#AoyamaEkiden Yesterday#
2024.02.05
2⃣️

P1-2/倉本玄太更新帖文:初マラソンはとても苦しい結果となりました。しかしとても収穫が多く、これから取り組むべき課題も明白になりました。30キロからの12.195キロで勝負ができる強さを実業団で追い求めていきます!
P3/官方更新帖文:学生最後のレースにして初のフルマラソン出走でしたが、今後に期待がかかる試合となりました(出镜:倉本)
P4-5/倉本玄太更新推文:まさかラストイヤーでこんなにもたくさん貴重な経験をさせていただけるなんて想像してなかったです。4年間で選手としても人としてもたくさん成長できました!(出镜:塩出、倉本)
P6/日本桥更新限时动态:初マラソンお疲れ様!!(出镜:倉本)
P7/eri太太更新限时动态(出镜:若林宏)
P8/若林宏樹更新限时动态:神奈川ハーフ たくさんの応援ありがとうございました!!
P9-10/GMO更新帖文:2024年2月4日(日)に開催された第72回別府大分毎日マラソン大会で、下田裕太が日本人1位、そして岸本大紀がマラソン初挑戦で日本人2位となる活躍を見せました(出镜:下田、岸本)(社长也来了
P11/下田裕太更新推文三则:妻もたくさん喜んでくれて本当に頑張れてよかったい(kkkk
P12/飯田貴之更新限时动态:2024は殻をぶち破りたい
P13/平松享祐更新限时动态
P14/平松龍青更新限时动态(出镜:弟弟)
P15/神野大地更新限时动态:今年も防衛成功!(kkk
P16/一色恭志更新帖文:丸亀ハーフ→大阪マラソン
P17-18/いくどん町田駅前本店更新帖文(出镜:太田、白石光、鶴川、野村、片山、喜多村、徳丸、塩出) https://t.cn/A6O9PXPH

蒲生氏郷の歴史
六角氏の重臣一族から織田氏の家臣へ
蒲生氏郷の生い立ち
蒲生氏郷は1556年(弘治2年)、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の「日野城」(別称:中野城)の城主「蒲生賢秀」(がもうかたひで)の嫡男として生まれました。
蒲生氏は、近江国を治めていた六角氏に臣従していた一族で、もとは「源頼朝」や「足利尊氏」に仕えていた名家。家紋には、室町時代から「蒲生対い鶴」(がもうむかいづる)が使われています。

そのきっかけは、1441年(嘉吉元年)に起こった、「嘉吉の乱」(かきつのらん)と呼ばれる事件です。これはその当時、3ヵ国の守護を務めていた「赤松満祐」(あかまつみつすけ)が、室町幕府6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)を暗殺し、室町幕府衰退の要因を作った出来事。その際、窮地に立たされた蒲生氏の先祖「藤原秀綱」(ふじわらのひでつな)が、鶴に先導されたことで難を逃れたという逸話から生まれた意匠です。

六角氏の家中でも、「蒲生対い鶴」を掲げる蒲生軍は勇猛で知られ、近江国を代表する名族として一目置かれていた存在でした。
しかし1568年(永禄11年)、織田信長が六角氏領内へ侵攻した「観音寺城の戦い」(かんのんじじょうのたたかい)で六角氏が敗れて没落すると、蒲生賢秀は、織田氏へ臣従。その証しとして、嫡男である蒲生氏郷を人質に差し出すことになったのです。

ひと目で才能を見抜いた織田信長
蒲生氏郷に対する織田信長の寵愛は強く、「岐阜城」(岐阜県岐阜市)で蒲生氏郷が元服したときにも、織田信長が自ら「烏帽子親」(えぼしおや:儀礼的親子関係の一種で、男子の元服の際に立てる仮親。親の代わりに烏帽子を被らせ、烏帽子名を付ける)を務めるほどでした。
織田家中屈指の知将として活躍
蒲生氏郷は1570年(永禄13年/元亀元年)、父・蒲生賢秀と共に、織田氏の重臣「柴田勝家」(しばたかついえ)の「与力」(よりき:大名や有力武士に仕える下級武士)になると、持ち前の才覚を発揮し、武功を立てていきます。

