浮生若茶,静心以待。
人生这杯茶,第一口苦,第二口涩,第三口甜。回味一下,甘甜清香。平淡是它的本色,苦涩是它的历程,清甜是它的馈赠。
红尘一世,人可近可远,情可浓可淡,事可繁可简。时间的变换下,不要苛责,要细细去品味。
茶香中,一颗心慢慢沉静下来,有些事,笑一笑,就释怀了。浮躁世界红尘滚滚,惟愿内心清风朗月。
人生这杯茶,第一口苦,第二口涩,第三口甜。回味一下,甘甜清香。平淡是它的本色,苦涩是它的历程,清甜是它的馈赠。
红尘一世,人可近可远,情可浓可淡,事可繁可简。时间的变换下,不要苛责,要细细去品味。
茶香中,一颗心慢慢沉静下来,有些事,笑一笑,就释怀了。浮躁世界红尘滚滚,惟愿内心清风朗月。
经年,未染流殇漠漠清殇。流年为祭。琴瑟曲中倦红妆,霓裳舞中残娇靥。冗长红尘中,一曲浅吟轻诵描绘半世薄凉寂寞,清殇如水。寂寞琉璃,荒城繁心。流逝的痕迹深深印骨。如烟流年中,一抹曼妙娇羞舞尽半世清冷傲然,花祭唯美。邂逅的情劫,淡淡刻心。那些碎时光,用来祭奠流年,可好?
随手复制的只是为了养养,对不起真的好好笑
随手复制的只是为了养养,对不起真的好好笑
市川大河的出渊裕老师长篇访谈,计划分15回刊出,今天第1回,附图为老师近照
出渕裕ロングインタビュー1 出渕裕とブチメカと富野由悠季とhttps://t.cn/A6MknjXU
――『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』(1982年)のころは、もう出渕さんはプロデビューされていたのですよね。
出渕 『最強ロボ ダイオージャ』(1981年)ぐらいまではセミプロの感覚でした。あのころ、富野さんが『伝説巨神イデオン』(1980年)(の劇場版)をやりながら『戦闘メカザブングル』をやっていたと思うんですけど、ただ『機動戦士ガンダム』(1979年)っていう作品そのものは、テレビでやる前から知っていたんですよ。『SFセントラルアート』(森田繁氏などによるSF同人誌)の人などから聞いていて。僕は安彦(良和)さんの絵が好きだったんです。『勇者ライディーン』(1975年)『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)のころから(安彦さんは)やってらっしゃいましたよね。あと『わんぱく大昔クムクム』(1975年)や『ろぼっ子ビートン』(1976年)なんかの、幅がある作品群をやっておられた。
――富野監督は安彦さんの絵に関しては「手塚治虫の延長線上にある」と言及されていましたね。
出渕 そうですね。柔らかい感じがありましたからね。エッジがきいているんじゃなくて、描かれる線が美しいという、本当にデザインセンスのある方だったんです。キャラクターもそうだったんですけど、衣装も、軍服みたいなものから、メカも描けるんですよねあの方。
――『ライディーン』『コン・バトラーV』などでは、ポピーから上がってくるメカデザインを、アニメ作画用に描き起こすクリンーンナップも担当されておられましたね。
出渕 そうなんですよ。村上(克司 当時のポピーの管理職にしてデザイナー。後のバンダイの専務取締役 存在感と功績から“村上天皇”の異名をもった)さんのやつ(元デザイン)をあんな格好よくさせて(笑) で、村上さんが「安彦はすごい! あいつにやらせろ!」と。それは当時、『宇宙戦艦ヤマト』(放映は1974年。劇場版は1977年)の西崎(義展 『ヤマト』シリーズのプロデューサー)さんも同じような感覚だったと思うんですけど、あの時は絵コンテだったんですが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の時に、ラスト近く、安彦さんに原画描かせて、それに湖川(友謙)さんが、総作監なのに手を加えちゃいかんって命令を(西崎氏に)言われて激怒して。それでも湖川さんは総作監なんで、鼻だけ修正いれたという(笑) でもその湖川さんがこのあいだの『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(2018年)で、「俺にズォーダー(劇中のキャラ)を描かせてくれるんだったら、作画監督(の修正)を入れないという条件で」って、言ってることが違うじゃん、おっさん!(笑) って思うんですけどねぇ!(笑) 自分で(作監の時)怒ったわけじゃないですか。それなのに自分じゃそれ(他の作監に修正させない)を要求するって(笑) それもね。『さらば』の時は安彦さんが要求したんじゃなくって、西崎さんがそうしろって言ったわけでしょ。本人が言っちゃダメだよそんなの(爆)
