#考虫K星计划##2023考研##考研#
虫考为考研人买下了7颗星星,连硕成士帽形的状,并将命其名为K-星座
[给力]K座星位于离距地球4100万公的里太空深处,启星明的运轨行迹里。
[笑而不语]9月至12月期间,考虫将每以颗星为主题,策划7次活动,全方守位护考研的你! https://t.cn/RFV9DSp
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#方志动态# 南京记忆 | 赖国考(四):古赖国属地的历史变迁
根据地方志的记载,我将古赖国属地的变迁胪陈如下:
一、赖国(?——前538年)
赖国始封时间不清楚,大概在西周时期。因其弱小依附于吴国,是吴国的附庸。周景王七年(前538)灭于楚,赖子播迁,迁徙情况不详。赖国的活动除了赖子向楚灵王投降,其他未见文献记载。
二、濑渚邑(前538年——前221年)
赖国灭亡后,楚灵王没有来得及“迁许于赖”,其地当年冬天十一月就被吴国收复。因赖子迁走,这里不再是赖子采邑,吴国将其变为属县,改为濑渚邑(县)。《万历溧水县志》:“溧水,春秋时属吴,名濑渚邑。”又曰,“鲁昭公四年,楚伐吴,遂灭赖。赖,即今之濑也。”濑渚邑的前身是古赖国,“地仍其旧,则名亦仍其赖而已”(《万历溧水县志·邑名》)。
濑渚邑,又作濑渚县。南宋《景定建康志》引《滕(胜)公庙记》:“固城,吴时濑渚县也。”邑,亦县也,是县的别称。春秋时期,诸侯大国常将掠夺来的土地赏给亲近侍卫及有功大臣,而有些边远地区的小国,被灭掉后就改设为县,进行直接管理。最初的县都设在边远地带。最早在领地内设县管理的是楚国,吴国及一些大国也继起效仿。范文澜在《中国通史》中说:“东周时期,含有进步意义的制度,在某些大国里通行起来,‘楚灭九国,改设九县’。”赖国变成濑渚邑(县),管理制度上发生了变化,这是历史的进步。
改“赖”为“濑”,大概是因为这里是水乡泽国,地曰濑渚;水曰濑水,或曰濑湖。《辞源》:“渚,水中小块陆地,水边亦曰渚。”段玉裁《说文解字注》:“溧水,即永阳江之上源,大江之水南汇于此,江上有渚曰濑渚。”赖国改为濑渚邑,地名非常写实。
春秋末期,濑渚地区极不平静,经常硝烟弥漫,战争一直不得消停,濑渚邑今天属吴,明天属楚。为躲避楚国的攻击,吴国曾将县邑迁到陵平山下(今溧阳境内),改为陵平邑。
周景王十六年(前529年),楚国攻打吴国,败吴军,取陵平邑,改为平陵邑,赖地属楚。
周敬王十四年(前506年)伍子胥伐楚,烧固城,大败楚军,赖地回归吴国。
周元王三年(前473年)勾践灭吴,赖地为越国所有。
周显王十四年(前355年),楚国灭掉越国,赖地在楚国境内。楚怀王时,楚国使用阴谋手段,派召滑到越国为相,制造了越国的内乱,趁机占有了濑湖地区,打开了进攻越国的大门,进一步控制了整个江东地区。
范环对楚怀王曰,“且王尝用滑于越,而纳句章,昧之难,越乱,故南察濑湖而野江东。”——《战国策·楚策》
楚国人一直视濑渚地区为战略要地,欲把这里作为进攻吴国、越国的跳板,以实现控制江东的目的。“察濑湖而野江东”是楚国几代人的梦想,从楚灵王的灭赖国,到楚怀王的取濑渚,这个梦想终于实现了。此后一百多年里,赖地一直为楚国领地。
