滋賀医科大学生母親殺害事件に関し、一審判決を覆され、かなり特殊な判例に対し、東京大学法学部卒、現教育系ユーチューバにお勤めいただいてる山田亮秀(以下あきぴ)さんのコメントを拝読していたところ、ものすごい尊敬な気持ちが湧き出し、お見せさせていただきたいと存じます。
「参考文献:
平成30年(わ)第293号死体損壊、死体遺棄、殺人被告事『大津地方裁判所』
令和2年(う)第447号 死体損壊、死体遺棄、殺人被告事『大阪高等裁判所』」
「なぜ母がここまで狂気的とも言える学歴仰、そして医者信仰を抱いてしまったのか。
どれも推測の域を出ないのだが、理由は以下のように落ち着いている。
X
・母自身の学歴コンプレックス
母は工業高校を卒業。最終学歴が高卒であることを悔やんでいると何百回も聞かされていた。
・看護師への偏見、医者への尊敬母の友人にNさんという人がいた。少し母より成績が劣っていたが、看護学校に行ったとのこと。看護師は介護士のように下の世話もしなければならない過酷な仕事と聞かされていた。
また母の実母(娘から見た母方の祖母)の再婚相手は元軍医のアメリカ人で、軍隊を除隊した後は歯科医となった。その暮らしぶりは豊かで、医者が社会的に認められているのを肌で感じていた。
・祖母への執着
上述の通り祖母はアメリカ人と再婚し、そのままアメリカに定住することになったが母は数年で日本に帰国した。小さい頃に再婚した祖母たちだけ米国に行ってしまって、母自身は祖母から十分な愛情を受けないまま育ってしまったのではないかと言われている。
母が娘に予備校代や家庭教師代、私立中学の学費など潤沢な教育費をかけられた背景には、祖母の経済的援助があった。娘を医者にしたいからと学費の協力をお願いしたり、何かと娘の現況を祖母に報告したりというやりとりが行われていたが、それも娘を引き合いに出して祖母を喜ばせ、振り向いてもらえなかった部分を埋めていたとか。そしてお金をもらっている以上は結果を出さねばという固執を鑑みると、もしかすると母は祖母のために子育てしていたのかもしれない。
そして2018年6月大学病院で看護師として働き始めていた 31歳の娘は死体遺棄、損壊容疑で逮捕、9月には殺人容疑で逮捕された。
20年2月に始まった大津地裁の一審裁判員裁判では、娘は「母は自殺した」と殺害を否定していた。しかし母には自殺の動機がなく死亡時に被告と2人きりだったため、3月の判決公判では殺人の罪を認定。懲役15の実刑(求刑懲役20年)が下った。
その一方で判決は、娘の育った環境を「長年にわたり母子だけの閉鎖的な環境」と指摘。成人後も行きすぎた干渉を受け、相当に追い詰められた末に犯行に及び、経緯には同情の余地があると結論づけた。裁判長は「母に敷かれていたレールを歩み続けていたが、自分の人生を歩んでください」と説諭した。
二審では娘は大阪高裁に陳述書を提出し、一転して自らの犯行を認めた。誰にも理解されないと思っていた母との確執を認められたことで、真相を話し、罪と向き合うことを決めたのだという。
また一審では父も立ち会っていたのだが、その後の面会に「本当のことを言った方がいい」と助言を施していた。父は娘が嘘をついていることがわかっていたのだった。生まれてから10年ほどで別居してしまった父だったが、娘にとっては唯一心を許せる存在でその助言を素直に聞き入れた。
判決後、滋賀県内の拘置所に面会に訪れた弁護人に、控訴審では殺人を認めると打ち明けた。
大阪高裁での控訴審はその8カ月後。被告人質問で、一審で殺害を否定した理由を問われた娘は「(父に)実の娘が母を刺したことを知られるのが怖かった」と打ち明けた。
21年1月、控訴審判決で言い渡された判決は、懲役10年。一審判決から大幅に減刑した。娘は時折ハンカチで目を押さえながら判決の読み上げを聞いた。
「自白したように、罪と向き合い反省して償ってください。これからは自身の判断で進路を決めなくてはいけません。大変なこともあるととで更生してほしいと思います」
言い渡し後、裁判長が説諭すると、娘は肩を震わせながら大きくうなずいた。控訴期限の2月上旬までに弁護側、検察側のいずれも控訴せず、刑が確定した。執行猶予はなく、彼女は
2023年8月現在も服役中である。
さてこの事件は結局懲役10年というところで決着したが、中にはこれを長すぎると思う人もいるかもしれない。ただここで1点注意しておきたいのが量刑は我々の想像する以上に難しいと言うことである。
