#美食图片##美食博主##情侣头像# 昨晚看了评论 祝?考神附体 在命运的颠沛中可以看出一个人的气节。——[英]·莎士比亚 [浪]有志者自有千方百计,无志者只觉千难万难。 花有重开日,人无再少年。——[元]·关汉卿 [熊猫]一个自信的人只会勇往直前。——杜伽尔 波辛埂焕稹泔言必行,行必果。——[清] ·魏禧
《诗词鉴赏》银杏诗词20首
争得淩云《雨后灵淀寺观梅寺乃梁时古刹有银杏二株岁久合抱矣》
明代:皇甫汸
梁代丛林敞,齐关淀水赊。
观梅乘雨霁,问树识年华。
佛供移香净,僧窗影月斜。
夜深钟梵起,飘处即灵花。
《古银杏》
明代:顾璘
突兀蔽庭户,长绳那可量。
抡材掩荆楚,问岁失萧梁。
云实时堪结,雷枝半已荒。
离奇难尔用,匠石转神伤。
《和圣俞李侯家鸭脚子》(节选)
宋代:欧阳修
鸭脚生江南,名实未相浮。
绛囊因入贡,银杏贵中州。
致远有余力,好奇自贤侯。
因令江上根,结实夷门秋。
始摘才三四,金奁献凝旒。
公卿不及议,天子百金酬。
岁久子渐多,累累枝上稠。
主人名好客,赠我比珠投。
《梅圣俞寄银杏》
宋代:欧阳修
鹅毛赠千里,所重以其人。
鸭脚虽百个,得之诚可珍。
问予得之谁,诗老远且贫。
霜野摘林实,京师寄时新。
封包虽甚微,采掇皆躬亲。
物贱以人贵,人贤弃而沦。
开缄重嗟惜,诗以报慇勤。
《依韵酬永叔示予银杏》
宋代:梅尧臣
去年我何有,鸭脚赠远人。
人将比鹅毛,贵多不贵珍。
虽少未为贵,亦以知我贫。
至交不变旧,佳果幸及新。
穷坑我易满,分饷犹奉亲。
计料失广大,琐屑且沉沦。
何用报珠玉,千里来殷懃。
《德远叔坐上赋肴核八首银杏》
宋代:杨万里
深灰浅火略相遭,小苦微甘韵最高。
未必鸡头如鸭脚,不妨银杏伴金桃。
《晨兴书所见》
宋代:葛绍体
等閒日月任西东,不管霜风著鬓蓬。
满地翻黄银杏叶,忽惊天地告成功。
《题银杏双鸠图》
元代:胡奎
鸭脚叶青银杏肥,双鸠和梦立多时。
日长庭院无人到,呼雨呼晴总不知。
《忆家园廿六首其九·银杏》
明代:顾清
鸭脚当年自一时,瓦盆雕砌影毰毸。
黄封不遇头纲使,争得淩云百尺姿。
《银杏》
宋代:张商英
鸭脚半熟色犹青,纱囊驰寄江陵城。
城中朱门翰林宅,清风六月吹帘旌。
玉纤雪椀白相照,烂银壳破玻璃明。
《传示银杏兼简林谦之》
宋代:胡铨
头白经筵思漫覃,骎骎末路我何堪。
八年还作玉堂集,一笑真怀银杏谈。
敢说麕书讥聂北,聊因麟趾咏周南。
梅开更得珠园去,红粟寒梢试一探。
《某得银杏不食种之庵前见者曰是三十年乃生公》
宋代:释慧空
蟠桃一实三千年,银杏著子三十载。
老僧只作旦暮看,汝莫匆匆宜少待。
阶前始芽今出屋,便是携篮走僮仆。
伴我东园看菜归,与汝煎茶剥柔玉。
《谢济之送银杏》
明代:吴宽
错落朱提数百枚,洞庭秋色满盘堆。
霜余乱摘连柑子,雪里同煨有芋魁。
不用盛囊书复写,料非钻核意无猜。
却愁佳惠终难继,乞与山中几树栽。
《夜与诸公饮大雄殿前庭银杏下得月有作》
明代:王世贞
平楚苍然暝未开,暂依高树共徘徊。
一珠陡自中天涌,万象纷从下界来。
微不妨呼米汁,晚参何幸傍经台。
诸贤不置支公坐,寂默谁窥许掾才。
《清江彭君幽居》
明代:李梦阳
新霁隔城江色来,僻居春暮径花开。
当门银杏有千岁,穿叶黄鹂能百回。
南徼云沙曾杖钺,北山薇蕨且衔杯。
波深五月鲥鱼至,独钓吟行鸥不猜。
《法云寺银杏》
清代:全祖望
太傅堂前樾荫奇,遥临江树影参差。
飞柯未展长驱志,老干犹疑左次旗。
魂逐八公山上草,恨留召伯埭前枝。
佛灯黯淡留馀侗,不异桓伊奏笛时。
《双银杏歌》(节选)
清代:庞鸿书
霜林脱尽长风劲,老干凌空势特横。
丛祠野岸俯寒潮,对立隐然君子正。
或云平仲乃古名,叶如鸭脚森高擎。
肌理细密类文木,雕镌裁制最中程。
《淀山烈女亭银杏树歌》
清代:郭福衡
槎丫老树高参天,行人道左足不前。
八角荒亭映斜日,四山列障团寒烟。
啼鸟声声语何苦,生年偏值单门户。
蓦地风波欲断魂,要将一死传千古。
姓氏邻家戒莫谈,灵风拂拂余香龛。
祇剩秋来几株树,纷纷黄叶盈茅庵。
山亭突兀半椽倒,剔苏扪碑字完好。
冢畔原生连理枝,墙阴莫问西邻枣。
女有灵时树不枯,女所瘗处山不孤。
