井伊直政の歴史
徳川四天王・井伊直政の生涯
井伊虎松の誕生!まわりは敵だらけの幼少期
1561年(永禄4年)、井伊直政は遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ:現在の静岡県浜松市浜名区)で今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。

しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」(いまがわうじざね)により謀殺されます。

井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継ぎましたが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていませんでした。

そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごします。

徳川家康に迎え入れられて
井伊万千代として徳川家康の小姓に
1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚。井伊直政は「松下虎松」(まつしたとらまつ)として松下家の養子となり、浜松へと移住しました。

1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れます。徳川家康が「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことでした。

井伊直政は、「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣・青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた旗)を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れます。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、その理由。

そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を抱きました。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えます。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。

さらに300石と16人の同心衆(どうしんしゅう:軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。
勇猛果敢!武勇に長けた井伊直政の本領発揮!!
徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾りました。この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領します。

1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのです。

1582年(天正10年)は井伊直政にとって怒涛の1年となる
徳川家康、伊賀越えの御難!殿をお守りせよ!!
1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい:現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。

この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれています。

伊賀越えの途中、徳川家康一行は空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。唯一口にしなかった井伊直政に対して徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言いました。

「敵が迫ってきたらそのときは、自分がここに踏みとどまって討ち死にする覚悟です。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら、飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の名折れです」

井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で織られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。
天正壬午の乱!甲斐・信濃を平定
無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かりました。甲斐・信濃は滅亡した武田家の領地でしたが、統治者がいなくなったことで一揆が各地で発生。混乱に陥っていたのです。

「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国(現在の神奈川県)の北条氏と、越後国(現在の新潟県)の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いでした。井伊直政は徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣を懐柔すると共に、北条氏とも和議を成立させ、徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献したのです。

武田家の遺臣を引き継ぎ井伊の赤備え結成へ
徳川家康は天正壬午の乱で味方に引き入れた武田家の遺臣74名と、名だたる坂東武者43名を、井伊直政の直属に入れました。同時に徳川家康は井伊直政に、武田家の兵法「武田の赤備え」を継承するように命じます。

「赤備え」とは、「武田信玄」が考案した精鋭部隊の俗称。部隊の兵が全員、軍旗・武具・甲冑(鎧兜)を赤一色で揃えることです。皆一様に同じ色の具足を着用することで団結力が増す他、赤は戦場で一際目立つ色であることから、赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴とも言われていました。

結果、井伊直政率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、諸将を恐れさせたと言います。
赤鬼が迫る!井伊の赤備えの活躍!!
小牧・長久手の戦い
武田軍を引き入れて結成された井伊の赤備えが活躍するのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」です。
織田信長の後継者を巡り「豊臣秀吉」と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が対立するようになり、徳川家康は織田信雄の援軍として参戦していました。

小牧において豊臣秀吉軍を退けた徳川家康は、長久手でも豊臣秀吉軍をさらに追撃。両軍ほぼ互角の勢いを見せていましたが、井伊直政の配置した鉄砲300挺が豊臣秀吉軍の意表を突き、総崩れします。

この時、井伊直政は赤色の兜に鬼の角のような飾りを付けており、先陣を切って長槍で敵を蹴散らしていきました。勇猛果敢な姿を見た人々は井伊直政のことを「井伊の赤鬼」と呼び、一躍全国にその名が知れ渡ったのです。

小牧・長久手の戦いのあと、1590年(天正18年)に行なわれた「小田原征伐」ののちに徳川家康の国替えが実施されると、徳川家康は関東一円に領地を持つことになります。この中で最大の領地を拝領したのが井伊直政で、12万石と上野国(現在の群馬県)箕輪への入封を果たし、徳川四天王の中でも最大の恩賞を得ました。

そして井伊直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃城して、中山道と三国街道の要衝にあたる高崎にあった和田城を改築して高崎城を築城します。
人斬り兵部の異名を取る
一方で井伊直政は、自分のみならず周囲へ対する厳しさにより家臣から恐れられていました。井伊直政は旧武田家の遺臣を預かったあと、徳川家康の期待に応えるためにより一層家臣に対して厳しくなります。井伊の赤備えと呼ばれた家臣らに対しての仕打ちは特に厳しく、どれほど些細な失敗であっても決して許さずに手討ちにすることもありました。

井伊直政の厳格な気質に対して付いた異名が「人斬り兵部」。「兵部」(ひょうぶ)とは、当時の井伊直政の官職「兵部少輔」(ひょうぶしょうゆう)のことで、厳しさに耐えかねて逃げ出す家臣も少なくありませんでした。

