#西田有志[超话]#
是田有志的新采访!来源如图
2018年に初選出されてから、またたくまに日本代表のポイントゲッターへと成長した西田有志。身長186㎝は決して大柄ではないが、サウスポーから繰り出される力強い打球は、世界を打ち破る。
その西田に今回、インタビューを実施した。第1回は、8月に戦い終えた東京2020オリンピックの振り返りからお届けする。
-東京2020オリンピックお疲れさまでした。一日置きに試合が実施される点が、これまでの大会とは異なっていた点だと思います。スケジュールについてはどのように感じましたか?
西田 大会の最中は忙しく感じました。いい勝ち方をしても「明後日には試合かぁ」と、勝利の余韻に浸る時間はなかったです。すぐ次の戦いのことを考えて準備しなくてはならない。幸い、僕自身のコンディションは決して悪くなかったので良かったと思っていますが、連戦だったら難しかっただろうなとも思います。
-数ある国際大会の中でも、最大の舞台がオリンピックです。ほかの大会との違いはありましたか?
西田 違いましたね。いちばんわかりやすかったのが、選手たちが試合後に涙を流している姿です。これまで海外の選手があれほど涙する姿を見たことがなかったので、それくらい懸ける思いが大きかったのだと感じました。その姿を目の当たりにしながら、「オリンピックは大きな大会なんだ」と、どこか不思議な感情を持っていました。
-(敗れた準々決勝の)ブラジル戦後には西田選手の目からも大粒の涙が流れました
西田 負けたら終わりの決勝トーナメントだったので、純粋に悔しかった、があのときの感情です。オリンピックでは自分たちが今やれる力は出せたつもりでした。例年以上に諸外国としっかり戦うことができましたし、強豪国に対しても一方的な展開にならず、サイドアウトをとって、ブレイクを奪って、といいレベルのバレーボールはできたと感じています。ただし準々決勝敗退、メダルに届かなかったという結果である以上、自分たちの力を“出せたつもり”という発言になってしまう。悔しさはすごく持っています。
-強豪国と渡り合うことができた要因は、どのように感じていますか?
西田 まず選手個々の力がとても強かったと思います。それに、お互いに気を遣わず、と言えば表現は難しいですが、“言葉よりもプレーで”という姿勢が感じられました。振り返れば、ネーションズリーグでは連戦で疲労が出てくる中、チーム内では「もっともっと頑張ろう」という言葉が聞かれました。それが、オリンピックという“一発勝負”の舞台では、みんなで鼓舞し合うというよりも、一人で自分自身を奮い立たす、という感覚でした。
-西田選手自身は大会に臨むにあたって、どのような心境でしたか?
西田 特に大会初戦(7月24日vs.ベネズエラ)は、ケガから復帰して痛みが治まりつつあった状態だったので、「自分は戦えるのかな?」という不安があったのは事実です。一方で、「オリンピックを戦えるんだ」という思いも沸きましたし、いろんな感情が入り混じっていました。
-日本で開催されたオリンピック。残念ながら無観客でしたが、会場の雰囲気はいかがでしたか?
西田 特別、“日本”という感じはしませんでした。試合でコートDJが流す音楽も、各国に馴染みがある選曲だったりしたので、どちらのホームでもないといった感覚。フラットな雰囲気の中で試合をする点は、個人的に新鮮でした。無観客だったからこそ、スポーツそのものと純粋に触れ合う機会になりましたし、一方で、ファンや観客の方々にバレーボールを見てほしいな、とも思いました。
-29年ぶりとなる決勝トーナメント進出に、日本男子バレーのステップアップを感じた見方もありますが、ここからさらに高みへいくために必要なことは何でしょうか?
西田 確かに決勝トーナメント進出という結果は残しました。ですが、結局のところ、世界の上位チームには勝てていません。東京2020オリンピックでもブラジル、ポーランド、イタリアといった強豪国には敗れているので、そこにはまだ大きな差があると感じています。その差を埋めるためには時間が必要ですし、さらなる努力を重ねていかなければいけません。次に何をすればいいかを早く見つけ、しっかりと改善を施して、上位チームとの対戦で“勝てる”までの自信をつけられるようにしたいです。
ここから険しい道のりが待っていますが、今の日本代表全体を見ると、メンタル面では戦える状態になっているので、あとはやるしかないと思います。とはいえ、先のことを考えすぎずに、僕自身はこの1年をどう過ごすかを考えて、やれることをしっかりとやっていきたいです。
~オリンピックを前に見舞われた緊急事態とは →第2回へ続く~
9月15日(水)発売の月刊バレーボール10月号にて西田有志選手インタビュー掲載あります!
是田有志的新采访!来源如图
2018年に初選出されてから、またたくまに日本代表のポイントゲッターへと成長した西田有志。身長186㎝は決して大柄ではないが、サウスポーから繰り出される力強い打球は、世界を打ち破る。
その西田に今回、インタビューを実施した。第1回は、8月に戦い終えた東京2020オリンピックの振り返りからお届けする。
-東京2020オリンピックお疲れさまでした。一日置きに試合が実施される点が、これまでの大会とは異なっていた点だと思います。スケジュールについてはどのように感じましたか?
西田 大会の最中は忙しく感じました。いい勝ち方をしても「明後日には試合かぁ」と、勝利の余韻に浸る時間はなかったです。すぐ次の戦いのことを考えて準備しなくてはならない。幸い、僕自身のコンディションは決して悪くなかったので良かったと思っていますが、連戦だったら難しかっただろうなとも思います。
-数ある国際大会の中でも、最大の舞台がオリンピックです。ほかの大会との違いはありましたか?
西田 違いましたね。いちばんわかりやすかったのが、選手たちが試合後に涙を流している姿です。これまで海外の選手があれほど涙する姿を見たことがなかったので、それくらい懸ける思いが大きかったのだと感じました。その姿を目の当たりにしながら、「オリンピックは大きな大会なんだ」と、どこか不思議な感情を持っていました。
-(敗れた準々決勝の)ブラジル戦後には西田選手の目からも大粒の涙が流れました
西田 負けたら終わりの決勝トーナメントだったので、純粋に悔しかった、があのときの感情です。オリンピックでは自分たちが今やれる力は出せたつもりでした。例年以上に諸外国としっかり戦うことができましたし、強豪国に対しても一方的な展開にならず、サイドアウトをとって、ブレイクを奪って、といいレベルのバレーボールはできたと感じています。ただし準々決勝敗退、メダルに届かなかったという結果である以上、自分たちの力を“出せたつもり”という発言になってしまう。悔しさはすごく持っています。
-強豪国と渡り合うことができた要因は、どのように感じていますか?
