#和田まあや#「主演映画のオフショットいとうまい子さん可愛かった❤️映画に出てくるワンちゃんにも休憩中癒されました個人的な見どころはわたしの本物の涙です人生初演技で泣けました長野での撮影はのどかで空気が気持ちよかったです☀️(実は恥ずかしくて完成まだ見れてない)」
一日の労苦
太宰治
一月二十二日。
日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
舞台のない役者は存在しない。それは、滑稽こっけいである。
このごろだんだん、自分の苦悩について自惚うぬぼれを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。
やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。
その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。
発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。
くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈はずだ。
もっともっとひどい孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。
いやらしい男さ。このいやらしさを恐れてはならない。私は私自身のぶざまに花を咲かせ得る。かつて、排除と反抗は作家修行の第一歩であった。きびしい潔癖を有難いものに思った。完成と秩序をこそあこがれた。そうして、芸術は枯れてしまった。サンボリスムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。
百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのである。
百姓は、くるしい思いをした。誰にも知られぬ、くるしい思いをした。この懊悩おうのうよ、有難う。
私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。
排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である。
浪曼ろうまん的完成もしくは、浪曼的秩序という概念は、私たちを救う。いやなもの、きらいなものを、たんねんに整理していちいちこれの排除に努力しているうちに日が暮れてしまった。ギリシャをあこがれてはならない。これはもう、はっきりこの世に二度と来ないものだ。これは、あきらめなければいけない。これは、捨てなければいけない。ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。
むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。
ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩わずらうな。空飛ぶ鳥を見よ。播まかず。刈らず。蔵に収めず。」
骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれやら、訣別けつべつやら、何もかも、みんなもらって、ひっくるめて、そのまま歩く。ここに生長がある。ここに発展の路がある。称して浪曼的完成、浪曼的秩序。これは、まったく新しい。鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。
言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、聡明そうめいに用心深く為すべきである。
君の聞き上手に乗せられて、うっかり大事をもらしてしまった。これは、いけない。多少、不愉快である。
君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細かさを、君、わかるかね。
どうも、たいへん、不愉快である。多少でも、君にわからせようと努めた、私自身の焦慮に気づいて、私は、こんなに不機嫌になってしまった。私自身の孤独の破綻はたんが不愉快なのである。こうなって来ると、浪曼的完成も、自分で言い出して置きながら、十分あやしいものである。とたんに声あり、そのあやしさをも、ひっくるめて、これを浪曼的完成と称するのである。
私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない。
ひとつ君を、笑わせてあげよう。これは小声で言うことであるが、どうも私は、このごろ少し太りすぎてしまいまして。
できすぎてしまった。図体が大きすぎて、内々、閉口している。晩成すべき大器かも知れぬ。一友人から、銅像演技スタチュ・プレイという讃辞を贈られた。恰好かっこうの舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。
俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔サタンはひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。
作家は、ロマンスを書くべきである。
太宰治
一月二十二日。
日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
舞台のない役者は存在しない。それは、滑稽こっけいである。
このごろだんだん、自分の苦悩について自惚うぬぼれを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。
やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。
その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。
発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。
くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈はずだ。
もっともっとひどい孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。
いやらしい男さ。このいやらしさを恐れてはならない。私は私自身のぶざまに花を咲かせ得る。かつて、排除と反抗は作家修行の第一歩であった。きびしい潔癖を有難いものに思った。完成と秩序をこそあこがれた。そうして、芸術は枯れてしまった。サンボリスムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。
百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのである。
百姓は、くるしい思いをした。誰にも知られぬ、くるしい思いをした。この懊悩おうのうよ、有難う。
私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。
排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である。
浪曼ろうまん的完成もしくは、浪曼的秩序という概念は、私たちを救う。いやなもの、きらいなものを、たんねんに整理していちいちこれの排除に努力しているうちに日が暮れてしまった。ギリシャをあこがれてはならない。これはもう、はっきりこの世に二度と来ないものだ。これは、あきらめなければいけない。これは、捨てなければいけない。ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。
むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。
ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩わずらうな。空飛ぶ鳥を見よ。播まかず。刈らず。蔵に収めず。」
骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれやら、訣別けつべつやら、何もかも、みんなもらって、ひっくるめて、そのまま歩く。ここに生長がある。ここに発展の路がある。称して浪曼的完成、浪曼的秩序。これは、まったく新しい。鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。
言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、聡明そうめいに用心深く為すべきである。
君の聞き上手に乗せられて、うっかり大事をもらしてしまった。これは、いけない。多少、不愉快である。
君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細かさを、君、わかるかね。
どうも、たいへん、不愉快である。多少でも、君にわからせようと努めた、私自身の焦慮に気づいて、私は、こんなに不機嫌になってしまった。私自身の孤独の破綻はたんが不愉快なのである。こうなって来ると、浪曼的完成も、自分で言い出して置きながら、十分あやしいものである。とたんに声あり、そのあやしさをも、ひっくるめて、これを浪曼的完成と称するのである。
私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない。
ひとつ君を、笑わせてあげよう。これは小声で言うことであるが、どうも私は、このごろ少し太りすぎてしまいまして。
できすぎてしまった。図体が大きすぎて、内々、閉口している。晩成すべき大器かも知れぬ。一友人から、銅像演技スタチュ・プレイという讃辞を贈られた。恰好かっこうの舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。
俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔サタンはひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。
作家は、ロマンスを書くべきである。
華蓋集 題記
鲁迅
大晦日の深夜、この年の雑感を整理したら、「熱風」の丸四年分より多かった。大部分はもとのような意見だが、態度はそれほど素直ではない。措辞もいつも回りくどく、議論も往々にして、数件の小さなことに拘泥し、見識家の笑い物とされるに十分だ。しかし他に何の手だてがあろう。今年はこうした小さなことに出会い、小さなことにこだわる癖がついてしまったようだ。
偉大な人(ブッダ)は三世を見通し、一切を観照し、大苦悩を嘗め、大歓喜を得て、大慈悲を発す、という。だが私はこれを成すには、深く山林に入り、古樹の下に坐して、静観黙想し、天眼通を会得し、ひとの世から遠く離れれば離れるほど、ひとの世をより広く認識できるということを知っている。そこでその言説が、より高度なものになれば、更に偉大になり、天人の師となるということも、知っている。私は小さい頃、空を飛べるようになるのを夢想したけれど、今なお地上におり、小さな切り傷も救えないから、広い心で、公正妥当な議論を展開し、公平に道理に通じる「正人君子」のようなことをするヒマなど、どこにあろうか。まさしく水に濡れた小蜂は、ただ泥の上を這いまわるだけで、洋館に住んでいる“通”の人たちと競争しようなど決して考えない。
だが、私は自分の持つ悲しみ苦しみ、憤激は決して洋館の通の人々の会得できるものではない。
この病の痛さの根底は、私がこの世に生きているからで、そして一個の常人で、“華蓋の運”にめぐり合えたからだ。
これまで運勢学を勉強したことは無いが、老人の話では、ひとは時に“華蓋の運”に会うそうだ。この華蓋は彼らの発音は大概「鑊蓋(ほーがい)」と訛っているので訂正する。
この運は和尚にとっては幸運で、頭上に華蓋があれば、成仏して開祖になる兆しだが、俗人は不運で、華蓋が頭上でかぶさっていると、釘付けのようで頭が上がらないという。
今年、雑感を始めたら、二回大きな釘に打たれた。
一つは「文字の詮索」もう一つは「青年必読書」。署名入りと匿名の豪傑諸士の罵倒の手紙が山のようになり、書架の下に突っ込んである。このあと、又突如として所謂学者、文士、正人君子等に会ったが、彼らは異口同音、公正な話をし、公理を談じ、“同じ仲間と徒党を組み、異見者を打倒す”というのは良くないと言う。残念ながら私と彼らとは大きな違いがある。それゆえ彼らには何回か打たれたのだが、これはもちろん“公理”の為で、私の“党同伐異”とは違うからである。
かくして今に至るも完結せず、“来年まで待とう”とするほかない。
またある人は私に、このような短評はもう書くなと勧めて呉れる。その好意には大変感謝し、決して創作の貴重なことを知らないではない。しかしこのような事をする時は、やはりこのような事をしなければならない。もし芸術の殿堂にこんな面倒な禁令があるのなら、行かない方がましだ。やはり砂漠に立ち、飛砂流石を見、楽しかったら大笑し、悲しかったら大いに泣き叫び、憤れば大いに罵る。たとえ砂礫に打たれてボロボロになり、頭が傷つき血が流れても、ときどき自分の凝血をさすって、もしそれが花模様のように見えたら、
中国の文士たちとシェークスピアの御相伴で、バター付きパンを食べる愉しさよりましだろう。
しかるに一方で私の視界が狭いと怨みに思う。中国だけ取り上げてもこの一年、大事件もたくさんあったが、往々にしてそこにも言及しなかったので、なんの感触も無いように思われるだろう。私はかねてから、中国の青年が立ちあがって、中国の社会、文明に何ら忌憚のない批評をしてほしいと望み、「莽原週刊」を出して発言の場としたが、投稿者はたいへん少なかった。他の刊行物は大抵は反抗者に対する攻撃で、これは実に私にとっては、このまま続けられるか心配だった。
今、一年の最後の深夜、夜も尽きようとし、我が生命も少なくとも一部はすでにこの無聊の中に費消され、私の得た物は自分の魂の荒涼とすさんだ姿だ。しかし私はいささかもこれらを憚ったりしないし、隠そうとも思わない。実際、それらを愛おしくすら思う。これは私が輾転と風砂の中で、暮らしてきた結果だから。自分が風砂の中で、輾転と生活してきたと感じたから、この意味が会得できた。
「熱風」を編集したとき、遺漏以外は数編削除した。今回はこれと異なり、一時の雑感一類のものは全てここに収めた。
一九二五年十二月三十一日夜 緑林書屋東壁の下で
在一年的尽头的深夜中,整理了这一年所写的杂感,竟比收在《热风》里的整四年中所写的还要多。意见大部分还是那样,而态度却没有那么质直了,措辞也时常弯弯曲曲,议论又往往执滞在几件小事情上,很足以贻笑于大方之家。然而那又有什么法子呢。我今年偏遇到这些小事情,而偏有执滞于小事情的脾气。
