渡辺翔太 20231204 更新
やっほー
今日も頑張りましょー
昨日は少しゆっくりしましたm(__)m
昼間は整体を受けてその後は
友達と映画を見に行きポップコーン食べて
夕食は焼き鳥を食べ、その後はサウナへ
そして台本を読んで爆睡です笑!!
さっ今日から月曜日、1週間頑張りましょ!
じゃあまたねぇ
やっほー
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夕食は焼き鳥を食べ、その後はサウナへ
そして台本を読んで爆睡です笑!!
さっ今日から月曜日、1週間頑張りましょ!
じゃあまたねぇ
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いはここから始まった
「関ヶ原の戦い」が起こったのは、1598年(慶長3年)に突如訪れた「豊臣秀吉」の死去から2年後のこと。天下人の死は、野心や忠誠心など、その周りにいた様々な人の心を揺さぶりました。
このように心を揺さぶったのには理由があります。これは豊臣秀吉が死去する前のお話です。関ヶ原の戦いの発端は、実はこの戦いが始まるずっと前から起こっていました。
すべては豊臣家安泰のため?豊臣秀吉の天下統一と大名達の役割
天下統一を果たし関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉。武士として最高位であった「征夷大将軍」には農家の出だったことが理由でなれませんでした。武士の最高位には血筋的になるのが難しかったのです。そこで、豊臣秀吉は公家の最高位である関白を選びました。
しかし、豊臣秀吉は石高を持つ、野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖くなったのでしょう。そのため、関白になったのち、豊臣秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたのでしょう。しかし、このグループ分けが、不満を生み、五大老と五奉行が豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。
五大老と五奉行の役割
五大老と五奉行の役割はこのようなものでした。まず五大老は国や政治を指揮・監督する役割。五奉行は、豊臣政権を支え、治安の維持を目指すいわゆる実務担当です。五大老を分かりやすく言うと国務大臣で、五奉行は官僚のトップと言ったところでしょうか。五大老は有力大名、五奉行は豊臣秀吉直属の家臣5名で構成されていました。これを「五大老五奉行体制」と言います。
豊臣秀吉の遺言
豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。遺言状を書いた場所は「大坂城」ではなく、京都に建てられた「指月伏見城」(しげつふしみじょう)。この城は豊臣秀吉が隠居を過ごすために建てられたと言われている城です。
遺言状は主に五大老に宛てた物で、こう記されていました。
「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」。
これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底で信用していなかったのかもしれません。
遺言状に反する者
さて、このように豊臣秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。その訳は、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」がまだ6歳であったこと。もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。
徳川家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を多くしたり少なくしたりするのに関与したりと、やりたい放題となりました。
このように、豊臣秀吉の亡きあとに暴走気味にあったのは、豊臣秀吉に不満を持っていたから。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、時鳥(ほととぎす)」という、徳川家康の有名な言葉にあるように、豊臣家の衰退を今か今かと待っていたのかもしれません。
豊臣秀吉の死が知らされなかった!?石田三成は益々恨まれる存在に!
豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は亡くなりました。現地には、豊臣秀吉に思い入れの深い武将達もいます。それにもかかわらず、石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。
不満が大爆発!七将による石田三成暗殺未遂事件
1599年(慶長4年)、文禄の役・慶長の役での不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。
七将とは、尾張清洲城主の福島正則、肥後熊本城主の加藤清正、三河吉田城主の「池田輝政」、丹後宮津城主の「細川忠興」(ほそかわただおき)、甲斐甲府城主の「浅野幸長」、伊予松山城主の加藤嘉明、豊前中津城主の「黒田長政」の7名です。
実際はこれに、阿波徳島城主の「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)、伊予宇和島城主の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)も加わったとされています。
この暗殺未遂事件が起こったことにより、石田三成は京都の「伏見城」へ一時立て篭もりました。その仲介に入ったのは徳川家康です。
これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」にて隠居することになります。石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は上がったことは言うまでもありません。
東軍 徳川家康による関ヶ原の戦いへの布石
石田三成の暗殺未遂事件の黒幕は、徳川家康だったのではないかという説が浮上。それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。
このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。
徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。
西軍と東軍の集結!関ヶ原の戦いは徳川家康の計画通り?