踪迹流芳鲜绰楔,表扬实事传江湖。
树本生苔篱插槿,似同处士含孤愤。
佳果真羞产白衣,新装奚必调红粉。
朅来山麓作清游,十景流传一一搜。
默对灵脩诉刚直,朔风狂欲号松楸。
此树生成忘岁月,余杯酹罢拂衣出。
闻道青溪有小姑,云车风马无相失。
《瑞鹧鸪·双银杏》
宋代:李清照
风韵雍容未甚都,尊前甘橘可为奴。谁怜流落江湖上,玉骨冰肌未肯枯。
谁教并蒂连枝摘,醉后明皇倚太真。居士擘开真有意,要吟风味两家新。
《浣溪沙·寄严荪友》
清代:纳兰性德
藕荡桥边理钓筒,苎萝西去五湖东。笔床茶灶太从容。
况有短墙银杏雨,更兼高阁玉兰风。画眉闲了画芙蓉。https://t.cn/A6xhUEM1
争得淩云《雨后灵淀寺观梅寺乃梁时古刹有银杏二株岁久合抱矣》
明代:皇甫汸
梁代丛林敞,齐关淀水赊。
观梅乘雨霁,问树识年华。
佛供移香净,僧窗影月斜。
夜深钟梵起,飘处即灵花。
《古银杏》
明代:顾璘
突兀蔽庭户,长绳那可量。
抡材掩荆楚,问岁失萧梁。
云实时堪结,雷枝半已荒。
离奇难尔用,匠石转神伤。
《和圣俞李侯家鸭脚子》(节选)
宋代:欧阳修
鸭脚生江南,名实未相浮。
绛囊因入贡,银杏贵中州。
致远有余力,好奇自贤侯。
因令江上根,结实夷门秋。
始摘才三四,金奁献凝旒。
公卿不及议,天子百金酬。
岁久子渐多,累累枝上稠。
主人名好客,赠我比珠投。
《梅圣俞寄银杏》
宋代:欧阳修
鹅毛赠千里,所重以其人。
鸭脚虽百个,得之诚可珍。
问予得之谁,诗老远且贫。
霜野摘林实,京师寄时新。
封包虽甚微,采掇皆躬亲。
物贱以人贵,人贤弃而沦。
开缄重嗟惜,诗以报慇勤。
《依韵酬永叔示予银杏》
宋代:梅尧臣
去年我何有,鸭脚赠远人。
人将比鹅毛,贵多不贵珍。
虽少未为贵,亦以知我贫。
至交不变旧,佳果幸及新。
穷坑我易满,分饷犹奉亲。
计料失广大,琐屑且沉沦。
何用报珠玉,千里来殷懃。
《德远叔坐上赋肴核八首银杏》
宋代:杨万里
深灰浅火略相遭,小苦微甘韵最高。
未必鸡头如鸭脚,不妨银杏伴金桃。
《晨兴书所见》
宋代:葛绍体
等閒日月任西东,不管霜风著鬓蓬。
满地翻黄银杏叶,忽惊天地告成功。
《题银杏双鸠图》
元代:胡奎
鸭脚叶青银杏肥,双鸠和梦立多时。
日长庭院无人到,呼雨呼晴总不知。
《忆家园廿六首其九·银杏》
明代:顾清
鸭脚当年自一时,瓦盆雕砌影毰毸。
黄封不遇头纲使,争得淩云百尺姿。
《银杏》
宋代:张商英
鸭脚半熟色犹青,纱囊驰寄江陵城。
城中朱门翰林宅,清风六月吹帘旌。
玉纤雪椀白相照,烂银壳破玻璃明。
《传示银杏兼简林谦之》
宋代:胡铨
头白经筵思漫覃,骎骎末路我何堪。
八年还作玉堂集,一笑真怀银杏谈。
敢说麕书讥聂北,聊因麟趾咏周南。
梅开更得珠园去,红粟寒梢试一探。
《某得银杏不食种之庵前见者曰是三十年乃生公》
宋代:释慧空
蟠桃一实三千年,银杏著子三十载。
老僧只作旦暮看,汝莫匆匆宜少待。
阶前始芽今出屋,便是携篮走僮仆。
伴我东园看菜归,与汝煎茶剥柔玉。
《谢济之送银杏》
明代:吴宽
错落朱提数百枚,洞庭秋色满盘堆。
霜余乱摘连柑子,雪里同煨有芋魁。
不用盛囊书复写,料非钻核意无猜。
却愁佳惠终难继,乞与山中几树栽。
《夜与诸公饮大雄殿前庭银杏下得月有作》
明代:王世贞
平楚苍然暝未开,暂依高树共徘徊。
一珠陡自中天涌,万象纷从下界来。
微不妨呼米汁,晚参何幸傍经台。
诸贤不置支公坐,寂默谁窥许掾才。
《清江彭君幽居》
明代:李梦阳
新霁隔城江色来,僻居春暮径花开。
当门银杏有千岁,穿叶黄鹂能百回。
南徼云沙曾杖钺,北山薇蕨且衔杯。
波深五月鲥鱼至,独钓吟行鸥不猜。
《法云寺银杏》
清代:全祖望
太傅堂前樾荫奇,遥临江树影参差。
飞柯未展长驱志,老干犹疑左次旗。
魂逐八公山上草,恨留召伯埭前枝。
佛灯黯淡留馀侗,不异桓伊奏笛时。
《双银杏歌》(节选)
清代:庞鸿书
霜林脱尽长风劲,老干凌空势特横。
丛祠野岸俯寒潮,对立隐然君子正。
或云平仲乃古名,叶如鸭脚森高擎。
肌理细密类文木,雕镌裁制最中程。
《淀山烈女亭银杏树歌》
清代:郭福衡
槎丫老树高参天,行人道左足不前。
八角荒亭映斜日,四山列障团寒烟。