公元前223年,秦灭楚,赖地属秦。
三、 溧阳县(前221年——591年)
公元前221年,秦始皇统一天下,废除分封制,实行郡县管理。设溧阳县,属鄣郡。溧阳,因境内的溧水而得名。溧水,就是古代的中江,亦名濑水。山南水北为阳,县在溧水北面,故曰溧阳,古人也有称溧阳为濑阳。
《辞源》:“溧水,水名,在江苏溧阳县,也作陵水,一名濑水,又名永阳江。即《汉书·地理志》所谓中江。《史记》六六《伍子胥传》:‘伍胥惧,乃与胜俱奔吴。到昭关,昭关欲执之。伍胥遂与胜独身步走,几不得脱。追者在后。至江,江上有一渔父乘船,知伍胥之急,乃渡伍胥。’江即溧水。源出安徽芜湖县,东流经高淳、溧阳、宜兴入荆溪,东注太湖。自东坝既成,又改由芜湖西出长江。
秦、汉时溧阳县的治所在固城,古赖国在溧阳境内。
四、 溧水县(591年——1493年)
隋开皇九年(公元589年)大将韩擒虎、贺若弼分别从朱雀门、西掖门打进建康城,焚烧城楼,拆毁城墙,建康城变成一片废墟,他们要把这个六朝金粉之地变成耕牧之区。为了消除陈在江南统治的影响,隋王朝对陈辖地的行政区重新规划调整:废掉了丹阳郡;撤掉建康县,将建康县、秣陵县、同夏县并入江宁县。废掉丹阳县,分割溧阳县;将丹阳县东境与溧阳县的西北境合并为溧水县。隋朝开皇十一年(591年)溧水建县,属蒋州。原来在溧阳西北境的古赖国,自隋朝开皇十一年,便划入溧水县境内。历隋、唐、宋、元、明,古赖国在溧水县境内留存了近千年。
五、 高淳县(1493年—— )
弘治五年十二月(1493年1月),析溧水县西南七乡置高淳县,属应天府。原在溧水县南九十里的固城归入高淳县,自此古赖国在高淳县境内。高淳县,今为高淳区,属南京市。
结 束 语
一、方志记载与《春秋》《左传》《史记》等古文献的叙事是相契合的。
《左传·昭公四年》记载斗韦龟、公子弃疾修筑赖城事,这从方志收录的古固城资料中得到了印证。古固城究竟原为吴所筑,还是楚所筑,我们已无法弄清;公子弃疾是新建赖国城,还是修缮古固城,我们也无法断定,但古赖国修筑了城邑这是可以肯定的,这不仅有史传、方志的记载,还有古固城遗址作为证据。固城见载于《左传》,春秋时期它已名著史册,古固城就是赖国城,这是可信的史实。
《左传》叙事表明赖国在吴、楚边境,且邻近朱方,而固城镇正当其地。固城镇今在苏皖交界处,南接宣城、广德,西邻芜湖、巢湖,东连溧阳、宜兴,此地正是春秋时吴、楚相邻的中间地带。固城镇与丹徒距离也不甚遥远,1983年之前溧阳县、溧水县、高淳县、丹徒县同属镇江地区,都归镇江行政公署管辖。固城距离丹徒仅 120公里,徒步也就三五天行程。如此之近的距离,当年楚灵王克朱方后“遂灭赖”,这是完全可行的。固城的地理位置与《左传》叙事是相契合的。
如果说《景定建康志》《至正金陵新志》《溧水县志》这类郡县方志,记载古赖国在溧水县境内,可能囿于地域之见,而《太平寰宇记》是北宋的全国地理总志,《南畿志》是留都南京所辖应天府及江淮南北十三府、四州的地理总志,都是汇聚了全国优秀的历史、地理学者编纂的。这些志书,包括官修的《一统志》,都言之凿凿说古赖国在溧水县境内,我想这些专家学者总不会捕风捉影凭空杜撰;方志中记载的古固城史料总不会是不加考证的空穴来风!
