ヘンリー・フォード
フォード・モーター
しかし、フォード&マルコムソンの自動車の販売は鈍く、ドッジ兄弟が最初の出荷分への支払いを要求した際に危機が訪れた。その際マルコムソンは新たな出資者を集め、ドッジ兄弟には新会社の株式の一部を渡すことで納得させた。それにより1903年6月16日、Ford & Malcomson は資本金2万8千ドルで新会社フォード・モーター・カンパニーへと再結成された。最初の出資者はフォードとマルコムソンとドッジ兄弟のほかに、マルコムソンの叔父 John S. Gray、マルコムソンの秘書 en:James CouzensJames Couzens、マルコムソンと関わりが深い2人の法律家 John W. Anderson と Horace Rackham がいた。新しく設計した車の性能を見せるため、フォードはセントクレア湖の氷上1マイルを走らせ、39.4秒の記録を出し、自動車速度の世界新記録(91.37 mph=147.05 km/h)を樹立した。バーニー・オールドフィールドはこの結果に納得し、国中でその自動車を運転して周り、アメリカ全土にフォードの名を広めた。フォードはまた、初期のインディ500も後援している。
T型フォード
T型フォードは1908年10月1日に発表された。ハンドル(ステアリング)が左にあり、間もなく他社もそれに倣った。エンジンとトランスミッションは全体がボンネットで覆われている。エンジンは4気筒が一塊で鋳造されている。サスペンションには2つの半楕円形バネを使っている。運転は非常に単純で、修理も容易かつ安価に済む。1908年の発売当時、富裕層相手の手作りの自動車が3,000ドルから4,000ドル、同クラスの他メーカーの自動車でも1000ドル近い価格であったのに対し、T型フォードは825ドルの低価格であった。その後も年々価格が下がっていき、1920年代にはアメリカ人ドライバーなら誰でもT型フォードの運転方法を学んだことがあるという状況になっていた。
フォードは新製品についての記事や広告をデトロイトのあらゆる新聞に掲載させる大々的広告展開を行った。また販売店網を確立し、北米のほとんどの都市に販売店を設けた。各販売店は独立採算のフランチャイズ方式であり、フォードの宣伝だけでなく、モータリゼーションの象徴ともなった。新米ドライバーを助けるモータークラブが各地にできた。フォードは業務用に自動車を使おうと考える農夫にも積極的に売り込んだ。売り上げは急増し、数年間は毎年100%以上の伸びを示した。常にさらなる効率化とコスト削減に努め、1913年にはベルトコンベアによるライン生産方式を導入し、生産能力が大幅に強化された。一般にフォードがその方式のアイデアを考案したとされているが、当時の資料によればその方式を考案し発展させたのは Clarence Avery、Peter E. Martin、チャールズ・E・ソレンセン(英語版)、C・ハロルド・ウィルズ(英語版)という従業員だった。ライン生産方式を採用することで、販売価格を低く抑えながらも販売数量を拡大することができ、企業利益を確保するという考え方を実現できた。この大量生産方式は他の工業生産にも応用され、20世紀の工業社会を可能にした。
1914年には販売台数が25万台を越えた。1916年には最も安価なモデルが360ドルという価格になり、販売台数は47万2千台に達した。
1918年までに、アメリカで保有される自動車の半分はT型フォードとなっていた。車体の色は黒ばかりだったが、フォードは自伝に「黒にしておけば、お客様が好きな色に塗り替えることができる」と記している。ライン生産方式を採用する以前、黒の塗料が最も乾きが早いので黒にしたという事情もある。実際、赤など他の色のT型フォードも販売されていた。T型フォードは1927年まで生産され続けた。最終的な総販売台数は15,007,034台で、1908年の登場から19年間で樹立した記録である。この記録は45年間破られなかった。
1918年、ウッドロウ・ウィルソン大統領はアメリカ合衆国上院選挙にてミシガン州で民主党から立候補するようフォードに依頼した。第一次世界大戦中だったが、フォードは平和主義を唱え、提案されていた国際連盟を強く支持した。結果、元アメリカ合衆国海軍長官で共和党から立候補したトルーマン・ニューベリに敗れた。
1918年12月、ヘンリー・フォードはフォード・モーターの社長職を息子エドセル・フォードに譲った。しかし最終決定権は保持し続け、しばしば息子の決定を覆した。そして Henry Ford and Son という新会社を設立し、フォード・モーターの重要な従業員を引き抜いた。これはフォード・モーターの他の株主を恐れさせ、株価が下がる前に株を売らせ、自身がその株を買い取ってフォード・モーターを完全に制御できるようにする企みだった。この策略はうまくいき、ヘンリーとエドセルが株式を占有して、フォード一族が会社の所有権を確保することになった。
1920年代半ばには、ライバルとなったシボレーやクライスラーが新しいデザインや多彩なカラーを導入したため、同じデザインで黒一色しかなかったT型フォードの売り上げは落ち込み始めた。息子の助言にもかかわらず、フォードはT型フォードのデザインを変更することには強く反対した。この時代には、T型フォードはいわば時代遅れとなっており、新しいデザインの車が求められたのである。また、他社がクレジットによる自動車購入プランを提供したのに対し、フォード社はクレジット販売をしなかった。エドセルは、クレジットの導入を勧めたが、ヘンリーはこれにも反対した。これは、そのような仕組みは経済に悪影響を与えるとの考えからであった。
A型フォードとその後
2月11日、フロリダ州フォートマイヤーズ)
