昭襄王(中)
白起八面六臂
昭襄王28年(紀元前279年)、昭襄王は白起に命じて楚を討った(鄢・郢の戦い)。白起の率いる秦軍は楚の内地に進撃し、劣勢な兵力にもかかわらず、水攻めを利用して鄢と鄧の地を取り、罪人を赦してこの地方に移った。
昭襄王29年(紀元前278年)、白起は楚の首都郢を占領し、楚の先王の陵墓がある夷陵を焼き払った後、竟陵まで至った。鄢・郢の地には南郡が設置され、秦の版図とした。楚の頃襄王は秦軍の攻勢を避けて陳へ逃亡した。この功で、白起は武安君に封じられた。また、昭襄王30年(紀元前277年)には蜀郡郡守の張若に命じて楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。
南方の大国であった楚は大きく版図を秦に奪われることとなった。
昭襄王31年(紀元前276年)、白起を楚に続いて魏の討伐に命じる。魏の2城を取るなど魏討伐でも活躍した。
昭襄王32年(紀元前275年)、魏冄にも魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。余勢を駆って、翌昭襄王33年(紀元前274年)には客卿の公孫胡昜にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。
昭襄王34年(紀元前273年)、魏将芒卯の軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。戦国七雄の一国に数えられた魏は大きく衰退した。
この年、秦に従わない趙を白起に命じて討った。白起は趙将賈偃と戦い、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ、白起に命じて本格的な楚討伐に乗り出そうとした。
秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。
昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。
昭襄王36年(紀元前271年)、昭襄王は客卿の竈に命じて斉を討った。斉の剛・寿の地を取り、これを魏冄に与えた。魏冄の封地は拡大を続け、王族を凌ぐほどとなった。ここに魏冄の栄華は極まった。
范雎登用
魏冄は自分の権力が失墜するのを恐れ、遊説者が入国することを嫌っていた。昭襄王の謁者であった王稽は魏で范雎と会い、その賢を見抜き、秦に連れて来ていた。王稽は昭襄王に范雎を何度か推挙したが、登用されなかった。
昭襄王36年(紀元前271年)、斉を攻めたが、これは魏冄が自身の封邑であった陶の領地を広めるためであった。この際に范雎は上書し、「明君の政治では、功労ある者は必ず褒賞され、能力のある者は必ず登用されるといいます。私が用いられないのは、私が愚鈍なため、王の心にふれて訴えるものがないためでしょうか。まさか私を推す者が賤しいために用いないということではありますまい」と言った。
これを聞いた昭襄王は大いに喜び、登用しなかったことを王稽に詫び、范雎を召した。范雎を召した際の王の出御で、宦官が「王のお出まし」と言った。范雎は、「秦には国王などいるはずがない。秦にその人ありと聞くのは、ただ太后と穣侯だけだ」と言った。昭襄王はこれを聞き、范雎を迎え入れまず詫び、「私は早くから先生の教えを乞おうと思っていた。謹んで主客対等の礼をもってお話を賜りたい」と言った。しかし范雎はこれを辞退し、群臣が去った後に親しく会話した。そこで昭襄王は范雎を拝して客卿とし、兵事を相談した。これ以降昭襄王は范雎を日一日と親しみ、以降、その進言が採用されるようになった。
昭襄王38年(紀元前269年)、秦に従わない趙を公孫胡昜に命じて討った(閼与の戦い)。
昭襄王40年(紀元前267年)、長子の悼太子が人質に出していた魏で薨去。
宰相范雎
昭襄王42年(紀元前265年)、范雎は言上して「かつて夏・殷・西周の三代が滅んだ理由は、君主が政治を臣下に任せきりであったためでした。今、秦では諸大史や王の左右近侍に至るまで、すべて穣侯の徒党でない者はなく、王ひとりが孤立しています。私はひそかに王のためにこれを恐れています」と言った。
これを聞いた昭襄王は大いに恐れ、宣太后を廃し、魏冄の宰相職を免じた。また、魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した。范雎は宰相となり、食邑の応に封じられ、応侯と号した。
2年前に亡くなった悼太子の代わりに安国君こと公子柱(後の孝文王)を太子に指名した。
昭襄王43年(紀元前264年)、秦に従わない韓を白起に命じて討った(陘城の戦い)。同年、楚の頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた楚の太子完は帰国を願い出た。昭襄王は、「まず太子の傅(教育係)である春申君を遣わし、病気を見舞わせた上で取り計らおう」と答えた。
春申君は一計を案じ、太子完に「楚王は病のため、おそらくは再起できないと思われます。太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなるでしょう。使者と一緒に秦を抜け出されるのが上策と思います。私は踏みとどまって、死を賭して事に当ります」と言った。太子完は衣服を変え、使者の御者になりすましてひそかに出国し、春申君は太子が逃げるまで病と称して外出しなかった。
春申君はしばらくしてから昭襄王に申し出て、「楚の太子は帰国しました。逃がした私の罪は死に当ります。どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎が「春申君は人臣として一身を投げ出して主君に殉じました。もし太子が位に即けば、かならず春申君を重用します。ここは罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君の帰国を許した。
