足利尊氏の生い立ち
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。
1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。
そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。
これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。
1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。
しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。
そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。
これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。
幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。
こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。
ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。
南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。
この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。
ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。
主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。
1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。
そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。
これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。
1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。
しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。
そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。
これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。
幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。
こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。
ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。
南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。
この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。
ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。
主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。
【被害状況 2月1日】石川県で240人死亡
2024年2月1日 17時51分
石川県によりますと、県内で死亡が確認された人の数は1日午後2時の時点で、1月31日から2人増えて、240人となっています。
市町ごとにみますと
▽輪島市で2人増えて103人
▽珠洲市で101人
▽穴水町で20人
▽能登町で8人
▽七尾市で5人
▽志賀町で2人
▽羽咋市で1人となっています。
このうち、「災害関連死」の疑いは
▽珠洲市で6人
▽能登町で6人
▽輪島市で3人の
合わせて15人となっています。
内閣府によりますと、「災害関連死」は地震の揺れや津波などによる直接的な被害で亡くなるのではなく、その後の避難生活などで病気が悪化したり体調を崩したりして、命が失われるケースを言います。
また、重軽傷者は県内全体で1179人にのぼっています。
【避難】
石川県によりますと、避難所に避難している人は、1日午後2時の時点で522か所で合わせて1万4431人となっています。
自治体別にみると、
▽金沢市が3か所で14人
▽七尾市が36か所で1138人
▽輪島市が87か所で2745人
▽珠洲市が44か所で1483人
▽羽咋市が1か所で42人
▽かほく市が1か所で20人
▽津幡町が1か所で15人
▽内灘町が2か所で79人
▽志賀町が29か所で824人
▽宝達志水町が1か所で2人
▽中能登町が1か所で22人
▽穴水町が30か所で911人
▽能登町が49か所で937人となっています。
また、別の市や町から避難して来る人を受け入れる、17か所の「広域避難所」などに避難している人は合わせて967人です。
被災者を一時的に受け入れる「1.5次避難所」に避難している人は3か所で合わせて288人です。
このほか旅館やホテルなどの「2次避難所」に避難している人は217か所で合わせて4944人です。
【住宅被害】
石川県によりますと、1日午後2時現在で、県内では能登地方を中心に4万7915棟の住宅で被害が確認されました。
自治体別の内訳は、
▽金沢市で全壊、半壊、一部破損が合わせて4074棟
▽七尾市で全壊、半壊、一部破損が合わせて1万1465棟
▽小松市で、全壊が1棟、半壊が40棟、一部破損が1601棟
▽輪島市で、全壊、半壊、一部破損が合わせて2141棟
▽珠洲市で、全壊が2316棟、半壊が1221棟、一部破損が1691棟です。
また、
▽加賀市で全壊が7棟、半壊が18棟、一部破損が1154棟
▽羽咋市で全壊、半壊、一部破損が合わせて2000棟
▽かほく市で全壊、半壊、一部破損が合わせて1118棟
▽白山市で一部破損が193棟
▽能美市で全壊が1棟、半壊が8棟、一部破損が817棟
▽野々市市で一部破損が20棟
▽川北町で一部破損が12棟
▽津幡町で全壊、半壊、一部破損が合わせて1300棟
▽内灘町で全壊、半壊、一部破損が合わせて1431棟
▽志賀町で全壊、半壊、一部破損が合わせて4749棟、床上浸水が6棟、床下浸水が5棟
▽宝達志水町で全壊、半壊、一部破損が合わせて853棟
▽中能登町で全壊、半壊、一部破損が合わせて2225棟
▽穴水町で全壊、半壊、一部破損が合わせて2448棟
▽能登町で、全壊、半壊、一部破損が合わせて5000棟となっています。
【停電】
北陸電力送配電によりますと、石川県の能登地方では午後5時の時点で、およそ2400戸が停電しています。
