扁鵲
概要
『史記』扁鵲倉公列伝や『韓非子』など様々な文献に、診察や治療の逸話が伝わる。『史記』扁鵲倉公列伝によれば、「医師で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む」とされる。また、彼の言動業績から「六不治」(ろくふち)など多くの漢方医学の用語や概念がうまれた。後世の東アジアでは、「扁鵲」もしくは「耆婆扁鵲」(ぎばへんじゃく)というと、それだけで「名医」を意味する言葉として用いられる。
出身
『史記』扁鵲倉公列伝には、「扁鵲は勃海郡鄚県の人。姓は秦、名は越人という」と書かれているが、これには異説もある。例えば『揚子法言』や『淮南子』は「扁鵲は盧の人」とする。司馬貞や徐広は「河北省任丘県の人」という説を採っている。
年代
『韓非子』喩老篇などによれば、紀元前4世紀の斉の桓公と同時代人である。一方で、『史記』扁鵲倉公列伝によれば、扁鵲の活動の始まりは紀元前655年の虢という小国の滅亡で、活動の終わりは紀元前350年の秦の咸陽への遷都であり、300年近く生きていたことになる。その行動範囲の広大さと年数の長さから、江戸時代の浅井図南のように「一個人ではなく、複数人からなる、ある特定の学派だったのではないか」とする説もある。
2010年代には、老官山漢墓(中国語版)から出土した竹簡の記載により、伝説ではなく実在の人物とする説が提唱された[2]。
逸話
『史記』扁鵲倉公列伝によれば、紀元前501年、晋の六卿の一人である趙鞅が病で昏睡状態に陥り、扁鵲が診察に当たった。その見立てによると、かつて秦の穆公も同じような症状に陥り、その最中に穆公が天帝と晋に関する話をかわしていたとあり、趙鞅も天帝と何かを話している最中で、3日以内に回復するとの診断を下した。扁鵲の言う通り、趙鞅は倒れてから3日後に回復し、更に天帝と趙氏の未来に関する話をしていた事も明らかになり、扁鵲は趙鞅から診察の見立てを称えられ、田地四万畝を賜った。
概要
『史記』扁鵲倉公列伝や『韓非子』など様々な文献に、診察や治療の逸話が伝わる。『史記』扁鵲倉公列伝によれば、「医師で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む」とされる。また、彼の言動業績から「六不治」(ろくふち)など多くの漢方医学の用語や概念がうまれた。後世の東アジアでは、「扁鵲」もしくは「耆婆扁鵲」(ぎばへんじゃく)というと、それだけで「名医」を意味する言葉として用いられる。
出身
『史記』扁鵲倉公列伝には、「扁鵲は勃海郡鄚県の人。姓は秦、名は越人という」と書かれているが、これには異説もある。例えば『揚子法言』や『淮南子』は「扁鵲は盧の人」とする。司馬貞や徐広は「河北省任丘県の人」という説を採っている。
年代
『韓非子』喩老篇などによれば、紀元前4世紀の斉の桓公と同時代人である。一方で、『史記』扁鵲倉公列伝によれば、扁鵲の活動の始まりは紀元前655年の虢という小国の滅亡で、活動の終わりは紀元前350年の秦の咸陽への遷都であり、300年近く生きていたことになる。その行動範囲の広大さと年数の長さから、江戸時代の浅井図南のように「一個人ではなく、複数人からなる、ある特定の学派だったのではないか」とする説もある。
2010年代には、老官山漢墓(中国語版)から出土した竹簡の記載により、伝説ではなく実在の人物とする説が提唱された[2]。
逸話
『史記』扁鵲倉公列伝によれば、紀元前501年、晋の六卿の一人である趙鞅が病で昏睡状態に陥り、扁鵲が診察に当たった。その見立てによると、かつて秦の穆公も同じような症状に陥り、その最中に穆公が天帝と晋に関する話をかわしていたとあり、趙鞅も天帝と何かを話している最中で、3日以内に回復するとの診断を下した。扁鵲の言う通り、趙鞅は倒れてから3日後に回復し、更に天帝と趙氏の未来に関する話をしていた事も明らかになり、扁鵲は趙鞅から診察の見立てを称えられ、田地四万畝を賜った。
黄帝内経
『黄帝内経』は、前漢代に編纂され、『鍼経』と『素問』の合計18巻と伝えられている。その内容は散逸して一旦は失われたが、762年唐の時代に王冰の表した『素問』と『霊枢』が伝えられている。現代の研究では『鍼経』もしくは『九霊』は『霊枢』(9巻)のことであるとされている。ただしこの9巻本も散逸してしまって残っていない。現在は1155年に南宋の史崧が霊枢を新たに校訂し、24巻81篇として編纂したものが元になっている。