関ヶ原の戦いと井伊直政の最期
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉が没してから僅か2年後に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」。この時、井伊直政は徳川家康率いる東軍として参戦し、「黒田長政」を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮します。

そして本戦では、「福島正則」が先陣を切る決まりであったことを無視して抜け駆けし、一番槍として戦いの火蓋を切って落としました。なお、この抜け駆け問題は霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとも言われています。

戦闘は最初こそ西軍が優勢でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにより状況は逆転。西軍諸将が次々と敗走する中、孤立していた西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は敵を切り抜けて退却するという行動に出ます。
島津軍は精鋭であり、死を前にしての迫力に東軍も追撃を躊躇しました。僅か数百の島津軍は奮闘し、大軍で構成されている東軍を正面から突破しようとします。

島津軍は徳川家康がいる本陣の近くへと迫りますが、転進して伊勢街道を南下。井伊直政は本多忠勝や「松平忠吉」と共に追撃します。

この時、井伊直政は島津軍「柏木源藤」(かしわぎげんとう)が撃った銃弾にあたり落馬してしまい、その隙をついて島津義弘は本国へと逃げおおせました。約6時間の戦闘の末、東軍は圧勝。ここに徳川家康の天下統一の準備が整ったのです。

戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒やす間もなく、戦後処理に従事します。西軍総大将「毛利輝元」との講和交渉役を担って毛利氏の改易を回避。また、敗戦の将となった「石田三成」が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護する他、西軍「真田昌幸」と昌幸の次男「真田幸村(真田信繁)」の助命にも尽力するなど、身を粉にして働いた結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。

そして、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。死因については主に2つの説があります。ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説。

もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説。文武に優れ、礼儀作法も完璧にこなし、毛利家家臣「小早川隆景」などから「本気を出せば天下を取れる逸材」とまで言われた知将・井伊直政の評価は高く、江戸幕府編修の系譜集「徳川実紀」(とくがわじっき)や「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)にも、「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と記されています。

信陵君
魏の公子と食客
ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。

他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
趙への援軍
安釐王19年(紀元前258年)、長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。

この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための割符は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命を手向けとさせて頂きます」といった。

そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ自刎した。
信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。

趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだ。もはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言う。

帰国
安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙驁を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。

失脚
函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。

死後
その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、魏王假3年(紀元前225年)に滅亡する。

なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちに前漢の功臣の一人となる張耳も含まれていた。

また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。

魏无忌(?-前243年),即信陵君。魏国国君安釐王同父异母的弟弟。中国战国末期魏国名将。中国战国时四公子之一。魏无忌出身贵族,礼贤下士,招养门客。曾派门客刺探邻国动静,对秦军东进意图思虑甚深,认为秦必以吞韩并魏为先,故反对亲秦伐韩之策,力劝魏王存韩以保魏。当韩上党与本土被秦截断后,曾主张以魏之安成道作为韩往上党的通道。前258年,秦进围赵都邯郸,魏王虽派晋鄙率军救赵,旋因受秦威胁而止于邺(今临漳西南),魏无忌受赵平原君之托,屡劝魏王发兵无效,即采纳门客候嬴之谋,假魏王宠妾如姬盗得虎符,使力士朱亥追杀晋鄙,夺取兵权,次年,与赵、楚军大破秦军,解邯郸之围。后秦攻魏其急,魏无忌归魏任大将军。后因秦使反间计,魏无忌遭晋鄙旧属谗毁而被魏王派人取代,自此不得志,谢病不朝。前243年卒。魏无忌主持合纵攻秦,以上将军职率韩、赵、魏、楚、燕五国联军大败秦蒙骜军,在战国后期关东六国合纵抗秦的过程中起了重要作用。魏无忌曾与其门客著《魏公子兵法》,已佚。

公孫衍
生涯
秦の恵文君5年(紀元前333年)、大良造に任じられた。翌恵文君6年(紀元前332年)、秦は魏の上郡雕陰(現在の陝西省延安市甘泉県の南)を取るため公孫衍(公子卬)率いる軍を派兵した。魏は龍賈を主将とする軍でこれに当たったが2年にわたる激戦の末、龍賈率いる魏軍は敗れ4万5千または8万の兵を討たれ、龍賈は生捕りにされた。魏はこの戦役において河西郡と上郡を防衛する戦力全てを失い、魏の恵王は翌年河西郡全域を秦に割譲し、秦は魏に占領されていた河西地区一帯を取り返した。

