オペラ座の怪人
概要
新聞記者でもあったルルーの取材談のような疑似ノンフィクションテイストで書かれている。ルルーは執筆にあたり、実際のオペラ座(ガルニエ宮)の構造や地下の広大な奈落、建築経過などを詳しく取材しており、尚且つオペラ座が建設された当時の実際の幽霊話や陰惨な事件などを用いて、虚構と現実が入り交じったミステリアスな怪奇ロマンとして執筆した。

物語前半は、謎の『天使の声』に導かれ歌手として頭角を現す女優クリスティーヌ・ダーエと、彼女が謎の声に魅了されている様子を見て悩み苦しむ恋人ラウル・シャニュイ子爵の葛藤を中心とし、後半は『ファントム=怪人』ことエリックの暴走と悲劇的な素性、そして彼の秘密を知るペルシャ人・ダロガの手記という形で描かれている(この手記を手に入れたルルーが本作を執筆したという仮想現実構造になっている)。特に終盤はダロガが事実上の主役級になっているのが、後のミュージカル版等との大きな相違である。
あらすじ
舞台は1880年のパリ。年老いたマネージャーの退職日の夜、オペラ座の若手オペラ歌手のクリスティーヌはガラに出演して喝采を浴びる。幼馴染のラウル子爵はクリスティーヌの歌を聴き、彼女への愛を思い出す。この頃、オペラ座には謎の怪人が住み着いているという噂があり、月給2万フランと5番ボックス席の常時確保などを支配人に要求するなど、手紙や行動で、マネージャーに自身の存在を知らせていたという。怪人は音楽の才能に溢れ、投げ縄や奇術の達人でもあり、そしてクリスティーヌに恋をしていた。ガラの数日後、パリ国立オペラでは『ファウスト』を上演し、怪人の望みに反してカルロッタがプリマドンナとなり主役を演じる。上演中、カルロッタは声を失い、豪華なシャンデリアが客席に落下する。

