2.19「気遣い管理人」darknova.blog/?p=75123
2.20「プリエ・ギャラクシー」darknova.blog/?p=75151
2.21「ファイトが沸いてくるノーマルインパクト」darknova.blog/?p=75179
2.22「咲きこぼれる梅花」darknova.blog/?p=75213
2.23「トーラス・ブロンテー」darknova.blog/?p=75231
2.24「陰陽極めし五行の術師」darknova.blog/?p=75247
2.25「唸れ!暁コメディーショー」darknova.blog/?p=75285
2.20「プリエ・ギャラクシー」darknova.blog/?p=75151
2.21「ファイトが沸いてくるノーマルインパクト」darknova.blog/?p=75179
2.22「咲きこぼれる梅花」darknova.blog/?p=75213
2.23「トーラス・ブロンテー」darknova.blog/?p=75231
2.24「陰陽極めし五行の術師」darknova.blog/?p=75247
2.25「唸れ!暁コメディーショー」darknova.blog/?p=75285
エウクレイデス
生涯
エウクレイデスは紀元前330年頃から紀元前275年頃を生きたとされるが、その生涯についてはほとんど何もわかっていない。実際、主要な文献はエウクレイデスの数世紀後のプロクルスやパップスの著作しかない。プロクルスのエウクレイデスについての記述は『ユークリッド原論第1巻注釈』に簡単にあるだけで、これは紀元5世紀に書かれたものである。それによると、エウクレイデスは『原論』の著者で、アルキメデスが彼に言及しており、プトレマイオス1世が彼に「幾何学を学ぶのに『原論』よりも近道はないか?」と聞いたところ、彼は「幾何学に王道なし」と答えたとされている。アルキメデスによるエウクレイデスへの言及と称されるものは、後世の編集による挿入だと見られているが、エウクレイデスの著作がアルキメデスの著作より古いことは確実とされている。「王道」の逸話も、メナイクモスとアレクサンドロス3世の逸話にそっくりであり、本当かどうか疑問がある。
もうひとつの重要な文献としてパップスのものがあるが、こちらにはペルガのアポロニウスについて言及する際に「(彼は)アレクサンドリアのエウクレイデスの弟子たちと長く一緒に過ごし、そこでそのような科学的思考法を身につけた」とある。
その他に有名な逸話としては、ユークリッドに数学を学んでいたある男が「これらの命題をすることで何の役に立つのですか」と言う問いに対し、使用人を呼び「この男にお金を与えなさい。彼は学んだものから利益を得ようとしているから」と答えた。当時の数学の目的は何か実用に役立つためのものではなく「それ自身の美しさのため」にあったのである。
16世紀後半になると、エウクレイデスの著作はイエズス会を通じて中国の明にも伝えられた。イエズス会士のマテオ・リッチは、徐光啓との共同作業を通じて著作を漢訳し、1607年に『幾何原本』を刊行した。
実在性
エウクレイデスという名はギリシア語で「よき栄光」を意味する。「原論」の内容が、1人で書くにしてはあまりに膨大であることから、その実在を疑う説もあり、それによると『原論』は複数人による共著であり、エウクレイデスは共同筆名とされる。
エウクレイデスは、生没年も死因も一切不明であり、同時代人の有名人との関係からおおまかに推測されているだけである。肖像や外見の記録も後世に伝わっていないことから、エウクレイデスとされる絵画や彫像は全て、芸術家たちによる想像図である。
ローマのバチカン宮殿にあるラファエロの有名な壁画「アテナイの学堂」にも、プラトンとアリストテレスが降りてくる階段の足元で、コンパスを使って図形を描いている姿が描かれている。
著作
原論
『原論』に書かれていることの多くはもっと以前の数学者の成果に由来するが、エウクレイデスの功績はそれらを1つにまとめて提示し、一貫した論理的枠組みを構築して厳密な数学的証明を行っている点にある。
