井伊直政の歴史
徳川四天王・井伊直政の生涯
井伊虎松の誕生!まわりは敵だらけの幼少期
1561年(永禄4年)、井伊直政は遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ:現在の静岡県浜松市浜名区)で今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。
しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」(いまがわうじざね)により謀殺されます。
井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継ぎましたが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていませんでした。
そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごします。
徳川家康に迎え入れられて
井伊万千代として徳川家康の小姓に
1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚。井伊直政は「松下虎松」(まつしたとらまつ)として松下家の養子となり、浜松へと移住しました。
1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れます。徳川家康が「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことでした。
井伊直政は、「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣・青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた旗)を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れます。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、その理由。
そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を抱きました。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えます。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。
さらに300石と16人の同心衆(どうしんしゅう:軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。
勇猛果敢!武勇に長けた井伊直政の本領発揮!!
徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾りました。この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領します。
1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのです。
1582年(天正10年)は井伊直政にとって怒涛の1年となる
徳川家康、伊賀越えの御難!殿をお守りせよ!!
1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい:現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。
この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれています。
伊賀越えの途中、徳川家康一行は空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。唯一口にしなかった井伊直政に対して徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言いました。
「敵が迫ってきたらそのときは、自分がここに踏みとどまって討ち死にする覚悟です。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら、飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の名折れです」
井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で織られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。
天正壬午の乱!甲斐・信濃を平定
無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かりました。甲斐・信濃は滅亡した武田家の領地でしたが、統治者がいなくなったことで一揆が各地で発生。混乱に陥っていたのです。
「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国(現在の神奈川県)の北条氏と、越後国(現在の新潟県)の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いでした。井伊直政は徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣を懐柔すると共に、北条氏とも和議を成立させ、徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献したのです。
武田家の遺臣を引き継ぎ井伊の赤備え結成へ
徳川家康は天正壬午の乱で味方に引き入れた武田家の遺臣74名と、名だたる坂東武者43名を、井伊直政の直属に入れました。同時に徳川家康は井伊直政に、武田家の兵法「武田の赤備え」を継承するように命じます。
「赤備え」とは、「武田信玄」が考案した精鋭部隊の俗称。部隊の兵が全員、軍旗・武具・甲冑(鎧兜)を赤一色で揃えることです。皆一様に同じ色の具足を着用することで団結力が増す他、赤は戦場で一際目立つ色であることから、赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴とも言われていました。
結果、井伊直政率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、諸将を恐れさせたと言います。
赤鬼が迫る!井伊の赤備えの活躍!!
小牧・長久手の戦い
武田軍を引き入れて結成された井伊の赤備えが活躍するのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」です。
織田信長の後継者を巡り「豊臣秀吉」と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が対立するようになり、徳川家康は織田信雄の援軍として参戦していました。
小牧において豊臣秀吉軍を退けた徳川家康は、長久手でも豊臣秀吉軍をさらに追撃。両軍ほぼ互角の勢いを見せていましたが、井伊直政の配置した鉄砲300挺が豊臣秀吉軍の意表を突き、総崩れします。
この時、井伊直政は赤色の兜に鬼の角のような飾りを付けており、先陣を切って長槍で敵を蹴散らしていきました。勇猛果敢な姿を見た人々は井伊直政のことを「井伊の赤鬼」と呼び、一躍全国にその名が知れ渡ったのです。
小牧・長久手の戦いのあと、1590年(天正18年)に行なわれた「小田原征伐」ののちに徳川家康の国替えが実施されると、徳川家康は関東一円に領地を持つことになります。この中で最大の領地を拝領したのが井伊直政で、12万石と上野国(現在の群馬県)箕輪への入封を果たし、徳川四天王の中でも最大の恩賞を得ました。
