#魔道祖師##魔道祖师#
忘羨
R18

「あっ、藍湛まっ……! それ俺のっ……天子笑……」
 あーあ、と俺は思わず溜息を溢す。藍湛に酒を飲ませてはいけない。なのに藍湛は俺の天子笑に誤って口をつけた。
「ら、藍湛……さん?」
 途端に藍湛の目が据わる。他人ならぱっと見ではわかりづらいかもしれないが、俺は最近ようやく藍湛の表情を読み取れるようになってきた。今晩は荒れそうだな、と俺はそっと腹をさすった。

 藍湛の抱き方は乱暴だ。
 吸って、噛んで、縛って、叩く。
 涼しそうな無表情を崩さないまま、粗い呼吸の合間に俺の名前を何度も呼ぶ。額から頬を伝った汗が背中にぽつぽつと落ちてくる。
「あっ、らん、ざ……んぅ、んっ!」
 後ろから抱きすくめられて、片方のその大きな手だけで頭上に腕を繋ぎ止められ、逃れることができない。
 頸に朱い痕を残したかと思えば、肩に噛みつかれる。繋がった箇所からは濡らした油と体から溢れた粘液の音が、そして、肌と肌のぶつかる音も静室に響く。
 俺の粗い呼吸も、声も、寝台が軋む音も、しんとした室内に漏れた。
「らんっざ、も、早い……っ、ゆっく、りってぇ……っ」
 これで何度目だろうか、吐精した回数はもう覚えていない。段々、溢す量が減っていって、もう出ないと俺は首を振ったけど、藍湛が俺を繋ぎ止める力を緩める気はないようだった。
「……ゆっくり?」
 そう、確かめるように藍湛に尋ねられる。けれど藍湛には加減する気はないのだから、なんの問いかけでもない。
 何度も出さずに達して、いつもそこからが始まりだと言ってもいい。
「らん、らんざ……んうっ、あっ、あっ、も、ゆるし……も、出ないからあっ!」
 吐精せずに達した後、俺は布団に頽れた。藍湛が俺の様子を見るように少し止まってくれたから、俺は短く粗い呼吸を繰り返した。
「はっ……っ、は、はっ……っ」
 立てていた膝はがくがくと震えているし、肌がぶつかっていた尻たぶはじん、っと熱をもっている。喉はからからだし、意識はぼんやりとしていた。
 けれど、これだけ俺が翻弄されているのに、藍湛はまだ一度も達していない。俺の胎内で存在を主張するように、硬く大きなままだ。
 少し呼吸が整うと、また藍湛が腰を進める。ごりごりと傘の部分で何度もしこりを押されて、潰されて、急に奥まで差し込まれると、結腸を抉られる。その快感に顔をそらせると、口角から唾液がこぼれ落ちた。
「あ゛っ、あ……っ! そこ、そこだめぇっ」
 吐精した白濁だったものと解すのに使った油がじゅくじゅくと音を立てる。ぎりぎりまで引き抜かれたかと思えば大きく穿たれる。
「魏嬰……、魏嬰…………っ」
 藍湛の腰の動きが早くなって、肌同士がぶつかる音も大きくなった。
 耳元で切ないように囁かれる自分の名に、まるで電気が背筋を這い上がっていく感じがした。
「あっ、は……っ、んぐ……っ、んぅ……っ」
 全身に多幸感が広がって、胸がきゅうと引き絞られる。
 藍湛が愛おしい、かわいい、かっこいい、抱きしめたい。
「藍湛……っ、なあ、……なあってっ!」
「魏嬰?」
 俺が手首を解くようにと腕を動かすと、藍湛がようやく繋ぎ止めていた大きな手を離してくれた。
 俺の手首には藍湛の指の形までしっかりと残っている。
「らんざん……俺、前からが、いい……っ、藍湛のこと抱きしめて、した、っんむ、っ」
 最後まで言わせてもらえなかった。
 藍湛は一度雄を引き抜き、その怪力で俺の体を軽々とひっくり返すと、唇を奪った。噛み付くみたいに、貪るって言った方が正しい。
 唾液が頬へと溢れるまま、舌が俺の口内を蹂躙する。歯列をなぞられ、上顎を舐められる。舌同士が絡まって、唾液を飲み込む事ができずにいると、藍湛はそれすら自分のものだと言わんばかりにそれを吸い、飲み下した。