啼鸟声声语何苦,生年偏值单门户。
蓦地风波欲断魂,要将一死传千古。
姓氏邻家戒莫谈,灵风拂拂余香龛。
祇剩秋来几株树,纷纷黄叶盈茅庵。
山亭突兀半椽倒,剔苏扪碑字完好。
冢畔原生连理枝,墙阴莫问西邻枣。
女有灵时树不枯,女所瘗处山不孤。
踪迹流芳鲜绰楔,表扬实事传江湖。
树本生苔篱插槿,似同处士含孤愤。
佳果真羞产白衣,新装奚必调红粉。
朅来山麓作清游,十景流传一一搜。
默对灵脩诉刚直,朔风狂欲号松楸。
此树生成忘岁月,余杯酹罢拂衣出。
闻道青溪有小姑,云车风马无相失。
《瑞鹧鸪·双银杏》
宋代:李清照
风韵雍容未甚都,尊前甘橘可为奴。谁怜流落江湖上,玉骨冰肌未肯枯。
谁教并蒂连枝摘,醉后明皇倚太真。居士擘开真有意,要吟风味两家新。
《浣溪沙·寄严荪友》
清代:纳兰性德
藕荡桥边理钓筒,苎萝西去五湖东。笔床茶灶太从容。
况有短墙银杏雨,更兼高阁玉兰风。画眉闲了画芙蓉。https://t.cn/A6xhUEM1
市川大河的出渊裕老师长篇访谈,计划分15回刊出,今天第1回,附图为老师近照
出渕裕ロングインタビュー1 出渕裕とブチメカと富野由悠季とhttps://t.cn/A6MknjXU
――『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』(1982年)のころは、もう出渕さんはプロデビューされていたのですよね。
出渕 『最強ロボ ダイオージャ』(1981年)ぐらいまではセミプロの感覚でした。あのころ、富野さんが『伝説巨神イデオン』(1980年)(の劇場版)をやりながら『戦闘メカザブングル』をやっていたと思うんですけど、ただ『機動戦士ガンダム』(1979年)っていう作品そのものは、テレビでやる前から知っていたんですよ。『SFセントラルアート』(森田繁氏などによるSF同人誌)の人などから聞いていて。僕は安彦(良和)さんの絵が好きだったんです。『勇者ライディーン』(1975年)『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)のころから(安彦さんは)やってらっしゃいましたよね。あと『わんぱく大昔クムクム』(1975年)や『ろぼっ子ビートン』(1976年)なんかの、幅がある作品群をやっておられた。
――富野監督は安彦さんの絵に関しては「手塚治虫の延長線上にある」と言及されていましたね。
出渕 そうですね。柔らかい感じがありましたからね。エッジがきいているんじゃなくて、描かれる線が美しいという、本当にデザインセンスのある方だったんです。キャラクターもそうだったんですけど、衣装も、軍服みたいなものから、メカも描けるんですよねあの方。
――『ライディーン』『コン・バトラーV』などでは、ポピーから上がってくるメカデザインを、アニメ作画用に描き起こすクリンーンナップも担当されておられましたね。
出渕 そうなんですよ。村上(克司 当時のポピーの管理職にしてデザイナー。後のバンダイの専務取締役 存在感と功績から“村上天皇”の異名をもった)さんのやつ(元デザイン)をあんな格好よくさせて(笑) で、村上さんが「安彦はすごい! あいつにやらせろ!」と。それは当時、『宇宙戦艦ヤマト』(放映は1974年。劇場版は1977年)の西崎(義展 『ヤマト』シリーズのプロデューサー)さんも同じような感覚だったと思うんですけど、あの時は絵コンテだったんですが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の時に、ラスト近く、安彦さんに原画描かせて、それに湖川(友謙)さんが、総作監なのに手を加えちゃいかんって命令を(西崎氏に)言われて激怒して。それでも湖川さんは総作監なんで、鼻だけ修正いれたという(笑) でもその湖川さんがこのあいだの『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(2018年)で、「俺にズォーダー(劇中のキャラ)を描かせてくれるんだったら、作画監督(の修正)を入れないという条件で」って、言ってることが違うじゃん、おっさん!(笑) って思うんですけどねぇ!(笑) 自分で(作監の時)怒ったわけじゃないですか。それなのに自分じゃそれ(他の作監に修正させない)を要求するって(笑) それもね。『さらば』の時は安彦さんが要求したんじゃなくって、西崎さんがそうしろって言ったわけでしょ。本人が言っちゃダメだよそんなの(爆)