『史記』によると蘇秦は秦が自らが補佐する趙を攻めることを恐れており、張儀が秦に向かうよう仕向けた。

同年、秦は斉と魏に公孫衍を使者として派遣し、両国を騙して趙を攻めさせた。趙の粛侯が蘇秦を責めたため、蘇秦は慌てて燕に赴き斉を攻撃するよう依頼し、蘇秦はそのまま趙を離れた。これにより蘇秦が締結させた反秦の六国同盟は崩壊することとなった。

公孫衍は恵文王に他国を攻めるための策として、魏との一時的な和睦を提案した。この時、張儀は恵文王と面会し、今魏は四面の国を敵に回しており、逆に他国を使って魏を討ち、その覇権を崩す好機であると説いた。恵文王は張儀を宰相とし、その献策を用いたため公孫衍は秦を去ると魏に入りその将軍となった。

魏の国力は衰退していたため、公孫衍は他の国と連合して周辺国と戦う策を用いた。

恵文君13年(紀元前325年)、斉の将軍の田盼と共同して韓と趙の将軍の韓挙と趙護を平邑(現在の河南省濮陽市南楽県)と新城(現在の河南省洛陽市伊川県の南西)で破り、斉は平邑を取った。
恵文王2年(紀元前323年)、公孫衍は魏・韓・趙・燕・中山国の五国で連盟を組み、各国の王を対等な王とすることで秦・斉・楚と言った大国や張儀の連衡策に対抗する策として働きかけた(五国相王(中国語版))。しかしこの策は張儀が斉や楚に働きかけたことにより楚が魏を討つために出兵し頓挫した。また魏の宰相である恵施が斉や楚と連合を組む活動を行なったが、失敗し追放されることとなった。

恵文王3年(紀元前322年)、張儀は魏の恵王に遊説し、秦と魏が連衡して韓を攻め秦は三川、魏は南陽を取ることを提案した。恵王はこれに同意し、張儀を魏の宰相として迎えた。公孫衍は韓の宣恵王に遊説し、南陽を直接魏に割譲すれば秦と魏の連衡は崩れ去ると提案した。宣恵王はこれを容れ南陽を魏に割譲したため、公孫衍は張儀の功績を横取りする形となり恵王から褒賞を得た。

恵文王6年(紀元前319年)、魏は張儀を罷免・追放し秦に帰した。さらに魏・韓・趙・燕・楚で合従して秦を攻めようと謀り、公孫衍を相国の地位に昇進させ、追放していた恵施を帰国させ五国による合従を結成させた。

恵文王7年(紀元前318年)、公孫衍は五国合従軍を率いて秦の函谷関を攻めた。合従軍の総指揮官は楚の懐王が務めることとなり、公孫衍はさらに義渠にも秦を攻めるよう働きかけた。しかし各国の利害関係の元、実際に参戦したのは魏・趙・韓の三国と李帛(現在の甘粛省天水市の東)で秦と戦った義渠に過ぎず、この戦いは合従軍の敗北に終わった(函谷関の戦い)。

公孙衍(生卒年不详),战国时期魏国阴晋(今陕西省华阴市东)人,纵横家。因曾任魏国犀首(官名),史书多以犀首称之。
公孙衍最初出仕魏国,担任犀首一职,在徐州相王时期主张明面与齐国交好、暗中交结楚国的策略。秦惠文王五年(魏惠王后元二年,前333年),离魏入秦,被秦惠文王拜为大良造,在雕阴之战中为秦国攻取魏国的河西之地。魏惠王后元六年(前329年),离秦返魏,在陉山之战中击败楚威王。魏惠王后元十年(前325年),联齐伐赵,攻取平邑、新城。魏惠王后元十二年(前323年),发起五国相王,来联合多国合纵抗秦,但效果不佳。次年张仪便相魏连横。魏惠王后元十六年(前319年),魏国逐走张仪,公孙衍升任魏相。魏襄王元年(前318年),发动五国合纵伐秦的军事行动,攻至函谷关,并拉拢义渠策应;但后来战事失利,各国退兵。约魏襄王三年(前316年),因与田需政斗失败,被迫离开魏国出任韩相,并介绍田文担任魏相,从而继续合纵的战略。韩宣惠王十九年(魏襄王五年,前314年),在岸门之战中被秦军大败,标志着其主导的合纵最终失败。其后公孙衍回魏继续担任魏将,一说还曾二次入秦为官。晚年,在魏昭王三年(前293年)伊阙之战后,奉命出使秦国求和。
公孙衍是纵横学派的代表人物,其主导的合纵声势煊赫,在战国影响深远。时人景春曾评价他:“公孙衍、张仪岂不诚大丈夫哉?一怒而诸侯惧,安居而天下熄。”