現存する初期の『原論』の写本にはエウクレイデスへの言及がなく、多くの写本には「テオンの版より」あるいは「テオンの講義集」とある。また、バチカンが保管している第一級の写本には、作者についての言及が全くない。エウクレイデスが『原論』を書いたとする際の唯一の根拠は、プロクルスの注釈本である。
『原論』には幾何学だけでなく、数論についての記述もある。完全数とメルセンヌ数の関係、素数が無限に存在すること、因数分解についてのユークリッドの補題(ここから素因数分解の一意性についての算術の基本定理が導かれる)、2つの数の最大公約数を捜すユークリッドの互除法などが含まれる。
『原論』にある幾何学体系は長い間単に「幾何学」と呼ばれ、唯一の幾何学だとみなされており、論証に穴はないと思われていた。しかし、19世紀の「非ユークリッド幾何学」の発見をきっかけに、数学の基礎がより整備されると、幾何学には様々な体系が可能であること、ユークリッドの公理系には不足している公理があることが判明した。公理的な体系の作り方も見直され、「公理」「公準」はともに公理とされ、例えば「点」の定義のように、証明の中で用いられない定義は姿を消した。『原論』の議論には、現代的な視点からは無用な遠回りも散見される。こういった違いは、必ずしも全て不備によるものではなく、当時の幾何学についての考え方が現在と異なっていたことが指摘される。
今では、ユークリッドが対象とした幾何学を、現代的に見直したものを「ユークリッド幾何学」と呼ぶ。
その他の著作
『原論』に加えて、エウクレイデスの著作とされているものが5作現存している。いずれも『原論』と論理構造は同じであり、定義と命題の証明で構成される。
デドメナ/ダータ (Data)
幾何問題における与えられた情報の性質と意味を扱っている。その主題は『原論』の最初の4巻と密接に関連している。
図形分割論 (On Divisions of Figures)
アラビア語訳が部分的に現存している。幾何学図形を指定された比で2つ以上に分割する問題を扱っている。紀元3世紀ごろのアレクサンドリアのヘロンの著作に似ている。
カトプトリカ (Catoptrics)
鏡についての数学的理論、特に平面鏡や球面の凹面鏡の上に形成される像についての著作である。エウクレイデスの著作かどうかは疑わしい。アレクサンドリアのテオンの作とする説もある。
パエノメナ (Phaenomena)
球面天文学についての論文で、ギリシャ語版が現存している。紀元前310年ごろ活躍したピタネのアウトリュコスの『運動する球体について』に酷似している。
オプティカ (Optics)
透視図法についての最古の現存するギリシャ語の著作。この中では視覚は目から出ている離散的な光線によるものだというプラトン学派の説を踏襲している。重要なのは4番目の定義で、「より大きな角度で見える物は大きく、より小さな角度で見える物は小さく、同じ角度で見える物は同じである」としている。その後の36の命題で、物体の見た目の大きさと距離とを関係付け、様々な角度から円柱と円錐を見たときの見え方を考察している。命題45では、実際の大きさが異なる2つの物体があるとき、それらが同じ大きさに見える地点が必ず存在するとしている。パップスはこれを天文学においても重要だと考え、エウクレイデスのオプティカをパエノメナと共に、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』の前に学ぶべきものとした。
次に挙げる著作はエウクレイデスのものとされているが、現存しない。
円錐曲線論 (Conics)
円錐曲線についての著作で、後にペルガのアポロニウスがこの主題を発展させた。アポロニウスの初期の4作はエウクレイデスの著作に基づいていると見られる。パップスによれば、「アポロニウスはエウクレイデスの円錐曲線についての4巻に自身の4巻を追加し、『円錐曲線』全8巻を完成させた」としている。アポロニウスの著作は瞬く間に広まり、パップスのころにはエウクレイデスの著作は既に現存しなかった。
ポリスマタ (Porisms)
