能登半島地震後 震源域から離れた金沢などでも地震活動活発に
2024年2月1日 18時10分
石川県で震度7の激しい揺れを観測した先月1日の大地震のあと、能登半島の周辺では震源域から離れた金沢市や富山湾でも地震活動が活発になっていることが専門家の分析で分かりました。震源域周辺だけでなく、広い範囲で地震の揺れや津波に注意が必要だと呼びかけています。
地震のメカニズムに詳しい東北大学の遠田晋次教授は、先月1日の能登半島地震の前後で体に揺れを感じない地震も含めて地震活動がどのように変化したか分析しました。
一日当たりの発生回数を地震前のおよそ2年間と比べたところ
▽震源に近い能登半島と震源の西側の沖合で100倍以上
▽震源の東側の新潟県佐渡島で数倍に増えていました。
さらに、震源域から離れた富山湾で数十倍、金沢市や富山市でもおよそ10倍となっています。
遠田教授は大地震で断層がおよそ100キロ以上ずれ動いたことで周辺にもひずみが加わり、地震活動が活発になったとみられるとしています。
大地震によるひずみが広範囲に及んでいることから、震源域の周辺以外でも以前より地震が起きる可能性が高くなっていると考えられるとして注意を呼びかけています。
遠田教授は「小さな地震がたくさん起こっている時には規模の大きな地震も起こりやすくなる。体に感じないような地震が活発化している、震源から離れた地域も含めて注意が必要だ。強い揺れに加えて、震源が海域の場合は津波が発生するおそれもあり、改めて備えを確認してほしい」と話しています。
2024年2月1日 18時10分
石川県で震度7の激しい揺れを観測した先月1日の大地震のあと、能登半島の周辺では震源域から離れた金沢市や富山湾でも地震活動が活発になっていることが専門家の分析で分かりました。震源域周辺だけでなく、広い範囲で地震の揺れや津波に注意が必要だと呼びかけています。
地震のメカニズムに詳しい東北大学の遠田晋次教授は、先月1日の能登半島地震の前後で体に揺れを感じない地震も含めて地震活動がどのように変化したか分析しました。
一日当たりの発生回数を地震前のおよそ2年間と比べたところ
▽震源に近い能登半島と震源の西側の沖合で100倍以上
▽震源の東側の新潟県佐渡島で数倍に増えていました。
さらに、震源域から離れた富山湾で数十倍、金沢市や富山市でもおよそ10倍となっています。
遠田教授は大地震で断層がおよそ100キロ以上ずれ動いたことで周辺にもひずみが加わり、地震活動が活発になったとみられるとしています。
大地震によるひずみが広範囲に及んでいることから、震源域の周辺以外でも以前より地震が起きる可能性が高くなっていると考えられるとして注意を呼びかけています。
遠田教授は「小さな地震がたくさん起こっている時には規模の大きな地震も起こりやすくなる。体に感じないような地震が活発化している、震源から離れた地域も含めて注意が必要だ。強い揺れに加えて、震源が海域の場合は津波が発生するおそれもあり、改めて備えを確認してほしい」と話しています。
輪島 朝市通り火災は1か所から拡大した 重なった想定外と誤算
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
ヴェルサイユ宮殿
概要
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していた。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。宮殿はルイ14世をはじめとした王族と、貴族たちが国政を議論する場であり、時には社交場でもあった。その結果様々なルール・エチケット・マナーが生まれた。それの中に今につながるものもあるという。
建築
宮殿のファサードは400メートルもあり、左右対称の構成としている。正面玄関は東面のU字型に凹んだ位置にあり、大通りがパリの方向にのびている。西側は庭園に面している。
儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
噴水庭園
「水なき地に水を引く」
ヴェルサイユには近くに水を引く高地が無い。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水無き地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。
「貴族を従わせる」
ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。
「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナ(レートー)が村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。
「民衆の心をつかむ」
ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻をみよ。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。夏、ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレエや舞劇に酔いしれた。
噴水庭園は、遠近法を用いて修景され、宮殿からラトナの泉、タピスヴェール(Tapis Vert、緑の絨毯)に沿って、アポロの戦車の盆地へと続いている。水面から昇る戦車は、太陽の昇りを象徴した。シャルル・ルブランが設計し、1668年から1670年の間に彫刻家ジャン=バティスト・テュビ(英語版)が王立ゴブラン製作所(英語版)で製作したもので、鉛で鋳造された後に金メッキが施されている。噴水の向こうには、大運河(Grand Canal, グランド・カナール)が公園の南端まで1800メートル伸びている。
オランジュリー庭園
アンドレ・ル・ノートルの設計に基づいて、ルイ14世の依頼でジュール・アルデゥアン=マンサールが建築したその温室は、絶対君主の威光を示すために金に糸目をつけない壮大なスケールで構想された。
言い伝えによれば、ヴェルサイユ宮殿の木々の中の1本は、宮殿が建設される200年近く前にナヴァール王妃からアンヌ・ド・ブルターニュに送られた接ぎ穂から育てられたものだという。この木はグラン・ブルボンと呼ばれ、1894年に枯れるまで花を咲かせ、果実を実らせた。現在も冬になるとこのオレンジ栽培温室に千本以上の木々が収容される。木々は四隅にちょうつがいのついた伝統的なヴェルサイユ式のプランターに植えられる。5月から10月の間はプランターが温室前の花壇に並べられる。
概要
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していた。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。宮殿はルイ14世をはじめとした王族と、貴族たちが国政を議論する場であり、時には社交場でもあった。その結果様々なルール・エチケット・マナーが生まれた。それの中に今につながるものもあるという。
建築
宮殿のファサードは400メートルもあり、左右対称の構成としている。正面玄関は東面のU字型に凹んだ位置にあり、大通りがパリの方向にのびている。西側は庭園に面している。
儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
噴水庭園
「水なき地に水を引く」
ヴェルサイユには近くに水を引く高地が無い。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水無き地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。
「貴族を従わせる」
ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。
「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナ(レートー)が村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。
「民衆の心をつかむ」
ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻をみよ。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。夏、ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレエや舞劇に酔いしれた。
噴水庭園は、遠近法を用いて修景され、宮殿からラトナの泉、タピスヴェール(Tapis Vert、緑の絨毯)に沿って、アポロの戦車の盆地へと続いている。水面から昇る戦車は、太陽の昇りを象徴した。シャルル・ルブランが設計し、1668年から1670年の間に彫刻家ジャン=バティスト・テュビ(英語版)が王立ゴブラン製作所(英語版)で製作したもので、鉛で鋳造された後に金メッキが施されている。噴水の向こうには、大運河(Grand Canal, グランド・カナール)が公園の南端まで1800メートル伸びている。
オランジュリー庭園
アンドレ・ル・ノートルの設計に基づいて、ルイ14世の依頼でジュール・アルデゥアン=マンサールが建築したその温室は、絶対君主の威光を示すために金に糸目をつけない壮大なスケールで構想された。
言い伝えによれば、ヴェルサイユ宮殿の木々の中の1本は、宮殿が建設される200年近く前にナヴァール王妃からアンヌ・ド・ブルターニュに送られた接ぎ穂から育てられたものだという。この木はグラン・ブルボンと呼ばれ、1894年に枯れるまで花を咲かせ、果実を実らせた。現在も冬になるとこのオレンジ栽培温室に千本以上の木々が収容される。木々は四隅にちょうつがいのついた伝統的なヴェルサイユ式のプランターに植えられる。5月から10月の間はプランターが温室前の花壇に並べられる。
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