長平の戦い
昭襄王44年(紀元前263年)、昭襄王は白起に命じて韓を討たせた。野王を降服させ、昭襄王46年(紀元前261年)には韓の緱氏・藺を落とすなど華々しい戦果を挙げた。
昭襄王47年(紀元前260年)、昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平に駐屯した。4月、王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍が名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁を築いて守った。秦軍はそれを攻めたが廉頗はますます塁壁を高くして守り、何度挑発しても応じなかった。
范雎は一計を案じ、趙の孝成王に逆宣伝させ廉頗を更迭させた。趙は廉頗を更迭し、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。
趙括は着任すると、すぐに兵を進め秦軍を討った。白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して、糧道を絶たれた。
昭襄王は戦果を聞くと、みずから河内の地に出かけて、民にそれぞれ爵一級に任じやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じ打開を図ったが、秦はこれを射て趙括を殺した。趙軍40万は白起に降服したが、白起は「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と考えた。既に秦軍の兵糧も乏しく、大量の捕虜を養うだけの量がなかったことも白起に叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し、40万の士卒を穴埋めにして殺した。
後に長平の戦いと呼ばれるこの戦役で、趙の国力は大きく傾いた。
范雎重用
昭襄王は范雎をますます重用した。かつて魏の宰相の魏斉によって瀕死の目に遭わされた范雎の仇を報いてやろうと思い、趙の平原君を秦に招きいれて、以前に范雎から脅迫され趙に亡命していた魏斉を渡すよう脅迫した。しかし魏斉はすでに平原君のもとにいなかったので、 趙の孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、趙の宰相である虞卿に救いを求めた。
虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、魏の信陵君を頼った。信陵君は秦を恐れたため、受け入れるかどうか悩んだが、食客の侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし、魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んだ。孝成王はその首を探し出し持たせたので、昭襄王は平原君を趙に帰した。
白起自刎
昭襄王48年(紀元前259年)10月、昭襄王は白起に命じ再び上党を平定させた。白起は軍を二手にわけ、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。しかし白起の功績が大きくなるのを恐れた范雎が、「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言した。昭襄王はこれを聴き入れ、韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。講和の命令を白起は聞き、范雎との間に溝が生じるようになった。
昭襄王49年(紀元前258年)、昭襄王は五大夫王陵に命じて趙を討ち、邯鄲を攻めさせたが落ちなかった(邯鄲の戦い(中国語版))。この時、趙の人質だった子楚と政親子が趙に殺されそうになるが、呂不韋により救われている。昭襄王は王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが、白起は断った。昭襄王みずから命令したが、白起は引き受けず、さらに范雎が懇請しても、最後まで辞退し、ついに病気と称してしまった。
昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は援軍を送ったが勝てず、王陵を更迭し王齕に代わらせた。それでも邯鄲は落ちず、多大の損害を受けた。白起は、「秦は私の言うことを聴かなかった。今にしてどう思うか」と言った。これを聞いた昭襄王は大いに怒り、白起を罷免して士卒に落とし、陰密の地へ移した。翌紀元前256年11月、昭襄王は范雎や群臣と論議し「白起が陰密へ移る時、不平不満があって承服せず恨みがましいところがあった」として白起の爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じた。白起は自刎し果てた。同時に司馬錯の孫で長平の戦いで白起の副将を務めた司馬靳にも自害を命じている。
秦の統一への道は、常勝将軍白起を失い大きく頓挫することとなった。
白起八面六臂
昭襄王28年(紀元前279年)、昭襄王は白起に命じて楚を討った(鄢・郢の戦い)。白起の率いる秦軍は楚の内地に進撃し、劣勢な兵力にもかかわらず、水攻めを利用して鄢と鄧の地を取り、罪人を赦してこの地方に移った。