円錐曲線についての著作から派生した内容という説もあるが、詳しいことは書名の意味も含めてよく分かっていない。
誤謬推理論 (Pseudaria または Book of Fallacies)
推論上の誤り(誤謬)についての初歩的教科書。
曲面軌跡論 (Surface Loci)
平面上の軌跡 (loci) または、何らかの曲面をなす軌跡を扱ったものと見られる。二次曲面を扱っていたという説もある。
アラビア語の文献によれば、エウクレイデスは力学に関する著書も残していたという。On the Heavy and the Light には9つの定義と5つの命題があり、アリストテレス学派の物体の運動と比重の概念を扱っていた。On the Balance ではてこを扱っている。また、別の断片ではてこの先端が描く円について論じている。これら3つの断片は相互に補い合っていることから、エウクレイデスが書いた力学についての1つの著作の断片ではなかったかという説も示唆されている。
欧几里得(希腊文:Ευκλειδης ,约公元前330年—公元前275年),古希腊数学家,被称为“几何之父”。他最著名的著作《几何原本》是欧洲数学的基础,在书中他提出五大公设。欧几里得的《几何原本》被广泛的认为是历史上最成功的教科书。欧几里得也写了一些关于透视、圆锥曲线、球面几何学及数论的作品。
生涯
エウクレイデスは紀元前330年頃から紀元前275年頃を生きたとされるが、その生涯についてはほとんど何もわかっていない。実際、主要な文献はエウクレイデスの数世紀後のプロクルスやパップスの著作しかない。プロクルスのエウクレイデスについての記述は『ユークリッド原論第1巻注釈』に簡単にあるだけで、これは紀元5世紀に書かれたものである。それによると、エウクレイデスは『原論』の著者で、アルキメデスが彼に言及しており、プトレマイオス1世が彼に「幾何学を学ぶのに『原論』よりも近道はないか?」と聞いたところ、彼は「幾何学に王道なし」と答えたとされている。アルキメデスによるエウクレイデスへの言及と称されるものは、後世の編集による挿入だと見られているが、エウクレイデスの著作がアルキメデスの著作より古いことは確実とされている。「王道」の逸話も、メナイクモスとアレクサンドロス3世の逸話にそっくりであり、本当かどうか疑問がある。
もうひとつの重要な文献としてパップスのものがあるが、こちらにはペルガのアポロニウスについて言及する際に「(彼は)アレクサンドリアのエウクレイデスの弟子たちと長く一緒に過ごし、そこでそのような科学的思考法を身につけた」とある。
その他に有名な逸話としては、ユークリッドに数学を学んでいたある男が「これらの命題をすることで何の役に立つのですか」と言う問いに対し、使用人を呼び「この男にお金を与えなさい。彼は学んだものから利益を得ようとしているから」と答えた。当時の数学の目的は何か実用に役立つためのものではなく「それ自身の美しさのため」にあったのである。
16世紀後半になると、エウクレイデスの著作はイエズス会を通じて中国の明にも伝えられた。イエズス会士のマテオ・リッチは、徐光啓との共同作業を通じて著作を漢訳し、1607年に『幾何原本』を刊行した。
実在性
エウクレイデスという名はギリシア語で「よき栄光」を意味する。「原論」の内容が、1人で書くにしてはあまりに膨大であることから、その実在を疑う説もあり、それによると『原論』は複数人による共著であり、エウクレイデスは共同筆名とされる。
エウクレイデスは、生没年も死因も一切不明であり、同時代人の有名人との関係からおおまかに推測されているだけである。肖像や外見の記録も後世に伝わっていないことから、エウクレイデスとされる絵画や彫像は全て、芸術家たちによる想像図である。
ローマのバチカン宮殿にあるラファエロの有名な壁画「アテナイの学堂」にも、プラトンとアリストテレスが降りてくる階段の足元で、コンパスを使って図形を描いている姿が描かれている。
著作
原論
『原論』に書かれていることの多くはもっと以前の数学者の成果に由来するが、エウクレイデスの功績はそれらを1つにまとめて提示し、一貫した論理的枠組みを構築して厳密な数学的証明を行っている点にある。
