続黄梁(上)
田中貢太郎
福建の曾孝廉そうこうれんが、第一等の成績で礼部の試験に及第した時、やはりその試験に及第して新たに官吏になった二三の者と郊外に遊びに往ったが、毘廬禅院びろぜんいんに一人の星者うらないしゃが泊っているということを聞いたので、いっしょに往ってその室へやへ入った。星者は曾の気位の高いのを見ておべっかをつかった。曾は扇を揺うごかしながら微笑して聞いた。
「宰相になる運命があるのかないのか」
星者は容かたちを正して、
「二十年したら太平の宰相となります」
と言った。曾はひどく悦よろこんで、気位がますます高くなった。
その帰りに小雨に値あうた。曾はそこで仲間といっしょに旁かたわらの寺へ入って雨を避けた。寺の中には一人の老僧がいたが、目の奥深い鼻の高い僧で、蒲団の上に坐ったなりに傲慢な顔をして礼もしなかった。一行は手をあげて礼をして、榻だいにあがってめいめいに話したが、皆曾が宰相になれると言われたことを祝った。曾の心はひどく高ぶって、仲間に指をさして言った。
「僕が宰相になったなら、張兄を南方の巡撫にし、中表いとこを参軍にしよう、我家うちの年よりの僕げなんは小千把しょうせんはになるさ、僕の望みもそれで足れりだ」
一座は大笑いをした。俄かにざあざあと降る雨の音が聞えてきた。曾はくたびれたので榻ねだいの間に寝た。二人の使者が天子の手ずから書いた詔みことのりを持ってきたが、それには曾太師を召して国計を決すとしてあった。曾は得意になって大急ぎで入朝した。
天子は曾に席をすすめさして、温かみのある言葉で何かとおたずねになったが、やや暫くして、曾に三品ほん以下の官は、意のままに任免することをお許しになり、宰相の着ける蟒衣ぼういと玉帯ぎょくたいに添えて名馬をくだされた。曾はそこで蟒衣を被き、玉帯を着け、お辞儀をして天子の前をさがって家へ帰ったが、そこは旧もとの自分の住宅でなかった。絵を画いた棟、彫刻をほどこした榱たるき、それは壮麗の極を窮めたものであった。曾も自分で何のためににわかにこんな身分になったかということが解らなかった。そして、髯をひねりながら小さな声で人を呼ぶと、その返事が雷のように高く響いた。
俄かに公卿から海から獲れた珍しい物を贈ってきた。傴僂せむしのように体を屈めてむやみにお辞儀をする者が家の中に一ぱいになった。参朝すると六卿がうやまいあわてて、屣はきものをあべこべに穿はいて出て迎えた。侍郎じろうの人達とはちょっと挨拶して話をした。そして、それ以下の者には頷いてみせるのみであった。
晋国の巡撫から十人の女の楽人を餽おくってきた。それは皆美しい女であったが、そのうちでも嫋嫋じょうじょうという女と仙仙という女がわけて美しかった。二人はもっとも曾に寵愛せられた。曾はもう衣冠束帯して朝廷にも往かずに、毎日酒宴さかもりを催していた。ある日曾は、自分が賤しかった時、村の紳縉王子良しんしんおうしりょうという者の世話になったことを思いだして、自分は今こんなに栄達しているが、渠かれはまだ官途につまずいていて昇進しないから、一つ引きたててやらなくてはならないと思って、翌朝上疏じょうそして王を諫議大夫に推薦し、そこで天子の諭旨を奉じて、たちどころに引きあげて用いた。また郭太僕かくたいぼくがかつて自分をにらみつけたことを思いだして、そこで、呂給諫ろきゅうかん、及び侍御の陳昌たちを呼んで謀はかりごとを授けたが、翌日になると郭太僕を弾劾した上書が彼方此方から出てきた。曾はそこで天子の旨を奉じて郭太僕の官職を削った。そして恩も怨みも返してしまって、頗る快い気もちであった。
ある時郊外を通っていると、酔っぱらいが来て車に突きあたった。そこで人をやって縛って京兆尹けいちょういんに渡した。京兆尹は獄卒に命じて杖で敲たたいて殺さした。付近の人びとは皆勢いに畏れて上等の産物を献上した。それから曾は非常に富裕になった。
間もなく嫋嫋と仙仙が前後してなくなった。曾は朝夕二人のことを追想していたが、不意に憶いだしたことがあった。それは昔東隣の女を見て美しかったので、いつも妾にしたいと思ったが、財力が弱くておもうとおりにならないことであった。曾はそこで今こそその思いをとげることができると思って、頭だった数人の僕げなんをやって、無理にその家へ金をやった。女はすぐ籐の輿に乗って曾の許もとへ来た。それは昔見た時と較べて一段の艶を増していた。曾はもう自分が望んでいたことでその望みの達しられないものはなかった。
数年したところで、朝廷の官吏の中に窃ひそかに曾の専横を非議する者があるようであったが、しかし、それぞれ自分のことを考えて口に出すものはなかった。曾もまたおもいあがって、それに注意しなかった。龍図学士包りゅうとがくしほうという者があって上疏した。その略には、
「窃におもんみるに曾某は、もと一飲賭の無頼、市井の小人、一言の合、栄、聖眷せいけんを膺うけ、父は紫し、児は朱しゅ、恩寵極まりなし。躯からだを捐すて頂を糜びし、もって万一に報ずるを思わず、かえって胸臆きょうおくを恣ほしいままにし、擅ほしいままに威福を作なす。死すべきの罪、髪を擢ぬきて数えがたし。朝廷の名器、居おきて奇貨をなし、肥瘠ひそうを量欠りょうけつして、価の重軽をなす。因って公卿将士、尽く門下に奔走す。估計夤縁こけいいんえん、儼げんとして負販ふはんの如く、息を仰ぎ塵を望む、算数すべからず。或は傑士賢臣、肯うなずいて阿附あふせざる有あれば、軽ければ則すなわち之を間散かんさんに置き、重ければ則ち褫うばいてもって氓みんを編す。甚しきは且つ一臂袒ひたんせざれば、輒すなわち鹿馬の奸に迕あいて、遠く豺狼ひょうろうの地に竄ざんせられ、朝士之がために寒心す。また且つ平民の膏腴こうゆ、肆ほしいままに貪食するに任す。良家の女子、強いて禽妝きんしょうを委して、※気冤氛れいきえんふん[#「さんずい+診のつくり」、184-16]、暗く天日無し。奴僕どぼく一たび到れば、則ち守令顔を承うけ、書函一たび投ずれば、則ち司院法を枉まぐ。或は廝養しようの児、瓜葛かかつの親有れば則ち伝に乗じ、風行雷動す。地方の供給稍やや遅くして、馬上の鞭撻立所に至る。人民を荼毒とどくし、官府を奴隷にし、扈従臨むところ野に青草無し。而して某方まさに炎々赫赫、寵を怙たのみて悔ゆるなく、召対しょうたい方まさに闕下けつかに承け、萋斐せいひ輒すなわち君前に進む。委蛇いい才わずかに公より退けば、笙歌已に後苑に起る。声色狗馬せいしょくくば、昼夜荒淫、国計民生、念慮に存ずるなし。世上寧むしろ此の宰相有らんや。内外駭訛がいか、人情洶々きょうきょう、若し急に斧※ふしつ[#「金+質」、185-5]の誅を加えずんば、勢必ず操莽そうぼうの禍を醸成せん。臣夙夜しんしゅくや祗つつしみ懼れ、敢て寧処ねいしょせず。