14歳になった蒲生氏郷は、蒲生賢秀にしたがって「大河内城の戦い」(おかわちじょうのたたかい)に参陣。「北畠氏」(きたばたけし)の「今徳城」(こんどくじょう:現在の三重県津市)を攻略。1570年(元亀元年)には「姉川の戦い」で浅井・朝倉軍を退け、1571年(元亀2年)、「長島一向一揆」を鎮圧するなど、織田氏の主要な戦いにおいて、次から次へと武功を挙げていきます。さらに室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を京都から追放した「槇島城の戦い」(まきしまじょうのたたかい)では、織田信長から褒賞を与えられるほどの手柄を立てました。

このように、武勇に優れていた反面、時代の先を読む能力にも長けていた蒲生氏郷。その才覚が特に際立ったのが、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」以降に示した、機転の数々です。

まず、織田信長が本能寺で討たれたことを、いち早く知った蒲生氏郷は、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)にいた蒲生賢秀と連携し、織田信長の妻子を迅速に保護。自身が居城としていた日野城へかくまいました。

当時、「明智光秀」の勢力下にあった近江国において、明確に対決姿勢を示した武将は、蒲生氏郷と、「勢多」(せた:琵琶湖南岸一帯)を治めていた「山岡景隆」(やまおかかげたか)のみ。山岡景隆は、琵琶湖にかかる「瀬田の唐橋」(せたのからはし)を落として、明智軍の進路妨害をしたあと、山中へと逃走。そのため蒲生氏郷が、ほぼ近江国唯一の反明智勢力となり、明智勢に睨みを利かせていたのです。
1582年(天正10年)に「山崎の戦い」で、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が明智光秀を討つと、蒲生氏郷は羽柴氏に臣従。1583年(天正11年)、柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では柴田方の一大勢力「滝川一益」(たきがわかずます)と戦い、滝川軍が籠もる伊勢国(現在の三重県北中部)の「峯城」(みねじょう:現在の三重県亀山市)を攻略します。さらには、近江国へ侵攻してきた滝川軍を数度に亘って撃退し、羽柴軍の勝利に貢献しました。

その後、羽柴秀吉が「徳川家康」と対峙した1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」でも武功を挙げた蒲生氏郷は、翌年には羽柴秀吉より、伊勢国に12万石を加増されて転封しています。そして、「松ヶ島城」(まつがしまじょう:現在の三重県松阪市)に本拠を構え、羽柴氏屈指の重臣としての地位を確立したのです。
天下人も認めた器量人
織田信長に認められた蒲生氏郷の器量は、天下人となった豊臣秀吉も一目置いていました。ある宴席において豊臣秀吉が、「もし100万人の大軍を指揮させるとしたら、誰が良いか」と家臣達に訪ねたところ、名前が挙げられたのは、徳川家康や「前田利家」などの大大名ばかり。しかし、豊臣秀吉はこのとき、首を横に振りながら「違う。蒲生氏郷だ」と答えたのです。

また豊臣秀吉は、1588年(天正16年)、蒲生氏郷に「豊臣」の姓を下賜しています。これは豊臣秀吉が、蒲生氏郷のことを、どれほど高く評価していたのかが窺える証しです。
奥州一の大大名として君臨
奥州の鬼門・会津へ
1590年(天正18年)、関東地方の覇者となっていた「後北条氏」(ごほうじょうし)を降伏させ、「陸奥国」(東北地方北西部:別称「奥州」)の諸大名も帰順させた豊臣秀吉は、「奥州仕置」(おうしゅうしおき)と呼ばれる領土の再分配を行ないました。このとき蒲生氏郷は、豊臣秀吉から陸奥国の会津地方への移封が命じられたのです。

これにより、36歳の若さで42万石(のちに92万石に加増)の大大名へと出世を果たします。これは、豊臣政権下において、「徳川氏」や「毛利氏」、そして「前田氏」に続く石高でした。

しかし当時の会津は、北側に不穏な動きを見せる「伊達政宗」、南側には徳川家康がおり、非常に舵取りが難しい地域。会津の領主は、両者の監視役を務める重大な任務もかねていたため、高い政治手腕と有事の際の軍事力が求められていたのです。

そこで蒲生氏郷は、会津への移封の際、有能な浪人達を召し抱える許可を豊臣秀吉より得て、柴田勝家の旧臣などを巧みに取り込み、蒲生氏における家中の人材を拡充してから、会津へと向かったのでした。

