#小越勇辉[超话]#
「THEATER GIRL」
小越勇輝×太田基裕インタビュー
『HUNTER×HUNTER』THE STAGE 2「劇中での二人の対話は大切なシーンになるはず」(後編)part3

欲しいスキルを考えた末の、意外な顛末「何とか生きていこう」
――クロロが持つ能力である“盗賊の極意(スキルハンター)”。これが使えるとしたら、どんなスキルを手に入れたいですか? 

太田:そんなのもう、欲しいもんだらけだよ、俺。いろんなものが欲しい。おごたんのスキルも貰おうか。

小越:僕のスキルは欲しくないでしょ、絶対(笑)。

太田:いや、欲しいよ! すぐフリとかセリフとかも覚えられるし。

小越:いや、覚えられないです、覚えられないです(笑)。

太田:欲しい! いや彼、すごくデキるんで、羨ましいです。欲しいスキルかぁ。欲しいものだらけですよ。

小越:それはそうですね。僕も。

太田:やっぱりそうだよね。みんなそうだ。

小越:僕、天才になりたいです。こう言うとバカっぽいけど(笑)。なんというか、何でもできる人になりたい。

太田:天才になりたーい!

――あはは!

小越:よく、いるじゃないですか。今言ってたのとは少し違うかもしれないですけど、小学校とか中学校くらいの時って、足が速い子がモテますよね。足が速い子って、天才肌が多いなと思うんですよ。運動ができる子って、ものごとの吸収が上手いのか、何でもできちゃう。

太田:そうね、コツをすぐに取り入れられるというか。

小越:そう。こういう現場にいても、「最近舞台に出始めました」という方が歌えるし、踊れるし、芝居もできちゃうし。何でも最初からそれなりにできちゃう人がけっこういるから、すごいなぁって思って。羨ましいです。だから、天才になりたい(笑)。あとはコミュ力も欲しいですね。明るい人っていいなって思います。

――では、太田さんは具体的にいかがでしょう。小越さんのスキルをもらってしまう、でよろしいですか?

太田:僕ですか? 同じくですよ、同じく。

――天才になりたい、と?

太田:天才には……、天才になりたくない人なんていないと思いますよ! 人間は、自分にないものが欲しくなるものなので。あーでも、そうなるともう、自分じゃなくなっちゃうのか。

小越:まぁ、たしかにそうですね。

太田:だから、やっぱりいいです! いらないです!(笑)

小越:そう、こういうことを考えるんですよね。「あれいいなぁ」「こうなりたいなぁ」って思っても、「そうしたら自分じゃなくなるのか」みたいな。一度戻って考えてしまう。

――あぁ、なるほど。

太田:ね。だからここ(小越さん&太田さん)は面倒臭い人たち(笑)。

小越:そう、面倒臭い人たちなんです(笑)。「じゃあ、その自分って何なんだろう?」とか考え始めちゃって。

太田:そうそう。で、どんどん(思考の沼に)ハマっていっちゃうんだよね(笑)。

――あはは。では、ありのままで勝負していこうかなという感じでしょうか。

太田:うーん。勝負って言っちゃうとちょっと気が重いので。何とか生きていこう、ですね(笑)。

――では最後に、本作を楽しみにされているみなさんへメッセージをお願いします。

小越:前回は探り探りやっていた中で、『HUNTER×HUNTER』THE STAGEというものができました。「これを届けよう」と稽古からみんなで積み重ねていって、実際に舞台の上に立ち、お客さんが入ってくださったことでひとつの完成を迎えて。公演中は毎日そうやって観に来てくださる方がいて、すごく助けられました。そのお陰で今作があると思うので、今回もまたできることの幸せさを胸に、新たにパワーアップした作品を届けていけたらと思っています。前作を観てくださった方も、今作が初めてという方も、原作ファンの方も、観るかどうか迷われている方も、ぜひ思い切り飛び込んできていただけたら嬉しいです。

太田:初めましての方もたくさんいらっしゃるので、いろいろ刺激をいただきながら、勉強しながら、この『HUNTER×HUNTER』という作品の中で生き生きと演じられるといいなと思っております。頑張ります!