上奏は終った。曾はそれを聞いて顫えあがった。それはちょうど冰水ひょうすいを飲んだように。しかし幸いに天子は心にゆとりのある方であったから、宮中に留め置いて発表しなかった。継いで吏部戸部礼部兵部刑部工部の給事中、各道の監察御吏、及び九卿が、それぞれ曾の罪悪を上奏弾劾した。
そこで昨日まで門口に来てお辞儀をして、曾をかりの父親と呼んでいたような者も、顔をそむけるようになった。朝廷では天子の旨を奉じて曾の家を没収して、曾を雲南軍に往かせることにした。曾の子の任は平陽の太守であったが、もう人をやって吟味をさしてあった。曾は家を没収せられ雲南軍にやられるということを聞かされて驚きおそれていると、やがて数十人の剣を帯び戈ほこを操った武士が来て、そのまま内寝いまへ入って曾の衣冠を褫はいで、妻といっしょに縛った。みるみるうちに数人の人夫が財宝を庭に出しはじめた。金銀銭紙幣数百万、真珠瑪瑙めのうの類数百斛ひゃくこく、幕まく、簾すだれ、榻類これまた数千事。そして児こどもの襁褓おむつや女の※くつ[#「焉」の「正」に代えて「臼」、186-4]などは庭や階段にちらばって見えた。曾は一いちそれを見て悲しみもだえた。また不意に一人の者が曾の愛していた美しい妾を掠奪して往った。妾は髪をふりみだして啼いていた。もうその玉のような姿もよる所がなくなって、悲しみの火が心を焼くようであるが、どうすることもできないと思ったのか、憤りを含めながら敢て何も言わなかった。
みるみるうちに楼閣も倉庫も、一様に封印してしまった。護送の役人は曾を怒鳴りつけておったてた。夫婦は羅うすものの裾をひきずりながら出たが、泣くこともできなかった。曾は歩くのが苦しいので悪い車でも手に入れて乗ろうとしたがそれもできなかった。
すこし往ったところで、妻は足が弱ってつまずきそうになった。曾は時どき片手を出して引いてやった。またすこし往くと自分もまたつかれてしまった。前方むこうを見ると高い山が半天にそそりたっていた。曾はとてもその山を越えることができないと思った。曾は妻と向きあって泣いた。しかし、護送の役人がこわい目をして見にきて、すこしも足を停めることをゆるさなかった。その時、夕陽がもう入っていたが、泊る所がないので、しかたなしに跛びっこをひきながら往った。山の腰にまで往った頃、妻の力が尽きてしまって、路ばたに坐って泣きだした。曾もまた足を停めて休んだ。護送の役人に怒鳴られながら。と、たちまちたくさんの人声が騒がしく聞えてきた。それは盗賊の群で、手に手に刀を持って襲いかかってきた。護送の役人はひどく驚いて逃げてしまった。曾はひざまずいて言った。
「わしは左遷せられて往くところだ、何もない、宥ゆるしてくれ」
盗賊は目をぎらぎらと光らして言った。
「俺達は、きさまに無実の罪をおわされたものだ、きさまの頭をもらいにきたのだ、他にほしい物はないのだ」
曾は怒鳴った。
「わしは罪を持っておるが、それでも朝廷の大臣だ、盗賊のぶんざいで何をする」
盗賊もまた怒って巨きな斧で曾の首を斬った。頭は地の上に堕ちてその音が聞えた。曾は驚くと共に疑うた。そこへ二疋の鬼おにが来て、曾の両手を背に縛っておったてて往った。
数時間して一つの都へ入った。そして、間もなく宮殿へ往った。宮殿の上には一人の醜い形をした王がいて、几つくえに憑よりかかって罪を決めていた。曾は這うようにして前へ出て往った。王は書類に目をやって、わずかに数行見ると、ひどく怒って言った。
「これは君を欺き国を誤るの罪だ、油鼎ゆていに置くがいい」
たくさんの鬼達がそれについて叫んだが、その声は雷のようであった。そこで一疋の巨きな鬼が来て曾をひっつかんで階下へ往った。そこに大きな鼎かなえがあって、高さが七尺ばかり、四囲ぐるりに炭火を燃やして、その足を真紅に焼いてあった。曾はおそろしくて哀れみを乞うて泣いた。逃げようとしても逃げることはできなかった。鬼は左の手をもって髪をつかみ、右の手で踝くるぶしを握って、鼎の中へ投げこんだ。曾の物のかたまりのような小さな体は、油の波の中に浮き沈みした。皮も肉も焦やけただれて、痛みが心にこたえた。沸きたった油は口に入って、肺腑を烹にられるようであった。一思いに死のうと思っても、どうしても死ぬることができなかった。ほぼ食事をする位の時間が経つと、鬼は巨きな叉さすまたで曾を取り出して、また堂の下へ置いた。王はまた書類をしらべて怒って言った。
田中貢太郎
福建の曾孝廉そうこうれんが、第一等の成績で礼部の試験に及第した時、やはりその試験に及第して新たに官吏になった二三の者と郊外に遊びに往ったが、毘廬禅院びろぜんいんに一人の星者うらないしゃが泊っているということを聞いたので、いっしょに往ってその室へやへ入った。星者は曾の気位の高いのを見ておべっかをつかった。曾は扇を揺うごかしながら微笑して聞いた。
「宰相になる運命があるのかないのか」
星者は容かたちを正して、
「二十年したら太平の宰相となります」
と言った。曾はひどく悦よろこんで、気位がますます高くなった。
その帰りに小雨に値あうた。曾はそこで仲間といっしょに旁かたわらの寺へ入って雨を避けた。寺の中には一人の老僧がいたが、目の奥深い鼻の高い僧で、蒲団の上に坐ったなりに傲慢な顔をして礼もしなかった。一行は手をあげて礼をして、榻だいにあがってめいめいに話したが、皆曾が宰相になれると言われたことを祝った。曾の心はひどく高ぶって、仲間に指をさして言った。
「僕が宰相になったなら、張兄を南方の巡撫にし、中表いとこを参軍にしよう、我家うちの年よりの僕げなんは小千把しょうせんはになるさ、僕の望みもそれで足れりだ」
一座は大笑いをした。俄かにざあざあと降る雨の音が聞えてきた。曾はくたびれたので榻ねだいの間に寝た。二人の使者が天子の手ずから書いた詔みことのりを持ってきたが、それには曾太師を召して国計を決すとしてあった。曾は得意になって大急ぎで入朝した。
天子は曾に席をすすめさして、温かみのある言葉で何かとおたずねになったが、やや暫くして、曾に三品ほん以下の官は、意のままに任免することをお許しになり、宰相の着ける蟒衣ぼういと玉帯ぎょくたいに添えて名馬をくだされた。曾はそこで蟒衣を被き、玉帯を着け、お辞儀をして天子の前をさがって家へ帰ったが、そこは旧もとの自分の住宅でなかった。絵を画いた棟、彫刻をほどこした榱たるき、それは壮麗の極を窮めたものであった。曾も自分で何のためににわかにこんな身分になったかということが解らなかった。そして、髯をひねりながら小さな声で人を呼ぶと、その返事が雷のように高く響いた。