西田 まず選手個々の力がとても強かったと思います。それに、お互いに気を遣わず、と言えば表現は難しいですが、“言葉よりもプレーで”という姿勢が感じられました。振り返れば、ネーションズリーグでは連戦で疲労が出てくる中、チーム内では「もっともっと頑張ろう」という言葉が聞かれました。それが、オリンピックという“一発勝負”の舞台では、みんなで鼓舞し合うというよりも、一人で自分自身を奮い立たす、という感覚でした。
-西田選手自身は大会に臨むにあたって、どのような心境でしたか?
西田 特に大会初戦(7月24日vs.ベネズエラ)は、ケガから復帰して痛みが治まりつつあった状態だったので、「自分は戦えるのかな?」という不安があったのは事実です。一方で、「オリンピックを戦えるんだ」という思いも沸きましたし、いろんな感情が入り混じっていました。
-日本で開催されたオリンピック。残念ながら無観客でしたが、会場の雰囲気はいかがでしたか?
西田 特別、“日本”という感じはしませんでした。試合でコートDJが流す音楽も、各国に馴染みがある選曲だったりしたので、どちらのホームでもないといった感覚。フラットな雰囲気の中で試合をする点は、個人的に新鮮でした。無観客だったからこそ、スポーツそのものと純粋に触れ合う機会になりましたし、一方で、ファンや観客の方々にバレーボールを見てほしいな、とも思いました。
-29年ぶりとなる決勝トーナメント進出に、日本男子バレーのステップアップを感じた見方もありますが、ここからさらに高みへいくために必要なことは何でしょうか?
西田 確かに決勝トーナメント進出という結果は残しました。ですが、結局のところ、世界の上位チームには勝てていません。東京2020オリンピックでもブラジル、ポーランド、イタリアといった強豪国には敗れているので、そこにはまだ大きな差があると感じています。その差を埋めるためには時間が必要ですし、さらなる努力を重ねていかなければいけません。次に何をすればいいかを早く見つけ、しっかりと改善を施して、上位チームとの対戦で“勝てる”までの自信をつけられるようにしたいです。
ここから険しい道のりが待っていますが、今の日本代表全体を見ると、メンタル面では戦える状態になっているので、あとはやるしかないと思います。とはいえ、先のことを考えすぎずに、僕自身はこの1年をどう過ごすかを考えて、やれることをしっかりとやっていきたいです。
~オリンピックを前に見舞われた緊急事態とは →第2回へ続く~
9月15日(水)発売の月刊バレーボール10月号にて西田有志選手インタビュー掲載あります!
志在天下的孙权,却因为目光短浅,错过了唯一能够夺取天下的机会!
我们受《三国演义》的影响,对东吴没有什么好印象。尤其是它私自败盟,白衣渡江偷袭荆州,擒杀了关羽,更是让我们不耻。但是,我们不要忘了,三国三国,少一国都不能称其为三国。如果没有吴国的参与,就不会有三国这个时代。东吴之所以会有这样的表现,是因为它也是一个想要争夺天下的集团。因此,我们有必要对东吴夺取天下的方略做一番探讨。
一、东吴的野望。
在三国的历史里,我们对诸葛亮的《隆中对》都十分熟悉。估计很多人都还背过,朗朗上口。蜀汉日后就是按照《隆中对》里的方略,进行了一步步的战略行动。但是,东吴同样也有夺取天下的方略,那就是孙权和鲁肃的《榻上问对》,了解它的人就不如《隆中对》多了。
据《三国志鲁肃传》记载,当年周瑜将鲁肃推荐给孙权,孙权和鲁肃相谈甚欢。于是孙权独自把鲁肃留下,商谈天下大事。这就是东吴有名的《榻上问对》。《三国志鲁肃传》中是这样记载的:
(孙权)因密议曰:“今汉室倾危,四方云扰,孤承父兄馀业,思有桓文之功。君既惠顾,何以佐之?”肃对曰:“昔高帝区区欲尊事义帝而不获者,以项羽为害也。今之曹操,犹昔项羽,将军何由得为桓文乎?肃窃料之,汉室不可复兴,曹操不可卒除。为将军计,惟有鼎足江东,以观天下之衅。规模如此,亦自无嫌。何者?北方诚多务也。因其多务,剿除黄祖,进伐刘表,竟长江所极,据而有之,然后建号帝王以图天下,此高帝之业也。”
在这里,鲁肃提出了东吴夺取天下的战略方案,那就是夺取荆州,竟长江所极,据而有之。然后建帝号以图天下。这个方案得到了孙权的认可,在日后的东吴的战略行动上,处处体现了这个方案的影子。
二、赤壁之战后的形势。
在孙权和鲁肃制订夺取天下的方案时,刘备还没有来到荆州。后来刘备到荆州后,得到诸葛亮的辅佐,采纳了《隆中对》的方案,形势又发生了新的变化。
到曹操南下,夺取荆州的时候,孙权面临曹操的巨大的军事压力,内部投降的呼声很高。但是孙权内心不愿意投降,在得到周瑜、鲁肃的支持后,联合刘备,在赤壁打败了曹操。曹操看南方一时难以平定,被迫留下部分兵力守卫要点,主力撤回北方。
在赤壁之战后,东吴按照它的战略方针,把注意力放在长江沿岸的要点上。东吴的目标是南郡,周瑜率领东吴的主力和曹仁进行了长期的争夺战。《三国志吴主传》中记载,“瑜、仁相守岁馀,所杀伤甚众。仁委城走。”最终,东吴付出了巨大的代价,夺取了江陵,实现了全据长江的设想。
而刘备集团则迅速南下,夺取了江南的武陵、长沙、桂阳、零陵四郡。并且依靠四郡的资源,迅速壮大了自己的实力。这时的刘备集团不是当初的弱小势力,已经发展成为一支不可小觑的力量。