怪人はクリスティーヌをさらい、自身が住むオペラ座の地下室に連れていき、エリックと名乗る。エリックは、クリスティーヌが数日間共に過ごし、自分を愛するようになることを望む。しかしエリックはクリスティーヌに仮面を剥ぎ取られ、鼻も唇もなく、落ち窪んだ目、生来の醜悪な人相に壊死した黄色い皮膚で覆われた、見るもおぞましいミイラのような顔を見られてしまったため、考えを変える。クリスティーヌが自分のもとを離れることを恐れたエリックは、彼女を永遠に自分のものとする決心をするが、2週間後クリスティーヌがここを出たいと言うと、自分の指輪をはめて信頼を裏切らないことを条件に解放する。
その後のクリスティーヌは、自分の楽屋の裏から聞こえる『天使の声』の指導で歌唱力を付け頭角を現すが、その様子に嫉妬したクリスティーヌの恋人ラウルは、『天使の声』の謎を解こうと奔走する。オペラ座の屋根の上で、クリスティーヌはラウルに、エリックにさらわれたことを打ち明ける。このエリックこそ『天使の声』であり、その正体はオペラ座の地下に広がる広大な水路の空間に住み着いた怪人であった。ラウルはエリックが、二度とクリスティーヌを見つけられないようにすると約束。翌日決行するつもりだと語り、クリスティーヌもこれに同意する。その一方でクリスティーヌはエリックを哀れに思い、最後にエリックのために歌うまで出て行かないことに決める。しかしエリックがこれを盗み聞きし、強い嫉妬を抱いていることを、クリスティーヌもラウルも気付いていなかった。
翌日の夜、『ファウスト』上演中にエリックはついに、クリスティーヌを誘拐してオペラ座の地下深く消え、強引に結婚しようとする。もし拒否すれば地下室に仕掛けた爆弾を爆発させオペラ座を破壊すると脅すが、クリスティーヌは拒否する。残されたラウルは元ダロガ(ペルシャ語で国家警察の長官という意味)の謎のペルシャ人と共に、クリスティーヌを取り戻すためオペラ座の地下のエリックの隠れ家へと潜入するが、辿り着いた先は侵入者用の拷問部屋だった。エリックはこれに気づき、ペルシャ人とラウルに、合わせ鏡のトリックと赤道直下の様な高温による拷問を始める。そのため彼らと地上の人々を守るべく、クリスティーヌはエリックと結婚することに合意する。そして仕掛けが作動し消火用水が爆薬を水没させるが、その水はそのまま拷問部屋に流れ込む仕掛けになっていた。エリックはそのままラウルとダロガを水死させようとするが、それに気づいたクリスティーヌは、自らの命を絶たずにエリックの「生ける花嫁」となる事に同意するのでラウルを殺さないようエリックに懇願する。エリックは拷問部屋からラウルとダロガを出す。エリックはダロガを地上に帰すものの、ラウルは解放せず地下の奥深くに監禁する。隠れ家に戻ったエリックは、クリスティーヌが自分を待っていた事、近づいても逃げたりせず額にキスをさせてくれた事に感極まって涙を流し、彼女の足元に崩れ落ちる。クリスティーヌは「可哀想で不幸なエリック」と言って涙を流す。エリックは、母親さえも自分にキスをさせてくれた事は無かったと後にダロガに明かす。エリックは2人を解放することを決め、ラウルの監禁を解く。エリックの家で再会したラウルとクリスティーヌは喜び抱き合う。エリックは、自分が死んだらクリスティーヌが訪問して遺体を埋葬し、その際クリスティーヌに渡した金の指輪を遺体の指にはめてくれるよう約束させる。去り際、クリスティーヌはエリックの額にキスをして隠れ家を後にする。しばらくしてエリックはダロガを訪問し、拷問後の一連の出来事を彼に話し、最後が間近になったら合図に遺品を送るので、新聞に自分の死を伝える記事を載せてくれるように頼む。三週間後、レポック紙に「エリック死亡」の記事が掲載された。
登場人物
エリック: オペラ座の怪人、音楽の天使、オペラ・ゴースト。オペラ座で暗躍する人物。万能の天才だが、生まれつき骸骨のように醜い容貌を持つ。
クリスティーヌ・ダーエ: パリ国立オペラの若く美しいスウェーデン人ソプラノ歌手。怪人が恋をする。
ラウル・シャニュイ子爵: クリスティーヌの幼馴染の美青年。彼女と互いに恋するが、エリックが原因で亀裂が生じかける。
ペルシア人: エリックの過去を知る謎の男。エリックと異なり良識派。エリックと旧知の仲だが、彼の悪事をあまりよく思っていない。
フィリップ・シャニュイ伯爵: ラウルの兄。弟と異なり良識派の中年男性。クリスティーヌのことで暴走する弟を心配している。
アマンド・モンチャミン、ファーミン・リチャード: オペラ座の新しいマネージャー、怪人の要求に悩まされる日々を送る。
マダム・ジリー: リトル・メグの母、ボックス席案内員。エリックの知り合いの1人。
メグ・ジリー: マダム・ジリーの一人娘のバレリーナ。のちのカストロ・バルベザク男爵夫人。
デビエンヌ、ポリグニー: オペラ座の元マネージャー。かつてエリックの要求に苦しめられていたため、我慢の限界が来て引退しモンチャミンとリチャードにオペラ座の支配人の座を引き渡した。
ジョセフ・ブケー: 道具係チーフ、怪人の顔を見たため冒頭で彼に殺される。
カルロッタ: 我儘なプリマドンナ。パリ国立オペラのリード・ソプラノ。クリスティーヌを毛嫌いしている。
メルシエ: オペラ座の舞台装置マネージャー。
ガブリエル: 迷信的なコーラス・マスター。
ミフロイド: クリスティーヌが行方不明になった時に呼ばれた警視。クリスティーヌの失踪をシャニュイ兄弟のいざこざの巻き添えと決めてかかる。
レミー: マネージャーの秘書
警部補: 5番ボックス席の異変を捜査するために雇われた警部補。
ショー・サルタン: エリックがかつて設計した宮殿に住む王で、彼を殺そうとする。
ソレリ: リード・バレリーナ。フィリップと深い仲で、彼と行動を共にする。
リトル・ジャミス: オペラ座で語られるバレリーナ。
マダム・ヴァレリアス: クリスティーヌの保護者である人物。