例えば本当に娘は母をやるしかなかったのか、と言う点。
確かに探偵に見つかったり、就職を御破算にされたりとまさに八方塞がりのようにも思えるが物理的には足がついている以上何処かに出迎い助けを求めることができたのではないかと。
動画には出していないが、現に娘は自分が最も頼している教師の家に何度か転がり込んだこともあった。そこで事情を話し教師が担任や管
察に助けを求めようとするもそれを娘自身が拒んだのである。
このように物理的に逃げられる機会が本当になかった、とは言えないのである。
もちろん助けを求めても無駄だ、逃げても無駄だ、そう思わざるをえないくらい幼い頃から無慈悲な所業を受けていたのも事実である。
このように1つの争点を取り上げるだけでもさまざまな観点から事実を検証していくことが求められ、論理の応酬が始まっていく。そしてさらにそういった争点が複数存在するのである。
それらの検証を精密に繰り返し、今までの判例を擦り合わせて具体的な数値に落とし込む、量刑を考えるには並みの作業量と技術力では難しいのである。
さて私自身も判決文を細かに読んでいるわけではないのでこれ以上適当なことは申し上げられないが、ただ皆さんの感じた刑罰の「長い」「短い」その違和感、それは大事にすべきあなたの感性であることは間違いないと言うことだけ最後に付け加えておく。
そして最後にこの話を「毒親」「教育虐待」と言う言葉で片付けることは簡単であるが、私も調べていくうちにこの話はそんなに単純なものではないと感じるようになった。と言うのも母が完全に娘を憎悪しているとは思えず、また逆も然りと感じたからである。
実は9浪を医学科ではなく看護学科で終わらせ
ようと落とし所をつけたのは母の方だったのである。母としてもずっと浪人をさせて娘を苦しめている自覚があったのだ。
現に母は娘が5浪中の時に多量の睡眠薬を服薬して自殺を図ったが未遂に終わった。これもおそらくそういった自覚から来るものだと思うが、何より未遂に終わったのは娘がその現場を発見し救急車を呼んだからであった。
また娘の方も大学進学後しばらくは「できるだけ母に寄り添おう」という思いから休日を一緒に過ごすよう努め、母娘で旅行をすることもあった。長年互いに憎み、死を願い続けた険悪な関係だったが、やっと普通の母娘になって、楽しく笑い合うこともあった。母が喜んでくれるのが嬉しかったと、娘はその時の気持ちを語っている。
こうしてみると母も娘も完全にお互いを憎み切れていなかったことを象徴しているように思える。不器用な母の愛情とそれに応えようとする娘の優しさとが複雑に絡み合った呪縛。
親子関係、特に母と娘は血のつながっている限り絶縁しようと思っても他人になれない関係性である。そのために2人の関係性ではなく、どちらかの命そのものを消すことでしか解決できなかったことが、今回の事件を引き起こしてしまったのかもしれない。
毒親とは、愛情とは、虐待とは。その線引きは一体どこなのだろうと深く考えさせられる事件であった。最後に母氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、娘氏が新しい人生を切り開かれることを祈念しております。
そしてこのような事件が再びと起こらないよう、広く広く皆様の耳目に留まることを願っております。」
以上により、あきぴさんが世間に表した驚嘆的な国語力や文章の綺麗さのみならず、あきぴがご自身は東大法卒なので、今回の件に対しより深い理解を持ちながら事件を分析する能力が半端ないと解され、この文章から私自身も現段階の実力と弁護士を目指せることとの間に努力だけなら埋められない穴があると痛感し、思考力、ロジック、アウトプットリテラシー、物事への是正などなど、弁護士として無くてはいけない物への重要性と弁護士となる道がイバラまみれで断じて怠けながら三日坊主の心で叶うものではなく、今後も精進して参ります。
「参考文献:
平成30年(わ)第293号死体損壊、死体遺棄、殺人被告事『大津地方裁判所』
令和2年(う)第447号 死体損壊、死体遺棄、殺人被告事『大阪高等裁判所』」
「なぜ母がここまで狂気的とも言える学歴仰、そして医者信仰を抱いてしまったのか。
どれも推測の域を出ないのだが、理由は以下のように落ち着いている。
X
・母自身の学歴コンプレックス
母は工業高校を卒業。最終学歴が高卒であることを悔やんでいると何百回も聞かされていた。