――言っちゃダメですよね(笑)
出渕 まぁそういう感じで安彦さんが(『ガンダム』を)やるというのは聞いていたんですよ。ぬえ(スタジオぬえ)は松崎(健一 ぬえのスタッフ)さん以外は絡まないけれども、『宇宙の戦士』(Starship Troopers)的な、ハードなロボット物というかSF的な物をやるって聞いていて、安彦さんの新作は期待はありました。あと、富野(由悠季)さんがやるっていうのが大きかったですよね。『ライディーン』やって、あと『無敵超人ザンボット3』(1977年)『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)をやってましたから。『ザンボット』は、富野さん的なリアリズムを突き詰めて、まぁ富野さん的には、ロボットを使った『海のトリトン』(1972年)のやり直しだと思うんですけど。ちょうどそのころ、当時『アニメック』っていう雑誌があったんですけれども、その準備校雑誌で『MANIFIC』というのがありまして。それらの編集長の小牧(雅伸)さんとは、SF同人で知り合いだったんですよ。だから「ブッちゃん(出渕氏の愛称)なにか書いて」って言われて、『MANIFIC』の創刊号で『ダイモス』のデザインのことについてなんか書いていた気がするんですけど、その時に小牧さんに「今度『ガンダム』っていうのがあるんだけど。これは絶対くるから! 『アニメック』はこれを推す!」って聞いて「えーそうなの?」って(笑) 「(小牧さんが)そうなんだよ! これをやるんだよ! あんたが!」って話をした覚えがあります(笑) そういう経緯があって、『ガンダム』がテレビ放映されて。素晴らしかったんですけれども……途中で安彦さん、倒れちゃったじゃないですか。
――はい、3クール目あたりから、入院されてしまいましたよね。
出渕 だから、その後は中村(一夫)さんとか青鉢(芳信)さんとか山崎(和男)さんとかが作監みたいな感じになって……やっぱり安彦さんが作監だから楽しみに観ていたってところがあるんですけれども、後半になってきて、視聴率も芳しくなく、モノ(関連商品)も売れなかったんで、放映期間が短縮されたわけですよね。それで終わって、当時の『(宇宙戦艦)ヤマト』(1974年)とか『ルパン三世』(放映は1971年)みたいに、再放送で火がついて、ガンプラも出て社会現象みたいになっていって、劇場版の三部作に至ったんですよね。普通だったら一本で総集編みたいなのやれって話になるんですけど、富野さんが全五部作でやるとか言い出して。あの頃は大作映画って結構あったんですよね。
――『人間の条件』(1959年)とかからですね。
出渕 そうですね。『戦争と人間』(1970年)とかもそうですね、「第何部」「ナントカ編」みたいな感じで。富野さんも映画は大変好きな方なんで、そういうの(大作映画)を自分で見せたいというのもあったと思うんですよ。で、それが『ガンダム』で現実化していった時に、一作目、二作目までは、安彦さんも(テレビ版の段階から)作監で手が入ってますからね。でも、僕らが待っていたのは『めぐりあい宇宙』だったんですよ。あの(テレビ版の)ボロボロの作画で、それはそれでよかったんですけど、それを、安彦さんが全部手を入れてやられるっていうんで、そういう期待度はあり、それに応える物ではあったと思うんですよね。ただ、最近出た、音響を入れなおしたDVD(2000年にバンダイビジュアルから発売された「特別版」)は、少し観て「あ、ダメだこれは」になりました(笑) 「観たらダメだ」と思って。これは自分の中の記憶を変に上書きしちゃうと思って、いやアレ(「特別版」)は観ないようにしようと思いました(笑) いや、新しくやられた方は頑張ってやってると思っているんですけれども、最初に入った物と比較してしまうと、どうしても人間それがベストになっちまうんで。