――言っちゃダメですよね(笑)
出渕 まぁそういう感じで安彦さんが(『ガンダム』を)やるというのは聞いていたんですよ。ぬえ(スタジオぬえ)は松崎(健一 ぬえのスタッフ)さん以外は絡まないけれども、『宇宙の戦士』(Starship Troopers)的な、ハードなロボット物というかSF的な物をやるって聞いていて、安彦さんの新作は期待はありました。あと、富野(由悠季)さんがやるっていうのが大きかったですよね。『ライディーン』やって、あと『無敵超人ザンボット3』(1977年)『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)をやってましたから。『ザンボット』は、富野さん的なリアリズムを突き詰めて、まぁ富野さん的には、ロボットを使った『海のトリトン』(1972年)のやり直しだと思うんですけど。ちょうどそのころ、当時『アニメック』っていう雑誌があったんですけれども、その準備校雑誌で『MANIFIC』というのがありまして。それらの編集長の小牧(雅伸)さんとは、SF同人で知り合いだったんですよ。だから「ブッちゃん(出渕氏の愛称)なにか書いて」って言われて、『MANIFIC』の創刊号で『ダイモス』のデザインのことについてなんか書いていた気がするんですけど、その時に小牧さんに「今度『ガンダム』っていうのがあるんだけど。これは絶対くるから! 『アニメック』はこれを推す!」って聞いて「えーそうなの?」って(笑) 「(小牧さんが)そうなんだよ! これをやるんだよ! あんたが!」って話をした覚えがあります(笑) そういう経緯があって、『ガンダム』がテレビ放映されて。素晴らしかったんですけれども……途中で安彦さん、倒れちゃったじゃないですか。
――はい、3クール目あたりから、入院されてしまいましたよね。
出渕 だから、その後は中村(一夫)さんとか青鉢(芳信)さんとか山崎(和男)さんとかが作監みたいな感じになって……やっぱり安彦さんが作監だから楽しみに観ていたってところがあるんですけれども、後半になってきて、視聴率も芳しくなく、モノ(関連商品)も売れなかったんで、放映期間が短縮されたわけですよね。それで終わって、当時の『(宇宙戦艦)ヤマト』(1974年)とか『ルパン三世』(放映は1971年)みたいに、再放送で火がついて、ガンプラも出て社会現象みたいになっていって、劇場版の三部作に至ったんですよね。普通だったら一本で総集編みたいなのやれって話になるんですけど、富野さんが全五部作でやるとか言い出して。あの頃は大作映画って結構あったんですよね。
――『人間の条件』(1959年)とかからですね。
出渕 そうですね。『戦争と人間』(1970年)とかもそうですね、「第何部」「ナントカ編」みたいな感じで。富野さんも映画は大変好きな方なんで、そういうの(大作映画)を自分で見せたいというのもあったと思うんですよ。で、それが『ガンダム』で現実化していった時に、一作目、二作目までは、安彦さんも(テレビ版の段階から)作監で手が入ってますからね。でも、僕らが待っていたのは『めぐりあい宇宙』だったんですよ。あの(テレビ版の)ボロボロの作画で、それはそれでよかったんですけど、それを、安彦さんが全部手を入れてやられるっていうんで、そういう期待度はあり、それに応える物ではあったと思うんですよね。ただ、最近出た、音響を入れなおしたDVD(2000年にバンダイビジュアルから発売された「特別版」)は、少し観て「あ、ダメだこれは」になりました(笑) 「観たらダメだ」と思って。これは自分の中の記憶を変に上書きしちゃうと思って、いやアレ(「特別版」)は観ないようにしようと思いました(笑) いや、新しくやられた方は頑張ってやってると思っているんですけれども、最初に入った物と比較してしまうと、どうしても人間それがベストになっちまうんで。『ヤマト』(の監督)をやる時も、それは自分自身の体験があるんで、絶対に思い出には勝てないと。みんな、一作目の『ヤマト』が刷り込まれているわけですから、それ以上に評価してくださる人もいるかもしれないけれども、基本的には、(旧作が)今の目で見た時にいくら作画がボロボロであろうとも、「それ」に勝つというのは非常に難しいというのが、まず認識としてありましたから。というのも、自分自身もそうですからね。
――常に、ご自身の原体験との勝負、みたいなところもあるんでしょうか?