『素問』が理論的であるのに対し、『霊枢』はより実践的に記述されている。『素問』の内容は医学にかぎらず、易学、天候学、星座学、気学、薬学、運命学と広くさまざまな分野に及び、医学書というより科学書と呼ぶべきであるという意見もあり、道教にとっても原典の一つとされる。現在、医学書とされている理由は、紀元前1世紀の図書目録である『漢書』「芸文志」に医書として分類されていることによる。
『内経』の原本は残っておらず、さまざまな写本が存在する。日本では京都の仁和寺に、日本最古の『黄帝内経太素』の写本が所蔵されている。『太素』(たいそ)は7世紀ころの写本で、唐代の楊上善が、『素問』と『霊枢』を合わせて編纂したものである。
『黄帝内経』18巻のうち、1部にあたる9巻を『鍼経』と呼び、2部の9巻を『素問』と呼ぶ。『鍼経』は経脈、経穴、刺鍼、また営衛、気血など系統的で詳細に説明されている。ここで9という数字には意味があり、古代中国において、数は1から始まり9で終わるとされていた。すなわち1巻には1章から9章が記述され、9章の次は2巻となる。1部は9巻×9章で81章で一まとまりとなり、『黄帝内経』は2部構成であった。『素問』は、古くは紀元前202年の前漢代の頃から編纂され始めたと考えられている。
現存する『素問』は、762年に王冰によって編纂された。王冰はそれ以前の『素問』を大幅に変更したことがわかっており、王冰の『素問』からは古い『素問』を窺い知ることはできないと批判されている。
『霊枢』は『素問』より新しい時代のもので、20年から200年ころ編纂された。『素問』より前に『鍼経』が編纂され、それが後に『霊枢』に引き継がれたと考えられている。理論よりも診断・治療・針灸術など臨床医学に重点を置いている。古来は針灸術の経典とされ、『針経』とも呼ばれた[1]。「芸文志」には、『内経』(18巻)の他に『外経』(37巻)があったとの記録があるが、『外経』は現存せず、詳しいことはわかっていない。
『黄帝内経』は、前漢代に編纂され、『鍼経』と『素問』の合計18巻と伝えられている。その内容は散逸して一旦は失われたが、762年唐の時代に王冰の表した『素問』と『霊枢』が伝えられている。現代の研究では『鍼経』もしくは『九霊』は『霊枢』(9巻)のことであるとされている。ただしこの9巻本も散逸してしまって残っていない。現在は1155年に南宋の史崧が霊枢を新たに校訂し、24巻81篇として編纂したものが元になっている。
『素問』が理論的であるのに対し、『霊枢』はより実践的に記述されている。『素問』の内容は医学にかぎらず、易学、天候学、星座学、気学、薬学、運命学と広くさまざまな分野に及び、医学書というより科学書と呼ぶべきであるという意見もあり、道教にとっても原典の一つとされる。現在、医学書とされている理由は、紀元前1世紀の図書目録である『漢書』「芸文志」に医書として分類されていることによる。
『内経』の原本は残っておらず、さまざまな写本が存在する。日本では京都の仁和寺に、日本最古の『黄帝内経太素』の写本が所蔵されている。『太素』(たいそ)は7世紀ころの写本で、唐代の楊上善が、『素問』と『霊枢』を合わせて編纂したものである。
『黄帝内経』18巻のうち、1部にあたる9巻を『鍼経』と呼び、2部の9巻を『素問』と呼ぶ。『鍼経』は経脈、経穴、刺鍼、また営衛、気血など系統的で詳細に説明されている。ここで9という数字には意味があり、古代中国において、数は1から始まり9で終わるとされていた。すなわち1巻には1章から9章が記述され、9章の次は2巻となる。1部は9巻×9章で81章で一まとまりとなり、『黄帝内経』は2部構成であった。『素問』は、古くは紀元前202年の前漢代の頃から編纂され始めたと考えられている。
現存する『素問』は、762年に王冰によって編纂された。王冰はそれ以前の『素問』を大幅に変更したことがわかっており、王冰の『素問』からは古い『素問』を窺い知ることはできないと批判されている。
