#八木勇征[超话]#
本物の涙にこだわり10分間静止 連ドラ初主演「3時のヒロイン」福田麻貴の熱量に現場騒然
「3時のヒロイン」の福田麻貴(35)が初主演を務めていることで話題のドラマ『婚活1000本ノック』(フジテレビ系)。福田が演じる主人公の小説家・南綾子の元に、かつて自分を遊び捨てた“クソ男”山田(八木勇征・26)が死んで幽霊となって現われる。ある“約束”を果たさなければ成仏できない山田の幽霊が、綾子のバディとなり、1000本ノックのごとくさまざまな婚活に取り組んでいくというコメディだ。ドラマウォッチャーはこう言う。
「初主演ながら、ヒロインである福田さんの演技が『上手い』と評判なんです。毎回、放送終了後にはSNS上で福田について『いいよね。演技が絶妙で面白い』『ナチュラルで声に違和感がなく、物語がスルッと入ってくる。私この人の芝居好き』などと絶賛の声が溢れている。
福田さんは主演こそ初めてですが、これまでもドラマには脇役で出演しており、その実力は美容クリニックのCMで共演したあの黒木瞳さん(63)も『演技力が本当にすごくて感心しました』とべた褒めしていたほどです」
本誌・週刊ポストは、そんな大女優も絶賛した福田の「女優魂」が炸裂する現場を目撃していた。1月初旬の夕方、都内繁華街の路上で30人ほどのロケスタッフに囲まれた福田の姿があった。居合わせた男性が言う。
「その日は福田さんが1人で歩道をトボトボと歩くシーンを、何度もカメラの角度を変えて撮影していました。その後はベンチに腰掛ける様子を撮っていたのですが、なぜかいつまで経っても監督の『カット!』の声がかからず、福田さんや撮影しているカメラマン、音声さんまで、まるで時が止まったみたいに動かなくなってしまったんです。
すると、10分ほど経ってから、福田さんが涙を流して泣き始めた。本物の涙にこだわるために、時間がかかっても、福田さんの目から涙が出るまで全員で待っていたんだろうなと思いました。彼女のドラマにかける熱量のすごさに感心してしまいました」
その場面の撮影を終えると、次は山田の幽霊を演じる八木とのシーンを撮り、22時過ぎ頃にロケは無事終了。福田は満面の笑みでタクシーに乗り込み、現場を去っていったという。ドラマ制作会社関係者が「撮影秘話」をこう明かす。
「福田さんが今回のドラマで苦労したのは、役作りよりも『セリフの量』だったといいます。福田さんの役は相手との会話だけではなく、モノローグも多い。そのため覚えなければならないセリフは膨大。しかし本番では一言一句飛ばすこともなく、完璧に仕上げてきていた。
その『長セリフ』のよどみなさといい、本当の涙へのこだわりといい、『泉ピン子さんを彷彿とさせる』と現場で話題となっていました。泉さんも『本物の涙』に絶対のこだわりがあり、ウソ泣きはしないと断言している方ですから。その泉さんも芸人から大女優に上り詰めた方。業界では早くも福田さんに対して『第2の泉ピン子になるのでは』と熱視線が注がれています」
ドラマ界のヒロインの座も獲得か。
本物の涙にこだわり10分間静止 連ドラ初主演「3時のヒロイン」福田麻貴の熱量に現場騒然
「3時のヒロイン」の福田麻貴(35)が初主演を務めていることで話題のドラマ『婚活1000本ノック』(フジテレビ系)。福田が演じる主人公の小説家・南綾子の元に、かつて自分を遊び捨てた“クソ男”山田(八木勇征・26)が死んで幽霊となって現われる。ある“約束”を果たさなければ成仏できない山田の幽霊が、綾子のバディとなり、1000本ノックのごとくさまざまな婚活に取り組んでいくというコメディだ。ドラマウォッチャーはこう言う。
「初主演ながら、ヒロインである福田さんの演技が『上手い』と評判なんです。毎回、放送終了後にはSNS上で福田について『いいよね。演技が絶妙で面白い』『ナチュラルで声に違和感がなく、物語がスルッと入ってくる。私この人の芝居好き』などと絶賛の声が溢れている。
福田さんは主演こそ初めてですが、これまでもドラマには脇役で出演しており、その実力は美容クリニックのCMで共演したあの黒木瞳さん(63)も『演技力が本当にすごくて感心しました』とべた褒めしていたほどです」
本誌・週刊ポストは、そんな大女優も絶賛した福田の「女優魂」が炸裂する現場を目撃していた。1月初旬の夕方、都内繁華街の路上で30人ほどのロケスタッフに囲まれた福田の姿があった。居合わせた男性が言う。
「その日は福田さんが1人で歩道をトボトボと歩くシーンを、何度もカメラの角度を変えて撮影していました。その後はベンチに腰掛ける様子を撮っていたのですが、なぜかいつまで経っても監督の『カット!』の声がかからず、福田さんや撮影しているカメラマン、音声さんまで、まるで時が止まったみたいに動かなくなってしまったんです。
すると、10分ほど経ってから、福田さんが涙を流して泣き始めた。本物の涙にこだわるために、時間がかかっても、福田さんの目から涙が出るまで全員で待っていたんだろうなと思いました。彼女のドラマにかける熱量のすごさに感心してしまいました」