出渕 そうですね。『ヤマト』の時は、どう再現して、どうブラッシュアップしていくかのさじ加減みたいなのはありましたけど。ただ、『めぐりあい宇宙』は、オリジナルテレビ版のスタッフが作っているわけじゃないですか。富野さんと安彦さんの両輪で。でも、僕等はテレビ版の方は、その片輪(安彦氏不在)の状態で最後の方を観てしまったわけだけども、そうすると観ているときに、その「片輪がいなくなっている状態」ってキツイわけですよ。まぁお話とかの出来はちゃんとしているんですけれども、だとすると、誰かが作って違う人がリメイクするというのではなくて、セルフで、自分達でやるっていうのを、重要なキーパーソンがいなかったのを、それを補填して見せてくれるっていう意味では、『めぐりあい宇宙』は素晴らしかったです。
――そういったリメイクの意味については、当時富野監督も、『アニメック』の小牧さんに語っておられましたね。「リメイク映画という、ビジネスとしては悪い例を残したかもしれないけれど」的な。
出渕 あの人はね、作った後にそういうことを言うんですよ(笑) 反省みたいなことをね、「今回はダメだった」みたいなことを。毎年「今回は、いつくるのかなぁ、その台詞」みたいな(笑)
――富野監督ってそもそもはコミュ障的に、インタビューとか、人前で話す時とかは苦手な方で、小牧さんの毎月のインタビューなどで鍛えられ、ポジショントークや、イベントでのキャラ付けなどを学んだのではないかと推測しているのですが。
出渕 多分ね、富野さんってね。どーでもいいことを聞いてくる人にはブチっときて、バーっとかましてね、「そんなもんどうでもいいの!」とか言っちゃうんですよね。ま、いいんですけど(笑) その、細かいところのディテールみたいなところ、実は富野さん、本当は気にするっていうか、気にして作ってるはずなんだけれども、気にして作っているものを、そこを「こうですよね」って言われると、またブチっとくるという(笑) ただまぁ、そういうことを調べてちゃんと聞いてくる人に対しては、そうはやりながらも「お、こいつけっこうやるじゃん」とか思うんですよ。まぁあと、当時はインタビュー慣れしていないというか、だいたいアニメの制作者に取材がくるなんてなかった時代ですから、そういう意味では、小牧さんが基準になっちゃったのかもしれないですよね。「小牧以上のことを聞いてくる」「小牧以下のことを聞いてくる」というのはあったと思うんですよ。それで、あと、あの人はまた、話してるうちに思いつくんですよね。「あの、それ、あれはこうだった!」みたいなね。そういう意味では大変感覚的な人なんで、ロジカルなところもあるんだけど、感覚的なところが、よく言えば優れてる、動物的なところがある。だから僕と話していても「あ、そうか! これはこういうことだったんだ!」っていうようなことを気付いて、それを(作品に)フィードバックされるような人ですよね。
――『ガンダム』放映期の一年間の、『アニメック』の小牧インタビューは面白かったです。
出渕 初期のころ、富野さんは「こんなことに答えるんじゃなく、作品が全てです! フィルムが全てです!」だったんですよ。それ正しいんですよ。ものすごく正しいんですよ。僕が氷川(竜介)さんと一緒に富野さんに初めて会った時も、すごい良いことを言ってたんです。「これ(作品)は観てもらって」って。それはもう基本だと思うんですけど、どうもインタビュー慣れして、世間の目が自分の方に来るとなるとね、えぇと、初心の良い部分を、忘れてませんか、お父さん?というね(笑) というのはあるわけですよ。「それはフィルムを観て? それをそんな風に感じられるなんておかしい!」なんてね、そこはちょっと残念なところありますよね。
出渕裕ロングインタビュー1 出渕裕とブチメカと富野由悠季とhttps://t.cn/A6MknjXU