俄かに公卿から海から獲れた珍しい物を贈ってきた。傴僂せむしのように体を屈めてむやみにお辞儀をする者が家の中に一ぱいになった。参朝すると六卿がうやまいあわてて、屣はきものをあべこべに穿はいて出て迎えた。侍郎じろうの人達とはちょっと挨拶して話をした。そして、それ以下の者には頷いてみせるのみであった。
晋国の巡撫から十人の女の楽人を餽おくってきた。それは皆美しい女であったが、そのうちでも嫋嫋じょうじょうという女と仙仙という女がわけて美しかった。二人はもっとも曾に寵愛せられた。曾はもう衣冠束帯して朝廷にも往かずに、毎日酒宴さかもりを催していた。ある日曾は、自分が賤しかった時、村の紳縉王子良しんしんおうしりょうという者の世話になったことを思いだして、自分は今こんなに栄達しているが、渠かれはまだ官途につまずいていて昇進しないから、一つ引きたててやらなくてはならないと思って、翌朝上疏じょうそして王を諫議大夫に推薦し、そこで天子の諭旨を奉じて、たちどころに引きあげて用いた。また郭太僕かくたいぼくがかつて自分をにらみつけたことを思いだして、そこで、呂給諫ろきゅうかん、及び侍御の陳昌たちを呼んで謀はかりごとを授けたが、翌日になると郭太僕を弾劾した上書が彼方此方から出てきた。曾はそこで天子の旨を奉じて郭太僕の官職を削った。そして恩も怨みも返してしまって、頗る快い気もちであった。
ある時郊外を通っていると、酔っぱらいが来て車に突きあたった。そこで人をやって縛って京兆尹けいちょういんに渡した。京兆尹は獄卒に命じて杖で敲たたいて殺さした。付近の人びとは皆勢いに畏れて上等の産物を献上した。それから曾は非常に富裕になった。
間もなく嫋嫋と仙仙が前後してなくなった。曾は朝夕二人のことを追想していたが、不意に憶いだしたことがあった。それは昔東隣の女を見て美しかったので、いつも妾にしたいと思ったが、財力が弱くておもうとおりにならないことであった。曾はそこで今こそその思いをとげることができると思って、頭だった数人の僕げなんをやって、無理にその家へ金をやった。女はすぐ籐の輿に乗って曾の許もとへ来た。それは昔見た時と較べて一段の艶を増していた。曾はもう自分が望んでいたことでその望みの達しられないものはなかった。
数年したところで、朝廷の官吏の中に窃ひそかに曾の専横を非議する者があるようであったが、しかし、それぞれ自分のことを考えて口に出すものはなかった。曾もまたおもいあがって、それに注意しなかった。龍図学士包りゅうとがくしほうという者があって上疏した。その略には、
「窃におもんみるに曾某は、もと一飲賭の無頼、市井の小人、一言の合、栄、聖眷せいけんを膺うけ、父は紫し、児は朱しゅ、恩寵極まりなし。躯からだを捐すて頂を糜びし、もって万一に報ずるを思わず、かえって胸臆きょうおくを恣ほしいままにし、擅ほしいままに威福を作なす。死すべきの罪、髪を擢ぬきて数えがたし。朝廷の名器、居おきて奇貨をなし、肥瘠ひそうを量欠りょうけつして、価の重軽をなす。因って公卿将士、尽く門下に奔走す。估計夤縁こけいいんえん、儼げんとして負販ふはんの如く、息を仰ぎ塵を望む、算数すべからず。或は傑士賢臣、肯うなずいて阿附あふせざる有あれば、軽ければ則すなわち之を間散かんさんに置き、重ければ則ち褫うばいてもって氓みんを編す。甚しきは且つ一臂袒ひたんせざれば、輒すなわち鹿馬の奸に迕あいて、遠く豺狼ひょうろうの地に竄ざんせられ、朝士之がために寒心す。また且つ平民の膏腴こうゆ、肆ほしいままに貪食するに任す。良家の女子、強いて禽妝きんしょうを委して、※気冤氛れいきえんふん[#「さんずい+診のつくり」、184-16]、暗く天日無し。奴僕どぼく一たび到れば、則ち守令顔を承うけ、書函一たび投ずれば、則ち司院法を枉まぐ。或は廝養しようの児、瓜葛かかつの親有れば則ち伝に乗じ、風行雷動す。地方の供給稍やや遅くして、馬上の鞭撻立所に至る。人民を荼毒とどくし、官府を奴隷にし、扈従臨むところ野に青草無し。而して某方まさに炎々赫赫、寵を怙たのみて悔ゆるなく、召対しょうたい方まさに闕下けつかに承け、萋斐せいひ輒すなわち君前に進む。委蛇いい才わずかに公より退けば、笙歌已に後苑に起る。声色狗馬せいしょくくば、昼夜荒淫、国計民生、念慮に存ずるなし。世上寧むしろ此の宰相有らんや。内外駭訛がいか、人情洶々きょうきょう、若し急に斧※ふしつ[#「金+質」、185-5]の誅を加えずんば、勢必ず操莽そうぼうの禍を醸成せん。臣夙夜しんしゅくや祗つつしみ懼れ、敢て寧処ねいしょせず。
上奏は終った。曾はそれを聞いて顫えあがった。それはちょうど冰水ひょうすいを飲んだように。しかし幸いに天子は心にゆとりのある方であったから、宮中に留め置いて発表しなかった。継いで吏部戸部礼部兵部刑部工部の給事中、各道の監察御吏、及び九卿が、それぞれ曾の罪悪を上奏弾劾した。
そこで昨日まで門口に来てお辞儀をして、曾をかりの父親と呼んでいたような者も、顔をそむけるようになった。朝廷では天子の旨を奉じて曾の家を没収して、曾を雲南軍に往かせることにした。曾の子の任は平陽の太守であったが、もう人をやって吟味をさしてあった。曾は家を没収せられ雲南軍にやられるということを聞かされて驚きおそれていると、やがて数十人の剣を帯び戈ほこを操った武士が来て、そのまま内寝いまへ入って曾の衣冠を褫はいで、妻といっしょに縛った。みるみるうちに数人の人夫が財宝を庭に出しはじめた。金銀銭紙幣数百万、真珠瑪瑙めのうの類数百斛ひゃくこく、幕まく、簾すだれ、榻類これまた数千事。そして児こどもの襁褓おむつや女の※くつ[#「焉」の「正」に代えて「臼」、186-4]などは庭や階段にちらばって見えた。曾は一いちそれを見て悲しみもだえた。また不意に一人の者が曾の愛していた美しい妾を掠奪して往った。妾は髪をふりみだして啼いていた。もうその玉のような姿もよる所がなくなって、悲しみの火が心を焼くようであるが、どうすることもできないと思ったのか、憤りを含めながら敢て何も言わなかった。
みるみるうちに楼閣も倉庫も、一様に封印してしまった。護送の役人は曾を怒鳴りつけておったてた。夫婦は羅うすものの裾をひきずりながら出たが、泣くこともできなかった。曾は歩くのが苦しいので悪い車でも手に入れて乗ろうとしたがそれもできなかった。
