20240227女自:堂本剛 ジャニー氏逝去から退所までの4年半にあった事務所との“溝”
图2:94年、日本武道館での初コンサートを行うKinKi Kids
图3:光一との“愛のかたまり”であるキンキは今後も続いていく(这句是女自小编写的)
《個人の活動に関しましては2024年3月31日の所属事務所との契約更新のタイミングで契約を終了し人生の新しいフィールドへと進むことにいたしました》
2月22日、インスタグラムを更新し、3月末でSMILE-UP.社を退所することを発表したのはKinKi Kidsの堂本剛(44)。剛は’91年にジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)に入所し、’93年から堂本光一(45)とともにキンキとして活躍してきた。
光一は剛の独立について、有料会員サイトのブログで、《2人の気持ちとして共通しているのは お互いの気持ちを尊重し合い 2人の活動はこれからも届けていくという事 これに尽きます》と、コメントを発表している。
30年以上在籍してきた事務所から独立するまでには葛藤がーー。
「お姉さんが事務所に書類を送ってすぐ、創業者であるジャニー喜多川氏(享年87)に見いだされました。山下達郎さん(71)と松本隆さん(74)という大御所が、デビュー曲『硝子の少年』を担当することになったのは、剛さんと光一さん2人への期待の表れでした」(芸能関係者)
発掘して、背中を押してくれたジャニー氏は’19年7月に逝去。剛は追悼コメントを発表していた。
《あなたを愛しているという 変わらない毎日を大切に生きていくよ 愛しているよ ありがとう 宇宙一 大好きだよ》
恩人との永別。ここから4年半にわたる剛の懊悩が始まったようだ。前出の芸能関係者が明かす。
「逝去を境に、剛さんが“事務所を退所する”とたびたび報じられるようになりました。
剛さんもジャニーさんの生前から『亡くなったら、事務所を辞める』と周囲に語っていたといいます。
しかし、キンキとして活動していくため、事務所に残っていたそうです」
亡き恩人や、ファンのために事務所に所属し続けたという剛。しかし次第に溝ができていくーー。
「剛さんは“多くの人に届けたい”という思いから、全ての楽曲をネット配信したいと訴えてきました。
しかし事務所がCDの売り上げを重視しているため、ソロのものを除き、KinKi Kidsの楽曲はいまだに配信できていません。
また’21年11月、光一さんが有料ブログで、’22年元日の東京ドームライブ開催を発表した際に、当初は事務所から、コロナ禍や改修工事のためできないと伝えられたと告白しました。
『ジャニーズフェスティバル』が’21年12月30日に企画されていることを後に知らされて、事務所に直談判し、結局、開催にこぎつけたそうです。
このときも2人は、事務所に不信感を持ちました」(前出・芸能関係者)
剛も、’21年9月放送の冠ラジオ番組『KinKi Kidsどんなもんヤ!』(文化放送)で、不満を口にしていた。
「僕が『ファンの人たちはこうしたほうが喜んでくれるだろうな』って思うことが、必ずしも反映されるわけではないからな……」
’23年には創業者による生前の性加害問題が表面化し、社会問題となった。
そして10月2日、ジャニーズ事務所は、SMILE-UP.に社名変更すると発表。
「剛さんは一連の報道に複雑な心境だったそうです。
また社名変更については、周囲に“名前がなくなってしまうのか”と寂しそうに話していたと聞いています」(前出・芸能関係者)
相方・光一は企業名の変更が発表された約1週間後、ミュージカルの公開ゲネプロに際して開かれた単独記者会見で、「刻まれたものをバツをつけて十字架にして、自分として表現していかなければいけないというふうに強く思っています」と語っていた。
一方の剛はーー。
「11月に開かれた独演会では、毎年ジャニーさんとのエピソードを話すのが恒例でしたが、一切語りませんでした。またブログなどのほかの場でもノーコメントをつらぬいています。表舞台で語らないことが、剛さん独自の姿勢を示しているのでしょう」(音楽関係者)
■「一生このまま続いていく」
