石川啄木

  啄木鳥

いにしへ聖者が雅典アデンの森に撞つきし、
光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
鋳いにたる巨鐘おほがね、無窮むきゆうのその声をぞ
染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷に喘あへげる塵ちりの疾風はやち
よせ来て、若やぐ生命いのちの森の精の
聖きよきを攻むやと、終日ひねもす、啄木鳥きつつきどり、
巡りて警告いましめ夏樹なつきの髄ずゐにきざむ。

往ゆきしは三千年みちとせ、永劫えいごふ猶なほすすみて
つきざる『時』の箭や、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が
浄きを高きを天路の栄はえと云ひし
霊をぞ守りて、この森不断の糧かて、
奇くしかるつとめを小さき鳥のすなる。

  隠沼

夕影しづかに番つがひの白鷺しらさぎ下り、
槇まきの葉枯かれたる樹下こしたの隠沼こもりぬにて、
あこがれ歌ふよ。――『その昔かみ、よろこび、そは
朝明あさあけ、光の揺籃ゆりごに星と眠り、
悲しみ、汝なれこそとこしへ此処ここに朽くちて、
我が喰はみ啣ふくめる泥土ひづちと融とけ沈みぬ。』――
愛の羽寄り添ひ、青瞳せいどううるむ見れば、
築地ついぢの草床、涙を我も垂たれつ。

仰あふげば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩あやなき夢ゆめの如ごとく、
ほそ糸ほのかに水底みぞこに鎖くさりひける。
哀歓かたみの輪廻めぐりは猶なほも堪へめ、
泥土ひづちに似る身ぞ。ああさは我が隠沼、
かなしみ喰はみ去る鳥さへえこそ来めや。

眠れる都

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍いらかの谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬へきすうの間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匇々さうさう筆を染めけるもの乃すなはちこの短調七聯れんの一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)

鐘鳴りぬ、
いと荘厳おごそかに
夜は重し、市いちの上。
声は皆眠れる都
瞰下みおろせば、すさまじき
野の獅子ししの死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪おほなみ、
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船ももふねの、
それの如ごと、燈影ほかげ洩もるる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後をはりの日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地あめつちを霧は隔てて、
照りわたる月かげは
天あめの夢地にそそがず。

声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ声は
昼のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸うなりか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名残なごりの声か。

我が窓は、
濁にごれる海を
遶めぐらせる城の如、
遠寄とほよせに怖れまどへる
詩うたの胸守りつつ、
月光を隈くまなく入れぬ。

東京

かくやくの夏の日は、今
子午しご線の上にかかれり。

煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒すすぐろき手に
何をかも攫つかむとすらむ、ただ直ひたに天をぞ射させる。
百千網ももちあみ巷巷ちまたちまたに空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ
寂寞せきばくよ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。

千万の甍いらか今日こそ色もなく打鎮しづまりぬ。
紙の片白き千ひらを撒まきて行く通魔とほりまありと、
家家の門や又窓まど、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いと稀まれに。――かくて、骨泣く寂滅じやくめつ死の都、見よ。

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

何方いづかたゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯はて、天路に聳そそる
層楼の屋根にとまれり。唖唖ああとして一声、――これよ
凶鳥まがどりの不浄の烏からす。――骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨恨ゑんこんの毒嘴どくはしの鳥。

鳥啼なきぬ、二度。――いかに、其声の猶なほ終らぬに、
何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣捧ささげし童顔の翁おきなあり。ああ、
黒長裳くろながも静かに曳ひくや、寂寞の戸に反響こだまして、
沓くつの音全都に響き、唯一人大路を練れり。
有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。

吹角つのぶえ

みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物燻くゆる五月さつきの丘の
柏かしは木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
東白しののめの空のほのめき――
天あめの扉との真白き礎もとゆ湧く水の
いとすがすがし。――
ひたひたと木陰地こさぢに寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はも涼すずし。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心角くだ吹けば、
吹き、また吹けば、
渓川たにがはの石津瀬いはつせはしる水音も
あはれ、いのちの小鼓こつづみの鳴の遠音とほねと
ひびき寄す。
ああ静心しづごころなし。
丘のつづきの草の上へに
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。――
凹くぼみの埓かこひの中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき来る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、直ひたに走りぬ。
暁の声する方かたの丘の辺へに。――
ああ歓よろこびの朝の舞、
新乳にひちの色の衣して、若き羊は
角ふく人の身を繞めぐり、
すずしき風に啼なき交かはし、また小躍こをどりぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我も亦またこの世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
行かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。
  
