ヘーラクレース
生い立ち
ヘーラクレースはゼウスとアルクメーネー(ペルセウスの孫に当たる)の子。アルクメーネーを見初めたゼウスは、様々に言い寄ったが、アルクメーネーはアムピトリュオーンとの結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子イーピクレースの双子の母となった。
アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神エイレイテュイアを遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7か月のエウリュステウスを先に世に出した。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。
ヘーラクレースの誕生後、ゼウスはヘーラクレースに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。このとき飛び散った乳が天の川(galaxyは「乳のサイクル」Milky Wayは「乳の道」)になったという。一説にはアルクメーネーはヘーラーの迫害を恐れて赤ん坊のヘーラクレースを城外の野原に捨てた。ゼウスがアテーナーに命じて、ヘーラーを赤ん坊の捨てられた野原に連れて行くと、アテーナーは赤ん坊を拾い、赤ん坊に母乳を与えるように勧めた。赤ん坊の来歴が知らされていないヘーラーは哀れに思い、母乳を与えた。最後にアテーナーは不死の力を得た赤ん坊をアルクメーネーの元へ返し大切に育てるよう告げる。
これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ったが、赤ん坊のヘーラクレースは素手でこれを絞め殺した。
成長と狂気
ヘーラクレースはアムピトリュオーンから戦車の扱いを、アウトリュコスからレスリングを、エウリュトスから弓術、カストールから武器の扱いを、リノスから竪琴の扱いを学んだ。しかしリノスに殴られた際ヘーラクレースは激怒し、リノスを竪琴で殴り殺してしまう。そしてケンタウロス族のケイローンに武術を師事して、剛勇無双となった。キタイローン山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。
ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦い、これを倒した。クレオーン王は娘メガラーを妻としてヘーラクレースに与え、二人の間には3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにデルポイに赴き、アポローンの神託を伺った。神託は「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせ」というものだった。ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。「ヘラクレスの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んで行くことをいう。
十二の功業
エウリュステウスがヘーラクレースに命じた仕事は次の通り。
ネメアーの獅子
ネメアーの獅子は刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつかなかった。ヘーラクレースは棍棒で殴って悶絶させ、洞窟へと追い込んだ。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、三日間の格闘の末に絞め殺した。この獅子は後にしし座となった。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪によって加工され、彼はその皮を頭からかぶり、鎧として用いた。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためである。
レルネーのヒュドラー
ヒュドラーは、レルネーの沼に住み、9つの(百とも言われる)頭を持った水蛇である。触れただけで生きとし生けるものを絶命させる世界最強の猛毒を有していた。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかった。ヘーラクレースは始め、鉄の鎌でヒュドラーの首を切っていったが、切った後からさらに2つの首が生えてきて収拾がつかない。しかも頭のひとつは不死だった。従者のイオラオス(双子の兄弟イピクレスの子)がヒュドラーの傷口を松明の炎で焼いて新しい首が生えるのを妨げてヘーラクレースを助けた。最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治した。そしてヒュドラーはうみへび座となった。また、この戦いで、ヘーラーがヒュドラーに加勢させるべく送り込んだ巨大な化け蟹を、ヘーラクレースはあっさり踏みつぶしてしまった。この蟹がその後かに座となった。
エウリュステウスは、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、功業が1つ増えることになった。またヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになった。
ケリュネイアの鹿
アカイア地方のケリュネイアの鹿(牝鹿)は女神アルテミスの聖獣で黄金の角と青銅のひづめを持っていた。4頭の兄弟がおり、アルテミスに生け捕られ、彼女の戦車を引いていたが、この5頭目の鹿は狩猟の女神をもってしても捕らえる事ができないほどの脚の速さを誇った。女神から傷つけることを禁じられたため、ヘーラクレースは1年間追い回した末に鹿を生け捕りにした。その後この鹿はアルテミスに捧げられ、他の4頭とともに戦車を牽くこととなった。
エリュマントスの猪
エリュマントス山に住む人食いの怪物、大猪を生け捕りにした。生け捕り自体はさしたる問題なく片づいたが、このとき、ヘーラクレースはケンタウロスのポロスに助力を求めていた。ポロスが預かっていたケンタウロス一族の共有していた酒をヘーラクレースが飲んだ事により、ケンタウロス一族と争いになった。その戦いで、誤って武術の師であるケイローンにヒュドラーの毒矢を放ってしまった。ケイローンは不死の力を与えられていたが、毒の苦しみに耐えきれず、不死の力をプロメーテウスに譲渡して死を選んだ。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされる。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼をいて座にしたという。
アウゲイアースの家畜小屋
エーリス王アウゲイアースは3,000頭の牛を持ち、その牛小屋は30年間掃除されたことがなかった。ヘーラクレースはアウゲイアースに「1日で掃除したら、牛の10分の1をもらう」という条件を持ちかけ、アウゲイアースは承知した。ヘーラクレースはアルペイオス川とペネイオス川の2つの川の流れを強引に変え、小屋に引き込んで30年分の汚物をいっぺんに洗い流した。しかし、おかげでこの川の流れは狂ってしまい、たびたび洪水を引き起こすようになったという。
エウリュステウスは、罪滅ぼしなのに報酬を要求したとして(川の神の力を借りたため、とする説もある)これをノーカウントにしたため、さらに功業が1つ増えることとなった。また、アウゲイアースは約束を守らず、知らないふりをした。ヘーラクレースはこのことを忘れず、後になってアウゲイアースを攻略した。
「家畜の汚物処理」という後年使われる英雄のステレオタイプとしてのヘーラクレース像としては似つかわしくない雑業であり、単独の美術題材として用いられることが極めて少ないエピソードとして有名[要出典]。
ステュムパーロスの鳥
ステュムパーロスの鳥は、翼、爪、くちばしが青銅でできていた。ヘーラクレースはこの恐ろしい怪鳥を驚かせて飛び立たせるため、ヘーパイストスからとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房のキュクロープス達の目覚まし用)を借り受け、音に驚いて飛び立ったところをヒュドラーの毒矢で射落とした。また、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを、1羽ずつ捕らえて絞め殺したとも言われている。
クレータの牡牛
