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第3代将軍/足利義満
室町幕府歴代将軍の中で特に印象に残る人物と言えば、昭和に放送された国民的アニメ「一休さん」の将軍様でお馴染みの第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)です。初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の孫であり、父の第2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の代で成し得なかった南北朝合一を果たして、足利政権を確立しました。また、世界遺産として知られる「金閣寺」(京都市北区)の建立や明との貿易など、そののちの日本に大きな影響を及ぼした政策・文化を打ち立てています。室町時代の全盛期を築いた将軍・足利義満の人生を見ていきましょう。
抗争の時代に生まれた足利義満
「足利義満」(あしかがよしみつ)は、祖父である「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の死から100日後の、1358年(延文3年)8月に誕生します。
母は「足利義詮」(あしかがよしあきら)の側室「紀良子」(きのりょうし/きのよしこ)で、幼名は「春王」と名付けられました。
足利義満が生まれた年には、のちに北朝第5代天皇となる「後円融天皇」(ごえんゆうてんのう)も誕生しています。両者の母親は姉妹であったため、足利義満と後円融天皇は従兄弟にあたる関係です。このような家系や皇族とのかかわりが、のちに足利義満が皇位簒奪(こういさんだつ:皇位継承資格のない者が天皇の地位を狙うこと)を図る素地になったのではないかと考えられます。
足利義満が幼少の頃の世情は、南朝との抗争に加え、足利政権の内紛激化により混乱を極めていました。1361年(康安元年)には、南朝勢力に京都が占拠されたことで、3歳の足利義満は京都から播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)守護の「赤松則祐」(あかまつのりすけ)の居城「白旗城」(しろはたじょう/しらはたじょう:兵庫県赤穂郡上郡町)へ逃亡することに。
1362年(貞治元年)に播磨から帰京する際、摂津国琵琶塚(せっつのくにびわづか:現在の兵庫県神戸市)の景色を気に入った足利義満は、「ここの景色が良いから持って帰れ」と家臣に言い放った逸話が語られています。幼少ながら、すでに足利義満の豪快でわがままな性格が垣間見えるエピソードです。
そののち、管領の「斯波義将」(しばよしゆき)に養育されますが、斯波氏が失脚すると新たな管領である「細川頼之」(ほそかわよりゆき)に支えられて成長していきました。こうして、次第に幕府では足利義満を中心に、管領職を奪い合う斯波氏と細川氏の二大派閥が作られていきます。
将軍就任と権力の行使
1367年(貞治6年)に父の足利義詮が亡くなると、足利義満は家督を継いで元服し、1368年(応安元年)に11歳で第3代将軍となりました。父の遺言に従い、細川頼之に支えられながら政務をこなしていくことに。しかし、南朝との関係が悪化するなかで、次第に幕府内では細川頼之の評価が下がり始めます。
そして、管領復帰を目指す斯波義将と、足利尊氏時代からの宿老「土岐頼康」(ときよりやす)が共謀して足利義満に進言し、1379年(康暦元年)の「康暦の政変」(こうりゃくのせいへん)で細川頼之を失脚させました。足利義満は、父の遺言で後見人にされた細川頼之を見捨てて、当時権力を持っていた土岐頼康が推す斯波派を幕政に採用したのです。しかし、足利義満はその後すぐに細川頼之を幕政に復帰させており、土岐頼康の没後は土岐氏を没落させています。
また、足利義満は康暦の政変による騒乱に便乗して、京都の施政権を支配します。これにより、足利義満は武家社会だけでなく、公家社会においても権威を高めました。逆らう者は、公家だろうが失脚させ、貴族の地位をも奪う勢いで幕府の権力を強めていったのです。また、1378年(永和4年)には、京都の北小路室町に邸宅を築き、幕政の中心地としました。これ以降、足利義満や幕府は「室町殿」(むろまちどの)と呼ばれるようになり、「花の御所」として栄華を極めていきます。
南北朝合一を果たした足利義満の最期