昭襄王29年(紀元前278年)、白起は楚の首都郢を占領し、楚の先王の陵墓がある夷陵を焼き払った後、竟陵まで至った。鄢・郢の地には南郡が設置され、秦の版図とした。楚の頃襄王は秦軍の攻勢を避けて陳へ逃亡した。この功で、白起は武安君に封じられた。また、昭襄王30年(紀元前277年)には蜀郡郡守の張若に命じて楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。
南方の大国であった楚は大きく版図を秦に奪われることとなった。
昭襄王31年(紀元前276年)、白起を楚に続いて魏の討伐に命じる。魏の2城を取るなど魏討伐でも活躍した。
昭襄王32年(紀元前275年)、魏冄にも魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。余勢を駆って、翌昭襄王33年(紀元前274年)には客卿の公孫胡昜にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。
昭襄王34年(紀元前273年)、魏将芒卯の軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。戦国七雄の一国に数えられた魏は大きく衰退した。
この年、秦に従わない趙を白起に命じて討った。白起は趙将賈偃と戦い、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ、白起に命じて本格的な楚討伐に乗り出そうとした。
秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。
昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。
昭襄王36年(紀元前271年)、昭襄王は客卿の竈に命じて斉を討った。斉の剛・寿の地を取り、これを魏冄に与えた。魏冄の封地は拡大を続け、王族を凌ぐほどとなった。ここに魏冄の栄華は極まった。
范雎登用
魏冄は自分の権力が失墜するのを恐れ、遊説者が入国することを嫌っていた。昭襄王の謁者であった王稽は魏で范雎と会い、その賢を見抜き、秦に連れて来ていた。王稽は昭襄王に范雎を何度か推挙したが、登用されなかった。
昭襄王36年(紀元前271年)、斉を攻めたが、これは魏冄が自身の封邑であった陶の領地を広めるためであった。この際に范雎は上書し、「明君の政治では、功労ある者は必ず褒賞され、能力のある者は必ず登用されるといいます。私が用いられないのは、私が愚鈍なため、王の心にふれて訴えるものがないためでしょうか。まさか私を推す者が賤しいために用いないということではありますまい」と言った。
これを聞いた昭襄王は大いに喜び、登用しなかったことを王稽に詫び、范雎を召した。范雎を召した際の王の出御で、宦官が「王のお出まし」と言った。范雎は、「秦には国王などいるはずがない。秦にその人ありと聞くのは、ただ太后と穣侯だけだ」と言った。昭襄王はこれを聞き、范雎を迎え入れまず詫び、「私は早くから先生の教えを乞おうと思っていた。謹んで主客対等の礼をもってお話を賜りたい」と言った。しかし范雎はこれを辞退し、群臣が去った後に親しく会話した。そこで昭襄王は范雎を拝して客卿とし、兵事を相談した。これ以降昭襄王は范雎を日一日と親しみ、以降、その進言が採用されるようになった。
昭襄王38年(紀元前269年)、秦に従わない趙を公孫胡昜に命じて討った(閼与の戦い)。
昭襄王40年(紀元前267年)、長子の悼太子が人質に出していた魏で薨去。
宰相范雎
昭襄王42年(紀元前265年)、范雎は言上して「かつて夏・殷・西周の三代が滅んだ理由は、君主が政治を臣下に任せきりであったためでした。今、秦では諸大史や王の左右近侍に至るまで、すべて穣侯の徒党でない者はなく、王ひとりが孤立しています。私はひそかに王のためにこれを恐れています」と言った。
これを聞いた昭襄王は大いに恐れ、宣太后を廃し、魏冄の宰相職を免じた。また、魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した。范雎は宰相となり、食邑の応に封じられ、応侯と号した。
2年前に亡くなった悼太子の代わりに安国君こと公子柱(後の孝文王)を太子に指名した。
昭襄王43年(紀元前264年)、秦に従わない韓を白起に命じて討った(陘城の戦い)。同年、楚の頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた楚の太子完は帰国を願い出た。昭襄王は、「まず太子の傅(教育係)である春申君を遣わし、病気を見舞わせた上で取り計らおう」と答えた。
春申君は一計を案じ、太子完に「楚王は病のため、おそらくは再起できないと思われます。太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなるでしょう。使者と一緒に秦を抜け出されるのが上策と思います。私は踏みとどまって、死を賭して事に当ります」と言った。太子完は衣服を変え、使者の御者になりすましてひそかに出国し、春申君は太子が逃げるまで病と称して外出しなかった。
春申君はしばらくしてから昭襄王に申し出て、「楚の太子は帰国しました。逃がした私の罪は死に当ります。どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎が「春申君は人臣として一身を投げ出して主君に殉じました。もし太子が位に即けば、かならず春申君を重用します。ここは罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君の帰国を許した。
長平の戦い
昭襄王44年(紀元前263年)、昭襄王は白起に命じて韓を討たせた。野王を降服させ、昭襄王46年(紀元前261年)には韓の緱氏・藺を落とすなど華々しい戦果を挙げた。
