曹操
政治・軍事
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術はドブガイを食料としていたという。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る。このような状況を打開するために建安元年(196年)に棗祗・韓浩の建議により屯田が行われた。
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた。
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である。兵戸制は呉や蜀でも行われ、南北朝時代まで続いた。
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という人頭税の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ。
唯才主義
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは前述したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの戯志才・郭嘉は素行が悪く、郭嘉は同僚の陳羣から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった。またかつて曹操が孝廉に挙げた魏种(中国語版)が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた陳琳が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る。
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。孔融は孔子20世の子孫と言い、建安七子の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された。孔融と仲の良かった人物に禰衡がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と楊修だけを認めた。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる。
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである。
しかし罪のない華陀や崔琰を殺したことには後世の批判が集まるところである。
文化
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった。曹操・曹丕・曹植の三人を合わせて「三曹」と呼び、建安文学の中心的存在とされる。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を建安七子と呼ぶ。曹操の詩は全て五言・四言の楽府である。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある。代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が代表作である。
詩以外にも文章・音楽に通じ、『孫子』に注釈を付けている(『魏武注孫子』)。
身体的特徴
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。同時代の劉備は七尺五寸・諸葛亮が八尺あったという(当時の尺は24cm余り)。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに崔琰を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く。
曹操(155年-220年3月15日),字孟德,一名吉利,小字阿瞒,一说本姓夏侯,沛国谯县(今安徽省亳州市)人。中国古代杰出的政治家、军事家、文学家、书法家,中国东汉末年的权臣,亦是曹魏政权的奠基者。太尉曹嵩之子。
