信と願をもって名号を執持しているが、煩悩を断てない、即ち、見惑と思惑の煩悩をまだ持っていようが、定心にてであろうが、散乱心にてであろうが、阿弥陀仏の願力の加護を感得できさえすれば、臨終時には阿弥陀仏のご来迎を蒙り、西方極楽世界に往生することができる。これが凡聖同居土と呼ばれる所以である。『仏説無量寿経』に説かれる三輩も、『仏説観無量寿経』に説かれる九品も、共に凡聖同居土の範疇に属するものなのである。
自己の志向や念頭を専一にし、西方極楽世界へ往生する指向を専一にすべきである。この世間の衆生の心は散乱しているがゆえ、釈迦牟尼仏は千経と万論により一仏刹土を示し、我々の心を専一にした。東方への往生を想ったり、西方への往生を想ったり、兜率天の内院への往生を思ったりしても、心が分散されて一つも成功しない。
浄土法門を大いに発揚させ、衆生を西方極楽世界へ勧めるという勧進行者の功徳を往生にふりむけて回向すれば、必ず、極楽世界に往生したいとする自分自身の願いをも円満成就できるのである。なぜなのだろうか?これは自他不二だからである。即ち、勧進した衆生が西方極楽世界に往生すれば、当然のこと、自分自身も往生できるのである。
✋热门推荐