日本列島の旧石器時代

食糧の獲得
旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。

狩猟においては落とし穴(陥し穴)が使用されており、その遺構(土坑)が検出されている。静岡県三島市の初音ヶ原遺跡では、台地の尾根を横切るように並んで幾重かに巡らされた、深さ1.5~1.6メートルで、上部がラッパ状に開く60基の落とし穴が検出されている。また、同県駿東郡長泉町の東野遺跡や、神奈川県横須賀市の打木原遺跡でも同様の落とし穴が見つかっている。初音ヶ原遺跡や打木原遺跡のものは、姶良丹沢火山灰(At層)堆積層より下で検出されたことから、約30000年前のものと推定されている。

このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴建物跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。
漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段を持っていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。

縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという[要出典]から、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したからである。
更新世(洪積世)の人類化石
日本列島は火山列島とも呼ばれるように火山活動が活発であり、更新世の火山噴火による火山灰が瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだため、骨を分解する酸性土壌の占める地域が多く、旧石器時代の遺跡に人骨・獣骨化石が残る例がほとんどない。こうした中でもこれまで更新世人類化石として知られていた例も多かった。しかし、C14年代測定法や再検討の結果、それらの多くが更新世人類化石の地位を失い、静岡県の浜北人と沖縄県の港川人等の数例が更新世人類とされている。

浜北人
詳細は「浜北人」を参照
浜北人は、静岡県浜名郡浜北町(現・浜松市浜名区)根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)に発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の人骨化石である。上・下2つの地層から出土した。それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析法(AMS)による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の脛骨が約1.8万年前を示した。本州唯一の更新世の人骨化石で、20代の女性のものとされる。また縄文人に似た骨格からその祖形のものと思われる。

山下洞人
沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年(昭和43年)に発見された。8歳程度の女児とみられる大腿骨・腓骨・脛骨で、同じ層から出土した炭化物の放射性炭素年代測定によると約3万2000年前とされる、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。

港川人
1970年(昭和45年)に沖縄県島尻郡具志頭村(現・八重瀬町)の港川採石場で、個人研究家の大山盛保によって約1.8万年前の更新世のものとされる数体の人骨化石が発見された(港川遺跡)。これは縄文時代よりおよそ5000年古く、旧石器時代後期に相当する。男性の推定身長は153cmから155cm、女性は145cmと小柄で、下半身に比べ上半身は華奢である。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であるなど原始的な骨格で、前頭骨が小さく後頭骨の上半分が突出する点や四肢骨の筋肉付着部が発達していない点で縄文人とも異なる独自の特徴を持っている。

またこれに先立つ1967年-1969年には、同じ採石場の石灰岩フィッシャー上部において、1.2万年前のものと考えられる人骨(上腕骨・尺骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見されている。こちらは日本本土で多く発見されている縄文人の骨格的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれている。

2009年度(平成21年度)の日本学術振興会による共同研究では、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道から九州地方にかけての縄文時代人とは、下顎形態に、多数の相違点が見出だされ、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされている。

下地原洞人
1978年(昭和53年)からの数次に渡る調査で、沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)の下地原洞穴遺跡で発見。生後1歳未満(8か月~10か月)の乳幼児(新生児)の化石人骨約50片が動物の骨とともに見つかった。年代は出土したカニ化石の放射性炭素年代測定により15200±100年前(B.P.)とされた。

ピンザアブ洞人
1979年(昭和54年)に沖縄県宮古郡上野村(現・宮古島市)のピンザアブと呼ばれる洞穴で発見。アミノ酸ラセミ化分析では、約2万年前と測定された。また、同じ地層中の木炭片の放射性炭素年代測定では、25800±900年前(B.P.) - 26800 ±1,300年前(B.P.)と測定された。

白保人
2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分かったと発表した[44][45]。また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)という推定年代値を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定した値としては国内最古のものであった。

サキタリ洞人
沖縄県南城市サキタリ洞遺跡で発見された断片的な人骨。約1万2千年前のものとされ、同じ地層から発見された石英製の剥片石器や海産貝などは人為的に持ち込まれたものと考えられている。