『霊枢』は『素問』より新しい時代のもので、20年から200年ころ編纂された。『素問』より前に『鍼経』が編纂され、それが後に『霊枢』に引き継がれたと考えられている。理論よりも診断・治療・針灸術など臨床医学に重点を置いている。古来は針灸術の経典とされ、『針経』とも呼ばれた[1]。「芸文志」には、『内経』(18巻)の他に『外経』(37巻)があったとの記録があるが、『外経』は現存せず、詳しいことはわかっていない。
随園食単
袁枚は文人・詩人としても著名な人物である。そのため、経書や古籍からの引用、袁枚の詩論「性霊説」や科挙に関する記述もある。
レシピの数々からは、当時の人々の食べ物への愛が窺える。例えば、江鮮単に出てくる「仮蟹」(チアーシエ、かにもどき)という料理は、その名の通り蟹(上海蟹)の味を再現した料理であり、たとえ蟹が食べられないときでも蟹を食べたいという蟹への愛が窺える。
自序
須知単 - 料理人の予備知識
戒単 - 料理人の警戒事項
海鮮単 - 魚以外の海産物
江鮮単 - 川魚
特牲単 - 豚肉
雑牲単 - 豚・鳥以外の獣肉
羽族単 - 鳥肉
水族有鱗単 - 鱗のある海産魚
水族無鱗単 - 鱗のない海産魚
雑素菜単 - 穀物・野菜などの精進料理
小菜単 - あしらい物
点心単 - 間食
飯粥単 - 飯と粥
茶酒単 - 茶と酒
受容
清代の夏曽伝(旧字体: 夏曾傳)は、増補注釈書の『随園食単補証』(隨園食單補證)を著した。同書には「糖色単」と「作料単」の二篇が追加されている。
清末の袁祖志(袁枚の孫)は、著書の『随園瑣記』で祖父の袁枚や本書について語っている。
英語圏では、1901年のジャイルズの著作『中国文学史』(en) などで紹介・抄訳されており、袁枚の代表作として知られていた。2013年には、インターネット上で英訳プロジェクトが立ち上げられ、2018年に書籍化された。
日本では、江戸時代には既に漢詩人によって『随園詩話(中国語版)』が受容されていたが、『随園食単』の受容状況は判然としない。例えば江戸後期の柏木如亭は、性霊説の受容者であると同時に袁枚と同様の食通としても知られるが、その如亭でさえも本書に言及していない。ただし、如亭没後の1841年に、本書を収録する書物『随園三十種』が清から輸入された記録がある。
明治時代には、宮内省の料理人石井治兵衛のレシピ集にしばしば引用されている。大正時代には、日比谷公園前にあった中華料理店「陶陶亭」刊行のレシピ集のもとになった。昭和初期には、食通として知られる大谷光瑞の著作『食』に引用されたり、料理雑誌『料理の友』の編集長の竹田胤久によって簡便な訳が作られたり、陸軍糧秣本廠・糧友会(『軍隊調理法』で知られる)から丸本彰造編『支那料理の研究・その料理法と随園食単』が刊行されたりした。戦後の1955年には、食糧学校講師の山田政平によって簡便な訳が作られた。
最初の学術的な日本語訳は、戦後、中国学者の青木正児によって作られた。青木の訳は四種類の版があり、一. 1958年版(大阪の六月社刊)、二. 1964年版(青木が命名者を務めた大阪南区の中華料理店「随園」刊・非売品)、三. 1971年版(春秋社刊・『青木正児全集』第8巻所収)、四. 1980年版(岩波書店刊・岩波文庫)がある。そのほか、1975年には中山時子によって平易な日本語訳が作られた。
本書を翻訳する上では、料理名・食材名・調理法名の同定作業、すなわち名物学が必要になる。青木正児はそのような名物学の研究者としても知られる。
本書はフランスのサヴァランの著作『美味礼讃』と肩を並べるとされる。
現代語訳
入手が容易な日本語訳としては以下がある。(入手困難な訳は#受容を参照)
青木正児 訳註 『随園食単』岩波書店〈岩波文庫 青 262-1〉、1980年。(巻末に『随園瑣記』の抄訳、術語集、訳者あとがき(後序と訳余贅語)も収録。水谷真成解説 283-298頁。)
入手困難な訳が復刻されることもある。
竹田胤久 編著『支那料理基本智識 随園食単新釈補塡 復刻』大空社出版(アジア学叢書)、2020年(原著1938年)、ISBN 978-4908926822
《随园食单》,古代中国烹饪著作,共一卷,作者为清代文学家袁枚。袁枚身为乾隆才子、诗坛盟主,他一生著述颇丰。作为一位美食家, 袁枚所著的《随园食单》是其四十年美食实践的产物。该书以文言随笔的形式,细腻地描摹了乾隆年间江浙地区的饮食状况与烹饪技术,用大量的篇幅详细记述了中国十四世纪至十八世纪流行的326种南北菜肴饭点,也介绍了当时的美酒名茶,是清代一部非常重要的中国饮食名著。