エドセルは、新しいモデルの投入が必要であることを父に説得しつづけた。ヘンリーは、1926年になってようやくそれを了承する。こうして、1927年12月にA型フォードが登場し1931年まで販売された(T型以前に初期のA型からB、C…、R、S、そしてT型まで試作車も含め連続したモデル名を使用していた。T型の次がU型でなくA型となったのは、長期に好評でフォード社をフォード社たらしめたT型の後は心機一転、仕切りなおしでA型から、となったからである。初期のA型からT型の間には豪華すぎて販売不振だったK型や、シンプルさが受けたN型、その発展型S型などがある)。エンジンやシャーシなど技術的設計はヘンリーが指揮し、息子には外観の設計を任せた。エドセルはまた、父の反対を押し切ってスライド型シフトのトランスミッションをなんとか採用した。
A型フォードは1927年12月に登場し、1931年まで総計で400万台以上が生産された。その後はゼネラルモーターズに倣って毎年モデルチェンジするようになった。クレジット販売へのフォードの反対は1930年代まで続いたが、結局 Universal Credit Corporation という子会社を創設し、同社は主要な自動車向けクレジット会社となった。
フォードは会計士を信じておらず、世界有数の巨額の財産を監査も受けずに蓄えていた。
労働哲学
日給5ドル
T型フォード生産の最盛期には、賃金は1日あたり6ドルとなった。また、さらに投資により、社の利益を共有する計画なども提供された。
フォードは福祉資本主義(英語版)の先駆者で、転職率が高く毎年多数の労働者を新たに雇用しなければならない状況を改善するためもあり、労働者の待遇改善に努めた。最良の労働者を雇い続けることも効率向上の手段である。
1914年、日給5ドルを提示し、従来の賃金のほぼ2倍として世界を驚かせた。オハイオ州クリーブランドの新聞は、この発表について「この不況下の暗雲を突き抜けて目をくらませるようなロケットを放った」と評した。新たな労働者を雇う必要がなくなり、デトロイトで最上の機械工が集まったため、生産性が向上し、職業訓練コストが低減した。日給5ドルを発表したのは1914年1月5日のことで、熟練労働者の最低日給を2.34ドルから5ドルに引き上げるというものだった。また資料によって詳細は異なるが、1週間の労働時間も減らした。1922年の自伝によれば、週に6日間、1日8時間で48時間と記されており、1926年には週5日間の40時間労働となっている。
デトロイトはアメリカの中でも高賃金の都市だったが、フォードの賃上げのせいで競争相手は賃上げするか熟練労働者を失うかという状況に追い込まれた。さらに給料が増えた労働者は自分達が作っている自動車を購入できるようになり、経済的にもよい波及効果をもたらした。フォードはこの方針を賃上げというよりも利益分配だと説明した。フォードに日給5ドルを進言し納得させたのは当時のデトロイト市長 Couzens とも言われている。
利益分配の対象は6カ月以上勤続した素行に問題のない労働者に限られた。深酒やギャンブルなどの癖がある者は対象外とされ、素行調査のために50人の調査者とサポートスタッフを雇った。大部分の労働者は利益分配の資格を得ることができた。
フォードが従業員の私生活にまで踏み込んだことには批判もあったため、間もなく調査の手を緩めることにした。1922年の回想録では、このことについて過去形で記し、「産業界に温情主義の入り込む余地はない。従業員の私生活をのぞき込むことに依存した福祉は時代遅れである。人は相談と助け、しばしば特別な助けを必要とするが、全ては良識に則って行われるべきである。しかし従業員の待遇改善は外部での社会事業よりも産業を強固にし組織を強化する最良の手段である。我々は原則を変更せずに支払い方法を変更した」と記している。
労働組合
一方でフォードは労働組合には強硬に反対した。フォードは1922年の回想録で組合についても記している。彼は、組合の何人かのリーダーの影響が強すぎ、彼らが表向きはよい動機で動いていたとしても、最終的に害を及ぼすことになると考えていた。組合の多くは雇用創出のために生産性を制限させようとしたが、フォードから見れば生産性向上はあらゆる経済的繁栄に必須の条件だったので、彼は組合を自滅的だと考えていた。
彼は生産性向上によって一定の職が失われたとしても、生産性向上によって景気が刺激され、新たな雇用が生まれると信じていた。フォードはまた、組合のリーダーは社会や経済の危機を恒久的に扇動することで自らの影響力を維持しようとする倒錯的な動機を持っていると信じていた。一方で賢い管理者は自らの利益を増大させるという動機で労働者を正しく遇すると信じていた(しかし、フォードは多くの管理職がその事実を理解していないことも認めている)。フォードは、良い管理職が左右(社会主義者と不良管理職)からの攻撃をかわし続ければ、最終的に不良管理職も組合も活動できない社会経済体制が作られるだろうと信じていた。
組合結成を防ぐため、フォードは元海軍でボクサーでもあったハリー・ベネット(英語版)を総務部門のトップに据えた。組合結成の動きをつぶすため、ベネットは様々な威嚇戦略を実施した。特に有名な事件として、1937年5月26日、ベネットのボディガードらがウォルター・ルーサー(英語版)を含む全米自動車労働組合の主要メンバーに暴行を加えた。そのとき現場には警察署長カール・ブルックスもいたが、彼はベネットの総務部門出身であり、暴行を止めようとしなかった。この事件は The Battle of the Overpass と呼ばれている。
フォード・モーター