二、溧阳、溧水的得名留有古赖国的痕迹
《公羊传》《榖梁传》将“灭赖”写作“灭厉”,“厉”与“溧”今天读音完全相同。不过,古代“厉”读若“赖”,《战国策》“豫让又漆身而为厉”,“厉”也读“赖”。是否古代“溧”也读“赖”呢?极有可能。今天溧水方言读“溧”为入声,高淳方言“溧、赖”发音相近。南朝陶弘景《真诰》“夫至珍者,万乘不能激其名,投金溧女是也”,唐李白《濑水贞义女碑》“还吴雪耻,投金濑沚”。陶弘景笔下的“投金溧”,就是李白文中的“投金濑”。溧即濑,溧水即濑水,“溧”与“濑”古代同源同义,直到今天发音仍然相近。
由赖而濑,由濑而溧,地名虽然变化了,但变化中有因袭,在新地名中保留某些原地名的元素,以示其渊源关系。是否可以这样说,秦朝的溧阳,隋朝的溧水,其县名仍留有濑渚邑,甚至古赖国的痕迹,只是古赖国渐行渐远,这些痕迹被磨灭得不易觉察罢了。
溧阳市、溧水区、高淳区三地的历史均开篇于春秋时期的古赖国,这是有历史依据的。三地同根同源,其历史文化都植根于古赖国,而我们对于古赖国的历史知之甚少,我写此文的目的,是想引起大家对古赖国探讨的兴趣。
拟稿:傅章伟
审稿:王达云
审核:窦予然
发布:梁 刚
根据地方志的记载,我将古赖国属地的变迁胪陈如下:
一、赖国(?——前538年)
赖国始封时间不清楚,大概在西周时期。因其弱小依附于吴国,是吴国的附庸。周景王七年(前538)灭于楚,赖子播迁,迁徙情况不详。赖国的活动除了赖子向楚灵王投降,其他未见文献记载。
二、濑渚邑(前538年——前221年)
赖国灭亡后,楚灵王没有来得及“迁许于赖”,其地当年冬天十一月就被吴国收复。因赖子迁走,这里不再是赖子采邑,吴国将其变为属县,改为濑渚邑(县)。《万历溧水县志》:“溧水,春秋时属吴,名濑渚邑。”又曰,“鲁昭公四年,楚伐吴,遂灭赖。赖,即今之濑也。”濑渚邑的前身是古赖国,“地仍其旧,则名亦仍其赖而已”(《万历溧水县志·邑名》)。
濑渚邑,又作濑渚县。南宋《景定建康志》引《滕(胜)公庙记》:“固城,吴时濑渚县也。”邑,亦县也,是县的别称。春秋时期,诸侯大国常将掠夺来的土地赏给亲近侍卫及有功大臣,而有些边远地区的小国,被灭掉后就改设为县,进行直接管理。最初的县都设在边远地带。最早在领地内设县管理的是楚国,吴国及一些大国也继起效仿。范文澜在《中国通史》中说:“东周时期,含有进步意义的制度,在某些大国里通行起来,‘楚灭九国,改设九县’。”赖国变成濑渚邑(县),管理制度上发生了变化,这是历史的进步。
改“赖”为“濑”,大概是因为这里是水乡泽国,地曰濑渚;水曰濑水,或曰濑湖。《辞源》:“渚,水中小块陆地,水边亦曰渚。”段玉裁《说文解字注》:“溧水,即永阳江之上源,大江之水南汇于此,江上有渚曰濑渚。”赖国改为濑渚邑,地名非常写实。
春秋末期,濑渚地区极不平静,经常硝烟弥漫,战争一直不得消停,濑渚邑今天属吴,明天属楚。为躲避楚国的攻击,吴国曾将县邑迁到陵平山下(今溧阳境内),改为陵平邑。
周景王十六年(前529年),楚国攻打吴国,败吴军,取陵平邑,改为平陵邑,赖地属楚。
周敬王十四年(前506年)伍子胥伐楚,烧固城,大败楚军,赖地回归吴国。
周元王三年(前473年)勾践灭吴,赖地为越国所有。
周显王十四年(前355年),楚国灭掉越国,赖地在楚国境内。楚怀王时,楚国使用阴谋手段,派召滑到越国为相,制造了越国的内乱,趁机占有了濑湖地区,打开了进攻越国的大门,进一步控制了整个江东地区。
范环对楚怀王曰,“且王尝用滑于越,而纳句章,昧之难,越乱,故南察濑湖而野江东。”——《战国策·楚策》