クレータ島の王ミーノースを罰するためにポセイドーンの送り込んだクレータの牡牛を生け捕りにした。この牡牛はミーノータウロスの父親であり、美しいが猛々しく、極めて凶暴であった。ヘーラクレースはミーノース王に協力を求めるが拒否され、結局素手で格闘してこの牡牛をおとなしくさせ、アルゴスまで連行した。
ディオメーデースの人喰い馬
ディオメーデースの人喰い馬は、トラーキア王ディオメーデースはアレースの子で、旅人を捕らえて自分の馬に食わせていた。
シケリアのディオドーロスによれば、ヘーラクレースは逆にディオメーデースを馬に食わせてしまい、馬は生け捕りにした[1]。 またアポロドーロスによれば、ヘーラクレースが馬を奪った後にディオメーデースが軍勢を率いて馬を奪還しようとしたため、ヘーラクレースは若衆の従者アブデーロスに馬の番をさせて戦いに出かけた。しかしヘーラクレースがディオメーデースを戦いで殺害して戻ってくると、少年は走る馬に大地の上を引きずられて死んでいた[2]。ただしアブデーロスは馬に食い殺されたとする伝承も多い[3][4][5]。
アマゾーンの女王の腰帯
エウリュステウスの娘アドメーテーがアマゾーン女王ヒッポリュテーの腰帯を欲しがったために、これを持ってくることを命じられた。ヘーラクレースはアマゾーンとの戦いになると考え、テーセウスらの勇士を集めて敵地に乗り込んだが、交渉したところ、ヒッポリュテーは強靭な肉体のヘーラクレース達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾した。ところがヘーラーがアマゾーンの一人に変じて「ヘーラクレースが女王を拉致しようとしている」と煽ったため、アマゾーン達はヘーラクレースを攻撃した。ヘーラクレースは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテーを殺害して腰帯を持ち帰った。
一説ではヘーラーが変装したのはヒッポリュテー本人で、彼女に変装したヘーラーが『ヘーラクレース達が国を乗っ取ろうとしている』と他のアマゾーン族を唆し襲撃させた。突如襲撃されたヘーラクレースは激怒。ヒッポリュテーに攻め寄り、必死に身の潔白を訴えるヒッポリュテーを殴り殺してしまった。冷静さを取り戻したヘーラクレースは、ヒッポリュテーの目は嘘を言っているように見えなかったと、話も聞かず殺してしまったことを後悔した。
ゲーリュオーンの牛
ゲーリュオーンの飼う紅い牛を求めるのだが、ゲーリュオーンは、メドゥーサがペルセウスに殺されたときに血潮とともに飛び出したクリューサーオールの息子で、大洋オーケアノスの西の果てに浮かぶ島エリュテイアに住んでおり、常人は行き着くことができなかった。
アフリカに行き着いたヘーラクレースが太陽の熱気に怒り、太陽神ヘーリオスに矢を射掛けたため、ヘーリオスは、その剛気を嘉して黄金の盃を与えた。別の説では、ヘーラクレースは矢で太陽を射落としてみせ、ヘーリオスに無理矢理黄金の盃を貸させた。ヘーラクレースは盃に乗ってオーケアノスを渡ることができた。
エリュテイアでは双頭の犬オルトロスが牛を守っていたが、ヘーラクレースはオルトロスや牛の番人エウリュティオーンを棍棒で打ち殺して、紅い牛とともに牛の群れを奪った。そして牛を奪い返さんと追ってきたゲーリュオーンを射殺した。
ヘーラクレースは冒険の途次、ジブラルタル海峡を通過した際に海峡の両岸に「ヘラクレスの柱」を残した。また、登るのが面倒な高い山脈を叩き割って大陸であった場所に海峡を作り、割れた山脈の両辺をヘラクレスの柱としたとも言われる。
生い立ち
ヘーラクレースはゼウスとアルクメーネー(ペルセウスの孫に当たる)の子。アルクメーネーを見初めたゼウスは、様々に言い寄ったが、アルクメーネーはアムピトリュオーンとの結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子イーピクレースの双子の母となった。
アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神エイレイテュイアを遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7か月のエウリュステウスを先に世に出した。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。
ヘーラクレースの誕生後、ゼウスはヘーラクレースに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。このとき飛び散った乳が天の川(galaxyは「乳のサイクル」Milky Wayは「乳の道」)になったという。一説にはアルクメーネーはヘーラーの迫害を恐れて赤ん坊のヘーラクレースを城外の野原に捨てた。ゼウスがアテーナーに命じて、ヘーラーを赤ん坊の捨てられた野原に連れて行くと、アテーナーは赤ん坊を拾い、赤ん坊に母乳を与えるように勧めた。赤ん坊の来歴が知らされていないヘーラーは哀れに思い、母乳を与えた。最後にアテーナーは不死の力を得た赤ん坊をアルクメーネーの元へ返し大切に育てるよう告げる。
これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ったが、赤ん坊のヘーラクレースは素手でこれを絞め殺した。
成長と狂気
ヘーラクレースはアムピトリュオーンから戦車の扱いを、アウトリュコスからレスリングを、エウリュトスから弓術、カストールから武器の扱いを、リノスから竪琴の扱いを学んだ。しかしリノスに殴られた際ヘーラクレースは激怒し、リノスを竪琴で殴り殺してしまう。そしてケンタウロス族のケイローンに武術を師事して、剛勇無双となった。キタイローン山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。
ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦い、これを倒した。クレオーン王は娘メガラーを妻としてヘーラクレースに与え、二人の間には3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにデルポイに赴き、アポローンの神託を伺った。神託は「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせ」というものだった。ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。「ヘラクレスの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んで行くことをいう。
十二の功業
エウリュステウスがヘーラクレースに命じた仕事は次の通り。
ネメアーの獅子
ネメアーの獅子は刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつかなかった。ヘーラクレースは棍棒で殴って悶絶させ、洞窟へと追い込んだ。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、三日間の格闘の末に絞め殺した。この獅子は後にしし座となった。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪によって加工され、彼はその皮を頭からかぶり、鎧として用いた。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためである。
レルネーのヒュドラー
ヒュドラーは、レルネーの沼に住み、9つの(百とも言われる)頭を持った水蛇である。触れただけで生きとし生けるものを絶命させる世界最強の猛毒を有していた。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかった。ヘーラクレースは始め、鉄の鎌でヒュドラーの首を切っていったが、切った後からさらに2つの首が生えてきて収拾がつかない。しかも頭のひとつは不死だった。従者のイオラオス(双子の兄弟イピクレスの子)がヒュドラーの傷口を松明の炎で焼いて新しい首が生えるのを妨げてヘーラクレースを助けた。最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治した。そしてヒュドラーはうみへび座となった。また、この戦いで、ヘーラーがヒュドラーに加勢させるべく送り込んだ巨大な化け蟹を、ヘーラクレースはあっさり踏みつぶしてしまった。この蟹がその後かに座となった。
エウリュステウスは、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、功業が1つ増えることになった。またヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになった。