自治体別では
▽輪島市でおよそ1500戸
▽珠洲市でおよそ740戸
▽能登町でおよそ70戸
▽穴水町でおよそ40戸
▽七尾市と▽志賀町でそれぞれおよそ10戸となっています。
北陸電力送配電などは、土砂崩れなどで立ち入りが困難な場所や、建物に甚大な被害を受けるなど早期の復旧が見通せない一部の地域を除いて、停電はおおむね解消しているとしています。
輪島市や珠洲市でもおよそ9割の世帯に電気が届いているということで、現在、停電しているエリアについても道路などのアクセス改善に応じて着実に復旧を進めるとしています。
【断水】
石川県によりますと、1日午後2時の時点で、8つの市と町の合わせておよそ4万490戸で断水が続いているということです。
このうち、ほぼ全域で断水となっているのは
▽輪島市のおよそ1万戸
▽珠洲市のおよそ4800戸です。
また、
▽穴水町のおよそ2000戸
▽能登町のおよそ5000戸
▽七尾市のおよそ1万4200戸
▽志賀町のおよそ3800戸
▽羽咋市のおよそ60戸
▽内灘町のおよそ630戸で断水しています。
県は6つの市と町の水道の復旧時期の見通しを明らかにしていて
このうち
▽輪島市、▽穴水町、▽能登町では
いずれも今月末から来月末に仮復旧の見込みです。
▽珠洲市では今月末から順次、仮復旧する予定で、遅い地域では4月以降となる見込みです。
さらに
▽七尾市では、七尾市街、和倉地区、能登島地区を中心に4月以降となる見込みで、そのほかの地域では来月末までに仮復旧する見込みです。
▽志賀町ではおおむね今月末までに仮復旧し、一部で来月末となる見込みです。
県はこれらの6つの市と町ではおおむね、被災した浄水場の機能回復を終えて、水を流して漏水調査や修繕を行う作業に入っているとしていて、1日も早い復旧を目指すことにしています。
2024年2月1日 17時51分
石川県によりますと、県内で死亡が確認された人の数は1日午後2時の時点で、1月31日から2人増えて、240人となっています。
市町ごとにみますと
▽輪島市で2人増えて103人
▽珠洲市で101人
▽穴水町で20人
▽能登町で8人
▽七尾市で5人
▽志賀町で2人
▽羽咋市で1人となっています。
このうち、「災害関連死」の疑いは
▽珠洲市で6人
▽能登町で6人
▽輪島市で3人の
合わせて15人となっています。
内閣府によりますと、「災害関連死」は地震の揺れや津波などによる直接的な被害で亡くなるのではなく、その後の避難生活などで病気が悪化したり体調を崩したりして、命が失われるケースを言います。
また、重軽傷者は県内全体で1179人にのぼっています。
【避難】
石川県によりますと、避難所に避難している人は、1日午後2時の時点で522か所で合わせて1万4431人となっています。
自治体別にみると、
▽金沢市が3か所で14人
▽七尾市が36か所で1138人
▽輪島市が87か所で2745人
▽珠洲市が44か所で1483人
▽羽咋市が1か所で42人
▽かほく市が1か所で20人
▽津幡町が1か所で15人
▽内灘町が2か所で79人
▽志賀町が29か所で824人
▽宝達志水町が1か所で2人
▽中能登町が1か所で22人
▽穴水町が30か所で911人
▽能登町が49か所で937人となっています。
また、別の市や町から避難して来る人を受け入れる、17か所の「広域避難所」などに避難している人は合わせて967人です。
被災者を一時的に受け入れる「1.5次避難所」に避難している人は3か所で合わせて288人です。
このほか旅館やホテルなどの「2次避難所」に避難している人は217か所で合わせて4944人です。
【住宅被害】
石川県によりますと、1日午後2時現在で、県内では能登地方を中心に4万7915棟の住宅で被害が確認されました。
自治体別の内訳は、
▽金沢市で全壊、半壊、一部破損が合わせて4074棟
▽七尾市で全壊、半壊、一部破損が合わせて1万1465棟
▽小松市で、全壊が1棟、半壊が40棟、一部破損が1601棟
▽輪島市で、全壊、半壊、一部破損が合わせて2141棟
▽珠洲市で、全壊が2316棟、半壊が1221棟、一部破損が1691棟です。
また、
▽加賀市で全壊が7棟、半壊が18棟、一部破損が1154棟
▽羽咋市で全壊、半壊、一部破損が合わせて2000棟
▽かほく市で全壊、半壊、一部破損が合わせて1118棟
▽白山市で一部破損が193棟
▽能美市で全壊が1棟、半壊が8棟、一部破損が817棟
▽野々市市で一部破損が20棟
▽川北町で一部破損が12棟
▽津幡町で全壊、半壊、一部破損が合わせて1300棟
▽内灘町で全壊、半壊、一部破損が合わせて1431棟
▽志賀町で全壊、半壊、一部破損が合わせて4749棟、床上浸水が6棟、床下浸水が5棟
▽宝達志水町で全壊、半壊、一部破損が合わせて853棟
▽中能登町で全壊、半壊、一部破損が合わせて2225棟
▽穴水町で全壊、半壊、一部破損が合わせて2448棟
▽能登町で、全壊、半壊、一部破損が合わせて5000棟となっています。
【停電】
北陸電力送配電によりますと、石川県の能登地方では午後5時の時点で、およそ2400戸が停電しています。
自治体別では
▽輪島市でおよそ1500戸
▽珠洲市でおよそ740戸
▽能登町でおよそ70戸
▽穴水町でおよそ40戸
▽七尾市と▽志賀町でそれぞれおよそ10戸となっています。
北陸電力送配電などは、土砂崩れなどで立ち入りが困難な場所や、建物に甚大な被害を受けるなど早期の復旧が見通せない一部の地域を除いて、停電はおおむね解消しているとしています。
輪島市や珠洲市でもおよそ9割の世帯に電気が届いているということで、現在、停電しているエリアについても道路などのアクセス改善に応じて着実に復旧を進めるとしています。
【断水】
石川県によりますと、1日午後2時の時点で、8つの市と町の合わせておよそ4万490戸で断水が続いているということです。
このうち、ほぼ全域で断水となっているのは
▽輪島市のおよそ1万戸
▽珠洲市のおよそ4800戸です。
また、
▽穴水町のおよそ2000戸
▽能登町のおよそ5000戸
▽七尾市のおよそ1万4200戸
▽志賀町のおよそ3800戸
▽羽咋市のおよそ60戸
▽内灘町のおよそ630戸で断水しています。
県は6つの市と町の水道の復旧時期の見通しを明らかにしていて
このうち
▽輪島市、▽穴水町、▽能登町では
いずれも今月末から来月末に仮復旧の見込みです。
▽珠洲市では今月末から順次、仮復旧する予定で、遅い地域では4月以降となる見込みです。
さらに
▽七尾市では、七尾市街、和倉地区、能登島地区を中心に4月以降となる見込みで、そのほかの地域では来月末までに仮復旧する見込みです。
▽志賀町ではおおむね今月末までに仮復旧し、一部で来月末となる見込みです。
県はこれらの6つの市と町ではおおむね、被災した浄水場の機能回復を終えて、水を流して漏水調査や修繕を行う作業に入っているとしていて、1日も早い復旧を目指すことにしています。
輪島 朝市通り火災は1か所から拡大した 重なった想定外と誤算
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
✋热门推荐