SMILE-UP.社は本誌の取材に対し《独立検討時期に明確なものはございません》と答えているが、新会社であるSTARTO ENTERTAINMENTの本格始動は今年の4月。節目に向けて剛が動き出していたーー。
「社名が変わったころから、退所の手続きを始めていたといいます。
ただ剛さんにはファンのためにもキンキは退所後も続けていきたいという強い思いがありました。これは光一さんも同意しており、事務所とも話し合った結果、ずっとキンキを続けることで、合意したそうです。またキンキの楽曲を後輩たちが利用できるようにすることも望んでいたそうです」(前出・音楽関係者)
『音楽と人』’23年3月号のインタビューでも剛はキンキの今後について聞かれ、こう語っていた。
《たぶん一生このまま。2人が存在している限り、完成しないまま続いていく。それがKinKi Kidsだから》
1月11日には、ももいろクローバーZの百田夏菜子(29)との結婚が発表された。
「百田さんとは価値観が一致し、すぐに意気投合したそうです。交際期間は1年未満での結婚ですが、全幅の信頼を置いているとか。
また剛さんのお姉さんも、独立に賛成していたといいます。
一部報道によれば、独立後は剛さんの個人事務所を百田さんの親族がサポートしていくという話もあるそうです。
STARTO社の始動前に、公私ともに万全の準備が整ったということでしょう」(前出・音楽関係者)
“ガラスの少年時代”から支えてくれた古巣へ、“ケジメ”をつけた剛。光一との“愛のかたまり”であるキンキは今後も続いていく。
https://t.cn/A6YlRclF
图2:94年、日本武道館での初コンサートを行うKinKi Kids
图3:光一との“愛のかたまり”であるキンキは今後も続いていく(这句是女自小编写的)
《個人の活動に関しましては2024年3月31日の所属事務所との契約更新のタイミングで契約を終了し人生の新しいフィールドへと進むことにいたしました》
2月22日、インスタグラムを更新し、3月末でSMILE-UP.社を退所することを発表したのはKinKi Kidsの堂本剛(44)。剛は’91年にジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)に入所し、’93年から堂本光一(45)とともにキンキとして活躍してきた。
光一は剛の独立について、有料会員サイトのブログで、《2人の気持ちとして共通しているのは お互いの気持ちを尊重し合い 2人の活動はこれからも届けていくという事 これに尽きます》と、コメントを発表している。
30年以上在籍してきた事務所から独立するまでには葛藤がーー。
「お姉さんが事務所に書類を送ってすぐ、創業者であるジャニー喜多川氏(享年87)に見いだされました。山下達郎さん(71)と松本隆さん(74)という大御所が、デビュー曲『硝子の少年』を担当することになったのは、剛さんと光一さん2人への期待の表れでした」(芸能関係者)
発掘して、背中を押してくれたジャニー氏は’19年7月に逝去。剛は追悼コメントを発表していた。
《あなたを愛しているという 変わらない毎日を大切に生きていくよ 愛しているよ ありがとう 宇宙一 大好きだよ》
恩人との永別。ここから4年半にわたる剛の懊悩が始まったようだ。前出の芸能関係者が明かす。
「逝去を境に、剛さんが“事務所を退所する”とたびたび報じられるようになりました。
剛さんもジャニーさんの生前から『亡くなったら、事務所を辞める』と周囲に語っていたといいます。
しかし、キンキとして活動していくため、事務所に残っていたそうです」
亡き恩人や、ファンのために事務所に所属し続けたという剛。しかし次第に溝ができていくーー。
「剛さんは“多くの人に届けたい”という思いから、全ての楽曲をネット配信したいと訴えてきました。
しかし事務所がCDの売り上げを重視しているため、ソロのものを除き、KinKi Kidsの楽曲はいまだに配信できていません。
また’21年11月、光一さんが有料ブログで、’22年元日の東京ドームライブ開催を発表した際に、当初は事務所から、コロナ禍や改修工事のためできないと伝えられたと告白しました。
『ジャニーズフェスティバル』が’21年12月30日に企画されていることを後に知らされて、事務所に直談判し、結局、開催にこぎつけたそうです。
