#AoyamaEkiden Yesterday#
2024.01.13
2⃣️
P1-2/小森更新推文(出镜:湯原、関口)(小森拍照风格自成一派…
P3/秋山雄飛更新限时动态
P4/补档/报道:箱根駅伝優勝の青学大が報告会 4区区間賞の佐藤一世「青学大に入って良かった」( https://t.cn/A6YdorZk)
P5/补档/报道:青学大の箱根駅伝V報告会に観衆500人 原監督が一般学生にも熱弁「皆さんも『負けてたまるか』という思いで頑張って」( https://t.cn/A6YdorZe) https://t.cn/A6O9PXPH
2024.01.13
2⃣️
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_sexyzoneIG更新
2024/3/10
グループでHanauta Chillアンバサダーに就任中という事で、Hanauta Chillグッズの【いぬ】を自宅に連れて帰った所、愛犬ビス氏は友達ができたようで大喜びでした。
あ、一応距離感は保つようにしてます…笑
ペットを飼われてる皆様…
くれぐれも”仲良く”させてください!笑
以前僕がインスタライブ内で「こちらの【いぬ】がチーフマネージャーの(通称こてつさん)にそっくりです!(特に後ろ姿)」と言ってしまったことから、商品名を”こてつ”と間違えられてる方が多数いらっしゃいますが、正しくは【いぬ】です。
何卒こてつを、あ、間違えました…
【いぬ】を可愛がってあげてください!!
詳しくはxxxxx.POP UP STOREに載っているので、ぜひご覧ください♪
#SZ
#セクゾ
#HanautaChill
#いぬ
#dog
#こてつ
#kotetsu##sexyzone#
2024/3/10
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井伊直政の歴史
徳川四天王・井伊直政の生涯
井伊虎松の誕生!まわりは敵だらけの幼少期
1561年(永禄4年)、井伊直政は遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ:現在の静岡県浜松市浜名区)で今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。
しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」(いまがわうじざね)により謀殺されます。
井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継ぎましたが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていませんでした。
そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごします。
徳川家康に迎え入れられて
井伊万千代として徳川家康の小姓に
1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚。井伊直政は「松下虎松」(まつしたとらまつ)として松下家の養子となり、浜松へと移住しました。
1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れます。徳川家康が「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことでした。
井伊直政は、「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣・青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた旗)を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れます。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、その理由。
そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を抱きました。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えます。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。
さらに300石と16人の同心衆(どうしんしゅう:軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。
勇猛果敢!武勇に長けた井伊直政の本領発揮!!
徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾りました。この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領します。
1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのです。
1582年(天正10年)は井伊直政にとって怒涛の1年となる
徳川家康、伊賀越えの御難!殿をお守りせよ!!
1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい:現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。
この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれています。
伊賀越えの途中、徳川家康一行は空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。唯一口にしなかった井伊直政に対して徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言いました。
「敵が迫ってきたらそのときは、自分がここに踏みとどまって討ち死にする覚悟です。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら、飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の名折れです」
井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で織られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。
天正壬午の乱!甲斐・信濃を平定
無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かりました。甲斐・信濃は滅亡した武田家の領地でしたが、統治者がいなくなったことで一揆が各地で発生。混乱に陥っていたのです。
「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国(現在の神奈川県)の北条氏と、越後国(現在の新潟県)の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いでした。井伊直政は徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣を懐柔すると共に、北条氏とも和議を成立させ、徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献したのです。
武田家の遺臣を引き継ぎ井伊の赤備え結成へ
徳川家康は天正壬午の乱で味方に引き入れた武田家の遺臣74名と、名だたる坂東武者43名を、井伊直政の直属に入れました。同時に徳川家康は井伊直政に、武田家の兵法「武田の赤備え」を継承するように命じます。
「赤備え」とは、「武田信玄」が考案した精鋭部隊の俗称。部隊の兵が全員、軍旗・武具・甲冑(鎧兜)を赤一色で揃えることです。皆一様に同じ色の具足を着用することで団結力が増す他、赤は戦場で一際目立つ色であることから、赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴とも言われていました。
結果、井伊直政率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、諸将を恐れさせたと言います。
赤鬼が迫る!井伊の赤備えの活躍!!