「ん、ぢゅ……っ、ん、く……んぅ」
 そのまま、また、藍湛が挿ってきた。剛直なそれは壁を押し広げ、後ろから交わっていた時とは違う場所を押し広げながら中へ中へと進んでいく。
 俺は思わず藍湛の背にしがみついた。
 ぎゅうと抱きつくと、唇を合わせたまま胎内を圧迫感する感覚に、小さく声が詰まった。
「ん、っ、っぐ、っ……ぅ」
 痛くはないけれど、藍湛の雄は大きいから内臓がぐっと押される。最奥まで収まると、薄い腹の上からどこまで挿っているのかがわかるくらいだ。
 向き合って雄を埋め込んでくる藍湛の顔を見ると相変わらず表情はそんなに変わらないのに、頬が蒸気して、眦まで朱い。汗が顎から滴って俺の頬へと落ちる。
「っ、……魏嬰っ」
 限界が近いのか、はっと大きく息を吐いた藍湛が腰を振る。ぐっぐっとまるで押しつけられるように奥を穿つ。
 俺はした事はないから春画の受け売りだけど、もし俺が女の子だったら最奥っていうのは胎内で。そこに穿たれて、白濁を吐き出されるっていうのは子供ができるってことだ。頭のどこかで俺には無理だけど、と聞こえた気もしたけれど、そんな事を考えているうちに内臓が迫り上がる。
「藍湛っ、まっ、て……あっ、あ゛っ、くる、っいつもの、くるから……止まっ、止まって……っ、」
 唇を重ねて、耳元で吐息を感じて、藍湛の黒くて長くて艶やかな髪が頬を撫でるたびに、肌がぞわぞわと泡立つ。気持ちが良すぎて、藍湛が体を起こした頃には俺は半開きにした唇からただただ甘い声を漏らしていた。
 いつもの、内側からじわっと溢れるような達し方。その前兆がある。藍湛の背中に爪を立てて堪えようとしたけれど、そんなのは無意味だった。
 何度も前で達するよりも深くて長い快感を思い出すだけで、後孔がぎゅうと藍湛を締め付けた。
「まっ、まって……あ゛、っだめ、だめ、っ……くる、く、ぐ……っ……ぁ、あ゛ぁぁあ、っ」
 藍湛が俺の太腿に噛み付いた事でその蓋が外れたように体の中心から蜜にも似た快感が体中に広がる。目の前がちかちかと明滅して、涙が溢れ、体が震える。つま先は突っ張って、背中が反った。胎内の藍湛の剛直の形がわかるくらいに締め付けているのがわかる。
「っ、ぅう、っ! あ、ぁ……っ」
「っ、魏嬰……っ」
 藍湛の腹と俺の尻たぶが一際大きな音を立てると、藍湛の剛直も震えた。胎内でどくどくと鼓動のように跳ね、熱い白濁が中を濡らす。粘度のあるそれを擦り付けるように何度か腰をぐっと押しつけた藍湛は、大きく呼吸を繰り返してからゆっくりと体を屈めて、俺と唇を合わせる。
「魏嬰」
 唇が触れる前のほんの一瞬、名を呼ばれた。ただでさえ達した余韻ではくはくと呼吸をしていたのに、また体が熱くなる。もう限界だと思っていても、彼に愛されるのが好きだ。
 それから今晩もまた、疼く体で藍湛を抱きしめるのだ。

 毎日のように体を合わせているけど、嫌だと思ったことなんて一度もない。ちょっと体が重いかな、とか、気怠い気がしたりはあるけれど、体には藍湛が付けてくれた跡がたくさんあって、それが愛されてる証拠だと思うと自然と顔が緩む。
 俺は藍湛が大好きだ。

「けどな」
「……魏嬰」
 俺は酔った藍湛とするのは好きじゃない。いや嫌いじゃない。藍湛とするのはいつだって気持ちがいい。
 でも。
「どうせ覚えてないんだろう?」
「……うん」
「……はあ。いや、今後は藍湛の目の前に酒を置かないように気をつける。藍湛も飲まないように気をつけろよ?」
「うん」
 藍湛の酒癖の悪さが嫌いだ。
 面白いけどな。
 覚えてないのはつまらん。

西川:苏轼韩愈都爱的“石鼓”,藏着怎样的千古秘密?