現存する初期の『原論』の写本にはエウクレイデスへの言及がなく、多くの写本には「テオンの版より」あるいは「テオンの講義集」とある。また、バチカンが保管している第一級の写本には、作者についての言及が全くない。エウクレイデスが『原論』を書いたとする際の唯一の根拠は、プロクルスの注釈本である。
『原論』には幾何学だけでなく、数論についての記述もある。完全数とメルセンヌ数の関係、素数が無限に存在すること、因数分解についてのユークリッドの補題(ここから素因数分解の一意性についての算術の基本定理が導かれる)、2つの数の最大公約数を捜すユークリッドの互除法などが含まれる。
『原論』にある幾何学体系は長い間単に「幾何学」と呼ばれ、唯一の幾何学だとみなされており、論証に穴はないと思われていた。しかし、19世紀の「非ユークリッド幾何学」の発見をきっかけに、数学の基礎がより整備されると、幾何学には様々な体系が可能であること、ユークリッドの公理系には不足している公理があることが判明した。公理的な体系の作り方も見直され、「公理」「公準」はともに公理とされ、例えば「点」の定義のように、証明の中で用いられない定義は姿を消した。『原論』の議論には、現代的な視点からは無用な遠回りも散見される。こういった違いは、必ずしも全て不備によるものではなく、当時の幾何学についての考え方が現在と異なっていたことが指摘される。
今では、ユークリッドが対象とした幾何学を、現代的に見直したものを「ユークリッド幾何学」と呼ぶ。
その他の著作
『原論』に加えて、エウクレイデスの著作とされているものが5作現存している。いずれも『原論』と論理構造は同じであり、定義と命題の証明で構成される。
デドメナ/ダータ (Data)
幾何問題における与えられた情報の性質と意味を扱っている。その主題は『原論』の最初の4巻と密接に関連している。
図形分割論 (On Divisions of Figures)
アラビア語訳が部分的に現存している。幾何学図形を指定された比で2つ以上に分割する問題を扱っている。紀元3世紀ごろのアレクサンドリアのヘロンの著作に似ている。
カトプトリカ (Catoptrics)
鏡についての数学的理論、特に平面鏡や球面の凹面鏡の上に形成される像についての著作である。エウクレイデスの著作かどうかは疑わしい。アレクサンドリアのテオンの作とする説もある。
パエノメナ (Phaenomena)
球面天文学についての論文で、ギリシャ語版が現存している。紀元前310年ごろ活躍したピタネのアウトリュコスの『運動する球体について』に酷似している。
オプティカ (Optics)
透視図法についての最古の現存するギリシャ語の著作。この中では視覚は目から出ている離散的な光線によるものだというプラトン学派の説を踏襲している。重要なのは4番目の定義で、「より大きな角度で見える物は大きく、より小さな角度で見える物は小さく、同じ角度で見える物は同じである」としている。その後の36の命題で、物体の見た目の大きさと距離とを関係付け、様々な角度から円柱と円錐を見たときの見え方を考察している。命題45では、実際の大きさが異なる2つの物体があるとき、それらが同じ大きさに見える地点が必ず存在するとしている。パップスはこれを天文学においても重要だと考え、エウクレイデスのオプティカをパエノメナと共に、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』の前に学ぶべきものとした。
次に挙げる著作はエウクレイデスのものとされているが、現存しない。
円錐曲線論 (Conics)
円錐曲線についての著作で、後にペルガのアポロニウスがこの主題を発展させた。アポロニウスの初期の4作はエウクレイデスの著作に基づいていると見られる。パップスによれば、「アポロニウスはエウクレイデスの円錐曲線についての4巻に自身の4巻を追加し、『円錐曲線』全8巻を完成させた」としている。アポロニウスの著作は瞬く間に広まり、パップスのころにはエウクレイデスの著作は既に現存しなかった。