年老いし彼は商人

年老いし彼は商人あきびと。
靴くつ、鞄かばん、帽子、革帯かはおび、
ところせく列ならべる店に
坐り居て、客のくる毎ごと、
尽日ひねもすや、はた、電燈の
青く照る夜も更ふくるまで、
てらてらに禿はげし頭を
礼ゐやあつく千度ちたび下げつつ、
なれたれば、いと滑なめらかに
数数の世辞をならべぬ。
年老いし彼はあき人。
かちかちと生命いのちを刻む
ボンボンの下の帳場や、
簿記台ぼきだいの上に低たれたる
其その頭、いと面白おもしろし。

その頭低たるる度毎たびごと、
彼が日は短くなりつ、
年こそは重みゆきけれ。
かくて、見よ、髪の一条ひとすぢ
落ちつ、また、二条、三条、
いつとなく抜けたり、遂つひに
面白し、禿げたる頭。
その頭、禿げゆくままに、
白壁の土蔵どざうの二階、
黄金の宝の山は
(目もはゆし、暗やみの中にも。)
積まれたり、いと堆うづたかく。

埃及エジプトの昔の王は
わが墓の大金字塔だいピラミドを
つくるとて、ニルの砂原、
十万の黒兵者くろつはものを
二十年はたとせも役えきせしといふ。
年老いしこの商人あきびとも
近つ代の栄の王者、
幾人の小僧つかひて、
人の見ぬ土蔵の中に
きづきたり、宝の山を。――
これこそは、げに、目もはゆき
新世あらたよの金字塔ピラミドならし、
霊魂たましひの墓の標しるしの。

竇氏(下)
田中貢太郎

南は早く女を室の中に入れたかった。女は恥かしそうに俯向いていた。
「それでは、お嬢様をお願い申します、わたくしは、これから帰って、無事にお嬢様をお送り申したということを申しあげないと、旦那様と奥様が、御心配なされておりますから」と言って、女の方に向いて、「では、わたくしは、これから帰りますから、お大事に」
 南はいくらなんでも遠い路を来ているから、ちょっと休んで往ってはどうだろうと思った。
「お茶でも飲んで往ったら、どうですか」
「ぐずぐずしておりましては、帰りが晩おそくなりますから、では、確かにお嬢様をお渡し申しました」
 老婆はそう言ってから一方の輿に乗って帰って往った。南は急いで女の傍へ往った。
「さあ、室へ往こうね」
 女は俯向いたなりに何か言って頷いた。南はそこで前に立って閨房の方へ往った。女はひらひらと随いてきた。
 南は女と向きあって坐った。女はやはり俯向いていた。南は早く女のはにかみを除とって歓を求めようとした。
「お母様のおっぱいが飲みたくはないの」
 女は小声で笑った。
「遠い処を来たから、疲労つかれたんじゃない、すこし休んだらどう」
 女はその時顔をあげた。白い面長な娟好きれいな顔が見えた。南はその顔が何人か知っている人の顔に似ているように思った。
(何人だろう)
 南は心に問いながら見なおした。見なおして南ははっと思った。それは女の眼の周囲に廷章の女に似た処があったがためであった。南を包んでいたふっくらとした心地は消えてしまった。
 女は起って榻ねだいの上にあがった。南はぼんやりそれを見ていた。女は榻にあがって横になるなり、被かいまきを取って顔の上から被った。
 南は傍に腰をかけていた。南は強しいて新人に歓を求める場合を頭に描きなどして、厭な不吉な追憶を消そうとしたが消えなかった。そのうちに日が暮れかけた。後からきていると言った従者と奩妝こしらえは着かなかった。要人の老人は室の口へ来て南を呼んだ。
「旦那、ちょっといらしてください」
 南は要人に声をかけられて夢が覚めたようになって外へ出た。要人は小声で囁くように言った。
「旦那、曹の方の人はこないじゃありませんか、どうしたというのでしょうね」
 そう言われてみると従者も奩妝もあまり着くのが遅いのであった。
「どうしたのだろう」
「途でまちがいでもあったのでしょうか」
「そうだなあ、あの女が来たのは、午であったから、もう疾とうに着かなくちゃならないが、どうしたのだろう」
「奥様に伺ってみたら、どうでございます」
「そうだな、あの女も疲労れたとみえて眠ってるが、起して聞いてみてもいい、まちがいがあるといけないから」
「そうでございますよ、この節は物騒ですから」
「そうだ、じゃ起して聞いてみよう、お前もくるがいい」
 南は要人を伴れて中へ入ったが、吃驚びっくりさしてはいけないと思ったので、榻の傍へそっと往って声をかけた。
「まだ睡いの、よく眠るじゃないか」
 女はぐっすり眠っているのか眼を覚さなかった。
「大変疲労れたとみえるね、よく眠るじゃないか」南はそう言い言い隻手かたてを女にかけながら、「ちと眼を覚したら、どう」
 女の感触は冷たかった。それに動きもしなかった。南は不思議に思って被をそっと除った。女は冷たくなっていた。南はのけぞって倒れた。
 要人は南を介抱すると共に使いを曹へやった。曹では女を送って往ったことはないといって使いを帰してきた。南の家ではまた怪しい死体の処置に困った。
 その時姚ちょうという孝廉があって、その女が歿くなって葬式をしたところで、一晩おいて盗賊の為に棺を破られ死体と同時いっしょに入れてあった宝物も共に奪われた。孝廉は怒り悲しんで憎むべき盗賊の詮議をさしていたところで、南の家に怪しい死体が新人になってきたという噂が聞えてきたので数人の従者を伴れて南の家へ往った。
「怪しい死体を見せてもらいたい」
 南も厭とは言えなかった。南は孝廉を案内して死体を置いてある室へ往った。孝廉は死体を一眼見て叫んだ。
「嬢だ、嬢だ、家の嬢だ、嬢の死体を盗んだ者は、此処の悪党だ、ふん縛れ」
 従者は南を取って押えて縄をかけた。孝廉はそれを府庁に送った。府庁でも南の家の再三の怪事を見て、南の悪行の報いであるとし、冢つかを発あばくの罪に問うて南を死刑に処した。