昭襄王47年(紀元前260年)、昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平に駐屯した。4月、王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍が名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁を築いて守った。秦軍はそれを攻めたが廉頗はますます塁壁を高くして守り、何度挑発しても応じなかった。
范雎は一計を案じ、趙の孝成王に逆宣伝させ廉頗を更迭させた。趙は廉頗を更迭し、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。
趙括は着任すると、すぐに兵を進め秦軍を討った。白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して、糧道を絶たれた。
昭襄王は戦果を聞くと、みずから河内の地に出かけて、民にそれぞれ爵一級に任じやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じ打開を図ったが、秦はこれを射て趙括を殺した。趙軍40万は白起に降服したが、白起は「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と考えた。既に秦軍の兵糧も乏しく、大量の捕虜を養うだけの量がなかったことも白起に叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し、40万の士卒を穴埋めにして殺した。
後に長平の戦いと呼ばれるこの戦役で、趙の国力は大きく傾いた。
范雎重用
昭襄王は范雎をますます重用した。かつて魏の宰相の魏斉によって瀕死の目に遭わされた范雎の仇を報いてやろうと思い、趙の平原君を秦に招きいれて、以前に范雎から脅迫され趙に亡命していた魏斉を渡すよう脅迫した。しかし魏斉はすでに平原君のもとにいなかったので、 趙の孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、趙の宰相である虞卿に救いを求めた。
虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、魏の信陵君を頼った。信陵君は秦を恐れたため、受け入れるかどうか悩んだが、食客の侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし、魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んだ。孝成王はその首を探し出し持たせたので、昭襄王は平原君を趙に帰した。
白起自刎
昭襄王48年(紀元前259年)10月、昭襄王は白起に命じ再び上党を平定させた。白起は軍を二手にわけ、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。しかし白起の功績が大きくなるのを恐れた范雎が、「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言した。昭襄王はこれを聴き入れ、韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。講和の命令を白起は聞き、范雎との間に溝が生じるようになった。
昭襄王49年(紀元前258年)、昭襄王は五大夫王陵に命じて趙を討ち、邯鄲を攻めさせたが落ちなかった(邯鄲の戦い(中国語版))。この時、趙の人質だった子楚と政親子が趙に殺されそうになるが、呂不韋により救われている。昭襄王は王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが、白起は断った。昭襄王みずから命令したが、白起は引き受けず、さらに范雎が懇請しても、最後まで辞退し、ついに病気と称してしまった。
昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は援軍を送ったが勝てず、王陵を更迭し王齕に代わらせた。それでも邯鄲は落ちず、多大の損害を受けた。白起は、「秦は私の言うことを聴かなかった。今にしてどう思うか」と言った。これを聞いた昭襄王は大いに怒り、白起を罷免して士卒に落とし、陰密の地へ移した。翌紀元前256年11月、昭襄王は范雎や群臣と論議し「白起が陰密へ移る時、不平不満があって承服せず恨みがましいところがあった」として白起の爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じた。白起は自刎し果てた。同時に司馬錯の孫で長平の戦いで白起の副将を務めた司馬靳にも自害を命じている。
秦の統一への道は、常勝将軍白起を失い大きく頓挫することとなった。
続黄梁(下)
田中貢太郎
「勢いに倚よって人を凌いだものだ、刀山とうざんの獄を受けさすがいい」
鬼はまた曾をひッつかんで往った。そこに一つの山があって、巌石が壁のように切りたって聳え、それに鋭い刃を密生した筍のように植えてあった。そこにはもう数人の者が腹を突き刺され、腸はらわたをかけて泣き叫んでいたが、その声はいかにも悲しそうで、心も目もその惨酷さに耐えられなかった。鬼は曾を促して、山へ登らそうとした。曾は泣き叫んで身を縮めて動かなかった。鬼は毒錐どくすいで曾の脳天を突き刺した。曾は痛みを負いながらもまた憐れみを乞うた。鬼は怒って曾を捉えて起ち、空に向って力まかせにほうり投げた。曾は自分の体が雲の上に浮んだように感ずるまもなく、目が眩くらんで真逆さまに落ちた。刃は胸に突き通って痛さは言葉につくすことができなかった。そのうちに時間が経つと体の重みで刃の孔がだんだん闊ひろくなって、たちまち脱け落ちて、手足は尺取虫のように屈んでしまった。