ケリュネイアの鹿
アカイア地方のケリュネイアの鹿(牝鹿)は女神アルテミスの聖獣で黄金の角と青銅のひづめを持っていた。4頭の兄弟がおり、アルテミスに生け捕られ、彼女の戦車を引いていたが、この5頭目の鹿は狩猟の女神をもってしても捕らえる事ができないほどの脚の速さを誇った。女神から傷つけることを禁じられたため、ヘーラクレースは1年間追い回した末に鹿を生け捕りにした。その後この鹿はアルテミスに捧げられ、他の4頭とともに戦車を牽くこととなった。
エリュマントスの猪
エリュマントス山に住む人食いの怪物、大猪を生け捕りにした。生け捕り自体はさしたる問題なく片づいたが、このとき、ヘーラクレースはケンタウロスのポロスに助力を求めていた。ポロスが預かっていたケンタウロス一族の共有していた酒をヘーラクレースが飲んだ事により、ケンタウロス一族と争いになった。その戦いで、誤って武術の師であるケイローンにヒュドラーの毒矢を放ってしまった。ケイローンは不死の力を与えられていたが、毒の苦しみに耐えきれず、不死の力をプロメーテウスに譲渡して死を選んだ。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされる。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼をいて座にしたという。
アウゲイアースの家畜小屋
エーリス王アウゲイアースは3,000頭の牛を持ち、その牛小屋は30年間掃除されたことがなかった。ヘーラクレースはアウゲイアースに「1日で掃除したら、牛の10分の1をもらう」という条件を持ちかけ、アウゲイアースは承知した。ヘーラクレースはアルペイオス川とペネイオス川の2つの川の流れを強引に変え、小屋に引き込んで30年分の汚物をいっぺんに洗い流した。しかし、おかげでこの川の流れは狂ってしまい、たびたび洪水を引き起こすようになったという。
エウリュステウスは、罪滅ぼしなのに報酬を要求したとして(川の神の力を借りたため、とする説もある)これをノーカウントにしたため、さらに功業が1つ増えることとなった。また、アウゲイアースは約束を守らず、知らないふりをした。ヘーラクレースはこのことを忘れず、後になってアウゲイアースを攻略した。
「家畜の汚物処理」という後年使われる英雄のステレオタイプとしてのヘーラクレース像としては似つかわしくない雑業であり、単独の美術題材として用いられることが極めて少ないエピソードとして有名[要出典]。
ステュムパーロスの鳥
ステュムパーロスの鳥は、翼、爪、くちばしが青銅でできていた。ヘーラクレースはこの恐ろしい怪鳥を驚かせて飛び立たせるため、ヘーパイストスからとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房のキュクロープス達の目覚まし用)を借り受け、音に驚いて飛び立ったところをヒュドラーの毒矢で射落とした。また、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを、1羽ずつ捕らえて絞め殺したとも言われている。
クレータの牡牛
クレータ島の王ミーノースを罰するためにポセイドーンの送り込んだクレータの牡牛を生け捕りにした。この牡牛はミーノータウロスの父親であり、美しいが猛々しく、極めて凶暴であった。ヘーラクレースはミーノース王に協力を求めるが拒否され、結局素手で格闘してこの牡牛をおとなしくさせ、アルゴスまで連行した。
ディオメーデースの人喰い馬
ディオメーデースの人喰い馬は、トラーキア王ディオメーデースはアレースの子で、旅人を捕らえて自分の馬に食わせていた。
シケリアのディオドーロスによれば、ヘーラクレースは逆にディオメーデースを馬に食わせてしまい、馬は生け捕りにした[1]。 またアポロドーロスによれば、ヘーラクレースが馬を奪った後にディオメーデースが軍勢を率いて馬を奪還しようとしたため、ヘーラクレースは若衆の従者アブデーロスに馬の番をさせて戦いに出かけた。しかしヘーラクレースがディオメーデースを戦いで殺害して戻ってくると、少年は走る馬に大地の上を引きずられて死んでいた[2]。ただしアブデーロスは馬に食い殺されたとする伝承も多い[3][4][5]。
アマゾーンの女王の腰帯
エウリュステウスの娘アドメーテーがアマゾーン女王ヒッポリュテーの腰帯を欲しがったために、これを持ってくることを命じられた。ヘーラクレースはアマゾーンとの戦いになると考え、テーセウスらの勇士を集めて敵地に乗り込んだが、交渉したところ、ヒッポリュテーは強靭な肉体のヘーラクレース達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾した。ところがヘーラーがアマゾーンの一人に変じて「ヘーラクレースが女王を拉致しようとしている」と煽ったため、アマゾーン達はヘーラクレースを攻撃した。ヘーラクレースは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテーを殺害して腰帯を持ち帰った。
一説ではヘーラーが変装したのはヒッポリュテー本人で、彼女に変装したヘーラーが『ヘーラクレース達が国を乗っ取ろうとしている』と他のアマゾーン族を唆し襲撃させた。突如襲撃されたヘーラクレースは激怒。ヒッポリュテーに攻め寄り、必死に身の潔白を訴えるヒッポリュテーを殴り殺してしまった。冷静さを取り戻したヘーラクレースは、ヒッポリュテーの目は嘘を言っているように見えなかったと、話も聞かず殺してしまったことを後悔した。
ゲーリュオーンの牛
ゲーリュオーンの飼う紅い牛を求めるのだが、ゲーリュオーンは、メドゥーサがペルセウスに殺されたときに血潮とともに飛び出したクリューサーオールの息子で、大洋オーケアノスの西の果てに浮かぶ島エリュテイアに住んでおり、常人は行き着くことができなかった。
アフリカに行き着いたヘーラクレースが太陽の熱気に怒り、太陽神ヘーリオスに矢を射掛けたため、ヘーリオスは、その剛気を嘉して黄金の盃を与えた。別の説では、ヘーラクレースは矢で太陽を射落としてみせ、ヘーリオスに無理矢理黄金の盃を貸させた。ヘーラクレースは盃に乗ってオーケアノスを渡ることができた。
エリュテイアでは双頭の犬オルトロスが牛を守っていたが、ヘーラクレースはオルトロスや牛の番人エウリュティオーンを棍棒で打ち殺して、紅い牛とともに牛の群れを奪った。そして牛を奪い返さんと追ってきたゲーリュオーンを射殺した。
ヘーラクレースは冒険の途次、ジブラルタル海峡を通過した際に海峡の両岸に「ヘラクレスの柱」を残した。また、登るのが面倒な高い山脈を叩き割って大陸であった場所に海峡を作り、割れた山脈の両辺をヘラクレスの柱としたとも言われる。
人間椅子(一)
江戸川乱歩
佳子よしこは、毎朝、夫の登庁とうちょうを見送って了しまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじ籠こもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。
美しい閨秀けいしゅう作家としての彼女は、此この頃ごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。
今朝けさとても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、先まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。
それは何いずれも、極きまり切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣こころづかいから、どの様な手紙であろうとも、自分に宛あてられたものは、兎とも角かくも、一通りは読んで見ることにしていた。
簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。別段通知の手紙は貰もらっていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題丈だけでも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。
それは、思った通り、原稿用紙を綴とじたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。そして、持前もちまえの好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。