しかし、フォード&マルコムソンの自動車の販売は鈍く、ドッジ兄弟が最初の出荷分への支払いを要求した際に危機が訪れた。その際マルコムソンは新たな出資者を集め、ドッジ兄弟には新会社の株式の一部を渡すことで納得させた。それにより1903年6月16日、Ford & Malcomson は資本金2万8千ドルで新会社フォード・モーター・カンパニーへと再結成された。最初の出資者はフォードとマルコムソンとドッジ兄弟のほかに、マルコムソンの叔父 John S. Gray、マルコムソンの秘書 en:James CouzensJames Couzens、マルコムソンと関わりが深い2人の法律家 John W. Anderson と Horace Rackham がいた。新しく設計した車の性能を見せるため、フォードはセントクレア湖の氷上1マイルを走らせ、39.4秒の記録を出し、自動車速度の世界新記録(91.37 mph=147.05 km/h)を樹立した。バーニー・オールドフィールドはこの結果に納得し、国中でその自動車を運転して周り、アメリカ全土にフォードの名を広めた。フォードはまた、初期のインディ500も後援している。
T型フォード
T型フォードは1908年10月1日に発表された。ハンドル(ステアリング)が左にあり、間もなく他社もそれに倣った。エンジンとトランスミッションは全体がボンネットで覆われている。エンジンは4気筒が一塊で鋳造されている。サスペンションには2つの半楕円形バネを使っている。運転は非常に単純で、修理も容易かつ安価に済む。1908年の発売当時、富裕層相手の手作りの自動車が3,000ドルから4,000ドル、同クラスの他メーカーの自動車でも1000ドル近い価格であったのに対し、T型フォードは825ドルの低価格であった。その後も年々価格が下がっていき、1920年代にはアメリカ人ドライバーなら誰でもT型フォードの運転方法を学んだことがあるという状況になっていた。
フォードは新製品についての記事や広告をデトロイトのあらゆる新聞に掲載させる大々的広告展開を行った。また販売店網を確立し、北米のほとんどの都市に販売店を設けた。各販売店は独立採算のフランチャイズ方式であり、フォードの宣伝だけでなく、モータリゼーションの象徴ともなった。新米ドライバーを助けるモータークラブが各地にできた。フォードは業務用に自動車を使おうと考える農夫にも積極的に売り込んだ。売り上げは急増し、数年間は毎年100%以上の伸びを示した。常にさらなる効率化とコスト削減に努め、1913年にはベルトコンベアによるライン生産方式を導入し、生産能力が大幅に強化された。一般にフォードがその方式のアイデアを考案したとされているが、当時の資料によればその方式を考案し発展させたのは Clarence Avery、Peter E. Martin、チャールズ・E・ソレンセン(英語版)、C・ハロルド・ウィルズ(英語版)という従業員だった。ライン生産方式を採用することで、販売価格を低く抑えながらも販売数量を拡大することができ、企業利益を確保するという考え方を実現できた。この大量生産方式は他の工業生産にも応用され、20世紀の工業社会を可能にした。
1914年には販売台数が25万台を越えた。1916年には最も安価なモデルが360ドルという価格になり、販売台数は47万2千台に達した。
1918年までに、アメリカで保有される自動車の半分はT型フォードとなっていた。車体の色は黒ばかりだったが、フォードは自伝に「黒にしておけば、お客様が好きな色に塗り替えることができる」と記している。ライン生産方式を採用する以前、黒の塗料が最も乾きが早いので黒にしたという事情もある。実際、赤など他の色のT型フォードも販売されていた。T型フォードは1927年まで生産され続けた。最終的な総販売台数は15,007,034台で、1908年の登場から19年間で樹立した記録である。この記録は45年間破られなかった。
1918年、ウッドロウ・ウィルソン大統領はアメリカ合衆国上院選挙にてミシガン州で民主党から立候補するようフォードに依頼した。第一次世界大戦中だったが、フォードは平和主義を唱え、提案されていた国際連盟を強く支持した。結果、元アメリカ合衆国海軍長官で共和党から立候補したトルーマン・ニューベリに敗れた。
1918年12月、ヘンリー・フォードはフォード・モーターの社長職を息子エドセル・フォードに譲った。しかし最終決定権は保持し続け、しばしば息子の決定を覆した。そして Henry Ford and Son という新会社を設立し、フォード・モーターの重要な従業員を引き抜いた。これはフォード・モーターの他の株主を恐れさせ、株価が下がる前に株を売らせ、自身がその株を買い取ってフォード・モーターを完全に制御できるようにする企みだった。この策略はうまくいき、ヘンリーとエドセルが株式を占有して、フォード一族が会社の所有権を確保することになった。
1920年代半ばには、ライバルとなったシボレーやクライスラーが新しいデザインや多彩なカラーを導入したため、同じデザインで黒一色しかなかったT型フォードの売り上げは落ち込み始めた。息子の助言にもかかわらず、フォードはT型フォードのデザインを変更することには強く反対した。この時代には、T型フォードはいわば時代遅れとなっており、新しいデザインの車が求められたのである。また、他社がクレジットによる自動車購入プランを提供したのに対し、フォード社はクレジット販売をしなかった。エドセルは、クレジットの導入を勧めたが、ヘンリーはこれにも反対した。これは、そのような仕組みは経済に悪影響を与えるとの考えからであった。
A型フォードとその後
2月11日、フロリダ州フォートマイヤーズ)
エドセルは、新しいモデルの投入が必要であることを父に説得しつづけた。ヘンリーは、1926年になってようやくそれを了承する。こうして、1927年12月にA型フォードが登場し1931年まで販売された(T型以前に初期のA型からB、C…、R、S、そしてT型まで試作車も含め連続したモデル名を使用していた。T型の次がU型でなくA型となったのは、長期に好評でフォード社をフォード社たらしめたT型の後は心機一転、仕切りなおしでA型から、となったからである。初期のA型からT型の間には豪華すぎて販売不振だったK型や、シンプルさが受けたN型、その発展型S型などがある)。エンジンやシャーシなど技術的設計はヘンリーが指揮し、息子には外観の設計を任せた。エドセルはまた、父の反対を押し切ってスライド型シフトのトランスミッションをなんとか採用した。