大沢たかおさん「大人になりきれない人が多い日本で大切なのは、孤独を恐れすぎないこと」/Amazonオーディブル『走ることについて語るときに僕の語ること』インタビュー

プロの声優や俳優が朗読した本や多様なポッドキャストが楽しめる音声エンターテインメントサービスのAmazonオーディブル(以下、Audible)。

村上春樹さんの人気エッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』が、俳優の大沢たかおさんの朗読で配信されます。

収録を終えた大沢さんに初挑戦した朗読の感想や、村上春樹作品の魅力、そして村上さんの著書から感じたご自身との共通点について伺いました。

目次
大沢たかおさん「大人になりきれない人が多い日本で大切なのは、孤独を恐れすぎないこと」/Amazonオーディブル『走ることについて語るときに僕の語ること』インタビュー
村上春樹さんのエッセイだからこそできた、等身大の自分でのチャレンジ
村上春樹さんが教えてくれた“いくつになっても懸命に生きること”
「気を遣ってうまくやる」ことが、大人じゃない。孤独を怖がらずに自分を突き通す大切さ

村上春樹さんのエッセイだからこそできた、等身大の自分でのチャレンジ

仕事柄はもちろん、プライベートで海外に行き来するなど、移動が多い大沢さん。Audibleは初期の頃から会員登録し、利用していたといいます。大沢さん流Audibleの活用法は?
「こういったコンテンツは実は昔からあって、夏目漱石や芥川隆之介の小説を朗読したものをCDで買って聴くという時代がありました。文学の名作が、多かったと思います。それがみんな多忙になり、昔の著名な文学だけでなく、実用書や経済書など、何でもどこでも聴けるようになって。娯楽だけでなく、勉強もできると思って、僕は最初のころすぐ会員になって聴き出したのですが、移動中や日常で車を運転するときも気軽に聴けるので、頻繁に利用させてもらっています。
海外への移動には、本を持って行くことも多いんですけど、例えば9時間とか10時間移動する場合は、文字を追うことに疲れてしまうんですよね。でも、Audibleで聴くと、不思議と長時間でも平気なんですよね。すごく便利な時代になったな、と。今回の作品は、マラソンする方々にもおすすめしたいです。村上春樹さんがマラソンの話をいっぱいしてくれるので、マラソンをしたくなるし、負けちゃいけないという気持ちになるんじゃないかな。励まされる感じもあって」
小説家であると同時にランナーでもある村上春樹さんが走ることについて語り、さらに小説家としての姿勢や思い、村上春樹という一個人を初めて説き明かした画期的なメモワールである『走ることについて語るときに僕の語ること』。今作の朗読には、等身大の自分自身で臨んだという大沢さん。
「何年か前に朗読劇はやったことがあって、ステージの上での朗読に対しては後ろ向きな気持ちはないんですけど、正直、朗読は苦手にしていることの一つだったんです。なるべくやらないように避けてきたところがありましたが、今回思い切って挑戦させてもらいました。作品が小説ではなくエッセイだったことも大きくて、比較的伸び伸び読ませてもらえたという感覚です。村上春樹さんが、ご自身の考えや人生を率直な言葉を紡いで語っているので、僕自身、変にうまくやろうとしないで、飾らない等身大の自分でやらせてもらおうと思いました」
朗読をしながら、改めて村上さんの文章に魅了されたと話します。
「どんな人でもわかる言葉を使ってくれたり、かと思えば難しい例えが出てきたり。何より比喩が素晴らしいと思います。そんな村上さんの文章の連続技を受けて、心の深いところに、彼が本当に言いたいことがストンと落ちる。また、村上さんの人生の一部を自分も追体験しているように読めるようなエッセイなので、朗読という機会をいただいて、彼の文章を体感するという、いい体験ができました。同時に、村上さんの作家になるまでの経歴や走ることへの思いを初めて知って驚いたり。僕にとって村上さんは雲の上の人なので、神宮外苑を走っていたり、ジャズバーを経営していたり、エアコンが壊れたり、日常の中でいろいろ悩んだりしていることを知って、こんなすごい人でもいろいろあるんだなと距離が近くなったというか(笑)。世界的に著名で求められ続けている村上さんが、一人の人間として言葉を紡いでいて、勇気や元気をくれる本だと思います」