ポリスマタ (Porisms)
円錐曲線についての著作から派生した内容という説もあるが、詳しいことは書名の意味も含めてよく分かっていない。
誤謬推理論 (Pseudaria または Book of Fallacies)
推論上の誤り(誤謬)についての初歩的教科書。
曲面軌跡論 (Surface Loci)
平面上の軌跡 (loci) または、何らかの曲面をなす軌跡を扱ったものと見られる。二次曲面を扱っていたという説もある。
アラビア語の文献によれば、エウクレイデスは力学に関する著書も残していたという。On the Heavy and the Light には9つの定義と5つの命題があり、アリストテレス学派の物体の運動と比重の概念を扱っていた。On the Balance ではてこを扱っている。また、別の断片ではてこの先端が描く円について論じている。これら3つの断片は相互に補い合っていることから、エウクレイデスが書いた力学についての1つの著作の断片ではなかったかという説も示唆されている。
欧几里得(希腊文:Ευκλειδης ,约公元前330年—公元前275年),古希腊数学家,被称为“几何之父”。他最著名的著作《几何原本》是欧洲数学的基础,在书中他提出五大公设。欧几里得的《几何原本》被广泛的认为是历史上最成功的教科书。欧几里得也写了一些关于透视、圆锥曲线、球面几何学及数论的作品。
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
第3回 東と西の養生訓
公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2023年11月 7日 13時12分
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
週末の健康ウォーク
大府の長寿研から長崎を経て、今私は、福岡の大学で医療人の卵たちに解剖、生理、薬理などを教えながら「老い」を考えている。老いの科学を整理して書くこともあれば、自らの老いに向き合うこともある。自宅から浜辺が近い。玄界灘に面した小さなビーチがある。若い頃、米国のカリフォルニアで10年を過ごしたが、サンタモニカやニューポートビーチを思い起こさせてくれる。福岡の浜辺は北縁だが、それでも夏の陽光はまぶしい。左には、昔、井上陽水が片想いの恋心を唄った能古島が浮かぶ。右には、以前はJALだったが、今はHiltonとなった瀟洒なホテルがある。その先はソフトバンクホークスの本拠地PayPayドームだ。その脇を東へ行くと西公園の小高い丘に上がる。春は桜の名所で丘の上には黒田長政を祀った光雲神社がある。その裏手から海を見渡せば、万葉の時代にも江戸時代にもあった景色がそのままそこにある。古くは荒津山とか荒戸山と呼ばれたところで、遣唐使を見送ったのも朝鮮出兵を出したのも、また元寇を迎え討ったのもここである。その西公園の麓には、黒田藩の儒学者、貝原益軒の旧居跡がある。晩年の80歳を過ぎて著した健康指南書『養生訓』(1712年)を書いたのもここだったのだろう。そこから15分ほど行くと金龍寺という禅寺があるが、その境内に益軒の墓がある。夫人の東軒と並んで、いかにも仲睦まじい平穏な人生が偲ばれる。
越し方は一夜ばかりの心地して 八十路(やそじ)あまりの夢をみしかな
(貝原益軒辞世の句 享年83)
そこから西へ、西新の商店街を抜けると、地下鉄の駅から通称「サザエさん通り」とよばれる街路がある。福岡の著名な進学校や私立大学のキャンパスを横目に浜辺をめざす。途中、昔、ここにいた長谷川町子が「サザエさん」の漫画を生み出した場所がある。今は大通りだが、昔はそこが浜辺だった。カツオ、ワカメ、イクラ、マスオ、サザエ、そしてフネさんも波平さんもみなここからの発想だ。東京の世田谷にもサザエさん通りがあるそうだが、福岡市民としてはこちらが本拠だと思いたい。その先にはサッカー少年たちの元気な声が響く中央公園があって、じきにスタート地点に戻る。
Gelukkig Gezond!