このときも2人は、事務所に不信感を持ちました」(前出・芸能関係者)
剛も、’21年9月放送の冠ラジオ番組『KinKi Kidsどんなもんヤ!』(文化放送)で、不満を口にしていた。
「僕が『ファンの人たちはこうしたほうが喜んでくれるだろうな』って思うことが、必ずしも反映されるわけではないからな……」
’23年には創業者による生前の性加害問題が表面化し、社会問題となった。
そして10月2日、ジャニーズ事務所は、SMILE-UP.に社名変更すると発表。
「剛さんは一連の報道に複雑な心境だったそうです。
また社名変更については、周囲に“名前がなくなってしまうのか”と寂しそうに話していたと聞いています」(前出・芸能関係者)
相方・光一は企業名の変更が発表された約1週間後、ミュージカルの公開ゲネプロに際して開かれた単独記者会見で、「刻まれたものをバツをつけて十字架にして、自分として表現していかなければいけないというふうに強く思っています」と語っていた。
一方の剛はーー。
「11月に開かれた独演会では、毎年ジャニーさんとのエピソードを話すのが恒例でしたが、一切語りませんでした。またブログなどのほかの場でもノーコメントをつらぬいています。表舞台で語らないことが、剛さん独自の姿勢を示しているのでしょう」(音楽関係者)
■「一生このまま続いていく」
SMILE-UP.社は本誌の取材に対し《独立検討時期に明確なものはございません》と答えているが、新会社であるSTARTO ENTERTAINMENTの本格始動は今年の4月。節目に向けて剛が動き出していたーー。
「社名が変わったころから、退所の手続きを始めていたといいます。
ただ剛さんにはファンのためにもキンキは退所後も続けていきたいという強い思いがありました。これは光一さんも同意しており、事務所とも話し合った結果、ずっとキンキを続けることで、合意したそうです。またキンキの楽曲を後輩たちが利用できるようにすることも望んでいたそうです」(前出・音楽関係者)
『音楽と人』’23年3月号のインタビューでも剛はキンキの今後について聞かれ、こう語っていた。
《たぶん一生このまま。2人が存在している限り、完成しないまま続いていく。それがKinKi Kidsだから》
1月11日には、ももいろクローバーZの百田夏菜子(29)との結婚が発表された。
「百田さんとは価値観が一致し、すぐに意気投合したそうです。交際期間は1年未満での結婚ですが、全幅の信頼を置いているとか。
また剛さんのお姉さんも、独立に賛成していたといいます。
一部報道によれば、独立後は剛さんの個人事務所を百田さんの親族がサポートしていくという話もあるそうです。
STARTO社の始動前に、公私ともに万全の準備が整ったということでしょう」(前出・音楽関係者)
“ガラスの少年時代”から支えてくれた古巣へ、“ケジメ”をつけた剛。光一との“愛のかたまり”であるキンキは今後も続いていく。
https://t.cn/A6YlRclF
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
第1回 老いの遍歴
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
老化研究者
若い時から老化研究者だった。長年、老化の基礎研究の道を歩んで、いつのまにか還暦を過ぎ、定年を迎え、そして古希も近い。今は名実ともに立派な老化研究者になった。老化を研究する者でもあり、老化した研究者でもある。
エラーカタストロフからの出発
駆け出しは、まだ老化研究があまり見向きもされない時代だった。大学院に進学してついた教授から最初に言われたことは「誰もがDNAを見ているから、君はRNAをやりなさい」。そこで思いついたのが「蛋白質合成の精度問題」、いわゆるエラーカタストロフ説の検証だった。カギとなるのはメッセンジャーRNA(mRNA)。総武線と中央線を乗り継いで一路西へ、奥多摩の水産試験場にニジマスの精巣をもらいにいった。それからプロタミンのmRNAを精製する。朝5時に品川の食肉加工施設(芝浦と場)に、ブタの肝臓をもらいにいったこともあった。そこから蛋白合成の素材を抽出して、ニジマスのmRNAを鋳型にして試験管内の蛋白質合成系を樹立した。そして老若マウスのリボソームの翻訳精度を比較する。2種類の放射性アミノ酸の入った小さなチューブの中で、"虹鱒と豚と鼠"が一緒になった。そんなごった煮のようなスープの反応から、老若の微妙な違い、老いのからくりを探ろうとしていた。