すこし往ったところで、妻は足が弱ってつまずきそうになった。曾は時どき片手を出して引いてやった。またすこし往くと自分もまたつかれてしまった。前方むこうを見ると高い山が半天にそそりたっていた。曾はとてもその山を越えることができないと思った。曾は妻と向きあって泣いた。しかし、護送の役人がこわい目をして見にきて、すこしも足を停めることをゆるさなかった。その時、夕陽がもう入っていたが、泊る所がないので、しかたなしに跛びっこをひきながら往った。山の腰にまで往った頃、妻の力が尽きてしまって、路ばたに坐って泣きだした。曾もまた足を停めて休んだ。護送の役人に怒鳴られながら。と、たちまちたくさんの人声が騒がしく聞えてきた。それは盗賊の群で、手に手に刀を持って襲いかかってきた。護送の役人はひどく驚いて逃げてしまった。曾はひざまずいて言った。
「わしは左遷せられて往くところだ、何もない、宥ゆるしてくれ」
盗賊は目をぎらぎらと光らして言った。
「俺達は、きさまに無実の罪をおわされたものだ、きさまの頭をもらいにきたのだ、他にほしい物はないのだ」
曾は怒鳴った。
「わしは罪を持っておるが、それでも朝廷の大臣だ、盗賊のぶんざいで何をする」
盗賊もまた怒って巨きな斧で曾の首を斬った。頭は地の上に堕ちてその音が聞えた。曾は驚くと共に疑うた。そこへ二疋の鬼おにが来て、曾の両手を背に縛っておったてて往った。
数時間して一つの都へ入った。そして、間もなく宮殿へ往った。宮殿の上には一人の醜い形をした王がいて、几つくえに憑よりかかって罪を決めていた。曾は這うようにして前へ出て往った。王は書類に目をやって、わずかに数行見ると、ひどく怒って言った。
「これは君を欺き国を誤るの罪だ、油鼎ゆていに置くがいい」
たくさんの鬼達がそれについて叫んだが、その声は雷のようであった。そこで一疋の巨きな鬼が来て曾をひっつかんで階下へ往った。そこに大きな鼎かなえがあって、高さが七尺ばかり、四囲ぐるりに炭火を燃やして、その足を真紅に焼いてあった。曾はおそろしくて哀れみを乞うて泣いた。逃げようとしても逃げることはできなかった。鬼は左の手をもって髪をつかみ、右の手で踝くるぶしを握って、鼎の中へ投げこんだ。曾の物のかたまりのような小さな体は、油の波の中に浮き沈みした。皮も肉も焦やけただれて、痛みが心にこたえた。沸きたった油は口に入って、肺腑を烹にられるようであった。一思いに死のうと思っても、どうしても死ぬることができなかった。ほぼ食事をする位の時間が経つと、鬼は巨きな叉さすまたで曾を取り出して、また堂の下へ置いた。王はまた書類をしらべて怒って言った。
赤壁の戦い
事前の経緯
河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したが、8月に劉表が死に、跡を継いだ劉琮は9月に曹操へ降伏した。荊州の一部の人間は曹操への降伏を拒み、劉表の客将であった劉備に付き従った。その数は十数万人にも上り行軍が遅れたため、劉備は関羽が率いる数百艘の船にこれを分乗させ、漢水を南下させた。
劉備は陸路で江陵を目指して南下し、途中で曹操の騎兵に追いつかれたものの長坂の戦いで生き延びた。劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会し、1万人余りの軍勢の指揮を執っていた劉琦と合流しつつ、夏口へ到達した。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、南下して兵を長江沿いに布陣させた。
揚州の情勢
当時の孫権は会稽太守に過ぎず、揚州刺史は曹操が派遣した劉馥であった。劉馥は208年に死去し、帰順していた陳蘭・梅成・雷緒らが反乱を起こしたが、翌年までに夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇らに討伐されて滅んだ。
豫章太守の孫賁は曹操から征虜将軍に拝され、子を人質に出して帰順しようとしたが、呉郡太守の朱治に諌止された。孫賁の弟である廬陵太守の孫輔は、後に曹操に内通したことが発覚し、幽閉(ゆうへい)されている。
赤壁の戦い
数十万とも言われる兵と朝廷の権威を擁する曹操の大軍勢を前に、孫権の陣営は恐れを抱き、張昭らは降伏を説いた。しかし魯粛だけは抗戦を説き、鄱陽に出ていた周瑜を呼び戻させた。
周瑜は 「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は、本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」 と分析し、孫権に抗戦を説いた。
『三国志』呉書魯粛伝によると、 魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。一方、『三国志』蜀書諸葛亮伝によると、諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会した。。 諸葛亮は、「曹操の兵が強行軍で疲弊していること、荊州の人間が曹操に心服していないことを挙げ、関羽が指揮を執る精兵の水軍と劉琦が指揮を執る江夏軍が、孫権軍に協力すれば必ずや曹操を破ることができる」と説いた。
諸葛亮の発言に大いに喜んだ孫権は即座に周瑜、程普らが指揮する水陸二万の兵を派遣し、劉備、周瑜らは併力して疫病に悩まされていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させたとされている。
『三国志』魏書武帝紀には、 「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」 と書かれている。
『三国志』魏書武帝紀に裴松之が付注した『山陽公載記』には、 「公(曹操)は軍船を劉備に焼かれ、華容道を陸路撤退したが、泥道で、倒れた歩兵を踏み越えて騎行したので、死者が多数出た」と書かれている。
『三国志』呉書周瑜伝には、 (周瑜は)「赤壁において遭遇した曹公の軍を劉備の軍と共に逆撃した。この際、軍には疫病が流行っていたため、一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げた」と書かれている。さらに黄蓋の建策による火計と偽降を仕掛け、「油断した曹操兵船に魚油を浸した薪を密かに搭載した小船(走舸)を乗りつけて、同時に発火させたので、強風にあおられて岸辺の陣まで悉く炎上し、焼死・溺死者が広がって(曹操)軍は敗退した。劉備と周瑜が追撃したので、曹公は、曹仁に江陵城で殿軍を命じ北帰した」と書かれている。
