合格的铲屎官吗?
不不,这是门大学问!
猫生虱,桃叶与楝树根捣烂,热汤泡洗,虱皆死。樟脑末擦之,亦可。
——《行厨集》
现在的养猫人会给猫咪驱虫,而古人则发明了驱虫的中药,来避免喵咪身上长虱子。此外,他们还找到了判断猫咪有没有虱子的方法。
猫于黑暗中,逆循其毛,能出火星者为异,并不生蚤虱。
——《酉阳杂俎》
在黑暗的环境中,逆着毛撸猫,能撸出火星的话,就说明没有长跳蚤。
明代徐树丕在《识小录》中写“猫不食虾蟹”。《本草纲目》里记载:“薄荷,猫食之醉。陆农师曰:薄荷,猫之酒也”。
古人很早就知道猫咪不能吃虾和蟹,这种寒凉的东西会让猫咪拉肚子。同时,猫薄荷会让喵星人产生幻觉,醉态百出。
做完这些,还要给猫做绝育手术!
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——《猫苑》
古人一早便知道,给猫做绝育手术后,它会性情温顺,日益圆润。 猫奴自古就有,没想到铲屎官的技术在古代就如此成熟!
著名吸猫人士
宋代的吸猫产业极为发达。
集市上不仅卖猫窝、猫粮,还可以给猫美容。但说起吸猫成瘾的,诗人陆游必得榜上有名!
写出“铁马冰河入梦来”的陆游,其实是一个不折不扣的猫奴,也是写关于猫诗最多的诗人。
盐裹聘狸奴,常看戏座隅。
时时醉薄荷,夜夜占氍毹。
鼠穴功方列,鱼餐赏岂无。
仍当立名字,唤作小於菟。
这首诗名为《赠猫》,是陆游写来纪念自己成功纳猫。
他给猫咪的聘礼是盐巴,可见他领养的是一只家猫。但他用了猫薄荷,堂而皇之地戏弄小猫咪,还要戏称猫咪醉态百出,兴奋地去抓耗子。
陆游总觉得自己亏欠猫些什么,于是在《赠猫》其二中写道:“执鼠无功元不劾,一箪鱼饭以时来”,猫捉老鼠有功,我要喂它鱼饭来犒劳它。
此外,陆游还有“溪柴火软蛮毡暖 ,我与狸奴不出门”,“裹盐迎得小狸奴,尽护山房万卷书”等许多爱猫诗句,为自己的爱猫起名“於菟”。
同样在宋代,猫咪不仅入诗,更达到了画猫的巅峰!南宋画家李迪就是当中痴客!
他极爱猫咪,留下了《秋葵山石图》《狸奴小影》及《狸奴蜻蜓图》等传世佳作。 到了明清,出现了一位重度吸猫患者——嘉靖皇帝。他专门下令创办宫廷养猫专用地——猫儿房,赐给每只猫儿官职和昵称。
当爱猫死去时,嘉靖帝悲痛得几天不吃不喝,甚至要求大臣们写祭文为其超度,用金棺材下葬,造碑立冢。
乾隆皇帝也是铲屎官中的高端玩家。他让皇家画院把自己宠爱的猫咪画成图册,名为《狸奴影》,并以满汉双文标注了名字,以供自己观赏。
#猫咪# #铲屎官#
说到与这把「供春」壶缘分的起始,翻相册居然是前年的一个春天雨夜读顾景舟大师主编的「宜兴紫砂珍赏」这本书。当时还是小白的我就被这把手捏的奇形怪状「土坯子」吸引了,听科普,居然是这么一把有传奇的紫砂壶。没想到后来有一天也能产生新的联结。用2016年荒野银针开壶开泡,毫香蜜韵温润甜到心尖尖。一定会好好泡养好好珍惜[害羞]
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