袁枚は文人・詩人としても著名な人物である。そのため、経書や古籍からの引用、袁枚の詩論「性霊説」や科挙に関する記述もある。
レシピの数々からは、当時の人々の食べ物への愛が窺える。例えば、江鮮単に出てくる「仮蟹」(チアーシエ、かにもどき)という料理は、その名の通り蟹(上海蟹)の味を再現した料理であり、たとえ蟹が食べられないときでも蟹を食べたいという蟹への愛が窺える。
自序
須知単 - 料理人の予備知識
戒単 - 料理人の警戒事項
海鮮単 - 魚以外の海産物
江鮮単 - 川魚
特牲単 - 豚肉
雑牲単 - 豚・鳥以外の獣肉
羽族単 - 鳥肉
水族有鱗単 - 鱗のある海産魚
水族無鱗単 - 鱗のない海産魚
雑素菜単 - 穀物・野菜などの精進料理
小菜単 - あしらい物
点心単 - 間食
飯粥単 - 飯と粥
茶酒単 - 茶と酒
受容
清代の夏曽伝(旧字体: 夏曾傳)は、増補注釈書の『随園食単補証』(隨園食單補證)を著した。同書には「糖色単」と「作料単」の二篇が追加されている。
清末の袁祖志(袁枚の孫)は、著書の『随園瑣記』で祖父の袁枚や本書について語っている。
英語圏では、1901年のジャイルズの著作『中国文学史』(en) などで紹介・抄訳されており、袁枚の代表作として知られていた。2013年には、インターネット上で英訳プロジェクトが立ち上げられ、2018年に書籍化された。
日本では、江戸時代には既に漢詩人によって『随園詩話(中国語版)』が受容されていたが、『随園食単』の受容状況は判然としない。例えば江戸後期の柏木如亭は、性霊説の受容者であると同時に袁枚と同様の食通としても知られるが、その如亭でさえも本書に言及していない。ただし、如亭没後の1841年に、本書を収録する書物『随園三十種』が清から輸入された記録がある。
明治時代には、宮内省の料理人石井治兵衛のレシピ集にしばしば引用されている。大正時代には、日比谷公園前にあった中華料理店「陶陶亭」刊行のレシピ集のもとになった。昭和初期には、食通として知られる大谷光瑞の著作『食』に引用されたり、料理雑誌『料理の友』の編集長の竹田胤久によって簡便な訳が作られたり、陸軍糧秣本廠・糧友会(『軍隊調理法』で知られる)から丸本彰造編『支那料理の研究・その料理法と随園食単』が刊行されたりした。戦後の1955年には、食糧学校講師の山田政平によって簡便な訳が作られた。
最初の学術的な日本語訳は、戦後、中国学者の青木正児によって作られた。青木の訳は四種類の版があり、一. 1958年版(大阪の六月社刊)、二. 1964年版(青木が命名者を務めた大阪南区の中華料理店「随園」刊・非売品)、三. 1971年版(春秋社刊・『青木正児全集』第8巻所収)、四. 1980年版(岩波書店刊・岩波文庫)がある。そのほか、1975年には中山時子によって平易な日本語訳が作られた。
本書を翻訳する上では、料理名・食材名・調理法名の同定作業、すなわち名物学が必要になる。青木正児はそのような名物学の研究者としても知られる。
本書はフランスのサヴァランの著作『美味礼讃』と肩を並べるとされる。
現代語訳
入手が容易な日本語訳としては以下がある。(入手困難な訳は#受容を参照)
青木正児 訳註 『随園食単』岩波書店〈岩波文庫 青 262-1〉、1980年。(巻末に『随園瑣記』の抄訳、術語集、訳者あとがき(後序と訳余贅語)も収録。水谷真成解説 283-298頁。)
入手困難な訳が復刻されることもある。
竹田胤久 編著『支那料理基本智識 随園食単新釈補塡 復刻』大空社出版(アジア学叢書)、2020年(原著1938年)、ISBN 978-4908926822
《随园食单》,古代中国烹饪著作,共一卷,作者为清代文学家袁枚。袁枚身为乾隆才子、诗坛盟主,他一生著述颇丰。作为一位美食家, 袁枚所著的《随园食单》是其四十年美食实践的产物。该书以文言随笔的形式,细腻地描摹了乾隆年间江浙地区的饮食状况与烹饪技术,用大量的篇幅详细记述了中国十四世纪至十八世纪流行的326种南北菜肴饭点,也介绍了当时的美酒名茶,是清代一部非常重要的中国饮食名著。
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