『三国志』呉書周瑜伝に裴松之が付注した『江表伝』には、 「時に東南の風が激しく吹き荒れ北船(曹操軍船)を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼させた後に周瑜らは渡渉し陸上から追撃をかけ、北軍は大壊し、曹公は敗走した」と書かれている。
『三国志』蜀書先主伝には、 「先主(劉備)は孫権の派遣した周瑜・程普らの水軍数万と力を合わせ、赤壁で曹公を大いに破り、その船を焼いた。先主は、呉軍と共に水陸並進、追撃して南郡にいたり、曹公は、疾病による死者も多いため帰還した」と書かれている。
『三国志』呉書呉主伝には、 「周瑜と程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、劉備と共に進軍し赤壁で曹公を大いに破った」と書かれている。
笵曄『後漢書』考献帝紀には、 「曹操は水軍で孫権を討伐したが、烏林・赤壁で孫権の将周瑜に敗れた」と書かれている。
袁宏『後漢紀』考献皇帝紀には、 「曹操と周瑜は赤壁で戦い、曹操は大敗した」と書かれている。
『太平御覧』が引用する『英雄記』には、「曹操は赤壁から長江南岸へ渡ろうとしたが、船がなかったため筏を作って漢水沿いに川をくだって浦口に至った。曹操がすぐには渡ろうとしなかったため、周瑜は夜中に火を放たせ、筏に火燃えうつると、すぐに船を返して逃げかえった。数千艘の筏を燃やされた曹操はそのため夜中に逃走することになった。曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が死亡した。」と書かれている。
『三国志』呉書呉主伝には、 「曹公軍の大半が飢えと病で亡くなった」と書かれている 。
周瑜、劉備らは、水陸並行して更に曹操を追撃して、南郡まで兵を進めた。曹操は、慣れない江水岸の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退したとされている。
赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、曹操は張喜に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて合肥の救援に向かわせた。そして曹操配下の蔣済が流した、「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、孫盛は「赤壁の戦いで劉備が曹操を破った後、孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。
南郡攻防戦
208年冬、南郡に進撃した周瑜軍は、曹仁と長江を挟んで対峙した。甘寧は夷陵城を奪取することを提案し、周瑜はこの提案を採用、甘寧は数百人の部隊で夷陵城を奪取した。曹仁は甘寧に対し即座に5000人規模の部隊を派遣し夷陵を包囲させた。このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍を攻撃して破り、夷陵を完全確保することに成功した。
その後、渡河したばかりの周瑜の先鋒部隊(数千人)に陥いれられた配下の将・牛金を、曹仁は僅か数十人で包囲網に突入して救出し、それを見た部下たちは「将軍は真に天人なり」と感嘆した。双方の軍隊が対峙を始めたが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。曹仁は周瑜重傷を知り、周瑜軍へ進撃した。しかし、周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退けた。交戦開始から一年を越え、曹仁は周瑜らに包囲されたため窮地に陥った。劉備は張飛に千人を預けて周瑜の指揮下に入れ、一方で周瑜から二千人を借り受け、軍勢を互いに送りあった上で協調して曹仁を討つことを提案した。周瑜はこれに同意し、自軍から二千の兵を選び劉備に預けた。その間、南部の4郡の太守は劉備に攻撃され戦死、降伏し、また関羽にも北道を封鎖された。李通・満寵らが関羽を攻撃し、関羽軍に突入し、戦いつつ前進し、曹仁軍を救出した。結局は曹仁らは江陵を捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵を占拠し、南郡を平定した。
曹操は揚州における陳蘭・梅成・雷緒らの反乱鎮圧に夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇を派遣する一方で、荊州に対しては劉巴を単身派遣するだけで効果的な手を打てず、一度は確保した荊州の南郡以南を全て失った。しかし襄陽郊外の青泥まで進出していた関羽と蘇非の二人を楽進が攻撃し撤退させ、周辺の異民族をも降伏させたため、襄陽一帯だけは確保することができた。
事前の経緯
河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したが、8月に劉表が死に、跡を継いだ劉琮は9月に曹操へ降伏した。荊州の一部の人間は曹操への降伏を拒み、劉表の客将であった劉備に付き従った。その数は十数万人にも上り行軍が遅れたため、劉備は関羽が率いる数百艘の船にこれを分乗させ、漢水を南下させた。
劉備は陸路で江陵を目指して南下し、途中で曹操の騎兵に追いつかれたものの長坂の戦いで生き延びた。劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会し、1万人余りの軍勢の指揮を執っていた劉琦と合流しつつ、夏口へ到達した。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、南下して兵を長江沿いに布陣させた。
揚州の情勢
当時の孫権は会稽太守に過ぎず、揚州刺史は曹操が派遣した劉馥であった。劉馥は208年に死去し、帰順していた陳蘭・梅成・雷緒らが反乱を起こしたが、翌年までに夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇らに討伐されて滅んだ。