・看護師への偏見、医者への尊敬母の友人にNさんという人がいた。少し母より成績が劣っていたが、看護学校に行ったとのこと。看護師は介護士のように下の世話もしなければならない過酷な仕事と聞かされていた。
また母の実母(娘から見た母方の祖母)の再婚相手は元軍医のアメリカ人で、軍隊を除隊した後は歯科医となった。その暮らしぶりは豊かで、医者が社会的に認められているのを肌で感じていた。
・祖母への執着
上述の通り祖母はアメリカ人と再婚し、そのままアメリカに定住することになったが母は数年で日本に帰国した。小さい頃に再婚した祖母たちだけ米国に行ってしまって、母自身は祖母から十分な愛情を受けないまま育ってしまったのではないかと言われている。
母が娘に予備校代や家庭教師代、私立中学の学費など潤沢な教育費をかけられた背景には、祖母の経済的援助があった。娘を医者にしたいからと学費の協力をお願いしたり、何かと娘の現況を祖母に報告したりというやりとりが行われていたが、それも娘を引き合いに出して祖母を喜ばせ、振り向いてもらえなかった部分を埋めていたとか。そしてお金をもらっている以上は結果を出さねばという固執を鑑みると、もしかすると母は祖母のために子育てしていたのかもしれない。
そして2018年6月大学病院で看護師として働き始めていた 31歳の娘は死体遺棄、損壊容疑で逮捕、9月には殺人容疑で逮捕された。
20年2月に始まった大津地裁の一審裁判員裁判では、娘は「母は自殺した」と殺害を否定していた。しかし母には自殺の動機がなく死亡時に被告と2人きりだったため、3月の判決公判では殺人の罪を認定。懲役15の実刑(求刑懲役20年)が下った。
その一方で判決は、娘の育った環境を「長年にわたり母子だけの閉鎖的な環境」と指摘。成人後も行きすぎた干渉を受け、相当に追い詰められた末に犯行に及び、経緯には同情の余地があると結論づけた。裁判長は「母に敷かれていたレールを歩み続けていたが、自分の人生を歩んでください」と説諭した。
二審では娘は大阪高裁に陳述書を提出し、一転して自らの犯行を認めた。誰にも理解されないと思っていた母との確執を認められたことで、真相を話し、罪と向き合うことを決めたのだという。
また一審では父も立ち会っていたのだが、その後の面会に「本当のことを言った方がいい」と助言を施していた。父は娘が嘘をついていることがわかっていたのだった。生まれてから10年ほどで別居してしまった父だったが、娘にとっては唯一心を許せる存在でその助言を素直に聞き入れた。
判決後、滋賀県内の拘置所に面会に訪れた弁護人に、控訴審では殺人を認めると打ち明けた。
大阪高裁での控訴審はその8カ月後。被告人質問で、一審で殺害を否定した理由を問われた娘は「(父に)実の娘が母を刺したことを知られるのが怖かった」と打ち明けた。
21年1月、控訴審判決で言い渡された判決は、懲役10年。一審判決から大幅に減刑した。娘は時折ハンカチで目を押さえながら判決の読み上げを聞いた。
「自白したように、罪と向き合い反省して償ってください。これからは自身の判断で進路を決めなくてはいけません。大変なこともあるととで更生してほしいと思います」
言い渡し後、裁判長が説諭すると、娘は肩を震わせながら大きくうなずいた。控訴期限の2月上旬までに弁護側、検察側のいずれも控訴せず、刑が確定した。執行猶予はなく、彼女は
2023年8月現在も服役中である。
さてこの事件は結局懲役10年というところで決着したが、中にはこれを長すぎると思う人もいるかもしれない。ただここで1点注意しておきたいのが量刑は我々の想像する以上に難しいと言うことである。
例えば本当に娘は母をやるしかなかったのか、と言う点。
確かに探偵に見つかったり、就職を御破算にされたりとまさに八方塞がりのようにも思えるが物理的には足がついている以上何処かに出迎い助けを求めることができたのではないかと。
動画には出していないが、現に娘は自分が最も頼している教師の家に何度か転がり込んだこともあった。そこで事情を話し教師が担任や管
察に助けを求めようとするもそれを娘自身が拒んだのである。
このように物理的に逃げられる機会が本当になかった、とは言えないのである。
もちろん助けを求めても無駄だ、逃げても無駄だ、そう思わざるをえないくらい幼い頃から無慈悲な所業を受けていたのも事実である。
このように1つの争点を取り上げるだけでもさまざまな観点から事実を検証していくことが求められ、論理の応酬が始まっていく。そしてさらにそういった争点が複数存在するのである。