そして井伊直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃城して、中山道と三国街道の要衝にあたる高崎にあった和田城を改築して高崎城を築城します。
人斬り兵部の異名を取る
一方で井伊直政は、自分のみならず周囲へ対する厳しさにより家臣から恐れられていました。井伊直政は旧武田家の遺臣を預かったあと、徳川家康の期待に応えるためにより一層家臣に対して厳しくなります。井伊の赤備えと呼ばれた家臣らに対しての仕打ちは特に厳しく、どれほど些細な失敗であっても決して許さずに手討ちにすることもありました。
井伊直政の厳格な気質に対して付いた異名が「人斬り兵部」。「兵部」(ひょうぶ)とは、当時の井伊直政の官職「兵部少輔」(ひょうぶしょうゆう)のことで、厳しさに耐えかねて逃げ出す家臣も少なくありませんでした。
関ヶ原の戦いと井伊直政の最期
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉が没してから僅か2年後に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」。この時、井伊直政は徳川家康率いる東軍として参戦し、「黒田長政」を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮します。
そして本戦では、「福島正則」が先陣を切る決まりであったことを無視して抜け駆けし、一番槍として戦いの火蓋を切って落としました。なお、この抜け駆け問題は霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとも言われています。
戦闘は最初こそ西軍が優勢でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにより状況は逆転。西軍諸将が次々と敗走する中、孤立していた西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は敵を切り抜けて退却するという行動に出ます。
島津軍は精鋭であり、死を前にしての迫力に東軍も追撃を躊躇しました。僅か数百の島津軍は奮闘し、大軍で構成されている東軍を正面から突破しようとします。
島津軍は徳川家康がいる本陣の近くへと迫りますが、転進して伊勢街道を南下。井伊直政は本多忠勝や「松平忠吉」と共に追撃します。
この時、井伊直政は島津軍「柏木源藤」(かしわぎげんとう)が撃った銃弾にあたり落馬してしまい、その隙をついて島津義弘は本国へと逃げおおせました。約6時間の戦闘の末、東軍は圧勝。ここに徳川家康の天下統一の準備が整ったのです。
戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒やす間もなく、戦後処理に従事します。西軍総大将「毛利輝元」との講和交渉役を担って毛利氏の改易を回避。また、敗戦の将となった「石田三成」が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護する他、西軍「真田昌幸」と昌幸の次男「真田幸村(真田信繁)」の助命にも尽力するなど、身を粉にして働いた結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。
そして、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。死因については主に2つの説があります。ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説。
もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説。文武に優れ、礼儀作法も完璧にこなし、毛利家家臣「小早川隆景」などから「本気を出せば天下を取れる逸材」とまで言われた知将・井伊直政の評価は高く、江戸幕府編修の系譜集「徳川実紀」(とくがわじっき)や「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)にも、「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と記されています。
徳川四天王・井伊直政の生涯
井伊虎松の誕生!まわりは敵だらけの幼少期
1561年(永禄4年)、井伊直政は遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ:現在の静岡県浜松市浜名区)で今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。
しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」(いまがわうじざね)により謀殺されます。
井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継ぎましたが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていませんでした。
そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごします。
徳川家康に迎え入れられて
井伊万千代として徳川家康の小姓に
1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚。井伊直政は「松下虎松」(まつしたとらまつ)として松下家の養子となり、浜松へと移住しました。
1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れます。徳川家康が「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことでした。
井伊直政は、「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣・青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた旗)を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れます。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、その理由。
そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を抱きました。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えます。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。
さらに300石と16人の同心衆(どうしんしゅう:軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。
勇猛果敢!武勇に長けた井伊直政の本領発揮!!
徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾りました。この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領します。
1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのです。
1582年(天正10年)は井伊直政にとって怒涛の1年となる
徳川家康、伊賀越えの御難!殿をお守りせよ!!
