劉備と孫権は、なぜ土地を分け合ったのか。関羽と魯粛の会談「短刀会」は、どちらが得した?
単刀会(たんとうかい)をご存じだろうか? 単刀赴会とも呼ばれるもので、西暦215年に行われた、魯粛(ろしゅく)と関羽(かんう)による会見である。益州を得た劉備(蜀)と、孫権(呉)との間で、荊州南部(荊南)の帰属をめぐる紛争に決着をつけようというものであった。

「荊州問題」は、さかのぼること数年前に端を発していた。

 赤壁大戦後に孫権軍の周瑜(しゅうゆ)が、劉備軍の加勢も得て南郡(江陵)を1年かけて攻略し、曹仁(そうじん)を荊北(襄陽)へと追い払った。ここから、両軍の紛争につながる駆け引きが始まる。重ねて注意したいのは、ここで出てくる「荊州」とは南郡や江夏郡を中心とした荊州南部(荊南)のこと。襄陽を中心とする北部(荊北)は依然、曹操軍が領していた。

 やや複雑なので、正史『三国志』(先主伝・孫権伝・周瑜伝・魯粛伝)や引用文の『江表伝』などから時系列を追っていきたい。

▼209年(赤壁の戦いの1年後)、孫権が周瑜を南郡(江陵)太守に、程普を江夏郡の太守に任命。周瑜は共闘の礼として劉備に公安県を預けた(駐屯させたとも受け取れる)。

同年、劉備は周瑜の手勢を借りて荊南の四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を攻略。のち孫権と会見、これら四郡の借り受けたとされる。

周瑜や呂範は「劉備を呉に引き留めるべき」と言ったが、孫権は魯粛の言葉に従い、劉備を帰して先の四郡を守らせた。さらに孫権は妹(孫夫人)を劉備に嫁がせて手なずけようした。

▼210年、周瑜が益州(蜀)遠征の準備中に急逝。後任の魯粛は、孫権の許可を得て劉備に江陵を預けた。以後、江陵には関羽が駐在。魯粛は陸口(長沙)に駐在した。孫権は蜀遠征を劉備に提案するが、劉備は自分が蜀を欲しいため、言葉巧みに中止させる。

▼211年、劉備は関羽を江陵に残し、自軍のみで益州(蜀)に遠征。孫権は立腹したが、魯粛がそれをなだめた(その間、孫権は曹操軍と合肥・濡須口で交戦。荊州を魯粛・劉備に任せざるを得なかった)。3年後(214)、劉備は劉璋を降伏させ、蜀を攻略。
▼215年、孫権は諸葛瑾を使者として「荊南を返せ」と劉備に要求。「涼州を取ってから」との劉備の返答に業を煮やし、呂蒙に兵2万を預けて三郡(長沙・零陵・桂陽)を奪い取らせた。(215年・地図参照)

▼これに対し、関羽が3万の兵で益陽に進軍し、魯粛や甘寧と対峙していた。孫権も陸口まで出張って劉備にプレッシャーをかける。劉備も公安まで戻り、両軍にらみ合いになった。

 あわや孫権・劉備は一触即発。赤壁以来つづけてきた同盟崩壊の危機となる。そこで魯粛は関羽に「会見」を申し入れた。それまで同様、あくまで劉備側とは「交渉」で状況を打開しようとしたのである。

■短刀会は結局、なんら成果がなかった?

「肅邀羽相見、各駐兵馬百歩上、但請將軍單刀倶會。」(魯粛伝)

 魯粛と関羽は、それぞれ短刀一本を帯び、側近数名ずつを連れただけで顔を合わせた。なんとも緊張感に満ちた会見である。

 小説『三国志演義』では、この短刀会の場面は、ただ関羽の豪胆さを示すために描かれる。魯粛は関羽を宴席に招き、三郡返還に応じない場合は潜ませていた兵で殺そうと企むのだが、いざ関羽が来るとビビッて実行できない。関羽は「蜀の問題は俺にはわからん。国家の大事はこんな宴席で決めるべきではない」と投げやり。