豫章太守の孫賁は曹操から征虜将軍に拝され、子を人質に出して帰順しようとしたが、呉郡太守の朱治に諌止された。孫賁の弟である廬陵太守の孫輔は、後に曹操に内通したことが発覚し、幽閉(ゆうへい)されている。
赤壁の戦い
数十万とも言われる兵と朝廷の権威を擁する曹操の大軍勢を前に、孫権の陣営は恐れを抱き、張昭らは降伏を説いた。しかし魯粛だけは抗戦を説き、鄱陽に出ていた周瑜を呼び戻させた。
周瑜は 「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は、本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」 と分析し、孫権に抗戦を説いた。
『三国志』呉書魯粛伝によると、 魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。一方、『三国志』蜀書諸葛亮伝によると、諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会した。。 諸葛亮は、「曹操の兵が強行軍で疲弊していること、荊州の人間が曹操に心服していないことを挙げ、関羽が指揮を執る精兵の水軍と劉琦が指揮を執る江夏軍が、孫権軍に協力すれば必ずや曹操を破ることができる」と説いた。
諸葛亮の発言に大いに喜んだ孫権は即座に周瑜、程普らが指揮する水陸二万の兵を派遣し、劉備、周瑜らは併力して疫病に悩まされていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させたとされている。
『三国志』魏書武帝紀には、 「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」 と書かれている。
『三国志』魏書武帝紀に裴松之が付注した『山陽公載記』には、 「公(曹操)は軍船を劉備に焼かれ、華容道を陸路撤退したが、泥道で、倒れた歩兵を踏み越えて騎行したので、死者が多数出た」と書かれている。
『三国志』呉書周瑜伝には、 (周瑜は)「赤壁において遭遇した曹公の軍を劉備の軍と共に逆撃した。この際、軍には疫病が流行っていたため、一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げた」と書かれている。さらに黄蓋の建策による火計と偽降を仕掛け、「油断した曹操兵船に魚油を浸した薪を密かに搭載した小船(走舸)を乗りつけて、同時に発火させたので、強風にあおられて岸辺の陣まで悉く炎上し、焼死・溺死者が広がって(曹操)軍は敗退した。劉備と周瑜が追撃したので、曹公は、曹仁に江陵城で殿軍を命じ北帰した」と書かれている。
『三国志』呉書周瑜伝に裴松之が付注した『江表伝』には、 「時に東南の風が激しく吹き荒れ北船(曹操軍船)を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼させた後に周瑜らは渡渉し陸上から追撃をかけ、北軍は大壊し、曹公は敗走した」と書かれている。
『三国志』蜀書先主伝には、 「先主(劉備)は孫権の派遣した周瑜・程普らの水軍数万と力を合わせ、赤壁で曹公を大いに破り、その船を焼いた。先主は、呉軍と共に水陸並進、追撃して南郡にいたり、曹公は、疾病による死者も多いため帰還した」と書かれている。
『三国志』呉書呉主伝には、 「周瑜と程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、劉備と共に進軍し赤壁で曹公を大いに破った」と書かれている。
笵曄『後漢書』考献帝紀には、 「曹操は水軍で孫権を討伐したが、烏林・赤壁で孫権の将周瑜に敗れた」と書かれている。
袁宏『後漢紀』考献皇帝紀には、 「曹操と周瑜は赤壁で戦い、曹操は大敗した」と書かれている。
『太平御覧』が引用する『英雄記』には、「曹操は赤壁から長江南岸へ渡ろうとしたが、船がなかったため筏を作って漢水沿いに川をくだって浦口に至った。曹操がすぐには渡ろうとしなかったため、周瑜は夜中に火を放たせ、筏に火燃えうつると、すぐに船を返して逃げかえった。数千艘の筏を燃やされた曹操はそのため夜中に逃走することになった。曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が死亡した。」と書かれている。
『三国志』呉書呉主伝には、 「曹公軍の大半が飢えと病で亡くなった」と書かれている 。
周瑜、劉備らは、水陸並行して更に曹操を追撃して、南郡まで兵を進めた。曹操は、慣れない江水岸の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退したとされている。
赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、曹操は張喜に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて合肥の救援に向かわせた。そして曹操配下の蔣済が流した、「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、孫盛は「赤壁の戦いで劉備が曹操を破った後、孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。
南郡攻防戦
208年冬、南郡に進撃した周瑜軍は、曹仁と長江を挟んで対峙した。甘寧は夷陵城を奪取することを提案し、周瑜はこの提案を採用、甘寧は数百人の部隊で夷陵城を奪取した。曹仁は甘寧に対し即座に5000人規模の部隊を派遣し夷陵を包囲させた。このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍を攻撃して破り、夷陵を完全確保することに成功した。