それらの検証を精密に繰り返し、今までの判例を擦り合わせて具体的な数値に落とし込む、量刑を考えるには並みの作業量と技術力では難しいのである。
さて私自身も判決文を細かに読んでいるわけではないのでこれ以上適当なことは申し上げられないが、ただ皆さんの感じた刑罰の「長い」「短い」その違和感、それは大事にすべきあなたの感性であることは間違いないと言うことだけ最後に付け加えておく。
そして最後にこの話を「毒親」「教育虐待」と言う言葉で片付けることは簡単であるが、私も調べていくうちにこの話はそんなに単純なものではないと感じるようになった。と言うのも母が完全に娘を憎悪しているとは思えず、また逆も然りと感じたからである。
実は9浪を医学科ではなく看護学科で終わらせ
ようと落とし所をつけたのは母の方だったのである。母としてもずっと浪人をさせて娘を苦しめている自覚があったのだ。
現に母は娘が5浪中の時に多量の睡眠薬を服薬して自殺を図ったが未遂に終わった。これもおそらくそういった自覚から来るものだと思うが、何より未遂に終わったのは娘がその現場を発見し救急車を呼んだからであった。
また娘の方も大学進学後しばらくは「できるだけ母に寄り添おう」という思いから休日を一緒に過ごすよう努め、母娘で旅行をすることもあった。長年互いに憎み、死を願い続けた険悪な関係だったが、やっと普通の母娘になって、楽しく笑い合うこともあった。母が喜んでくれるのが嬉しかったと、娘はその時の気持ちを語っている。
こうしてみると母も娘も完全にお互いを憎み切れていなかったことを象徴しているように思える。不器用な母の愛情とそれに応えようとする娘の優しさとが複雑に絡み合った呪縛。
親子関係、特に母と娘は血のつながっている限り絶縁しようと思っても他人になれない関係性である。そのために2人の関係性ではなく、どちらかの命そのものを消すことでしか解決できなかったことが、今回の事件を引き起こしてしまったのかもしれない。
毒親とは、愛情とは、虐待とは。その線引きは一体どこなのだろうと深く考えさせられる事件であった。最後に母氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、娘氏が新しい人生を切り開かれることを祈念しております。
そしてこのような事件が再びと起こらないよう、広く広く皆様の耳目に留まることを願っております。」
以上により、あきぴさんが世間に表した驚嘆的な国語力や文章の綺麗さのみならず、あきぴがご自身は東大法卒なので、今回の件に対しより深い理解を持ちながら事件を分析する能力が半端ないと解され、この文章から私自身も現段階の実力と弁護士を目指せることとの間に努力だけなら埋められない穴があると痛感し、思考力、ロジック、アウトプットリテラシー、物事への是正などなど、弁護士として無くてはいけない物への重要性と弁護士となる道がイバラまみれで断じて怠けながら三日坊主の心で叶うものではなく、今後も精進して参ります。
#日语##世界计划多彩舞台##Project SEKAI#
プロセカのイベストを続けて追って行きます。
まず穂波の「Little Bravers!」。いよいよメジャーデビューの打診かと思ったら、「JKバンド」や「若さ」を武器にすることをよしとしないレオニ、中でも奥ゆかしい穂波の確固たる決意から彼女の覚醒を感じさせてくれました。しかしあえて、私個人としてここは「売り方/宣伝方法を事務所に任せて、自分たちはとにかくデビューして演奏で観客の心を掴む」ことを選択したほうが賢い大人な決断だと声を上げたいところですね。まあ曲のスタイルを極端に変えろってなら話は別だが、レオニの曲はそもそも「JKバンド」や「青春」からそんなにかけ離れていないため、そこは大丈夫かと思います。ちなみにこんなことを言いながらも、私は声優をアイドルみたいに売り出す手法は大嫌いです。
次は雫の「ほどかれた糸のその先に」。モモジャンとしての初のテレビ出演でいきなり雫の古巣にあたるアイドルユニット「Cheerful*Days」が司会を担当することになり、脱退やキャラの違いといったデリケートな質問をぶつけられました。まあそこはいいんです、いくら雫好きだからってそこで相手(アリサ)を責めようとは思いません。ただ改めて「スケジュールの調整ミスで雫が大事なステージに行けなかった」と「雫を天然より完璧超人として売り出していた」のを見て、雫がいた事務所がとんでもない無能だと再認識して、むしろそっちに憤慨していました。穂波の「Little Bravers!」にも似たことが言えますが、ホントやることの規模が大きくなればなるほど、本人らとは別のところの歯車が少しでも狂うと、土台まるごと揺らいでしまうんですよね。だから今Vtuberなるものが流行り出しているのかもしれませんね。