その他
沖縄県では、以下の遺跡からも更新世(洪積世)の人骨化石が発掘及び報告されている。

大山(おおやま)洞穴 - 沖縄県宜野湾市
カダ原(かだばる)洞穴 - 沖縄県国頭郡伊江村
ゴヘズ洞穴 - 沖縄県国頭郡伊江村
桃原(とうばる)洞穴 - 沖縄県中頭郡北谷町
かつて更新世人類と考えられた人類化石
葛生人(くずうじん) - 栃木県葛生町(現・佐野市)で1950年代に発見され、元早稲田大学教授直良信夫によって更新世人類と考えられた。しかし、発見された骨8点のうち4点は、動物骨であることが確認された。残りのうちの2点は放射性炭素年代測定の結果400年前の人骨であることが分かった。
三ヶ日人 - 1959年-1961年に静岡県三ケ日町(現・浜松市)の石灰岩採石場から頭骨片5点、寬骨(腸骨)、大腿骨など複数の成人の骨が発見され、後期更新世人類と考えられたが、放射性炭素年代法により9000年前の縄文時代早期の人骨と分かった。
牛川人 - 1957年に愛知県豊橋市牛川鉱山で上腕骨と大腿骨の化石が発見され、東京大学名誉教授鈴木尚によって中期更新世人類(旧人)と考えられたが、人骨の特徴を備えていなかった。
明石人 - 1931年に兵庫県明石市で直良信夫により寬骨が発見され、直良は旧石器時代の人骨としたが学会は受け入れなかった。その後、人骨は戦争で焼失し石膏模型のみが残った。戦後、長谷部言人がこれを原人として論争が起こったが、現在では一部を除き新しい時期の人骨とする意見が強い。
聖岳人 - 1962年に大分県本匠村(現・佐伯市)の聖嶽洞穴で前頭骨片と頭頂後頭骨片が発見され、元新潟大学教授小片保によって中国の山頂洞人と似ているとされたが、形態面や年代推定から歴史(江戸)時代に属する可能性が極めて高くなった。

日本的旧石器时代(にほんのきゅうせっきじだい),大约500万年前日本最初是和亚洲大陆相连的,1万3000年前由于火山的喷发造成地壳运动,日本的弧状列岛脱离亚洲大陆,成为现今的日本原貌。约1万2千年前左右,因末次冰期结束而开始急剧温暖化,使得人们的文化与生活产生极大变化,除了琉球群岛以外,全岛进入下个绳文时代。

田単
概略
斉の将軍となる
斉の公族の田氏の遠縁にあたり、湣王の頃に斉の都の臨淄の市場の役人となった。

紀元前284年、燕の将軍の楽毅率いる5カ国の連合軍によって斉が敗北し臨淄が占領されると、湣王は逃亡し莒に立て籠もった。田単も東の安平へ逃げ込むが、燕の勢いを察知してか一族の者に馬車を補強させた。その後、燕軍によって安平が陥落すると人々は脱出したが、馬車の車軸が折れたりなどして燕軍に捕らえられる者が続出した。そんな中、補強していた田単の一族は無事に即墨へ逃れることができた。

快進撃を続ける燕軍は70余もある斉の城を次々と落とし、残すは莒と即墨のみとなった。莒では湣王が相国の淖歯に殺害され、その子の襄王に代替わりする事態に陥っていたものの数年間も城を守り通していたため、攻めあぐねた楽毅は即墨に矛先を向けた。城を守る即墨の大夫はこれを迎撃するが返り討ちにあい敗死してしまう。これを受けて即墨では今後の方針が話し合われ、安平での出来事を知る者達から、その知略を嘱望されて田単が将軍に立てられ、城を守ることになった。

策略の数々
その最中の紀元前279年、燕の昭王が死去し、太子の恵王が即位した。恵王と楽毅の仲が悪い事を知った田単はこれを好機にと燕へ間者を放ち、「莒と即墨はすぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、自ら斉王になる望みがあるからだ」「斉が恐れているのは、将軍が代わり容赦なく攻められることだ」との噂を流した。恵王はこれを信じて代わりに騎劫を派遣し、楽毅には帰国するよう命じた。その結果、強敵の楽毅を亡命に追い込むことに成功し、燕軍は王の処置に憤慨し士気は落ちた。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。
続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。

火牛の計
城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。

そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。
田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。こうして都の臨淄に戻ることができた斉の襄王は、田単の功績を認めて、安平君に封じた。