1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい:現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。
この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれています。
伊賀越えの途中、徳川家康一行は空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。唯一口にしなかった井伊直政に対して徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言いました。
「敵が迫ってきたらそのときは、自分がここに踏みとどまって討ち死にする覚悟です。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら、飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の名折れです」
井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で織られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。
天正壬午の乱!甲斐・信濃を平定
無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かりました。甲斐・信濃は滅亡した武田家の領地でしたが、統治者がいなくなったことで一揆が各地で発生。混乱に陥っていたのです。
「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国(現在の神奈川県)の北条氏と、越後国(現在の新潟県)の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いでした。井伊直政は徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣を懐柔すると共に、北条氏とも和議を成立させ、徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献したのです。
武田家の遺臣を引き継ぎ井伊の赤備え結成へ
徳川家康は天正壬午の乱で味方に引き入れた武田家の遺臣74名と、名だたる坂東武者43名を、井伊直政の直属に入れました。同時に徳川家康は井伊直政に、武田家の兵法「武田の赤備え」を継承するように命じます。
「赤備え」とは、「武田信玄」が考案した精鋭部隊の俗称。部隊の兵が全員、軍旗・武具・甲冑(鎧兜)を赤一色で揃えることです。皆一様に同じ色の具足を着用することで団結力が増す他、赤は戦場で一際目立つ色であることから、赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴とも言われていました。
結果、井伊直政率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、諸将を恐れさせたと言います。
赤鬼が迫る!井伊の赤備えの活躍!!
小牧・長久手の戦い
武田軍を引き入れて結成された井伊の赤備えが活躍するのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」です。
織田信長の後継者を巡り「豊臣秀吉」と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が対立するようになり、徳川家康は織田信雄の援軍として参戦していました。
小牧において豊臣秀吉軍を退けた徳川家康は、長久手でも豊臣秀吉軍をさらに追撃。両軍ほぼ互角の勢いを見せていましたが、井伊直政の配置した鉄砲300挺が豊臣秀吉軍の意表を突き、総崩れします。
この時、井伊直政は赤色の兜に鬼の角のような飾りを付けており、先陣を切って長槍で敵を蹴散らしていきました。勇猛果敢な姿を見た人々は井伊直政のことを「井伊の赤鬼」と呼び、一躍全国にその名が知れ渡ったのです。
小牧・長久手の戦いのあと、1590年(天正18年)に行なわれた「小田原征伐」ののちに徳川家康の国替えが実施されると、徳川家康は関東一円に領地を持つことになります。この中で最大の領地を拝領したのが井伊直政で、12万石と上野国(現在の群馬県)箕輪への入封を果たし、徳川四天王の中でも最大の恩賞を得ました。