その後、渡河したばかりの周瑜の先鋒部隊(数千人)に陥いれられた配下の将・牛金を、曹仁は僅か数十人で包囲網に突入して救出し、それを見た部下たちは「将軍は真に天人なり」と感嘆した。双方の軍隊が対峙を始めたが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。曹仁は周瑜重傷を知り、周瑜軍へ進撃した。しかし、周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退けた。交戦開始から一年を越え、曹仁は周瑜らに包囲されたため窮地に陥った。劉備は張飛に千人を預けて周瑜の指揮下に入れ、一方で周瑜から二千人を借り受け、軍勢を互いに送りあった上で協調して曹仁を討つことを提案した。周瑜はこれに同意し、自軍から二千の兵を選び劉備に預けた。その間、南部の4郡の太守は劉備に攻撃され戦死、降伏し、また関羽にも北道を封鎖された。李通・満寵らが関羽を攻撃し、関羽軍に突入し、戦いつつ前進し、曹仁軍を救出した。結局は曹仁らは江陵を捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵を占拠し、南郡を平定した。
曹操は揚州における陳蘭・梅成・雷緒らの反乱鎮圧に夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇を派遣する一方で、荊州に対しては劉巴を単身派遣するだけで効果的な手を打てず、一度は確保した荊州の南郡以南を全て失った。しかし襄陽郊外の青泥まで進出していた関羽と蘇非の二人を楽進が攻撃し撤退させ、周辺の異民族をも降伏させたため、襄陽一帯だけは確保することができた。
エル・アラメインの戦い
前哨戦、アラム・ハルファの戦い
アメリカ軍の戦車を大量に陸揚げし、物量に勝る英軍は植民地徴収兵(オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・インドなど)に、エル・アラメイン前面から南へ向けて堅固なボックス陣地を敷かせた(参照、ガザラの戦い)。それに対し、ドイツアフリカ軍団(DAK)ほかドイツ・イタリア枢軸軍の司令官エルヴィン・ロンメルは、英軍陣地ラインはイタリア軍と歩兵に任せ主力の第15、21装甲師団をはるか南から長躯迂回(海岸寄りの地域には地雷や戦車用の罠が敷設され、強化された塹壕に兵士が立てこもっていたのでこうせざるをえなかった)させ地中海側から英軍を包囲しようと8月31日進撃を開始する。
英第7機甲師団の前衛にロンメルは猛攻を加えたが、奥行きのある広範囲の地雷原により攻撃の鉾先が鈍り、しばしば地雷の被害を受けた。そうして突破に手間取り、燃料不足に直面すると、北からモントゴメリーが差し向けた英第8機甲師団の一部が、東からは第7機甲師団の主力が圧迫してきた。ロンメルは当初の計画をあきらめ、第21装甲師団が防御しつつ第15装甲師団には、さらに迂回してアラム・ハルファ高地に陣取る英軍本陣を突こうとした。しかし、補給不足の中を進軍する第15装甲師団は英第22戦車旅団と衝突し敗走した。
この戦いで英軍は攻勢にでることなく防御のみで勝利した。
第二次エル・アラメイン会戦
英軍はM4中戦車300両を陸揚げするなど、兵員数・戦車数で枢軸軍の二倍以上の数を集めたが、勝利を確実にするため大規模なカモフラージュ作戦を行った。南方から攻めるように見せかけて実際には北側から攻めることを秘匿するためと、攻撃開始時期が差し迫っていないと思わせるために、偽補給品集積所をはるか南方後方に設置。戦車・大砲は張りぼてを置く一方、本物はトラックに偽装。偽水道パイプラインを南方に延伸した。モントゴメリーはチャーチルに行動をせっつかれていたが、増援が毎週スエズ運河を遡ってくるので、制空権と制海権という傘の下で着々と準備を整えていた。
10月23日、モントゴメリーは1000門以上の砲で一斉砲撃を開始した。この時の連合軍の砲の数と火力は、海空の戦力と同じく敵を凌いでいた(英軍2300門、枢軸1350門(内850門はイタリア軍))。さらに、第8軍の砲兵連隊は、戦場に散開せずに集中して強力な集団を形成していた。1200両以上の戦車の内500両は強力なシャーマン戦車やグラント戦車で、火力、航続距離、装甲ともにドイツ・イタリア軍装甲師団を上回っていた。ただ、ロンメルの敷設した地雷の除去などで当初進軍は捗らなかった。
騙されたドイツ軍はロンメルが持病の治療のために帰国したままで奇襲を受け、代理指揮官のシュトゥンメ将軍が戦死する。ロンメルは急いで北アフリカに戻ったが、あらかじめ敷いてあった「悪魔の園」と呼ばれる地雷原や構築した陣地も英軍指揮官バーナード・モントゴメリーの巧みな戦術で突破された。物量的に不利な戦いの中でロンメルは善戦したが、戦車不足と敵の物量に追い詰められていった。唯一対抗できるのは88mm高射砲だったが、それも度重なる戦いで24門を残すのみとなった。
ロンメル不在の10月23日から11月1日にかけて、連合軍の反攻を効果的に阻害したのはイタリア陸軍であった。南部地区を守る第185空挺師団『フォルゴーレ』(イタリア語版)は兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶と地雷だけという状況にもかかわらず、肉薄攻撃によって連合軍の戦車部隊に損害を強要し、本格的な攻勢を2度に渡って退けている。イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる損害を知ったチャーチルは「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛したと言う。ただし同師団の損害も著しく、DAKと共にイタリア軍がこの地を撤退したときには壊滅状態であった。
11月2日、ロンメルは更なる敵の大攻勢を知って撤退を決意した。この戦いにおいてモントゴメリーは全面攻勢をかけ、容赦ない圧力をかけていた。ロンメルは連合軍の攻撃を掻い潜り、英軍が把握していないような道を通り、主力をフカの防衛線まで撤退させる事に成功した。ロンメルは3日、アドルフ・ヒトラーからの命令を受け取った。内容は「現在地を死守し不退転の決意で戦うべし」というものだった。
最前線にいた将校はロンメルにいかに状況が絶望的であるかを報告した。どの師団も消耗が激しく、兵員は1000を数えれば良い方であった。高級将校すら車輌の不足で徒歩で司令部に向かう状況だった。こうしている間にも連合軍は米国から大量の増援を受けていた。
11月4日にロンメルは総退却命令を出した。連戦連勝を誇ったドイツアフリカ軍団にとって初めての大敗北となった。
以後枢軸軍は次々と防衛線を突破され、アルジェリア、モロッコへの連合軍の上陸作戦(トーチ作戦)の成功により翌年にはチュニジアに追い詰められ、北アフリカから姿を消す。大勝利の知らせを聞いたイギリス首相チャーチルは、「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう。」と語った。後に「エル・アラメインの前に勝利無く、エル・アラメインの後に敗北無し」と言われる、歴史の転換点となった。