その場面の撮影を終えると、次は山田の幽霊を演じる八木とのシーンを撮り、22時過ぎ頃にロケは無事終了。福田は満面の笑みでタクシーに乗り込み、現場を去っていったという。ドラマ制作会社関係者が「撮影秘話」をこう明かす。
「福田さんが今回のドラマで苦労したのは、役作りよりも『セリフの量』だったといいます。福田さんの役は相手との会話だけではなく、モノローグも多い。そのため覚えなければならないセリフは膨大。しかし本番では一言一句飛ばすこともなく、完璧に仕上げてきていた。
その『長セリフ』のよどみなさといい、本当の涙へのこだわりといい、『泉ピン子さんを彷彿とさせる』と現場で話題となっていました。泉さんも『本物の涙』に絶対のこだわりがあり、ウソ泣きはしないと断言している方ですから。その泉さんも芸人から大女優に上り詰めた方。業界では早くも福田さんに対して『第2の泉ピン子になるのでは』と熱視線が注がれています」
ドラマ界のヒロインの座も獲得か。
#八木勇征[超话]#
FANTASTICS・八木勇征「毎年お母さんがチョコブラウニーを作ってくれた」 バレンタインの思い出
八木勇征(FANTASTICS)
Q. どんなチョコレートが好き?
チョコは何でも好きです!! なかでも一番好きなのはホワイトチョコレートです。
-ADVERTISEMENT-
Q. チョコ以外でいまハマっているスイーツは?
最近は一周回ってマカダミアナッツのアイスクリームをよく食べています(笑)。
Q. バレンタインの思い出を教えてください。
毎年お母さんがチョコブラウニーを作ってくれていたんです。“バレンタインになるとあれが食べられる!”というイメージでしたね。そのブラウニーを牛乳と一緒に楽しむのが大好きでした。
Q. チョコのように甘~いメンバーといえば誰?
けいちゃん(木村慧人)。見た目もそうですが、性格も優しくて全体的に甘いイメージです(笑)。
Q. ドラマ『婚活1000本ノック』で幽霊役に挑戦されていますが、お化けになってメンバーを驚かすなら誰?
(佐藤)大樹くんを一日中驚かせまくりたいです! 大樹くんならどのタイミングでも新鮮なリアクションをくれそうです。めちゃくちゃビビリだから(笑)。
Q. ファンの方に甘~いメッセージをお願いします。
いつも応援してくれてありがとうございます! みなさんはバレンタインくれるのかな? もしくれるとしたら、ホワイトデーのお返しは僕で大丈夫?(ハート)
Q. 体づくりのために食べるものは制限している?
マジでしてないかも。お菓子もめっちゃ食べるし、ジュースも飲むし…。好きなものばっかり食べてますね。それでも特に太らないのは、やるべきこと(運動)をちゃんとやっているからっていうのがあると思います。
Q. 俳優としても活躍を続ける今、グループに対して感じることは?
お芝居の共演者の方と話していると、役者業一本でされている方たちは「どんなに現場で仲が良くなっても、作品が終わるとそれぞれがまた新しい現場に向かっていく。プライベートで関係を続けていく人もいるけれど、“自分の家”みたいな感覚を持つことはないんだよね」ってみなさん言うんです。でも僕の場合、作品が終わった時に必ず帰る場所がある。それがFANTASTICSなんです。戻ってくるたびに“あったかい場所だな”って改めて感じますし、そういう存在がいてくれることがすごくありがたいですね。
Q. 人との出会いで大切にしていることは?
人と出会った時は、相手のことをしっかりと見て“どういう自分でいたら、この人と繋がりを持てるだろうか”って考えます。といっても、キャラを変えたり偽ったりするわけじゃないですよ。相手に少しでも心を開いてもらうことを優先したいから、自分らしさはあとからちょっとずつ出していけばいいかなって。最近はたくさんの出会いに恵まれて年上の兄貴や可愛い後輩たちが増えましたが、振り返ると誰かと出会ったことで悪い意味で変わったことってひとつもないんです。自分にとって、全ての出会いがすごくプラスになっているなって感じます。
やぎ・ゆうせい 1997年5月6日生まれ、東京都出身。FANTASTICSのボーカル活動に加え、俳優としても活躍。ドラマ『婚活1000本ノック』(フジテレビ系 毎週水曜22:00~)に出演中。
ジャケット¥148,500(エー レザー/エー ブティック TEL:070・3223・7530) イヤーカフ¥13,200(プリュイ/プリュイ トウキョウ TEL:03・6450・5777) ネックレス(上)¥38,500(スキャット scat.official.info@gmail.com) ネックレス、中¥12,100 下¥23,100(共にミクシマイ) リング¥19,800(ユルイエ) 以上ショールーム シャルメール TEL:03・6384・5182 その他はスタイリスト私物
※『anan』2024年1月31日号より。写真・森山将人(TRIVAL) スタイリスト・藤長祥平 ヘア&メイク・大貫希代美 取材、文・真島絵麻里
(by anan編集部)
FANTASTICS・八木勇征「毎年お母さんがチョコブラウニーを作ってくれた」 バレンタインの思い出
八木勇征(FANTASTICS)