鬼はまた曾をおいたてて往って王を見た。王は曾が平生爵位を売り、名を鬻ひさぎ、法を枉まげ、権勢を以て人の財産を奪いなどして得た所の金銭は幾何いくばくであるかということを詮議さした。そこで髯の長い人がそろばんを持って計算して言った。
「三百二十一万でございます」
王は言った。
「彼がこれまで積んできた位、また飲ますがいいだろう」
間もなく金銭を取って陸上にうずたかく積んだが、それは丘陵のようであった。それをだんだん釜の中に入れて烈火で鎔とかし、鬼は数疋の仲間に、杓をもってそれを曾の口に灌そそがした。頤おとがいを流れると皮膚が臭い匂いをして裂け、喉に入れると臓腑が沸きたった。曾は平生その金のすくないのを患うれえていたが、この時にはその金の多いのを患えたのであろう。
半日でそれが尽きた。王は曾を送って甘州へ往って女にした。五足六足往くと、架たなの上に鉄の梁があった。そのまわりは数尺であったが、それには一つの大きな輪を繋いであった。その大きさは幾百由旬ゆじゅんということが解らなかった。それには燈ほのおがあって五色のあやをつくり、その光は空間を照らしていた。鬼は曾を鞭で敲いてその輪に登らした。曾はしかたなしにそれに登った。と、輪は足に随ってまわって、傾いて堕ちたような気がすると共に、体が涼しくなった。眸ひとみを開けてみると自分はもう嬰児あかんぼになっているうえに、しかも女になっていた。両親はと見ると綿の出た破れた衣服きものを着ていたが、そこは土間の中で、瓢ひさごと杖があるのみであった。曾は心で、自分は乞食の子であるということを知った。
曾はそれから毎日乞食の子に随いて、物をもらいに出かけて往ったが、いつも腹が空いていて腹一ぱいに物を喫くうことができなかった。そして破れた衣服を着て、骨を刺すような風にいつも吹かれていた。
十四歳になって両親は顧秀才こしゅうさいの所へ売って妾にした。衣食はそこでほぼ足るようになったが、本妻が気があらくて、毎日その鞭の下で為事しごとをした。本妻は鉄を赤く焼いてからその乳のあたりに烙やきばんをしたが、しあわせなことには秀才は心がやさしくて可愛がってくれたので、やや自分で慰めることができた。
東隣に悪少年があって、ある夜垣を踰こえて入ってきた。そこで自分のことを考えて、自分は前世で罪を犯して地獄の責め苦を被こうむっているから、今またこんなことをしてはならないと思ったので、大声をあげて人を呼んだ。秀才と本妻が起きたので、悪少年はやっと逃げて往った。
それから間もない時のことである。ある夜秀才は曾を自分の室へやへ泊めた。二人の話がはずんできたので、曾は自分の身のうえのことを訴えていると、不意に大声がして室の戸を荒あらしく開け、二人の盗賊が刃を持って入ってきて、とうとう秀才の首を斬り、衣服きものを嚢に入れて取って往った。曾は夜具の中に円くなって隠れ、息を殺していたが、盗賊が往ってしまったので、そこで大声をあげながら本妻の室へ奔はしって往った。本妻はひどく驚いて、泣きながらいっしょに秀才の室へ往ってしらべた。そして、とうとう妾が奸夫に良人を殺さしたものだという疑いが起ったので、それを訴えた。刑吏は曾を捕えて厳しく訊問した後に、とうとう極刑を以て、処分することになった。それは手足を切りおとし、次に吭くびを斬って死刑に処するのであった。曾は執とらえられて刑場へ往ったが、胸の中には無実の罪で殺されるという怒りが一ぱいになっていた。曾は刑場に往くのをこばんで無実であることを言いはったが、心では九幽十八獄にもこんな無道理なことはないと思うて、悲しみと怒りで泣き叫ぼうとしたところで、仲間の呼ぶ声が聞えてきた。
「おい、君うなされてるようだが」
曾はそこでからりと夢が寤さめた。見ると老僧はなお座の上に座禅を組んだままであった。仲間の者は口々に言った。
「日が暮れてひもじいのに、いつまでぐうぐう睡っているのだ」
曾はそこでしおれた容さまをして起きた。僧は微笑して言った。
「宰相の占は、しるしがあったかな」
曾はますます驚いて、僧を拝して教えを請うた。僧は言った。
「徳を修めて仁を行うなら、火炕かこう中にも青蓮がありますじゃ、このわしが何を知りましょうや」
曾は思いあがってきて、すっかり気をおとして帰ったが、それから台閣だいかくの想いはあわいものになった。そして山へ入ったが終った所がわからなかった。
田中貢太郎
「勢いに倚よって人を凌いだものだ、刀山とうざんの獄を受けさすがいい」
鬼はまた曾をひッつかんで往った。そこに一つの山があって、巌石が壁のように切りたって聳え、それに鋭い刃を密生した筍のように植えてあった。そこにはもう数人の者が腹を突き刺され、腸はらわたをかけて泣き叫んでいたが、その声はいかにも悲しそうで、心も目もその惨酷さに耐えられなかった。鬼は曾を促して、山へ登らそうとした。曾は泣き叫んで身を縮めて動かなかった。鬼は毒錐どくすいで曾の脳天を突き刺した。曾は痛みを負いながらもまた憐れみを乞うた。鬼は怒って曾を捉えて起ち、空に向って力まかせにほうり投げた。曾は自分の体が雲の上に浮んだように感ずるまもなく、目が眩くらんで真逆さまに落ちた。刃は胸に突き通って痛さは言葉につくすことができなかった。そのうちに時間が経つと体の重みで刃の孔がだんだん闊ひろくなって、たちまち脱け落ちて、手足は尺取虫のように屈んでしまった。
鬼はまた曾をおいたてて往って王を見た。王は曾が平生爵位を売り、名を鬻ひさぎ、法を枉まげ、権勢を以て人の財産を奪いなどして得た所の金銭は幾何いくばくであるかということを詮議さした。そこで髯の長い人がそろばんを持って計算して言った。
「三百二十一万でございます」
王は言った。
「彼がこれまで積んできた位、また飲ますがいいだろう」