走着走着,路过皇极殿后面的宁寿宫,忽见有石鼓展,便走进了展厅。这是我第一次见到石鼓原石。见得很突然,感觉那十座外形似鼓的花岗岩刻石就是沧桑本身。

文|西川

我工作室的墙上挂着一件清中期官僚、学者阮元据天一阁北宋石鼓文拓本翻刻的石鼓文旧拓。阮元所据拓本原为元代画家、书法家赵孟頫所藏,后归宁波天一阁,但终毁于太平天国兵燹。阮元曾两回摹刻石鼓,一次在嘉庆二年(1797),一次在嘉庆十二年(1807)。前者置杭州府学明伦堂壁间,后者置扬州府学明伦堂壁间。岐山石鼓天下摹刻颇多,以阮氏摹刻为佳;两回摹刻,以杭州府学本为精。书法家尹秉绶尝赞阮元翻刻石鼓文曰:“大儒好古,嘉惠艺林,洵盛事也。”

应该是五六年前,我在北京潘家园旧货市场偶见此拓本。所拓古字,我多不识,但直觉以为其字高古,猜想是某青铜器铭文的清代翻刻拓本(因为其上有“北平翁方纲观;男 树培、树崑 侍”字样)。而售卖者亦不识此为何物,遂低价卖我。回家一查,竟是石鼓文的阮元翻刻拓本,而且是杭州府学本。拓片上的文字属大篆类,介乎西周金文与秦小篆之间,又称“籀书”,相传为周宣王太史籀所创。据说在唐代,石鼓原存465字,到北宋大观年间剩余432字,到元代大德年间剩余386字,就是今天石鼓原石上文字呈现的样貌。15、16世纪之交的明代收藏家安国曾藏有十种石鼓文拓本,因自号家门“十鼓斋”。其中最佳者为北宋三拓,他仿照军兵三阵名之为《先锋》《中权》《后劲》。这些拓本,世上保存石鼓文字数最多,后流传到日本,藏东京三井纪念美术馆。我这件翻刻拓片或许意义不大,但依然让我领略到石鼓文字浑劲的笔画、规矩的结体,感受到其庄重圆融、古茂丰雄的神秘乃至神圣。正是这件翻刻拓片将我带向了石鼓、石鼓文、石鼓诗。

石鼓又称“猎碣”,我这件拓片为第二碣。其诗曰:(见图一)

这段诗被研究者命名为《汧殹篇》,记述的是秦国君臣兵士的一次捕鱼活动;诗后段也记述了做饭加工的场景。郭沫若对本诗有清楚的解读,网上可以查到。当我能够试着读下它来,而且感受到它的韵脚,我心生莫大欢愉,不免好奇若此诗当初被孔夫子收入《诗经》,该入《风》还是《雅》还是《颂》?——当然孔夫子也许不收,那是他老人家的事。韩愈说:“周诗三百篇,雅丽理训诰。曾经圣人手,议论安敢到。”(《荐士》)《汧殹篇》所叙与秦国君臣有关,它被费劲地、正式地,甚至庄严地凿刻于石鼓,在当时肯定不是小事。那么一般说来,它应该有一种场面化的庄重腔调,然此诗却传达出日常、温暖、活泼、乐观的感觉。当作者说到“濿(漫)有小魚,其游散散”的时候,他表现出兴致勃勃的样子。而他这种兴致似乎在示范后人:古今同心。对上古生活、上古政治、上古经济,《汧殹篇》开我眼界。

猎碣石鼓一共十面(今存九碣半)。每鼓一诗,诗皆四言。因为这些诗作的启首用语,学者们将石鼓分别命名为:乍原、而师、马荐、吾水、吴人、吾车、汧沔(汧殹)、田车、銮车、霝雨。这些诗作所叙所咏涉及征旅、修路、渔猎、收获、操练,以及发生在出征或狩猎归途中的遇雨、涉水、行舟之事。被称作《吾车篇》的这一首石鼓诗也很完整:
吾车既工,吾马既同。