このときにも、蒲生氏郷の人柄が垣間見える逸話があります。「佐久間安政」(さくまやすまさ)と「佐久間勝之」(さくまかつゆき)という、武勇に優れた兄弟が蒲生家に引き取られることになったのですが、仕官のあいさつの際、緊張からか、畳の縁につまずき転倒してしまいました。
思わず吹き出してしまった蒲生家の小姓(こしょう:貴人のそば近くに仕え、様々な雑用を担当した者。多くは少年であった)達を見た蒲生氏郷は、「この兄弟は畳の上で奉公する者ではない。お前達の中に、この2人に笑われないほど、武勇に優れた者がいるのか」と一喝。小姓達は沈黙するしかなかったのです。

その後、この佐久間安政・勝之兄弟は、1590年(天正18年)の「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)の鎮圧などで、大きな武功を立てたのでした。

優れた内政手腕を発揮
会津に入った蒲生氏郷は、次々と領内の改革に着手します。「黒川城」(福島県会津若松市:のちの「鶴ヶ城」[別称:若松城])の改修では、近江国から引き連れた多くの技術者によって、「野面積」(のづらづみ)の天守台を構築。

その上には、7層にも及ぶ天守閣がそびえ、蒲生氏の家紋である「蒲生対い鶴」に倣い、「鶴ヶ城」と名付けました。

また蒲生氏郷は、城下町の整備にも力を注ぎます。領内の河川である「車川」の流れを利用して外堀を築くと、郭内に家臣の屋敷、郭外に庶民を住まわせ、要所には、神社や寺などを移したのです。この区画整備は、現在の会津若松市街の骨格にもなっています。

さらに交易の発展のために「楽市楽座」を導入し、城下町に定期市を設けました。現在の会津若松市の地名にも残っていますが、「馬場町」(ばばまち)は1と8が付く日、「本郷町」(ほんごうまち)は2と7、「三日町」(みっかまち)は3、「桂林寺町」(けいりんじまち)は4と9、「大町」(おおまち)は5と10、「六日町」(むいかまち)は6というように、定期市を毎日開催できるように整備したのです。
この他にも蒲生氏郷は、近江国から「木地師」(きじし)や「塗師」(ぬりし)を移住させ、「会津漆器」の基礎を形成。さらには、綿花の栽培を奨励することで、会津木綿の発展にも尽くしました。

会津の郷土玩具として名高い「起き上がり小法師」(おきあがりこぼし)も、蒲生氏の家臣が正月に売り出したことが起源と言われています。

蒲生氏郷が会津に本拠を構えていたのは、1590年(天正18年)から、40歳で病死した1595年(文禄4年)までの約4年間に過ぎません。しかし、蒲生氏郷はこの短い期間に、城下町の整備から地場産業の振興まで幅広く領内整備を進め、現代へ続く会津若松市の基礎を築きました。それはひとえに、蒲生氏郷の内政手腕が優れていたためです。

蒲生氏郷の死因については、当初から諸説が飛び交い、病死説の他、謀殺説まであります。

病死は、現代で言う黄疸(おうだん)や直腸がん、大腸炎、胃がんなどの疾患であったと推測されており、謀殺に関しては、「石田三成」が蒲生氏郷の器量を危惧し、「瀬田正忠/瀬田掃部」(せたまさただ/せたかもん)によって、架空の鳥「鴆」(ちん)の羽にあるとされる毒を盛ったとする説、蒲生氏郷がキリスト教弾圧に対して、辛辣な意見を述べたことに豊臣秀吉が憤怒し、毒殺した説など、いずれも憶測の域を出ませんが、周囲の人々が疑心暗鬼になってしまうほど、蒲生氏郷の才能が優れていたことが窺えます。
蒲生氏郷の名言・逸話
家臣思いの逸話の数々
蒲生氏郷が松ヶ島城を居城として間もなく、資金繰りに苦労してしまい、家臣への恩賞が十分に出せなかったことがありました。その際、蒲生氏郷はせめてもの褒美として、手柄を立てた家臣を、屋敷に招いてもてなすことを考案します。

料理が振る舞われたり、風呂を勧められたりするなど、主君である蒲生氏郷からの手厚い歓迎を受けて、感激する家臣達。主家の風呂に入れる機会は、そうそうありません。喜んで風呂に浸かっていると、風呂の外から「湯加減はどうだ?」と、蒲生氏郷の声が聞こえてきました。不思議に思って風呂の外を覗いてみると、そこには、煤(すす)で真っ黒になりながら、一生懸命に薪をくべ続ける蒲生氏郷の姿があったのです。