原文
南三复,晋阳世家也。有别墅,去所居十里余,每驰骑日一诣之。适遇雨,途中有小村,见一农人家,门内宽敞,因投止焉。近村人固皆威重南。少顷,主人出邀,跼蹐甚恭。入其舍,斗如。客既坐,主人始操篲,殷勤氾扫。既而泼蜜为茶。命之坐,始敢坐。问其姓名,自言:“廷章,姓窦。”未几,进酒烹雏,给奉周至。有笄女行炙,时止户外,稍稍露其半体,年十五六,端妙无比。南心动。雨歇既归,系念綦切。越日,具粟帛往酬,借此阶进。是后常一过窦,时携肴酒,相与留连。女渐稔,不甚避忌,辄奔走其前。睨之,则低鬟微笑。南益惑焉,无三日不往者。一日,值窦不在,坐良久,女出应客。南捉臂狎之。女惭急,峻拒曰:“奴虽贫,要嫁,何贵倨凌人也!”时南失偶,便揖之曰:“倘获怜眷,定不他娶。”女要誓;南指矢天日,以坚永约,女乃允之。
自此为始,瞰窦他出,即过缱绻。女促之曰:“桑中之约,不可长也。日在帡幪之下,倘肯赐以姻好,父母必以为荣,当无不谐。宜速为计!”南诺之。转念农家岂堪匹偶,姑假其词以因循之。会媒来为议姻于大家,初尚踌躇;既闻貌美财丰,志遂决。女以体孕,催并益急,南遂绝迹不往。无何,女临蓐,产一男。父怒搒女。女以情告,且言:“南要我矣。”窦乃释女,使人问南;南立却不承。窦乃弃儿,益扑女。女暗哀邻妇,告南以苦。南亦置之。女夜亡,视弃儿犹活,遂抱以奔南。款关而告阍者曰:“但得主人一言,我可不死。彼即不念我,宁不念儿耶?”阍人具以达南,南戒勿内。女倚户悲啼,五更始不复闻。质明视之,女抱儿坐僵矣。
窦忿,讼之上官,悉以南不义,欲罪南。南惧,以千金行赂得免。大家梦女披发抱子而告曰:“必勿许负心郎;若许,我必杀之!”大家贪南富,卒许之。既亲迎,而奁妆丰盛,新人亦娟好。然善悲,终日未尝睹欢容;枕席之间,时复有涕洟。问之,亦不言。过数日,妇翁来,入门便泪,南未遑问故,相将入室。见女而骇曰:“适于后园,见吾女缢死桃树上;今房中谁也?”女闻言,色暴变,仆然而死。视之,则窦女。急至后园,新妇果自经死。骇极,往报窦。窦发女冢,棺启尸亡。前忿未蠲,倍益惨怒,复讼于官。官以其情幻,拟罪未决。南又厚饵窦,哀令休结;官亦受其赇嘱,乃罢。而南家自此稍替。又以异迹传播,数年无敢字者。
南不得已,远于百里外聘曹进士女。未及成礼,会民间讹传,朝廷将选良家女充掖庭,以故有女者,悉送归夫家。一日,有妪导一舆至,自称曹家送女者。扶女入室,谓南曰:“选嫔之事已急,仓卒不能如礼,且送小娘子来。”问:“何无客?”曰:“薄有奁妆,相从在后耳。”妪草草径去。南视女亦风致,遂与谐笑。女俯颈引带,神情酷类窦女。心中作恶,第未敢言。女登榻,引被幛首而眠。亦谓是新人常态,弗为意。日敛昏,曹人不至,始疑。捋被问女,而女亦奄然冰绝。惊怪莫知其故,驰伻告曹,曹竟无送女之事。相传为异。时有姚孝廉女新葬,隔宿为盗所发,破材失尸。闻其异,诣南所征之,果其女。启衾一视,四体裸然。姚怒,质状于官。官以南屡无行,恶之,坐发冢见尸,论死。
异史氏曰:“始乱之而终成之,非德也;况誓于初而绝于后乎?挞于室,听之;哭于门,仍听之:抑何其忍!而所以报之者,亦比李十郎惨矣!”
据《聊斋志异》手稿本