这样,孙刘两家之间就又产生了新的问题。那就是东吴如何处理盘踞在自己的腹地的刘备集团。周瑜等人的建议是,收服刘备,为己所用。比如说扣押刘备主要将领,用声色去腐蚀他们。使刘备集团群龙无首,分化瓦解。但刘备集团的君臣都是以匡扶汉室江山为己任的,这些手段难以达到目的。再加上鲁肃等联盟派从中周旋,这些建议没有被孙权采纳。
最终,经过鲁肃的中间努力,双方采用了一个比较明智的解决方案--“借荆州”。
三、借荆州的影响。
借荆州,是孙权心里的一个刺。借荆州,实质上只是借了南郡一个郡。但是由于这个南郡战略地位极其重要,导致了多年以后,孙权依然因为借荆州这件事对鲁肃耿耿于怀。《三国志吴书九》中,孙权评价鲁肃说,“(鲁肃)后虽劝吾借玄德地,是其一短。”可是,如果我们客观的来看待这件事情,就会发现,鲁肃借荆州不但不是他的短处,反而是他的长处。
当时,刘备按照《隆中对》的方案,需要一个出兵宛洛的战役出发地,于是向孙权提出借荆州的要求。鲁肃居间调停,孙权答应了刘备的要求,将从曹魏手中浴血奋战夺来的南郡借给了刘备。
在当时的情况下,东吴虽然全据长江,但是刘备被包围在腹心之中。东吴站在第一线,抵抗着曹魏的全部压力。而刘备则躲在东吴的身后,一面发展自己的势力,一边等待时机。这对东吴是不利的。
而刘备集团也不甘心被包围的境地,为了完成《隆中对》的构想,它也需要南郡这个要地,做取益州和北伐的基地。这样,在鲁肃的周旋下,双方达成了协议。刘备的兵力被送上第一线,减轻了东吴的压力,使得东吴可以专意淮南。因此,史书说,“曹公闻权以土地业备,方作书,落笔於地。”可见这件事给曹操心理冲击之大。
但是,孙权借荆州给刘备的真实意图并不是帮助刘备实现《隆中对》。他的真实意图是给刘备一条出路,好把刘备的势力从荆州撵走。这是他和鲁肃战略意图的分歧所在,也正是这个战略意图的分歧,导致了日后败盟的发生。
四、不可逾越的障碍合肥与张辽。
孙权在和刘备虚与委蛇的同时,也在淮南对曹军进行了多次交锋,各有胜负。但是,南郡一直是孙权的一块心病。南郡不回到自己的手中,孙权睡不安席。
当孙权得知刘备取益州的消息后,一怒一喜。怒的是,刘备阻止孙权取益州的行动,反而自己去获取益州。喜的是,刘备既然有了益州的地盘,自己就可以名正言顺的要回荆州,把刘备的势力驱逐出去。
可按照《隆中对》的计划,南郡是北伐宛洛的出发地,刘备是绝不可能还给东吴的。因此,刘备推脱说得了凉州再还。孙权一怒之下,出兵湘水,双方差点火拼。当时曹操入侵汉中,刘备怕益州有失,与孙权以湘水为界,平分江南四郡,双方暂时和解。
刘备自以为事情到此为止,可他不知道,在孙权心里,江南四郡全部给东吴也比不上南郡,将来不管怎么样,也要拿回南郡。
孙权在荆州问题告一段落后,就把目光回到淮南来。这次他的目光盯上了曹魏在淮南的重要据点合肥。合肥的地理位置十分重要,清初顾祖禹在《读史方舆纪要》中,称合肥为“淮右襟喉,江南唇齿。自大江而北出,得合肥,则可以西问申、蔡,北向徐、寿,而争胜于中原。中原得合肥,则扼江南之吭而拊其背矣。”因此,孙权对合肥也是志在必得。
可是这一次,孙权遇上了他人生的克星张辽。十万大军竟然打不下七千曹军守卫的合肥城。刚一遭遇,张辽就直杀入孙权麾下。这时,孙权露出了他外强中干的真面目,竟然吓得逃上高冢躲避。连当年不愿意进院墙内躲避的袁绍都不如,使得全军丧胆。接下来攻城不克,撤军时被张辽在逍遥津突袭,险些丢了性命。
这一仗,张辽威震东吴,孙权彻底丧失了进攻淮南的勇气。多年以后,孙权还说,“张辽虽病,不可当也,慎之!”坐镇淮南的张辽成了孙权无法逾越的障碍。
五、天下之大机。关羽的襄樊之战。
孙权不得不再次把目光回到了荆州的方向。淮南打不下来,但有长江和自己的水军,暂时可以保证安全。可是,南郡一直在刘备手中,终究是心腹之患。这时,鲁肃已死,接替鲁肃的吕蒙迎合孙权,说出了夺回荆州的设想。据《三国志吕蒙传》记载:
初,鲁肃等以为曹公尚存,祸难始构,宜相辅协,与之同仇,不可失也,蒙乃密陈计策曰:“(今)征虏守南郡,潘璋住白帝,蒋钦将游兵万人,循江上下,应敌所在,蒙为国家前据襄阳,如此,何忧於操,何赖於羽?且羽君臣,矜其诈力,所在反覆,不可以腹心待也。今羽所以未便东向者,以至尊圣明,蒙等尚存也。今不於强壮时图之,一旦僵仆,欲复陈力,其可得邪?”权深纳其策,又聊复与论取徐州意,蒙对曰:“今操远在河北,新破诸袁,抚集幽、冀,未暇东顾。徐土守兵,闻不足言,往自可克。然地势陆通,骁骑所骋,至尊今日得徐州,操后旬必来争,虽以七八万人守之,犹当怀忧。不如取羽,全据长江,形势益张。”权尤以此言为当。
孙权吕蒙君臣的这段对将来的战略方案的产生,主要原因是东吴的联盟派的主导者鲁肃已死,剩下的这些以吕蒙为代表的人已经对刘备方面不满已久,这时都爆发了出来。这些人认为,刘备集团的崛起是依靠东吴的赤壁之战起家,而现在发展以后,以刘备关羽为首的刘备集团对自己不但没有感恩之心,反而怀有恶意。
如果是这样,还不如除掉关羽,夺回荆州。有自己的水军为后援,根本没有必要害怕曹操和关羽。孙权也认可了这个设想。这实际上,孙权集团又回到了“全据长江”的老路上来。这个时候,孙权集团已经决定武力夺回荆州,把刘备的势力赶回西川。