主君が自ら体を張ってもてなしてくれる心意気に、その家臣は心を打たれ、以来家中で「蒲生風呂」は語り草となりました。家臣達は、「自分も手柄を立てて殿の風呂を頂きたい」と、いっそう忠義を尽くしたと伝えられています。

また蒲生氏郷は、1590年(天正18年)に、伊勢国12万石から陸奥国会津42万石へ加増転封になったときには、家臣達の収入も増やしたいと考え、皆に希望の俸禄(ほうろく:給与)を聞いたことがありました。

その合計が約100万石に達してしまい、さすがに石高が足りません。そんな中、蒲生氏郷は自身の取り分を9万石にまで削って、できる限り家臣の希望に添って、俸禄を支払ったのです。これは、「家臣に対する報酬は、俸禄と情の2種類があり、それは、車の両輪のように両立させなければならない」という蒲生氏郷の考え方に基づいた行動でした。

森の紫陽花
泉鏡花

 千駄木せんだぎの森もりの夏なつぞ晝ひるも暗くらき。此處こゝの森もり敢あへて深ふかしといふにはあらねど、おしまはし、周圍しうゐを樹林きばやしにて取卷とりまきたれば、不動坂ふどうざか、團子坂だんござか、巣鴨すがもなどに縱横たてよこに通つうずる蜘蛛手くもでの路みちは、恰あたかも黄昏たそがれに樹深こぶかき山路やまぢを辿たどるが如ごとし。尤もつとも小石川こいしかは白山はくさんの上うへ、追分おひわけのあたりより、一圓いちゑんの高臺たかだいなれども、射いる日ひの光ひかり薄うすければ小雨こさめのあとも路みちは乾かわかず。此この奧おくに住すめる人ひとの使つかへる婢をんな、やつちや場ばに青物あをもの買かひに出いづるに、いつも高足駄たかあしだ穿はきて、なほ爪先つまさきを汚よごすぬかるみの、特ことに水溜みづたまりには、蛭ひるも泳およぐらんと氣味惡きみわるきに、唯たゞ一重ひとへ森もりを出いづれば、吹通ふきとほしの風かぜ砂すなを捲まきて、雪駄せつたちやら/\と人ひとの通とほる、此方こなたは裾端折すそはしをりの然しかも穿物はきものの泥どろ、二にの字じならぬ奧山住おくやまずみの足痕あしあとを、白晝はくちうに印いんするが極きまり惡わるしなど歎かこつ。
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 件くだんの古井戸ふるゐどは、先住せんぢうの家いへの妻つまものに狂くるふことありて其處そこに空むなしくなりぬとぞ。朽くちたる蓋ふた犇々ひし/\として大おほいなる石いしのおもしを置おいたり。友ともは心こゝろ強がうにして、小夜さよの螢ほたるの光ひかり明あかるく、梅うめの切株きりかぶに滑なめらかなる青苔せいたいの露つゆを照てらして、衝つと消きえて、背戸せどの藪やぶにさら/\とものの歩行あるく氣勢けはひするをも恐おそれねど、我われは彼かの雨あめの夜よを惱なやみし時とき、朽木くちきの燃もゆる、はた板戸いたど洩もる遠灯とほともし、畦あぜ行ゆく小提灯こぢやうちんの影かげ一ひとつ認みとめざりしこそ幸さいはひなりけれ。思おもへば臆病おくびやうの、目めを塞ふさいでや歩行あるきけん、降ふりしきる音おとは徑こみちを挾さしはさむ梢こずゑにざツとかぶさる中なかに、取とつて食くはうと梟ふくろふが鳴なきぬ。
恁かくは森もりのおどろ/\しき姿すがたのみ、大方おほかたの風情ふぜいはこれに越こえて、朝夕あさゆふの趣おもむき言いひ知しらずめでたき由よし。
 曙あけぼのは知しらず、黄昏たそがれに此この森もりの中なか辿たどることありしが、幹みきに葉はに茜あかねさす夕日ゆふひ三筋みすぢ四筋よすぢ、梢こずゑには羅うすものの靄もやを籠こめて、茄子畑なすばたけの根ねは暗くらく、其その花はなも小ちひさき實みとなりつ。
 棚たなして架かくるとにもあらず、夕顏ゆふがほのつる西家せいかの廂ひさしを這はひ、烏瓜からすうりの花はなほの/″\と東家とうかの垣かきに霧きりを吐はきぬ。強しひて我われ句くを求もとむるにはあらず、藪やぶには鶯うぐひすの音ねを入いるゝ時ときぞ。