D坂の殺人事件(三)
江戸川乱歩
 

間もなく、死人の夫の古本屋が、知らせを聞いて帰って来た。彼は古本屋らしくない、きゃしゃな、若い男だったが、細君の死骸を見ると、気の弱い性質たちと見えて、声こそ出さないけれど、涙をぼろぼろ零こぼしていた。小林刑事は、彼が落着くのを待って、質問を始めた。検事も口を添えた。だが、彼等の失望したことは、主人は全然犯人の心当りがないというのだ。彼は「これに限って、人様に怨みを受ける様なものではございません」といって泣くのだ。それに、彼が色々調べた結果、物とりの仕業でないことも確められた。そこで、主人の経歴、細君の身許みもと其他様々の取調べがあったけれど、それらは別段疑うべき点もなく、この話の筋に大した関係もないので略することにする。最後に死人の身体にある多くの生傷について刑事の質問があった。主人は非常に躊躇ちゅうちょして居ったが、やっと自分がつけたのだと答えた。ところが、その理由については、くどく訊ねられたにも拘らず、余り明白な答は与えなかった。併し、彼はその夜ずっと夜店を出していたことが分っているのだから、仮令それが虐待の傷痕だったとしても、殺害の疑いはかからぬ筈だ。刑事もそう思ったのか、深く穿鑿せんさくしなかった。
 そうして、その夜の取調べは一先ず終った。私達は住所姓名などを書留められ、明智は指紋をとられて、帰途についたのは、もう一時を過ぎていた。
若し警察の捜索に手抜かりがなく、又証人達も嘘を云わなかったとすれば、これは実に不可解な事件であった。しかも、後で分った所によると、翌日から引続いて行われた、小林刑事のあらゆる取調べも何の甲斐もなくて、事件は発生の当夜のまま少しだって発展しなかったのだ。証人達は凡て信頼するに足る人々だった。十一軒の長屋の住人にも疑うべき所はなかった。被害者の国許も取調べられたけれど、これ亦、何の変った事もない。少くとも、小林刑事――彼は先にも云った通り、名探偵と噂されている人だ――が、全力を尽して捜索した限りでは、この事件は全然不可解と結論する外はなかった。これもあとで聞いたのだが、小林刑事が唯一の証拠品として、頼みをかけて持帰った例の電燈のスイッチにも、落胆したことには、明智の指紋の外ほか何物も発見することが出来なかった。明智はあの際で慌てていたせいか、そこには沢山の指紋が印せられていたが、凡て彼自身のものだった。恐らく、明智の指紋が犯人のそれを消して了ったのだろうと、刑事は判断した。
 読者諸君、諸君はこの話を読んで、ポオの「モルグ街の殺人」やドイルの「スペックルド・バンド」を聯想れんそうされはしないだろうか。つまり、この殺人事件の犯人は、人間でなくて、オランウータンだとか、印度インドの毒蛇だとかいうような種類のものだと想像されはしないだろうか。私も実はそれを考えたのだ。併し、東京のD坂あたりにそんなものが居るとも思われぬし、第一障子のすき間から、男の姿を見たという証人がある。のみならず、猿類などだったら、足跡の残らぬ筈はなく、又人目にもついた筈だ。そして、死人の頸にあった指の痕も、正に人間のそれだ。蛇がまきついたとて、あんな痕は残らぬ。
 それは兎も角、明智と私とは、その夜帰途につきながら、非常に興奮して色々と話合ったものだ。一例を上げると、まあこんな風なことを。
「君はポオの『ル・モルグ』やルルーの『黄色の部屋』などの材料になった、あのパリーの Rose Delacourt 事件を知っているでしょう。百年以上たった今日でも、まだ謎として残っているあの不思議な殺人事件を。僕はあれを思出したのですよ。今夜の事件も犯人の立去った跡のない所は、どうやら、あれに似ているではありませんか」と明智。
「そうですね。実に不思議ですね。よく、日本の建築では、外国の探偵小説にある様な深刻な犯罪は起らないなんて云いますが、僕は決してそうじゃないと思いますよ。現にこうした事件もあるのですからね。僕は何だか、出来るか出来ないか分りませんけれど、一つこの事件を探偵して見たい様な気がしますよ」
 そうして、私達はある横町で分れを告げた。其時私は、横町を曲って、彼一流の肩を振る歩き方で、さっさと帰って行く明智の後姿が、その派手な棒縞の浴衣によって暗やみの中にくっきりと浮出して見えたのを覚えている。