曹操少年间任侠放荡,到二十岁时举孝廉为郎,授洛阳北部尉。后任骑都尉,参与镇压黄巾军,调济南相。董卓擅政时,散尽家财,起兵讨董卓。初平三年(192年),据兖州,分化诱降黄巾军三十余万,选取其中精锐组建青州军。建安元年(196年),迎汉献帝至许县,从此用献帝名义发号施令,总揽朝政。在此前后相继击败袁术、陶谦、吕布等势力。建安五年(200年),在官渡之战中大败割据河北的袁绍,随后削平袁尚、袁谭,北击乌桓,统一北方。建安十三年(208年)进位丞相。同年率军南征,收服荆州,但在赤壁之战中败于孙刘联军。建安二十年(215年),取汉中,次年(216年)自魏公进爵魏王。建安二十五年(220年),曹操病死于洛阳,享年六十六岁。曹魏建立后,被追尊为太祖,谥号武皇帝,葬于高陵。
曹操用人唯才,抑制豪强,加强集权;在北方屯田,兴修水利。他的诸种举措使统治地区的社会经济得到一定的恢复和发展。对于曹操的功业及其为人,后世评论之多,分歧之大,可谓世所罕见。此外,他知兵法,工书法,擅诗歌。其诗多抒发政治抱负,反映汉末人民的苦难生活,气魄雄伟,慷慨悲凉,开建安文学之风。著有《魏武帝集》,已佚失。今人辑有《曹操集》。
政治・軍事
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術はドブガイを食料としていたという。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る。このような状況を打開するために建安元年(196年)に棗祗・韓浩の建議により屯田が行われた。
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた。
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である。兵戸制は呉や蜀でも行われ、南北朝時代まで続いた。
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という人頭税の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ。
唯才主義
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは前述したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの戯志才・郭嘉は素行が悪く、郭嘉は同僚の陳羣から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった。またかつて曹操が孝廉に挙げた魏种(中国語版)が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた陳琳が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る。
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。孔融は孔子20世の子孫と言い、建安七子の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された。孔融と仲の良かった人物に禰衡がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と楊修だけを認めた。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる。
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである。
しかし罪のない華陀や崔琰を殺したことには後世の批判が集まるところである。
文化
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった。曹操・曹丕・曹植の三人を合わせて「三曹」と呼び、建安文学の中心的存在とされる。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を建安七子と呼ぶ。曹操の詩は全て五言・四言の楽府である。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある。代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が代表作である。
詩以外にも文章・音楽に通じ、『孫子』に注釈を付けている(『魏武注孫子』)。
身体的特徴
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。同時代の劉備は七尺五寸・諸葛亮が八尺あったという(当時の尺は24cm余り)。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに崔琰を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く。