人間椅子(二)
江戸川乱歩
最初は、ただただ、私の丹誠たんせいを籠こめた美しい椅子を、手離し度くない、出来ることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい、そんな単純な願いでした。それが、うつらうつらと妄想の翼を拡げて居ります内に、いつの間にやら、その日頃私の頭に醗酵はっこうして居りました、ある恐ろしい考えと、結びついて了ったのでございます。そして、私はまあ、何という気違いでございましょう。その奇怪極まる妄想を、実際に行おこなって見ようと思い立ったのでありました。
 私は大急ぎで、四つの内で一番よく出来たと思う肘掛椅子を、バラバラに毀こわしてしまいました。そして、改めて、それを、私の妙な計画を実行するに、都合のよい様に造り直しました。
 それは、極く大型のアームチェーアですから、掛ける部分は、床にすれすれまで皮で張りつめてありますし、其外、凭もたれも肘掛けも、非常に部厚に出来ていて、その内部には、人間一人が隠れていても、決して外から分らない程の、共通した、大きな空洞うつろがあるのです。無論、そこには、巌丈がんじょうな木の枠と、沢山なスプリングが取りつけてありますけれど、私はそれらに、適当な細工を施して、人間が掛ける部分に膝を入れ、凭れの中へ首と胴とを入れ、丁度椅子の形に坐れば、その中にしのんでいられる程の、余裕を作ったのでございます。
そうした細工は、お手のものですから、十分手際よく、便利に仕上げました。例えば、呼吸いきをしたり外部の物音を聞く為に皮の一部に、外からは少しも分らぬ様な隙間を拵こしらえたり、凭れの内部の、丁度頭のわきの所へ、小さな棚をつけて、何かを貯蔵出来る様にしたり、ここへ水筒と、軍隊用の堅かたパンとを詰め込みました。ある用途の為めに大きなゴムの袋を備えつけたり、その外ほか様々の考案を廻めぐらして、食料さえあれば、その中に、二日三日這入はいりつづけていても、決して不便を感じない様にしつらえました。謂いわば、その椅子が、人間一人の部屋になった訳でございます。
 私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入口の蓋ふたを開けて、椅子の中へ、すっぽりと、もぐりこみました。それは、実に変てこな気持でございました。まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入った様な、不思議な感じが致します。考えて見れば、墓場に相違ありません。私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ簑でも着た様に、この人間世界から、消滅して了う訳ですから。
 間もなく、商会から使つかいのものが、四脚の肘掛椅子を受取る為に、大きな荷車を持って、やって参りました。私の内弟子うちでしが(私はその男と、たった二人暮しだったのです)何も知らないで、使のものと応待して居ります。車に積み込む時、一人の人夫が「こいつは馬鹿に重いぞ」と怒鳴どなりましたので、椅子の中の私は、思わずハッとしましたが、一体、肘掛椅子そのものが、非常に重いのですから、別段あやしまれることもなく、やがて、ガタガタという、荷車の振動が、私の身体からだにまで、一種異様の感触を伝えて参りました。
非常に心配しましたけれど、結局、何事もなく、その日の午後には、もう私の這入った肘掛椅子は、ホテルの一室に、どっかりと、据えられて居りました。後で分ったのですが、それは、私室ではなくて、人を待合せたり、新聞を読んだり、煙草たばこをふかしたり、色々の人が頻繁ひんぱんに出入りする、ローンジとでもいう様な部屋でございました。