村上春樹さんが教えてくれた“いくつになっても懸命に生きること”

今作は村上春樹さんが58歳の時に出版され、50代後半に差し掛かった心境も語っています。
「確かに歳を重ねていくことについての思いも、このエッセイのテーマの一つです。村上さんは後悔しないように懸命に生きていて、命というものに対して突き詰めて考えている人だと思いました。歳を重ねる上で不安になること、懸命に生きる大切さ、時間を無駄にしないこと。当たり前のようでいて通り過ぎてしまうことを、村上さんが素晴らしい文章で語ってくれて、改めて自分も懸命に生きようと思わせてくれます」
書くためには体力をつけないといけない。だから走ると決めて、走り続けている。そんな村上さんの姿も印象に残ります。
「僕はその部分に一番共感しましたね。こと僕の仕事に関しては、体力命で、体力がない人は絶対できないですから。病気したらできないですし、健康でないと演技はできません。演技は、不健康な状態でやると限界があるんですよね。不健康な体で考えても、不健康なアイデアしか出てこないから、不健康な表現になってしまう。演劇は人をハッピーにさせる仕事なので、健康な体でいないといけないし、体力勝負なんです。なので、作品のクランクイン前に体力が持つかを考えます。例えば、『キングダム』シリーズは4年くらいやっていますが、王騎という役の体重をどう維持して、何年間やっていけばいいのか。『沈黙の艦隊』という作品では、2ヶ月間、同じ場所に立ち続けないといけない。どうやったら朝から晩までやって、集中力を保てるかな、と。でも、結論的にはどの作品のどの役も体力がないとできないことなので、その前になるべく体力作りをしたいし、栄養もちゃんと取っておこうと意識する。そういうところは、作家の先生も一緒なんだなって思いました」
走り続けている村上さんのように、大沢さんがずっとやり続けていること、継続していることも聞いてみると、意外な回答が。
「プライベートでは全くなくて(笑)。20代、30代と40代と今、ステージが変わるごとに興味を持つことも変わってきています。日本人っぽいけど、仕事を一生懸命やったぐらいかな。でも、それは今の時代に合ってないというか、良くないと思うんですけどね。後輩に相談される時はいつも『絶対俺の真似しない方がいいよ』って話しています(笑)。『仕事は仕事だから、ちゃんと自分の時間を持って遊びなさい』と。でも、僕は仕事に一生懸命になりすぎたかもしれないけれど、それはそれでよかったなと思うことはありますね」