――『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』(1982年)のころは、もう出渕さんはプロデビューされていたのですよね。
出渕 『最強ロボ ダイオージャ』(1981年)ぐらいまではセミプロの感覚でした。あのころ、富野さんが『伝説巨神イデオン』(1980年)(の劇場版)をやりながら『戦闘メカザブングル』をやっていたと思うんですけど、ただ『機動戦士ガンダム』(1979年)っていう作品そのものは、テレビでやる前から知っていたんですよ。『SFセントラルアート』(森田繁氏などによるSF同人誌)の人などから聞いていて。僕は安彦(良和)さんの絵が好きだったんです。『勇者ライディーン』(1975年)『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)のころから(安彦さんは)やってらっしゃいましたよね。あと『わんぱく大昔クムクム』(1975年)や『ろぼっ子ビートン』(1976年)なんかの、幅がある作品群をやっておられた。
――富野監督は安彦さんの絵に関しては「手塚治虫の延長線上にある」と言及されていましたね。
出渕 そうですね。柔らかい感じがありましたからね。エッジがきいているんじゃなくて、描かれる線が美しいという、本当にデザインセンスのある方だったんです。キャラクターもそうだったんですけど、衣装も、軍服みたいなものから、メカも描けるんですよねあの方。
――『ライディーン』『コン・バトラーV』などでは、ポピーから上がってくるメカデザインを、アニメ作画用に描き起こすクリンーンナップも担当されておられましたね。
出渕 そうなんですよ。村上(克司 当時のポピーの管理職にしてデザイナー。後のバンダイの専務取締役 存在感と功績から“村上天皇”の異名をもった)さんのやつ(元デザイン)をあんな格好よくさせて(笑) で、村上さんが「安彦はすごい! あいつにやらせろ!」と。それは当時、『宇宙戦艦ヤマト』(放映は1974年。劇場版は1977年)の西崎(義展 『ヤマト』シリーズのプロデューサー)さんも同じような感覚だったと思うんですけど、あの時は絵コンテだったんですが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の時に、ラスト近く、安彦さんに原画描かせて、それに湖川(友謙)さんが、総作監なのに手を加えちゃいかんって命令を(西崎氏に)言われて激怒して。それでも湖川さんは総作監なんで、鼻だけ修正いれたという(笑) でもその湖川さんがこのあいだの『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(2018年)で、「俺にズォーダー(劇中のキャラ)を描かせてくれるんだったら、作画監督(の修正)を入れないという条件で」って、言ってることが違うじゃん、おっさん!(笑) って思うんですけどねぇ!(笑) 自分で(作監の時)怒ったわけじゃないですか。それなのに自分じゃそれ(他の作監に修正させない)を要求するって(笑) それもね。『さらば』の時は安彦さんが要求したんじゃなくって、西崎さんがそうしろって言ったわけでしょ。本人が言っちゃダメだよそんなの(爆)
――言っちゃダメですよね(笑)
