在云南尝试用天敌和物理方法无农药果树管理
已经过一周,没冬天的云南气候为我适合。早晨10度多,13点35-40度,办公室和宿舍在于海拔700米,晚上都没蚊子。老板说果树管理最困难的是克服病虫害,特别黄龙病损害最大,3000亩种15万棵树中每年1000棵被黄龙病侵蚀,砍树重新种植以外没好的办法。叶子变黄色,成长不好,果汁枯,果实味道苦不能销售。附近小农连患得病都不处理,所以农场为防止得病增加,给附近农民支付砍树一棵10块。感觉每年成本不仅农药,还要再定植,农民们说这种现象很多。这个病在全球没有别的对策,只有砍树。
我来云南目的是为帮小刘固的百果园怎么做出贡献,我感觉除了余惠勇以外为人民服务的农业事业者没有。余剩时间为研究无农药产品做贡献。
一般对病虫害对策是打药,杀虫杀菌。从来在日本没见过的南黄色蓟马进入日本时打药状况完全改变,从来的打药治理表面不能完全克服。最近明白了只有化学防治不能克服病虫害,农药不能克服全部病害虫。因为大棚内部17-30度为虫最好环境自动快速增殖。另外,生物防治生态性的意义=用天敌建立新的生态系,害虫不灭绝,作为天敌饵料在生态系上存在。农药的目的是减少害虫密度,不是灭绝,为天敌很少的农药(生态药),没抵抗性的程度。黄龙病在开农场的时候很少,没大问题,但现在增加了。用生态防治可能减少受害增加,明白了比开发天敌利用技术推广更困难。害虫不要绝灭,没损害的程度可以减少,允许天敌共同幸存的程度。打药的目的都减少害虫,不是杀光。
黄龙病通过木虱传染,害虫的直接损害很少,最大损害是带来病菌,黄龙病通过木虱带来,在日本一样,例如,番茄的TY都粉虫带来,看来西红柿TY克服不了,但打粉虫时防止蔓延才能控制TY。开发的品种对TY抵抗力的品种不好吃,产量不稳定。所以天敌办法最好。
我有胜算,在日本“现代农业”2023年6月特集‘对害虫用益虫,对病毒用有益菌’让我提升确认。日本农民和研究员40-50年研究成绩。还有中国研究天敌很有益,鼓舞了我。
1,黄龙病都化肥栽培和有机肥少的土地发生多=微生物少。
2,传播黄龙病的虫子=木虱,吃木虱的有益虫=蜜蜂,瓢虫,牛虻等。瓢虫一天吃200个蚜虫和木虱。蜜蜂吃几十几倍的害虫。
3,在农场有没有益虫?没有。在照片黄色脸盆进入水,添加食用油就虫浮上,肥皂就深沉。一天果树下边放两个脸盆,另一个放黄龙病在树下。
*现在柑橘开花的时,一般蜜蜂和瓢虫要飞舞,但是一个都看不见一个。
*三个脸盆有50-70个虫,但是看不见益虫,大概蓟马和蚜虫,为什么益虫不在?
