人ひとが大おおきくなると
潮時しおどきに手て放ばなすことが多おおくなる
人間にんげん関係かんけいでは
しつこく手て放ばなさないことは意味いみがない
これははっきりしている
长大了做的最多的事就是适时放手
因为我很清楚一段感情中揪着不放
是没有任何作用的。
恋こいや友情ゆうじょうは
理性りせいをキープするのが実じつに難むずかしい
悔くやしくて 悔くやしくてたまらなく
弛たゆみなく頑張がんばれば
いい結果けっかになると思おもうのは普通ふつうのことだ
我知道感情中做到理智很难
大部分时候都会不甘心,都意难平
都以为坚持后会有结果。
人間にんげん関係かんけいは
まさにギアのようなものである
少すこし違ちがえば、ゆっくりと
すり合あわせることはまだできるが
もし二人ふたりの息いきが全まったく合あわないなら
人和人之间的关系,很像齿轮一样
小的细节不同,我们可以慢慢磨合
但如果你是圆形的,我是方形的。
お互いたが に無理むりに努力どりょくする必要ひつようがない
さっそく自分じぶんの調子ちょうしを整えととの
時じ間かんを大たい切せつにして
お互たがいに合あう人ひとと一いっ緒しょにいた方ほうがいいだろう
那就没有努力的必要了
不如早一点给自己痛快也好呀
把时间花在“适合”的人身上。
生活せいかつの苦くるしさを十じゅう分ぶん味あじわったので
誰だれかと愛あいする時とき
ちょっとだけの甘あまさが欲ほしい
君きみから得えられないなら次つぎにしよう
生活已经很苦了
爱人的时候就只要一点点甜
你给不了我的,我就去找下一个。
#恋爱##情感语录##心情日记#
そのあとどんな人に
出会であうかがわからないが
どんな人ひとに出会であっても相手あいては
必かならずあなたの優すぐれたところや
余裕よゆうのある態度たいどと美うつくしさを期き待たいしている
也许我们不知道之后遇见怎么样的人
但可以肯定的是
无论会遇到怎么样的人
对方同样也会渴望着
你的优秀,从容,美好。
だからわざと気きを遣つかって
人ひとの機嫌きげんをとる必要ひつようがないのだ
むしろそれらの時間じかんで
自分じぶんを豊かゆた にすることに集中しゅうちゅうした方ほうが良よい
それはある日ひまた会あう時とき、自信じしんたっぷりに
「君きみはいいんだけど、私わたしも悪わるくないんだ」を
言いうためなんだ。
所以我们没必要去花心思讨好别人
而应该把所有时间都用来武装自己
只是为了当有一天遇见你的时候
能够理直气壮地说
我知道 你很好,但是我也不差。
潮時しおどきに手て放ばなすことが多おおくなる
人間にんげん関係かんけいでは
しつこく手て放ばなさないことは意味いみがない
これははっきりしている
长大了做的最多的事就是适时放手
因为我很清楚一段感情中揪着不放
是没有任何作用的。
恋こいや友情ゆうじょうは
理性りせいをキープするのが実じつに難むずかしい
悔くやしくて 悔くやしくてたまらなく
弛たゆみなく頑張がんばれば
いい結果けっかになると思おもうのは普通ふつうのことだ
我知道感情中做到理智很难
大部分时候都会不甘心,都意难平
都以为坚持后会有结果。
人間にんげん関係かんけいは
まさにギアのようなものである
少すこし違ちがえば、ゆっくりと
すり合あわせることはまだできるが
もし二人ふたりの息いきが全まったく合あわないなら
人和人之间的关系,很像齿轮一样
小的细节不同,我们可以慢慢磨合
但如果你是圆形的,我是方形的。
お互いたが に無理むりに努力どりょくする必要ひつようがない
さっそく自分じぶんの調子ちょうしを整えととの
時じ間かんを大たい切せつにして
お互たがいに合あう人ひとと一いっ緒しょにいた方ほうがいいだろう
那就没有努力的必要了
不如早一点给自己痛快也好呀
把时间花在“适合”的人身上。
生活せいかつの苦くるしさを十じゅう分ぶん味あじわったので
誰だれかと愛あいする時とき
ちょっとだけの甘あまさが欲ほしい
君きみから得えられないなら次つぎにしよう
生活已经很苦了
爱人的时候就只要一点点甜
你给不了我的,我就去找下一个。
#恋爱##情感语录##心情日记#
そのあとどんな人に
出会であうかがわからないが
どんな人ひとに出会であっても相手あいては
必かならずあなたの優すぐれたところや
余裕よゆうのある態度たいどと美うつくしさを期き待たいしている
也许我们不知道之后遇见怎么样的人
但可以肯定的是
无论会遇到怎么样的人
对方同样也会渴望着
你的优秀,从容,美好。
だからわざと気きを遣つかって
人ひとの機嫌きげんをとる必要ひつようがないのだ
むしろそれらの時間じかんで
自分じぶんを豊かゆた にすることに集中しゅうちゅうした方ほうが良よい
それはある日ひまた会あう時とき、自信じしんたっぷりに
「君きみはいいんだけど、私わたしも悪わるくないんだ」を
言いうためなんだ。
所以我们没必要去花心思讨好别人
而应该把所有时间都用来武装自己
只是为了当有一天遇见你的时候
能够理直气壮地说
我知道 你很好,但是我也不差。
今川氏真の歴史
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