出渕 まぁそういう感じで安彦さんが(『ガンダム』を)やるというのは聞いていたんですよ。ぬえ(スタジオぬえ)は松崎(健一 ぬえのスタッフ)さん以外は絡まないけれども、『宇宙の戦士』(Starship Troopers)的な、ハードなロボット物というかSF的な物をやるって聞いていて、安彦さんの新作は期待はありました。あと、富野(由悠季)さんがやるっていうのが大きかったですよね。『ライディーン』やって、あと『無敵超人ザンボット3』(1977年)『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)をやってましたから。『ザンボット』は、富野さん的なリアリズムを突き詰めて、まぁ富野さん的には、ロボットを使った『海のトリトン』(1972年)のやり直しだと思うんですけど。ちょうどそのころ、当時『アニメック』っていう雑誌があったんですけれども、その準備校雑誌で『MANIFIC』というのがありまして。それらの編集長の小牧(雅伸)さんとは、SF同人で知り合いだったんですよ。だから「ブッちゃん(出渕氏の愛称)なにか書いて」って言われて、『MANIFIC』の創刊号で『ダイモス』のデザインのことについてなんか書いていた気がするんですけど、その時に小牧さんに「今度『ガンダム』っていうのがあるんだけど。これは絶対くるから! 『アニメック』はこれを推す!」って聞いて「えーそうなの?」って(笑) 「(小牧さんが)そうなんだよ! これをやるんだよ! あんたが!」って話をした覚えがあります(笑) そういう経緯があって、『ガンダム』がテレビ放映されて。素晴らしかったんですけれども……途中で安彦さん、倒れちゃったじゃないですか。
――はい、3クール目あたりから、入院されてしまいましたよね。
出渕 だから、その後は中村(一夫)さんとか青鉢(芳信)さんとか山崎(和男)さんとかが作監みたいな感じになって……やっぱり安彦さんが作監だから楽しみに観ていたってところがあるんですけれども、後半になってきて、視聴率も芳しくなく、モノ(関連商品)も売れなかったんで、放映期間が短縮されたわけですよね。それで終わって、当時の『(宇宙戦艦)ヤマト』(1974年)とか『ルパン三世』(放映は1971年)みたいに、再放送で火がついて、ガンプラも出て社会現象みたいになっていって、劇場版の三部作に至ったんですよね。普通だったら一本で総集編みたいなのやれって話になるんですけど、富野さんが全五部作でやるとか言い出して。あの頃は大作映画って結構あったんですよね。
――『人間の条件』(1959年)とかからですね。
出渕 そうですね。『戦争と人間』(1970年)とかもそうですね、「第何部」「ナントカ編」みたいな感じで。富野さんも映画は大変好きな方なんで、そういうの(大作映画)を自分で見せたいというのもあったと思うんですよ。で、それが『ガンダム』で現実化していった時に、一作目、二作目までは、安彦さんも(テレビ版の段階から)作監で手が入ってますからね。でも、僕らが待っていたのは『めぐりあい宇宙』だったんですよ。あの(テレビ版の)ボロボロの作画で、それはそれでよかったんですけど、それを、安彦さんが全部手を入れてやられるっていうんで、そういう期待度はあり、それに応える物ではあったと思うんですよね。ただ、最近出た、音響を入れなおしたDVD(2000年にバンダイビジュアルから発売された「特別版」)は、少し観て「あ、ダメだこれは」になりました(笑) 「観たらダメだ」と思って。これは自分の中の記憶を変に上書きしちゃうと思って、いやアレ(「特別版」)は観ないようにしようと思いました(笑) いや、新しくやられた方は頑張ってやってると思っているんですけれども、最初に入った物と比較してしまうと、どうしても人間それがベストになっちまうんで。『ヤマト』(の監督)をやる時も、それは自分自身の体験があるんで、絶対に思い出には勝てないと。みんな、一作目の『ヤマト』が刷り込まれているわけですから、それ以上に評価してくださる人もいるかもしれないけれども、基本的には、(旧作が)今の目で見た時にいくら作画がボロボロであろうとも、「それ」に勝つというのは非常に難しいというのが、まず認識としてありましたから。というのも、自分自身もそうですからね。
――常に、ご自身の原体験との勝負、みたいなところもあるんでしょうか?