4,没有蜜蜂和瓢虫喜欢的益草,苕子,紫花蕾,草蛉,高粱,燕麦,藿香蓟等益草。有益虫找食料来果园,蜜蜂采蜜在开花时发蜜香。
5,树下没有杂草,完全除草,让土壤变得贫瘠。这儿12年施堆肥有机肥,为什么土壤团粒化不多,因为这儿完熟堆肥,以高温微生物和肥料在发酵过程蒸散。
6,老实说,农场有益虫的牛虻,但是查捕蝇瓶全部牛虻,微小害虫出去,只有牛虻不能出去,像灭绝天敌器一样。
发现问题和原因,克服办法,只有实践证明。异国老头在在这儿持续研究。
已经过一周,没冬天的云南气候为我适合。早晨10度多,13点35-40度,办公室和宿舍在于海拔700米,晚上都没蚊子。老板说果树管理最困难的是克服病虫害,特别黄龙病损害最大,3000亩种15万棵树中每年1000棵被黄龙病侵蚀,砍树重新种植以外没好的办法。叶子变黄色,成长不好,果汁枯,果实味道苦不能销售。附近小农连患得病都不处理,所以农场为防止得病增加,给附近农民支付砍树一棵10块。感觉每年成本不仅农药,还要再定植,农民们说这种现象很多。这个病在全球没有别的对策,只有砍树。
我来云南目的是为帮小刘固的百果园怎么做出贡献,我感觉除了余惠勇以外为人民服务的农业事业者没有。余剩时间为研究无农药产品做贡献。
一般对病虫害对策是打药,杀虫杀菌。从来在日本没见过的南黄色蓟马进入日本时打药状况完全改变,从来的打药治理表面不能完全克服。最近明白了只有化学防治不能克服病虫害,农药不能克服全部病害虫。因为大棚内部17-30度为虫最好环境自动快速增殖。另外,生物防治生态性的意义=用天敌建立新的生态系,害虫不灭绝,作为天敌饵料在生态系上存在。农药的目的是减少害虫密度,不是灭绝,为天敌很少的农药(生态药),没抵抗性的程度。黄龙病在开农场的时候很少,没大问题,但现在增加了。用生态防治可能减少受害增加,明白了比开发天敌利用技术推广更困难。害虫不要绝灭,没损害的程度可以减少,允许天敌共同幸存的程度。打药的目的都减少害虫,不是杀光。
黄龙病通过木虱传染,害虫的直接损害很少,最大损害是带来病菌,黄龙病通过木虱带来,在日本一样,例如,番茄的TY都粉虫带来,看来西红柿TY克服不了,但打粉虫时防止蔓延才能控制TY。开发的品种对TY抵抗力的品种不好吃,产量不稳定。所以天敌办法最好。
我有胜算,在日本“现代农业”2023年6月特集‘对害虫用益虫,对病毒用有益菌’让我提升确认。日本农民和研究员40-50年研究成绩。还有中国研究天敌很有益,鼓舞了我。
1,黄龙病都化肥栽培和有机肥少的土地发生多=微生物少。
2,传播黄龙病的虫子=木虱,吃木虱的有益虫=蜜蜂,瓢虫,牛虻等。瓢虫一天吃200个蚜虫和木虱。蜜蜂吃几十几倍的害虫。
3,在农场有没有益虫?没有。在照片黄色脸盆进入水,添加食用油就虫浮上,肥皂就深沉。一天果树下边放两个脸盆,另一个放黄龙病在树下。
*现在柑橘开花的时,一般蜜蜂和瓢虫要飞舞,但是一个都看不见一个。
*三个脸盆有50-70个虫,但是看不见益虫,大概蓟马和蚜虫,为什么益虫不在?
4,没有蜜蜂和瓢虫喜欢的益草,苕子,紫花蕾,草蛉,高粱,燕麦,藿香蓟等益草。有益虫找食料来果园,蜜蜂采蜜在开花时发蜜香。
5,树下没有杂草,完全除草,让土壤变得贫瘠。这儿12年施堆肥有机肥,为什么土壤团粒化不多,因为这儿完熟堆肥,以高温微生物和肥料在发酵过程蒸散。
6,老实说,农场有益虫的牛虻,但是查捕蝇瓶全部牛虻,微小害虫出去,只有牛虻不能出去,像灭绝天敌器一样。
发现问题和原因,克服办法,只有实践证明。异国老头在在这儿持续研究。
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
第1回 老いの遍歴
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
老化研究者
若い時から老化研究者だった。長年、老化の基礎研究の道を歩んで、いつのまにか還暦を過ぎ、定年を迎え、そして古希も近い。今は名実ともに立派な老化研究者になった。老化を研究する者でもあり、老化した研究者でもある。
エラーカタストロフからの出発