 そして宴もたけなわになると、魯粛の腕をつかんで岸辺まで引っ張っていって、甘寧らが手出しできないうちにその場から舟に乗って立ち去ってしまう。

 正史(魯粛伝)では、もちろん様相が異なる。魯粛が「わが方が荊州を貸与したのは、劉備殿が基盤も持たなかったからだ。いま蜀を得たのに劉備殿は土地を返そうとしない」と、切々と関羽に説き、関羽はそれにただ耳を傾けているだけだったらしい。「演義」とは異なり、魯粛が豪胆な人であったことがわかるが、ただこの会見だけで劉備側が完全譲歩したのかはわからない。
結果的に、この領土問題を一応解決したのは曹操の漢中侵攻だった。知らせを受け、慌てた劉備は孫権に譲歩案を申し入れた。湘江(湘水)を大まかな分岐点として荊南を分割。東側の江夏郡および長沙・桂陽を孫権が、西側の南郡(江陵)および武陵・零陵を劉備が領有するというかたちで話がまとまったのである。

 特筆すべきは、一度は奪われた三郡のうち零陵が劉備領に返されたところで、劉備にとって大きなメリットといえた。

■孫権は本当に劉備に土地を貸していた?

 そもそも「荊州を貸与した」というのは、主に孫権陣営の見方で、劉備陣営にその気はなかったのかもしれない。ただ赤壁の戦いと、その後の四郡支配は孫権の助力あってこそという負い目はあったのだろう。

 いっぽうで、孫権陣営も元々は荊州を支配していたわけではなかったし、統治を任せておいて「返還」を要求するというのも、今ひとつ説得力に欠けた。こうした互いの正当性と利害関係のせめぎあいの結果が、荊南分割だったのであろう。そう考えると「短刀会」は、単に関羽がやり込められただけではなかったのかもしれず「演義」の描写も嘘ばかりではないのかもしれない。

 孫権としては、おそらく荊南四郡すべてを手のうちに収めたかったところだろうが、妥協せざるを得なかった。ただ少なくとも荊州の半分の権益は確保できたから良しとしたのだろう。ただし、当初は支配下に置いて曹操の備えにしようと考えていた劉備が、ここまで大きくなるとは想定外で、最大の誤算だったに相違ない。
その後の展開について、魯粛はどう考えていたのだろうか。それも2年後の217年、彼が46歳で急逝し、わからなくなった。いずれにせよ彼の死で劉備との和平政策が破綻の兆しを見せたのは確かであった。

 後任として陸口に赴任した呂蒙は周瑜にも似た武断派であったが、最初のうちは関羽と親密に接し、孫権側からも関羽を懐柔しようと縁談が持ち込まれた。だが、それを関羽が断ったことで両陣営の関係は悪化の一途をたどってゆく。

「土地とは、ただ徳のある者に帰すのみで、なんら所有が定まっているものではない」(夫、土地者、惟德所在耳。何常之有)

 魯粛伝にある、この言葉は短刀会の座にあった一人の人物が発したものだ。おそらく関羽の側近と思われ「演義」では周倉の役割となっている。両陣営の利害がぶつかり合う場ゆえに、魯粛と関羽の一喝で声の主は「場違い」として退席させられるのみで、なんら意味を持たない。

 しかし、誰もがハッとする一言であったからこそ、この言葉は正史に書き留められたように思える。「土地」とは本来、誰のものなのか・・・。権力者が弱者をねじ伏せ、奪う行為は正当化されて良いのか。徳あるものが所有者なら誰もが納得するのか。膨大な『三国志』の短い一節ながら、現代人も無関係ではいられない問題である。
上永哲矢

家康の正室・瀬名ってどんな食事をしていたの?
毎日元気に過ごすために、全体に欠かせないことの1つが食事! 徳川家康の妻・瀬名も、日々食事をとっていました。「教科書に登場する“あの”偉人はどんなご飯を食べていたんだろう?」という疑問を、彼らの好きだった食べ物からひも解いていきます。

■「偉人メシ」ってなに?

「歴史は苦手!でも料理や食べることは大好き!」というキッズたち、教科書に登場する歴史上の人物たちが食べていたといわれる料理を作ってみませんか?

料理を監修してくれるのは、食事復元研究の第一人者で御年90歳ながら現役で大活躍中!食文化研究家の永山久夫先生!

「でも、偉人たちが食べていたご飯では、今のボクたちの味の好みとは合わないかも・・・」そんな不安を解決してくれるのは、人気料理研究家のきじまりゅうたさん!令和版にアレンジした栄養満点&映える『偉人メシ』に、ぜひ親子でチャレンジしてみよう!

