昭襄王(中)

白起八面六臂
昭襄王28年(紀元前279年)、昭襄王は白起に命じて楚を討った(鄢・郢の戦い)。白起の率いる秦軍は楚の内地に進撃し、劣勢な兵力にもかかわらず、水攻めを利用して鄢と鄧の地を取り、罪人を赦してこの地方に移った。

昭襄王29年(紀元前278年)、白起は楚の首都郢を占領し、楚の先王の陵墓がある夷陵を焼き払った後、竟陵まで至った。鄢・郢の地には南郡が設置され、秦の版図とした。楚の頃襄王は秦軍の攻勢を避けて陳へ逃亡した。この功で、白起は武安君に封じられた。また、昭襄王30年(紀元前277年)には蜀郡郡守の張若に命じて楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。

南方の大国であった楚は大きく版図を秦に奪われることとなった。

昭襄王31年(紀元前276年)、白起を楚に続いて魏の討伐に命じる。魏の2城を取るなど魏討伐でも活躍した。

昭襄王32年(紀元前275年)、魏冄にも魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。余勢を駆って、翌昭襄王33年(紀元前274年)には客卿の公孫胡昜にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。

昭襄王34年(紀元前273年)、魏将芒卯の軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。戦国七雄の一国に数えられた魏は大きく衰退した。

この年、秦に従わない趙を白起に命じて討った。白起は趙将賈偃と戦い、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ、白起に命じて本格的な楚討伐に乗り出そうとした。
秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。

昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。

昭襄王36年(紀元前271年)、昭襄王は客卿の竈に命じて斉を討った。斉の剛・寿の地を取り、これを魏冄に与えた。魏冄の封地は拡大を続け、王族を凌ぐほどとなった。ここに魏冄の栄華は極まった。

范雎登用
魏冄は自分の権力が失墜するのを恐れ、遊説者が入国することを嫌っていた。昭襄王の謁者であった王稽は魏で范雎と会い、その賢を見抜き、秦に連れて来ていた。王稽は昭襄王に范雎を何度か推挙したが、登用されなかった。

昭襄王36年(紀元前271年)、斉を攻めたが、これは魏冄が自身の封邑であった陶の領地を広めるためであった。この際に范雎は上書し、「明君の政治では、功労ある者は必ず褒賞され、能力のある者は必ず登用されるといいます。私が用いられないのは、私が愚鈍なため、王の心にふれて訴えるものがないためでしょうか。まさか私を推す者が賤しいために用いないということではありますまい」と言った。

これを聞いた昭襄王は大いに喜び、登用しなかったことを王稽に詫び、范雎を召した。范雎を召した際の王の出御で、宦官が「王のお出まし」と言った。范雎は、「秦には国王などいるはずがない。秦にその人ありと聞くのは、ただ太后と穣侯だけだ」と言った。昭襄王はこれを聞き、范雎を迎え入れまず詫び、「私は早くから先生の教えを乞おうと思っていた。謹んで主客対等の礼をもってお話を賜りたい」と言った。しかし范雎はこれを辞退し、群臣が去った後に親しく会話した。そこで昭襄王は范雎を拝して客卿とし、兵事を相談した。これ以降昭襄王は范雎を日一日と親しみ、以降、その進言が採用されるようになった。

昭襄王38年(紀元前269年)、秦に従わない趙を公孫胡昜に命じて討った(閼与の戦い)。

昭襄王40年(紀元前267年)、長子の悼太子が人質に出していた魏で薨去。
宰相范雎
昭襄王42年(紀元前265年)、范雎は言上して「かつて夏・殷・西周の三代が滅んだ理由は、君主が政治を臣下に任せきりであったためでした。今、秦では諸大史や王の左右近侍に至るまで、すべて穣侯の徒党でない者はなく、王ひとりが孤立しています。私はひそかに王のためにこれを恐れています」と言った。