大坂城から会津へ向かうため、会津より西は徳川家康が不在となりました。これを見計らって、反徳川派がひそかに西で集結します。集まったのは石田三成をはじめ、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)など。そののち、笹尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)で西軍となる兵を挙げました。
徳川家康は西軍が結成されたとき小山(栃木県小山市中央町)にいました。西軍の結成を徳川家康は予測していたのです。そのため、これは徳川家康の仕組んだ罠だという説があります。その証拠に西軍が結成されたあと、会津征伐をあっさりと中止しています。
1600年(慶長5年)7月、徳川家康は会津攻め諸将を下野国小山に集結。集まった諸将はいずれも徳川家康に忠誠を誓っています。これが東軍結成の瞬間です。この小山での軍議はのちに「小山評定」(おやまひょうじょう)として広く世に知られるようになりました。そして、関ヶ原の戦いが始まります。
「いざ西へ!」というとき、徳川家康は「結城秀康」(ゆうきひでやす)を上杉景勝に対する押さえとして、宇都宮城に残しました。そして、諸将を西へ向かわせているのですが、ここで徳川家康は余裕を見せます。なんと一旦江戸に戻ったうえで、急ぐ様子もなく東海道を西へ上って行きました。この行動からも分かるように、徳川家康には天下への切符が見えていたのでしょう。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将になった人物は石田三成ではない
着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。
関ヶ原の合戦と西軍 石田三成の大誤算
まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。裏切ったのは彼だけではありません。その他にも藤堂高虎などが内通者だったと言われています。そのあと、すぐに「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。これは石田三成にとって大誤算でした。
その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出。しかし、東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着していました。この場所で東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。
一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。
関ヶ原の戦いはここから始まった
「関ヶ原の戦い」が起こったのは、1598年(慶長3年)に突如訪れた「豊臣秀吉」の死去から2年後のこと。天下人の死は、野心や忠誠心など、その周りにいた様々な人の心を揺さぶりました。
このように心を揺さぶったのには理由があります。これは豊臣秀吉が死去する前のお話です。関ヶ原の戦いの発端は、実はこの戦いが始まるずっと前から起こっていました。
すべては豊臣家安泰のため?豊臣秀吉の天下統一と大名達の役割
天下統一を果たし関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉。武士として最高位であった「征夷大将軍」には農家の出だったことが理由でなれませんでした。武士の最高位には血筋的になるのが難しかったのです。そこで、豊臣秀吉は公家の最高位である関白を選びました。
しかし、豊臣秀吉は石高を持つ、野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖くなったのでしょう。そのため、関白になったのち、豊臣秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたのでしょう。しかし、このグループ分けが、不満を生み、五大老と五奉行が豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。
五大老と五奉行の役割
五大老と五奉行の役割はこのようなものでした。まず五大老は国や政治を指揮・監督する役割。五奉行は、豊臣政権を支え、治安の維持を目指すいわゆる実務担当です。五大老を分かりやすく言うと国務大臣で、五奉行は官僚のトップと言ったところでしょうか。五大老は有力大名、五奉行は豊臣秀吉直属の家臣5名で構成されていました。これを「五大老五奉行体制」と言います。
豊臣秀吉の遺言
豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。遺言状を書いた場所は「大坂城」ではなく、京都に建てられた「指月伏見城」(しげつふしみじょう)。この城は豊臣秀吉が隠居を過ごすために建てられたと言われている城です。
遺言状は主に五大老に宛てた物で、こう記されていました。
「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」。
これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底で信用していなかったのかもしれません。
遺言状に反する者
さて、このように豊臣秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。その訳は、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」がまだ6歳であったこと。もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。
徳川家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を多くしたり少なくしたりするのに関与したりと、やりたい放題となりました。
このように、豊臣秀吉の亡きあとに暴走気味にあったのは、豊臣秀吉に不満を持っていたから。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、時鳥(ほととぎす)」という、徳川家康の有名な言葉にあるように、豊臣家の衰退を今か今かと待っていたのかもしれません。
豊臣秀吉の死が知らされなかった!?石田三成は益々恨まれる存在に!
豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は亡くなりました。現地には、豊臣秀吉に思い入れの深い武将達もいます。それにもかかわらず、石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。
不満が大爆発!七将による石田三成暗殺未遂事件
1599年(慶長4年)、文禄の役・慶長の役での不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。
七将とは、尾張清洲城主の福島正則、肥後熊本城主の加藤清正、三河吉田城主の「池田輝政」、丹後宮津城主の「細川忠興」(ほそかわただおき)、甲斐甲府城主の「浅野幸長」、伊予松山城主の加藤嘉明、豊前中津城主の「黒田長政」の7名です。
実際はこれに、阿波徳島城主の「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)、伊予宇和島城主の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)も加わったとされています。
この暗殺未遂事件が起こったことにより、石田三成は京都の「伏見城」へ一時立て篭もりました。その仲介に入ったのは徳川家康です。
これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」にて隠居することになります。石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は上がったことは言うまでもありません。
東軍 徳川家康による関ヶ原の戦いへの布石
石田三成の暗殺未遂事件の黒幕は、徳川家康だったのではないかという説が浮上。それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。
このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。
徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。
西軍と東軍の集結!関ヶ原の戦いは徳川家康の計画通り?
大坂城から会津へ向かうため、会津より西は徳川家康が不在となりました。これを見計らって、反徳川派がひそかに西で集結します。集まったのは石田三成をはじめ、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)など。そののち、笹尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)で西軍となる兵を挙げました。
徳川家康は西軍が結成されたとき小山(栃木県小山市中央町)にいました。西軍の結成を徳川家康は予測していたのです。そのため、これは徳川家康の仕組んだ罠だという説があります。その証拠に西軍が結成されたあと、会津征伐をあっさりと中止しています。
1600年(慶長5年)7月、徳川家康は会津攻め諸将を下野国小山に集結。集まった諸将はいずれも徳川家康に忠誠を誓っています。これが東軍結成の瞬間です。この小山での軍議はのちに「小山評定」(おやまひょうじょう)として広く世に知られるようになりました。そして、関ヶ原の戦いが始まります。
「いざ西へ!」というとき、徳川家康は「結城秀康」(ゆうきひでやす)を上杉景勝に対する押さえとして、宇都宮城に残しました。そして、諸将を西へ向かわせているのですが、ここで徳川家康は余裕を見せます。なんと一旦江戸に戻ったうえで、急ぐ様子もなく東海道を西へ上って行きました。この行動からも分かるように、徳川家康には天下への切符が見えていたのでしょう。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将になった人物は石田三成ではない
着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。
関ヶ原の合戦と西軍 石田三成の大誤算
まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。裏切ったのは彼だけではありません。その他にも藤堂高虎などが内通者だったと言われています。そのあと、すぐに「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。これは石田三成にとって大誤算でした。
その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出。しかし、東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着していました。この場所で東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。
一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。
渡辺翔太 20231107 更新
やっほー
今日も頑張りましょー
昨日は少し自宅でゆっくりしました〜!!
昼まで寝て、コーヒー飲んで本読んで笑
その後は少しでかけて
夜は友達と焼き鳥からのサウナルーティン
11月なのに暑くない?半袖で出かけたもん
気温差に気をつけて風邪ひかないようにねぇ
じゃぁまたねぇ
やっほー
今日も頑張りましょー
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昼まで寝て、コーヒー飲んで本読んで笑
その後は少しでかけて
夜は友達と焼き鳥からのサウナルーティン
11月なのに暑くない?半袖で出かけたもん
気温差に気をつけて風邪ひかないようにねぇ
じゃぁまたねぇ
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