「気を遣ってうまくやる」ことが、大人じゃない。孤独を怖がらずに自分を突き通す大切さ

俳優としてのキャリアも30年、近年では映画作品のプロデュースも手がける大沢たかおさん。そんな大沢さんに、本誌の名前にちなんで、「大人」の定義を最後に伺いました。
「村上さんは、まさに大人だと思うんですよ。自分の価値観を持っていて、自分の行動に責任をとっていますよね。大人を定義づけるとしたら、自分で自分の責任をとれる人だと思います。でも、責任をとれる人は実際少ない。同時に、自分の意見や自分の価値観がない人も多い気がしています。大人になりきれない人が多い、この国の特徴だな、と。周りの人を気遣って、人とうまくやることが“大人”の定義じゃないと思うのですが、日本ではそう考えている人が多いのかな。でも、僕自身も含めて、大人になることは大事だと思うんですよね。若い子たちや子どもたちなど、次の世代に何を残せるのか考えることも、大人の役目だと感じています」
大人になるためには、「孤独になることを怖がらないこと」と、力強く語ります。
「孤独になりたくないから、ついつい人に合わせてしまいますが、人は死ぬ時に一人だと考えるとそもそも孤独な生き物なんです。僕は30年この仕事をやっていますが、20代で自分の事務所を立ち上げて、当時は前例なんてないから、まぁ苦労しました(笑)。最初の10年は疎外感を感じることがありましたが、でも、孤独で寂しいと思ったことは1回もなかったです。なぜなら、自分は間違ってないと思ったし、自分が正しいと思うことを突き通すことが大切だと思ったから。誰かに嫌われても自分のことを貫くこと、やったことに責任をとること、誰かのせいにしないことは、怖いことでもあるけど、大人になるためには大事なことなのかもしれないですね」

黒田官兵衛の歴史
「黒田官兵衛(黒田孝高)」(くろだかんべえ/くろだよしたか)は、1546年(天文15年)に播磨国(現在の兵庫県南部)の姫路で生まれました。

父は、播磨城主「小寺政織」(こでらまさもと)の重臣「黒田職隆」(くろだもとたか)です。

黒田職隆はとても有能で、小寺姓を名乗ることを許され、「小寺職隆」として支城・姫路城代となった人物。

なお、母は小寺政織の養女(明石宗和の娘)「岩姫」(いわひめ)です。

黒田官兵衛は、1559年(永禄2年)の14歳のときに母を亡くし、1562年(永禄5年)の17歳で初陣、1567年(永禄10年)22歳のときに黒田家の家督を継ぎ、播磨国志方城主「櫛橋伊定」(くしはしこれさだ)の娘「光姫」(てるひめ)を正室としました。

翌年には、嫡男「黒田長政」(くろだながまさ:幼名は松寿丸)が誕生します。

黒田官兵衛は、正室のみで側室を持たず、生涯ひとりの女性を愛し、愛妻家と呼ばれました。
若き黒田官兵衛、小野氏のもとで活躍「攻めの織田へ」
1570年代は、尾張国(現在の愛知県)を統一した「織田信長」と、安芸国(現在の広島県)の守護大名「毛利輝元」が勢力を拡大し始めた時期。黒田官兵衛がいた播磨国は、地理的に織田家と毛利家の間に挟まれていました。

黒田官兵衛は、主君・小寺政職に「守りの毛利よりも、攻めの織田に付きましょう」と、織田信長に味方するように進言します。

1573年(天正元年)、黒塀小寺氏の使者として岐阜城を訪問し、織田信長に謁見。このとき、織田信長から褒美として、名刀「へし切り長谷部」を拝領したと言われています(諸説あり)。

その後、黒田官兵衛は、織田信長の家臣「豊臣秀吉」の配下に入りました。
黒田官兵衛、幽閉される
1577年(天正5年)、織田信長による「中国征伐」では、黒田官兵衛が先鋒を務めます。
居城としていた姫路城は、中国征伐の重要拠点となったため、豊臣秀吉に譲渡。その代わり、姫路城から南に4.5kmの場所にある「国府山城」(こうやまじょう:別名は妻鹿城〔めがじょう〕)を修復し、父と共に居城としました。