A型フォードは1927年12月に登場し、1931年まで総計で400万台以上が生産された。その後はゼネラルモーターズに倣って毎年モデルチェンジするようになった。クレジット販売へのフォードの反対は1930年代まで続いたが、結局 Universal Credit Corporation という子会社を創設し、同社は主要な自動車向けクレジット会社となった。
フォードは会計士を信じておらず、世界有数の巨額の財産を監査も受けずに蓄えていた。
労働哲学
日給5ドル
T型フォード生産の最盛期には、賃金は1日あたり6ドルとなった。また、さらに投資により、社の利益を共有する計画なども提供された。
フォードは福祉資本主義(英語版)の先駆者で、転職率が高く毎年多数の労働者を新たに雇用しなければならない状況を改善するためもあり、労働者の待遇改善に努めた。最良の労働者を雇い続けることも効率向上の手段である。
1914年、日給5ドルを提示し、従来の賃金のほぼ2倍として世界を驚かせた。オハイオ州クリーブランドの新聞は、この発表について「この不況下の暗雲を突き抜けて目をくらませるようなロケットを放った」と評した。新たな労働者を雇う必要がなくなり、デトロイトで最上の機械工が集まったため、生産性が向上し、職業訓練コストが低減した。日給5ドルを発表したのは1914年1月5日のことで、熟練労働者の最低日給を2.34ドルから5ドルに引き上げるというものだった。また資料によって詳細は異なるが、1週間の労働時間も減らした。1922年の自伝によれば、週に6日間、1日8時間で48時間と記されており、1926年には週5日間の40時間労働となっている。
デトロイトはアメリカの中でも高賃金の都市だったが、フォードの賃上げのせいで競争相手は賃上げするか熟練労働者を失うかという状況に追い込まれた。さらに給料が増えた労働者は自分達が作っている自動車を購入できるようになり、経済的にもよい波及効果をもたらした。フォードはこの方針を賃上げというよりも利益分配だと説明した。フォードに日給5ドルを進言し納得させたのは当時のデトロイト市長 Couzens とも言われている。
利益分配の対象は6カ月以上勤続した素行に問題のない労働者に限られた。深酒やギャンブルなどの癖がある者は対象外とされ、素行調査のために50人の調査者とサポートスタッフを雇った。大部分の労働者は利益分配の資格を得ることができた。
フォードが従業員の私生活にまで踏み込んだことには批判もあったため、間もなく調査の手を緩めることにした。1922年の回想録では、このことについて過去形で記し、「産業界に温情主義の入り込む余地はない。従業員の私生活をのぞき込むことに依存した福祉は時代遅れである。人は相談と助け、しばしば特別な助けを必要とするが、全ては良識に則って行われるべきである。しかし従業員の待遇改善は外部での社会事業よりも産業を強固にし組織を強化する最良の手段である。我々は原則を変更せずに支払い方法を変更した」と記している。
労働組合
一方でフォードは労働組合には強硬に反対した。フォードは1922年の回想録で組合についても記している。彼は、組合の何人かのリーダーの影響が強すぎ、彼らが表向きはよい動機で動いていたとしても、最終的に害を及ぼすことになると考えていた。組合の多くは雇用創出のために生産性を制限させようとしたが、フォードから見れば生産性向上はあらゆる経済的繁栄に必須の条件だったので、彼は組合を自滅的だと考えていた。
彼は生産性向上によって一定の職が失われたとしても、生産性向上によって景気が刺激され、新たな雇用が生まれると信じていた。フォードはまた、組合のリーダーは社会や経済の危機を恒久的に扇動することで自らの影響力を維持しようとする倒錯的な動機を持っていると信じていた。一方で賢い管理者は自らの利益を増大させるという動機で労働者を正しく遇すると信じていた(しかし、フォードは多くの管理職がその事実を理解していないことも認めている)。フォードは、良い管理職が左右(社会主義者と不良管理職)からの攻撃をかわし続ければ、最終的に不良管理職も組合も活動できない社会経済体制が作られるだろうと信じていた。
組合結成を防ぐため、フォードは元海軍でボクサーでもあったハリー・ベネット(英語版)を総務部門のトップに据えた。組合結成の動きをつぶすため、ベネットは様々な威嚇戦略を実施した。特に有名な事件として、1937年5月26日、ベネットのボディガードらがウォルター・ルーサー(英語版)を含む全米自動車労働組合の主要メンバーに暴行を加えた。そのとき現場には警察署長カール・ブルックスもいたが、彼はベネットの総務部門出身であり、暴行を止めようとしなかった。この事件は The Battle of the Overpass と呼ばれている。
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
日本の「食料」を学ぶ
Z世代と食の未来を考える
2022年10月29日(土)、30日(日)の2日間、
「食から日本を考える。NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」が
東京・六本木ヒルズアリーナで開催されました。
参加したZ世代の食に対する価値や食の未来に対する思いを取材しました。
「NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」に潜入
ニッポンフードシフトとは?