結果は、老若で精度は変わらない。エラーは増えない。それが学位論文になった。だが、これでは老化を説明できない。老化のエラーカタストロフ説に見切りをつけて、1984年に私は米国へ飛んだ。
『アメリカもおいしい』
同じ年に英国へ飛んだ著名な書誌学者がいる。林望氏である。誰もがご存じであろう。リンボウ先生のことだ。彼を有名にしたのは、かの『イギリスはおいしい』(平凡社)というエッセイ集である。ケンブリッジ大学に留学して、異国暮らしの日々の中で、英国の食文化を伏線に人とのふれあいの中から独特の視点で日英の文化比較を軽妙に紡いでゆく。その中にちりばめられた素描はとても繊細で、古風で上品なスプーンもいいが、英国の家々やら風景には一緒に旅させてもらったような、そんな豊かな余韻を与えてくれる本だった。
私の行った先はロサンゼルスである。ここでは『アメリカもおいしい』という話をしよう。別にマックやバーガーキングやインエンドアウトの食レポをする意図はない。ハンバーガー以外にも、日常でも研究でも、旅でも読書でも、「おいしい」ものはどこにでも転がっている。英国と米国、ケンブリッジとロサンゼルス、文系と理系、これは似て非なるものだが、何か共通する「おいしさ」がある。
こちらはリンボウ(林望)先生ならぬシンボウ(森望)である。ある人からは「辛抱して長寿ですか?」と言われた。至言である。人間、楽してすべてが事足りることはない。人生、そんなに甘くない。耐える力がないと「長寿への道」は完歩できない。それは、ご同輩、みな納得されるだろう。
老いを寿に変える
米国に渡って、遺伝子進化や神経発生の研究を経て、30代半ばで初めて自分の研究室をもった。南カリフォルニア大学のアンドラス老年学研究所で神経老化の研究を始めた。日本の科学雑誌からの依頼に「科学は実業」という一文を寄せた。コンビニ店長のような自転車操業だった。カリフォルニアの陽光の中で狙ったのは「老いを寿に変える」、そんな夢のような研究だった。神経細胞の突起の動きを制御して「老」を「寿」に。その思いは、今も変わらない。
図:老いを寿に変えるを表す図。
老いを寿に変える
老化と寿命を科学する
米国滞在10年を経て、帰国した先は関西学研都市(京阪奈)。ロサンゼルスのロングビーチの港から年末に送り出した段ボール100箱の研究資材を載せた船は、阪神淡路の震災で神戸港が使えず、横浜港に入った。じきにオウム真理教の事件が起こって、個人輸入しようとしていた化学薬品の段ボール6箱は差し押さえとなった。疑われる筋合いはなかったのだが、とにかく5月にようやく研究再開。科学技術庁の外郭団体、JSTのさきがけ研究21「遺伝と変化」領域で、神経遺伝子制御の最先端を走った。2年後には名古屋郊外に新設された国立長寿医療研究センター(NILS、現在のNCGG)に移籍。分子遺伝学研究部を立ち上げた。遺伝子改変マウスを手掛けながら、老化と寿命の制御について遺伝子の視点から攻めた。同時に先のJSTの「脳を守る」戦略研究の代表も兼務し、老化脳攻略へ国内連携を進めた。大府の研究所で7年奮闘して、その後、長崎大学で老化脳研究を続けた。西の地の利を生かして、日韓の老化研究連携を模索し、日本学術振興会のアジア研究教育拠点事業AACLの日本側代表を5年間務めた。長崎での15年を経て、今の福岡の医療系大学へ移籍した。米国、民間、国研(厚労省)、国立大(文科省)、私立大の各所を渡り歩きながら、老いの科学の中で歳をとった。
ただ人として生きる
すると、自分の古巣の学会からも、ある意味、引導を渡される。基礎老化の学会の名誉会員とされて、体よく葬り去られた。多くの職種に「定年」があるように、学会組織にもそれなりの思惑がある。老化の学会であれば老齢(研究)者を大事にしてほしいという思いはあったが、それでもいつかは後進に道を譲る。自分にもついにそんな時が来た。「研究者」から研究の場を奪えば、それはただの「者」、ただの「人」になる。だが、考えてみれば、人は誰しも一人生まれて、ひとり死ぬ。結局は、皆がただの人ではないか。人として生きること、それこそが大事なのだ。こんな声が聞こえてくる。「これでいいのだ!」