我知道伟大的人物能洞见三世,观照一切,历大苦恼,尝大欢喜,发大慈悲。但我又知道这必须深入山林,坐古树下,静观默想,得天眼通,离人间愈远遥,而知人间也愈深,愈广;于是凡有言说,也愈高,愈大;于是而为天人师。我幼时虽曾梦想飞空,但至今还在地上,救小创伤尚且来不及,那有余暇使心开意豁,立论都公允妥洽,平正通达,像“正人君子”一般;正如沾水小蜂,只在泥土上爬来爬去,万不敢比附洋楼中的通人,但也自有悲苦愤激,决非洋楼中的通人所能领会。
这病痛的根柢就在我活在人间,又是一个常人,能够交着 “华盖运”。
我平生没有学过算命,不过听老年人说,人是有时要交“华盖运”的。这“华盖”在他们口头上大概已经讹作“镬盖”了,现在加以订正。所以,这运,在和尚是好运:顶有华盖,自然是成佛作祖之兆。但俗人可不行,华盖在上,就要给罩住了,只好碰钉子。我今年开手作杂感时,就碰了两个大钉子: 一是为了 《咬文嚼字》,一是为了《青年必读书》。署名和匿名的豪杰之士的骂信,收了一大捆,至今还塞在书架下。此后又突然遇见了一些所谓学者,文士,正人,君子等等,据说都是讲公话,谈公理,而且深不以“党同伐异”为然的。可惜我和他们太不同了,所以也就被他们伐了几下,——但这自然是为“公理”之故,和我的“党同伐异”不同。这样,一直到现下还没有完结,只好“以待来年”。
也有人劝我不要做这样的短评。那好意,我是很感激的,而且也并非不知道创作之可贵。然而要做这样的东西的时候,恐怕也还要做这样的东西,我以为如果艺术之宫里有这么麻烦的禁令,倒不如不进去;还是站在沙漠上,看看飞沙走石,乐则大笑,悲则大叫,愤则大骂,即使被沙砾打得遍身粗糙,头破血流,而时时抚摩自己的凝血,觉得若有花纹,也未必不及跟着中国的文士们去陪莎士比亚吃黄油面包之有趣。
然而只恨我的眼界小,单是中国,这一年的大事件也可以算是很多的了,我竟往往没有论及,似乎无所感触。我早就很希望中国的青年站出来,对于中国的社会,文明,都毫无忌惮地加以批评,因此曾编印《莽原周刊》,作为发言之地,可惜来说话的竟很少。在别的刊物上,倒大抵是对于反抗者的打击,这实在是使我怕敢想下去的。
现在是一年的尽头的深夜,深得这夜将尽了,我的生命,至少是一部分的生命,已经耗费在写这些无聊的东西中,而我所获得的,乃是我自己的灵魂的荒凉和粗糙。但是我并不惧惮这些,也不想遮盖这些,而且实在有些爱他们了。因为这是我转辗而生活于风沙中的瘢痕。凡有自己也觉得在风沙中转辗而生活着的,会知道这意思。
我编《热风》时,除遗漏的之外,又删去了好几篇。这一回却小有不同了,一时的杂感一类的东西,几乎都在这里面。
一九二五年十二月三十一日之夜,记于绿林书屋东壁下。
鲁迅
大晦日の深夜、この年の雑感を整理したら、「熱風」の丸四年分より多かった。大部分はもとのような意見だが、態度はそれほど素直ではない。措辞もいつも回りくどく、議論も往々にして、数件の小さなことに拘泥し、見識家の笑い物とされるに十分だ。しかし他に何の手だてがあろう。今年はこうした小さなことに出会い、小さなことにこだわる癖がついてしまったようだ。
偉大な人(ブッダ)は三世を見通し、一切を観照し、大苦悩を嘗め、大歓喜を得て、大慈悲を発す、という。だが私はこれを成すには、深く山林に入り、古樹の下に坐して、静観黙想し、天眼通を会得し、ひとの世から遠く離れれば離れるほど、ひとの世をより広く認識できるということを知っている。そこでその言説が、より高度なものになれば、更に偉大になり、天人の師となるということも、知っている。私は小さい頃、空を飛べるようになるのを夢想したけれど、今なお地上におり、小さな切り傷も救えないから、広い心で、公正妥当な議論を展開し、公平に道理に通じる「正人君子」のようなことをするヒマなど、どこにあろうか。まさしく水に濡れた小蜂は、ただ泥の上を這いまわるだけで、洋館に住んでいる“通”の人たちと競争しようなど決して考えない。
だが、私は自分の持つ悲しみ苦しみ、憤激は決して洋館の通の人々の会得できるものではない。
この病の痛さの根底は、私がこの世に生きているからで、そして一個の常人で、“華蓋の運”にめぐり合えたからだ。
これまで運勢学を勉強したことは無いが、老人の話では、ひとは時に“華蓋の運”に会うそうだ。この華蓋は彼らの発音は大概「鑊蓋(ほーがい)」と訛っているので訂正する。
この運は和尚にとっては幸運で、頭上に華蓋があれば、成仏して開祖になる兆しだが、俗人は不運で、華蓋が頭上でかぶさっていると、釘付けのようで頭が上がらないという。
今年、雑感を始めたら、二回大きな釘に打たれた。
一つは「文字の詮索」もう一つは「青年必読書」。署名入りと匿名の豪傑諸士の罵倒の手紙が山のようになり、書架の下に突っ込んである。このあと、又突如として所謂学者、文士、正人君子等に会ったが、彼らは異口同音、公正な話をし、公理を談じ、“同じ仲間と徒党を組み、異見者を打倒す”というのは良くないと言う。残念ながら私と彼らとは大きな違いがある。それゆえ彼らには何回か打たれたのだが、これはもちろん“公理”の為で、私の“党同伐異”とは違うからである。