(下)推理

 さて、殺人事件から十日程たったある日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。その十日の間に、明智と私とが、この事件に関して、何を為し、何を考えそして何を結論したか。読者は、それらを、この日、彼と私との間に取交された会話によって、十分察することが出来るであろう。
 それまで、明智とはカフェで顔を合していたばかりで、宿を訪ねるのは、その時が始めてだったけれど、予かねて所を聞いていたので、探すのに骨は折れなかった。私は、それらしい煙草屋の店先に立って、お上さんに、明智がいるかどうかを尋ねた。
「エエ、いらっしゃいます。一寸御待ち下さい、今お呼びしますから」
彼女はそういって、店先から見えている階段の上り口まで行って、大声に明智を呼んだ。彼はこの家の二階を間借りしているのだ。すると、
「オー」
 と変な返事をして、明智はミシミシと階段を下りて来たが、私を発見すると、驚いた顔をして「ヤー、御上りなさい」といった。私は彼の後に従って二階へ上った。ところが、何気なく、彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッと魂消たまげてしまった。部屋の様子が余りにも異様だったからだ。明智が変り者だということを知らぬではなかったけれど、これは又変り過ぎていた。
 何のことはない、四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。真中の所に少し畳が見える丈けで、あとは本の山だ、四方の壁や襖に沿って、下の方は殆ほとんど部屋一杯に、上の方程幅が狭くなって、天井の近くまで、四方から書物の土手が迫っているのだ。外の道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われる程だ。第一、主客二人の坐る所もない、うっかり身動きし様ものなら、忽たちまち本の土手くずれで、圧おしつぶされて了うかも知れない。
「どうも狭くっていけませんが、それに、座蒲団ざぶとんがないのです。済みませんが、柔か相な本の上へでも坐って下さい」
 私は書物の山に分け入って、やっと坐る場所を見つけたが、あまりのことに、暫く、ぼんやりとその辺あたりを見廻していた。
 私は、かくも風変りな部屋の主である明智小五郎の為人ひととなりについて、ここで一応説明して置かねばなるまい。併し彼とは昨今のつき合いだから、彼がどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人世を送っているのか、という様なことは一切分らぬけれど、彼が、これという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。強しいて云えば書生であろうか、だが、書生にしては余程風変りな書生だ。いつか彼が「僕は人間を研究しているんですよ」といったことがあるが、其時私には、それが何を意味するのかよく分らなかった。唯、分っているのは、彼が犯罪や探偵について、並々ならぬ興味と、恐るべく豊富な知識を持っていることだ。
 年は私と同じ位で、二十五歳を越してはいまい。どちらかと云えば痩やせた方で、先にも云った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある、といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な、講釈師の神田伯龍を思出させる様な歩き方なのだ。伯龍といえば、明智は顔つきから声音まで、彼にそっくりだ、――伯龍を見たことのない読者は、諸君の知っている内で、所謂いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そして最も天才的な顔を想像するがよい――ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている。そして、彼は人と話している間にもよく、指で、そのモジャモジャになっている髪の毛を、更らにモジャモジャにする為の様に引掻廻ひっかきまわすのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物に、よれよれの兵児帯へこおびを締めている。