吾车既好,吾马既阜。

君子员猎,员猎员游。

麀鹿速速,君子之求。

……

此诗有类《诗经·小雅·车攻》:“我车既攻,我马既同。四牡庞庞,驾言徂东。”渊博的孔夫子“西行不到秦”,没能对秦地诗做现场调查,他肯定是没见过、没听到过《吾车篇》。

上古华夏究竟有多少诗篇泯然无迹?《墨子·公孟》谓“诵诗三百,弦诗三百,歌诗三百,舞诗三百”,合当古诗一千二百首。章太炎《国学讲演录·经学略说》:“太史公谓古诗三千余篇,孔子删为三百篇。或谓孔子前本仅三百篇,孔子自言‘诗三百’是也。然《周礼》言九德、六诗之歌。九德者,《左传》所谓水、火、金、木、土、谷、正德、利用、厚生。九功之德皆可歌者谓之‘九歌’。六诗者,一曰风,二曰赋,三曰比,四曰兴,五曰雅,六曰颂。今《诗》但存风、雅、颂,而无赋、比、兴。……九德、六诗合十五种,今《诗》仅存三种,已有三百篇之多,则十五种当有一千五百篇。”对虽事先锋又自诩好古的我来说,识得《诗经》之外的上古诗篇,感觉更多拥有了一个文化秘密,好像贸然得福,独占了什么,私心以为在知识和精神的台阶上又登高了一级。

土于凤翔府天兴县(今陕西宝鸡)三畤原,唐人称之为“陈仓石碣”或“岐阳石鼓”。韦应物、韩愈皆以之为周宣王时代的故物。宋人郑樵《通志略》以为石鼓作于秦惠文王之后、始皇帝之前,近现代罗振玉、马叙伦均认其出自秦文公时代。据郭沫若《石鼓文研究》考证,石鼓作于秦襄公八年(前770)。金石学家唐兰考证以为,石鼓刻凿时代当在秦献公十一年(前374)。今人刘星、刘牧则确认石鼓文当产生于始皇二十八年到三十四年(前219~前213)之间。若此,则与李斯小篆勒石几乎同时。但石鼓文与李斯小篆何其异类!——学者们的莫衷一是,更增添了石鼓的神秘。

出土以后,石鼓最早被存放在凤翔孔庙。做《石鼓歌》的韩愈见到的是好友张藉持来的拓本。遇五代战乱,石鼓散于民间,至宋代几经周折,终又收齐,置放于凤翔学府。参与寻找石鼓的人中包括了司马光的父亲司马池。宋徽宗于大观二年(1108)将其迁至汴京(今河南开封)国学。逢“靖康之难”,石鼓被金人北掠,因不知其价值,中途被弃置荒野。后石鼓又流落到北京。有文化的清康熙皇帝、乾隆皇帝都对石鼓呵护有加。抗战时期,故宫博物院院长马衡主持将石鼓南迁,兜兜转转,险象迭出,但最终完好无损返回北京。解放战争后期,石鼓本在运送台湾之列,但因其太沉,上不了飞机,没能被运走。1956年石鼓在北京故宫展出。展馆原在皇极殿东庑房。2004年重新开展,展馆移至宁寿宫。

2019年秋,我因参与拍摄纪录片《与古为友》,与摄制组一起进入故宫。走着走着,路过皇极殿后面的宁寿宫,忽见有石鼓展,便走进了展厅。这是我第一次见到石鼓原石。见得很突然,感觉那十座外形似鼓的花岗岩刻石就是沧桑本身。每石高约90厘米,直径约67厘米,重约1吨。那冰凉的石头,曾经颠沛流离的石头,被康有为称作“中华第一古物”的石头,作为古文明核心象征的石头,其暗沉的色泽、斑驳的石皮、号称“汉字之祖”的残存的古字、不见于《诗经》而又为我熟知的古诗歌,令我晕眩穿越。我胸中涌起日星出没的洪波,仿佛得见秦国的君臣、狩猎捕鱼的士兵、烟尘与猎猎旌旗,仿佛听见士兵们的呼喊与石匠们叮叮的凿刻声。我当时真有跪拜之心,但没好意思。按捺流连之后,我假装平静地走出宁寿宫,望着旧朝的黄瓦红墙、新时代的四海游人,投入纪录片拍摄,但内心里排列着如大星陨石的石鼓。