その後
安平君への封爵との前後は不明ながら、復興後の田単は斉の宰相の就任したが、民衆に施しを行うなど善政を敷き、ある時道中に寒さに凍えていた老人に自身の着物を貸し与えた事があった。これを知った襄王は、田単が人心を得て斉の王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、田単を誅そうとしたが、配下の諫めによって思い留まった。しかし襄王の側近たちは田単を疎み、田単と親交のあった貂勃を罠に嵌め、連座で田単をも失脚させようと試みた。これを受けた襄王は、田単に対し威圧的な態度で事を問い質した。しかしその後当の貂勃が自ら襄王に掛け合い、田単が燕を打ち破った功績や、その際王族という立場を以て自らが王を名乗る事もできたにも拘わらず、それを行わずして襄王を迎え入れた忠誠心を訴えたため、襄王は田単を讒言した側近たちを処刑し、田単への加増を行ったという。
その後の田単は、趙の軍勢を率いて、燕の中陽県を攻めて、これを占領した。さらに韓の注人県を攻めてこれを占領した。後に趙の宰相になった(『史記』「趙世家」)。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていない。

司馬遷も「『孫子』の『始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない』とは、田単のことを言っているのだろう」と評し、『史記』に単独で列伝を立てていることからも、かなり高く評価していることが窺える。

田单(dān),妫姓,田氏,名单,临淄(今山东省临淄区)人。战国时期齐国名将,齐国远房宗室。
初任市掾,管理临淄市场秩序。乐毅率领五国军队,攻打齐国。危亡之际,田单坚守即墨,以火牛阵大破燕军,收复失地七十余城,拜为相国,封为安平君。
后来,受到齐王猜忌,前往赵国出将入相,封号都平君,死后葬于安平城内。

蘇秦

史記における略歴
以下は『史記』蘇秦列伝における事跡である。

洛邑の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に師事し、縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族さえも嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の慎靚王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、武王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。

その後は燕の昭王に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の襄王を説いた際に、後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」[注 1]という言辞を述べた。

趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。

合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。

合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力を弱め、燕の利益を図ることにあった。斉では湣王に取り立てられたが、そのため対立者により暗殺されてしまう。蘇秦は死ぬ直前に湣王に対して「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。湣王は蘇秦の遺言に従うと、蘇秦を殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した。
張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。

史記の記述における矛盾
上記は『史記』によるものだが、後世の研究において矛盾が指摘されている。たとえばこの時期に、趙の君主は王号を称していなかった。また秦の進出も魏までに留まっており、それより東方の燕や斉には秦の脅威は及んでいなかった。

司馬遷が『史記』を執筆した時代は蘇秦より200年以上後であり、また秦の始皇帝の焚書坑儒によって大量の資料が失われていた。そのため秦の記録と趙世家だけが司馬遷の依拠した資料であり、東方の情報が欠乏していた。そこで秦での張儀の活動については詳しくわかるが、東方で活動した蘇秦については事績が曖昧になった。さらに司馬遷自身が「世間では蘇秦の異聞が多く、異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」としている。従って司馬遷は蘇秦の事績の復元を乏しい資料によって行ったのだが、その編集を誤ったと考えられている。

1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正された。

蘇秦は張儀よりも後の時代に活躍した人であった。その時代、斉は燕の領土を奪い、秦と並ぶ二大強国となっていた。そこで諸国はこの2国のどちらと同盟するかという対応に迫られた。また燕は斉への復讐を企てていた。この時に燕に登用されたのが蘇秦であり、斉への使者となった。さらに斉でも外交官となって合従のために奔走するが、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5国が合従して秦を攻めたが、5カ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の5カ国が合従して斉を攻撃し(済西の戦い)、燕は復讐を果たすのである。
淮南子
『淮南子』詮言訓では「公孫龍粲於辞而貿名、鄧析巧辯而乱法、蘇秦善説而亡国」と列記され、その智謀(弁論術)がかえって国をほろぼした例として批評されている。

苏秦(?—前284年)(一说为?—前317年),己姓,苏氏,名秦,字季子,东周洛阳(今河南洛阳东)人,战国时期纵横家、外交家、谋略家。苏秦年轻时到阳城(嵩山登封)与张仪同师鬼谷子。苦学3年,辞别先生,回到洛阳家中。后出游列国,以期谋一官半职。几年后,无望而归,妻不下机,嫂不为炊,父母不子。后发愤读书,致力于纵横之术,倡导合纵说。曾游说六国合纵御秦,使秦不能向东扩张。苏秦为纵约长,佩6国相印。归赵,赵肃侯封为武安君。合纵的形成使秦兵15年不敢出函谷关。后因6国不能合作,纵约瓦解。苏秦为保护燕国,打击齐国,特奉燕昭王命入齐,从事反间活动,使齐疲于对外战争,以便攻齐复仇。后燕将乐毅联合5国大举攻齐,苏秦的反间活动暴露,已被任为齐相的苏秦遭到齐国大臣的痛恨,被车裂而死,葬于嵩山巩义市区西南28公里鲁庄镇苏家庄村南。


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