奥様、
奥様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様このような無躾ぶしつけな御手紙を、差上げます罪を、幾重いくえにもお許し下さいませ。
こんなことを申上げますと、奥様は、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。
私は数ヶ月の間、全く人間界から姿を隠して、本当に、悪魔の様な生活を続けて参りました。勿論もちろん、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。若もし、何事もなければ、私は、このまま永久に、人間界に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。
ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔ざんげしないではいられなくなりました。ただ、かように申しましたばかりでは、色々御不審ごふしんに思召おぼしめす点もございましょうが、どうか、兎も角も、この手紙を終りまで御読み下さいませ。そうすれば、何故なぜ、私がそんな気持になったのか。又何故、この告白を、殊更ことさら奥様に聞いて頂かねばならぬのか、それらのことが、悉ことごとく明白になるでございましょう。
さて、何から書き初めたらいいのか、余りに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、人間世界で使われる、手紙という様な方法では、妙に面おもはゆくて、筆の鈍るのを覚えます。でも、迷っていても仕方がございません。兎も角も、事の起りから、順を追って、書いて行くことに致しましょう。
私は生れつき、世にも醜い容貌の持主でございます。これをどうか、はっきりと、お覚えなすっていて下さいませ。そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いを容いれて、私にお逢あい下さいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活の為ために、二ふた目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、堪たえ難がたいことでございます。
私という男は、何と因果な生れつきなのでありましょう。そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にも烈はげしい情熱を、燃もやしていたのでございます。私は、お化ばけのような顔をした、その上極ごく貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢ぜいたくな、種々様々の「夢」にあこがれていたのでございます。
私が若し、もっと豊な家に生れていましたなら、金銭の力によって、色々の遊戯に耽ふけり、醜貌しゅうぼうのやるせなさを、まぎらすことが出来たでもありましょう。それとも又、私に、もっと芸術的な天分が、与えられていましたなら、例えば美しい詩歌によって、此世このよの味気あじきなさを、忘れることが出来たでもありましょう。併しかし、不幸な私は、何いずれの恵みにも浴することが出来ず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、其日そのひ其日の暮しを、立てて行く外ほかはないのでございました。
私の専門は、様々の椅子いすを作ることでありました。私の作った椅子は、どんな難しい註文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物じょうものばかりを、廻して呉くれて居りました。そんな上物になりますと、凭もたれや肘掛ひじかけの彫りものに、色々むずかしい註文があったり、クッションの工合ぐあい、各部の寸法などに、微妙な好みがあったりして、それを作る者には、一寸ちょっと素人の想像出来ない様な苦心が要るのでございますが、でも、苦心をすればした丈け、出来上った時の愉快というものはありません。生意気を申す様ですけれど、その心持ちは、芸術家が立派な作品を完成した時の喜びにも、比ぶべきものではないかと存じます。
一つの椅子が出来上ると、私は先ず、自分で、それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。そして、味気ない職人生活の内にも、その時ばかりは、何とも云えぬ得意を感じるのでございます。そこへは、どの様な高貴の方が、或あるいはどの様な美しい方がおかけなさることか、こんな立派な椅子を、註文なさる程のお邸やしきだから、そこには、きっと、この椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるだろう。壁間かべには定めし、有名な画家の油絵が懸かかり、天井からは、偉大な宝石の様な装飾電燈シャンデリヤが、さがっているに相違ない。床には、高価な絨氈じゅうたんが、敷きつめてあるだろう。そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、西洋草花が、甘美な薫かおりを放って、咲き乱れていることであろう。そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、自分が、その立派な部屋の主あるじにでもなった様な気がして、ほんの一瞬間ではありますけれど、何とも形容の出来ない、愉快な気持になるのでございます。
私の果敢はかない妄想は、猶なおとめどもなく増長して参ります。この私が、貧乏な、醜い、一職人に過ぎない私が、妄想の世界では、気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に、腰かけているのでございます。そして、その傍かたわらには、いつも私の夢に出て来る、美しい私の恋人が、におやかにほほえみながら、私の話に聞入って居ります。そればかりではありません。私は妄想の中で、その人と手をとり合って、甘い恋の睦言むつごとを、囁ささやき交かわしさえするのでございます。
ところが、いつの場合にも、私のこの、フーワリとした紫の夢は、忽たちまちにして、近所のお上かみさんの姦かしましい話声や、ヒステリーの様に泣き叫ぶ、其辺そのあたりの病児びょうじの声に妨さまたげられて、私の前には、又しても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。現実に立帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、哀れにも醜い、自分自身の姿を見出みいだします。そして、今の先、私にほほえみかけて呉れた、あの美しい人は。……そんなものが、全体どこにいるのでしょう。その辺に、埃ほこりまみれになって遊んでいる、汚らしい子守こもり女でさえ、私なぞには、見向いても呉れはしないのでございます。ただ一つ、私の作った椅子丈けが、今の夢の名残なごりの様に、そこに、ポツネンと残って居ります。でも、その椅子は、やがて、いずことも知れぬ、私達のとは全く別な世界へ、運び去られて了うのではありませんか。
私は、そうして、一つ一つ椅子を仕上げる度毎たびごとに、いい知れぬ味気なさに襲われるのでございます。その、何とも形容の出来ない、いやあな、いやあな心持は、月日が経つに従って、段々、私には堪え切れないものになって参りました。
「こんな、うじ虫の様な生活を、続けて行く位なら、いっそのこと、死んで了った方が増しだ」私は、真面目に、そんなことを思います。仕事場で、コツコツと鑿のみを使いながら、釘を打ちながら、或は、刺戟しげきの強い塗料をこね廻しながら、その同じことを、執拗しつように考え続けるのでございます。「だが、待てよ、死んで了う位なら、それ程の決心が出来るなら、もっと外に、方法がないものであろうか。例えば……」そうして、私の考えは、段々恐ろしい方へ、向いて行くのでありました。
丁度その頃、私は、嘗かつて手がけたことのない、大きな皮張りの肘掛椅子の、製作を頼まれて居りました。此椅子は、同じY市で外人の経営している、あるホテルへ納める品で、一体なら、その本国から取寄せる筈はずのを、私の雇われていた、商会が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、やっと註文を取ったものでした。それ丈けに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。本当に魂をこめて、夢中になってやったものでございます。