近年、食の外部化・簡便化が進み、食とその背景にある農業や農村との繋がりを意識する機会がかつてより減っているのではないでしょうか。
将来にわたり日本の、自分たちの食を確かなものにするために、消費者、生産者、食品関連事業者、日本の「食」を支えるあらゆる人々と行政が一体となって、考え、議論し、行動する国民運動として、農林水産省は2021年から「食から日本を考える。ニッポンフードシフト」をスタートしました。
ニッポンフードシフトでは、日本の食を取り巻く課題を身近なものとして考えてもらうため、例えば、公式WEBサイトで取組事例の紹介や、公式noteにおける発信、吉本興業や無印良品、テレビ東京などと連携した情報発信など、官民協働による取組を進めています。
また、消費者と生産者や事業者とが出会い、交わることで、食への新たな気づきや発見を促し、意識や行動を変えていくためのきっかけ作りを目指すイベントとして、「NIPPON FOOD SHIFT FES.(以下 NFS FES.)」を2021年10月から全国各地で開催しています。
多くの人が訪れ、関心を持って参加
「NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」の会場を訪ねました。
2022年10月29日、30日の両日は天候にも恵まれ、会場となった東京都港区の六本木ヒルズアリーナにはたくさんの人。会場では2日間にわたって、終日多彩な発表やトークセッションが行われ、多くの展示・体験ブースやマルシェが並びました。
これまでほとんどの会場で中心的な役割を担い、トークセッションや展示・体験ブースなどで活躍しているのが、食の未来を担う1990年代後半から2000年代生まれのZ世代の若者たち。今回も参加したZ世代はそれぞれ、農業の生産現場などを体験し、全国の生産者たちと交流した経験を活かしてNFS FES.東京2022を盛り上げました。
Z世代の展示ブースをWATCH!
龍谷大学経営学部藤岡ゼミは、ぶどう山椒の一大産地である和歌山県有田川町において、学生がフィールドワークを行い、産地を未来につなげるために取り組んだ4年間についてトークセッションで発表しました。また、有田川町の農産物や加工品等、「ぶどう山椒をかけて食べるカレー」などオリジナル開発商品を販売するブース展示も行いました。
立正大学法学部の社会学・教育学の西谷ゼミでは、「Z世代が考える!『未来の食と農』教育プロジェクト」として、学生のフィールドワークや農業体験の様子、小学生との協働授業でグループ活動を行った様子を、ブース展示とトークセッションで発表しました。
多様な大学生のマーケティングチームとスイーツの専門学校生がコラボした「100日後にできるZ世代プロデュースカフェ」ではレシピカードを配布し、スイーツも販売。
未来を担うZ世代のアクションに注目
「NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」で、ひときわ目を引いたのは、京都芸術大学芸術学部情報デザイン学科の学生たちが手がけた「シ展。2022-2023」。選択科目の「情報デザインプロジェクト」(担当教員 服部滋樹教授/村川晃一郎講師)という講義の中で、学生たちは食料安全保障と価格転嫁について学びました。学びを深化させるために、さまざまなリサーチを、3人から4人1チームで行いました。10チームそれぞれに異なるテーマでプロジェクトを進め、その成果をまとめたものが今回のグループ展です。
タイトルの「シ展」とは、より良い未来に向ける“始点”であり、未来を支える“支点”でもあるといいます。さらに、思考を止めてしまえば、取り返しのつかない“死点”へと向かうことになるから、どんな“視点”をもって未来を創造するのか、自分たちの手に委ねられているというZ世代の思いを込めているのだそうです。
指導にあたった教員の村川晃一郎さんは次のように話してくれました。
「課題がどこにあるのか、どのようにしたら人に伝わり、また見た人の考え方が変わるのか。そういったことを、デザインを行う際に用いる思考や手法でひも解いていくと、新しいアプローチができるのではないかと思いました。デザインを学ぶ学生たちは、思考したものをアウトプットする能力を持っているので、食の問題に対してもきっと課題解決につなげられると思います」。
そこで、学生たちがどんな課題に取り組み、どのように感じたかを10チームそれぞれの代表者に聞きました。
京都芸術大学情報デザイン学科 情報デザインプロジェクト「シ展。2022-2023」のチームリーダーたち。後列左は指導にあたった村川さん
生産者を選んで野菜を購入する自動販売機
自動販売機には生産者の情報のみを提示。その情報から生産者を選び、何が出てくるかわからない野菜との出合いを楽しんでもらうことが狙いです。会場では、協力してもらった8人の生産者の情報をフライヤーにまとめ、来場者に持ち帰ってもらいました。
オンラインで8人の生産者さんにインタビューしたのですが、知らないことだらけでとても勉強になりました。自動販売機なら野菜も気軽に買ってもらえるのではないかと思いました。
農産物のSNS型ショッピングアプリを開発
食をコミュニケーションツールと捉えて、農産物を贈り物として利用しやすくなるSNS型アプリ「わかば」を考案しました。「わかば」を使って生産者から購入した野菜をフォローしている人に送ることができ、また生産者の情報や直伝レシピも共有できます。
家族や友人には少し高価なものでも買ってあげたいと思うので、そんな気持ちを消費につなげられないかと考えました。農産物の情報の「いいね」が増えて、つながり合えるといいなと思います。
食の現状を回転パネルにデザインして問いかける
「食品添加物」「遺伝子組換え」「慣行農業と有機農業」「国産と輸入」「食料自給率」の5つのテーマについて調べ、是非や可否を述べるのではなく、すべての物事には裏表があることを踏まえ「あなたはどう思いますか」と意識喚起をする展示です。
自分が口にする食べ物のことを、私たちは本当にわかっているでしょうか。食にまつわるウワサや、知らずしらず形作られたイメージの「ホントのところ」を知り、見た人自身がこれからの食について考えてほしいです。
廃棄される野菜や果物に新たな価値を