楚国人一直视濑渚地区为战略要地,欲把这里作为进攻吴国、越国的跳板,以实现控制江东的目的。“察濑湖而野江东”是楚国几代人的梦想,从楚灵王的灭赖国,到楚怀王的取濑渚,这个梦想终于实现了。此后一百多年里,赖地一直为楚国领地。
公元前223年,秦灭楚,赖地属秦。
三、 溧阳县(前221年——591年)
公元前221年,秦始皇统一天下,废除分封制,实行郡县管理。设溧阳县,属鄣郡。溧阳,因境内的溧水而得名。溧水,就是古代的中江,亦名濑水。山南水北为阳,县在溧水北面,故曰溧阳,古人也有称溧阳为濑阳。
《辞源》:“溧水,水名,在江苏溧阳县,也作陵水,一名濑水,又名永阳江。即《汉书·地理志》所谓中江。《史记》六六《伍子胥传》:‘伍胥惧,乃与胜俱奔吴。到昭关,昭关欲执之。伍胥遂与胜独身步走,几不得脱。追者在后。至江,江上有一渔父乘船,知伍胥之急,乃渡伍胥。’江即溧水。源出安徽芜湖县,东流经高淳、溧阳、宜兴入荆溪,东注太湖。自东坝既成,又改由芜湖西出长江。
秦、汉时溧阳县的治所在固城,古赖国在溧阳境内。
四、 溧水县(591年——1493年)
隋开皇九年(公元589年)大将韩擒虎、贺若弼分别从朱雀门、西掖门打进建康城,焚烧城楼,拆毁城墙,建康城变成一片废墟,他们要把这个六朝金粉之地变成耕牧之区。为了消除陈在江南统治的影响,隋王朝对陈辖地的行政区重新规划调整:废掉了丹阳郡;撤掉建康县,将建康县、秣陵县、同夏县并入江宁县。废掉丹阳县,分割溧阳县;将丹阳县东境与溧阳县的西北境合并为溧水县。隋朝开皇十一年(591年)溧水建县,属蒋州。原来在溧阳西北境的古赖国,自隋朝开皇十一年,便划入溧水县境内。历隋、唐、宋、元、明,古赖国在溧水县境内留存了近千年。
五、 高淳县(1493年—— )
弘治五年十二月(1493年1月),析溧水县西南七乡置高淳县,属应天府。原在溧水县南九十里的固城归入高淳县,自此古赖国在高淳县境内。高淳县,今为高淳区,属南京市。
结 束 语
一、方志记载与《春秋》《左传》《史记》等古文献的叙事是相契合的。
《左传·昭公四年》记载斗韦龟、公子弃疾修筑赖城事,这从方志收录的古固城资料中得到了印证。古固城究竟原为吴所筑,还是楚所筑,我们已无法弄清;公子弃疾是新建赖国城,还是修缮古固城,我们也无法断定,但古赖国修筑了城邑这是可以肯定的,这不仅有史传、方志的记载,还有古固城遗址作为证据。固城见载于《左传》,春秋时期它已名著史册,古固城就是赖国城,这是可信的史实。
《左传》叙事表明赖国在吴、楚边境,且邻近朱方,而固城镇正当其地。固城镇今在苏皖交界处,南接宣城、广德,西邻芜湖、巢湖,东连溧阳、宜兴,此地正是春秋时吴、楚相邻的中间地带。固城镇与丹徒距离也不甚遥远,1983年之前溧阳县、溧水县、高淳县、丹徒县同属镇江地区,都归镇江行政公署管辖。固城距离丹徒仅 120公里,徒步也就三五天行程。如此之近的距离,当年楚灵王克朱方后“遂灭赖”,这是完全可行的。固城的地理位置与《左传》叙事是相契合的。
如果说《景定建康志》《至正金陵新志》《溧水县志》这类郡县方志,记载古赖国在溧水县境内,可能囿于地域之见,而《太平寰宇记》是北宋的全国地理总志,《南畿志》是留都南京所辖应天府及江淮南北十三府、四州的地理总志,都是汇聚了全国优秀的历史、地理学者编纂的。这些志书,包括官修的《一统志》,都言之凿凿说古赖国在溧水县境内,我想这些专家学者总不会捕风捉影凭空杜撰;方志中记载的古固城史料总不会是不加考证的空穴来风!