これを聞いた昭襄王は大いに恐れ、宣太后を廃し、魏冄の宰相職を免じた。また、魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した。范雎は宰相となり、食邑の応に封じられ、応侯と号した。

2年前に亡くなった悼太子の代わりに安国君こと公子柱(後の孝文王)を太子に指名した。

昭襄王43年(紀元前264年)、秦に従わない韓を白起に命じて討った(陘城の戦い)。同年、楚の頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた楚の太子完は帰国を願い出た。昭襄王は、「まず太子の傅(教育係)である春申君を遣わし、病気を見舞わせた上で取り計らおう」と答えた。

春申君は一計を案じ、太子完に「楚王は病のため、おそらくは再起できないと思われます。太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなるでしょう。使者と一緒に秦を抜け出されるのが上策と思います。私は踏みとどまって、死を賭して事に当ります」と言った。太子完は衣服を変え、使者の御者になりすましてひそかに出国し、春申君は太子が逃げるまで病と称して外出しなかった。

春申君はしばらくしてから昭襄王に申し出て、「楚の太子は帰国しました。逃がした私の罪は死に当ります。どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎が「春申君は人臣として一身を投げ出して主君に殉じました。もし太子が位に即けば、かならず春申君を重用します。ここは罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君の帰国を許した。
長平の戦い
昭襄王44年(紀元前263年)、昭襄王は白起に命じて韓を討たせた。野王を降服させ、昭襄王46年(紀元前261年)には韓の緱氏・藺を落とすなど華々しい戦果を挙げた。

昭襄王47年(紀元前260年)、昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平に駐屯した。4月、王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍が名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁を築いて守った。秦軍はそれを攻めたが廉頗はますます塁壁を高くして守り、何度挑発しても応じなかった。

范雎は一計を案じ、趙の孝成王に逆宣伝させ廉頗を更迭させた。趙は廉頗を更迭し、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。

趙括は着任すると、すぐに兵を進め秦軍を討った。白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して、糧道を絶たれた。

昭襄王は戦果を聞くと、みずから河内の地に出かけて、民にそれぞれ爵一級に任じやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じ打開を図ったが、秦はこれを射て趙括を殺した。趙軍40万は白起に降服したが、白起は「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と考えた。既に秦軍の兵糧も乏しく、大量の捕虜を養うだけの量がなかったことも白起に叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し、40万の士卒を穴埋めにして殺した。

後に長平の戦いと呼ばれるこの戦役で、趙の国力は大きく傾いた。

范雎重用
昭襄王は范雎をますます重用した。かつて魏の宰相の魏斉によって瀕死の目に遭わされた范雎の仇を報いてやろうと思い、趙の平原君を秦に招きいれて、以前に范雎から脅迫され趙に亡命していた魏斉を渡すよう脅迫した。しかし魏斉はすでに平原君のもとにいなかったので、 趙の孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、趙の宰相である虞卿に救いを求めた。

虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、魏の信陵君を頼った。信陵君は秦を恐れたため、受け入れるかどうか悩んだが、食客の侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし、魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んだ。孝成王はその首を探し出し持たせたので、昭襄王は平原君を趙に帰した。
白起自刎
昭襄王48年(紀元前259年)10月、昭襄王は白起に命じ再び上党を平定させた。白起は軍を二手にわけ、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。しかし白起の功績が大きくなるのを恐れた范雎が、「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言した。昭襄王はこれを聴き入れ、韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。講和の命令を白起は聞き、范雎との間に溝が生じるようになった。

昭襄王49年(紀元前258年)、昭襄王は五大夫王陵に命じて趙を討ち、邯鄲を攻めさせたが落ちなかった(邯鄲の戦い(中国語版))。この時、趙の人質だった子楚と政親子が趙に殺されそうになるが、呂不韋により救われている。昭襄王は王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが、白起は断った。昭襄王みずから命令したが、白起は引き受けず、さらに范雎が懇請しても、最後まで辞退し、ついに病気と称してしまった。

昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は援軍を送ったが勝てず、王陵を更迭し王齕に代わらせた。それでも邯鄲は落ちず、多大の損害を受けた。白起は、「秦は私の言うことを聴かなかった。今にしてどう思うか」と言った。これを聞いた昭襄王は大いに怒り、白起を罷免して士卒に落とし、陰密の地へ移した。翌紀元前256年11月、昭襄王は范雎や群臣と論議し「白起が陰密へ移る時、不平不満があって承服せず恨みがましいところがあった」として白起の爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じた。白起は自刎し果てた。同時に司馬錯の孫で長平の戦いで白起の副将を務めた司馬靳にも自害を命じている。

秦の統一への道は、常勝将軍白起を失い大きく頓挫することとなった。


夏目漱石

 二階の手摺てすりに湯上りの手拭てぬぐいを懸かけて、日の目の多い春の町を見下みおろすと、頭巾ずきんを被かむって、白い髭ひげを疎まばらに生はやした下駄げたの歯入が垣の外を通る。古い鼓つづみを天秤棒てんびんぼうに括くくりつけて、竹のへらでかんかんと敲たたくのだが、その音は頭の中でふと思い出した記憶のように、鋭いくせに、どこか気が抜けている。爺さんが筋向すじむこうの医者の門の傍わきへ来て、例の冴さえ損そこなった春の鼓つづみをかんと打つと、頭の上に真白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。歯入は気がつかずに、青い竹垣をなぞえに向むこうの方へ廻り込んで見えなくなった。鳥は一摶ひとはばたきに手摺の下まで飛んで来た。しばらくは柘榴ざくろの細枝に留とまっていたが、落ちつかぬと見えて、二三度身みぶりを易かえる拍子ひょうしに、ふと欄干らんかんに倚よりかかっている自分の方を見上げるや否や、ぱっと立った。枝の上が煙けむるごとくに動いたと思ったら、小鳥はもう奇麗きれいな足で手摺の桟さんを踏ふまえている。
まだ見た事のない鳥だから、名前を知ろうはずはないが、その色合が著いちじるしく自分の心を動かした。鶯うぐいすに似て少し渋味しぶみの勝った翼つばさに、胸は燻くすんだ、煉瓦れんがの色に似て、吹けば飛びそうに、ふわついている。その辺あたりには柔やわらかな波を時々打たして、じっとおとなしくしている。怖おどすのは罪だと思って、自分もしばらく、手摺に倚ったまま、指一本も動かさずに辛抱していたが、存外鳥の方は平気なようなので、やがて思い切って、そっと身を後うしろへ引いた。同時に鳥はひらりと手摺の上に飛び上がって、すぐと眼の前に来た。自分と鳥の間はわずか一尺ほどに過ぎない。自分は半なかば無意識に右手めてを美しい鳥の方に出した。鳥は柔やわらかな翼つばさと、華奢きゃしゃな足と、漣さざなみの打つ胸のすべてを挙あげて、その運命を自分に託するもののごとく、向うからわが手の中うちに、安らかに飛び移った。自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。しかしこの鳥は……の後あとはどうしても思い出せなかった。ただ心の底の方にその後あとが潜ひそんでいて、総体を薄く暈ぼかすように見えた。この心の底一面に煮染にじんだものを、ある不可思議の力で、一所ひとところに集めて判然はっきりと熟視したら、その形は、――やっぱりこの時、この場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思う。自分は直ただちに籠かごの中に鳥を入れて、春の日影の傾かたむくまで眺めていた。そうしてこの鳥はどんな心持で自分を見ているだろうかと考えた。
やがて散歩に出た。欣々然きんきんぜんとして、あてもないのに、町の数をいくつも通り越して、賑にぎやかな往来おうらいを行ける所まで行ったら、往来は右へ折れたり左へ曲ったりして、知らない人の後あとから、知らない人がいくらでも出て来る。いくら歩いても賑にぎやかで、陽気で、楽々しているから、自分はどこの点で世界と接触して、その接触するところに一種の窮屈を感ずるのか、ほとんど想像も及ばない。知らない人に幾千人となく出逢であうのは嬉うれしいが、ただ嬉しいだけで、その嬉しい人の眼つきも鼻つきもとんと頭に映らなかった。するとどこかで、宝鈴ほうれいが落ちて廂瓦ひさしがわらに当るような音がしたので、はっと思って向うを見ると、五六間先の小路こうじの入口に一人の女が立っていた。何を着ていたか、どんな髷まげに結ゆっていたか、ほとんど分らなかった。ただ眼に映ったのはその顔である。その顔は、眼と云い、口と云い、鼻と云って、離れ離れに叙述する事のむずかしい――否、眼と口と鼻と眉まゆと額といっしょになって、たった一つ自分のために作り上げられた顔である。百年の昔からここに立って、眼も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。百年の後のちまで自分を従えてどこまでも行く顔である。黙って物を云う顔である。女は黙って後うしろを向いた。追いついて見ると、小路と思ったのは露次ろじで、不断ふだんの自分なら躊躇ちゅうちょするくらいに細くて薄暗い。けれども女は黙ってその中へ這入はいって行く。黙っている。けれども自分に後を跟つけて来いと云う。自分は身を穿すぼめるようにして、露次の中に這入った。
黒い暖簾のれんがふわふわしている。白い字が染抜いてある。その次には頭を掠かすめるくらいに軒灯が出ていた。真中に三階松さんがいまつが書いて下に本もととあった。その次には硝子ガラスの箱に軽焼かるやきの霰あられが詰っていた。その次には軒の下に、更紗さらさの小片こぎれを五つ六つ四角な枠わくの中に並べたのが懸かけてあった。それから香水の瓶びんが見えた。すると露次は真黒な土蔵の壁で行き留った。女は二尺ほど前にいた。と思うと、急に自分の方をふり返った。そうして急に右へ曲った。その時自分の頭は突然先刻さっきの鳥の心持に変化した。そうして女に尾ついて、すぐ右へ曲った。右へ曲ると、前よりも長い露次が、細く薄暗く、ずっと続いている。自分は女の黙って思惟するままに、この細く薄暗く、しかもずっと続いている露次の中を鳥のようにどこまでも跟いて行った。