廃棄される野菜を食べること以外で有効活用しようということから商品化を模索。野菜の色素を利用して自分たちで絵の具や石鹸、入浴剤などを製作。食品廃棄物から新素材を生み出すベンチャー企業の協力を得て、ごぼうなどから作った高強度の建材も展示しました。
今回は野菜について、食べられるのに捨てる部分の有効活用を考えましたが、ものづくりではいろいろな素材の廃棄物が出るので、そういった素材の有効活用も考えてみたいと思いました。
インスタグラムで適正な価格形成に向けた情報を発信
大手スーパーマーケットに取材に行き、食品の価値を正しく評価して販売する大切さを知ったことから、適正な価格形成を知ってもらうための展示パネルを作りました。展示を見た方が、適正な価格形成の大切さを広められるように、インスタグラムによる発信も行っています。
私たちのチームは、講義で初めて知った価格転嫁という言葉を消費者にとって一番身近な問題だと捉えました。スーパーの取り組みを見て、たくさんの人に知ってもらうべきだと思いました。
見切り品を気軽に手にしてもらうアプリを開発
賞味期限や消費期限が近いものや、規格外品などの見切り品に着目。見切り品を買ってポイントを貯め、それをこども食堂やフードバンクに寄付できるアプリ「ぴっくる」を考案。見切り品にはシールが貼ってあるので、それを店内で宝探しのように楽しんで探してほしいと考えました。
見た目や賞味期限が近いという理由で、まだ食べられるのに捨てられてしまう見切り品の中には魅力のある食品もたくさんあるし、十分手に取ってもらえる商品だということを知ってもらいたいです。
食料自給率をあげるために和食の文化、作法に着目
和食に親しみを持ち、和食を食べる頻度を増やすために、和食の作法や豆知識などをイラストで見せるフリーペーパーや展示を作成しました。和食の消費拡大から、食料自給率の上昇へつながればと考えています。
Z世代でも食べ物に対して値段で選ぶ人、写真映えを狙う人など価値観が違い、チームの中でもばらばらでした。それをどうやって一本化するか話し合って、テーマを作法や伝統に絞りました。
規格外野菜をそのまま販売するために
食品ロスの統計には、出荷前に廃棄される規格外野菜が含まれていないことを知ったことから規格外野菜のブランディングのために、みんなに注目してもらえ、ふっと笑えて親しんでもらえるキャッチコピーを考えてポスターを作りました。
コピーを考えるのは難しかったけれど、楽しんで取り組めました。「できそこ」というコピーは、形は規格外でも味や品質が「できそこないではない」という意味で「ない」を削ったものです。
規格外野菜や果物のジュースやスイーツの店
規格外野菜や果物を購入し、それをジュースやスイーツなどにして提供するカフェ店舗の内装やパッケージを展示。メニューもチームで考案しました。店名は「砦(toride)」。自分たちZ世代が食の問題の最後の砦になるという決意を込めたネーミングです。
規格外野菜をテーマにカフェづくりをしようと考えたのは、ごみの低減に取り組んでいる量り売りスーパー「斗々屋」にフィールドワークを行い、フードロスへの意識を多くの人に持ってもらう必要を感じたことがきっかけです。
地域支援型農業「CSA」を広めるために
消費者が農産物の購入費を先払いすることで生産者と消費者が相互に支え合う仕組み「CSA(Community Supported Agriculture)」の新しいバージョンとして、飲食店と契約して、誰もがCSAに参加できる場所づくりを考案。「食について考える、新しい居酒屋」の仕組みのデザインと店舗デザインを展示しました。
CSAのことを初めて知り、取り組んでいる生産者さんのお話にワクワクしました。農産物を買う時も、自分がきちんと選ぶことで状況が変わっていくことを知り、その大切さがわかりました。
推進パートナー募集
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日本の「食料」を学ぶ
Z世代と食の未来を考える
2022年10月29日(土)、30日(日)の2日間、
「食から日本を考える。NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」が
東京・六本木ヒルズアリーナで開催されました。
参加したZ世代の食に対する価値や食の未来に対する思いを取材しました。
「NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」に潜入
ニッポンフードシフトとは?
近年、食の外部化・簡便化が進み、食とその背景にある農業や農村との繋がりを意識する機会がかつてより減っているのではないでしょうか。
将来にわたり日本の、自分たちの食を確かなものにするために、消費者、生産者、食品関連事業者、日本の「食」を支えるあらゆる人々と行政が一体となって、考え、議論し、行動する国民運動として、農林水産省は2021年から「食から日本を考える。ニッポンフードシフト」をスタートしました。
ニッポンフードシフトでは、日本の食を取り巻く課題を身近なものとして考えてもらうため、例えば、公式WEBサイトで取組事例の紹介や、公式noteにおける発信、吉本興業や無印良品、テレビ東京などと連携した情報発信など、官民協働による取組を進めています。
また、消費者と生産者や事業者とが出会い、交わることで、食への新たな気づきや発見を促し、意識や行動を変えていくためのきっかけ作りを目指すイベントとして、「NIPPON FOOD SHIFT FES.(以下 NFS FES.)」を2021年10月から全国各地で開催しています。
多くの人が訪れ、関心を持って参加
「NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」の会場を訪ねました。
2022年10月29日、30日の両日は天候にも恵まれ、会場となった東京都港区の六本木ヒルズアリーナにはたくさんの人。会場では2日間にわたって、終日多彩な発表やトークセッションが行われ、多くの展示・体験ブースやマルシェが並びました。
これまでほとんどの会場で中心的な役割を担い、トークセッションや展示・体験ブースなどで活躍しているのが、食の未来を担う1990年代後半から2000年代生まれのZ世代の若者たち。今回も参加したZ世代はそれぞれ、農業の生産現場などを体験し、全国の生産者たちと交流した経験を活かしてNFS FES.東京2022を盛り上げました。
Z世代の展示ブースをWATCH!