駆け出しは、まだ老化研究があまり見向きもされない時代だった。大学院に進学してついた教授から最初に言われたことは「誰もがDNAを見ているから、君はRNAをやりなさい」。そこで思いついたのが「蛋白質合成の精度問題」、いわゆるエラーカタストロフ説の検証だった。カギとなるのはメッセンジャーRNA(mRNA)。総武線と中央線を乗り継いで一路西へ、奥多摩の水産試験場にニジマスの精巣をもらいにいった。それからプロタミンのmRNAを精製する。朝5時に品川の食肉加工施設(芝浦と場)に、ブタの肝臓をもらいにいったこともあった。そこから蛋白合成の素材を抽出して、ニジマスのmRNAを鋳型にして試験管内の蛋白質合成系を樹立した。そして老若マウスのリボソームの翻訳精度を比較する。2種類の放射性アミノ酸の入った小さなチューブの中で、"虹鱒と豚と鼠"が一緒になった。そんなごった煮のようなスープの反応から、老若の微妙な違い、老いのからくりを探ろうとしていた。
結果は、老若で精度は変わらない。エラーは増えない。それが学位論文になった。だが、これでは老化を説明できない。老化のエラーカタストロフ説に見切りをつけて、1984年に私は米国へ飛んだ。
『アメリカもおいしい』
同じ年に英国へ飛んだ著名な書誌学者がいる。林望氏である。誰もがご存じであろう。リンボウ先生のことだ。彼を有名にしたのは、かの『イギリスはおいしい』(平凡社)というエッセイ集である。ケンブリッジ大学に留学して、異国暮らしの日々の中で、英国の食文化を伏線に人とのふれあいの中から独特の視点で日英の文化比較を軽妙に紡いでゆく。その中にちりばめられた素描はとても繊細で、古風で上品なスプーンもいいが、英国の家々やら風景には一緒に旅させてもらったような、そんな豊かな余韻を与えてくれる本だった。
私の行った先はロサンゼルスである。ここでは『アメリカもおいしい』という話をしよう。別にマックやバーガーキングやインエンドアウトの食レポをする意図はない。ハンバーガー以外にも、日常でも研究でも、旅でも読書でも、「おいしい」ものはどこにでも転がっている。英国と米国、ケンブリッジとロサンゼルス、文系と理系、これは似て非なるものだが、何か共通する「おいしさ」がある。
こちらはリンボウ(林望)先生ならぬシンボウ(森望)である。ある人からは「辛抱して長寿ですか?」と言われた。至言である。人間、楽してすべてが事足りることはない。人生、そんなに甘くない。耐える力がないと「長寿への道」は完歩できない。それは、ご同輩、みな納得されるだろう。
老いを寿に変える
米国に渡って、遺伝子進化や神経発生の研究を経て、30代半ばで初めて自分の研究室をもった。南カリフォルニア大学のアンドラス老年学研究所で神経老化の研究を始めた。日本の科学雑誌からの依頼に「科学は実業」という一文を寄せた。コンビニ店長のような自転車操業だった。カリフォルニアの陽光の中で狙ったのは「老いを寿に変える」、そんな夢のような研究だった。神経細胞の突起の動きを制御して「老」を「寿」に。その思いは、今も変わらない。
図:老いを寿に変えるを表す図。
老いを寿に変える
老化と寿命を科学する
米国滞在10年を経て、帰国した先は関西学研都市(京阪奈)。ロサンゼルスのロングビーチの港から年末に送り出した段ボール100箱の研究資材を載せた船は、阪神淡路の震災で神戸港が使えず、横浜港に入った。じきにオウム真理教の事件が起こって、個人輸入しようとしていた化学薬品の段ボール6箱は差し押さえとなった。疑われる筋合いはなかったのだが、とにかく5月にようやく研究再開。科学技術庁の外郭団体、JSTのさきがけ研究21「遺伝と変化」領域で、神経遺伝子制御の最先端を走った。2年後には名古屋郊外に新設された国立長寿医療研究センター(NILS、現在のNCGG)に移籍。分子遺伝学研究部を立ち上げた。遺伝子改変マウスを手掛けながら、老化と寿命の制御について遺伝子の視点から攻めた。同時に先のJSTの「脳を守る」戦略研究の代表も兼務し、老化脳攻略へ国内連携を進めた。大府の研究所で7年奮闘して、その後、長崎大学で老化脳研究を続けた。西の地の利を生かして、日韓の老化研究連携を模索し、日本学術振興会のアジア研究教育拠点事業AACLの日本側代表を5年間務めた。長崎での15年を経て、今の福岡の医療系大学へ移籍した。米国、民間、国研(厚労省)、国立大(文科省)、私立大の各所を渡り歩きながら、老いの科学の中で歳をとった。