Q. どんなチョコレートが好き?
チョコは何でも好きです!! なかでも一番好きなのはホワイトチョコレートです。
-ADVERTISEMENT-
Q. チョコ以外でいまハマっているスイーツは?
最近は一周回ってマカダミアナッツのアイスクリームをよく食べています(笑)。
Q. バレンタインの思い出を教えてください。
毎年お母さんがチョコブラウニーを作ってくれていたんです。“バレンタインになるとあれが食べられる!”というイメージでしたね。そのブラウニーを牛乳と一緒に楽しむのが大好きでした。
Q. チョコのように甘~いメンバーといえば誰?
けいちゃん(木村慧人)。見た目もそうですが、性格も優しくて全体的に甘いイメージです(笑)。
Q. ドラマ『婚活1000本ノック』で幽霊役に挑戦されていますが、お化けになってメンバーを驚かすなら誰?
(佐藤)大樹くんを一日中驚かせまくりたいです! 大樹くんならどのタイミングでも新鮮なリアクションをくれそうです。めちゃくちゃビビリだから(笑)。
Q. ファンの方に甘~いメッセージをお願いします。
いつも応援してくれてありがとうございます! みなさんはバレンタインくれるのかな? もしくれるとしたら、ホワイトデーのお返しは僕で大丈夫?(ハート)
Q. 体づくりのために食べるものは制限している?
マジでしてないかも。お菓子もめっちゃ食べるし、ジュースも飲むし…。好きなものばっかり食べてますね。それでも特に太らないのは、やるべきこと(運動)をちゃんとやっているからっていうのがあると思います。
Q. 俳優としても活躍を続ける今、グループに対して感じることは?
お芝居の共演者の方と話していると、役者業一本でされている方たちは「どんなに現場で仲が良くなっても、作品が終わるとそれぞれがまた新しい現場に向かっていく。プライベートで関係を続けていく人もいるけれど、“自分の家”みたいな感覚を持つことはないんだよね」ってみなさん言うんです。でも僕の場合、作品が終わった時に必ず帰る場所がある。それがFANTASTICSなんです。戻ってくるたびに“あったかい場所だな”って改めて感じますし、そういう存在がいてくれることがすごくありがたいですね。
Q. 人との出会いで大切にしていることは?
人と出会った時は、相手のことをしっかりと見て“どういう自分でいたら、この人と繋がりを持てるだろうか”って考えます。といっても、キャラを変えたり偽ったりするわけじゃないですよ。相手に少しでも心を開いてもらうことを優先したいから、自分らしさはあとからちょっとずつ出していけばいいかなって。最近はたくさんの出会いに恵まれて年上の兄貴や可愛い後輩たちが増えましたが、振り返ると誰かと出会ったことで悪い意味で変わったことってひとつもないんです。自分にとって、全ての出会いがすごくプラスになっているなって感じます。
やぎ・ゆうせい 1997年5月6日生まれ、東京都出身。FANTASTICSのボーカル活動に加え、俳優としても活躍。ドラマ『婚活1000本ノック』(フジテレビ系 毎週水曜22:00~)に出演中。
ジャケット¥148,500(エー レザー/エー ブティック TEL:070・3223・7530) イヤーカフ¥13,200(プリュイ/プリュイ トウキョウ TEL:03・6450・5777) ネックレス(上)¥38,500(スキャット scat.official.info@gmail.com) ネックレス、中¥12,100 下¥23,100(共にミクシマイ) リング¥19,800(ユルイエ) 以上ショールーム シャルメール TEL:03・6384・5182 その他はスタイリスト私物
※『anan』2024年1月31日号より。写真・森山将人(TRIVAL) スタイリスト・藤長祥平 ヘア&メイク・大貫希代美 取材、文・真島絵麻里
(by anan編集部)
中沢琴
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。
兄と共に「浪士隊」に参加
中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。
この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。
「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。
新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。
また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。
薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。
中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。
「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。
時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。
しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。
この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。
「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。
中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。
昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。
生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。
新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。
明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。
「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」
求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。
彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。
兄と共に「浪士隊」に参加
中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。
この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。
「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。
新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。
また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。
薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。
中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。
「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。
時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。
しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。
この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。
「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。
中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。
昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。
生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。
新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。
明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。
「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」
求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。
彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。
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