今回の英軍の勝利を単に“兵力の優位”と言い切るのは、あまりに単純すぎる。クレタ島やトブルクで苦戦した時よりも連合軍の指揮統制システムは格段に向上しており、ドイツ軍を欺くための欺瞞作戦についてもモントゴメリーとその広報チームの苦労と深慮が報われた。
前哨戦、アラム・ハルファの戦い
アメリカ軍の戦車を大量に陸揚げし、物量に勝る英軍は植民地徴収兵(オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・インドなど)に、エル・アラメイン前面から南へ向けて堅固なボックス陣地を敷かせた(参照、ガザラの戦い)。それに対し、ドイツアフリカ軍団(DAK)ほかドイツ・イタリア枢軸軍の司令官エルヴィン・ロンメルは、英軍陣地ラインはイタリア軍と歩兵に任せ主力の第15、21装甲師団をはるか南から長躯迂回(海岸寄りの地域には地雷や戦車用の罠が敷設され、強化された塹壕に兵士が立てこもっていたのでこうせざるをえなかった)させ地中海側から英軍を包囲しようと8月31日進撃を開始する。
英第7機甲師団の前衛にロンメルは猛攻を加えたが、奥行きのある広範囲の地雷原により攻撃の鉾先が鈍り、しばしば地雷の被害を受けた。そうして突破に手間取り、燃料不足に直面すると、北からモントゴメリーが差し向けた英第8機甲師団の一部が、東からは第7機甲師団の主力が圧迫してきた。ロンメルは当初の計画をあきらめ、第21装甲師団が防御しつつ第15装甲師団には、さらに迂回してアラム・ハルファ高地に陣取る英軍本陣を突こうとした。しかし、補給不足の中を進軍する第15装甲師団は英第22戦車旅団と衝突し敗走した。
この戦いで英軍は攻勢にでることなく防御のみで勝利した。
第二次エル・アラメイン会戦
英軍はM4中戦車300両を陸揚げするなど、兵員数・戦車数で枢軸軍の二倍以上の数を集めたが、勝利を確実にするため大規模なカモフラージュ作戦を行った。南方から攻めるように見せかけて実際には北側から攻めることを秘匿するためと、攻撃開始時期が差し迫っていないと思わせるために、偽補給品集積所をはるか南方後方に設置。戦車・大砲は張りぼてを置く一方、本物はトラックに偽装。偽水道パイプラインを南方に延伸した。モントゴメリーはチャーチルに行動をせっつかれていたが、増援が毎週スエズ運河を遡ってくるので、制空権と制海権という傘の下で着々と準備を整えていた。
10月23日、モントゴメリーは1000門以上の砲で一斉砲撃を開始した。この時の連合軍の砲の数と火力は、海空の戦力と同じく敵を凌いでいた(英軍2300門、枢軸1350門(内850門はイタリア軍))。さらに、第8軍の砲兵連隊は、戦場に散開せずに集中して強力な集団を形成していた。1200両以上の戦車の内500両は強力なシャーマン戦車やグラント戦車で、火力、航続距離、装甲ともにドイツ・イタリア軍装甲師団を上回っていた。ただ、ロンメルの敷設した地雷の除去などで当初進軍は捗らなかった。
騙されたドイツ軍はロンメルが持病の治療のために帰国したままで奇襲を受け、代理指揮官のシュトゥンメ将軍が戦死する。ロンメルは急いで北アフリカに戻ったが、あらかじめ敷いてあった「悪魔の園」と呼ばれる地雷原や構築した陣地も英軍指揮官バーナード・モントゴメリーの巧みな戦術で突破された。物量的に不利な戦いの中でロンメルは善戦したが、戦車不足と敵の物量に追い詰められていった。唯一対抗できるのは88mm高射砲だったが、それも度重なる戦いで24門を残すのみとなった。
ロンメル不在の10月23日から11月1日にかけて、連合軍の反攻を効果的に阻害したのはイタリア陸軍であった。南部地区を守る第185空挺師団『フォルゴーレ』(イタリア語版)は兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶と地雷だけという状況にもかかわらず、肉薄攻撃によって連合軍の戦車部隊に損害を強要し、本格的な攻勢を2度に渡って退けている。イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる損害を知ったチャーチルは「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛したと言う。ただし同師団の損害も著しく、DAKと共にイタリア軍がこの地を撤退したときには壊滅状態であった。
11月2日、ロンメルは更なる敵の大攻勢を知って撤退を決意した。この戦いにおいてモントゴメリーは全面攻勢をかけ、容赦ない圧力をかけていた。ロンメルは連合軍の攻撃を掻い潜り、英軍が把握していないような道を通り、主力をフカの防衛線まで撤退させる事に成功した。ロンメルは3日、アドルフ・ヒトラーからの命令を受け取った。内容は「現在地を死守し不退転の決意で戦うべし」というものだった。
最前線にいた将校はロンメルにいかに状況が絶望的であるかを報告した。どの師団も消耗が激しく、兵員は1000を数えれば良い方であった。高級将校すら車輌の不足で徒歩で司令部に向かう状況だった。こうしている間にも連合軍は米国から大量の増援を受けていた。
11月4日にロンメルは総退却命令を出した。連戦連勝を誇ったドイツアフリカ軍団にとって初めての大敗北となった。
以後枢軸軍は次々と防衛線を突破され、アルジェリア、モロッコへの連合軍の上陸作戦(トーチ作戦)の成功により翌年にはチュニジアに追い詰められ、北アフリカから姿を消す。大勝利の知らせを聞いたイギリス首相チャーチルは、「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう。」と語った。後に「エル・アラメインの前に勝利無く、エル・アラメインの後に敗北無し」と言われる、歴史の転換点となった。
今回の英軍の勝利を単に“兵力の優位”と言い切るのは、あまりに単純すぎる。クレタ島やトブルクで苦戦した時よりも連合軍の指揮統制システムは格段に向上しており、ドイツ軍を欺くための欺瞞作戦についてもモントゴメリーとその広報チームの苦労と深慮が報われた。
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