老いぬとてなどか我が身を責めきけむ 老いずは今日にあわましものか
(藤原敏行 古今和歌集903)
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『Aging Mechanisms Ⅱ(編著)』(Springer)など著書多数。
第1回 老いの遍歴
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
老化研究者
若い時から老化研究者だった。長年、老化の基礎研究の道を歩んで、いつのまにか還暦を過ぎ、定年を迎え、そして古希も近い。今は名実ともに立派な老化研究者になった。老化を研究する者でもあり、老化した研究者でもある。
エラーカタストロフからの出発
駆け出しは、まだ老化研究があまり見向きもされない時代だった。大学院に進学してついた教授から最初に言われたことは「誰もがDNAを見ているから、君はRNAをやりなさい」。そこで思いついたのが「蛋白質合成の精度問題」、いわゆるエラーカタストロフ説の検証だった。カギとなるのはメッセンジャーRNA(mRNA)。総武線と中央線を乗り継いで一路西へ、奥多摩の水産試験場にニジマスの精巣をもらいにいった。それからプロタミンのmRNAを精製する。朝5時に品川の食肉加工施設(芝浦と場)に、ブタの肝臓をもらいにいったこともあった。そこから蛋白合成の素材を抽出して、ニジマスのmRNAを鋳型にして試験管内の蛋白質合成系を樹立した。そして老若マウスのリボソームの翻訳精度を比較する。2種類の放射性アミノ酸の入った小さなチューブの中で、"虹鱒と豚と鼠"が一緒になった。そんなごった煮のようなスープの反応から、老若の微妙な違い、老いのからくりを探ろうとしていた。
結果は、老若で精度は変わらない。エラーは増えない。それが学位論文になった。だが、これでは老化を説明できない。老化のエラーカタストロフ説に見切りをつけて、1984年に私は米国へ飛んだ。
『アメリカもおいしい』
同じ年に英国へ飛んだ著名な書誌学者がいる。林望氏である。誰もがご存じであろう。リンボウ先生のことだ。彼を有名にしたのは、かの『イギリスはおいしい』(平凡社)というエッセイ集である。ケンブリッジ大学に留学して、異国暮らしの日々の中で、英国の食文化を伏線に人とのふれあいの中から独特の視点で日英の文化比較を軽妙に紡いでゆく。その中にちりばめられた素描はとても繊細で、古風で上品なスプーンもいいが、英国の家々やら風景には一緒に旅させてもらったような、そんな豊かな余韻を与えてくれる本だった。
私の行った先はロサンゼルスである。ここでは『アメリカもおいしい』という話をしよう。別にマックやバーガーキングやインエンドアウトの食レポをする意図はない。ハンバーガー以外にも、日常でも研究でも、旅でも読書でも、「おいしい」ものはどこにでも転がっている。英国と米国、ケンブリッジとロサンゼルス、文系と理系、これは似て非なるものだが、何か共通する「おいしさ」がある。
こちらはリンボウ(林望)先生ならぬシンボウ(森望)である。ある人からは「辛抱して長寿ですか?」と言われた。至言である。人間、楽してすべてが事足りることはない。人生、そんなに甘くない。耐える力がないと「長寿への道」は完歩できない。それは、ご同輩、みな納得されるだろう。
老いを寿に変える
米国に渡って、遺伝子進化や神経発生の研究を経て、30代半ばで初めて自分の研究室をもった。南カリフォルニア大学のアンドラス老年学研究所で神経老化の研究を始めた。日本の科学雑誌からの依頼に「科学は実業」という一文を寄せた。コンビニ店長のような自転車操業だった。カリフォルニアの陽光の中で狙ったのは「老いを寿に変える」、そんな夢のような研究だった。神経細胞の突起の動きを制御して「老」を「寿」に。その思いは、今も変わらない。
図:老いを寿に変えるを表す図。
老いを寿に変える
老化と寿命を科学する