二、溧阳、溧水的得名留有古赖国的痕迹
《公羊传》《榖梁传》将“灭赖”写作“灭厉”,“厉”与“溧”今天读音完全相同。不过,古代“厉”读若“赖”,《战国策》“豫让又漆身而为厉”,“厉”也读“赖”。是否古代“溧”也读“赖”呢?极有可能。今天溧水方言读“溧”为入声,高淳方言“溧、赖”发音相近。南朝陶弘景《真诰》“夫至珍者,万乘不能激其名,投金溧女是也”,唐李白《濑水贞义女碑》“还吴雪耻,投金濑沚”。陶弘景笔下的“投金溧”,就是李白文中的“投金濑”。溧即濑,溧水即濑水,“溧”与“濑”古代同源同义,直到今天发音仍然相近。
由赖而濑,由濑而溧,地名虽然变化了,但变化中有因袭,在新地名中保留某些原地名的元素,以示其渊源关系。是否可以这样说,秦朝的溧阳,隋朝的溧水,其县名仍留有濑渚邑,甚至古赖国的痕迹,只是古赖国渐行渐远,这些痕迹被磨灭得不易觉察罢了。
溧阳市、溧水区、高淳区三地的历史均开篇于春秋时期的古赖国,这是有历史依据的。三地同根同源,其历史文化都植根于古赖国,而我们对于古赖国的历史知之甚少,我写此文的目的,是想引起大家对古赖国探讨的兴趣。
拟稿:傅章伟
审稿:王达云
审核:窦予然
发布:梁 刚
堂本光一&井上芳雄3年ぶり『ナイツ・テイル』上白石萌音の呼び掛けでメインキャスト7人“リモート決起集会”
2021年8月17日 05時00分 (8月17日 05時00分更新)
https://t.cn/A6IXeRIF
製作発表会に出席し、抱負を述べる堂本光一
製作発表会に出席しカメラに手を振る(左から)上白石萌音、井上芳雄、堂本光一、音月桂
KinKi Kidsの堂本光一(42)と俳優の井上芳雄(42)がタッグを組むミュージカル「ナイツ・テイル―騎士物語―」の製作発表が16日、東京都内で開かれ、2人のほか音月桂(41)、上白石萌音(23)、演出のジョン・ケアードさん(72)らが出席した。2018年に世界初演を迎え、昨年は初演時の映像とともに劇中歌を披露するシンフォニックコンサートを開催。そして今年は3年ぶりとなる本公演でさらなる進化を遂げる。
◇
「ナイツ・テイル」は、シェークスピアの最後の作品として知られる「二人の貴公子」をもとにケアードさんが光一と井上を主役とする脚本と演出を考案。18年に帝国劇場と梅田芸術劇場で世界初演された。ゼロから作品を作り上げることへの不安や苦悩を分かち合ったメインキャスト7人が今回、3年ぶりにステージに再集結する。
7人は初演以降、グループLINEを作成して連絡を取り合い、コロナ禍においてはたびたびリモート飲みを開催。いつも発起人・まとめ役は上白石だった。そして今年7月、再演に向けての稽古を前に、また上白石が“リモート決起集会”を企画したのだった。
「この作品もこのメンバーも大好きですし、リモート飲み会も楽しいし、個々で連絡を取り合ったとき、みんな『リモート飲みしたい』っておっしゃっていたし、『これはやらなきゃな』と思って」。光一のみソフトドリンクだったが、4~5時間盛り上がったという。
井上は「だいたい1年くらいたつと、音信不通になることがカンパニーの常なんですが、こんなにキャスト同士のつながりがさらに深まっているのはすごく珍しいこと。奇跡のカンパニーだと思います。萌音ちゃんのおかげ」と感謝。