【敦賀気比・チーム紹介|2024春の高校野球福井県大会】

2024年4月19日 午後5時55分

 選抜大会は1回戦で大分の明豊に敗れ、東監督は「ここぞという時の一打が出ないことが今のチームの課題」。犠打や走塁なども絡めた得点力アップが勝利の鍵になる。投手陣は、エース竹下が緩急を使った投球で打者を封じる。米田、森田らの出来にも期待がかかる。

選手一覧

部長 国本  開
監督 東  哲平
投1 竹下 海斗(3)左左 上 庄
捕2 中森  昂(3)右右 高 津
一3 濵谷  輝(3)右右 近 衛
二4 西口 友翔(3)右右 都 南
三5 小久保稀世斗(3)右右西成東部
遊6 岡部飛雄馬(2)右左 安 倉
左7 余保 理仁(3)右右 八 阪
中8 野道 諒彌(3)左左 進 明
右9 嘉村幸太郎(3)右左登美ケ丘
 10森田 勝生(2)右右 田原本 
 11米田 涼平(3)右右 春 日
 12小林 拓斗(2)右右 鳴尾南
 13藤田 秀虎(3)右左 呉 羽
 14水本 大輝(3)右右 精 道
 15清水 凰雅(2)右右 太 秦
 16横井 悠人(3)左左 弥富北
 17德次 優介(3)左左 松 尾
 18杉畑 友一(2)右左 春 江
 19長谷川陽竜(1)右左  社
 20村雲 脩吾(1)右右 洛 北
 記録今井 瑛陸(3)

※左から守備位置、背番号、名前、学年、投打、出身中学。主将は西口友翔


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