孫臏
前歴
阿(現在の山東省聊城市陽穀県)・鄄(現在の山東省菏沢市鄄城県)の間の辺りにて生まれる。本名およびその父を初めとする家族については不明。

若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は魏に仕官して恵王の元で将軍になることができた。しかし龐涓は孫臏に自分が及ばないことを感じていたので、偽って孫臏を魏へと招待し、孫臏を騙して罪に陥れ、臏刑(両脚を切断する刑)と額に罪人の印である黥を入れる刑に処した。その後は軟禁状態にあったが、斉の公族である将軍田忌(中国語版)が使者として魏へとやってきた際に密かに連絡を取り、その出立に合わせ車の中に隠れて魏を脱出することに成功した。

斉にて
斉では田忌の客となる。ある時、斉王(威王)と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬を催した。孫臏は田忌に対して、上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。これに気を良くした田忌は王に孫臏を推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰ぐようになった。
桂陵の戦い
魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した。趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣した。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と途中で留め、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗(桂陵の戦い)した。こうして孫臏は趙を救った(これが囲魏救趙という故事となった)。

馬陵の戦い
13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍として韓を攻めると、韓より斉へ救援依頼が来た。斉王は、孫臏を主将、田忌を副将にして軍を派遣しようとしたが、孫臏は田忌を推挙し、田忌が主将、孫臏は副将(実質的には軍師)となって韓へ向かった。田忌は前回同様魏の都を攻めようとし、孫臏は「龐涓は同じ過ちを二度繰り返す者ではなく、何かの備えはしているでしょう。しかし様子を伺わなければ分かりませんので、魏の都に向かいましょう」と答えた。孫臏の予測通り、龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍を足止めする一方、韓攻略軍も引き返させた。防衛軍と攻略軍で挟撃しようというのである。これを知った斉軍は撤退するが、龐涓は打撃を与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。

しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営の竈の数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子を見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭の騎兵を率いて一刻も早く斉軍を捕捉しようと図った。一方、孫臏は、その先の隘路である馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地で、仕込みを始める。龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物をつくり、側の木の枝に板を吊るして「龐涓死於此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」と書き記させた。そしてその道の両側に1万の兵を伏し、兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた。
果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着。障害物に止めさせられた際、なにやら書かれている板があると兵が言ったため、自らこれを読もうと松明の火をかかげた。これに斉軍の伏兵が一斉に矢を放ち、暗中の魏軍は大混乱に陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ→これで奴の名声を世に成さしてしまったか)」と言い残して自刎、若しくは矢によりハリネズミとなり戦死。魏の太子申は捕虜にされた。司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることになった。

この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。しかし孫臏のその後に付いては史書に記述がない。一説には兵法書を記していたとも言われている。

また、太史公の記述によると世間で軍学について引用する場合、『孫子』十三編の書物を述べないものはないと言われている。「能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず。能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」という言葉があり、これは孫子が龐涓を計略に落としたのは明察である。だが刑罰のうきめきにあうときの処置を、あらかじめできなかったのは悲しいことであると評価している。

孫臏兵法
孫臏は孫武と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『孫子』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、1972年に至って山東省で孫臏の著した兵法書の竹簡孫子が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『孫臏兵法』と名づけられている。

孙膑(生卒年不详),字伯灵,华夏族,孙武后裔,齐国阿(今山东阳谷东北)、鄄(今鄄城北)一带人。中国战国时期军事家,唐德宗时位列武成王庙64将之一,宋徽宗时位列宋武庙72将之一。
孙膑早年曾与庞涓同学兵法。庞涓出任魏将后,妒孙膑之才而将其骗至魏,施以膑刑。后得齐国使者帮助潜逃入齐,为田忌门客,助田忌赛马获胜,被荐于齐威王。周显王十六年(公元前353年),齐威王欲任孙膑为将,孙膑以“刑余之人”而辞谢。周显王二十七年,因魏将庞涓率军攻韩,韩向齐求救,孙膑又以军师身份偕将军田朌、田忌、田婴等率军救韩。
孙膑既在战争实践中创造了影响深远的“围魏救赵”,又给后世留下了反映时代特点和战争规律的杰出军事理论。《汉书·艺文志》著录《孙膑兵法》89篇,图4卷,已佚。从中可见其兵法思想主张:“内得其民之心,外知敌之情”,主张“战胜而强立”“事备而后动”;在战略战术上贵“势”,即创造条件以求主动和优势;突破前人速战速决的理论,提出了持久作战的思想;适应通都大邑的兴起,强调攻城;认为只有覆军杀将方为全胜,开创歼灭战的理论;对野战中车垒运用、阵法研究、将领条件等均有阐述。