曹操(155年-220年3月15日),字孟德,一名吉利,小字阿瞒,一说本姓夏侯,沛国谯县(今安徽省亳州市)人。中国古代杰出的政治家、军事家、文学家、书法家,中国东汉末年的权臣,亦是曹魏政权的奠基者。太尉曹嵩之子。
曹操少年间任侠放荡,到二十岁时举孝廉为郎,授洛阳北部尉。后任骑都尉,参与镇压黄巾军,调济南相。董卓擅政时,散尽家财,起兵讨董卓。初平三年(192年),据兖州,分化诱降黄巾军三十余万,选取其中精锐组建青州军。建安元年(196年),迎汉献帝至许县,从此用献帝名义发号施令,总揽朝政。在此前后相继击败袁术、陶谦、吕布等势力。建安五年(200年),在官渡之战中大败割据河北的袁绍,随后削平袁尚、袁谭,北击乌桓,统一北方。建安十三年(208年)进位丞相。同年率军南征,收服荆州,但在赤壁之战中败于孙刘联军。建安二十年(215年),取汉中,次年(216年)自魏公进爵魏王。建安二十五年(220年),曹操病死于洛阳,享年六十六岁。曹魏建立后,被追尊为太祖,谥号武皇帝,葬于高陵。
曹操用人唯才,抑制豪强,加强集权;在北方屯田,兴修水利。他的诸种举措使统治地区的社会经济得到一定的恢复和发展。对于曹操的功业及其为人,后世评论之多,分歧之大,可谓世所罕见。此外,他知兵法,工书法,擅诗歌。其诗多抒发政治抱负,反映汉末人民的苦难生活,气魄雄伟,慷慨悲凉,开建安文学之风。著有《魏武帝集》,已佚失。今人辑有《曹操集》。
火鉢
夏目漱石
眼が覚さめたら、昨夜ゆうべ抱だいて寝た懐炉かいろが腹の上で冷たくなっていた。硝子戸越ガラスどごしに、廂ひさしの外を眺めると、重い空が幅三尺ほど鉛なまりのように見えた。胃の痛みはだいぶ除とれたらしい。思い切って、床の上に起き上がると、予想よりも寒い。窓の下には昨日きのうの雪がそのままである。
風呂場は氷でかちかち光っている。水道は凍こおり着ついて、栓せんが利きかない。ようやくの事で温水摩擦おんすいまさつを済まして、茶の間で紅茶を茶碗ちゃわんに移していると、二つになる男の子が例の通り泣き出した。この子は一昨日おとといも一日泣いていた。昨日も泣き続けに泣いた。妻さいにどうかしたのかと聞くと、どうもしたのじゃない、寒いからだと云う。仕方がない。なるほど泣き方がぐずぐずで痛くも苦しくもないようである。けれども泣くくらいだから、どこか不安な所があるのだろう。聞いていると、しまいにはこっちが不安になって来る。時によると小悪こにくらしくなる。大きな声で叱しかりつけたい事もあるが、何しろ、叱るにはあまり小さ過ぎると思って、つい我慢をする。一昨日も昨日もそうであったが、今日もまた一日そうなのかと思うと、朝から心持が好くない。胃が悪いのでこの頃は朝飯あさめしを食わぬ掟おきてにしてあるから、紅茶茶碗を持ったまま、書斎へ退しりぞいた。
火鉢ひばちに手を翳して、少し暖あったまっていると、子供は向うの方でまだ泣いている。そのうち掌てのひらだけは煙けむが出るほど熱くなった。けれども、背中から肩へかけてはむやみに寒い。ことに足の先は冷え切って痛いくらいである。だから仕方なしにじっとしていた。少しでも手を動かすと、手がどこか冷たい所に触れる。それが刺とげにでも触さわったほど神経に応こたえる。首をぐるりと回してさえ、頸くびの付根が着物の襟えりにひやりと滑すべるのが堪たえがたい感じである。自分は寒さの圧迫を四方から受けて、十畳の書斎の真中に竦すくんでいた。この書斎は板の間である。椅子を用いべきところを、絨氎じゅうたんを敷いて、普通の畳たたみのごとくに想像して坐っている。ところが敷物が狭いので、四方とも二尺がたは、つるつるした板の間が剥むき出だしに光っている。じっとしてこの板の間を眺めて、竦すくんでいると、男の子がまだ泣いている。とても仕事をする勇気が出なない。
ところへ妻さいがちょっと時計を拝借と這入はいって来て、また雪になりましたと云う。見ると、細こまかいのがいつの間にか、降り出した。風もない濁った空の途中から、静かに、急がずに、冷刻に、落ちて来る。
「おい、去年、子供の病気で、煖炉ストーブを焚たいた時には炭代がいくら要いったかな」
「あの時は月末つきずえに廿八円払いました」
自分は妻の答を聞いて、座敷ざしき煖炉を断念した。座敷煖炉は裏の物置に転ころがっているのである。
「おい、もう少し子供を静かにできないかな」
妻はやむをえないと云うような顔をした。そうして、云った。