光一も「この3年で、一番跳ねた(飛躍した)のが萌音ちゃん。そんな萌音ちゃんが僕らを見捨てないでいてくれてよかった」とニッコリ。そして「稽古場でも3年前と雰囲気変わらないなと。本当に大変だった初演をいい意味で乗り越えてきたみんなとの信頼関係が厚くなっていて、この作品を良くしよう、コロナ禍でできることを最善を尽くしていこうという思いがあふれていてすごく幸せな空間だなと感じています」としみじみと語った。
光一は今作の稽古に加え、6月から今月12日まで6年ぶりのソロコンサートツアーを開催。さらに後輩が主演するミュージカル「ドリームボーイズ」の演出も担当しており「最近、(午後)3時くらいになると眠くなって…」と告白。同じタイミングで井上も光一と同じような姿勢で“お休みタイム”に入ることもしばしばあるという。
上白石は「嫌な緊張感がなくてみんなが新しいこととかやってみたいことを挑戦できる稽古場なので、そういう空気感を作ってくれる“脱力系騎士”のお二人です」と評して笑わせた。
公演は9月7~30日に大阪・梅田芸術劇場、10月6日~11月7日に東京・帝国劇場、11月13~29日、福岡・博多座で。
■「ジョンがステキな“魔法”をかけてくれる」
○…世界的ミュージカル「レ・ミゼラブル」の潤色・演出をロンドン初演から担当し、同作の日本公演も初演から手掛けたケアードさんは7月13日に英国から来日し、2週間の自主隔離をへて同28日から稽古に参加した。
劇中歌は全曲を再編曲し、昨年のコンサート版で初披露したパラモン(井上)とアーサイト(光一)それぞれの楽曲など3曲の新曲が加わる。音月は「再演とはいえ、ジョンがステキな“魔法”をかけてくれて新作をつくっているような感覚でお稽古が進んでいます。細部に至るまで手直しをされて、スパイスをまぶしてくださる。この作品がどういうものになるのかが楽しみで仕方ありません」と期待を寄せる。
いったいどんな魔法なのか。ケアードさんは「すごくシンプルなこと。イギリスで演劇は『プレイ』と言いますが、子どもたちが遊ぶのも『プレイ』です。ということは、何かいいものを作るには、童心に帰ることが必要。何でもやっていいという雰囲気や失敗してもいいから試すことができる環境をつくる。それが僕のやり方です」と語った。
2021年8月17日 05時00分 (8月17日 05時00分更新)
https://t.cn/A6IXeRIF
製作発表会に出席し、抱負を述べる堂本光一
製作発表会に出席しカメラに手を振る(左から)上白石萌音、井上芳雄、堂本光一、音月桂
KinKi Kidsの堂本光一(42)と俳優の井上芳雄(42)がタッグを組むミュージカル「ナイツ・テイル―騎士物語―」の製作発表が16日、東京都内で開かれ、2人のほか音月桂(41)、上白石萌音(23)、演出のジョン・ケアードさん(72)らが出席した。2018年に世界初演を迎え、昨年は初演時の映像とともに劇中歌を披露するシンフォニックコンサートを開催。そして今年は3年ぶりとなる本公演でさらなる進化を遂げる。
◇
「ナイツ・テイル」は、シェークスピアの最後の作品として知られる「二人の貴公子」をもとにケアードさんが光一と井上を主役とする脚本と演出を考案。18年に帝国劇場と梅田芸術劇場で世界初演された。ゼロから作品を作り上げることへの不安や苦悩を分かち合ったメインキャスト7人が今回、3年ぶりにステージに再集結する。