『ヤマト』(の監督)をやる時も、それは自分自身の体験があるんで、絶対に思い出には勝てないと。みんな、一作目の『ヤマト』が刷り込まれているわけですから、それ以上に評価してくださる人もいるかもしれないけれども、基本的には、(旧作が)今の目で見た時にいくら作画がボロボロであろうとも、「それ」に勝つというのは非常に難しいというのが、まず認識としてありましたから。というのも、自分自身もそうですからね。
――常に、ご自身の原体験との勝負、みたいなところもあるんでしょうか?
出渕 そうですね。『ヤマト』の時は、どう再現して、どうブラッシュアップしていくかのさじ加減みたいなのはありましたけど。ただ、『めぐりあい宇宙』は、オリジナルテレビ版のスタッフが作っているわけじゃないですか。富野さんと安彦さんの両輪で。でも、僕等はテレビ版の方は、その片輪(安彦氏不在)の状態で最後の方を観てしまったわけだけども、そうすると観ているときに、その「片輪がいなくなっている状態」ってキツイわけですよ。まぁお話とかの出来はちゃんとしているんですけれども、だとすると、誰かが作って違う人がリメイクするというのではなくて、セルフで、自分達でやるっていうのを、重要なキーパーソンがいなかったのを、それを補填して見せてくれるっていう意味では、『めぐりあい宇宙』は素晴らしかったです。
――そういったリメイクの意味については、当時富野監督も、『アニメック』の小牧さんに語っておられましたね。「リメイク映画という、ビジネスとしては悪い例を残したかもしれないけれど」的な。
出渕 あの人はね、作った後にそういうことを言うんですよ(笑) 反省みたいなことをね、「今回はダメだった」みたいなことを。毎年「今回は、いつくるのかなぁ、その台詞」みたいな(笑)
――富野監督ってそもそもはコミュ障的に、インタビューとか、人前で話す時とかは苦手な方で、小牧さんの毎月のインタビューなどで鍛えられ、ポジショントークや、イベントでのキャラ付けなどを学んだのではないかと推測しているのですが。
出渕 多分ね、富野さんってね。どーでもいいことを聞いてくる人にはブチっときて、バーっとかましてね、「そんなもんどうでもいいの!」とか言っちゃうんですよね。ま、いいんですけど(笑) その、細かいところのディテールみたいなところ、実は富野さん、本当は気にするっていうか、気にして作ってるはずなんだけれども、気にして作っているものを、そこを「こうですよね」って言われると、またブチっとくるという(笑) ただまぁ、そういうことを調べてちゃんと聞いてくる人に対しては、そうはやりながらも「お、こいつけっこうやるじゃん」とか思うんですよ。まぁあと、当時はインタビュー慣れしていないというか、だいたいアニメの制作者に取材がくるなんてなかった時代ですから、そういう意味では、小牧さんが基準になっちゃったのかもしれないですよね。「小牧以上のことを聞いてくる」「小牧以下のことを聞いてくる」というのはあったと思うんですよ。それで、あと、あの人はまた、話してるうちに思いつくんですよね。「あの、それ、あれはこうだった!」みたいなね。そういう意味では大変感覚的な人なんで、ロジカルなところもあるんだけど、感覚的なところが、よく言えば優れてる、動物的なところがある。だから僕と話していても「あ、そうか! これはこういうことだったんだ!」っていうようなことを気付いて、それを(作品に)フィードバックされるような人ですよね。
――『ガンダム』放映期の一年間の、『アニメック』の小牧インタビューは面白かったです。
出渕 初期のころ、富野さんは「こんなことに答えるんじゃなく、作品が全てです! フィルムが全てです!」だったんですよ。それ正しいんですよ。ものすごく正しいんですよ。僕が氷川(竜介)さんと一緒に富野さんに初めて会った時も、すごい良いことを言ってたんです。「これ(作品)は観てもらって」って。それはもう基本だと思うんですけど、どうもインタビュー慣れして、世間の目が自分の方に来るとなるとね、えぇと、初心の良い部分を、忘れてませんか、お父さん?というね(笑) というのはあるわけですよ。「それはフィルムを観て? それをそんな風に感じられるなんておかしい!」なんてね、そこはちょっと残念なところありますよね。