「お政まささんが御腹おなかが痛いって、だいぶ苦しそうですから、林さんでも頼んで見て貰いましょうか」
お政さんが二三日寝ている事は知っていたがそれほど悪いとは思わなかった。早く医者を呼んだらよかろうと、こっちから促うながすように注意すると、妻はそうしましょうと答えて、時計を持ったまま出て行った。襖ふすまを閉たてるとき、どうもこの部屋の寒い事と云った。
まだ、かじかんで仕事をする気にならない。実を云うと仕事は山ほどある。自分の原稿を一回分書かなければならない。ある未知の青年から頼まれた短篇小説を二三篇読んでおく義務がある。ある雑誌へ、ある人の作さくを手紙を付けて紹介する約束がある。この二三箇月中に読むはずで読めなかった書籍は机の横に堆うずたかく積んである。この一週間ほどは仕事をしようと思って机に向うと人が来る。そうして、皆何か相談を持ち込んでくる。その上に胃が痛む。その点から云うと今日は幸いである。けれども、どう考えても、寒くて億劫おっくうで、火鉢ひばちから手を離す事ができない。
すると玄関に車を横付けにしたものがある。下女が来て長沢さんがおいでになりましたと云う。自分は火鉢の傍そばに竦んだまま、上眼遣うわめづかいをして、這入はいって来る長沢を見上げながら、寒くて動けないよと云った。長沢は懐中ふところから手紙を出して、この十五日は旧の正月だから、是非都合してくれとか何とか云う手紙を読んだ。相変らず金の相談である。長沢は十二時過に帰った。けれども、まだ寒くてしようがない。いっそ湯にでも行って、元気をつけようと思って、手拭てぬぐいを提さげて玄関へ出かかると、御免下ごめんくださいと云う吉田に出っ食わした。座敷へ上げて、いろいろ身の上話を聞いていると、吉田はほろほろ涙を流して泣き出した。そのうち奥の方では医者が来て何だかごたごたしている。吉田がようやく帰ると、子供がまた泣き出した。とうとう湯に行った。
湯から上ったら始めて暖あったかになった。晴々せいせいして、家うちへ帰って書斎に這入ると、洋灯ランプが点ついて窓掛まどかけが下りている。火鉢には新しい切炭きりずみが活いけてある。自分は座布団ざぶとんの上にどっかりと坐った。すると、妻が奥から寒いでしょうと云って蕎麦湯そばゆを持って来てくれた。お政さんの容体ようだいを聞くと、ことによると盲腸炎になるかも知れないんだそうですよと云う。自分は蕎麦湯を手に受けて、もし悪いようだったら、病院に入れてやるがいいと答えた。妻はそれがいいでしょうと茶の間へ引き取った。
妻さいが出て行ったらあとが急に静かになった。全くの雪の夜よである。泣く子は幸いに寝たらしい。熱い蕎麦湯そばゆを啜すすりながら、あかるい洋灯ランプの下で、継つぎ立ての切炭きりずみのぱちぱち鳴る音に耳を傾けていると、赤い火気かっきが、囲われた灰の中で仄ほのかに揺れている。時々薄青い焔ほのおが炭の股またから出る。自分はこの火の色に、始めて一日の暖味あたたかみを覚えた。そうしてしだいに白くなる灰の表を五分ほど見守っていた。
夏目漱石
眼が覚さめたら、昨夜ゆうべ抱だいて寝た懐炉かいろが腹の上で冷たくなっていた。硝子戸越ガラスどごしに、廂ひさしの外を眺めると、重い空が幅三尺ほど鉛なまりのように見えた。胃の痛みはだいぶ除とれたらしい。思い切って、床の上に起き上がると、予想よりも寒い。窓の下には昨日きのうの雪がそのままである。
風呂場は氷でかちかち光っている。水道は凍こおり着ついて、栓せんが利きかない。ようやくの事で温水摩擦おんすいまさつを済まして、茶の間で紅茶を茶碗ちゃわんに移していると、二つになる男の子が例の通り泣き出した。この子は一昨日おとといも一日泣いていた。昨日も泣き続けに泣いた。妻さいにどうかしたのかと聞くと、どうもしたのじゃない、寒いからだと云う。仕方がない。なるほど泣き方がぐずぐずで痛くも苦しくもないようである。けれども泣くくらいだから、どこか不安な所があるのだろう。聞いていると、しまいにはこっちが不安になって来る。時によると小悪こにくらしくなる。大きな声で叱しかりつけたい事もあるが、何しろ、叱るにはあまり小さ過ぎると思って、つい我慢をする。一昨日も昨日もそうであったが、今日もまた一日そうなのかと思うと、朝から心持が好くない。胃が悪いのでこの頃は朝飯あさめしを食わぬ掟おきてにしてあるから、紅茶茶碗を持ったまま、書斎へ退しりぞいた。