7人は初演以降、グループLINEを作成して連絡を取り合い、コロナ禍においてはたびたびリモート飲みを開催。いつも発起人・まとめ役は上白石だった。そして今年7月、再演に向けての稽古を前に、また上白石が“リモート決起集会”を企画したのだった。
「この作品もこのメンバーも大好きですし、リモート飲み会も楽しいし、個々で連絡を取り合ったとき、みんな『リモート飲みしたい』っておっしゃっていたし、『これはやらなきゃな』と思って」。光一のみソフトドリンクだったが、4~5時間盛り上がったという。
井上は「だいたい1年くらいたつと、音信不通になることがカンパニーの常なんですが、こんなにキャスト同士のつながりがさらに深まっているのはすごく珍しいこと。奇跡のカンパニーだと思います。萌音ちゃんのおかげ」と感謝。
光一も「この3年で、一番跳ねた(飛躍した)のが萌音ちゃん。そんな萌音ちゃんが僕らを見捨てないでいてくれてよかった」とニッコリ。そして「稽古場でも3年前と雰囲気変わらないなと。本当に大変だった初演をいい意味で乗り越えてきたみんなとの信頼関係が厚くなっていて、この作品を良くしよう、コロナ禍でできることを最善を尽くしていこうという思いがあふれていてすごく幸せな空間だなと感じています」としみじみと語った。
光一は今作の稽古に加え、6月から今月12日まで6年ぶりのソロコンサートツアーを開催。さらに後輩が主演するミュージカル「ドリームボーイズ」の演出も担当しており「最近、(午後)3時くらいになると眠くなって…」と告白。同じタイミングで井上も光一と同じような姿勢で“お休みタイム”に入ることもしばしばあるという。
上白石は「嫌な緊張感がなくてみんなが新しいこととかやってみたいことを挑戦できる稽古場なので、そういう空気感を作ってくれる“脱力系騎士”のお二人です」と評して笑わせた。
公演は9月7~30日に大阪・梅田芸術劇場、10月6日~11月7日に東京・帝国劇場、11月13~29日、福岡・博多座で。
■「ジョンがステキな“魔法”をかけてくれる」
○…世界的ミュージカル「レ・ミゼラブル」の潤色・演出をロンドン初演から担当し、同作の日本公演も初演から手掛けたケアードさんは7月13日に英国から来日し、2週間の自主隔離をへて同28日から稽古に参加した。
劇中歌は全曲を再編曲し、昨年のコンサート版で初披露したパラモン(井上)とアーサイト(光一)それぞれの楽曲など3曲の新曲が加わる。音月は「再演とはいえ、ジョンがステキな“魔法”をかけてくれて新作をつくっているような感覚でお稽古が進んでいます。細部に至るまで手直しをされて、スパイスをまぶしてくださる。この作品がどういうものになるのかが楽しみで仕方ありません」と期待を寄せる。
いったいどんな魔法なのか。ケアードさんは「すごくシンプルなこと。イギリスで演劇は『プレイ』と言いますが、子どもたちが遊ぶのも『プレイ』です。ということは、何かいいものを作るには、童心に帰ることが必要。何でもやっていいという雰囲気や失敗してもいいから試すことができる環境をつくる。それが僕のやり方です」と語った。
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