出渕裕ロングインタビュー1 出渕裕とブチメカと富野由悠季とhttps://t.cn/A6MknjXU
――『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』(1982年)のころは、もう出渕さんはプロデビューされていたのですよね。
出渕 『最強ロボ ダイオージャ』(1981年)ぐらいまではセミプロの感覚でした。あのころ、富野さんが『伝説巨神イデオン』(1980年)(の劇場版)をやりながら『戦闘メカザブングル』をやっていたと思うんですけど、ただ『機動戦士ガンダム』(1979年)っていう作品そのものは、テレビでやる前から知っていたんですよ。『SFセントラルアート』(森田繁氏などによるSF同人誌)の人などから聞いていて。僕は安彦(良和)さんの絵が好きだったんです。『勇者ライディーン』(1975年)『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)のころから(安彦さんは)やってらっしゃいましたよね。あと『わんぱく大昔クムクム』(1975年)や『ろぼっ子ビートン』(1976年)なんかの、幅がある作品群をやっておられた。
――富野監督は安彦さんの絵に関しては「手塚治虫の延長線上にある」と言及されていましたね。
出渕 そうですね。柔らかい感じがありましたからね。エッジがきいているんじゃなくて、描かれる線が美しいという、本当にデザインセンスのある方だったんです。キャラクターもそうだったんですけど、衣装も、軍服みたいなものから、メカも描けるんですよねあの方。
――『ライディーン』『コン・バトラーV』などでは、ポピーから上がってくるメカデザインを、アニメ作画用に描き起こすクリンーンナップも担当されておられましたね。
出渕 そうなんですよ。村上(克司 当時のポピーの管理職にしてデザイナー。後のバンダイの専務取締役 存在感と功績から“村上天皇”の異名をもった)さんのやつ(元デザイン)をあんな格好よくさせて(笑) で、村上さんが「安彦はすごい! あいつにやらせろ!」と。それは当時、『宇宙戦艦ヤマト』(放映は1974年。劇場版は1977年)の西崎(義展 『ヤマト』シリーズのプロデューサー)さんも同じような感覚だったと思うんですけど、あの時は絵コンテだったんですが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の時に、ラスト近く、安彦さんに原画描かせて、それに湖川(友謙)さんが、総作監なのに手を加えちゃいかんって命令を(西崎氏に)言われて激怒して。それでも湖川さんは総作監なんで、鼻だけ修正いれたという(笑) でもその湖川さんがこのあいだの『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(2018年)で、「俺にズォーダー(劇中のキャラ)を描かせてくれるんだったら、作画監督(の修正)を入れないという条件で」って、言ってることが違うじゃん、おっさん!(笑) って思うんですけどねぇ!(笑) 自分で(作監の時)怒ったわけじゃないですか。それなのに自分じゃそれ(他の作監に修正させない)を要求するって(笑) それもね。『さらば』の時は安彦さんが要求したんじゃなくって、西崎さんがそうしろって言ったわけでしょ。本人が言っちゃダメだよそんなの(爆)
――言っちゃダメですよね(笑)