そして井伊直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃城して、中山道と三国街道の要衝にあたる高崎にあった和田城を改築して高崎城を築城します。
人斬り兵部の異名を取る
一方で井伊直政は、自分のみならず周囲へ対する厳しさにより家臣から恐れられていました。井伊直政は旧武田家の遺臣を預かったあと、徳川家康の期待に応えるためにより一層家臣に対して厳しくなります。井伊の赤備えと呼ばれた家臣らに対しての仕打ちは特に厳しく、どれほど些細な失敗であっても決して許さずに手討ちにすることもありました。
井伊直政の厳格な気質に対して付いた異名が「人斬り兵部」。「兵部」(ひょうぶ)とは、当時の井伊直政の官職「兵部少輔」(ひょうぶしょうゆう)のことで、厳しさに耐えかねて逃げ出す家臣も少なくありませんでした。
関ヶ原の戦いと井伊直政の最期
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉が没してから僅か2年後に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」。この時、井伊直政は徳川家康率いる東軍として参戦し、「黒田長政」を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮します。
そして本戦では、「福島正則」が先陣を切る決まりであったことを無視して抜け駆けし、一番槍として戦いの火蓋を切って落としました。なお、この抜け駆け問題は霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとも言われています。
戦闘は最初こそ西軍が優勢でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにより状況は逆転。西軍諸将が次々と敗走する中、孤立していた西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は敵を切り抜けて退却するという行動に出ます。
島津軍は精鋭であり、死を前にしての迫力に東軍も追撃を躊躇しました。僅か数百の島津軍は奮闘し、大軍で構成されている東軍を正面から突破しようとします。
島津軍は徳川家康がいる本陣の近くへと迫りますが、転進して伊勢街道を南下。井伊直政は本多忠勝や「松平忠吉」と共に追撃します。
この時、井伊直政は島津軍「柏木源藤」(かしわぎげんとう)が撃った銃弾にあたり落馬してしまい、その隙をついて島津義弘は本国へと逃げおおせました。約6時間の戦闘の末、東軍は圧勝。ここに徳川家康の天下統一の準備が整ったのです。
戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒やす間もなく、戦後処理に従事します。西軍総大将「毛利輝元」との講和交渉役を担って毛利氏の改易を回避。また、敗戦の将となった「石田三成」が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護する他、西軍「真田昌幸」と昌幸の次男「真田幸村(真田信繁)」の助命にも尽力するなど、身を粉にして働いた結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。
そして、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。死因については主に2つの説があります。ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説。
もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説。文武に優れ、礼儀作法も完璧にこなし、毛利家家臣「小早川隆景」などから「本気を出せば天下を取れる逸材」とまで言われた知将・井伊直政の評価は高く、江戸幕府編修の系譜集「徳川実紀」(とくがわじっき)や「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)にも、「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と記されています。
库有引力消失是何等灾难?勇士竟然输给残阵马刺
库里伤停后的第一战,勇士只能被迫对阵容进行调整了。
首发名单中,除了追梦、波杰姆斯基和库明加三个常规选择之外,保罗和杰克逊-戴维斯竟然也一起出现了,如此安排还是颇为有趣的。