十阵
凡陈(阵)有十:有枋(方)陈(阵),有员(圆)陈(阵),有疏陈(阵),有数陈(阵),有锥形之陈(阵),有雁行之陈(阵),有钩形之陈(阵),有玄襄之陈(阵),有火陈(阵),有水陈(阵),此皆有所利。枋(方)陈(阵)者,所剸(专)也。员(圆)陈(阵)者,所以槫(团)也。疏陈(阵)者,所以 也。数陈(阵)者,为不可掇。锥行之陈(阵)者,所以夬(决)绝也。雁行之陈(阵)者,所以椄(接)射也。钩行之陈(阵)者,所以变质易虑也。玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)者,所以疑众难故也。火陈(阵)者,所以拔也。水陈(阵)者,所以伥固也。枋(方)陈(阵)之法:必[博以酉易十](薄)中厚方,居陈(阵)在後。中之薄也,将以[上口下犬]也。重〔厚〕其〔方〕,将以剸(专)也。居陈(阵)在後,所以……〔圆阵之法〕:……〔疏阵之法〕:其甲寡而人之少也,是故坚之。武者在旌旗,是人者在兵,故必疏钜间,多其旌旗羽旄,砥刃以为旁。疏而不可戚(蹙),数而不可军者,在於慎。车毋驰,徒人毋驱(趋)。凡疏陈(阵)之法,在为数丑,或进或退,或击或[豕页](毁),或与之[人正],或要(邀)其衰。然则疏可以取阅(锐)矣。数陈(阵)之法:毋疏钜间,戚(蹙)而行首,积刃而信(伸)之,前後相葆(保),变□□□,甲恐则坐,以声坐□,往者弗送,来者弗止,或击其迂,或辱其阅(锐),笲之而无间,[车反]山而退。然则数不可掇也。
锥行之陈(阵):卑(譬)之若剑,末不阅(锐)则不入,刃不溥(薄)则不剸,本不厚则不可以列陈(阵)。是故,末必阅(锐),刃必溥(薄),本必[鸿去水](鸿、厚)。然则锥行之陈(阵)可以夬(决)绝矣。
〔雁行之阵〕……中,此谓雁陈(阵)之任。前列若[有雍](牖),後列若枋(方),三……阙罗而自存,之谓雁陈(阵)之任。
钩行之陈(阵):前列必枋(方),左右之和必钩。参(三)声气(既)全,五菜(彩)必具,辩(辨)吾号声,知五旗。无前无後,无〔左无右〕……
玄[上羽下襄](襄)之陈(阵):必多旌旗羽旄,鼓[上羽下非][上羽下非]庄,甲乱则坐,车乱则行,已治者□,榼榼啐啐,若从天下,若从地出,徒来而不屈,终日不拙。此之谓玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)。
火战之法:沟垒已成,重为沟渐(堑),五步积薪,必均疏数(密),从役有数(多余之数),令之为属枇,必轻必利。风辟……火气(既)自覆,与之战弗克(克),坐行而北。火战之法:下而衍以[艹外],三军之士无所出泄。若此,则可火也。陵猋蒋[艹外],薪荛气(既)积,营窟未谨。如此者,可火也。以火乱之,以矢雨之,鼓噪敦兵,以势助之。火战之法。
水战之法:必众其徒而寡其车,令之为钩楷苁柤[上咸下贝]辑□绦皆具。进则必遂,退则不戚(蹙),方戚(蹙)从流,以敌之人为召(招)。水战之法,便舟以为旗,驰舟以为使。敌往则遂,敌来则戚(蹙),推攘因慎而饬之,移而革之,陈(阵)而〔待〕之,规而离之。故兵有误车有御徒,必察其众少,击舟[豕页]〔毁〕津,示民徒来。水战之法也。
七百八十七。