 もうとっくに、御気づきでございましょうが、私の、この奇妙な行いの第一の目的は、人のいない時を見すまして、椅子の中から抜け出し、ホテルの中をうろつき廻って、盗みを働くことでありました。椅子の中に人間が隠れていようなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことを、誰が想像致しましょう。私は、影の様に、自由自在に、部屋から部屋を、荒し廻ることが出来ます。そして、人々が、騒ぎ始める時分には、椅子の中の隠家かくれがへ逃げ帰って、息を潜ひそめて、彼等の間抜けな捜索を、見物していればよいのです。あなたは、海岸の波打際なみうちぎわなどに、「やどかり」という一種の蟹かにのいるのを御存じでございましょう。大きな蜘蛛くもの様な恰好をしていて、人がいないと、その辺を我物顔に、のさばり歩いていますが、一寸でも人の跫音あしおとがしますと、恐ろしい速さで、貝殻かいがらの中へ逃げ込みます。そして、気味の悪い、毛むくじゃらの前足を、少しばかり貝殻から覗かせて、敵の動静を伺って居ります。私は丁度あの「やどかり」でございました。貝殻の代りに、椅子という隠家を持ち、海岸ではなくて、ホテルの中を、我物顔に、のさばり歩くのでございます。
さて、この私の突飛とっぴな計画は、それが突飛であった丈け、人々の意表外に出いでて、見事に成功致しました。ホテルに着いて三日目には、もう、たんまりと一仕事済ませて居た程でございます。いざ盗みをするという時の、恐ろしくも、楽しい心持、うまく成功した時の、何とも形容し難がたい嬉しさ、それから、人々が私のすぐ鼻の先で、あっちへ逃げた、こっちへ逃げたと大騒ぎをやっているのを、じっと見ているおかしさ。それがまあ、どの様な不思議な魅力を持って、私を楽しませたことでございましょう。
 でも、私は今、残念ながら、それを詳しくお話している暇はありません。私はそこで、そんな盗みなどよりは、十倍も二十倍も、私を喜ばせた所の、奇怪極まる快楽を発見したのでございます。そして、それについて、告白することが、実は、この手紙の本当の目的なのでございます。
 お話を、前に戻して、私の椅子が、ホテルのローンジに置かれた時のことから、始めなければなりません。
 椅子が着くと、一ひとしきり、ホテルの主人達が、その坐り工合を見廻って行きましたが、あとは、ひっそりとして、物音一つ致しません。多分部屋には、誰もいないのでしょう。でも、到着匆々そうそう、椅子から出ることなど、迚とても恐ろしくて出来るものではありません。私は、非常に長い間(ただそんなに感じたのかも知れませんが)少しの物音も聞き洩もらすまいと、全神経を耳に集めて、じっとあたりの様子を伺って居りました。
 そうして、暫しばらくしますと、多分廊下の方からでしょう、コツコツと重苦しい跫音が響いて来ました。それが、二三間向うまで近付くと、部屋に敷かれた絨氈の為に、殆ほとんど聞きとれぬ程の低い音に代りましたが、間もなく、荒々しい男の鼻息が聞え、ハッと思う間に、西洋人らしい大きな身体が、私の膝の上に、ドサリと落ちてフカフカと二三度はずみました。私の太腿ふとももと、その男のガッシリした偉大な臀部でんぶとは、薄い鞣皮一枚を隔てて、暖味あたたかみを感じる程も密接しています。幅の広い彼の肩は、丁度私の胸の所へ凭れかかり、重い両手は、革を隔てて、私の手と重なり合っています。そして、男がシガーをくゆらしているのでしょう。男性的な、豊な薫かおりが、革の隙間を通して漾ただよって参ります。
奥様、仮にあなたが、私の位置にあるものとして、其場の様子を想像してごらんなさいませ。それは、まあ何という、不思議千万な情景でございましょう。私はもう、余りの恐ろしさに、椅子の中の暗闇で、堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、冷い汗をタラタラ流しながら、思考力もなにも失って了って、ただもう、ボンヤリしていたことでございます。
 その男を手始めに、その日一日、私の膝の上には、色々な人が入り替り立替り、腰を下しました。そして、誰も、私がそこにいることを――彼等が柔いクッションだと信じ切っているものが、実は私という人間の、血の通った太腿であるということを――少しも悟らなかったのでございます。