米国滞在10年を経て、帰国した先は関西学研都市(京阪奈)。ロサンゼルスのロングビーチの港から年末に送り出した段ボール100箱の研究資材を載せた船は、阪神淡路の震災で神戸港が使えず、横浜港に入った。じきにオウム真理教の事件が起こって、個人輸入しようとしていた化学薬品の段ボール6箱は差し押さえとなった。疑われる筋合いはなかったのだが、とにかく5月にようやく研究再開。科学技術庁の外郭団体、JSTのさきがけ研究21「遺伝と変化」領域で、神経遺伝子制御の最先端を走った。2年後には名古屋郊外に新設された国立長寿医療研究センター(NILS、現在のNCGG)に移籍。分子遺伝学研究部を立ち上げた。遺伝子改変マウスを手掛けながら、老化と寿命の制御について遺伝子の視点から攻めた。同時に先のJSTの「脳を守る」戦略研究の代表も兼務し、老化脳攻略へ国内連携を進めた。大府の研究所で7年奮闘して、その後、長崎大学で老化脳研究を続けた。西の地の利を生かして、日韓の老化研究連携を模索し、日本学術振興会のアジア研究教育拠点事業AACLの日本側代表を5年間務めた。長崎での15年を経て、今の福岡の医療系大学へ移籍した。米国、民間、国研(厚労省)、国立大(文科省)、私立大の各所を渡り歩きながら、老いの科学の中で歳をとった。
ただ人として生きる
すると、自分の古巣の学会からも、ある意味、引導を渡される。基礎老化の学会の名誉会員とされて、体よく葬り去られた。多くの職種に「定年」があるように、学会組織にもそれなりの思惑がある。老化の学会であれば老齢(研究)者を大事にしてほしいという思いはあったが、それでもいつかは後進に道を譲る。自分にもついにそんな時が来た。「研究者」から研究の場を奪えば、それはただの「者」、ただの「人」になる。だが、考えてみれば、人は誰しも一人生まれて、ひとり死ぬ。結局は、皆がただの人ではないか。人として生きること、それこそが大事なのだ。こんな声が聞こえてくる。「これでいいのだ!」
老いぬとてなどか我が身を責めきけむ 老いずは今日にあわましものか
(藤原敏行 古今和歌集903)
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『Aging Mechanisms Ⅱ(編著)』(Springer)など著書多数。
『ミストニアの翅望 -The Lost Delight-』CG②
ローズ
「心にもないことを仰っしゃらないでください」
自分でも驚くぐらい、冷たい声が出た。
そんな私をさして驚いた様子もなく、アスコットが見つめる。
アスコット
「おや、どうしてそんなことを言うのかな?
君の目には私がそんなにも冷血漢に見えて――」
ローズ
「――先程。
あの女性を見て、笑っておられましたね?」
遮るように告げれば。
アスコット
「…………」
アスコットが感情の読めない笑みのまま、押し黙る。
けれど――対峙する私が視線をそらさないのを察した瞬間。
アスコット
「――ははっ、見られてしまったか」
おもむろに口元に手をやり、アスコットはもはや愉悦を隠さず、歪んだ笑みを浮かべた。
アスコット
「つい、ね。笑いがこぼれてしまったんだよ。
あそこまで錯乱した女性も久しぶりだったから」
心底楽しそうに笑うアスコットに私は背筋に冷たいものが走りながらもまっすぐにその瞳を見つめ返す。
ローズ
「心にもないことを仰っしゃらないでください」
自分でも驚くぐらい、冷たい声が出た。
そんな私をさして驚いた様子もなく、アスコットが見つめる。
アスコット
「おや、どうしてそんなことを言うのかな?
君の目には私がそんなにも冷血漢に見えて――」
ローズ
「――先程。
あの女性を見て、笑っておられましたね?」
遮るように告げれば。
アスコット
「…………」
アスコットが感情の読めない笑みのまま、押し黙る。
けれど――対峙する私が視線をそらさないのを察した瞬間。
アスコット
「――ははっ、見られてしまったか」
おもむろに口元に手をやり、アスコットはもはや愉悦を隠さず、歪んだ笑みを浮かべた。
アスコット
「つい、ね。笑いがこぼれてしまったんだよ。
あそこまで錯乱した女性も久しぶりだったから」
心底楽しそうに笑うアスコットに私は背筋に冷たいものが走りながらもまっすぐにその瞳を見つめ返す。
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