出渕 そうですね。『ヤマト』の時は、どう再現して、どうブラッシュアップしていくかのさじ加減みたいなのはありましたけど。ただ、『めぐりあい宇宙』は、オリジナルテレビ版のスタッフが作っているわけじゃないですか。富野さんと安彦さんの両輪で。でも、僕等はテレビ版の方は、その片輪(安彦氏不在)の状態で最後の方を観てしまったわけだけども、そうすると観ているときに、その「片輪がいなくなっている状態」ってキツイわけですよ。まぁお話とかの出来はちゃんとしているんですけれども、だとすると、誰かが作って違う人がリメイクするというのではなくて、セルフで、自分達でやるっていうのを、重要なキーパーソンがいなかったのを、それを補填して見せてくれるっていう意味では、『めぐりあい宇宙』は素晴らしかったです。
――そういったリメイクの意味については、当時富野監督も、『アニメック』の小牧さんに語っておられましたね。「リメイク映画という、ビジネスとしては悪い例を残したかもしれないけれど」的な。
出渕 あの人はね、作った後にそういうことを言うんですよ(笑) 反省みたいなことをね、「今回はダメだった」みたいなことを。毎年「今回は、いつくるのかなぁ、その台詞」みたいな(笑)
――富野監督ってそもそもはコミュ障的に、インタビューとか、人前で話す時とかは苦手な方で、小牧さんの毎月のインタビューなどで鍛えられ、ポジショントークや、イベントでのキャラ付けなどを学んだのではないかと推測しているのですが。
出渕 多分ね、富野さんってね。どーでもいいことを聞いてくる人にはブチっときて、バーっとかましてね、「そんなもんどうでもいいの!」とか言っちゃうんですよね。ま、いいんですけど(笑) その、細かいところのディテールみたいなところ、実は富野さん、本当は気にするっていうか、気にして作ってるはずなんだけれども、気にして作っているものを、そこを「こうですよね」って言われると、またブチっとくるという(笑) ただまぁ、そういうことを調べてちゃんと聞いてくる人に対しては、そうはやりながらも「お、こいつけっこうやるじゃん」とか思うんですよ。まぁあと、当時はインタビュー慣れしていないというか、だいたいアニメの制作者に取材がくるなんてなかった時代ですから、そういう意味では、小牧さんが基準になっちゃったのかもしれないですよね。「小牧以上のことを聞いてくる」「小牧以下のことを聞いてくる」というのはあったと思うんですよ。それで、あと、あの人はまた、話してるうちに思いつくんですよね。「あの、それ、あれはこうだった!」みたいなね。そういう意味では大変感覚的な人なんで、ロジカルなところもあるんだけど、感覚的なところが、よく言えば優れてる、動物的なところがある。だから僕と話していても「あ、そうか! これはこういうことだったんだ!」っていうようなことを気付いて、それを(作品に)フィードバックされるような人ですよね。
――『ガンダム』放映期の一年間の、『アニメック』の小牧インタビューは面白かったです。
出渕 初期のころ、富野さんは「こんなことに答えるんじゃなく、作品が全てです! フィルムが全てです!」だったんですよ。それ正しいんですよ。ものすごく正しいんですよ。僕が氷川(竜介)さんと一緒に富野さんに初めて会った時も、すごい良いことを言ってたんです。「これ(作品)は観てもらって」って。それはもう基本だと思うんですけど、どうもインタビュー慣れして、世間の目が自分の方に来るとなるとね、えぇと、初心の良い部分を、忘れてませんか、お父さん?というね(笑) というのはあるわけですよ。「それはフィルムを観て? それをそんな風に感じられるなんておかしい!」なんてね、そこはちょっと残念なところありますよね。
✋热门推荐