さて、出来上った椅子を見ますと、私は嘗つて覚えない満足を感じました。それは、我乍われながら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬こわすぎず軟やわらかすぎぬクッションのねばり工合、態わざと染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、鞣革なめしがわの肌触り、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えて呉れる、豊満な凭もたれ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、両側の肘掛け、それらの凡すべてが、不思議な調和を保って、渾然こんぜんとして「安楽コンフォート」という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。
私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色ごしきの虹の様に、まばゆいばかりの色彩を以もって、次から次へと湧わき上って来るのです。あれを幻まぼろしというのでしょうか。心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、私は、若しや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなった程でございます。
そうしています内に、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮んで参りました。悪魔の囁きというのは、多分ああした事を指すのではありますまいか。それは、夢の様に荒唐無稽こうとうむけいで、非常に不気味な事柄でした。でも、その不気味さが、いいしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。
江戸川乱歩
佳子よしこは、毎朝、夫の登庁とうちょうを見送って了しまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじ籠こもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。
美しい閨秀けいしゅう作家としての彼女は、此この頃ごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。
今朝けさとても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、先まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。
それは何いずれも、極きまり切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣こころづかいから、どの様な手紙であろうとも、自分に宛あてられたものは、兎とも角かくも、一通りは読んで見ることにしていた。
簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。別段通知の手紙は貰もらっていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題丈だけでも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。
それは、思った通り、原稿用紙を綴とじたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。そして、持前もちまえの好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。
奥様、
奥様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様このような無躾ぶしつけな御手紙を、差上げます罪を、幾重いくえにもお許し下さいませ。
こんなことを申上げますと、奥様は、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。
私は数ヶ月の間、全く人間界から姿を隠して、本当に、悪魔の様な生活を続けて参りました。勿論もちろん、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。若もし、何事もなければ、私は、このまま永久に、人間界に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。
ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔ざんげしないではいられなくなりました。ただ、かように申しましたばかりでは、色々御不審ごふしんに思召おぼしめす点もございましょうが、どうか、兎も角も、この手紙を終りまで御読み下さいませ。そうすれば、何故なぜ、私がそんな気持になったのか。又何故、この告白を、殊更ことさら奥様に聞いて頂かねばならぬのか、それらのことが、悉ことごとく明白になるでございましょう。
さて、何から書き初めたらいいのか、余りに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、人間世界で使われる、手紙という様な方法では、妙に面おもはゆくて、筆の鈍るのを覚えます。でも、迷っていても仕方がございません。兎も角も、事の起りから、順を追って、書いて行くことに致しましょう。
私は生れつき、世にも醜い容貌の持主でございます。これをどうか、はっきりと、お覚えなすっていて下さいませ。そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いを容いれて、私にお逢あい下さいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活の為ために、二ふた目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、堪たえ難がたいことでございます。
私という男は、何と因果な生れつきなのでありましょう。そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にも烈はげしい情熱を、燃もやしていたのでございます。私は、お化ばけのような顔をした、その上極ごく貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢ぜいたくな、種々様々の「夢」にあこがれていたのでございます。
私が若し、もっと豊な家に生れていましたなら、金銭の力によって、色々の遊戯に耽ふけり、醜貌しゅうぼうのやるせなさを、まぎらすことが出来たでもありましょう。それとも又、私に、もっと芸術的な天分が、与えられていましたなら、例えば美しい詩歌によって、此世このよの味気あじきなさを、忘れることが出来たでもありましょう。併しかし、不幸な私は、何いずれの恵みにも浴することが出来ず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、其日そのひ其日の暮しを、立てて行く外ほかはないのでございました。
私の専門は、様々の椅子いすを作ることでありました。私の作った椅子は、どんな難しい註文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物じょうものばかりを、廻して呉くれて居りました。そんな上物になりますと、凭もたれや肘掛ひじかけの彫りものに、色々むずかしい註文があったり、クッションの工合ぐあい、各部の寸法などに、微妙な好みがあったりして、それを作る者には、一寸ちょっと素人の想像出来ない様な苦心が要るのでございますが、でも、苦心をすればした丈け、出来上った時の愉快というものはありません。生意気を申す様ですけれど、その心持ちは、芸術家が立派な作品を完成した時の喜びにも、比ぶべきものではないかと存じます。