尉繚子 制談せいだん第三
凡兵、制必先定。制先定則士不亂。士不亂則刑乃明。金鼓所指、則百人盡闘。陥行亂陳、則千人盡闘。覆軍殺將、則萬人齊刃。天下莫能當其戰矣。
凡およそ兵へいは、制せい必かならず先まず定さだむ。制せい先まず定さだまらば則すなわち士し乱みだれず。士し乱みだれざれば則すなわち刑けい乃すなわち明あきらかなり。金きん鼓この指さす所ところには、則すなわち百ひゃく人にん尽ことごとく闘たたかう。行こうを陥おとしいれ陣じんを乱みだすには、則すなわち千人せんにん尽ことごとく闘たたかう。軍ぐんを覆くつがえし将しょうを殺ころすには、則すなわち万人ばんにん、刃やいばを斉ひとしくす。天てん下か能よく其その戦たたかいに当あたる莫なし。
古者、士有什伍、車有偏列。鼓鳴旗麾先登者、未嘗非多力國士也。先死者亦未甞非多力國士也。損敵一人而損我百人。此資敵而傷我甚焉。世將不能禁。
古いにしえは、士しに什じゅう伍ご有あり、車くるまに偏列へんれつ有あり。鼓こ鳴なり旗はた麾さしまねきて先まず登のぼる者ものは、未いまだ嘗かつて多た力りきの国こく士しに非あらずんばあらず。先まず死しする者ものも亦また未いまだ嘗かつて多た力りきの国こく士しに非あらずんばあらず。敵てき一人いちにんを損そんして我わが百ひゃく人にんを損そんす。此これ敵てきを資たすけて我われを傷そこなうこと甚はなはだし。世よの将しょうは禁きんずること能あたわず。
征役分軍而逃歸、或臨戰自北、則逃傷甚焉。世將不能禁。
征役せいえきに軍ぐんを分わかちて逃にげ帰かえり、或あるいは戦たたかいに臨のぞみて自みずから北にぐれば、則すなわち逃とう傷しょう甚はなはだし。世よの将しょうは禁きんずること能あたわず。
殺人於百歩之外者、弓矢也。殺人於五十歩之内者、矛戟也。將已鼓而士卒相嚻、拗矢折矛抱戟、利後發。戰有此數者、内自敗也。世將不能禁。
人ひとを百ひゃっ歩ぽの外そとに殺ころす者ものは、弓きゅう矢しなり。人ひとを五ご十じっ歩ぽの内うちに殺ころす者ものは、矛戟ぼうげきなり。将しょう已すでに鼓こして士し卒そつ相あい囂かまびすしく、矢やを拗おり、矛ほこを折おり、戟げきを抱いだき、後おくれて発はっするを利りとす。戦たたかいに此この数者すうしゃ有あらば、内うちに自みずから敗やぶるるなり。世よの将しょうは禁きんずること能あたわず。
士失什伍、車失偏列、奇兵捐將而走、大衆亦走。世將不能禁。
士しは什じゅう伍ごを失うしない、車くるまは偏列へんれつを失うしない、奇き兵へいは将しょうを捐すてて走はしり、大たい衆しゅうも亦また走はしる。世よの将しょうは禁きんずること能あたわず。
夫將能禁此四者、則高山陵之、深水絶之、堅陳犯之。不能禁此四者、猶亡舟楫絶江河。不可得也。
夫それ将しょう、能よく此この四よつの者ものを禁きんずれば、則すなわち高山こうざんも之これを陵しのぎ、深水しんすいも之これを絶わたり、堅陣けんじんも之これを犯おかす。此この四よつの者ものを禁きんずること能あたわざれば、猶なお舟楫しゅうしゅうを亡うしないて江こう河がを絶わたるがごとし。得う可べからざるなり。
民非樂死而惡生也。號令明、法制審、故能使之前。明賞於前、決罰於後。是以發能中利、動則有功。
民たみは死しを楽たのしみて生せいを悪にくむに非あらざるなり。号令ごうれい明あきらかに、法制ほうせい審つまびらかなり、故ゆえに能よく之これをして前すすましむ。賞しょうを前まえに明あきらかにし、罰ばつを後うしろに決けっす。是ここを以もって発はっすれば能よく利りに中あたり、動うごけば則すなわち功こう有あり。
令百人一卒、千人一司馬、萬人一將、以少誅衆、以弱誅強。試聽臣言其術。足使三軍之衆、誅一人無失刑。父不敢舎子、子不敢舎父。况國人乎。
百ひゃく人にんに一卒いっそつ、千人せんにんに一いち司馬しば、万人まんにんに一いっ将しょうあらしめ、少すくなきを以もって衆おおきを誅ちゅうし、弱よわきを以もって強つよきを誅ちゅうす。試こころみに臣しんが其その術じゅつを言いうを聴きけ。三軍さんぐんの衆しゅうをして、一人いちにんを誅ちゅうして、刑けいを失うしなうこと無なからしむるに足たらん。父ちち敢あえて子こを舎ゆるさず、子こ敢あえて父ちちを舎ゆるさず。况いわんや国人くにびとをや。
一夫仗劔撃於市、萬人無不避之者。臣謂、非一人之獨勇、萬人皆不肖也。何則必死與必生、固不侔也。