龍谷大学経営学部藤岡ゼミは、ぶどう山椒の一大産地である和歌山県有田川町において、学生がフィールドワークを行い、産地を未来につなげるために取り組んだ4年間についてトークセッションで発表しました。また、有田川町の農産物や加工品等、「ぶどう山椒をかけて食べるカレー」などオリジナル開発商品を販売するブース展示も行いました。
立正大学法学部の社会学・教育学の西谷ゼミでは、「Z世代が考える!『未来の食と農』教育プロジェクト」として、学生のフィールドワークや農業体験の様子、小学生との協働授業でグループ活動を行った様子を、ブース展示とトークセッションで発表しました。
多様な大学生のマーケティングチームとスイーツの専門学校生がコラボした「100日後にできるZ世代プロデュースカフェ」ではレシピカードを配布し、スイーツも販売。
未来を担うZ世代のアクションに注目
「NIPPON FOOD SHIFT FES.東京2022」で、ひときわ目を引いたのは、京都芸術大学芸術学部情報デザイン学科の学生たちが手がけた「シ展。2022-2023」。選択科目の「情報デザインプロジェクト」(担当教員 服部滋樹教授/村川晃一郎講師)という講義の中で、学生たちは食料安全保障と価格転嫁について学びました。学びを深化させるために、さまざまなリサーチを、3人から4人1チームで行いました。10チームそれぞれに異なるテーマでプロジェクトを進め、その成果をまとめたものが今回のグループ展です。
タイトルの「シ展」とは、より良い未来に向ける“始点”であり、未来を支える“支点”でもあるといいます。さらに、思考を止めてしまえば、取り返しのつかない“死点”へと向かうことになるから、どんな“視点”をもって未来を創造するのか、自分たちの手に委ねられているというZ世代の思いを込めているのだそうです。
指導にあたった教員の村川晃一郎さんは次のように話してくれました。
「課題がどこにあるのか、どのようにしたら人に伝わり、また見た人の考え方が変わるのか。そういったことを、デザインを行う際に用いる思考や手法でひも解いていくと、新しいアプローチができるのではないかと思いました。デザインを学ぶ学生たちは、思考したものをアウトプットする能力を持っているので、食の問題に対してもきっと課題解決につなげられると思います」。
そこで、学生たちがどんな課題に取り組み、どのように感じたかを10チームそれぞれの代表者に聞きました。
京都芸術大学情報デザイン学科 情報デザインプロジェクト「シ展。2022-2023」のチームリーダーたち。後列左は指導にあたった村川さん
生産者を選んで野菜を購入する自動販売機
自動販売機には生産者の情報のみを提示。その情報から生産者を選び、何が出てくるかわからない野菜との出合いを楽しんでもらうことが狙いです。会場では、協力してもらった8人の生産者の情報をフライヤーにまとめ、来場者に持ち帰ってもらいました。
オンラインで8人の生産者さんにインタビューしたのですが、知らないことだらけでとても勉強になりました。自動販売機なら野菜も気軽に買ってもらえるのではないかと思いました。
農産物のSNS型ショッピングアプリを開発
食をコミュニケーションツールと捉えて、農産物を贈り物として利用しやすくなるSNS型アプリ「わかば」を考案しました。「わかば」を使って生産者から購入した野菜をフォローしている人に送ることができ、また生産者の情報や直伝レシピも共有できます。
家族や友人には少し高価なものでも買ってあげたいと思うので、そんな気持ちを消費につなげられないかと考えました。農産物の情報の「いいね」が増えて、つながり合えるといいなと思います。
食の現状を回転パネルにデザインして問いかける
「食品添加物」「遺伝子組換え」「慣行農業と有機農業」「国産と輸入」「食料自給率」の5つのテーマについて調べ、是非や可否を述べるのではなく、すべての物事には裏表があることを踏まえ「あなたはどう思いますか」と意識喚起をする展示です。
自分が口にする食べ物のことを、私たちは本当にわかっているでしょうか。食にまつわるウワサや、知らずしらず形作られたイメージの「ホントのところ」を知り、見た人自身がこれからの食について考えてほしいです。
廃棄される野菜や果物に新たな価値を
廃棄される野菜を食べること以外で有効活用しようということから商品化を模索。野菜の色素を利用して自分たちで絵の具や石鹸、入浴剤などを製作。食品廃棄物から新素材を生み出すベンチャー企業の協力を得て、ごぼうなどから作った高強度の建材も展示しました。
今回は野菜について、食べられるのに捨てる部分の有効活用を考えましたが、ものづくりではいろいろな素材の廃棄物が出るので、そういった素材の有効活用も考えてみたいと思いました。
インスタグラムで適正な価格形成に向けた情報を発信
大手スーパーマーケットに取材に行き、食品の価値を正しく評価して販売する大切さを知ったことから、適正な価格形成を知ってもらうための展示パネルを作りました。展示を見た方が、適正な価格形成の大切さを広められるように、インスタグラムによる発信も行っています。
私たちのチームは、講義で初めて知った価格転嫁という言葉を消費者にとって一番身近な問題だと捉えました。スーパーの取り組みを見て、たくさんの人に知ってもらうべきだと思いました。
見切り品を気軽に手にしてもらうアプリを開発
賞味期限や消費期限が近いものや、規格外品などの見切り品に着目。見切り品を買ってポイントを貯め、それをこども食堂やフードバンクに寄付できるアプリ「ぴっくる」を考案。見切り品にはシールが貼ってあるので、それを店内で宝探しのように楽しんで探してほしいと考えました。