まっ暗で、身動きも出来ない革張りの中の天地。それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生きものとして感ぜられます。彼等は声と、鼻息と、跫音と、衣きぬずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊にくかいに過ぎないのでございます。私は、彼等の一人一人を、その容貌の代りに、肌触りによって識別することが出来ます。あるものは、デブデブと肥こえ太って、腐った肴さかなの様な感触を与えます。それとは正反対に、あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨がいこつのような感じが致します。その外、背骨せぼねの曲り方、肩胛骨けんこうこつの開き工合、腕の長さ、太腿の太さ、或は尾※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)骨びていこつの長短など、それらの凡ての点を綜合して見ますと、どんな似寄った背恰好の人でも、どこか違った所があります。人間というものは、容貌や指紋の外に、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することが出来るに相違ありません。
 異性についても、同じことが申されます。普通の場合は、主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものは、まるで問題外なのでございます。そこには、まる裸の肉体と、声音こわねと、匂においとがあるばかりでございます。
 奥様、余りにあからさまな私の記述に、どうか気を悪くしないで下さいまし、私はそこで、一人の女性の肉体に、(それは私の椅子に腰かけた最初の女性でありました。)烈しい愛着を覚えたのでございます。
 声によって想像すれば、それは、まだうら若い異国の乙女おとめでございました。丁度その時、部屋の中には誰もいなかったのですが、彼女は、何か嬉しいことでもあった様子で、小声で、不思議な歌を歌いながら、躍おどる様な足どりで、そこへ這入って参りました。そして、私のひそんでいる肘掛椅子の前まで来たかと思うと、いきなり、豊満な、それでいて、非常にしなやかな肉体を、私の上へ投げつけました。しかも、彼女は何がおかしいのか、突然アハアハ笑い出し、手足をバタバタさせて、網の中の魚の様に、ピチピチとはね廻るのでございます。
それから、殆ど半時間ばかりも、彼女は私の膝の上で、時々歌を歌いながら、その歌に調子を合せでもする様に、クネクネと、重い身体を動かして居りました。
 これは実に、私に取っては、まるで予期しなかった驚天動地きょうてんどうちの大事件でございました。女は神聖なもの、いや寧むしろ怖こわいものとして、顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。其その私が、今、身も知らぬ異国の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません、薄い鞣皮なめしがわ一重を隔てて肌のぬくみを感じる程も、密接しているのでございます。それにも拘かかわらず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委ゆだねて、見る人のない気安さに、勝手気儘きままな姿体を致して居ります。私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることも出来ます。皮のうしろから、その豊な首筋に接吻せっぷんすることも出来ます。その外、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。
この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に、惑溺わくできして了ったのでございます。私は考えました。これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、本当のすみかではないかと。私の様な醜い、そして気の弱い男は、明るい、光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥かしい、みじめな生活を続けて行く外に、能のない身体でございます。それが、一度ひとたび、住む世界を換えて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱しんぼうをしていさえすれば、明るい世界では、口を利くことは勿論、側へよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き肌に触れることも出来るのでございます。