プロセカのイベストを続けて追って行きます。
まず穂波の「Little Bravers!」。いよいよメジャーデビューの打診かと思ったら、「JKバンド」や「若さ」を武器にすることをよしとしないレオニ、中でも奥ゆかしい穂波の確固たる決意から彼女の覚醒を感じさせてくれました。しかしあえて、私個人としてここは「売り方/宣伝方法を事務所に任せて、自分たちはとにかくデビューして演奏で観客の心を掴む」ことを選択したほうが賢い大人な決断だと声を上げたいところですね。まあ曲のスタイルを極端に変えろってなら話は別だが、レオニの曲はそもそも「JKバンド」や「青春」からそんなにかけ離れていないため、そこは大丈夫かと思います。ちなみにこんなことを言いながらも、私は声優をアイドルみたいに売り出す手法は大嫌いです。
次は雫の「ほどかれた糸のその先に」。モモジャンとしての初のテレビ出演でいきなり雫の古巣にあたるアイドルユニット「Cheerful*Days」が司会を担当することになり、脱退やキャラの違いといったデリケートな質問をぶつけられました。まあそこはいいんです、いくら雫好きだからってそこで相手(アリサ)を責めようとは思いません。ただ改めて「スケジュールの調整ミスで雫が大事なステージに行けなかった」と「雫を天然より完璧超人として売り出していた」のを見て、雫がいた事務所がとんでもない無能だと再認識して、むしろそっちに憤慨していました。穂波の「Little Bravers!」にも似たことが言えますが、ホントやることの規模が大きくなればなるほど、本人らとは別のところの歯車が少しでも狂うと、土台まるごと揺らいでしまうんですよね。だから今Vtuberなるものが流行り出しているのかもしれませんね。
信陵君
魏の公子と食客
ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。
そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。
他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
趙への援軍
安釐王19年(紀元前258年)、長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。
この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための割符は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命を手向けとさせて頂きます」といった。
そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ自刎した。
信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。
趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだ。もはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言う。
帰国
安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙驁を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。
失脚
函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。
死後
その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、魏王假3年(紀元前225年)に滅亡する。
なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちに前漢の功臣の一人となる張耳も含まれていた。
また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。