人間椅子(四)
江戸川乱歩
奥様、一生の御願いでございます。たった一度、私にお逢い下さる訳わけには行かぬでございましょうか。そして、一言でも、この哀れな醜い男に、慰めのお言葉をおかけ下さる訳には行かぬでございましょうか。私は決してそれ以上を望むものではありません。そんなことを望むには、余りに醜く、汚けがれ果てた私でございます。どうぞどうぞ、世にも不幸な男の、切なる願いを御聞き届け下さいませ。
私は昨夜、この手紙を書く為に、お邸を抜け出しました。面と向って、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、且かつ私には迚も出来ないことでございます。
そして、今、あなたがこの手紙をお読みなさる時分には、私は心配の為に青い顔をして、お邸のまわりを、うろつき廻って居ります。
若し、この、世にも無躾なお願いをお聞き届け下さいますなら、どうか書斎の窓の撫子なでしこの鉢植はちうえに、あなたのハンカチをおかけ下さいまし、それを合図に、私は、何気なき一人の訪問者としてお邸の玄関を訪れるでございましょう。
そして、このふしぎな手紙は、ある熱烈な祈りの言葉を以て結ばれていた。
佳子は、手紙の半程なかほどまで読んだ時、已すでに恐しい予感の為に、まっ青になって了った。
そして、無意識に立上ると、気味悪い肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ来ていた。手紙の後の方は、いっそ読まないで、破り棄すてて了おうかと思ったけれど、どうやら気懸きがかりなままに、居間の小机の上で、兎も角も、読みつづけた。
彼女の予感はやっぱり当っていた。
これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。彼女が毎日腰かけていた、あの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男が、入っていたのであるか。
「オオ、気味の悪い」
彼女は、背中から冷水をあびせられた様な、悪寒おかんを覚えた。そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。
彼女は、あまりのことに、ボンヤリして了って、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。椅子を調べて見る(?)どうしてどうして、そんな気味の悪いことが出来るものか。そこには仮令、もう人間がいなくても、食物その他の、彼に附属した汚いものが、まだ残されているに相違ないのだ。
「奥様、お手紙でございます」
ハッとして、振り向くと、それは、一人の女中が、今届いたらしい封書を持もって来たのだった。
佳子は、無意識にそれを受取って、開封しようとしたが、ふと、その上書うわがきを見ると、彼女は、思わずその手紙を取りおとした程も、ひどい驚きに打たれた。そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖ふでぐせをもって、彼女の名宛なあてが書かれてあったのだ。
彼女は、長い間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。が、とうとう、最後にそれを破って、ビクビクしながら、中身を読んで行った。手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせた様な、奇妙な文言もんごんが記しるされていた。
突然御手紙を差上げます無躾を、幾重にもお許し下さいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送り致しましたのは、私の拙つたない創作でございます。御一覧の上、御批評が頂けますれば、此上の幸さいわいはございません。ある理由の為に、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函致しましたから、已に御覧済みかと拝察致します。如何いかがでございましたでしょうか。若し、拙作せっさくがいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。
原稿には、態わざと省いて置きましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。
では、失礼を顧かえりみず、お願いまで。匆々そうそう。
《人间椅子》为《江户川乱步作品集》第三卷。一共收录江户川乱步所撰写的变格推理短篇十五篇。《人间椅子》是乱步的第二十一则短篇。写一位有名的女性作家,收到一个沉甸甸的信封,打开看到一封很厚的书信。内容是一名椅子工匠的告白,他说曾经躲进亲自制作的豪华椅子里,最初被送到饭店,观察并接触各式各样的人,几个月后椅子易主,变为一位富裕的外交官座椅,其夫人是有名的作家,工匠爱上了作家……是一篇异想天开的猎奇小说杰作。