かくして今に至るも完結せず、“来年まで待とう”とするほかない。
またある人は私に、このような短評はもう書くなと勧めて呉れる。その好意には大変感謝し、決して創作の貴重なことを知らないではない。しかしこのような事をする時は、やはりこのような事をしなければならない。もし芸術の殿堂にこんな面倒な禁令があるのなら、行かない方がましだ。やはり砂漠に立ち、飛砂流石を見、楽しかったら大笑し、悲しかったら大いに泣き叫び、憤れば大いに罵る。たとえ砂礫に打たれてボロボロになり、頭が傷つき血が流れても、ときどき自分の凝血をさすって、もしそれが花模様のように見えたら、
中国の文士たちとシェークスピアの御相伴で、バター付きパンを食べる愉しさよりましだろう。
しかるに一方で私の視界が狭いと怨みに思う。中国だけ取り上げてもこの一年、大事件もたくさんあったが、往々にしてそこにも言及しなかったので、なんの感触も無いように思われるだろう。私はかねてから、中国の青年が立ちあがって、中国の社会、文明に何ら忌憚のない批評をしてほしいと望み、「莽原週刊」を出して発言の場としたが、投稿者はたいへん少なかった。他の刊行物は大抵は反抗者に対する攻撃で、これは実に私にとっては、このまま続けられるか心配だった。
今、一年の最後の深夜、夜も尽きようとし、我が生命も少なくとも一部はすでにこの無聊の中に費消され、私の得た物は自分の魂の荒涼とすさんだ姿だ。しかし私はいささかもこれらを憚ったりしないし、隠そうとも思わない。実際、それらを愛おしくすら思う。これは私が輾転と風砂の中で、暮らしてきた結果だから。自分が風砂の中で、輾転と生活してきたと感じたから、この意味が会得できた。
「熱風」を編集したとき、遺漏以外は数編削除した。今回はこれと異なり、一時の雑感一類のものは全てここに収めた。
一九二五年十二月三十一日夜 緑林書屋東壁の下で
在一年的尽头的深夜中,整理了这一年所写的杂感,竟比收在《热风》里的整四年中所写的还要多。意见大部分还是那样,而态度却没有那么质直了,措辞也时常弯弯曲曲,议论又往往执滞在几件小事情上,很足以贻笑于大方之家。然而那又有什么法子呢。我今年偏遇到这些小事情,而偏有执滞于小事情的脾气。
我知道伟大的人物能洞见三世,观照一切,历大苦恼,尝大欢喜,发大慈悲。但我又知道这必须深入山林,坐古树下,静观默想,得天眼通,离人间愈远遥,而知人间也愈深,愈广;于是凡有言说,也愈高,愈大;于是而为天人师。我幼时虽曾梦想飞空,但至今还在地上,救小创伤尚且来不及,那有余暇使心开意豁,立论都公允妥洽,平正通达,像“正人君子”一般;正如沾水小蜂,只在泥土上爬来爬去,万不敢比附洋楼中的通人,但也自有悲苦愤激,决非洋楼中的通人所能领会。
这病痛的根柢就在我活在人间,又是一个常人,能够交着 “华盖运”。
我平生没有学过算命,不过听老年人说,人是有时要交“华盖运”的。这“华盖”在他们口头上大概已经讹作“镬盖”了,现在加以订正。所以,这运,在和尚是好运:顶有华盖,自然是成佛作祖之兆。但俗人可不行,华盖在上,就要给罩住了,只好碰钉子。我今年开手作杂感时,就碰了两个大钉子: 一是为了 《咬文嚼字》,一是为了《青年必读书》。署名和匿名的豪杰之士的骂信,收了一大捆,至今还塞在书架下。此后又突然遇见了一些所谓学者,文士,正人,君子等等,据说都是讲公话,谈公理,而且深不以“党同伐异”为然的。可惜我和他们太不同了,所以也就被他们伐了几下,——但这自然是为“公理”之故,和我的“党同伐异”不同。这样,一直到现下还没有完结,只好“以待来年”。
也有人劝我不要做这样的短评。那好意,我是很感激的,而且也并非不知道创作之可贵。然而要做这样的东西的时候,恐怕也还要做这样的东西,我以为如果艺术之宫里有这么麻烦的禁令,倒不如不进去;还是站在沙漠上,看看飞沙走石,乐则大笑,悲则大叫,愤则大骂,即使被沙砾打得遍身粗糙,头破血流,而时时抚摩自己的凝血,觉得若有花纹,也未必不及跟着中国的文士们去陪莎士比亚吃黄油面包之有趣。
然而只恨我的眼界小,单是中国,这一年的大事件也可以算是很多的了,我竟往往没有论及,似乎无所感触。我早就很希望中国的青年站出来,对于中国的社会,文明,都毫无忌惮地加以批评,因此曾编印《莽原周刊》,作为发言之地,可惜来说话的竟很少。在别的刊物上,倒大抵是对于反抗者的打击,这实在是使我怕敢想下去的。
现在是一年的尽头的深夜,深得这夜将尽了,我的生命,至少是一部分的生命,已经耗费在写这些无聊的东西中,而我所获得的,乃是我自己的灵魂的荒凉和粗糙。但是我并不惧惮这些,也不想遮盖这些,而且实在有些爱他们了。因为这是我转辗而生活于风沙中的瘢痕。凡有自己也觉得在风沙中转辗而生活着的,会知道这意思。
我编《热风》时,除遗漏的之外,又删去了好几篇。这一回却小有不同了,一时的杂感一类的东西,几乎都在这里面。
一九二五年十二月三十一日之夜,记于绿林书屋东壁下。
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