可怜刘备集团对孙权集团的战略变化毫无察觉。关羽已经成了孙权的目标,荆州成了东吴砧板上的肉,刘备集团还在做着结好孙权的美梦。
建安二十四年,关羽北伐襄樊,水淹七军,活捉于禁,斩杀庞德。紧接着,东吴和曹操勾结。吕蒙白衣渡江,偷袭荆州成功。关羽走投无路,大军溃散,败走麦城,被东吴擒杀。
两年之后,又发生了夷陵之战。陆逊在夷陵火攻刘备七百里连营,大败蜀军。自此,三国的疆界格局基本确定了下来。
六、东吴取得天下的关键。
从最后的结果来看,东吴终于达到了“全据长江”的战略目标。但是,就最后的东吴的形势来看,战略态势没有得到多少改善,甚至还有恶化的趋势。
在西段,西有蜀汉的威胁,北有襄樊的威胁,被迫投入大量兵力防守。在东段,我们都知道一句话,“守江必守淮”。淮南曹操占有合肥要地,东吴根本无法把势力扩张到淮河一线。因此,曹魏随时可以把兵力前出到长江一线。东吴本身兵力有限,又增加了更多的防区,根本失去了北伐的能力。孙权和鲁肃的问对里面的争夺天下的预想成了一句空话。终三国时期,东吴也未能改变自己的被动防御态势,直到灭亡。
那东吴难道就没有夺取天下的机会了吗?如果我们对整个过程进行缜密的分析,我们还是认为是有的。这个机会,就在关羽的襄樊之战的时候。
首先,孙权有着其他两个集团都没有的优势,那就是外交优势。曹刘两家视为死敌,号称汉贼不两立。而双方又都和孙权有姻亲的关系。这就使得孙权集团拥有得天独厚的外交优势。有了这个优势,孙权可以置身事外,坐山观虎斗,也可以在最关键的时候撕破盟约,收取最大利益。孙权不必担心刘备集团对自己背盟,而自己随时可以选择对关羽袭击的时机,这个优势可以给孙权带来巨大的利益。
第二,关羽北伐,能够削弱曹魏的实力,对东吴有很大的好处。在关羽获胜的情况下,会大幅度的削弱曹魏的势力,减轻东吴下一步进取中原的压力。在这个时候,孙权集团应该把主要的兵力投入淮南战场,尽快解决合肥这个钉子。如果能够夺取合肥,控制淮河一线,不但会改善长江的防御态势,还可以为下一步逐鹿中原做好准备。
第三,背盟的时机。要达到孙权的全据长江的战略目标,必须拿回南郡。但是由于有《隆中对》的战略部署,刘备集团是不可能归还南郡的。要拿回南郡就必须败盟,袭取荆州。那么,败盟的时机十分重要。不能早,也不能迟。
如果早的话,等于东吴为曹魏解围,并可能和关羽拼得两败俱伤。如果迟的话,关羽立足已定,就失去机会。所以,时机的拿捏是关键中的关键。
当关羽和曹魏陷入对峙状态的时候,东吴要采取援助的姿态,并给予关羽粮草甚至兵力的援助,让关羽和曹魏拼得两败俱伤。如果关羽能够拿下襄阳樊城,给曹军严重打击,而自己也损失惨重的时候,这个时候背盟袭击是最好的时机。如果关羽拿不下襄樊,但是和曹军拼得两败俱伤,被迫撤军的时候,这个时候也是袭取荆州的时机。
如果能够把握好时机,造成曹军和关羽两败俱伤,东吴取得西控荆襄,东控淮河的态势,那么,东吴还是很有可能夺取天下的。而孙权掌握着选择时机的主动权,是应该能够做到这一点的。
但是,由于东吴君臣的目光短浅,行事拙劣,夺取荆襄失之过早,使得曹魏没有受到应有的打击。又没能够控制淮河荆襄一线,战略态势没有能够得到根本性的改变。还因此产生了夷陵之战的连锁反应,虽然获胜,可自己也损失惨重,造成了吴蜀两国两败俱伤的结果。这使得曹魏坐收渔利。最终,曹魏一家独强,吴蜀两国苟延残喘,必然灭亡的格局固定了下来。
我们受《三国演义》的影响,对东吴没有什么好印象。尤其是它私自败盟,白衣渡江偷袭荆州,擒杀了关羽,更是让我们不耻。但是,我们不要忘了,三国三国,少一国都不能称其为三国。如果没有吴国的参与,就不会有三国这个时代。东吴之所以会有这样的表现,是因为它也是一个想要争夺天下的集团。因此,我们有必要对东吴夺取天下的方略做一番探讨。
一、东吴的野望。
在三国的历史里,我们对诸葛亮的《隆中对》都十分熟悉。估计很多人都还背过,朗朗上口。蜀汉日后就是按照《隆中对》里的方略,进行了一步步的战略行动。但是,东吴同样也有夺取天下的方略,那就是孙权和鲁肃的《榻上问对》,了解它的人就不如《隆中对》多了。
据《三国志鲁肃传》记载,当年周瑜将鲁肃推荐给孙权,孙权和鲁肃相谈甚欢。于是孙权独自把鲁肃留下,商谈天下大事。这就是东吴有名的《榻上问对》。《三国志鲁肃传》中是这样记载的:
(孙权)因密议曰:“今汉室倾危,四方云扰,孤承父兄馀业,思有桓文之功。君既惠顾,何以佐之?”肃对曰:“昔高帝区区欲尊事义帝而不获者,以项羽为害也。今之曹操,犹昔项羽,将军何由得为桓文乎?肃窃料之,汉室不可复兴,曹操不可卒除。为将军计,惟有鼎足江东,以观天下之衅。规模如此,亦自无嫌。何者?北方诚多务也。因其多务,剿除黄祖,进伐刘表,竟长江所极,据而有之,然后建号帝王以图天下,此高帝之业也。”
在这里,鲁肃提出了东吴夺取天下的战略方案,那就是夺取荆州,竟长江所极,据而有之。然后建帝号以图天下。这个方案得到了孙权的认可,在日后的东吴的战略行动上,处处体现了这个方案的影子。
二、赤壁之战后的形势。
在孙权和鲁肃制订夺取天下的方案时,刘备还没有来到荆州。后来刘备到荆州后,得到诸葛亮的辅佐,采纳了《隆中对》的方案,形势又发生了新的变化。