ただ人として生きる
すると、自分の古巣の学会からも、ある意味、引導を渡される。基礎老化の学会の名誉会員とされて、体よく葬り去られた。多くの職種に「定年」があるように、学会組織にもそれなりの思惑がある。老化の学会であれば老齢(研究)者を大事にしてほしいという思いはあったが、それでもいつかは後進に道を譲る。自分にもついにそんな時が来た。「研究者」から研究の場を奪えば、それはただの「者」、ただの「人」になる。だが、考えてみれば、人は誰しも一人生まれて、ひとり死ぬ。結局は、皆がただの人ではないか。人として生きること、それこそが大事なのだ。こんな声が聞こえてくる。「これでいいのだ!」
老いぬとてなどか我が身を責めきけむ 老いずは今日にあわましものか
(藤原敏行 古今和歌集903)
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『Aging Mechanisms Ⅱ(編著)』(Springer)など著書多数。
第1回 老いの遍歴
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
老化研究者
若い時から老化研究者だった。長年、老化の基礎研究の道を歩んで、いつのまにか還暦を過ぎ、定年を迎え、そして古希も近い。今は名実ともに立派な老化研究者になった。老化を研究する者でもあり、老化した研究者でもある。
エラーカタストロフからの出発
駆け出しは、まだ老化研究があまり見向きもされない時代だった。大学院に進学してついた教授から最初に言われたことは「誰もがDNAを見ているから、君はRNAをやりなさい」。そこで思いついたのが「蛋白質合成の精度問題」、いわゆるエラーカタストロフ説の検証だった。カギとなるのはメッセンジャーRNA(mRNA)。総武線と中央線を乗り継いで一路西へ、奥多摩の水産試験場にニジマスの精巣をもらいにいった。それからプロタミンのmRNAを精製する。朝5時に品川の食肉加工施設(芝浦と場)に、ブタの肝臓をもらいにいったこともあった。そこから蛋白合成の素材を抽出して、ニジマスのmRNAを鋳型にして試験管内の蛋白質合成系を樹立した。そして老若マウスのリボソームの翻訳精度を比較する。2種類の放射性アミノ酸の入った小さなチューブの中で、"虹鱒と豚と鼠"が一緒になった。そんなごった煮のようなスープの反応から、老若の微妙な違い、老いのからくりを探ろうとしていた。
結果は、老若で精度は変わらない。エラーは増えない。それが学位論文になった。だが、これでは老化を説明できない。老化のエラーカタストロフ説に見切りをつけて、1984年に私は米国へ飛んだ。
『アメリカもおいしい』
同じ年に英国へ飛んだ著名な書誌学者がいる。林望氏である。誰もがご存じであろう。リンボウ先生のことだ。彼を有名にしたのは、かの『イギリスはおいしい』(平凡社)というエッセイ集である。ケンブリッジ大学に留学して、異国暮らしの日々の中で、英国の食文化を伏線に人とのふれあいの中から独特の視点で日英の文化比較を軽妙に紡いでゆく。その中にちりばめられた素描はとても繊細で、古風で上品なスプーンもいいが、英国の家々やら風景には一緒に旅させてもらったような、そんな豊かな余韻を与えてくれる本だった。
私の行った先はロサンゼルスである。ここでは『アメリカもおいしい』という話をしよう。別にマックやバーガーキングやインエンドアウトの食レポをする意図はない。ハンバーガー以外にも、日常でも研究でも、旅でも読書でも、「おいしい」ものはどこにでも転がっている。英国と米国、ケンブリッジとロサンゼルス、文系と理系、これは似て非なるものだが、何か共通する「おいしさ」がある。
こちらはリンボウ(林望)先生ならぬシンボウ(森望)である。ある人からは「辛抱して長寿ですか?」と言われた。至言である。人間、楽してすべてが事足りることはない。人生、そんなに甘くない。耐える力がないと「長寿への道」は完歩できない。それは、ご同輩、みな納得されるだろう。
老いを寿に変える