一いっ夫ぷ、剣けんに仗よりて市いちに撃うてば、万人まんにん之これを避さけざる者もの無なし。臣しん謂おもえらく、一人いちにんの独ひとり勇ゆうにして万人まんにん皆みな不ふ肖しょうなるに非あらざるなり。何なんとなれば、則すなわち必ひっ死しと必ひっ生しょうと固まことに侔ひとしからざればなり。

聽臣之術、足使三軍之衆爲一死賊、莫當其前、莫隨其後、而能獨出獨入焉。獨出獨入者、王霸之兵也。
臣しんの術じゅつを聴きかば、三軍さんぐんの衆しゅうをして一いち死し賊ぞくと為なし、其その前まえに当あたる莫なく、其その後うしろに随したがう莫なくして、能よく独ひとり出いで、独ひとり入いらしむに足たらん。独ひとり出いで、独ひとり入いる者ものは、王おう覇はの兵へいなり。
有提十萬之衆、而天下莫當者、誰。曰、桓公也。有提七萬之衆、而天下莫當者、誰。曰、呉起也。有提三萬之衆、而天下莫當者。誰。曰、武子也。
十じゅう万まんの衆しゅうを提ひっさげて天てん下か当あたる莫なき者もの有あり。誰たれぞや。曰いわく、桓公かんこうなり。七万しちまんの衆しゅうを提ひっさげて天てん下か当あたる莫なき者もの有あり。誰たれぞや。曰いわく、呉起ごきなり。三万さんまんの衆しゅうを提ひっさげて天てん下か当あたる莫なき者もの有あり。誰たれぞや。曰いわく、武子ぶしなり。
今天下諸國、士所率、無不及二十萬之衆。然不能濟功名者、不明乎禁舎開塞也。明其制、一人勝之、則十人亦以勝之也。十人勝之、則百千萬人亦以勝之也。
今いま、天てん下か諸国しょこく、士しの率ひきいる所ところ、二に十じゅう万まんの衆しゅうに及およばざる無なし。然しかれども功こう名みょうを済なすこと能あたわざる者ものは、禁舎きんしゃ開塞かいそくに明あきらかならざればなり。其その制せいを明あきらかにして一人いちにん之これに勝かたば、則すなわち十じゅう人にんにも亦また以もって之これに勝かたん。十じゅう人にん之これに勝かたば、則すなわち百ひゃく千せん万まん人にんにも亦また以もって之これに勝かたん。
二十萬之衆 … 底本では「二十萬之衆者」に作るが、『直解』に従い改めた。
故曰、便吾器用、養吾武勇、發之如鳥撃、如赴千仭之谿。
故ゆえに曰いわく、吾わが器き用ようを便べんにし、吾わが武ぶ勇ゆうを養やしない、之これを発はっすること、鳥とりの撃うつが如ごとく、千仭せんじんの谿たにに赴おもむくが如ごとし。
今國被患者、以重幣出聘、以愛子出質、以地界出割、得天下助卒、名爲十萬、其實不過數萬爾。其兵來者、無不謂其將、曰無爲人下、先戰。其實不可得而戰也。