到曹操南下,夺取荆州的时候,孙权面临曹操的巨大的军事压力,内部投降的呼声很高。但是孙权内心不愿意投降,在得到周瑜、鲁肃的支持后,联合刘备,在赤壁打败了曹操。曹操看南方一时难以平定,被迫留下部分兵力守卫要点,主力撤回北方。
在赤壁之战后,东吴按照它的战略方针,把注意力放在长江沿岸的要点上。东吴的目标是南郡,周瑜率领东吴的主力和曹仁进行了长期的争夺战。《三国志吴主传》中记载,“瑜、仁相守岁馀,所杀伤甚众。仁委城走。”最终,东吴付出了巨大的代价,夺取了江陵,实现了全据长江的设想。
而刘备集团则迅速南下,夺取了江南的武陵、长沙、桂阳、零陵四郡。并且依靠四郡的资源,迅速壮大了自己的实力。这时的刘备集团不是当初的弱小势力,已经发展成为一支不可小觑的力量。
这样,孙刘两家之间就又产生了新的问题。那就是东吴如何处理盘踞在自己的腹地的刘备集团。周瑜等人的建议是,收服刘备,为己所用。比如说扣押刘备主要将领,用声色去腐蚀他们。使刘备集团群龙无首,分化瓦解。但刘备集团的君臣都是以匡扶汉室江山为己任的,这些手段难以达到目的。再加上鲁肃等联盟派从中周旋,这些建议没有被孙权采纳。
最终,经过鲁肃的中间努力,双方采用了一个比较明智的解决方案--“借荆州”。
三、借荆州的影响。
借荆州,是孙权心里的一个刺。借荆州,实质上只是借了南郡一个郡。但是由于这个南郡战略地位极其重要,导致了多年以后,孙权依然因为借荆州这件事对鲁肃耿耿于怀。《三国志吴书九》中,孙权评价鲁肃说,“(鲁肃)后虽劝吾借玄德地,是其一短。”可是,如果我们客观的来看待这件事情,就会发现,鲁肃借荆州不但不是他的短处,反而是他的长处。
当时,刘备按照《隆中对》的方案,需要一个出兵宛洛的战役出发地,于是向孙权提出借荆州的要求。鲁肃居间调停,孙权答应了刘备的要求,将从曹魏手中浴血奋战夺来的南郡借给了刘备。
在当时的情况下,东吴虽然全据长江,但是刘备被包围在腹心之中。东吴站在第一线,抵抗着曹魏的全部压力。而刘备则躲在东吴的身后,一面发展自己的势力,一边等待时机。这对东吴是不利的。
而刘备集团也不甘心被包围的境地,为了完成《隆中对》的构想,它也需要南郡这个要地,做取益州和北伐的基地。这样,在鲁肃的周旋下,双方达成了协议。刘备的兵力被送上第一线,减轻了东吴的压力,使得东吴可以专意淮南。因此,史书说,“曹公闻权以土地业备,方作书,落笔於地。”可见这件事给曹操心理冲击之大。
但是,孙权借荆州给刘备的真实意图并不是帮助刘备实现《隆中对》。他的真实意图是给刘备一条出路,好把刘备的势力从荆州撵走。这是他和鲁肃战略意图的分歧所在,也正是这个战略意图的分歧,导致了日后败盟的发生。
四、不可逾越的障碍合肥与张辽。
孙权在和刘备虚与委蛇的同时,也在淮南对曹军进行了多次交锋,各有胜负。但是,南郡一直是孙权的一块心病。南郡不回到自己的手中,孙权睡不安席。
当孙权得知刘备取益州的消息后,一怒一喜。怒的是,刘备阻止孙权取益州的行动,反而自己去获取益州。喜的是,刘备既然有了益州的地盘,自己就可以名正言顺的要回荆州,把刘备的势力驱逐出去。
可按照《隆中对》的计划,南郡是北伐宛洛的出发地,刘备是绝不可能还给东吴的。因此,刘备推脱说得了凉州再还。孙权一怒之下,出兵湘水,双方差点火拼。当时曹操入侵汉中,刘备怕益州有失,与孙权以湘水为界,平分江南四郡,双方暂时和解。
刘备自以为事情到此为止,可他不知道,在孙权心里,江南四郡全部给东吴也比不上南郡,将来不管怎么样,也要拿回南郡。
孙权在荆州问题告一段落后,就把目光回到淮南来。这次他的目光盯上了曹魏在淮南的重要据点合肥。合肥的地理位置十分重要,清初顾祖禹在《读史方舆纪要》中,称合肥为“淮右襟喉,江南唇齿。自大江而北出,得合肥,则可以西问申、蔡,北向徐、寿,而争胜于中原。中原得合肥,则扼江南之吭而拊其背矣。”因此,孙权对合肥也是志在必得。
可是这一次,孙权遇上了他人生的克星张辽。十万大军竟然打不下七千曹军守卫的合肥城。刚一遭遇,张辽就直杀入孙权麾下。这时,孙权露出了他外强中干的真面目,竟然吓得逃上高冢躲避。连当年不愿意进院墙内躲避的袁绍都不如,使得全军丧胆。接下来攻城不克,撤军时被张辽在逍遥津突袭,险些丢了性命。
这一仗,张辽威震东吴,孙权彻底丧失了进攻淮南的勇气。多年以后,孙权还说,“张辽虽病,不可当也,慎之!”坐镇淮南的张辽成了孙权无法逾越的障碍。
五、天下之大机。关羽的襄樊之战。
孙权不得不再次把目光回到了荆州的方向。淮南打不下来,但有长江和自己的水军,暂时可以保证安全。可是,南郡一直在刘备手中,终究是心腹之患。这时,鲁肃已死,接替鲁肃的吕蒙迎合孙权,说出了夺回荆州的设想。据《三国志吕蒙传》记载:
初,鲁肃等以为曹公尚存,祸难始构,宜相辅协,与之同仇,不可失也,蒙乃密陈计策曰:“(今)征虏守南郡,潘璋住白帝,蒋钦将游兵万人,循江上下,应敌所在,蒙为国家前据襄阳,如此,何忧於操,何赖於羽?且羽君臣,矜其诈力,所在反覆,不可以腹心待也。今羽所以未便东向者,以至尊圣明,蒙等尚存也。今不於强壮时图之,一旦僵仆,欲复陈力,其可得邪?”权深纳其策,又聊复与论取徐州意,蒙对曰:“今操远在河北,新破诸袁,抚集幽、冀,未暇东顾。徐土守兵,闻不足言,往自可克。然地势陆通,骁骑所骋,至尊今日得徐州,操后旬必来争,虽以七八万人守之,犹当怀忧。不如取羽,全据长江,形势益张。”权尤以此言为当。