如果这些石鼓上仅镌刻着实用的纪实纪事文字,而不是《诗经》之外的诗篇,如果这些石鼓和石鼓文字不是被张九龄、杜甫、岑参、韦应物、韩愈、梅尧臣、欧阳修、苏轼、苏辙、张耒、张养浩、揭傒斯、李东阳、董其昌、朱彝尊、王士祯、康熙皇帝、乾隆皇帝、沈德潜、姚鼐、翁方纲、曾国藩等高人吟咏过或者写到过,我在亲眼见到它们时不会荡胸波涌。石鼓所系之诗文、之文化记忆,自唐世以来形成了一个宏硕的系列。这个诗文系列在中国文学、文化史中非比寻常。
韦应物《石鼓歌》曰:
周宣大猎兮岐之阳,刻石表功兮炜煌煌。
石如鼓形数止十,风雨缺讹苔藓涩。
今人濡纸脱其文,既击既扫白黑分。
忽开满卷不可识,惊潜动蛰走云云。
喘逶迤,相纠错,乃是宣王之臣史籀作。
一书遗此天地间,精意长存世冥寞。
秦家祖龙还刻石,碣石之罘李斯迹。
世人好古犹共传,持来比此殊悬隔。

如果没有略晚出的韩愈《石鼓歌》,韦应物的“周宣大猎兮岐之阳,刻石表功兮炜煌煌”也应算雄蒙大语,为人牢记。但是论影响,在石鼓歌书写系列,当然首推韩愈韩退之的不朽杰作《石鼓歌》。该诗创作于元和六年(811)。诗中韩愈建议将石鼓从荒野运回,免受风霜与人为破坏,应置放并保护于太学,供诸生讲解切磋。其诗如此开篇:
张生手持石鼓文,劝我试作石鼓歌。
少陵无人谪仙死,才薄将奈石鼓何。
周纲凌迟四海沸,宣王愤起挥天戈。
大开明堂受朝贺,诸侯剑佩鸣相磨。
蒐于岐阳骋雄俊,万里禽兽皆遮罗。
镌功勒成告万世,凿石作鼓隳嵯峨。
从臣才艺咸第一,拣选撰刻留山阿。
雨淋日灸野火燎,鬼物守护烦撝呵。
……
这里韩愈用七言,并未袭用石鼓诗四言作句的形式。其诗启句平实,然后荡荡铺开,高追远古,将石鼓置于万世之中。按照中国古诗的一般体量,韩愈《石鼓歌》就算长诗了。不避我出,不化物我,纵横叙事,以文为诗,营语排奡,行文厚密,有时佶屈聱牙,却回肠荡气,仿佛对应着石鼓的古、硬、重、奥,以及风霜,以及文武合体之质。不知道是否有人说过,韩愈《石鼓歌》其实开创了一种诗歌的风格传统,我们可以简单称之为“石鼓歌传统”。韩愈身后虽亦有诗家以飘逸之语、短小形式吟咏石鼓——如清代王士祯作五言律诗《石鼓山》“遥忆岐阳狩,来过石鼓山。韩苏今地下,星斗尚人间……”,但大多数后代诗人咏石鼓好像都是在续写韩愈的《石鼓歌》。约略说来,一个时代有一个时代的写作风格,唐诗是唐诗,宋诗是宋诗,但要书写石鼓,宋、元、明、清的诗人们多取韩愈为模范。绝了!而且天下古物、古迹数不胜数,但为什么不同时代、朝代的诗人们并不使用统一风格书写例如杭州苏堤或者洞庭湖岳阳楼?石鼓歌书写系列堪称独有!我们由此看出韩愈的魔力,或者说是石鼓与韩愈共谋的魔力,将后代诗人中的不少人编入了同一个队列。