 竹青(中)
――新曲聊斎志異――
太宰治
魚容は傷の苦しさに、もはや息も絶える思いで、見えぬ眼をわずかに開いて、
「竹青。」と小声で呼んだ、と思ったら、ふと眼が醒さめて、気がつくと自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で呉王廟の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前の楓かえでの林を照らして、そこには数百の烏が無心に唖々と鳴いて遊んでいる。
「気がつきましたか。」と農夫の身なりをした爺じじいが傍に立っていて笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」
「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に眼を醒まさない。肩をつかんでゆすぶっても、ぐたりとしている。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、眼の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色もよくないが、どこか病気か。」
「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっとも空すいていない。「すみませんでした。」とれいのあやまり癖が出て、坐り直して農夫に叮嚀ていねいにお辞儀をして、「お恥かしい話ですが、」と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。
 農夫は憐あわれに思った様子で、懐ふところから財布さいふを取出しいくらかの金を与え、
「人間万事塞翁さいおうの馬。元気を出して、再挙を図はかるさ。人生七十年、いろいろさまざまの事がある。人情は飜覆ほんぷくして洞庭湖の波瀾はらんに似たり。」と洒落しゃれた事を言って立ち去る。
 魚容はまだ夢の続きを見ているような気持で、呆然ぼうぜんと立って農夫を見送り、それから振りかえって楓の梢にむらがる烏を見上げ、
「竹青!」と叫んだ。一群の烏が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛びまわり、それからまっすぐに湖の方へいそいで行って、それっきり、何の変った事も無い。
 やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きい溜息ためいきをついて、力無く故土に向けて発足する。
 故郷の人たちは、魚容が帰って来ても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく伯父の家の庭石の運搬を魚容に命じ、魚容は汗だくになって河原から大いなる岩石をいくつも伯父の庭先まで押したり曳ひいたり担かついだりして運び、「貧して怨えん無きは難し」とつくづく嘆じ、「朝あしたに竹青の声を聞かば夕ゆうべに死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇はげしく懐慕せられるのである。
 伯夷叔斉はくいしゅくせいは旧悪を念おもわず、怨うらみ是これを用いて希まれなり。わが魚容君もまた、君子の道に志している高邁こうまいの書生であるから、不人情の親戚をも努めて憎まず、無学の老妻にも逆わず、ひたすら古書に親しみ、閑雅の清趣を養っていたが、それでも、さすがに身辺の者から受ける蔑視べっしには堪えかねる事があって、それから三年目の春、またもや女房をぶん殴って、いまに見ろ、と青雲の志を抱いだいて家出して試験に応じ、やっぱり見事に落第した。よっぽど出来ない人だったと見える。帰途、また思い出の洞庭湖畔、呉王廟に立ち寄って、見るものみな懐しく、悲しみもまた千倍して、おいおい声を放って廟前で泣き、それから懐中のわずかな金を全部はたいて羊肉を買い、それを廟前にばら撒まいて神烏に供して樹上から降りて肉を啄ついばむ群烏を眺めて、この中に竹青もいるのだろうなあ、と思っても、皆一様に真黒で、それこそ雌雄をさえ見わける事が出来ず、
「竹青はどれですか。」と尋ねても振りかえる烏は一羽も無く、みんなただ無心に肉を拾ってたべている。魚容はそれでも諦められず、
「この中に、竹青がいたら一番あとまで残っておいで。」と、千万の思慕の情をこめて言ってみた。そろそろ肉が無くなって、群烏は二羽立ち、五羽立ち、むらむらぱっと大部分飛び立ち、あとには三羽、まだ肉を捜して居残り、魚容はそれを見て胸をとどろかせ手に汗を握ったが、肉がもう全く無いと見てぱっと未練みれんげも無く、その三羽も飛び立つ。魚容は気抜けの余りくらくら眩暈めまいして、それでも尚なお、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞はるがすみに煙る湖面を眺めてただやたらに溜息をつき、「ええ、二度も続けて落第して、何の面目があっておめおめ故郷に帰られよう。生きて甲斐かいない身の上だ、むかし春秋戦国の世にかの屈原くつげんも衆人皆酔い、我独ひとり醒さめたり、と叫んでこの湖に身を投げて死んだとかいう話を聞いている、乃公おれもこの思い出なつかしい洞庭に身を投げて死ねば、或あるいは竹青がどこかで見ていて涙を流してくれるかも知れない、乃公を本当に愛してくれたのは、あの竹青だけだ、あとは皆、おそろしい我慾の鬼ばかりだった、人間万事塞翁の馬だと三年前にあのお爺じいさんが言ってはげましてくれたけれども、あれは嘘だ、不仕合せに生れついた者は、いつまで経たっても不仕合せのどん底であがいているばかりだ、これすなわち天命を知るという事か、あはは、死のう、竹青が泣いてくれたら、それでよい、他には何も望みは無い」と、古聖賢の道を究きわめた筈の魚容も失意の憂愁に堪えかね、今夜はこの湖で死ぬる覚悟。やがて夜になると、輪郭りんかくの滲にじんだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白く茫ぼうとして空と水の境が無く、岸の平沙へいさは昼のように明るく柳の枝は湖水の靄もやを含んで重く垂れ、遠くに見える桃畑の万朶ばんだの花は霰あられに似て、微風が時折、天地の溜息の如く通過し、いかにも静かな春の良夜、これがこの世の見おさめと思えば涙も袖そでにあまり、どこからともなく夜猿やえんの悲しそうな鳴声が聞えて来て、愁思まさに絶頂に達した時、背後にはたはたと翼の音がして、