火鉢ひばちに手を翳して、少し暖あったまっていると、子供は向うの方でまだ泣いている。そのうち掌てのひらだけは煙けむが出るほど熱くなった。けれども、背中から肩へかけてはむやみに寒い。ことに足の先は冷え切って痛いくらいである。だから仕方なしにじっとしていた。少しでも手を動かすと、手がどこか冷たい所に触れる。それが刺とげにでも触さわったほど神経に応こたえる。首をぐるりと回してさえ、頸くびの付根が着物の襟えりにひやりと滑すべるのが堪たえがたい感じである。自分は寒さの圧迫を四方から受けて、十畳の書斎の真中に竦すくんでいた。この書斎は板の間である。椅子を用いべきところを、絨氎じゅうたんを敷いて、普通の畳たたみのごとくに想像して坐っている。ところが敷物が狭いので、四方とも二尺がたは、つるつるした板の間が剥むき出だしに光っている。じっとしてこの板の間を眺めて、竦すくんでいると、男の子がまだ泣いている。とても仕事をする勇気が出なない。
ところへ妻さいがちょっと時計を拝借と這入はいって来て、また雪になりましたと云う。見ると、細こまかいのがいつの間にか、降り出した。風もない濁った空の途中から、静かに、急がずに、冷刻に、落ちて来る。
「おい、去年、子供の病気で、煖炉ストーブを焚たいた時には炭代がいくら要いったかな」
「あの時は月末つきずえに廿八円払いました」
自分は妻の答を聞いて、座敷ざしき煖炉を断念した。座敷煖炉は裏の物置に転ころがっているのである。
「おい、もう少し子供を静かにできないかな」
妻はやむをえないと云うような顔をした。そうして、云った。
「お政まささんが御腹おなかが痛いって、だいぶ苦しそうですから、林さんでも頼んで見て貰いましょうか」
お政さんが二三日寝ている事は知っていたがそれほど悪いとは思わなかった。早く医者を呼んだらよかろうと、こっちから促うながすように注意すると、妻はそうしましょうと答えて、時計を持ったまま出て行った。襖ふすまを閉たてるとき、どうもこの部屋の寒い事と云った。
まだ、かじかんで仕事をする気にならない。実を云うと仕事は山ほどある。自分の原稿を一回分書かなければならない。ある未知の青年から頼まれた短篇小説を二三篇読んでおく義務がある。ある雑誌へ、ある人の作さくを手紙を付けて紹介する約束がある。この二三箇月中に読むはずで読めなかった書籍は机の横に堆うずたかく積んである。この一週間ほどは仕事をしようと思って机に向うと人が来る。そうして、皆何か相談を持ち込んでくる。その上に胃が痛む。その点から云うと今日は幸いである。けれども、どう考えても、寒くて億劫おっくうで、火鉢ひばちから手を離す事ができない。
すると玄関に車を横付けにしたものがある。下女が来て長沢さんがおいでになりましたと云う。自分は火鉢の傍そばに竦んだまま、上眼遣うわめづかいをして、這入はいって来る長沢を見上げながら、寒くて動けないよと云った。長沢は懐中ふところから手紙を出して、この十五日は旧の正月だから、是非都合してくれとか何とか云う手紙を読んだ。相変らず金の相談である。長沢は十二時過に帰った。けれども、まだ寒くてしようがない。いっそ湯にでも行って、元気をつけようと思って、手拭てぬぐいを提さげて玄関へ出かかると、御免下ごめんくださいと云う吉田に出っ食わした。座敷へ上げて、いろいろ身の上話を聞いていると、吉田はほろほろ涙を流して泣き出した。そのうち奥の方では医者が来て何だかごたごたしている。吉田がようやく帰ると、子供がまた泣き出した。とうとう湯に行った。
湯から上ったら始めて暖あったかになった。晴々せいせいして、家うちへ帰って書斎に這入ると、洋灯ランプが点ついて窓掛まどかけが下りている。火鉢には新しい切炭きりずみが活いけてある。自分は座布団ざぶとんの上にどっかりと坐った。すると、妻が奥から寒いでしょうと云って蕎麦湯そばゆを持って来てくれた。お政さんの容体ようだいを聞くと、ことによると盲腸炎になるかも知れないんだそうですよと云う。自分は蕎麦湯を手に受けて、もし悪いようだったら、病院に入れてやるがいいと答えた。妻はそれがいいでしょうと茶の間へ引き取った。
妻さいが出て行ったらあとが急に静かになった。全くの雪の夜よである。泣く子は幸いに寝たらしい。熱い蕎麦湯そばゆを啜すすりながら、あかるい洋灯ランプの下で、継つぎ立ての切炭きりずみのぱちぱち鳴る音に耳を傾けていると、赤い火気かっきが、囲われた灰の中で仄ほのかに揺れている。時々薄青い焔ほのおが炭の股またから出る。自分はこの火の色に、始めて一日の暖味あたたかみを覚えた。そうしてしだいに白くなる灰の表を五分ほど見守っていた。
#青山刚昌[超话]# #名侦探柯南# #名侦探柯南百万美元的五棱星#
轉MOVIE WALKER PRESS
《名偵探柯南:百萬美元的五稜星》以確定超越前作的勢頭,在黃金週節慶期間大勝!能否打破“詛咒的五月”?