張儀
史記による略歴
恥辱
張儀は若い頃、蘇秦と共に鬼谷子に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、楚の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。傷だらけの張儀は妻に対し「舌はまだついているか?」と聞き、ついていると返答されると「舌さえあれば十分だ」と答えたと言う。

その後も不遇だった張儀はすでに趙で出世していた蘇秦を頼って行った。しかし予期に反して大いに侮辱されたため、発奮した張儀はこの屈辱をばねに秦に仕官する事が出来た。だが、この時仕官に必要だった資金は蘇秦がひそかに出したものだった。燕と趙を同盟させた蘇秦は、張儀が秦で出世して同盟が定着するまで趙を攻めないよう秦王に働きかけさせるためにわざと張儀を侮辱したのである。人からその話を聞いた張儀は感じ入り「蘇君が在命のうちは自分にはなにもできない」とへりくだった。

秦の宰相
張儀はその後、魏を討ち、上郡・少梁を獲得した功績で宰相となった。しかし魏が斉に接近するようになると、魏に仕官して魏の宰相となり、このまま秦に攻撃されても他国が頼むに足らないことを説き、秦と魏の同盟を成立させることで連衡を成功させ、再び秦の宰相となった。この際、かつて張儀を袋叩きにした楚の宰相に対し、「あなたはかつて私を疑い、ひどい目にあわせたが、今度は本当にあなたの城を奪ってやる。」との文を送りつけたと言われている。

恵文王9年(紀元前316年)、蜀に内紛が起きたのでこれに乗じるべきかと恵文王に問われた時に張儀は韓を攻めて、周を恫喝し、天下に号令すべきと説いたが、恵文王は司馬錯の献言に従い蜀を占領した。

楚への復讐
恵文王12年(紀元前313年)、張儀は対楚工作に入り、楚に対し商・於の地六百里四方を割譲するから、斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄して、将軍に秦に領土を受け取りに行かせたが、張儀は六里四方の土地を割譲すると言った。これに楚の将軍は約束は六百里だと猛烈に抗議するが張儀はとぼけて相手にしなかった。

懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗する(藍田の戦い)。その後、秦から楚に土地を割譲する事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい」と言い、これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫である鄭袖に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った鄭袖は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。こうして張儀は強国である斉と楚の同盟を崩した上で楚を叩き、和睦にも成功することで合従を崩した。

恵文王14年(紀元前311年)、恵文王が薨去し、張儀とは不仲であった太子蕩が即位し武王となった。張儀は誅殺を恐れ、策があるからと言って魏に逃げ、魏の宰相となって一年後に没した。

史記の記述における矛盾
上記は『史記』によるものだが、後世の研究において蘇秦の記述について矛盾が指摘されている。1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正されたが、それによると蘇秦は張儀よりも後の時代に活躍した人であった。

张仪(?一前309年),魏国安邑(今山西运城万荣)人,中国战国时期政治家、外交家、纵横家。
张仪早年师从鬼谷子,后曾游历于楚国、赵国,不被重用,愤而入秦,以连横之策被秦惠文王重用,并两度出任秦相。张仪入秦后,多次领兵攻打韩、赵、魏等国。前328年,与公子华拔魏蒲阳;前325年,魏、韩两国互尊为王以抗秦,张仪率兵攻占魏国的陕(今河南陕县);前324年,张仪拥戴秦惠王正式称王,更年号为秦惠王元年;前316年,张仪与司马错灭蜀,并乘机攻取巴,设立巴郡、蜀郡和汉中郡。张仪任秦相之后,多次出使山东六国,以连横之策游说山东诸国,以破合纵之策,使各国纷纷由合纵抗秦变为连横事秦。张仪被秦惠文王封为武信君。前311年,张仪出使燕国未回而秦惠文王死。次年,秦武王即位,与张仪不和。张仪害怕被诛杀,于是逃到了魏国。张仪任魏国相国一年以后,于前309年卒于魏国。
在《汉书·艺文志》纵横家类有《张子》10篇,是张仪作品及其相关资料的汇编,此书汉以后亡佚。传世的一件战国铜戈上有“十三年相邦仪之造”和“咸阳工师”的铭文,当是秦惠文王十三年张仪任相邦时所监造。张仪两任秦相期间,分化合纵,蚕食列国领土,攻克巴蜀,使秦国的领土几乎扩大了一倍,为秦国最终统一天下奠定了厚实的基础。


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