間もなく金銭を取って陸上にうずたかく積んだが、それは丘陵のようであった。それをだんだん釜の中に入れて烈火で鎔とかし、鬼は数疋の仲間に、杓をもってそれを曾の口に灌そそがした。頤おとがいを流れると皮膚が臭い匂いをして裂け、喉に入れると臓腑が沸きたった。曾は平生その金のすくないのを患うれえていたが、この時にはその金の多いのを患えたのであろう。
半日でそれが尽きた。王は曾を送って甘州へ往って女にした。五足六足往くと、架たなの上に鉄の梁があった。そのまわりは数尺であったが、それには一つの大きな輪を繋いであった。その大きさは幾百由旬ゆじゅんということが解らなかった。それには燈ほのおがあって五色のあやをつくり、その光は空間を照らしていた。鬼は曾を鞭で敲いてその輪に登らした。曾はしかたなしにそれに登った。と、輪は足に随ってまわって、傾いて堕ちたような気がすると共に、体が涼しくなった。眸ひとみを開けてみると自分はもう嬰児あかんぼになっているうえに、しかも女になっていた。両親はと見ると綿の出た破れた衣服きものを着ていたが、そこは土間の中で、瓢ひさごと杖があるのみであった。曾は心で、自分は乞食の子であるということを知った。
曾はそれから毎日乞食の子に随いて、物をもらいに出かけて往ったが、いつも腹が空いていて腹一ぱいに物を喫くうことができなかった。そして破れた衣服を着て、骨を刺すような風にいつも吹かれていた。
十四歳になって両親は顧秀才こしゅうさいの所へ売って妾にした。衣食はそこでほぼ足るようになったが、本妻が気があらくて、毎日その鞭の下で為事しごとをした。本妻は鉄を赤く焼いてからその乳のあたりに烙やきばんをしたが、しあわせなことには秀才は心がやさしくて可愛がってくれたので、やや自分で慰めることができた。
東隣に悪少年があって、ある夜垣を踰こえて入ってきた。そこで自分のことを考えて、自分は前世で罪を犯して地獄の責め苦を被こうむっているから、今またこんなことをしてはならないと思ったので、大声をあげて人を呼んだ。秀才と本妻が起きたので、悪少年はやっと逃げて往った。
それから間もない時のことである。ある夜秀才は曾を自分の室へやへ泊めた。二人の話がはずんできたので、曾は自分の身のうえのことを訴えていると、不意に大声がして室の戸を荒あらしく開け、二人の盗賊が刃を持って入ってきて、とうとう秀才の首を斬り、衣服きものを嚢に入れて取って往った。曾は夜具の中に円くなって隠れ、息を殺していたが、盗賊が往ってしまったので、そこで大声をあげながら本妻の室へ奔はしって往った。本妻はひどく驚いて、泣きながらいっしょに秀才の室へ往ってしらべた。そして、とうとう妾が奸夫に良人を殺さしたものだという疑いが起ったので、それを訴えた。刑吏は曾を捕えて厳しく訊問した後に、とうとう極刑を以て、処分することになった。それは手足を切りおとし、次に吭くびを斬って死刑に処するのであった。曾は執とらえられて刑場へ往ったが、胸の中には無実の罪で殺されるという怒りが一ぱいになっていた。曾は刑場に往くのをこばんで無実であることを言いはったが、心では九幽十八獄にもこんな無道理なことはないと思うて、悲しみと怒りで泣き叫ぼうとしたところで、仲間の呼ぶ声が聞えてきた。
「おい、君うなされてるようだが」
曾はそこでからりと夢が寤さめた。見ると老僧はなお座の上に座禅を組んだままであった。仲間の者は口々に言った。
「日が暮れてひもじいのに、いつまでぐうぐう睡っているのだ」
曾はそこでしおれた容さまをして起きた。僧は微笑して言った。
「宰相の占は、しるしがあったかな」
曾はますます驚いて、僧を拝して教えを請うた。僧は言った。
「徳を修めて仁を行うなら、火炕かこう中にも青蓮がありますじゃ、このわしが何を知りましょうや」
曾は思いあがってきて、すっかり気をおとして帰ったが、それから台閣だいかくの想いはあわいものになった。そして山へ入ったが終った所がわからなかった。
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
連載
山梨県 世界農業遺産 峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム
農業遺産は、特徴的かつ伝統的な農林水産業を営む地域であり、世界農業遺産と日本農業遺産の2種類があります。世界農業遺産は国際連合食糧農業機関(FAO)により、日本農業遺産は農林水産大臣により認定されます。今回は、世界農業遺産の一つである山梨県 峡東地域をご紹介します。
※世界農業遺産認定地域数は78地域(うち日本国内認定地域数15地域)、日本農業遺産認定地域数は24地域
CHECK POINT
峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム
勝沼ぶどうの丘や大善寺など観光スポットがいっぱい!
名菓「桔梗信玄餅」が詰め放題!
峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム
令和4年7月、「峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム」が、世界農業遺産に認定されました。峡東地域では、起伏と傾斜が大きい扇状地の立地を利用して、10品目以上の果樹を適地・適作しています。400年以上前には、ぶどう栽培に不利な多雨・湿潤という環境で安定した栽培を行うために「甲州式ぶどう棚」を開発。後に峡東地域で開発された「疎植(そしょく)・大木仕立て」とともに日本におけるぶどう栽培の基本技術となっています。また、果樹園に自生する植物を利用した草生栽培は、土壌の流亡防止や有機物を補給する効果だけでなく、果樹園に昆虫などの生物が生息できる環境を作り、生物多様性にも大きく寄与しています。
Where is 峡東地域?