今いま、国くにの、患わざわいを被こうむる者もの、重じゅう幣へいを以もって出いだし聘へいし、愛あい子しを以もって出いだし質ちとし、地ち界かいを以もって出いだし割さき、天てん下かの助卒じょそつを得えて、名なづけて十じゅう万まんと為なすも、其その実じつは数万すうまんに過すぎざるのみ。其その兵へいの来きたる者もの、其その将しょうに謂いいて、人ひとの下しもと為なること無なかれ、先まず戦たたかえ、と曰いわざるは無なし。其その実じつは得えて戦たたかう可べからざるなり。
量吾境内之民、無伍莫能正矣。經制十萬之衆、而王必能使之衣吾衣、食吾食、戰不勝、守不固者、非吾民之罪、内自致也。天下諸國助我戰、猶良驥騄駬之駛、彼駑馬鬐興角逐。何能紹吾氣哉。
吾わが境きょう内ないの民たみを量はかるに、伍ご無なければ、能よく正ただす莫なし。十じゅう万まんの衆しゅうを経制けいせいして、王おう必かならず能よく之これをして吾わが衣いを衣き、吾わが食しょくを食くらわしめて、戦たたかい勝かたず、守まもり固かたからざる者ものは、吾わが民たみの罪つみに非あらず、内うち自みずから致いたすなり。天てん下かの諸国しょこく、我われを助たすけて戦たたかうは、猶なお良りょう驥き騄ろく駬じの駛はやきに、彼かの駑馬どばの鬐き興こうして角逐かくちくするがごとし。何なんぞ能よく吾わが気きを紹つがんや。
吾用天下之用爲用、吾制天下之制爲制。修吾號令、明吾刑賞、使天下非農無所得食、非戰無所得爵、使民揚臂争出農戰、而天下無敵矣。
吾われ、天てん下かの用ようを用もちいて用ようと為なし、吾われ、天てん下かの制せいを制せいして制と為なす。吾わが号令ごうれいを修おさめ、吾わが刑けい賞しょうを明あきらかにし、天てん下かをして農のうに非あらずんば食しょくを得うる所ところ無なからしめ、戦たたかいに非あらずんば爵しゃくを得うる所ところ無なからしめ、民たみをして臂ひじを揚あげ争あらそい出いでて農戦のうせんせしめば、天てん下かに敵てき無なからん。
故曰、發號出令、信行國内。民言有可以勝敵者、毋許其空言、必試其能戰也。
故ゆえに曰いわく、号ごうを発はっし令れいを出いだして、信しん、国内こくないに行おこなわる、と。民たみ、以もって敵てきに勝かつ可べき有ありと言いう者ものは、其その空言くうげんを許ゆるすこと毋なく、必かならず其その能よく戦たたかうを試こころみよ。
視人之地而有之、分人之民而畜之、必能内有其賢者也。不能内有其賢、而欲有天下、必覆軍殺將。如此、雖戰勝而國益弱、得地而國益貧。由國中之制弊矣。
人ひとの地ちを視みて之これを有たもち、人ひとの民たみを分わかちて之これを畜やしなうは、必かならず能よく内うちに其その賢者けんじゃ有あればなり。内うちに其その賢けん有あること能あたわずして、天てん下かを有たもたんと欲ほっせば、必かならず軍ぐんを覆くつがえし将しょうを殺ころさん。此かくの如ごとくんば、戦たたかい勝かつと雖いえども国くに益〻ますます弱よわく、地ちを得うれども国くに益〻ますます貧まずし。国くに中じゅうの制せい弊やぶるるに由よりてなり。