これが黒田官兵衛初の築城。黒田官兵衛は、播磨国内の武将達に、織田軍の味方に付くように次々と説得します。

1578年(天正6年)、黒田官兵衛は、織田信長に対してクーデターの気配がある「荒木村重」(あらきむらしげ)を説得するために、単身で「有岡城」(現在の兵庫県伊丹市)に向かいます。

ところが、逆に捕らえられ、有岡城の牢屋に幽閉。それを織田信長は、「黒田官兵衛が寝返った」と勘違いして大激怒。黒田官兵衛の息子・黒田長政を殺すように、豊臣秀吉に命じます。

しかし、1年後の1579年(天正7年)10月、有岡城が陥落し、黒田官兵衛は奇跡的に救出。頭髪は抜け落ち足腰は弱まり、変わり果てた姿となっていました。

豊臣秀吉は、黒田官兵衛が寝返っていなかったことを知り、黒田官兵衛の息子・黒田長政を処刑したことを泣いて詫びたと伝えられています。しかし実は、豊臣秀吉が処刑するように命じた「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)が、黒田長政を殺さず匿っていたと判明するのです。

竹中半兵衛とは、黒田官兵衛と共に豊臣秀吉に仕え、「両兵衛」と呼ばれた謀将。そんな豊臣秀吉の右腕と言っても過言ではない竹中半兵衛が、上の命令に背くとはもってのほかでした。しかし竹中半兵衛は、黒田官兵衛が裏切っている訳はないと、黒田長政を守ったのです。
この件を聞いた織田信長、豊臣秀吉、黒田官兵衛は、竹中半兵衛に心から感謝したとのこと。ただし、匿っていた竹中半兵衛は、黒田親子を気遣う手紙を遺して、すでに6月に病死していました。

黒田官兵衛は、竹中半兵衛への感謝の気持ちを忘れないために、竹中家の家紋「餅紋」を使うようになったと言われています。これ以降、豊臣秀吉は、黒田官兵衛を重用するようになるのです。

なお、主君・小寺政織は、荒木村重に続いて、織田信長に謀反。しかし、黒田官兵衛が救出されると、逃亡し病死します。これにより、黒田官兵衛と小寺政織の主従関係が崩壊しました。
黒田官兵衛が「稀代の知将」と言われた理由
軍師として才能を発揮した、黒田官兵衛。稀代の知将と言われるまでには、様々な戦略を押し出しました。
まずは、1578年(天正6年)5月から1580年(天正8年)2月にかけて行なわれた「三木合戦」。

織田軍の指揮官・豊臣秀吉に仕えていた黒田官兵衛は、竹中半兵衛と共に、三木城(現在の兵庫県三木市)に籠城した「別所長治」に武力で対抗するのは難しいと判断し、食糧補給手段を絶たせる「兵糧攻め」という方法を考え、豊臣秀吉に提案し、攻略したと伝えられています。

その後、1580年(天正8年)に播磨平定の功績で、黒田官兵衛は織田信長から山崎(兵庫・宍粟)1万石を与えられました。のちに築ノ丸城を自分の居城として修理。これが黒田官兵衛の2回目の築城とされています。

また、1581年(天正9年)、毛利軍との戦いでも、兵糧攻め「鳥取の渇殺し」(かつえごろし)を行ない、鳥取城(現在の鳥取県鳥取市)を攻略。

1582年(天正10年)、備中高松城(現在の岡山県)攻略の際には、地形を見て「水攻め」が適切であることを豊臣秀吉に提案するなど、知将ぶりをいかんなく発揮しました。
織田信長の死後、豊臣秀吉の天下統一に協力!
1582年(天正10年)、「明智光秀」による「本能寺の変」で織田信長が死去すると、家臣達は混乱します。その中で、黒田官兵衛は豊臣秀吉に「天下が取れる、好機です」と発言したのです。
さらに黒田官兵衛は、豊臣秀吉に「中国大返し」を促し、毛利氏との講和を進言。その後、黒田官兵衛は豊臣軍の殿(しんがり:退却する部隊の最後尾を担当し、敵の追撃を防ぐこと)を担当し、「山崎の戦い」で明智軍を討伐。