長崎の大学を「定年」で退く少し前にオランダに行ったことがある。北部の古都フローニンゲンの大学の博物館で「Gelukkig Gezond!」と題した展覧会があった。オランダ語で「元気で長生き!」の意だ。医学史の教授のリナ・ノエフが中心に企画したもので、会場を案内しながら、リナが1冊の本をくれた。蘭語と英語が併記された解説本である。帰りの飛行機でそれを見返しながら、これは一般向けにいい本になると直感した。定年の整理の雑務でバタバタしながら、それを日本語に訳してみた。長年、老化研究に没頭して、専門領域ではそれなりに名が知られていても、本を出そうとすると壁が厚い。一般には全くの無名で、どの出版社にも「持ち込み原稿お断り!」の原則があるのだ。以前の『寿命遺伝子』の時は出版社に認めてもらうのに5年かかった。こちらの訳本は何とか2年で潜り抜けたが、それでも3、4社と交渉を重ねた。幸い原書房の編集部長がすぐに価値を認めてくれて、出版に漕ぎ着けた。『老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ』(原書房)として上梓した。
本の帯にはこうある。「人は、逃れられない『老い』にどのように向き合ってきたのか、そして『健康』の維持のために何をしてきたのか。古代ギリシャ・ローマ時代から現代のアンチ・エイジングに至るまで多彩な図版とともに俯瞰する一冊!」。その通りだ。副題にあるとおり、西洋での『養生訓』、その思想の変遷を俯瞰する本になっている。そこには、西洋で脈々と受け継がれたヒポクラテスとガレノスの知恵があった。
東と西の養生訓
貝原益軒の『養生訓』には西洋医学の知識はほとんどない。益軒は若い頃、京都で学問を積んだが、その折、長崎で蘭医学を学んだ向井元升にも接した。だが、益軒の思想に蘭学はない。あえていえば中国の『本草綱目』に範を得た『大和本草』、つまり生薬の知恵と儒学の精神性は影響している。
西洋での養生訓は、先の『老いと健康の文化史』に詳しいが、その養生の源流は遠くギリシャ時代のヒポクラテスの思想にある。しかし、それが「健康学」として整理されたのは、中世イタリアの『サレルノの養生訓』やルネッサンスに至る前のトレチェントの『健康全書』にある。いろいろな形でのこれらの写本が、後々も、貝原益軒の『養生訓』のようにベストセラーになった。
老いの蘭学
日本では蘭学というと『解体新書』で西洋医学がわかったと思われ(誤解され)ている。だが、そこには人体骨格と臓器の解説があるだけで、当時のオランダ医学の実情については何も書かれていない。アムステルダムやライデンでの当時の本来の「蘭医学」の在りようについては、別の知識が必要だった。それは、前回紹介した『寿命遺伝子』と今回の『老いと健康の文化史』と同時期に出版にこぎつけた『オランダ絵画にみる解剖学:阿蘭陀外科医の源流をたどる』(東京大学出版会)に詳しい。これも拙訳だが、面白い本だと思っている。慣れない蘭書の翻訳努力、これは現代の蘭学の一人芝居だ。老化研究者から研究の場を奪われても、何とか生き延びようと苦悩し模索する老いがここにある。
図、老いの蘭学:西洋式養生訓とオランダ外科医の解剖学教育の歴史的変遷を表す図。
図 老いの蘭学:西洋式養生訓と阿蘭陀外科医の解剖学教育の歴史的変遷をたどる
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『老いと寿のはざまで』(日本橋出版)など著書多数。
第3回 東と西の養生訓
公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2023年11月 7日 13時12分
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
週末の健康ウォーク
大府の長寿研から長崎を経て、今私は、福岡の大学で医療人の卵たちに解剖、生理、薬理などを教えながら「老い」を考えている。老いの科学を整理して書くこともあれば、自らの老いに向き合うこともある。自宅から浜辺が近い。玄界灘に面した小さなビーチがある。若い頃、米国のカリフォルニアで10年を過ごしたが、サンタモニカやニューポートビーチを思い起こさせてくれる。福岡の浜辺は北縁だが、それでも夏の陽光はまぶしい。左には、昔、井上陽水が片想いの恋心を唄った能古島が浮かぶ。右には、以前はJALだったが、今はHiltonとなった瀟洒なホテルがある。その先はソフトバンクホークスの本拠地PayPayドームだ。その脇を東へ行くと西公園の小高い丘に上がる。春は桜の名所で丘の上には黒田長政を祀った光雲神社がある。その裏手から海を見渡せば、万葉の時代にも江戸時代にもあった景色がそのままそこにある。古くは荒津山とか荒戸山と呼ばれたところで、遣唐使を見送ったのも朝鮮出兵を出したのも、また元寇を迎え討ったのもここである。その西公園の麓には、黒田藩の儒学者、貝原益軒の旧居跡がある。晩年の80歳を過ぎて著した健康指南書『養生訓』(1712年)を書いたのもここだったのだろう。そこから15分ほど行くと金龍寺という禅寺があるが、その境内に益軒の墓がある。夫人の東軒と並んで、いかにも仲睦まじい平穏な人生が偲ばれる。
越し方は一夜ばかりの心地して 八十路(やそじ)あまりの夢をみしかな
(貝原益軒辞世の句 享年83)
そこから西へ、西新の商店街を抜けると、地下鉄の駅から通称「サザエさん通り」とよばれる街路がある。福岡の著名な進学校や私立大学のキャンパスを横目に浜辺をめざす。途中、昔、ここにいた長谷川町子が「サザエさん」の漫画を生み出した場所がある。今は大通りだが、昔はそこが浜辺だった。カツオ、ワカメ、イクラ、マスオ、サザエ、そしてフネさんも波平さんもみなここからの発想だ。東京の世田谷にもサザエさん通りがあるそうだが、福岡市民としてはこちらが本拠だと思いたい。その先にはサッカー少年たちの元気な声が響く中央公園があって、じきにスタート地点に戻る。
Gelukkig Gezond!