小牧・長久手の戦い
武田軍を引き入れて結成された井伊の赤備えが活躍するのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」です。
織田信長の後継者を巡り「豊臣秀吉」と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が対立するようになり、徳川家康は織田信雄の援軍として参戦していました。
小牧において豊臣秀吉軍を退けた徳川家康は、長久手でも豊臣秀吉軍をさらに追撃。両軍ほぼ互角の勢いを見せていましたが、井伊直政の配置した鉄砲300挺が豊臣秀吉軍の意表を突き、総崩れします。
この時、井伊直政は赤色の兜に鬼の角のような飾りを付けており、先陣を切って長槍で敵を蹴散らしていきました。勇猛果敢な姿を見た人々は井伊直政のことを「井伊の赤鬼」と呼び、一躍全国にその名が知れ渡ったのです。
小牧・長久手の戦いのあと、1590年(天正18年)に行なわれた「小田原征伐」ののちに徳川家康の国替えが実施されると、徳川家康は関東一円に領地を持つことになります。この中で最大の領地を拝領したのが井伊直政で、12万石と上野国(現在の群馬県)箕輪への入封を果たし、徳川四天王の中でも最大の恩賞を得ました。
そして井伊直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃城して、中山道と三国街道の要衝にあたる高崎にあった和田城を改築して高崎城を築城します。
人斬り兵部の異名を取る
一方で井伊直政は、自分のみならず周囲へ対する厳しさにより家臣から恐れられていました。井伊直政は旧武田家の遺臣を預かったあと、徳川家康の期待に応えるためにより一層家臣に対して厳しくなります。井伊の赤備えと呼ばれた家臣らに対しての仕打ちは特に厳しく、どれほど些細な失敗であっても決して許さずに手討ちにすることもありました。
井伊直政の厳格な気質に対して付いた異名が「人斬り兵部」。「兵部」(ひょうぶ)とは、当時の井伊直政の官職「兵部少輔」(ひょうぶしょうゆう)のことで、厳しさに耐えかねて逃げ出す家臣も少なくありませんでした。
関ヶ原の戦いと井伊直政の最期
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉が没してから僅か2年後に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」。この時、井伊直政は徳川家康率いる東軍として参戦し、「黒田長政」を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮します。
そして本戦では、「福島正則」が先陣を切る決まりであったことを無視して抜け駆けし、一番槍として戦いの火蓋を切って落としました。なお、この抜け駆け問題は霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとも言われています。
戦闘は最初こそ西軍が優勢でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにより状況は逆転。西軍諸将が次々と敗走する中、孤立していた西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は敵を切り抜けて退却するという行動に出ます。
島津軍は精鋭であり、死を前にしての迫力に東軍も追撃を躊躇しました。僅か数百の島津軍は奮闘し、大軍で構成されている東軍を正面から突破しようとします。
島津軍は徳川家康がいる本陣の近くへと迫りますが、転進して伊勢街道を南下。井伊直政は本多忠勝や「松平忠吉」と共に追撃します。
この時、井伊直政は島津軍「柏木源藤」(かしわぎげんとう)が撃った銃弾にあたり落馬してしまい、その隙をついて島津義弘は本国へと逃げおおせました。約6時間の戦闘の末、東軍は圧勝。ここに徳川家康の天下統一の準備が整ったのです。
戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒やす間もなく、戦後処理に従事します。西軍総大将「毛利輝元」との講和交渉役を担って毛利氏の改易を回避。また、敗戦の将となった「石田三成」が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護する他、西軍「真田昌幸」と昌幸の次男「真田幸村(真田信繁)」の助命にも尽力するなど、身を粉にして働いた結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。
そして、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。死因については主に2つの説があります。ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説。
もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説。文武に優れ、礼儀作法も完璧にこなし、毛利家家臣「小早川隆景」などから「本気を出せば天下を取れる逸材」とまで言われた知将・井伊直政の評価は高く、江戸幕府編修の系譜集「徳川実紀」(とくがわじっき)や「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)にも、「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と記されています。
徳川四天王・井伊直政の生涯
井伊虎松の誕生!まわりは敵だらけの幼少期
1561年(永禄4年)、井伊直政は遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ:現在の静岡県浜松市浜名区)で今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。
しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」(いまがわうじざね)により謀殺されます。
井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継ぎましたが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていませんでした。
そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごします。
徳川家康に迎え入れられて
井伊万千代として徳川家康の小姓に
1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚。井伊直政は「松下虎松」(まつしたとらまつ)として松下家の養子となり、浜松へと移住しました。
1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れます。徳川家康が「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことでした。
井伊直政は、「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣・青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた旗)を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れます。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、その理由。
そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を抱きました。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えます。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。
さらに300石と16人の同心衆(どうしんしゅう:軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。
勇猛果敢!武勇に長けた井伊直政の本領発揮!!
徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾りました。この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領します。
1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのです。
1582年(天正10年)は井伊直政にとって怒涛の1年となる
徳川家康、伊賀越えの御難!殿をお守りせよ!!