「別来、恙つつが無きや。」
 振り向いて見ると、月光を浴びて明眸皓歯めいぼうこうし、二十はたちばかりの麗人がにっこり笑っている。
「どなたです、すみません。」とにかく、あやまった。
「いやよ、」と軽く魚容の肩を打ち、「竹青をお忘れになったの?」
「竹青!」
 魚容は仰天して立ち上り、それから少し躊躇ちゅうちょしたが、ええ、ままよ、といきなり美女の細い肩を掻き抱いた。
「離して。いきが、とまるわよ。」と竹青は笑いながら言って巧みに魚容の腕からのがれ、「あたしは、どこへも行かないわよ。もう、一生あなたのお傍に。」
「たのむ! そうしておくれ。お前がいないので、乃公は今夜この湖に身を投げて死んでしまうつもりだった。お前は、いったい、どこにいたのだ。」
「あたしは遠い漢陽に。あなたと別れてからここを立ち退き、いまは漢水の神烏になっているのです。さっき、この呉王廟にいる昔のお友達があなたのお見えになっている事を知らせにいらして下さったので、あたしは、漢陽からいそいで飛んで来たのです。あなたの好きな竹青が、ちゃんとこうして来たのですから、もう、死ぬなんておそろしい事をお考えになっては、いやよ。ちょっと、あなたも痩せたわねえ。」
「痩せる筈さ。二度も続けて落第しちゃったんだ。故郷に帰れば、またどんな目に遭うかわからない。つくづくこの世が、いやになった。」
「あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。人間到いたるところに青山せいざんがあるとか書生さんたちがよく歌っているじゃありませんか。いちど、あたしと一緒に漢陽の家へいらっしゃい。生きているのも、いい事だと、きっとお思いになりますから。」
「漢陽は、遠いなあ。」いずれが誘うともなく二人ならんで廟びょうの廊下から出て月下の湖畔を逍遥しょうようしながら、「父母在いませば遠く遊ばず、遊ぶに必ず方有り、というからねえ。」魚容は、もっともらしい顔をして、れいの如くその学徳の片鱗へんりんを示した。
「何をおっしゃるの。あなたには、お父さんもお母さんも無いくせに。」
「なんだ、知っているのか。しかし、故郷には父母同様の親戚の者たちが多勢いる。乃公は何とかして、あの人たちに、乃公の立派に出世した姿をいちど見せてやりたい。あの人たちは昔から乃公をまるで阿呆か何かみたいに思っているのだ。そうだ、漢陽へ行くよりは、これからお前と一緒に故郷に帰り、お前のその綺麗きれいな顔をみんなに見せて、おどろかしてやりたい。ね、そうしようよ。乃公は、故郷の親戚の者たちの前で、いちど、思いきり、大いに威張ってみたいのだ。故郷の者たちに尊敬されるという事は、人間の最高の幸福で、また終極の勝利だ。」
「どうしてそんなに故郷の人たちの思惑ばかり気にするのでしょう。むやみに故郷の人たちの尊敬を得たくて努めている人を、郷原きょうげんというんじゃなかったかしら。郷原は徳の賊なりと論語に書いてあったわね。」
 魚容は、ぎゃふんとまいって、やぶれかぶれになり、
「よし、行こう。漢陽に行こう。連れて行ってくれ。逝者ゆくものは斯かくの如き夫かな、昼夜を舎すてず。」てれ隠しに、甚はなはだ唐突な詩句を誦しょうして、あははは、と自らを嘲あざけった。
「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと仕度がしてあります。ちょっと、眼をつぶって。」
 魚容は言われるままに眼を軽くつぶると、はたはたと翼の音がして、それから何か自分の肩に薄い衣のようなものがかかったと思うと、すっとからだが軽くなり、眼をひらいたら、すでに二人は雌雄の烏、月光を受けて漆黒しっこくの翼は美しく輝き、ちょんちょん平沙を歩いて、唖々と二羽、声をそろえて叫んで、ぱっと飛び立つ。
 月下白光三千里の長江ちょうこう、洋々と東北方に流れて、魚容は酔えるが如く、流れにしたがっておよそ二ときばかり飛翔して、ようよう夜も明けはなれて遥はるか前方に水の都、漢陽の家々の甍いらかが朝靄あさもやの底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。近づくにつれて、晴川せいせん歴々たり漢陽の樹、芳草萋々せいせいたり鸚鵡おうむの洲、対岸には黄鶴楼の聳そびえるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山だいべつざんの高峰眼下にあり、麓ふもとには水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水蜿蜒えんえんと天際に流れ、東洋のヴェニス一眸ぼうの中に収り、「わが郷関きょうかん何いずれの処ぞ是これなる、煙波江上、人をして愁えしむ」と魚容は、うっとり呟いた時、竹青は振りかえって、


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