「よく訪ねて呉れましたね。その後暫く逢いませんが、例のD坂の事件はどうです。警察の方では一向犯人の見込がつかぬようではありませんか」
 明智は例の、頭を掻廻しながら、ジロジロ私の顔を眺めて云う。
「実は僕、今日はそのことで少し話があって来たんですがね」そこで私はどういう風に切り出したものかと迷いながら始めた。
「僕はあれから、種々考えて見たんですよ。考えたばかりでなく、探偵の様に実地の取調べもやったのですよ。そして、実は一つの結論に達したのです。それを君に御報告しようと思って……」
「ホウ。そいつはすてきですね。詳しく聞き度いものですね」
 私は、そういう彼の目付に、何が分るものかという様な、軽蔑と安心の色が浮んでいるのを見逃さなかった。そして、それが私の逡巡している心を激励した。私は勢込いきおいこんで話し始めた。
「僕の友達に一人の新聞記者がありましてね、それが、例の事件の係りの小林刑事というのと懇意なのです。で、僕はその新聞記者を通じて、警察の模様を詳しく知ることが出来ましたが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです。無論種々いろいろ活動はしているのですが、これという見込がつかぬのです。あの、例の電燈のスイッチですね。あれも駄目なんです。あすこには、君の指紋丈けっきゃついていないことが分ったのです。警察の考えでは、多分君の指紋が犯人の指紋を隠して了ったのだというのですよ。そういう訳で、警察が困っていることを知ったものですから、僕は一層熱心に調べて見る気になりました。そこで、僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います、そして、それを警察へ訴える前に、君の所へ話しに来たのは何の為だと思います。
それは兎も角、僕はあの事件のあった日から、あることを気づいていたのですよ。君は覚えているでしょう。二人の学生が犯人らしい男の着物の色について、まるで違った申立てをしたことをね。一人は黒だといい、一人は白だと云うのです。いくら人間の目が不確だといって、正反対の黒と白とを間違えるのは変じゃないですか。警察ではあれをどんな風に解釈したか知りませんが、僕は二人の陳述は両方とも間違でないと思うのですよ。君、分りますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんですよ。……つまり、太い黒の棒縞の浴衣なんかですね。よく宿屋の貸浴衣にある様な……では何故それが一人に真白に見え、もう一人には真黒に見えたかといいますと、彼等は障子の格子のすき間から見たのですから、丁度その瞬間、一人の目が格子のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の目が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです。これは珍らしい偶然かも知れませんが、決して不可能ではないのです。そして、この場合こう考えるより外に方法がないのです。
さて、犯人の着物の縞柄は分りましたが、これでは単に捜査範囲が縮小されたという迄で、まだ確定的のものではありません。第二の論拠は、あの電燈のスイッチの指紋なんです。僕は、さっき話した新聞記者の友達の伝手つてで、小林刑事に頼んでその指紋を――君の指紋ですよ――よく検べさせて貰ったのです。その結果愈々いよいよ僕の考えてることが間違っていないのを確めました。ところで、君、硯すずりがあったら、一寸貸して呉れませんか」
そこで、私は一つの実験をやって見せた。先ず硯を借りる、私は右の拇指に薄く墨をつけて、懐から半紙の上に一つの指紋を捺おした。それから、その指紋の乾くのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ前の指紋の上から、今度は指の方向を換えて念入りに押えつけた。すると、そこには互に交錯した二重の指紋がハッキリ現れた。


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