1583年(天正11年)には、豊臣秀吉による天下統一が胎動する中、黒田官兵衛は「大坂城」の設計を担当します。これが3回目の築城です。この築城にあたり、黒田官兵衛は豊臣政権下で「普請奉行」(現在で言う国土交通大臣)となっています。

同年、黒田官兵衛はキリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン・シメオン」を名乗りました。キリストを信仰した黒田官兵衛ですが、後年黒田長政に対して「神には祈れば良いし、殿には詫びを入れて謝れば大概のことはなんとかなる」と言い放っています。

ただし、この発言には続きがあり、「しかし、家臣や民衆に疎まれると国を失うことになる。国を失えば神に祈っても殿に謝っても取り返しがつかない。そのため、家臣や民は大切にしなさい」というものです。作戦指揮官として群衆の上に立つ者としての教えと言えます。

また1585年(天正13年)、豊臣秀吉が四国平定を進めた際にも知将ぶりを発揮。「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)は、讃岐植田城(現在の香川県高松市)に敵を誘導し、阿波国(現在の徳島県)に本陣を置いて、夜戦で挟撃しようと策略していました。

しかし、黒田官兵衛が長宗我部元親の作戦を見抜き、阿波国への攻撃を最優先にするよう進言。その結果、長宗我部元親が立てこもっていた白地城(現在の徳島県三好市)は豊臣軍に取り囲まれてしまいます。迎え討とうとした長宗我部元親ですが、家臣に説得され、講和を受け入れることに。

長宗我部元親は、黒田官兵衛の智略に負けたことを、たいへん悔しがったと伝えられているのです。
黒田官兵衛、豊前の地を拝領
黒田官兵衛は、豊臣秀吉に九州平定の功績を讃えられ、豊前6郡12万石(豊前国の3分の2の領土)と馬ヶ岳城(うまがたけじょう:現在の福岡県行橋市)を授かります。黒田官兵衛は、馬ヶ岳城に入城すると、豊臣秀吉の命で領内の検地を行ない、豊前の統治を徹底しました。

豊臣秀吉は、九州内の領地配分を再編。その再編により、城井谷城(きいだにじょう:現在の福岡県築上郡)の城主「城井鎮房」(きいしげふさ)は、豊臣秀吉の九州平定に協力したのにもかかわらず、移封。城井鎮房は、先祖代々400年近くこの城井谷を治めてきたため、この措置に不満を持ち蜂起します。

黒田官兵衛は、息子・黒田長政とこの鎮圧にあたり、1588年(天正16年)に城井鎮房は降伏。その後、黒田官兵衛、黒田長政によって城井鎮房は、謀殺されました。
如水を名乗り、息子の黒田長政に家督を譲る
黒田官兵衛は、1588年(天正16年)に讃岐国(現在の香川県)の「高松城」、1589年(天正17年)に安芸国の「広島城」の設計を担当しました。これで築城5回目と6回目になります。

その後、黒田官兵衛は、1589年(天正17年)に、家督を黒田長政に譲り、出家して「如水」の号を名乗るのです。

黒田長政に家督を譲っても、黒田官兵衛の知将ぶりは衰えず、1590年(天正18年)に「小田原攻め」が起きた際は、交渉人として北条氏を説得して、無血開城させる偉業を成し遂げています。

小田原攻めの際に、豊臣秀吉は味方陣営を見て回ると「今時こんな大軍を見たことがない」と言い放ちました。黒田官兵衛は、「その頃(鎌倉時代)ならば100万の軍勢を指揮できる良将もいたのでしょうが、今時そんな良将がいるとは思えません」と返しました。