 日ひは茂しげれる中なかより暮くれ初そめて、小暗をぐらきわたり蚊柱かばしらは家いへなき處ところに立たてり。袂たもとすゞしき深ふかみどりの樹蔭こかげを行ゆく身みには、あはれ小ちひさきものども打うち群むれてもの言いひかはすわと、それも風情ふぜいかな。分わけて見詰みつむるばかり、現うつゝに見みゆるまで美うつくしきは紫陽花あぢさゐなり。其その淺葱あさぎなる、淺あさみどりなる、薄うすき濃こき紫むらさきなる、中なかには紅くれなゐ淡あはき紅べにつけたる、額がくといふとぞ。夏なつは然さることながら此この邊あたり分わけて多おほし。明あかるきより暗くらきに入いる處ところ、暗くらきより明あかるきに出いづる處ところ、石いしに添そひ、竹たけに添そひ、籬まがきに立たち、戸とに彳たゝずみ、馬蘭ばらんの中なかの、古井ふるゐの傍わきに、紫むらさきの俤おもかげなきはあらず。寂じやくたる森もりの中なか深ふかく、もう/\と牛うしの聲こゑして、沼ぬまとも覺おぼしき泥どろの中なかに、埒らちもこはれ/″\牛うし養やしなへる庭にはにさへ紫陽花あぢさゐの花はな盛さかりなり。
此時このとき、白襟しろえりの衣紋えもん正たゞしく、濃こいお納戸なんどの單衣ひとへ着きて、紺地こんぢの帶おび胸むな高たかう、高島田たかしまだの品ひんよきに、銀ぎんの平打ひらうちの笄かうがいのみ、唯たゞ黒髮くろかみの中なかに淡あはくかざしたるが、手車てぐるまと見みえたり、小豆色あづきいろの膝ひざかけして、屈竟くつきやうなる壯佼わかもの具ぐしたるが、車くるまの輪わも緩ゆるやかに、彼かの蜘蛛手くもでの森もりの下道したみちを、訪とふ人ひとの家いへを尋たづね惱なやみつと覺おぼしく、此處こゝ彼處かしこ、紫陽花あぢさゐ咲さけりと見みる處ところ、必かならず、一時ひとときばかりの間あひだに六度むたび七度なゝたび出いであひぬ。實げに我われも其日そのひはじめて訪とひ到いたれる友ともの家いへを尋たづねあぐみしなりけり。
 玉簾たますだれの中なかもれ出いでたらんばかりの女をんなの俤おもかげ、顏かほの色いろ白しろきも衣きぬの好このみも、紫陽花あぢさゐの色いろに照てり榮はえつ。蹴込けこみの敷毛しきげ燃立もえたつばかり、ひら/\と夕風ゆふかぜに倘徉さまよへる状さまよ、何處いづこ、いづこ、夕顏ゆふがほの宿やどやおとなふらん。
 笛ふえの音ねも聞きこえずや、あはれ此このあたりに若わかき詩人しじんや住すめる、うつくしき學士がくしやあると、折をりからの森もりの星ほしのゆかしかりしを、今いまも忘わすれず。さればゆかしさに、敢あへて岡燒をかやきをせずして記きをつくる。

泉镜花(いずみ きょうか,Izumi Kyouka,1873年11月4日—1939年9月7日),日本小说家。原名镜太郎。主要作品有《夜间巡警》《外科室》《妇系图》《歌行灯》等。1873年,出生于金泽市下新町二十三番地,从小受到传统艺术的熏陶,曾在教会学校北陆英和学校受教育。青年时期由于爱好文学,拜在作家尾崎红叶门下。1893年,发表处女作《冠弥左卫门》。1895年,发表《夜间巡警》和《外科室》,受到好评,被视为“观念小说”的代表作。小说《妇系图》(1907)、《歌行灯》(1910),是他的代表性作品。1909年,参加后藤宙外等人组织的文艺革新会,标榜反自然主义文学。大正年代发表了《天守物语》、《棠棣花》和《战国新茶渍》等剧本,被称为唯美主义戏剧的杰作。他以追求美的观念和浪漫主义丰富了日本文学。1937年,成为帝国艺术院院士。在1939年7月发表了绝笔之作《缕红新草》,9月即去世,终年六十六岁。


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