魏无忌(?-前243年),即信陵君。魏国国君安釐王同父异母的弟弟。中国战国末期魏国名将。中国战国时四公子之一。魏无忌出身贵族,礼贤下士,招养门客。曾派门客刺探邻国动静,对秦军东进意图思虑甚深,认为秦必以吞韩并魏为先,故反对亲秦伐韩之策,力劝魏王存韩以保魏。当韩上党与本土被秦截断后,曾主张以魏之安成道作为韩往上党的通道。前258年,秦进围赵都邯郸,魏王虽派晋鄙率军救赵,旋因受秦威胁而止于邺(今临漳西南),魏无忌受赵平原君之托,屡劝魏王发兵无效,即采纳门客候嬴之谋,假魏王宠妾如姬盗得虎符,使力士朱亥追杀晋鄙,夺取兵权,次年,与赵、楚军大破秦军,解邯郸之围。后秦攻魏其急,魏无忌归魏任大将军。后因秦使反间计,魏无忌遭晋鄙旧属谗毁而被魏王派人取代,自此不得志,谢病不朝。前243年卒。魏无忌主持合纵攻秦,以上将军职率韩、赵、魏、楚、燕五国联军大败秦蒙骜军,在战国后期关东六国合纵抗秦的过程中起了重要作用。魏无忌曾与其门客著《魏公子兵法》,已佚。
魏の公子と食客
ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。
そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。
他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
趙への援軍
安釐王19年(紀元前258年)、長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。
この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための割符は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命を手向けとさせて頂きます」といった。
そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ自刎した。
信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。
趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだ。もはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言う。
帰国
安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙驁を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。
失脚
函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。
死後
その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、魏王假3年(紀元前225年)に滅亡する。
なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちに前漢の功臣の一人となる張耳も含まれていた。
また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。
魏无忌(?-前243年),即信陵君。魏国国君安釐王同父异母的弟弟。中国战国末期魏国名将。中国战国时四公子之一。魏无忌出身贵族,礼贤下士,招养门客。曾派门客刺探邻国动静,对秦军东进意图思虑甚深,认为秦必以吞韩并魏为先,故反对亲秦伐韩之策,力劝魏王存韩以保魏。当韩上党与本土被秦截断后,曾主张以魏之安成道作为韩往上党的通道。前258年,秦进围赵都邯郸,魏王虽派晋鄙率军救赵,旋因受秦威胁而止于邺(今临漳西南),魏无忌受赵平原君之托,屡劝魏王发兵无效,即采纳门客候嬴之谋,假魏王宠妾如姬盗得虎符,使力士朱亥追杀晋鄙,夺取兵权,次年,与赵、楚军大破秦军,解邯郸之围。后秦攻魏其急,魏无忌归魏任大将军。后因秦使反间计,魏无忌遭晋鄙旧属谗毁而被魏王派人取代,自此不得志,谢病不朝。前243年卒。魏无忌主持合纵攻秦,以上将军职率韩、赵、魏、楚、燕五国联军大败秦蒙骜军,在战国后期关东六国合纵抗秦的过程中起了重要作用。魏无忌曾与其门客著《魏公子兵法》,已佚。
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