足利義満は、1381年(永徳元年)に内大臣に就任し、祖父である足利尊氏と父である足利義詮を越える官位となりました。1383年(永徳3年)には准三后(じゅさんごう)の称号を授かり、武家と公家の垣根を越えた頂点へと上りつめます。1392年(明徳3年)には、南朝勢力が衰退したことにより、南朝方との和平交渉を進め、ついに58年に及んだ抗争を終結させて南北朝合一を果たしました。
そののち、足利義満は1395年(応永2年)に嫡男「足利義持」(あしかがよしもち)に家督を譲り、隠居して出家しますが、引き続き幕府での実権を握り続けます。さらに、朝廷の最高位である太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)に昇進したことで、足利義満は絶大な権威を誇る唯一無二の存在へとなっていったのです。足利義満はこの称号を利用して、かねて取り組んでいた日明貿易を正式にスタートさせます。これにより、足利義満は莫大な貿易利潤を得て、財政面でも強大な力を付けていきました。
1406年(応永13年)に、「後小松天皇」(ごこまつてんのう)の生母が亡くなると、足利義満は正室の「日野康子」(ひのやすこ)を天皇の准母(じゅんぼ:天皇の母に擬した女性の称号)にさせて、自身を実質的な上皇の立場であることを認めさせました。さらに、僧侶にするはずだった息子の「足利義嗣」(あしかがよしつぐ)を、皇室の儀礼である立太子の礼で元服させたのです。
ここに来てもなお、足利義満の野望は尽きず、すべてを手に入れようとしていたのでしょう。しかし、皇位簒奪の目前で足利義満は病に倒れ、1408年(応永15年)、51歳でこの世を去りました。この3日後に、朝廷から太上法皇の尊号が贈られましたが、4代将軍・足利義持と当時の管領・斯波義将によって辞退が決められています。
なぜ、朝廷は足利義満に法皇の称号を贈ろうとしたのか。この謎は明らかにされてはいませんが、朝廷と幕府の間でこのようなポーズを取るという話が事前に決まっていたのではないかと考えられています。
天下の象徴となった建造物
足利義満が建てた「金閣寺」と「七重塔」
足利義満は、南北朝合一を果たし隠居したあと、京都北山に新たな邸宅を築いています。この山荘は「北山殿」(現在の鹿苑寺[ろくおんじ:京都市北区])と呼ばれ、足利義満は北山殿の建造物で人々に威光を示しました。
1399年(応永6年)頃には、のちに「金閣」の名で呼ばれることとなる舎利殿を完成させ、人々はその意匠に驚かされたと言われています。北山殿を中心としたこの時代の文化は「北山文化」と呼ばれ、足利義満は亡くなるまで北山殿で政務を行いながら暮らし続けました。
また、舎利殿が完成した頃に、足利義満は天下を象徴する特別な建造物を建てています。室町の花の御所近くに建立していた「相国寺」(しょうこくじ:京都市上京区)に、新たに巨大な仏塔である「七重塔」を建てたのです。塔の高さは約109mで、当時の建造物としては前例のない高層タワーと言えるでしょう。実際に、創建後500年以上は建造物の高さで日本最高となっており、日本様式の仏塔としても史上最も高い建造物として記録されています。
当時の人々は、七重塔の高さに圧倒されたことでしょう。南北朝時代を終わらせた足利義満は、新しい時代の幕開けを祝い、人々に示すために新たなシンボルを築いていたのです。
室町幕府歴代将軍の中で特に印象に残る人物と言えば、昭和に放送された国民的アニメ「一休さん」の将軍様でお馴染みの第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)です。初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の孫であり、父の第2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の代で成し得なかった南北朝合一を果たして、足利政権を確立しました。また、世界遺産として知られる「金閣寺」(京都市北区)の建立や明との貿易など、そののちの日本に大きな影響を及ぼした政策・文化を打ち立てています。室町時代の全盛期を築いた将軍・足利義満の人生を見ていきましょう。
抗争の時代に生まれた足利義満
「足利義満」(あしかがよしみつ)は、祖父である「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の死から100日後の、1358年(延文3年)8月に誕生します。
母は「足利義詮」(あしかがよしあきら)の側室「紀良子」(きのりょうし/きのよしこ)で、幼名は「春王」と名付けられました。