出渕 まぁそういう感じで安彦さんが(『ガンダム』を)やるというのは聞いていたんですよ。ぬえ(スタジオぬえ)は松崎(健一 ぬえのスタッフ)さん以外は絡まないけれども、『宇宙の戦士』(Starship Troopers)的な、ハードなロボット物というかSF的な物をやるって聞いていて、安彦さんの新作は期待はありました。あと、富野(由悠季)さんがやるっていうのが大きかったですよね。『ライディーン』やって、あと『無敵超人ザンボット3』(1977年)『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)をやってましたから。『ザンボット』は、富野さん的なリアリズムを突き詰めて、まぁ富野さん的には、ロボットを使った『海のトリトン』(1972年)のやり直しだと思うんですけど。ちょうどそのころ、当時『アニメック』っていう雑誌があったんですけれども、その準備校雑誌で『MANIFIC』というのがありまして。それらの編集長の小牧(雅伸)さんとは、SF同人で知り合いだったんですよ。だから「ブッちゃん(出渕氏の愛称)なにか書いて」って言われて、『MANIFIC』の創刊号で『ダイモス』のデザインのことについてなんか書いていた気がするんですけど、その時に小牧さんに「今度『ガンダム』っていうのがあるんだけど。これは絶対くるから! 『アニメック』はこれを推す!」って聞いて「えーそうなの?」って(笑) 「(小牧さんが)そうなんだよ! これをやるんだよ! あんたが!」って話をした覚えがあります(笑) そういう経緯があって、『ガンダム』がテレビ放映されて。素晴らしかったんですけれども……途中で安彦さん、倒れちゃったじゃないですか。
――はい、3クール目あたりから、入院されてしまいましたよね。
出渕 だから、その後は中村(一夫)さんとか青鉢(芳信)さんとか山崎(和男)さんとかが作監みたいな感じになって……やっぱり安彦さんが作監だから楽しみに観ていたってところがあるんですけれども、後半になってきて、視聴率も芳しくなく、モノ(関連商品)も売れなかったんで、放映期間が短縮されたわけですよね。それで終わって、当時の『(宇宙戦艦)ヤマト』(1974年)とか『ルパン三世』(放映は1971年)みたいに、再放送で火がついて、ガンプラも出て社会現象みたいになっていって、劇場版の三部作に至ったんですよね。普通だったら一本で総集編みたいなのやれって話になるんですけど、富野さんが全五部作でやるとか言い出して。あの頃は大作映画って結構あったんですよね。
――『人間の条件』(1959年)とかからですね。
出渕 そうですね。『戦争と人間』(1970年)とかもそうですね、「第何部」「ナントカ編」みたいな感じで。富野さんも映画は大変好きな方なんで、そういうの(大作映画)を自分で見せたいというのもあったと思うんですよ。で、それが『ガンダム』で現実化していった時に、一作目、二作目までは、安彦さんも(テレビ版の段階から)作監で手が入ってますからね。でも、僕らが待っていたのは『めぐりあい宇宙』だったんですよ。あの(テレビ版の)ボロボロの作画で、それはそれでよかったんですけど、それを、安彦さんが全部手を入れてやられるっていうんで、そういう期待度はあり、それに応える物ではあったと思うんですよね。ただ、最近出た、音響を入れなおしたDVD(2000年にバンダイビジュアルから発売された「特別版」)は、少し観て「あ、ダメだこれは」になりました(笑) 「観たらダメだ」と思って。これは自分の中の記憶を変に上書きしちゃうと思って、いやアレ(「特別版」)は観ないようにしようと思いました(笑) いや、新しくやられた方は頑張ってやってると思っているんですけれども、最初に入った物と比較してしまうと、どうしても人間それがベストになっちまうんで。『ヤマト』(の監督)をやる時も、それは自分自身の体験があるんで、絶対に思い出には勝てないと。みんな、一作目の『ヤマト』が刷り込まれているわけですから、それ以上に評価してくださる人もいるかもしれないけれども、基本的には、(旧作が)今の目で見た時にいくら作画がボロボロであろうとも、「それ」に勝つというのは非常に難しいというのが、まず認識としてありましたから。というのも、自分自身もそうですからね。
――常に、ご自身の原体験との勝負、みたいなところもあるんでしょうか?