孙权吕蒙君臣的这段对将来的战略方案的产生,主要原因是东吴的联盟派的主导者鲁肃已死,剩下的这些以吕蒙为代表的人已经对刘备方面不满已久,这时都爆发了出来。这些人认为,刘备集团的崛起是依靠东吴的赤壁之战起家,而现在发展以后,以刘备关羽为首的刘备集团对自己不但没有感恩之心,反而怀有恶意。
如果是这样,还不如除掉关羽,夺回荆州。有自己的水军为后援,根本没有必要害怕曹操和关羽。孙权也认可了这个设想。这实际上,孙权集团又回到了“全据长江”的老路上来。这个时候,孙权集团已经决定武力夺回荆州,把刘备的势力赶回西川。
可怜刘备集团对孙权集团的战略变化毫无察觉。关羽已经成了孙权的目标,荆州成了东吴砧板上的肉,刘备集团还在做着结好孙权的美梦。
建安二十四年,关羽北伐襄樊,水淹七军,活捉于禁,斩杀庞德。紧接着,东吴和曹操勾结。吕蒙白衣渡江,偷袭荆州成功。关羽走投无路,大军溃散,败走麦城,被东吴擒杀。
两年之后,又发生了夷陵之战。陆逊在夷陵火攻刘备七百里连营,大败蜀军。自此,三国的疆界格局基本确定了下来。
六、东吴取得天下的关键。
从最后的结果来看,东吴终于达到了“全据长江”的战略目标。但是,就最后的东吴的形势来看,战略态势没有得到多少改善,甚至还有恶化的趋势。
在西段,西有蜀汉的威胁,北有襄樊的威胁,被迫投入大量兵力防守。在东段,我们都知道一句话,“守江必守淮”。淮南曹操占有合肥要地,东吴根本无法把势力扩张到淮河一线。因此,曹魏随时可以把兵力前出到长江一线。东吴本身兵力有限,又增加了更多的防区,根本失去了北伐的能力。孙权和鲁肃的问对里面的争夺天下的预想成了一句空话。终三国时期,东吴也未能改变自己的被动防御态势,直到灭亡。
那东吴难道就没有夺取天下的机会了吗?如果我们对整个过程进行缜密的分析,我们还是认为是有的。这个机会,就在关羽的襄樊之战的时候。
首先,孙权有着其他两个集团都没有的优势,那就是外交优势。曹刘两家视为死敌,号称汉贼不两立。而双方又都和孙权有姻亲的关系。这就使得孙权集团拥有得天独厚的外交优势。有了这个优势,孙权可以置身事外,坐山观虎斗,也可以在最关键的时候撕破盟约,收取最大利益。孙权不必担心刘备集团对自己背盟,而自己随时可以选择对关羽袭击的时机,这个优势可以给孙权带来巨大的利益。
第二,关羽北伐,能够削弱曹魏的实力,对东吴有很大的好处。在关羽获胜的情况下,会大幅度的削弱曹魏的势力,减轻东吴下一步进取中原的压力。在这个时候,孙权集团应该把主要的兵力投入淮南战场,尽快解决合肥这个钉子。如果能够夺取合肥,控制淮河一线,不但会改善长江的防御态势,还可以为下一步逐鹿中原做好准备。
第三,背盟的时机。要达到孙权的全据长江的战略目标,必须拿回南郡。但是由于有《隆中对》的战略部署,刘备集团是不可能归还南郡的。要拿回南郡就必须败盟,袭取荆州。那么,败盟的时机十分重要。不能早,也不能迟。
如果早的话,等于东吴为曹魏解围,并可能和关羽拼得两败俱伤。如果迟的话,关羽立足已定,就失去机会。所以,时机的拿捏是关键中的关键。
当关羽和曹魏陷入对峙状态的时候,东吴要采取援助的姿态,并给予关羽粮草甚至兵力的援助,让关羽和曹魏拼得两败俱伤。如果关羽能够拿下襄阳樊城,给曹军严重打击,而自己也损失惨重的时候,这个时候背盟袭击是最好的时机。如果关羽拿不下襄樊,但是和曹军拼得两败俱伤,被迫撤军的时候,这个时候也是袭取荆州的时机。
如果能够把握好时机,造成曹军和关羽两败俱伤,东吴取得西控荆襄,东控淮河的态势,那么,东吴还是很有可能夺取天下的。而孙权掌握着选择时机的主动权,是应该能够做到这一点的。
但是,由于东吴君臣的目光短浅,行事拙劣,夺取荆襄失之过早,使得曹魏没有受到应有的打击。又没能够控制淮河荆襄一线,战略态势没有能够得到根本性的改变。还因此产生了夷陵之战的连锁反应,虽然获胜,可自己也损失惨重,造成了吴蜀两国两败俱伤的结果。这使得曹魏坐收渔利。最终,曹魏一家独强,吴蜀两国苟延残喘,必然灭亡的格局固定了下来。
药师七佛名号功德忏悔法(消除业障,每天读一遍)
善名称吉祥王如来宝月智严光音自在王如来金色宝光妙行成就如来无忧最胜吉祥如来法海雷音如来法海胜慧游戏神通如来药师琉璃光如来
药师七佛名号功德忏悔法
大慈大悲愍众生。
大喜大舍济含识。
相好光明以自严。
众等至心归命礼。
南无皈依十方尽虚空界一切诸佛。
南无皈依十方尽虚空界一切尊法。
南无皈依十方尽虚空界一切贤圣僧。
天上天下无如佛,
十方世界亦无比,
世间所有我尽见,
一切无有如佛者。
南无如来。应供。正遍知。明行足。善逝世间解。无上士。调御丈夫。天人师。佛。世尊。南无释迦牟尼佛。南无金刚不坏佛。
南无宝光佛。南无龙尊王佛。
南无精进军佛。南无精进喜佛。
南无宝火佛。南无宝月光佛。
南无现无愚佛。南无宝月佛。
南无无垢佛。南无离垢佛。
南无勇施佛。南无清净佛。
南无清净施佛。南无娑留那佛。
南无水天佛。南无坚德佛。
南无栴檀功德佛。南无无量掬光佛。
南无光德佛。南无无忧德佛。
南无那罗延佛。南无功德华佛。
南无莲华光游戏神通佛。南无财功德佛。
南无德念佛。南无善名称功德佛。
南无红焰帝幢王佛。南无善游步功德佛。
南无斗战胜佛。南无善游步佛。
南无周匝庄严功德佛。南无宝华游步佛。
南无宝莲华善住娑罗树王佛。