今回は、徳川家康の最初の正室(正式な妻)だった瀬名。彼女はいったいどんなご飯を食べていたんだろう?

■瀬名って、どんな偉人?

名門・今川家の重臣である関口親永(せきぐちちかなが)の娘として生まれた瀬名(のちの築山殿)。母は東海道一の武将・今川義元の妹で、瀬名という名は父の元々の名前・瀬名義広が由来と言われています。

16歳で徳川家康と結婚し、一男一女をもうけましたが、桶狭間の戦いを機に彼女を取り巻く情勢が悪化し、のちに武田勝頼と内通(敵に味方の情報を漏らすこと)しているとの疑いをかけられ、家康の命により長男・信康とともに命を落としました。
■たんぱく質と食物繊維が豊富な『鶏肉とごぼうの煮物』

 瀬名が好んで食した、鶏肉とごぼうの煮物

 【材料】

  鶏もも肉:1枚 ごぼう:50g 大根:200g

  カブの葉:2個分 八丁味噌:大さじ2

 【作り方】

  (1)鶏もも肉は6等分に、ごぼうは5cm長さの縦四つ割りに切る。大根は1cm幅の半月切りにする。

  (2)鍋にごぼうと大根を入れ、かぶるくらいの水を注ぎ、煮立ったら鶏肉を入れる。

  (3)アクを引いてフタをして弱火で5~6分煮る。

  (4)八丁味噌を入れ、蓋をとってさらに5~6分煮る。

  (5)茹でたカブの葉を添える。

■バランスのよい食事で、美しさに磨きをかけた瀬名

徳川家康は、今川義元の人質になっていた時代に16歳で結婚。その相手が今川家の重臣の娘の瀬名で、のちの築山殿です。美しさで評判の女性でした。

2年後に長男の信康が生まれ、仲もよく、順調な滑り出しに見えました。ところが、義元が桶狭間の合戦で、織田信長に討たれてしまうのです。

家康は今川家を見限り、岡崎城に帰り、城主になりました。後を追って来た瀬名を含め、家族仲よく生活をはじめます。
食事は麦めし好きの家康と一緒で、瀬名も麦めしを中心に、豆味噌の味噌汁、漬け物、魚料理、それに鷹狩りで家康が獲ってくる、山鳥や鴨などの肉が時々つきました。

また、田舎でよく食べられていた鶏肉とごぼうの煮物などの料理で、豊富なたんぱく質と食物繊維をとっていたようです。

質素倹約な暮らしぶりでありながらも、非常に栄養バランスのよい食事内容です。とくに味噌汁を通して、大豆成分のイソフラボンを食事のたびにとったことで、瀬名はますます美しくなっていきました。イソフラボンは、美人ホルモンとも呼ばれている成分で、納豆などにも多く、現在でも人気の高い美容成分です。

その頃、家康は甲斐の武田信玄と敵対関係にあり、境界線を守るために、岡崎城を長男の信康に任せて、浜松城に移ってしまいます。

浜松城に移った家康は、次々と側室(当時、正式な妻以外に認められた側妻や愛人)を持ち、瀬名は激しく嫉妬します。行状(日頃の行い)も荒れ、その挙げ句、武田氏と内通していると疑われ、同盟関係にある織田信長から親子の殺害を忠告され、家康自身の命によって長男の信康ともども、死罪ということになってしまうのです。
信康は二俣城で切腹となり、瀬名も殺されるという悲劇の結末。瀬名は38歳という、最も美しい年頃でした。

歴史人2023年5月号より

監修/永山久夫

ながやま ひさお/1932年福島県生まれ。食文化史研究家。古代から明治時代までの食事復元研究の第一人者。長寿食や健脳食の研究も行う。新聞や雑誌、テレビなどでも活躍中。

料理監修/きじまりゅうた

きじま りゅうた/1981年東京都生まれ。料理研究家一家の三代目。男性のリアルな視点から家庭料理を提案している。NHK「きじまりゅうたの小腹すいてませんか?」を始め、