站在这个队列前头的除了梅尧臣,就是嬉笑怒骂又元气淋漓的苏轼苏东坡。但他“续写”《石鼓歌》时收起了自己常用的语调而改用韩愈的语调,仿佛韩公附体。北宋嘉祐六年(1061)十二月十四日,苏轼到凤翔签判任。十六日,谒当地孔庙,抚石鼓,作《石鼓》诗。该诗为组诗《凤翔八观》之一。苏轼《石鼓》诗如此开篇:
冬十二月岁辛丑,我初从政见鲁叟。
旧闻石鼓今见之,文字郁律蛟蛇走。
细观初以指画肚,欲读嗟如箝在口。
韩公好古生已迟,我今况又百年后。
强寻偏旁推点画,时得一二遗八九。
我车既攻马亦同,其鱼维鱮贯之柳。
古器纵横犹识鼎,众星错落仅名斗。
模糊半已似瘢胝,诘曲犹能辨跟肘。
娟娟缺月隐云雾,濯濯嘉禾秀稂莠。
漂流百战偶然存,独立千载谁与友。
……
与韩诗一样,苏诗也是启句平实,但随后进入大开大合的表述,且用仄韵,写得比韩愈更像韩愈,等于把韩愈又发明了一遍。他首先把他的弟弟苏辙带进了这个石鼓歌队列。苏辙写有《和子瞻凤翔八观八首其一石鼓》:“岐山之阳石为鼓,叩之不鸣悬无虞。以为无用百无直,以为有用万物祖。置身无用有用间,自托周宣谁敢侮。宣王没后坟垅平,秦野苍茫不知处……”再后来的诗人们好像不加入这个队列就难称“诗人”:元代王冕,明代王维桢、董其昌、吴宽、李东阳,清代沈德潜等人纷纷入场,搞得连乾隆皇帝都摩拳擦掌地入列〔乾隆五十五年(1790),曾特令仿刻石鼓,置之辟雍。仿鼓现存北京孔庙〕。乾隆《石鼓歌》可能是老皇帝比较上档次的诗作之一:不仅韩公附体,苏公也附体,或者说是韩、苏化作了石鼓幽灵,附在了乾隆皇帝的身上。他的《石鼓歌》虽用到成语、套话,但写得像模像样,也是以纪事开始:
石鼓之数符天干,千秋法物世已少。
况乎辟雍所罗列,多士藉以资探讨。
韩苏杰作遥唱和,近者德潜诗亦好。
濡笔将吟复屡停,蛇足今添笑绝倒。
昌黎建议虽不行,至竟如言见诚蚤。
东坡寓意良独深,新法当时实滋扰。
德潜力欲追二公,横盘硬语抒文藻。
……
韩苏石鼓幽灵飘荡到清晚,曾国藩下场作《太学石鼓歌》,在石鼓歌书写传统上认祖归宗,风格潇洒纵横,铺排八荒,与韩苏的石鼓歌样式不差毫厘:
韩公不鸣老坡谢,世间神物霾寒灰。
我来北雍抚石鼓,坐卧其下三徘徊。
周宣秉旄奠八柱,岐阳大狩鞭风雷。
四山罝罦币天布,群后冠带如云来。
东征北伐荡膻秽,方召Image何雄哉!
铭功镌石告无极,欲镇后土康八垓。
……
王羲之、谢安为中国斯文贡献了“兰亭修禊”;苏轼、黄庭坚、王诜、李公麟、米芾贡献了“西园雅集”。这都是具体特定空间、时间里的神话。而韩愈、苏轼、乾隆皇帝、曾国藩等在时间的维度上“雅集”于石鼓,堪称“千古雅集”。而这个雅集,千百年来不断赋予石鼓、石鼓文、石鼓诗以更多的文化含义。过而言之,嬉而言之,不入“石鼓歌队列”就是不入斯文队列;在古代,中唐以下,那些号称诗人但无能入此列者,庶几不足与论。

(本文选自《三联生活周刊》2021年1期,原标题为《石鼓,石鼓文,石鼓歌》)

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