見た目や賞味期限が近いという理由で、まだ食べられるのに捨てられてしまう見切り品の中には魅力のある食品もたくさんあるし、十分手に取ってもらえる商品だということを知ってもらいたいです。
食料自給率をあげるために和食の文化、作法に着目
和食に親しみを持ち、和食を食べる頻度を増やすために、和食の作法や豆知識などをイラストで見せるフリーペーパーや展示を作成しました。和食の消費拡大から、食料自給率の上昇へつながればと考えています。
Z世代でも食べ物に対して値段で選ぶ人、写真映えを狙う人など価値観が違い、チームの中でもばらばらでした。それをどうやって一本化するか話し合って、テーマを作法や伝統に絞りました。
規格外野菜をそのまま販売するために
食品ロスの統計には、出荷前に廃棄される規格外野菜が含まれていないことを知ったことから規格外野菜のブランディングのために、みんなに注目してもらえ、ふっと笑えて親しんでもらえるキャッチコピーを考えてポスターを作りました。
コピーを考えるのは難しかったけれど、楽しんで取り組めました。「できそこ」というコピーは、形は規格外でも味や品質が「できそこないではない」という意味で「ない」を削ったものです。
規格外野菜や果物のジュースやスイーツの店
規格外野菜や果物を購入し、それをジュースやスイーツなどにして提供するカフェ店舗の内装やパッケージを展示。メニューもチームで考案しました。店名は「砦(toride)」。自分たちZ世代が食の問題の最後の砦になるという決意を込めたネーミングです。
規格外野菜をテーマにカフェづくりをしようと考えたのは、ごみの低減に取り組んでいる量り売りスーパー「斗々屋」にフィールドワークを行い、フードロスへの意識を多くの人に持ってもらう必要を感じたことがきっかけです。
地域支援型農業「CSA」を広めるために
消費者が農産物の購入費を先払いすることで生産者と消費者が相互に支え合う仕組み「CSA(Community Supported Agriculture)」の新しいバージョンとして、飲食店と契約して、誰もがCSAに参加できる場所づくりを考案。「食について考える、新しい居酒屋」の仕組みのデザインと店舗デザインを展示しました。
CSAのことを初めて知り、取り組んでいる生産者さんのお話にワクワクしました。農産物を買う時も、自分がきちんと選ぶことで状況が変わっていくことを知り、その大切さがわかりました。
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【Star Sign】
/
高山しのぶ先生
撮り下ろし
\
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TEAM01 出演
HIDE AND SEEK
キービジュアル公開
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白鳥一樹(CV.古川 慎)
二瓶 律 (CV.佐藤拓也)
W主演決定!
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TEAM01出演
HIDE AND SEEK
登場人物紹介
◤◢◤◢◤◢◤◢
高取景介 役/白鳥一樹(CV.古川 慎)
『どうでもいいさ。
どうせ同じ穴の狢だろ?』
古い雑居ビルで便利屋を営む、
少しお人好しな元捜査一課の刑事
菅原大和 役/二瓶 律(CV.佐藤拓也)
『バカか。
それとも、正義の味方かよ』
高取の事務所に居候している謎の人物。
仕事を手伝ったり、ときには荒事も。
石浦智紀 役/戌丸颯太(CV.伊東健人)
『タカスガの弟子第一号は
オレでしょ!』
便利屋の雑用担当を自負し情報収集も得意。
だが、腕っぷしは全くアテにならない。
鉢嶺 優 役/青山羊介(CV.豊永利行)
『どーしたの?
カッコいいおにーさん』
知紀と幼馴染。愛らしい笑顔と
人懐っこさで人に取り入るのが得意。
柄本好秋 役/早乙女 琉生(CV.新垣樽助)
『あんま舐めた口利いてると
あとで後悔するぞ、ガキ』
武闘派な無免許医を演じる。
裏社会にも詳しいらしい……?
楠美 昴 役/獅子尾 湊(CV.小野友樹)
『クズにはクズの
流儀ってヤツがあんだよ』
酒と女が大好きな現役刑事役。
便利屋の居候を疑うフシも。
【Star Sign】
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高取景介 役/白鳥一樹(CV.古川 慎)
『どうでもいいさ。
どうせ同じ穴の狢だろ?』
古い雑居ビルで便利屋を営む、
少しお人好しな元捜査一課の刑事
菅原大和 役/二瓶 律(CV.佐藤拓也)
『バカか。
それとも、正義の味方かよ』
高取の事務所に居候している謎の人物。
仕事を手伝ったり、ときには荒事も。
石浦智紀 役/戌丸颯太(CV.伊東健人)
『タカスガの弟子第一号は
オレでしょ!』
便利屋の雑用担当を自負し情報収集も得意。
だが、腕っぷしは全くアテにならない。
鉢嶺 優 役/青山羊介(CV.豊永利行)
『どーしたの?
カッコいいおにーさん』
知紀と幼馴染。愛らしい笑顔と
人懐っこさで人に取り入るのが得意。
柄本好秋 役/早乙女 琉生(CV.新垣樽助)
『あんま舐めた口利いてると
あとで後悔するぞ、ガキ』
武闘派な無免許医を演じる。
裏社会にも詳しいらしい……?
楠美 昴 役/獅子尾 湊(CV.小野友樹)
『クズにはクズの
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酒と女が大好きな現役刑事役。
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