南无善名称吉祥王如来。
南无宝月智严光音自在王如来。
南无金色宝光妙行成就如来。
南无无忧最胜吉祥如来。
南无法海雷音如来。
南无法海胜慧游戏神通如来。
南无药师琉璃光如来。
南无虚空功德清净微尘等目端正功德相光明华波头摩琉璃光宝体香最上香供养讫种种庄严顶髻无量无边日月光明愿力庄严变化庄严法界出生无障碍王如来
如是等一切世界,诸佛世尊,常住在世。是诸世尊,当慈念我。若我此生,若我前生,从无始生死以来,所做众罪。若自作,若教他作,见作随喜。若塔若僧,若四方僧物。若自取,若教他取,见取随喜。五无间业,若自作,若教他作,见作随喜。
十不善道,若自作,若教他作,见作随喜。 所作罪障,或有覆藏,或不覆藏。应堕地狱,饿鬼畜生,诸余恶趣,边地下贱,及蔑戾车,如是等处。所作罪障,今皆忏悔。今佛世尊,当证知我,当忆念我。我复于诸佛世尊前,作如是言。
若我此生,若我余生。曾行布施或守净戒,乃至施与 众生一抟之食。或修净行所有善根。成就众生,所有善根。修行菩提,所有善根。及无上智,所有善根。一切合集,校计筹量。皆悉回向,阿耨多罗三藐三菩提,如 过去未来,现在诸佛,所作回向,我亦如是回向。众罪皆忏悔,诸福尽随喜。
及请佛功德,愿成无上智。
去来现在佛,于众生最胜。
无量功德海,我今归命礼。
所有十方世界中。三世一切人师子。
我以清净身语意。一切遍礼尽无余。
普贤行愿威神力。普现一切如来前。
一身复现剎尘身。一一遍礼剎尘佛。
于一尘中尘数佛。各处菩萨众会中。
无尽法界尘亦然。深信诸佛皆充满。
各以一切音声海。普出无尽妙言辞。
尽于未来一切劫。赞佛甚深功德海。
以诸最胜妙华鬘。伎乐涂香及伞盖。
如是最胜庄严具。我以供养诸如来。
最胜衣服最胜香。末香烧香与灯烛。
一一皆如妙高聚。我悉供养诸如来。
我以广大胜解心。深信一切三世佛。
悉以普贤行愿力。普遍供养诸如来。
我昔所造诸恶业。皆由无始贪瞋痴。
从身语意之所生。一切我今皆忏悔。
十方一切诸众生。二乘有学及无学。
一切如来与菩萨。所有功德皆随喜。
十方所有世间灯。最初成就菩提者。
我今一切皆劝请。转于无上妙法-轮。
诸佛若欲示涅盘。我悉至诚而劝请。
唯愿久住剎尘劫。利乐一切诸众生。
所有礼赞供养福。请佛住世转法-轮。
随喜忏悔诸善根。回向众生及佛道。
愿将以此胜功德。回向无上真法界。
性相佛法及僧伽。二谛融通三昧印。
如是无量功德海。我今皆悉尽回向。
所有众生身口意。见惑弹谤我法等。
如是一切诸业障。悉皆消灭尽无余。
念念智周于法界。广度众生皆不退。
乃至虚空世界尽。众生及业烦恼尽。
如是四法广无边。愿今回向亦如是
自皈依佛。当愿众生。体解大道。发无上心 (一拜)
自皈依法。当愿众生。深入经藏。智慧如海 (一拜)
自皈依僧。当愿众生。统理大众。一切无碍 (一拜)
发愿文
弟子○○○与累世父母、师长、历劫冤亲债主及法界一切众生,从今时乃至尽未来际众生无边誓愿度。烦恼无尽誓愿断法门无量誓愿学。佛道无上誓愿成自性众生誓愿度。自性烦恼誓愿断自性法门誓愿学。自性佛道誓愿成 (三遍三拜)
代求往生
弟子○○○代为累世父母、师长、历劫冤亲债主及法界一切众生,求生净土 (三遍三拜)
回向偈
礼忏功德殊胜行。
无边胜福皆回向。
普愿沉溺诸众生。
速往无量光佛剎。
十方三世一切佛。
一切菩萨摩诃萨。
摩诃般若波罗蜜。三拜
七佛药师即七尊药师如来。又作七躬医王。药师法是释迦如来救拔一切苦难沉溺众生,是殊胜难思的无上妙法。
若能至心修持,便能智慧具足,药师如弥陀一样,只要我们听到、接触到、想到、念诵他们的名号,都可以从险处中被救渡。当我们见到杀生时,念诵药师佛咒可以令它们得到利益。在路上见到很多人或蚂蚁都可以念药师佛咒,都可以让他们得到利益。至诚祈药师七佛。
很多人误认为佛力会加持,我求了佛,我很虔诚,佛就一定要给我解决问题。如果没有给我解决问题,那么佛就不灵了,怨气很大,甚至于起了退心。我们首先要改变我们自己的心。宿业的关系,你已经做错了事情,已经形成了你今天的障难。
首先应当忏悔,至心的忏悔完全的改变非常重要。想要往生西方的,就应该认真修并持八关斋戒,以此善根,愿生西方极乐,见无量寿佛。所以一定要至心诚恳,信心、愿力都具足,而且要清净自身,要忏悔自己的业障,彻底改心,好好修持,配合八关斋戒,这样才如法。
是日已过,
命亦随减,
如少水鱼,
斯有何乐,
大众当勤精进,
如救头燃,
但念无常,
慎勿放逸
南无药师琉璃光如来
善名称吉祥王如来宝月智严光音自在王如来金色宝光妙行成就如来无忧最胜吉祥如来法海雷音如来法海胜慧游戏神通如来药师琉璃光如来
药师七佛名号功德忏悔法
大慈大悲愍众生。
大喜大舍济含识。
相好光明以自严。
众等至心归命礼。
南无皈依十方尽虚空界一切诸佛。
南无皈依十方尽虚空界一切尊法。
南无皈依十方尽虚空界一切贤圣僧。
天上天下无如佛,
十方世界亦无比,
世间所有我尽见,
一切无有如佛者。
南无如来。应供。正遍知。明行足。善逝世间解。无上士。调御丈夫。天人师。佛。世尊。南无释迦牟尼佛。南无金刚不坏佛。
南无宝光佛。南无龙尊王佛。
南无精进军佛。南无精进喜佛。
南无宝火佛。南无宝月光佛。
南无现无愚佛。南无宝月佛。
南无无垢佛。南无离垢佛。
南无勇施佛。南无清净佛。
南无清净施佛。南无娑留那佛。