足利義満が生まれた年には、のちに北朝第5代天皇となる「後円融天皇」(ごえんゆうてんのう)も誕生しています。両者の母親は姉妹であったため、足利義満と後円融天皇は従兄弟にあたる関係です。このような家系や皇族とのかかわりが、のちに足利義満が皇位簒奪(こういさんだつ:皇位継承資格のない者が天皇の地位を狙うこと)を図る素地になったのではないかと考えられます。
足利義満が幼少の頃の世情は、南朝との抗争に加え、足利政権の内紛激化により混乱を極めていました。1361年(康安元年)には、南朝勢力に京都が占拠されたことで、3歳の足利義満は京都から播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)守護の「赤松則祐」(あかまつのりすけ)の居城「白旗城」(しろはたじょう/しらはたじょう:兵庫県赤穂郡上郡町)へ逃亡することに。
1362年(貞治元年)に播磨から帰京する際、摂津国琵琶塚(せっつのくにびわづか:現在の兵庫県神戸市)の景色を気に入った足利義満は、「ここの景色が良いから持って帰れ」と家臣に言い放った逸話が語られています。幼少ながら、すでに足利義満の豪快でわがままな性格が垣間見えるエピソードです。
そののち、管領の「斯波義将」(しばよしゆき)に養育されますが、斯波氏が失脚すると新たな管領である「細川頼之」(ほそかわよりゆき)に支えられて成長していきました。こうして、次第に幕府では足利義満を中心に、管領職を奪い合う斯波氏と細川氏の二大派閥が作られていきます。
将軍就任と権力の行使
1367年(貞治6年)に父の足利義詮が亡くなると、足利義満は家督を継いで元服し、1368年(応安元年)に11歳で第3代将軍となりました。父の遺言に従い、細川頼之に支えられながら政務をこなしていくことに。しかし、南朝との関係が悪化するなかで、次第に幕府内では細川頼之の評価が下がり始めます。
そして、管領復帰を目指す斯波義将と、足利尊氏時代からの宿老「土岐頼康」(ときよりやす)が共謀して足利義満に進言し、1379年(康暦元年)の「康暦の政変」(こうりゃくのせいへん)で細川頼之を失脚させました。足利義満は、父の遺言で後見人にされた細川頼之を見捨てて、当時権力を持っていた土岐頼康が推す斯波派を幕政に採用したのです。しかし、足利義満はその後すぐに細川頼之を幕政に復帰させており、土岐頼康の没後は土岐氏を没落させています。
また、足利義満は康暦の政変による騒乱に便乗して、京都の施政権を支配します。これにより、足利義満は武家社会だけでなく、公家社会においても権威を高めました。逆らう者は、公家だろうが失脚させ、貴族の地位をも奪う勢いで幕府の権力を強めていったのです。また、1378年(永和4年)には、京都の北小路室町に邸宅を築き、幕政の中心地としました。これ以降、足利義満や幕府は「室町殿」(むろまちどの)と呼ばれるようになり、「花の御所」として栄華を極めていきます。
南北朝合一を果たした足利義満の最期
足利義満は、1381年(永徳元年)に内大臣に就任し、祖父である足利尊氏と父である足利義詮を越える官位となりました。1383年(永徳3年)には准三后(じゅさんごう)の称号を授かり、武家と公家の垣根を越えた頂点へと上りつめます。1392年(明徳3年)には、南朝勢力が衰退したことにより、南朝方との和平交渉を進め、ついに58年に及んだ抗争を終結させて南北朝合一を果たしました。
そののち、足利義満は1395年(応永2年)に嫡男「足利義持」(あしかがよしもち)に家督を譲り、隠居して出家しますが、引き続き幕府での実権を握り続けます。さらに、朝廷の最高位である太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)に昇進したことで、足利義満は絶大な権威を誇る唯一無二の存在へとなっていったのです。足利義満はこの称号を利用して、かねて取り組んでいた日明貿易を正式にスタートさせます。これにより、足利義満は莫大な貿易利潤を得て、財政面でも強大な力を付けていきました。
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足利義満が建てた「金閣寺」と「七重塔」
足利義満は、南北朝合一を果たし隠居したあと、京都北山に新たな邸宅を築いています。この山荘は「北山殿」(現在の鹿苑寺[ろくおんじ:京都市北区])と呼ばれ、足利義満は北山殿の建造物で人々に威光を示しました。
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