一つの椅子が出来上ると、私は先ず、自分で、それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。そして、味気ない職人生活の内にも、その時ばかりは、何とも云えぬ得意を感じるのでございます。そこへは、どの様な高貴の方が、或あるいはどの様な美しい方がおかけなさることか、こんな立派な椅子を、註文なさる程のお邸やしきだから、そこには、きっと、この椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるだろう。壁間かべには定めし、有名な画家の油絵が懸かかり、天井からは、偉大な宝石の様な装飾電燈シャンデリヤが、さがっているに相違ない。床には、高価な絨氈じゅうたんが、敷きつめてあるだろう。そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、西洋草花が、甘美な薫かおりを放って、咲き乱れていることであろう。そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、自分が、その立派な部屋の主あるじにでもなった様な気がして、ほんの一瞬間ではありますけれど、何とも形容の出来ない、愉快な気持になるのでございます。
私の果敢はかない妄想は、猶なおとめどもなく増長して参ります。この私が、貧乏な、醜い、一職人に過ぎない私が、妄想の世界では、気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に、腰かけているのでございます。そして、その傍かたわらには、いつも私の夢に出て来る、美しい私の恋人が、におやかにほほえみながら、私の話に聞入って居ります。そればかりではありません。私は妄想の中で、その人と手をとり合って、甘い恋の睦言むつごとを、囁ささやき交かわしさえするのでございます。
ところが、いつの場合にも、私のこの、フーワリとした紫の夢は、忽たちまちにして、近所のお上かみさんの姦かしましい話声や、ヒステリーの様に泣き叫ぶ、其辺そのあたりの病児びょうじの声に妨さまたげられて、私の前には、又しても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。現実に立帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、哀れにも醜い、自分自身の姿を見出みいだします。そして、今の先、私にほほえみかけて呉れた、あの美しい人は。……そんなものが、全体どこにいるのでしょう。その辺に、埃ほこりまみれになって遊んでいる、汚らしい子守こもり女でさえ、私なぞには、見向いても呉れはしないのでございます。ただ一つ、私の作った椅子丈けが、今の夢の名残なごりの様に、そこに、ポツネンと残って居ります。でも、その椅子は、やがて、いずことも知れぬ、私達のとは全く別な世界へ、運び去られて了うのではありませんか。
私は、そうして、一つ一つ椅子を仕上げる度毎たびごとに、いい知れぬ味気なさに襲われるのでございます。その、何とも形容の出来ない、いやあな、いやあな心持は、月日が経つに従って、段々、私には堪え切れないものになって参りました。
「こんな、うじ虫の様な生活を、続けて行く位なら、いっそのこと、死んで了った方が増しだ」私は、真面目に、そんなことを思います。仕事場で、コツコツと鑿のみを使いながら、釘を打ちながら、或は、刺戟しげきの強い塗料をこね廻しながら、その同じことを、執拗しつように考え続けるのでございます。「だが、待てよ、死んで了う位なら、それ程の決心が出来るなら、もっと外に、方法がないものであろうか。例えば……」そうして、私の考えは、段々恐ろしい方へ、向いて行くのでありました。
丁度その頃、私は、嘗かつて手がけたことのない、大きな皮張りの肘掛椅子の、製作を頼まれて居りました。此椅子は、同じY市で外人の経営している、あるホテルへ納める品で、一体なら、その本国から取寄せる筈はずのを、私の雇われていた、商会が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、やっと註文を取ったものでした。それ丈けに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。本当に魂をこめて、夢中になってやったものでございます。
さて、出来上った椅子を見ますと、私は嘗つて覚えない満足を感じました。それは、我乍われながら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬こわすぎず軟やわらかすぎぬクッションのねばり工合、態わざと染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、鞣革なめしがわの肌触り、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えて呉れる、豊満な凭もたれ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、両側の肘掛け、それらの凡すべてが、不思議な調和を保って、渾然こんぜんとして「安楽コンフォート」という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。
私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色ごしきの虹の様に、まばゆいばかりの色彩を以もって、次から次へと湧わき上って来るのです。あれを幻まぼろしというのでしょうか。心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、私は、若しや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなった程でございます。
そうしています内に、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮んで参りました。悪魔の囁きというのは、多分ああした事を指すのではありますまいか。それは、夢の様に荒唐無稽こうとうむけいで、非常に不気味な事柄でした。でも、その不気味さが、いいしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。
吶喊 自序 鲁迅
若いころ、私もよく夢を見たものだ。しかし今ではほとんど忘れてしまった。それを惜しいとも思わない。追憶は時として楽しいこともあるが、場合によっては寂しくもさせる。
精神の糸に、過ぎ去った寂莫をつなぎとめておいて、一体なんになるだろう。私はそれらのすべてを忘れられないのが苦しく、忘れてしまえなかったものが、今「吶喊」となって、表出してきた。
四年間、殆ど毎日、質屋と薬屋に通った。何歳ごろか忘れたが、要するに、薬屋の窓口は私の背丈の高さで、質屋はその倍あった。衣類や宝飾品を質草とし、侮蔑されながら金に換え、次に薬屋に行き、長いこと病に苦しむ父の薬を買った。家に帰れば帰ったで、とても忙しかった。処方箋は著名な医者のもので、彼が指定する「薬引(補助剤)」は、特別な品で、冬に取った蘆の根、三年霜に耐えた甘藷、コオロギは貞節なつがいに限る。実のなった平地木…、多くは容易に手に入らぬ代物だった。しかし、そんなに苦労しても父の病は日に日に篤くなり、とうとう死んでしまった。
それなりの暮らし向きをしてきた人間が、急に困窮な状態に追い込まれたら、人はその過程で、世間の厳しい本音と実相に、いやと言うほど直面させられることになる。
私はNに行き、K学堂に入り、別の道に進もうと考えた。異郷に逃れ、新しい人との出会いを求めようと思った。母も反対してもしかたないと、八元の路銀を工面してくれ、自分のやりたいことをやりなさい、と:だが母は哭いた。これも無理からぬこと。当時、勉強とは、科挙に合格するために経書を学ぶのが正道で、洋学というのは、この世で行き場の無くなった者のすること、毛唐に魂を売り渡すこととみなされ、軽蔑、排斥されていたのだった。その上、彼女はもう息子に会えなくなってしまうのだ。
私はこうしたことに、一顧だにせず、ついにNに行き、K学堂に入り、そこで世の中に、理科、数学、地理、歴史、絵画、体操という学科があるのを始めて知った。生理学はなかったが、木版刷りの「全体新論」や「化学衛生論」の類はあった。
私はこれまでの医者の理屈と処方は、今までに知り得たことと比べてみて、だんだん解ってきたのは、漢方医は、意識的か否かはさておき、ある種の騙りに過ぎないということであった。又同時に騙りを受けた病人とその家族に対して心そこから同情するようになった:更に翻訳された歴史から、日本の維新の大半は、西洋医学に端を発することを知った。
これらの初歩的な知識が、後に私を日本のある地方の医学専門学校で学ぶことにさせた。
私の夢はたいへん美しいものだった。卒業して帰国したら、私の父のように誤診されている病人を治してあげようと考え、戦時には軍医を志願し、別の面では中国人の維新への信念を促がそうと夢見た。