米国に渡って、遺伝子進化や神経発生の研究を経て、30代半ばで初めて自分の研究室をもった。南カリフォルニア大学のアンドラス老年学研究所で神経老化の研究を始めた。日本の科学雑誌からの依頼に「科学は実業」という一文を寄せた。コンビニ店長のような自転車操業だった。カリフォルニアの陽光の中で狙ったのは「老いを寿に変える」、そんな夢のような研究だった。神経細胞の突起の動きを制御して「老」を「寿」に。その思いは、今も変わらない。
図:老いを寿に変えるを表す図。
老いを寿に変える
老化と寿命を科学する
米国滞在10年を経て、帰国した先は関西学研都市(京阪奈)。ロサンゼルスのロングビーチの港から年末に送り出した段ボール100箱の研究資材を載せた船は、阪神淡路の震災で神戸港が使えず、横浜港に入った。じきにオウム真理教の事件が起こって、個人輸入しようとしていた化学薬品の段ボール6箱は差し押さえとなった。疑われる筋合いはなかったのだが、とにかく5月にようやく研究再開。科学技術庁の外郭団体、JSTのさきがけ研究21「遺伝と変化」領域で、神経遺伝子制御の最先端を走った。2年後には名古屋郊外に新設された国立長寿医療研究センター(NILS、現在のNCGG)に移籍。分子遺伝学研究部を立ち上げた。遺伝子改変マウスを手掛けながら、老化と寿命の制御について遺伝子の視点から攻めた。同時に先のJSTの「脳を守る」戦略研究の代表も兼務し、老化脳攻略へ国内連携を進めた。大府の研究所で7年奮闘して、その後、長崎大学で老化脳研究を続けた。西の地の利を生かして、日韓の老化研究連携を模索し、日本学術振興会のアジア研究教育拠点事業AACLの日本側代表を5年間務めた。長崎での15年を経て、今の福岡の医療系大学へ移籍した。米国、民間、国研(厚労省)、国立大(文科省)、私立大の各所を渡り歩きながら、老いの科学の中で歳をとった。
ただ人として生きる
すると、自分の古巣の学会からも、ある意味、引導を渡される。基礎老化の学会の名誉会員とされて、体よく葬り去られた。多くの職種に「定年」があるように、学会組織にもそれなりの思惑がある。老化の学会であれば老齢(研究)者を大事にしてほしいという思いはあったが、それでもいつかは後進に道を譲る。自分にもついにそんな時が来た。「研究者」から研究の場を奪えば、それはただの「者」、ただの「人」になる。だが、考えてみれば、人は誰しも一人生まれて、ひとり死ぬ。結局は、皆がただの人ではないか。人として生きること、それこそが大事なのだ。こんな声が聞こえてくる。「これでいいのだ!」
老いぬとてなどか我が身を責めきけむ 老いずは今日にあわましものか
(藤原敏行 古今和歌集903)
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『Aging Mechanisms Ⅱ(編著)』(Springer)など著書多数。
#基金# #基金[超话]#【中信保诚基金韩依凌:国企+红利+量化的结合之道】在当下市场环境中,量化策略、投资稳定性好的国企、以及高分红股票都是投资者比较关注的。如果把这三者结合在一起,又会发生什么神奇的化学反应呢?中国基金报记者近日采访了中信保诚基金的基金经理韩依凌,他目前是中信保诚量化部副总监。
韩依凌,上海财经大学金融学博士;澳大利亚国立大学信息技术学硕士、计算机学硕士;10年证券从业经验,5年基金管理经验。曾任职于澳大利亚国立信息通信技术研究院,担任研究员;于中信保诚基金管理有限公司,担任量化投资部金融工程师;于华宝兴业基金管理有限公司,担任量化部投资经理。2016年6月重新加入中信保诚基金管理有限公司,历任投资经理、基金经理。详情见>>>https://t.cn/A6YlzsXc
韩依凌,上海财经大学金融学博士;澳大利亚国立大学信息技术学硕士、计算机学硕士;10年证券从业经验,5年基金管理经验。曾任职于澳大利亚国立信息通信技术研究院,担任研究员;于中信保诚基金管理有限公司,担任量化投资部金融工程师;于华宝兴业基金管理有限公司,担任量化部投资经理。2016年6月重新加入中信保诚基金管理有限公司,历任投资经理、基金经理。详情见>>>https://t.cn/A6YlzsXc
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