#能年玲奈[超话]##のん##侬non[超话]##ins[超话]#
MVには、なんと又吉直樹さんに出演いただきました。又吉さんの佇まい、哀愁があり物悲しく切ない表情、ぜひMVで見て欲しいです。
私は、又吉さんの若い頃の役を演じました。

夢が傷むからは、又吉さんのエッセイ「東京百景」の"池尻大橋の小さな部屋"にインスパイアされて歌詞を書いた楽曲です。
あの二人に感じた幸せにフォーカスして、MVを撮影しました。
早く観てもらいたいなあ。

@matayoshi_staff

#のんPURSUE #夢が傷むから
#東京百景 #又吉直樹 さん
#フジテレビTWO


发布     👍 0 举报 写留言 🖊   
✋热门推荐
  • 在这之前我都是在幕后为成员们在舞台上发光发热,做着服装设计,我不认为我可以向我的前任那样成为一个接近粉丝的支配人。我没有机会像前任那样与粉丝朋友们亲密的交流,不
  • 她用苦肉计让两人关系破冰,面对爱人断指,也丝毫没有屈服,而是采用了示弱的方式。她用苦肉计让两人关系破冰,面对爱人断指,也丝毫没有屈服,而是采用了示弱的方式。
  • 曲阜路:教堂转过弯,路边两棵盛开的樱花(4月上旬)浙江路:这个月的角度是双樱与教堂,下个月在肥城路的角度就会变成紫色泡桐与教堂。金口二路那边也有不少(4月下旬)
  • OFF WHITE C/O VIRGIL 22SS 环保森林印花刺绣圆领卫衣22环保系列中的秋冬款 前胸整洁干净 只有一处小标语 后背也各不相同 都以经典标志性
  • 生死之本记住,贪瞋痴,贪心起来的时候马上能觉悟到,我又搞生死之本,我错了。❄️{小慈悲}“若干年后谈起父亲,老潘说他现在已然到了父亲当年的岁数,忽然就理解了一个
  • 白色的空茫大概可以引导我的思绪吧……被晚风吹得头有些疼,思绪也戛然而止。站在校园二楼的走廊上,课间时分,拥挤着,喧哗着,青春和欢颜点缀而来的成熟,就一枚枚橄榄枝
  • 我知道,我是为了生命在当下的体验而来。随缘,就是把身外事物对自己的影响,控制在合理的范围之内,人,要由自己的内在来主宰自己的生活。
  • 所以说,因戏生情很常见的,除非定力很足,否则,哪怕你有男(女)朋友,也克制不住悸动的心。#光与夜之恋萧逸[超话]#我都忘记了ㅠㅠ#光与夜之恋萧逸# ,#萧逸生日
  • NONONO,这对摩羯来说太草率了,摩羯座虽然心里装着一堆事不往外倒,但是却能够让你百分百感受到他们的诚恳和爱意,这也是为什么跟摩羯座在一起安全感十足的原因。很
  • 然后过了好久为了看之前的坑到底有没有更我就又去拉回来看,发现前坑没写,又开新坑[裂开] 纠结 就吃一口 吃了 真好吃[苦涩] 然后又没下文了(... 刚刚发现
  • 这一年,实建褚橙吸足了哀牢山的风,这一年,实建褚橙也晒够了云南的太阳,才足以用这抹清新的绿刮分秋意。花园最大的骨架植物是白色的木香花,它奠定了花园的主基调,围绕
  • 但是你天生不知道这些限制性的残疾只要来犯,每一次都是死战什么都没有变生去了它的反面带着绝对自由的速度和绝不吝惜生命的意志最后一击穿透到我们凡人过不去的对面。《没
  • 在家呆着好苦恼 懒得护肤洗完脸水乳都不擦也不长痘不拔干每天躺着吃水果喝奶茶吃零食也变瘦瘦了我爸每天都在变着花样给我做好吃的我妈每天都在给我打钱怕我没钱点奶茶她
  • 我没有多少团魂)⚠️我天雷“盆”这个称呼现充了很长一段时间啦 最近现生发生了很多也让我想了很多事情啦!⚠️ 然后超话还出现了缺德粉[允悲],这个团体很有意思,虽
  • 看半天找不到朴志晟拍的小彩虹在哪里以及路过一个看起来好好笑,负重磊磊的三轮还有被投喂的手抓饼,烤五花,蛋烘糕,鸭头,抹茶卷和老师太烦开始拆pb,自制的小卡并且被
  • 一个序幕,四个故事,不同风格,你不知道还有多少个本在等你,更加不知道还有怎样的回忆在前方等着与你相遇。当然,在不知道客户是民警的情况下,店家能提供帮助,证明店主
  • 贝得力可折叠儿童洗脸盆[小红花]8.8 推荐指数:[给你小心心][给你小心心][给你小心心][给你小心心][给你小心心] [给力]可折叠设计,瞬间折叠,置于小角
  • 托柚子的福❤️心想事成[害羞]事件②:我今晚心情十分不好,不好到想哭,结果结果!〔整理了一些高考前小本子上关于柚子的回忆——如图〕有些是别的博主画的,大概是我在
  • 而任何的造作都是痛苦,你可以想象一下,假如你真的达到了涅槃,意味着失去了任何可供参考和对照的东西,那么你目前这个充满着染污的心只会觉得涅槃是件无聊透顶的事。当修
  • 不仅是跪着,还朝着她步步膝行,是啊,迈向她的道路每一步都有他叛教的罪恶感折磨着他,还有他控制不住的欲望和嫉妒,每一步不都是膝行般的痛苦与艰难吗? 很多时间里,