テレビや雑誌等を中心に活躍中。

編集:杉田俊人 撮影:渡部聡 スタイリスト:吉岡彰子
永山久夫

ヤツメウナギ
やつめうなぎ / 八目鰻
lamprey

頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科Petromyzonidaeの魚類の総称。体はウナギ形であるが、口は吸盤状であごに骨がなく、鼻は頭の背面に1個ある。目の後方に1列に並んだ7個の鰓孔(さいこう)があり、これと目をあわせてヤツメウナギとよぶようになった。体色は暗褐色か暗青色。全長は小さなもので15センチメートル、大きなもので80センチメートルを超え、ヌタウナギを含め無顎類とよばれる。
[落合 明・尼岡邦夫]
生態目次を見る
北半球では北緯30~70度、南半球では南緯32~60度に分布し、30種余りが知られている。しかし、その大部分は北半球におり、南半球には4種しかいない。一生、淡水で生活する陸封型と、変態後は川から海へ入って何年か海洋生活し、産卵のため川へ帰る降海型とがある。いずれの型でも、春から夏にかけて上流で産卵する。浅くて流れが緩やかで、川床に小石や砂が堆積(たいせき)している場所が産卵床となる。産卵床の中に産み付けられた受精卵は、発生して2週間余りで孵化(ふか)する。全長7ミリメートルぐらいになると川を下り、有機質の多い砂質の川床を選んで孔道を掘り、その中に潜む。この時期の幼体をアンモシーテス幼生ammocetesといい、目が皮下に埋没し、口内に歯がなく、繊毛運動により珪藻(けいそう)や小形の動物プランクトンを食べる。普通3~5年間のアンモシーテス期を終わったのち、夏に変態し、4週間余りで若魚となる。この間に増水すると夜間に流れに運ばれて海または湖へ入る。
変態後も、淡水で餌(えさ)をとらないで成熟する非寄生型は、小形である。寄生型は変態後、大形の魚の外部に吸着し、鋭い歯で皮膚を破り、口の中にある1対の口腔腺(こうこうせん)からランヘリデンlanpheridinという粘液を出し、これで寄主の血液の凝固を防ぎ、赤血球や筋肉を溶かして食べる。このため、サケ・マス類など有用魚に致命的な被害を与えることがある。
[落合 明]日本にはミツバヤツメEntosphenus tridentatus、カワヤツメLethenteron japonicum、スナヤツメ北方種Lethenteron sp.N、スナヤツメ南方種Lethenteron sp.S、およびシベリアヤツメLethenteron kessleriの5種のヤツメウナギ類が分布している。ミツバヤツメは海、湖沼、大きな河川に回遊する寄生性の種で、上口歯板が3尖頭(せんとう)であること、内部側唇歯が4対あることなどで、2尖頭の上口歯板と3対の内部側唇歯をもつ他種と容易に区別できる。スナヤツメの2種は小型で、一生河川で生活し、非寄生性である。両種は尾びれの後端が淡色であること、筋節数が少なくて49~66であることなどでカワヤツメおよびシベリアヤツメと異なる。カワヤツメはシベリアヤツメにきわめてよく類似するが、前種は背びれの先端が淡色で、海に回遊し、ほかの魚に寄生する。後種は背びれの先端が黒くて、河川に残留し、海に入らないで、非寄生性である。環境省レッド・リスト(2013)ではカワヤツメとスナヤツメの2種はともに、絶滅の危険が増大している種である「絶滅危惧Ⅱ類」に、シベリアヤツメは存続基盤が脆弱(ぜいじゃく)な種である「準絶滅危惧」に、栃木県のミツバヤツメは地域的に孤立している個体群で絶滅のおそれの高いものである「絶滅のおそれのある地域個体群」に指定されている。
[落合 明・尼岡邦夫]
食品目次を見る
脂質、ビタミンA、B1、B2を豊富に含んでいる。とくにビタミンAを多く含み、昔から夜盲症の薬やスタミナ食とされてきた。生のものは開いて蒲(かば)焼きやみそ漬けにする。保存には皮付きのまま乾燥する。秋田県には郷土料理として「やつめうなぎ鍋(なべ)」がある。ヤツメウナギをぶつ切りにして、ネギ、豆腐、生シイタケなどを取り合わせ、みそ仕立て、あるいはしょうゆ、酒などで調味しただし汁で煮ながら食べる。
[河野友美]


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