出渕 そうですね。『ヤマト』の時は、どう再現して、どうブラッシュアップしていくかのさじ加減みたいなのはありましたけど。ただ、『めぐりあい宇宙』は、オリジナルテレビ版のスタッフが作っているわけじゃないですか。富野さんと安彦さんの両輪で。でも、僕等はテレビ版の方は、その片輪(安彦氏不在)の状態で最後の方を観てしまったわけだけども、そうすると観ているときに、その「片輪がいなくなっている状態」ってキツイわけですよ。まぁお話とかの出来はちゃんとしているんですけれども、だとすると、誰かが作って違う人がリメイクするというのではなくて、セルフで、自分達でやるっていうのを、重要なキーパーソンがいなかったのを、それを補填して見せてくれるっていう意味では、『めぐりあい宇宙』は素晴らしかったです。
――そういったリメイクの意味については、当時富野監督も、『アニメック』の小牧さんに語っておられましたね。「リメイク映画という、ビジネスとしては悪い例を残したかもしれないけれど」的な。
出渕 あの人はね、作った後にそういうことを言うんですよ(笑) 反省みたいなことをね、「今回はダメだった」みたいなことを。毎年「今回は、いつくるのかなぁ、その台詞」みたいな(笑)
――富野監督ってそもそもはコミュ障的に、インタビューとか、人前で話す時とかは苦手な方で、小牧さんの毎月のインタビューなどで鍛えられ、ポジショントークや、イベントでのキャラ付けなどを学んだのではないかと推測しているのですが。
出渕 多分ね、富野さんってね。どーでもいいことを聞いてくる人にはブチっときて、バーっとかましてね、「そんなもんどうでもいいの!」とか言っちゃうんですよね。ま、いいんですけど(笑) その、細かいところのディテールみたいなところ、実は富野さん、本当は気にするっていうか、気にして作ってるはずなんだけれども、気にして作っているものを、そこを「こうですよね」って言われると、またブチっとくるという(笑) ただまぁ、そういうことを調べてちゃんと聞いてくる人に対しては、そうはやりながらも「お、こいつけっこうやるじゃん」とか思うんですよ。まぁあと、当時はインタビュー慣れしていないというか、だいたいアニメの制作者に取材がくるなんてなかった時代ですから、そういう意味では、小牧さんが基準になっちゃったのかもしれないですよね。「小牧以上のことを聞いてくる」「小牧以下のことを聞いてくる」というのはあったと思うんですよ。それで、あと、あの人はまた、話してるうちに思いつくんですよね。「あの、それ、あれはこうだった!」みたいなね。そういう意味では大変感覚的な人なんで、ロジカルなところもあるんだけど、感覚的なところが、よく言えば優れてる、動物的なところがある。だから僕と話していても「あ、そうか! これはこういうことだったんだ!」っていうようなことを気付いて、それを(作品に)フィードバックされるような人ですよね。
――『ガンダム』放映期の一年間の、『アニメック』の小牧インタビューは面白かったです。
出渕 初期のころ、富野さんは「こんなことに答えるんじゃなく、作品が全てです! フィルムが全てです!」だったんですよ。それ正しいんですよ。ものすごく正しいんですよ。僕が氷川(竜介)さんと一緒に富野さんに初めて会った時も、すごい良いことを言ってたんです。「これ(作品)は観てもらって」って。それはもう基本だと思うんですけど、どうもインタビュー慣れして、世間の目が自分の方に来るとなるとね、えぇと、初心の良い部分を、忘れてませんか、お父さん?というね(笑) というのはあるわけですよ。「それはフィルムを観て? それをそんな風に感じられるなんておかしい!」なんてね、そこはちょっと残念なところありますよね。
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