長崎の大学を「定年」で退く少し前にオランダに行ったことがある。北部の古都フローニンゲンの大学の博物館で「Gelukkig Gezond!」と題した展覧会があった。オランダ語で「元気で長生き!」の意だ。医学史の教授のリナ・ノエフが中心に企画したもので、会場を案内しながら、リナが1冊の本をくれた。蘭語と英語が併記された解説本である。帰りの飛行機でそれを見返しながら、これは一般向けにいい本になると直感した。定年の整理の雑務でバタバタしながら、それを日本語に訳してみた。長年、老化研究に没頭して、専門領域ではそれなりに名が知られていても、本を出そうとすると壁が厚い。一般には全くの無名で、どの出版社にも「持ち込み原稿お断り!」の原則があるのだ。以前の『寿命遺伝子』の時は出版社に認めてもらうのに5年かかった。こちらの訳本は何とか2年で潜り抜けたが、それでも3、4社と交渉を重ねた。幸い原書房の編集部長がすぐに価値を認めてくれて、出版に漕ぎ着けた。『老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ』(原書房)として上梓した。
本の帯にはこうある。「人は、逃れられない『老い』にどのように向き合ってきたのか、そして『健康』の維持のために何をしてきたのか。古代ギリシャ・ローマ時代から現代のアンチ・エイジングに至るまで多彩な図版とともに俯瞰する一冊!」。その通りだ。副題にあるとおり、西洋での『養生訓』、その思想の変遷を俯瞰する本になっている。そこには、西洋で脈々と受け継がれたヒポクラテスとガレノスの知恵があった。
東と西の養生訓
貝原益軒の『養生訓』には西洋医学の知識はほとんどない。益軒は若い頃、京都で学問を積んだが、その折、長崎で蘭医学を学んだ向井元升にも接した。だが、益軒の思想に蘭学はない。あえていえば中国の『本草綱目』に範を得た『大和本草』、つまり生薬の知恵と儒学の精神性は影響している。
西洋での養生訓は、先の『老いと健康の文化史』に詳しいが、その養生の源流は遠くギリシャ時代のヒポクラテスの思想にある。しかし、それが「健康学」として整理されたのは、中世イタリアの『サレルノの養生訓』やルネッサンスに至る前のトレチェントの『健康全書』にある。いろいろな形でのこれらの写本が、後々も、貝原益軒の『養生訓』のようにベストセラーになった。
老いの蘭学
日本では蘭学というと『解体新書』で西洋医学がわかったと思われ(誤解され)ている。だが、そこには人体骨格と臓器の解説があるだけで、当時のオランダ医学の実情については何も書かれていない。アムステルダムやライデンでの当時の本来の「蘭医学」の在りようについては、別の知識が必要だった。それは、前回紹介した『寿命遺伝子』と今回の『老いと健康の文化史』と同時期に出版にこぎつけた『オランダ絵画にみる解剖学:阿蘭陀外科医の源流をたどる』(東京大学出版会)に詳しい。これも拙訳だが、面白い本だと思っている。慣れない蘭書の翻訳努力、これは現代の蘭学の一人芝居だ。老化研究者から研究の場を奪われても、何とか生き延びようと苦悩し模索する老いがここにある。
図、老いの蘭学:西洋式養生訓とオランダ外科医の解剖学教育の歴史的変遷を表す図。
図 老いの蘭学:西洋式養生訓と阿蘭陀外科医の解剖学教育の歴史的変遷をたどる
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『老いと寿のはざまで』(日本橋出版)など著書多数。
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