1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい:現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。
この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれています。
伊賀越えの途中、徳川家康一行は空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。唯一口にしなかった井伊直政に対して徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言いました。
「敵が迫ってきたらそのときは、自分がここに踏みとどまって討ち死にする覚悟です。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら、飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の名折れです」
井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で織られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。
天正壬午の乱!甲斐・信濃を平定
無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かりました。甲斐・信濃は滅亡した武田家の領地でしたが、統治者がいなくなったことで一揆が各地で発生。混乱に陥っていたのです。
「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国(現在の神奈川県)の北条氏と、越後国(現在の新潟県)の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いでした。井伊直政は徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣を懐柔すると共に、北条氏とも和議を成立させ、徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献したのです。
武田家の遺臣を引き継ぎ井伊の赤備え結成へ
徳川家康は天正壬午の乱で味方に引き入れた武田家の遺臣74名と、名だたる坂東武者43名を、井伊直政の直属に入れました。同時に徳川家康は井伊直政に、武田家の兵法「武田の赤備え」を継承するように命じます。
「赤備え」とは、「武田信玄」が考案した精鋭部隊の俗称。部隊の兵が全員、軍旗・武具・甲冑(鎧兜)を赤一色で揃えることです。皆一様に同じ色の具足を着用することで団結力が増す他、赤は戦場で一際目立つ色であることから、赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴とも言われていました。
結果、井伊直政率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、諸将を恐れさせたと言います。
赤鬼が迫る!井伊の赤備えの活躍!!
小牧・長久手の戦い
武田軍を引き入れて結成された井伊の赤備えが活躍するのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」です。
織田信長の後継者を巡り「豊臣秀吉」と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が対立するようになり、徳川家康は織田信雄の援軍として参戦していました。
小牧において豊臣秀吉軍を退けた徳川家康は、長久手でも豊臣秀吉軍をさらに追撃。両軍ほぼ互角の勢いを見せていましたが、井伊直政の配置した鉄砲300挺が豊臣秀吉軍の意表を突き、総崩れします。
この時、井伊直政は赤色の兜に鬼の角のような飾りを付けており、先陣を切って長槍で敵を蹴散らしていきました。勇猛果敢な姿を見た人々は井伊直政のことを「井伊の赤鬼」と呼び、一躍全国にその名が知れ渡ったのです。
小牧・長久手の戦いのあと、1590年(天正18年)に行なわれた「小田原征伐」ののちに徳川家康の国替えが実施されると、徳川家康は関東一円に領地を持つことになります。この中で最大の領地を拝領したのが井伊直政で、12万石と上野国(現在の群馬県)箕輪への入封を果たし、徳川四天王の中でも最大の恩賞を得ました。
そして井伊直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃城して、中山道と三国街道の要衝にあたる高崎にあった和田城を改築して高崎城を築城します。
人斬り兵部の異名を取る
一方で井伊直政は、自分のみならず周囲へ対する厳しさにより家臣から恐れられていました。井伊直政は旧武田家の遺臣を預かったあと、徳川家康の期待に応えるためにより一層家臣に対して厳しくなります。井伊の赤備えと呼ばれた家臣らに対しての仕打ちは特に厳しく、どれほど些細な失敗であっても決して許さずに手討ちにすることもありました。
井伊直政の厳格な気質に対して付いた異名が「人斬り兵部」。「兵部」(ひょうぶ)とは、当時の井伊直政の官職「兵部少輔」(ひょうぶしょうゆう)のことで、厳しさに耐えかねて逃げ出す家臣も少なくありませんでした。
関ヶ原の戦いと井伊直政の最期
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉が没してから僅か2年後に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」。この時、井伊直政は徳川家康率いる東軍として参戦し、「黒田長政」を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮します。
そして本戦では、「福島正則」が先陣を切る決まりであったことを無視して抜け駆けし、一番槍として戦いの火蓋を切って落としました。なお、この抜け駆け問題は霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとも言われています。
戦闘は最初こそ西軍が優勢でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにより状況は逆転。西軍諸将が次々と敗走する中、孤立していた西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は敵を切り抜けて退却するという行動に出ます。
島津軍は精鋭であり、死を前にしての迫力に東軍も追撃を躊躇しました。僅か数百の島津軍は奮闘し、大軍で構成されている東軍を正面から突破しようとします。
島津軍は徳川家康がいる本陣の近くへと迫りますが、転進して伊勢街道を南下。井伊直政は本多忠勝や「松平忠吉」と共に追撃します。
この時、井伊直政は島津軍「柏木源藤」(かしわぎげんとう)が撃った銃弾にあたり落馬してしまい、その隙をついて島津義弘は本国へと逃げおおせました。約6時間の戦闘の末、東軍は圧勝。ここに徳川家康の天下統一の準備が整ったのです。
戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒やす間もなく、戦後処理に従事します。西軍総大将「毛利輝元」との講和交渉役を担って毛利氏の改易を回避。また、敗戦の将となった「石田三成」が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護する他、西軍「真田昌幸」と昌幸の次男「真田幸村(真田信繁)」の助命にも尽力するなど、身を粉にして働いた結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。
そして、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。死因については主に2つの説があります。ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説。
もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説。文武に優れ、礼儀作法も完璧にこなし、毛利家家臣「小早川隆景」などから「本気を出せば天下を取れる逸材」とまで言われた知将・井伊直政の評価は高く、江戸幕府編修の系譜集「徳川実紀」(とくがわじっき)や「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)にも、「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と記されています。
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