南无水天佛。南无坚德佛。
南无栴檀功德佛。南无无量掬光佛。
南无光德佛。南无无忧德佛。
南无那罗延佛。南无功德华佛。
南无莲华光游戏神通佛。南无财功德佛。
南无德念佛。南无善名称功德佛。
南无红焰帝幢王佛。南无善游步功德佛。
南无斗战胜佛。南无善游步佛。
南无周匝庄严功德佛。南无宝华游步佛。
南无宝莲华善住娑罗树王佛。
南无善名称吉祥王如来。
南无宝月智严光音自在王如来。
南无金色宝光妙行成就如来。
南无无忧最胜吉祥如来。
南无法海雷音如来。
南无法海胜慧游戏神通如来。
南无药师琉璃光如来。
南无虚空功德清净微尘等目端正功德相光明华波头摩琉璃光宝体香最上香供养讫种种庄严顶髻无量无边日月光明愿力庄严变化庄严法界出生无障碍王如来
如是等一切世界,诸佛世尊,常住在世。是诸世尊,当慈念我。若我此生,若我前生,从无始生死以来,所做众罪。若自作,若教他作,见作随喜。若塔若僧,若四方僧物。若自取,若教他取,见取随喜。五无间业,若自作,若教他作,见作随喜。
十不善道,若自作,若教他作,见作随喜。 所作罪障,或有覆藏,或不覆藏。应堕地狱,饿鬼畜生,诸余恶趣,边地下贱,及蔑戾车,如是等处。所作罪障,今皆忏悔。今佛世尊,当证知我,当忆念我。我复于诸佛世尊前,作如是言。
若我此生,若我余生。曾行布施或守净戒,乃至施与 众生一抟之食。或修净行所有善根。成就众生,所有善根。修行菩提,所有善根。及无上智,所有善根。一切合集,校计筹量。皆悉回向,阿耨多罗三藐三菩提,如 过去未来,现在诸佛,所作回向,我亦如是回向。众罪皆忏悔,诸福尽随喜。
及请佛功德,愿成无上智。
去来现在佛,于众生最胜。
无量功德海,我今归命礼。
所有十方世界中。三世一切人师子。
我以清净身语意。一切遍礼尽无余。
普贤行愿威神力。普现一切如来前。
一身复现剎尘身。一一遍礼剎尘佛。
于一尘中尘数佛。各处菩萨众会中。
无尽法界尘亦然。深信诸佛皆充满。
各以一切音声海。普出无尽妙言辞。
尽于未来一切劫。赞佛甚深功德海。
以诸最胜妙华鬘。伎乐涂香及伞盖。
如是最胜庄严具。我以供养诸如来。
最胜衣服最胜香。末香烧香与灯烛。
一一皆如妙高聚。我悉供养诸如来。
我以广大胜解心。深信一切三世佛。
悉以普贤行愿力。普遍供养诸如来。
我昔所造诸恶业。皆由无始贪瞋痴。
从身语意之所生。一切我今皆忏悔。
十方一切诸众生。二乘有学及无学。
一切如来与菩萨。所有功德皆随喜。
十方所有世间灯。最初成就菩提者。
我今一切皆劝请。转于无上妙法-轮。
诸佛若欲示涅盘。我悉至诚而劝请。
唯愿久住剎尘劫。利乐一切诸众生。
所有礼赞供养福。请佛住世转法-轮。
随喜忏悔诸善根。回向众生及佛道。
愿将以此胜功德。回向无上真法界。
性相佛法及僧伽。二谛融通三昧印。
如是无量功德海。我今皆悉尽回向。
所有众生身口意。见惑弹谤我法等。
如是一切诸业障。悉皆消灭尽无余。
念念智周于法界。广度众生皆不退。
乃至虚空世界尽。众生及业烦恼尽。
如是四法广无边。愿今回向亦如是
自皈依佛。当愿众生。体解大道。发无上心 (一拜)
自皈依法。当愿众生。深入经藏。智慧如海 (一拜)
自皈依僧。当愿众生。统理大众。一切无碍 (一拜)
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弟子○○○与累世父母、师长、历劫冤亲债主及法界一切众生,从今时乃至尽未来际众生无边誓愿度。烦恼无尽誓愿断法门无量誓愿学。佛道无上誓愿成自性众生誓愿度。自性烦恼誓愿断自性法门誓愿学。自性佛道誓愿成 (三遍三拜)
代求往生
弟子○○○代为累世父母、师长、历劫冤亲债主及法界一切众生,求生净土 (三遍三拜)
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礼忏功德殊胜行。
无边胜福皆回向。
普愿沉溺诸众生。
速往无量光佛剎。
十方三世一切佛。
一切菩萨摩诃萨。
摩诃般若波罗蜜。三拜
七佛药师即七尊药师如来。又作七躬医王。药师法是释迦如来救拔一切苦难沉溺众生,是殊胜难思的无上妙法。
若能至心修持,便能智慧具足,药师如弥陀一样,只要我们听到、接触到、想到、念诵他们的名号,都可以从险处中被救渡。当我们见到杀生时,念诵药师佛咒可以令它们得到利益。在路上见到很多人或蚂蚁都可以念药师佛咒,都可以让他们得到利益。至诚祈药师七佛。
很多人误认为佛力会加持,我求了佛,我很虔诚,佛就一定要给我解决问题。如果没有给我解决问题,那么佛就不灵了,怨气很大,甚至于起了退心。我们首先要改变我们自己的心。宿业的关系,你已经做错了事情,已经形成了你今天的障难。
首先应当忏悔,至心的忏悔完全的改变非常重要。想要往生西方的,就应该认真修并持八关斋戒,以此善根,愿生西方极乐,见无量寿佛。所以一定要至心诚恳,信心、愿力都具足,而且要清净自身,要忏悔自己的业障,彻底改心,好好修持,配合八关斋戒,这样才如法。
是日已过,
命亦随减,
如少水鱼,
斯有何乐,
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如救头燃,
但念无常,
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