現在、微生物学はどのように教えているか知らない。また今ではどれほど進歩しているかも知らない。私のころは幻灯を使って、微生物の映像を見せていた。授業が一段落し、まだ時間があると、風景や時事の映像を写して見せた。その当時は日露戦争の頃で、当然戦争の場面が多かった。同級生たちと一緒になって拍手喝采して歩調を会わせねばならなかった。ある時突然、スライドで長いこと会っていなかった大勢の中国人を見た。一人は真ん中で縛られ、沢山の中国人が左右に立っていた。みなとても屈強な体格だが、麻痺したような顔であった。解説によると、縛られているのはロシアの為に軍事的スパイ活動をした罪で、日本軍によって首を切られる場面で、取り囲んでいるのは、この見せしめの盛挙を見物に来た連中であった。
この学年が終わらないうちに、私は東京に戻り、その時以降、医学は決して喫緊のことではなく、愚弱な国民はいかに体が健全でたくましくとも、ただ単に何の意味も無い見せしめの材料と、見物人になるだけであるなら、彼らの何名かが病死しても、必ずしも不幸だとも思えない。それゆえ、我々が最初にしなければならないのは、彼らの精神の改造である。精神を改造するためには、私は当時、文芸が一番だと考えていて、文芸運動を提唱しようと思った。東京の留学生は、法政、理化、警察、工業を学ぶものは多かったが、文学と芸術を学ぶものはいなかった。しかしこの冷淡な空気の中で、何名かの同志を探し出し、その他にも数名の最低限必要な人数を募り、いろいろ相談の結果、まず第一歩として、雑誌を出し、名前は「新しい生命」という言葉からとって、そのころは多少復古調の傾向があったので、それを「新生」とした。
「新生」出版の時が近づいてきたが、最初に文章の担当が若干名隠れ去り、続いて資本も逃げ出し、結果は文なしの三人だけが残った。始めたときから、すでに時勢に背いており、失敗したとて何ら語るべきことも無いのだが、その後、この三人すら各自の運命に追い立てられ、束縛なしに自由に集まって、将来の美しい夢を語ることもできなくなった。これが我々の生まれてくることのなかった「新生」の結末である。
それまで経験したことの無い無聊を感じたのは、これ以後のことである。当初、どうしてこうなったか、分からなかった。後になって考えてみるに、ある人間の主張が、賛成されたら前進を促すし、反対されたら、さらなる奮闘を促されるものだ。一人で、見ず知らずの人たちの中で、大声で叫んでみても、何の反応も無い。賛成でも反対でもない。まるで、際限のない荒野に放り出されて、どこから手を付けたら良いかすら分からない。これは何という悲哀であろう。それで私はその時感じたものを寂寞と呼んだ。
この寂寞は日一日と大きくなり、大きな毒蛇となり、我が魂にぐるぐるまつわりついた。
自ら端無き悲哀に苦しんだが、これが却って憤懣やるせないなどという気持ちにはさせなかった。この経験が私を反省させ、自分自身を見つめなおさせた:即、自分がひとたび腕を振り上げれば、呼応して集まる者、雲の如くなどという英雄では決してない、と。
ただ、自分の中の寂寞は何とか駆除せねばならない。これは余りにも苦しすぎたから。
私はさまざまな方法で、自分の魂に麻酔をかけ、国民の中に沈み入り、古代に回帰した。その後も、もっと激しい寂寞や悲哀なことに何回も遭遇し、目の当たりにしたが、私はそうしたことどもを追憶懐旧したいとは願わない。それら一切を私の脳と共に、泥土の中で消滅させたいのだ。私の麻酔法は功を奏したようで、それ以降、青年のころのような悲憤慷慨して激昂することは無くなった。
S会館には部屋が三つあり、往時、内庭の槐の木で縊死した女がいて、今では槐はもう登れぬほど高くなったが、その部屋には誰も住む人は無かった;長い間私はこの部屋で古碑を写した。客も少なく、古碑には何かの問題とか主義にぶつかることも無く、我が生命はこのまま何の問題も無く、静かに消え去る。これが私の唯一の望みだった。夏の夜、蚊が多いので蒲の団扇であおぎつつ、槐の木の下に坐り、よく茂った葉の隙間からほんのわずかに見える青い空を眺め、晩に出てくる槐の蚕が首筋に落ちてきて、ひんやり感じるのだった。
そのとき、偶に話しに来たのは、旧友の金心異だった。大きな皮の鞄を古机の上に置き、長衫(旧時の正装)を脱いで、私の前に坐った。犬が怖いので、心臓はまだドキドキしていた。
「こんなものを写して、何になるのだい?」
ある夜私の古碑の抄本をめくりながら、問い詰めるような物言い。
「何の目的もない」
「じゃあ、なんのつもりだ?」
「なんのつもりも無い」
「君、何か書いたらどうだ……」
彼の言いたいことは分かった。彼らは「新青年」を出したが、当時これと言って特に賛同する者も無いようで、また反対するものもいない。彼らも寂寞を感じているのではと思って、言った。
「もし仮に、鉄でできた部屋があるとする。窓も無く、どんなことをしても壊せない。中に何人か熟睡している人間がいるが、間もなく皆、悶死する運命にある。しかし熟睡から死に至るなら、死の悲哀は感じなくてすむ。それを君が大声で騒ぎだし、少し目の覚めかけた人間を驚き起させたとする。この不幸な少数者は、救われることのない臨終の苦しみを味わうことになるが、彼らに対して済まないと思わないかい?」
「だが、数人が起きたのなら、この鉄の部屋を壊すという希望が無いとは言えないだろう」
そうだ、私は私なりに確信があるが、希望ということになれば、それを抹殺はできない。
希望とは将来のことで、私の必ずないという証明でもって、彼らのいうところの、有り得るという考えを説服はできない。それで、ついに書くことに応じた。それが最初の一篇
「狂人日記」であった。それ以降、一回書いたのだから、もうやめる訳に行かなくなり、毎回小説のようなものを書き、友の委嘱に応えてきた。それが積もって十余篇となった。
今の私はすでにせっぱつまって、何かを発しなければならない、と考えるようなことは無くなった。だが、当時の自分の寂寞と悲哀をいまだに全て忘れ去ることができず、時には、いささかでも吶喊することで、今現在、寂寞の中で突進している猛士たちを、わずかなりとも慰めることができるなら、そしてまた、何も心配せずにまっしぐらに先頭を切って駆けだすことができるように、私の吶喊の声が、勇猛か或いは悲哀に満ちたものか、または憎むべきものか、おかしなことか、そんなことは顧みる暇も無いが:ただ、吶喊と言う以上、将の命令は聞かねばならない。それで私は往々にして曲筆も気にせず、「薬」では瑜児の墳墓の上の土に花輪を添えたし、「明日」の単四嫂子も息子を夢に見なかったとは書かなかった。当時の主将は消極さを避けようとしていたし、自分としても自ら苦しい寂寞を望まなかった。さらには、私のように、あの青年時代に見た美しい夢を追いかけている青年たちに伝染させたくなかったからである。
こういうと私の小説が、芸術性からほど遠いこともおのずと想定されよう。しかしこんにちまで、小説の名をいただいて、甚だしきは、一冊の本にしてくれるという機会にめぐりあえるとは、なにはともあれ僥倖なことである。ただ、この僥倖は私には大いに不安だが、暫くはこの社会に読者がいてくれるというのは、やはりうれしいことだ。
それゆえ、私はこの短編小説を集めて印刷し、上述の由縁のため「吶喊」とす。
一九二二年十二月三日、魯迅 北京にて。
若いころ、私もよく夢を見たものだ。しかし今ではほとんど忘れてしまった。それを惜しいとも思わない。追憶は時として楽しいこともあるが、場合によっては寂しくもさせる。
精神の糸に、過ぎ去った寂莫をつなぎとめておいて、一体なんになるだろう。私はそれらのすべてを忘れられないのが苦しく、忘れてしまえなかったものが、今「吶喊」となって、表出してきた。
四年間、殆ど毎日、質屋と薬屋に通った。何歳ごろか忘れたが、要するに、薬屋の窓口は私の背丈の高さで、質屋はその倍あった。衣類や宝飾品を質草とし、侮蔑されながら金に換え、次に薬屋に行き、長いこと病に苦しむ父の薬を買った。家に帰れば帰ったで、とても忙しかった。処方箋は著名な医者のもので、彼が指定する「薬引(補助剤)」は、特別な品で、冬に取った蘆の根、三年霜に耐えた甘藷、コオロギは貞節なつがいに限る。実のなった平地木…、多くは容易に手に入らぬ代物だった。しかし、そんなに苦労しても父の病は日に日に篤くなり、とうとう死んでしまった。
それなりの暮らし向きをしてきた人間が、急に困窮な状態に追い込まれたら、人はその過程で、世間の厳しい本音と実相に、いやと言うほど直面させられることになる。