按照常规逻辑,库里不打的情况下,保罗顶替他显然是一个对位调整,这个人员安排并没有什么意外之处。但小戴维斯也成为首发,就属于科尔的盘外招了。显然,勇士教练组这么做,是希望提升内线尺寸,希望加强禁区的防守威慑力,而此变招的主要目的也是针对马刺年轻核心文班亚马的……
但在老师波波维奇面前,科尔往往会是稚嫩的那一方,正当勇士祭出“微缩版”双塔,想要和马刺血拼三秒区的时候,赛前,马刺队却突然传出了文班亚马因为脚踝伤势继续休战的消息。科尔恶狠狠挥出的重拳,在比赛还没开战之前,就打到了棉花上,而如此剧本,显然让他非常之沮丧。
当然,不仅是情绪的沮丧,在开场后,也可以明显感觉到勇士众将的手足无措。一方面,库里缺阵后,勇士全员的球权都要随之重新分配,进攻端需要建立新的主次秩序。另一方面,文班亚马不打也让勇士的防守失去了焦点、失去了针对性,队员们不清楚究竟该重点盯防哪个人,防线的组织反倒变得凌乱了不少。
正是抓住了勇士队的迷茫,马刺在开场后就迅速建立起领先优势。单节,他们最多的时候已经领先了8分。在首发阵容中,索汉变换方式攻击勇士阵地,竟然反常成为了队伍主攻手。在替补席上,格拉汉姆、巴洛等人的进攻也频繁奏效,但显然,对于这些人的技术特点,勇士并没有提前做功课,也自然成就了对方不少出其不意的得分……不仅防守端没了抓手,在进攻中,勇士也是全线哑火了。保罗在来到首发阵容后并没有将自己大师级的组织才华浸润到体系中,盘活身边的队友。整个首节,勇士的进攻运转都异常艰涩,到次节,他们更是在对攻中彻底颓唐,半场竟然落后了无核的马刺19分之多。勇士大比分落后在本赛季已绝非什么稀奇事儿了。毕竟几天前,他们才在波士顿经历了队史级的“52惨案”,那场球,他们也是在半场打完后,就基本缴械投降了。但是与绿军联盟头名的“贵族”身份不同,如今的马刺可是彻头彻尾的鱼腩部队,尤其在文班亚马缺阵的情况下,球队的纸面实力更是无可辩驳的联盟倒数。
可就是面对这样一支弱旅,勇士还是在整场球都被对手压制。比赛第三节,他们也没能如期待般拿出“三节疯”的架势,来到末节,他们竟然只剩下提前缴械投降的份儿了……说白了,勇士真的不能没有库里。诚然,本赛季库里由于体能瓶颈,由于各种防守针对也不止一次陷入过低迷期。一度,他的场均输出跌到了20分的边缘,三分命中率也罕见来到3成的水准。
库里伤停后的第一战,勇士只能被迫对阵容进行调整了。
首发名单中,除了追梦、波杰姆斯基和库明加三个常规选择之外,保罗和杰克逊-戴维斯竟然也一起出现了,如此安排还是颇为有趣的。
按照常规逻辑,库里不打的情况下,保罗顶替他显然是一个对位调整,这个人员安排并没有什么意外之处。但小戴维斯也成为首发,就属于科尔的盘外招了。显然,勇士教练组这么做,是希望提升内线尺寸,希望加强禁区的防守威慑力,而此变招的主要目的也是针对马刺年轻核心文班亚马的……
但在老师波波维奇面前,科尔往往会是稚嫩的那一方,正当勇士祭出“微缩版”双塔,想要和马刺血拼三秒区的时候,赛前,马刺队却突然传出了文班亚马因为脚踝伤势继续休战的消息。科尔恶狠狠挥出的重拳,在比赛还没开战之前,就打到了棉花上,而如此剧本,显然让他非常之沮丧。
当然,不仅是情绪的沮丧,在开场后,也可以明显感觉到勇士众将的手足无措。一方面,库里缺阵后,勇士全员的球权都要随之重新分配,进攻端需要建立新的主次秩序。另一方面,文班亚马不打也让勇士的防守失去了焦点、失去了针对性,队员们不清楚究竟该重点盯防哪个人,防线的组织反倒变得凌乱了不少。
正是抓住了勇士队的迷茫,马刺在开场后就迅速建立起领先优势。单节,他们最多的时候已经领先了8分。在首发阵容中,索汉变换方式攻击勇士阵地,竟然反常成为了队伍主攻手。在替补席上,格拉汉姆、巴洛等人的进攻也频繁奏效,但显然,对于这些人的技术特点,勇士并没有提前做功课,也自然成就了对方不少出其不意的得分……不仅防守端没了抓手,在进攻中,勇士也是全线哑火了。保罗在来到首发阵容后并没有将自己大师级的组织才华浸润到体系中,盘活身边的队友。整个首节,勇士的进攻运转都异常艰涩,到次节,他们更是在对攻中彻底颓唐,半场竟然落后了无核的马刺19分之多。勇士大比分落后在本赛季已绝非什么稀奇事儿了。毕竟几天前,他们才在波士顿经历了队史级的“52惨案”,那场球,他们也是在半场打完后,就基本缴械投降了。但是与绿军联盟头名的“贵族”身份不同,如今的马刺可是彻头彻尾的鱼腩部队,尤其在文班亚马缺阵的情况下,球队的纸面实力更是无可辩驳的联盟倒数。
可就是面对这样一支弱旅,勇士还是在整场球都被对手压制。比赛第三节,他们也没能如期待般拿出“三节疯”的架势,来到末节,他们竟然只剩下提前缴械投降的份儿了……说白了,勇士真的不能没有库里。诚然,本赛季库里由于体能瓶颈,由于各种防守针对也不止一次陷入过低迷期。一度,他的场均输出跌到了20分的边缘,三分命中率也罕见来到3成的水准。