すると豊臣秀吉は、「もしこの大軍を指揮できるとすれば官兵衛しかいない」と答えたとされています。

1592年(天正20年)の朝鮮出兵「文禄の役、慶長の役」では「築城総奉行」となり、豊臣秀吉による朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(現在の佐賀県唐津市)の設計を命令されます(築城7回目)。

また、朝鮮出兵の際、黒田官兵衛は朝鮮の八山(はちざん)という良工を日本に連れ帰りました。この八山はのちに、豪快な作風の陶磁器「髙取焼」の祖となります。
関ヶ原の戦い後、福崎を福岡に改称
関ヶ原の戦いが終わった時点で、黒田官兵衛は九州の大半を制圧していました。しかし、「天下を取るより、平穏な生活を送りたい」として、徳川家康に服従します。

息子・黒田長政は、東軍に付いた功績が徳川家康に認められ、筑前国52万石の福岡藩(現在の福岡県福岡市)藩主に抜擢。黒田官兵衛は、1601年(慶長6年)に博多に移住し、福崎の地名を「福岡」と改称しました。

この福岡は、黒田氏が発展した地である「備前福岡」(岡山)にちなんだもの。実はこの備前福岡は、黒田官兵衛の曾祖父の代に、黒田氏一族が逃げ延びてきた地でした。先祖の黒田氏は備前福岡で再興を誓ったのです。

黒田官兵衛の祖父の代で播磨国・小寺氏に仕え、「目薬屋」の商才を発揮し、黒田官兵衛による黒田氏再興の基礎を築きました。備前福岡は、黒田氏再興のきっかけを作った地であり、その経緯から福岡と改称したのです。
黒田官兵衛最後の築城と最期
黒田官兵衛は福岡に移住すると、名島城(現在の福岡県福岡市)に代わる「福岡城」の築城に着手します。これが8回目の築城で、最後の築城となりました。
福岡城を築城するきっかけは、黒田長政が名島城下の地域が狭いことを嫌ったためと言われています。

黒田官兵衛は、築城に着手すると、太宰府天満宮の鳥居の東に移住。この太宰府天満宮の境内には、黒田官兵衛が茶の湯のために使用していた「如水の井戸」が現在も残っています。

晩年は、築城中の福岡城内三の丸に住居「御鷹屋敷」を構えました。その住居跡は、現在「牡丹・芍薬園」となり、「黒田如水公御鷹屋敷跡」の石碑が立っています。

黒田官兵衛は福岡城の完成を見ず、1604年(慶長9年)に療養のために移り住んでいた京都伏見藩邸にて59歳で死去。黒田官兵衛は死期を悟ったのか、死の約1ヵ月前から家臣達を罵り出しました。

息子・黒田長政は黒田官兵衛を諫めましたが、黒田官兵衛は「これはお前を思ってのこと。気が狂った訳ではない」と小声でこぼし、「私が家臣に嫌われ、1日も早く黒田長政の代になると良いと思わせるためにした」と言ったとされています。
死ぬ間際も黒田長政に「戦いは死ぬか生きるかの境目。考えるほど道理を通した戦いができなくなる」と伝え、息を引き取りました。乱世を生き抜いた武将らしい最期を迎えたのです。

黒田官兵衛は、息子・黒田長政によって、黒田家の菩提寺「崇福寺」(福岡県福岡市)に葬られました。


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  • 人间四月天,必然想起林徽因的那句:“你是一树一树的花开,是燕在梁间呢喃,你是爱,是温暖,是希望,你是那人间四月天……” 四月,春浓,时光绚烂正佳期。#遇见美好#
  • 扑在脸蛋上这闪闪的感觉~是小仙女没错了!这blingling的妆感太爱了!
  • #蒙古纪# 那些在天空总飞翔的鸟也会有的吗?回家的路上,一眼望见带食升起的月亮,在爸妈的迁就下,也做了一回雀跃的小鸟。