截至5月3日,即上映第22天,電影《100萬美元的五稜星》成功在比去年同期的《名偵探柯南:黑鐵的魚影》(第23部)提早2天突破百億日圓票房的大關。僅在週末三天就吸引了113萬觀眾,票房達到16億2700萬日圓,比上週同期增長了驚人的120%,動員和票房都實現了驚人的跳躍。
截至5月6日,即黃金週的最後一天,累計觀影人數達到845萬3000人,票房達到120億9900萬日圓,已經超越了日本歷史票房排行榜上的《風立ちぬ》(第13部),上升至第31位。目前的焦點已經集中在三個方面:“何時超越前作”,“是否能超過1000萬觀眾”,以及“最終票房將達到多少”。
但是,現在必須克服的一道障礙是一個不可避免的魔咒,即每年的GW結束後都會遭遇大幅失速的情況。去年的《黑鐵的魚影》在GW過後的第一個週末,觀眾動員和票房分別下降了39.6%和42%,之後持續緩慢下滑。根據最終成績逆算,《黑鐵的魚影》GW後的增量是動員250萬人、票房35億日圓。而前一部作品《名偵探柯南:萬聖節的新娘》的增量則是動員199萬人、票房28億8000萬日圓。儘管在票房方面表現出了比普通的熱門作品更高的收益,但在“勢頭”方面,它仍然難免會趨於平穩。
事實上,自2010年以來,僅有《名偵探柯南:絶海的偵探》(第13部)和《名偵探柯南:零的執行人》(第18部)兩部作品在GW後的週末觀影排行榜上獲得了第一名。在整體水準明顯下降的時候,常見的情況是穩定的大型外國電影作品逆轉排名,或者是新作特意避開GW期間的情況下取得冠軍位置。然而,今年面對的情況是,除了一年一度的獨奏之外,幾乎沒有潛在的競爭對手。因此,今年成功度過這個“詛咒的五月”的可能性相當高。超過1000萬觀眾的動員也很可能輕而易舉地實現。
以下為、1~10位排名(5月3日〜5月5日)
1位『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』
2位『ゴジラxコング 新たなる帝国』
3位『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』
4位『劇場版ブルーロック -EPISODE 凪-』
5位『変な家』
6位『陰陽師0』
7位『青春18×2 君へと続く道』
8位『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』
9位『オッペンハイマー』
10位『バジーノイズ』
文/久保田 和馬
轉MOVIE WALKER PRESS
《名偵探柯南:百萬美元的五稜星》以確定超越前作的勢頭,在黃金週節慶期間大勝!能否打破“詛咒的五月”?
截至5月3日,即上映第22天,電影《100萬美元的五稜星》成功在比去年同期的《名偵探柯南:黑鐵的魚影》(第23部)提早2天突破百億日圓票房的大關。僅在週末三天就吸引了113萬觀眾,票房達到16億2700萬日圓,比上週同期增長了驚人的120%,動員和票房都實現了驚人的跳躍。
截至5月6日,即黃金週的最後一天,累計觀影人數達到845萬3000人,票房達到120億9900萬日圓,已經超越了日本歷史票房排行榜上的《風立ちぬ》(第13部),上升至第31位。目前的焦點已經集中在三個方面:“何時超越前作”,“是否能超過1000萬觀眾”,以及“最終票房將達到多少”。
但是,現在必須克服的一道障礙是一個不可避免的魔咒,即每年的GW結束後都會遭遇大幅失速的情況。去年的《黑鐵的魚影》在GW過後的第一個週末,觀眾動員和票房分別下降了39.6%和42%,之後持續緩慢下滑。根據最終成績逆算,《黑鐵的魚影》GW後的增量是動員250萬人、票房35億日圓。而前一部作品《名偵探柯南:萬聖節的新娘》的增量則是動員199萬人、票房28億8000萬日圓。儘管在票房方面表現出了比普通的熱門作品更高的收益,但在“勢頭”方面,它仍然難免會趨於平穩。
事實上,自2010年以來,僅有《名偵探柯南:絶海的偵探》(第13部)和《名偵探柯南:零的執行人》(第18部)兩部作品在GW後的週末觀影排行榜上獲得了第一名。在整體水準明顯下降的時候,常見的情況是穩定的大型外國電影作品逆轉排名,或者是新作特意避開GW期間的情況下取得冠軍位置。然而,今年面對的情況是,除了一年一度的獨奏之外,幾乎沒有潛在的競爭對手。因此,今年成功度過這個“詛咒的五月”的可能性相當高。超過1000萬觀眾的動員也很可能輕而易舉地實現。
以下為、1~10位排名(5月3日〜5月5日)
1位『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』
2位『ゴジラxコング 新たなる帝国』
3位『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』
4位『劇場版ブルーロック -EPISODE 凪-』
5位『変な家』
6位『陰陽師0』
7位『青春18×2 君へと続く道』
8位『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』
9位『オッペンハイマー』
10位『バジーノイズ』
文/久保田 和馬
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