峡東地域
甲府盆地東部にあり山梨市、笛吹市、甲州市の3市で構成。日本のぶどう栽培発祥の地とされ、ももやかき、さくらんぼなどの果樹栽培も盛んです。明治時代には全国に先駆けて葡萄酒醸造所が開かれ、現在は大小70か所以上のワイナリーが立地する日本一のワイナリー集積地としても知られています。
甲州市ぶどう棚
傾斜地に広がる甲州式ぶどう棚。周辺の里山と一体化した美しい風景は、国内や海外からの観光客を惹きつけています。葉が色づく秋の風景も見事です。
ぶどうやもも、さくらんぼ
峡東地域の農家のほとんどは小規模な家族経営。高度な栽培技術を生かし、手作業によるきめ細かな管理で栽培されたぶどうやもも、さくらんぼは、市場から高評価を得ています。
枯露柿(ころがき)
渋柿を乾燥させてつくる「枯露柿(ころがき)」は、武田信玄が推奨したことで生産が広まったとされています。とくに甲州市塩山の松里地区は、枯露柿の生産地として有名です。
甲州ワイン
800年以上の歴史を持つといわれる日本古来のぶどう品種「甲州」を原料に造られる白ワイン「甲州ワイン」は、地域を代表する名産品。醸造法によって甘口、辛口、スパークリングと多様な味わいが楽しめます。
農業遺産周辺で見る・味わう・体験する
峡東地域
勝沼ぶどうの丘
甲府盆地とぶどう畑を見渡せる
勝沼ぶどうの丘
地下のワインカーヴで、甲州市が推奨する約170銘柄、約2万本のワインを試飲できます(有料)。「勝沼ワイン料理」が味わえる展望ワインレストランや、宿泊または日帰りで楽しめる温泉施設も併設しています。
URL:https://t.cn/A6Oe9Xac
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」下車、徒歩20分。または勝沼地域循環バス「ワインコース」でバス停「ぶどうの丘」下車すぐ
シャトー・メルシャン勝沼ワイナリー
ワインの作り方や歴史を知る
シャトー・メルシャン勝沼ワイナリー
ぶどう畑やワイナリー(醸造施設、樽庫)の見学、テイスティングなどが楽しめる3種類のツアーを楽しめます(事前予約制/有料)。日本のワインの歴史を学べるワイン資料館(入場無料)も必見です。
URL:https://t.cn/A6Oe9Xat
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」下車、タクシーで8分。またはJR「塩山駅」下車、タクシーで10分
勝沼トンネルワインカーヴ
貴重な近代産業遺跡を見学
勝沼トンネルワインカーヴ
明治36年に開通した近代産業遺跡「中央本線旧深沢トンネル」を、ワイン貯蔵庫として活用。職員の方に声をかけると、入口部分を見学できます。貴重なレンガ積みの壁面と、ずらりと並ぶワインラックは圧巻!
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」から、勝沼地域循環バス「ワインコース」でバス停「大日影トンネル遊歩道入口」下車すぐ
国宝 大善寺
通称「ぶどう寺」を拝観
国宝 大善寺
国宝に指定されている本堂内に、手にぶどうを持った薬師如来像(秘仏)が安置されている通称「ぶどう寺」。拝観料にプラス300円で、住職が栽培したぶどうで作ったグラスワインやぶどうジュースをいただけます。
URL:https://t.cn/A6Oe9XaV
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」下車、タクシーで5分
マルサマルシェ笛吹店
自然の中で「農泊」を体験
マルサマルシェ笛吹店
近くにある古民家「桃源の家」(写真)に宿泊して、フルーツ狩りやピザ作り、農業体験、バーベキューなどを満喫できる「一棟貸切 季節のフルーツ狩り&手作り体験づくしのプラン」がおすすめ。ファミリーや友達同士での旅行にも。
URL:https://t.cn/A6Oe9Xa5
アクセス:JR「石和温泉駅」下車、タクシーで10分
山梨県笛吹川フルーツ公園
花とフルーツとワインがテーマの都市公園
山梨県笛吹川フルーツ公園
大菩薩などの山並みと甲府盆地を一望でき、天気の良い日は富士山も望めます。公園には、アクアアスレチック、雨の日でも遊べるわんぱくドームやレストランも併設しており、子どもから大人まで楽しめます。
URL:https://t.cn/A6Oe9XaG
アクセス:JR「山梨市駅」下車、タクシーで7分。または山梨循環線バス「フルーツセンター方面」でバス停「フルーツ公園」下車すぐ
お得スポット!
名菓「桔梗信玄餅」
名菓「桔梗信玄餅」が詰め放題!
「桔梗信玄餅工場テーマパーク」併設のアウトレットショップでは、「お菓子の詰め放題」が大人気。桔梗信玄餅を袋いっぱいに詰めて220円とあって、連日多くの観光客で賑わっています。開始は9時から。売り切れ次第終了になるので、早めに到着できるといいですね。
URL:https://t.cn/A6TR2aKb
アクセス:JR「石和温泉駅」下車、タクシーで20分
連載
山梨県 世界農業遺産 峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム
農業遺産は、特徴的かつ伝統的な農林水産業を営む地域であり、世界農業遺産と日本農業遺産の2種類があります。世界農業遺産は国際連合食糧農業機関(FAO)により、日本農業遺産は農林水産大臣により認定されます。今回は、世界農業遺産の一つである山梨県 峡東地域をご紹介します。
※世界農業遺産認定地域数は78地域(うち日本国内認定地域数15地域)、日本農業遺産認定地域数は24地域
CHECK POINT
峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム
勝沼ぶどうの丘や大善寺など観光スポットがいっぱい!
名菓「桔梗信玄餅」が詰め放題!
峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム
令和4年7月、「峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム」が、世界農業遺産に認定されました。峡東地域では、起伏と傾斜が大きい扇状地の立地を利用して、10品目以上の果樹を適地・適作しています。400年以上前には、ぶどう栽培に不利な多雨・湿潤という環境で安定した栽培を行うために「甲州式ぶどう棚」を開発。後に峡東地域で開発された「疎植(そしょく)・大木仕立て」とともに日本におけるぶどう栽培の基本技術となっています。また、果樹園に自生する植物を利用した草生栽培は、土壌の流亡防止や有機物を補給する効果だけでなく、果樹園に昆虫などの生物が生息できる環境を作り、生物多様性にも大きく寄与しています。
Where is 峡東地域?
峡東地域
甲府盆地東部にあり山梨市、笛吹市、甲州市の3市で構成。日本のぶどう栽培発祥の地とされ、ももやかき、さくらんぼなどの果樹栽培も盛んです。明治時代には全国に先駆けて葡萄酒醸造所が開かれ、現在は大小70か所以上のワイナリーが立地する日本一のワイナリー集積地としても知られています。
甲州市ぶどう棚
傾斜地に広がる甲州式ぶどう棚。周辺の里山と一体化した美しい風景は、国内や海外からの観光客を惹きつけています。葉が色づく秋の風景も見事です。
ぶどうやもも、さくらんぼ
峡東地域の農家のほとんどは小規模な家族経営。高度な栽培技術を生かし、手作業によるきめ細かな管理で栽培されたぶどうやもも、さくらんぼは、市場から高評価を得ています。
枯露柿(ころがき)
渋柿を乾燥させてつくる「枯露柿(ころがき)」は、武田信玄が推奨したことで生産が広まったとされています。とくに甲州市塩山の松里地区は、枯露柿の生産地として有名です。
甲州ワイン
800年以上の歴史を持つといわれる日本古来のぶどう品種「甲州」を原料に造られる白ワイン「甲州ワイン」は、地域を代表する名産品。醸造法によって甘口、辛口、スパークリングと多様な味わいが楽しめます。
農業遺産周辺で見る・味わう・体験する
峡東地域
勝沼ぶどうの丘
甲府盆地とぶどう畑を見渡せる
勝沼ぶどうの丘
地下のワインカーヴで、甲州市が推奨する約170銘柄、約2万本のワインを試飲できます(有料)。「勝沼ワイン料理」が味わえる展望ワインレストランや、宿泊または日帰りで楽しめる温泉施設も併設しています。
URL:https://t.cn/A6Oe9Xac
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」下車、徒歩20分。または勝沼地域循環バス「ワインコース」でバス停「ぶどうの丘」下車すぐ
シャトー・メルシャン勝沼ワイナリー
ワインの作り方や歴史を知る
シャトー・メルシャン勝沼ワイナリー
ぶどう畑やワイナリー(醸造施設、樽庫)の見学、テイスティングなどが楽しめる3種類のツアーを楽しめます(事前予約制/有料)。日本のワインの歴史を学べるワイン資料館(入場無料)も必見です。
URL:https://t.cn/A6Oe9Xat
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」下車、タクシーで8分。またはJR「塩山駅」下車、タクシーで10分
勝沼トンネルワインカーヴ
貴重な近代産業遺跡を見学
勝沼トンネルワインカーヴ
明治36年に開通した近代産業遺跡「中央本線旧深沢トンネル」を、ワイン貯蔵庫として活用。職員の方に声をかけると、入口部分を見学できます。貴重なレンガ積みの壁面と、ずらりと並ぶワインラックは圧巻!
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」から、勝沼地域循環バス「ワインコース」でバス停「大日影トンネル遊歩道入口」下車すぐ
国宝 大善寺
通称「ぶどう寺」を拝観
国宝 大善寺
国宝に指定されている本堂内に、手にぶどうを持った薬師如来像(秘仏)が安置されている通称「ぶどう寺」。拝観料にプラス300円で、住職が栽培したぶどうで作ったグラスワインやぶどうジュースをいただけます。
URL:https://t.cn/A6Oe9XaV
アクセス:JR「勝沼ぶどう郷駅」下車、タクシーで5分
マルサマルシェ笛吹店
自然の中で「農泊」を体験
マルサマルシェ笛吹店
近くにある古民家「桃源の家」(写真)に宿泊して、フルーツ狩りやピザ作り、農業体験、バーベキューなどを満喫できる「一棟貸切 季節のフルーツ狩り&手作り体験づくしのプラン」がおすすめ。ファミリーや友達同士での旅行にも。
URL:https://t.cn/A6Oe9Xa5
アクセス:JR「石和温泉駅」下車、タクシーで10分
山梨県笛吹川フルーツ公園
花とフルーツとワインがテーマの都市公園
山梨県笛吹川フルーツ公園
大菩薩などの山並みと甲府盆地を一望でき、天気の良い日は富士山も望めます。公園には、アクアアスレチック、雨の日でも遊べるわんぱくドームやレストランも併設しており、子どもから大人まで楽しめます。
URL:https://t.cn/A6Oe9XaG
アクセス:JR「山梨市駅」下車、タクシーで7分。または山梨循環線バス「フルーツセンター方面」でバス停「フルーツ公園」下車すぐ
お得スポット!
名菓「桔梗信玄餅」
名菓「桔梗信玄餅」が詰め放題!
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アクセス:JR「石和温泉駅」下車、タクシーで20分
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