《浮世奇案簿长安》剧本杀复盘凶手剧透
三、正确的故事推理流程
1、分析最后两条线索作为切入点:
①. 边塞情报(李旦专属证据需公开)
从此线索中可知两月前兰淑妃的胞弟吐藩王杜松芒波杰与吐蕃大相噶尔赞悉若因联合天竺攻打大唐一事发生分歧,噶尔氏各部将纷纷造反,意图废掉杜松芒波杰,另立新王,杜松芒波杰身陷囹圄,危在旦夕。结合太平公主剧本中《往事》最后段落和线索卡《兰淑妃》可推测出书信中的内容便是此事。时间上此事发生在两月前,而兰淑妃收到加急信件乃一个多月前,大致计算信件寄来的路程时间,是十分吻合而此线索中提到五日前吐蕃军队才刚深入大唐边境的。秘密安营扎寨,可武三思在十日前便已通知边境军队开始集军备战,由此可推理出天竺国与武三思必有勾结,他们的计划是天竺军假意与噶尔氏联合攻
唐,后天竺军反戈,与唐军前后夹击围剿噶尔氏军队,两军再联合吐城中伪装商人的天竺军队攻打吐蕃都城,将其灭国,占领其疆土。
网友繁华落尽感受:
这个本在打完惊华之后再玩,属实有点拉胯。历史基本靠编,密室简单适合新手,所以我更愿意称其为东方幻想撕逼本
看名字我的期待值100,到推凶凉一截,进行到中间的时候 我觉得每个人都不简单,大家绝对都做了些什么,尤其各位的身份+大唐的背景,真的很吸引我。但是最后到复盘我也没发现我们有哪里不简单了……
优点:
1.题材很新颖 把历史和推理结合,历史本终于不再是一水的情感本了。作为一个长安十二时辰和妖猫传的小粉丝,看到这个故事背景直接就爱住了
2.盘凶友好适合新手,有小亮点在里面
3.有反转(虽然在反转之前就被我们猜到了,但是对新手玩家来说这个反转还是很精妙的)
接下来说一说缺点:
1.凶案杠点很多,对老玩家来说很简单很简单
2.边缘位极多,明明是写的大唐的故事,我一个太平公主边到飞起 我觉得这不合理
3.除了凶手,所有人全员降智……对我没有办法想象到武则天的娃居然都是傻白甜挂的,我无法接受。它实在不是一个合格的历史本,每个角色都没有立住,不够丰满,而且也不符合当时的时代背景,比较失望
能够感觉到作者的历史功底积累还不够,对于这个时代的故事很浅尝辄止,或者说只是新瓶装旧酒,借了个大唐的壳子而已。
如果要写后续,希望作者能在历史这方面多补补课,要不就打个东方幻想主题玩尬的那也行吧
三、正确的故事推理流程
1、分析最后两条线索作为切入点:
①. 边塞情报(李旦专属证据需公开)
从此线索中可知两月前兰淑妃的胞弟吐藩王杜松芒波杰与吐蕃大相噶尔赞悉若因联合天竺攻打大唐一事发生分歧,噶尔氏各部将纷纷造反,意图废掉杜松芒波杰,另立新王,杜松芒波杰身陷囹圄,危在旦夕。结合太平公主剧本中《往事》最后段落和线索卡《兰淑妃》可推测出书信中的内容便是此事。时间上此事发生在两月前,而兰淑妃收到加急信件乃一个多月前,大致计算信件寄来的路程时间,是十分吻合而此线索中提到五日前吐蕃军队才刚深入大唐边境的。秘密安营扎寨,可武三思在十日前便已通知边境军队开始集军备战,由此可推理出天竺国与武三思必有勾结,他们的计划是天竺军假意与噶尔氏联合攻
唐,后天竺军反戈,与唐军前后夹击围剿噶尔氏军队,两军再联合吐城中伪装商人的天竺军队攻打吐蕃都城,将其灭国,占领其疆土。
网友繁华落尽感受:
这个本在打完惊华之后再玩,属实有点拉胯。历史基本靠编,密室简单适合新手,所以我更愿意称其为东方幻想撕逼本
看名字我的期待值100,到推凶凉一截,进行到中间的时候 我觉得每个人都不简单,大家绝对都做了些什么,尤其各位的身份+大唐的背景,真的很吸引我。但是最后到复盘我也没发现我们有哪里不简单了……
优点:
1.题材很新颖 把历史和推理结合,历史本终于不再是一水的情感本了。作为一个长安十二时辰和妖猫传的小粉丝,看到这个故事背景直接就爱住了
2.盘凶友好适合新手,有小亮点在里面
3.有反转(虽然在反转之前就被我们猜到了,但是对新手玩家来说这个反转还是很精妙的)
接下来说一说缺点:
1.凶案杠点很多,对老玩家来说很简单很简单
2.边缘位极多,明明是写的大唐的故事,我一个太平公主边到飞起 我觉得这不合理
3.除了凶手,所有人全员降智……对我没有办法想象到武则天的娃居然都是傻白甜挂的,我无法接受。它实在不是一个合格的历史本,每个角色都没有立住,不够丰满,而且也不符合当时的时代背景,比较失望
能够感觉到作者的历史功底积累还不够,对于这个时代的故事很浅尝辄止,或者说只是新瓶装旧酒,借了个大唐的壳子而已。
如果要写后续,希望作者能在历史这方面多补补课,要不就打个东方幻想主题玩尬的那也行吧
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