私はNに行き、K学堂に入り、別の道に進もうと考えた。異郷に逃れ、新しい人との出会いを求めようと思った。母も反対してもしかたないと、八元の路銀を工面してくれ、自分のやりたいことをやりなさい、と:だが母は哭いた。これも無理からぬこと。当時、勉強とは、科挙に合格するために経書を学ぶのが正道で、洋学というのは、この世で行き場の無くなった者のすること、毛唐に魂を売り渡すこととみなされ、軽蔑、排斥されていたのだった。その上、彼女はもう息子に会えなくなってしまうのだ。
私はこうしたことに、一顧だにせず、ついにNに行き、K学堂に入り、そこで世の中に、理科、数学、地理、歴史、絵画、体操という学科があるのを始めて知った。生理学はなかったが、木版刷りの「全体新論」や「化学衛生論」の類はあった。
私はこれまでの医者の理屈と処方は、今までに知り得たことと比べてみて、だんだん解ってきたのは、漢方医は、意識的か否かはさておき、ある種の騙りに過ぎないということであった。又同時に騙りを受けた病人とその家族に対して心そこから同情するようになった:更に翻訳された歴史から、日本の維新の大半は、西洋医学に端を発することを知った。
これらの初歩的な知識が、後に私を日本のある地方の医学専門学校で学ぶことにさせた。
私の夢はたいへん美しいものだった。卒業して帰国したら、私の父のように誤診されている病人を治してあげようと考え、戦時には軍医を志願し、別の面では中国人の維新への信念を促がそうと夢見た。
現在、微生物学はどのように教えているか知らない。また今ではどれほど進歩しているかも知らない。私のころは幻灯を使って、微生物の映像を見せていた。授業が一段落し、まだ時間があると、風景や時事の映像を写して見せた。その当時は日露戦争の頃で、当然戦争の場面が多かった。同級生たちと一緒になって拍手喝采して歩調を会わせねばならなかった。ある時突然、スライドで長いこと会っていなかった大勢の中国人を見た。一人は真ん中で縛られ、沢山の中国人が左右に立っていた。みなとても屈強な体格だが、麻痺したような顔であった。解説によると、縛られているのはロシアの為に軍事的スパイ活動をした罪で、日本軍によって首を切られる場面で、取り囲んでいるのは、この見せしめの盛挙を見物に来た連中であった。
この学年が終わらないうちに、私は東京に戻り、その時以降、医学は決して喫緊のことではなく、愚弱な国民はいかに体が健全でたくましくとも、ただ単に何の意味も無い見せしめの材料と、見物人になるだけであるなら、彼らの何名かが病死しても、必ずしも不幸だとも思えない。それゆえ、我々が最初にしなければならないのは、彼らの精神の改造である。精神を改造するためには、私は当時、文芸が一番だと考えていて、文芸運動を提唱しようと思った。東京の留学生は、法政、理化、警察、工業を学ぶものは多かったが、文学と芸術を学ぶものはいなかった。しかしこの冷淡な空気の中で、何名かの同志を探し出し、その他にも数名の最低限必要な人数を募り、いろいろ相談の結果、まず第一歩として、雑誌を出し、名前は「新しい生命」という言葉からとって、そのころは多少復古調の傾向があったので、それを「新生」とした。
「新生」出版の時が近づいてきたが、最初に文章の担当が若干名隠れ去り、続いて資本も逃げ出し、結果は文なしの三人だけが残った。始めたときから、すでに時勢に背いており、失敗したとて何ら語るべきことも無いのだが、その後、この三人すら各自の運命に追い立てられ、束縛なしに自由に集まって、将来の美しい夢を語ることもできなくなった。これが我々の生まれてくることのなかった「新生」の結末である。
それまで経験したことの無い無聊を感じたのは、これ以後のことである。当初、どうしてこうなったか、分からなかった。後になって考えてみるに、ある人間の主張が、賛成されたら前進を促すし、反対されたら、さらなる奮闘を促されるものだ。一人で、見ず知らずの人たちの中で、大声で叫んでみても、何の反応も無い。賛成でも反対でもない。まるで、際限のない荒野に放り出されて、どこから手を付けたら良いかすら分からない。これは何という悲哀であろう。それで私はその時感じたものを寂寞と呼んだ。
この寂寞は日一日と大きくなり、大きな毒蛇となり、我が魂にぐるぐるまつわりついた。
自ら端無き悲哀に苦しんだが、これが却って憤懣やるせないなどという気持ちにはさせなかった。この経験が私を反省させ、自分自身を見つめなおさせた:即、自分がひとたび腕を振り上げれば、呼応して集まる者、雲の如くなどという英雄では決してない、と。
ただ、自分の中の寂寞は何とか駆除せねばならない。これは余りにも苦しすぎたから。
私はさまざまな方法で、自分の魂に麻酔をかけ、国民の中に沈み入り、古代に回帰した。その後も、もっと激しい寂寞や悲哀なことに何回も遭遇し、目の当たりにしたが、私はそうしたことどもを追憶懐旧したいとは願わない。それら一切を私の脳と共に、泥土の中で消滅させたいのだ。私の麻酔法は功を奏したようで、それ以降、青年のころのような悲憤慷慨して激昂することは無くなった。
S会館には部屋が三つあり、往時、内庭の槐の木で縊死した女がいて、今では槐はもう登れぬほど高くなったが、その部屋には誰も住む人は無かった;長い間私はこの部屋で古碑を写した。客も少なく、古碑には何かの問題とか主義にぶつかることも無く、我が生命はこのまま何の問題も無く、静かに消え去る。これが私の唯一の望みだった。夏の夜、蚊が多いので蒲の団扇であおぎつつ、槐の木の下に坐り、よく茂った葉の隙間からほんのわずかに見える青い空を眺め、晩に出てくる槐の蚕が首筋に落ちてきて、ひんやり感じるのだった。
そのとき、偶に話しに来たのは、旧友の金心異だった。大きな皮の鞄を古机の上に置き、長衫(旧時の正装)を脱いで、私の前に坐った。犬が怖いので、心臓はまだドキドキしていた。
「こんなものを写して、何になるのだい?」
ある夜私の古碑の抄本をめくりながら、問い詰めるような物言い。
「何の目的もない」
「じゃあ、なんのつもりだ?」
「なんのつもりも無い」
「君、何か書いたらどうだ……」
彼の言いたいことは分かった。彼らは「新青年」を出したが、当時これと言って特に賛同する者も無いようで、また反対するものもいない。彼らも寂寞を感じているのではと思って、言った。
「もし仮に、鉄でできた部屋があるとする。窓も無く、どんなことをしても壊せない。中に何人か熟睡している人間がいるが、間もなく皆、悶死する運命にある。しかし熟睡から死に至るなら、死の悲哀は感じなくてすむ。それを君が大声で騒ぎだし、少し目の覚めかけた人間を驚き起させたとする。この不幸な少数者は、救われることのない臨終の苦しみを味わうことになるが、彼らに対して済まないと思わないかい?」
「だが、数人が起きたのなら、この鉄の部屋を壊すという希望が無いとは言えないだろう」
そうだ、私は私なりに確信があるが、希望ということになれば、それを抹殺はできない。
希望とは将来のことで、私の必ずないという証明でもって、彼らのいうところの、有り得るという考えを説服はできない。それで、ついに書くことに応じた。それが最初の一篇
「狂人日記」であった。それ以降、一回書いたのだから、もうやめる訳に行かなくなり、毎回小説のようなものを書き、友の委嘱に応えてきた。それが積もって十余篇となった。
今の私はすでにせっぱつまって、何かを発しなければならない、と考えるようなことは無くなった。だが、当時の自分の寂寞と悲哀をいまだに全て忘れ去ることができず、時には、いささかでも吶喊することで、今現在、寂寞の中で突進している猛士たちを、わずかなりとも慰めることができるなら、そしてまた、何も心配せずにまっしぐらに先頭を切って駆けだすことができるように、私の吶喊の声が、勇猛か或いは悲哀に満ちたものか、または憎むべきものか、おかしなことか、そんなことは顧みる暇も無いが:ただ、吶喊と言う以上、将の命令は聞かねばならない。それで私は往々にして曲筆も気にせず、「薬」では瑜児の墳墓の上の土に花輪を添えたし、「明日」の単四嫂子も息子を夢に見なかったとは書かなかった。当時の主将は消極さを避けようとしていたし、自分としても自ら苦しい寂寞を望まなかった。さらには、私のように、あの青年時代に見た美しい夢を追いかけている青年たちに伝染させたくなかったからである。
こういうと私の小説が、芸術性からほど遠いこともおのずと想定されよう。しかしこんにちまで、小説の名をいただいて、甚だしきは、一冊の本にしてくれるという機会にめぐりあえるとは、なにはともあれ僥倖なことである。ただ、この僥倖は私には大いに不安だが、暫くはこの社会に読者がいてくれるというのは、やはりうれしいことだ。
それゆえ、私はこの短編小説を集めて印刷し、上述の由縁のため「吶喊」とす。
一九二二年十二月三日、魯迅 北京にて。
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