江戸川乱歩
奥様、一生の御願いでございます。たった一度、私にお逢い下さる訳わけには行かぬでございましょうか。そして、一言でも、この哀れな醜い男に、慰めのお言葉をおかけ下さる訳には行かぬでございましょうか。私は決してそれ以上を望むものではありません。そんなことを望むには、余りに醜く、汚けがれ果てた私でございます。どうぞどうぞ、世にも不幸な男の、切なる願いを御聞き届け下さいませ。
私は昨夜、この手紙を書く為に、お邸を抜け出しました。面と向って、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、且かつ私には迚も出来ないことでございます。
そして、今、あなたがこの手紙をお読みなさる時分には、私は心配の為に青い顔をして、お邸のまわりを、うろつき廻って居ります。
若し、この、世にも無躾なお願いをお聞き届け下さいますなら、どうか書斎の窓の撫子なでしこの鉢植はちうえに、あなたのハンカチをおかけ下さいまし、それを合図に、私は、何気なき一人の訪問者としてお邸の玄関を訪れるでございましょう。
そして、このふしぎな手紙は、ある熱烈な祈りの言葉を以て結ばれていた。
佳子は、手紙の半程なかほどまで読んだ時、已すでに恐しい予感の為に、まっ青になって了った。
そして、無意識に立上ると、気味悪い肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ来ていた。手紙の後の方は、いっそ読まないで、破り棄すてて了おうかと思ったけれど、どうやら気懸きがかりなままに、居間の小机の上で、兎も角も、読みつづけた。
彼女の予感はやっぱり当っていた。
これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。彼女が毎日腰かけていた、あの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男が、入っていたのであるか。
「オオ、気味の悪い」
彼女は、背中から冷水をあびせられた様な、悪寒おかんを覚えた。そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。
彼女は、あまりのことに、ボンヤリして了って、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。椅子を調べて見る(?)どうしてどうして、そんな気味の悪いことが出来るものか。そこには仮令、もう人間がいなくても、食物その他の、彼に附属した汚いものが、まだ残されているに相違ないのだ。
「奥様、お手紙でございます」
ハッとして、振り向くと、それは、一人の女中が、今届いたらしい封書を持もって来たのだった。
佳子は、無意識にそれを受取って、開封しようとしたが、ふと、その上書うわがきを見ると、彼女は、思わずその手紙を取りおとした程も、ひどい驚きに打たれた。そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖ふでぐせをもって、彼女の名宛なあてが書かれてあったのだ。
彼女は、長い間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。が、とうとう、最後にそれを破って、ビクビクしながら、中身を読んで行った。手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせた様な、奇妙な文言もんごんが記しるされていた。
突然御手紙を差上げます無躾を、幾重にもお許し下さいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送り致しましたのは、私の拙つたない創作でございます。御一覧の上、御批評が頂けますれば、此上の幸さいわいはございません。ある理由の為に、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函致しましたから、已に御覧済みかと拝察致します。如何いかがでございましたでしょうか。若し、拙作せっさくがいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。
原稿には、態わざと省いて置きましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。
では、失礼を顧かえりみず、お願いまで。匆々そうそう。
《人间椅子》为《江户川乱步作品集》第三卷。一共收录江户川乱步所撰写的变格推理短篇十五篇。《人间椅子》是乱步的第二十一则短篇。写一位有名的女性作家,收到一个沉甸甸的信封,打开看到一封很厚的书信。内容是一名椅子工匠的告白,他说曾经躲进亲自制作的豪华椅子里,最初被送到饭店,观察并接触各式各样的人,几个月后椅子易主,变为一位富裕的外交官座椅,其夫人是有名的作家,工匠爱上了作家……是一篇异想天开的猎奇小说杰作。
✋热门推荐