鄱陽湖の戦い

戦いの背景
1355年、それまで盗賊とさほど変わらなかった朱元璋の軍は、南下して長江を越えて元朝支配の太平(現在の当塗県)を奪い、次いで1356年に集慶(現在の南京市)を落として応天府と改名し、ようやく根拠地を得ていた。ところが1360年、江州(現在の九江市)を根拠地として力を付けていた陳友諒に、太平を奪われてしまう。陳友諒はさらに応天府にまで攻め込むが、朱元璋の奇計により敗北する。これにより、これまで優勢であった陳友諒と朱元璋の立場が逆転した。 1361年には陳友諒は安慶、江州、南昌という拠点を奪われ、武昌(現在の武漢市)にまで撤退を余儀なくされる。

戦いの始まり
朱元璋が南東から攻めてきた張士誠への応戦のために留守をしていた 1363年、陳友諒は形勢逆転を狙って、巨艦数百艘、兵員60万と号する大船団を南昌に向ける。巨艦は「丹漆」により赤く塗られていたという。南昌を守る朱文正と鄧愈は火力を駆使し、85日間これを守った。この間に朱元璋は応天府に戻り、白色に塗られた船団と兵員20万を動員して決戦に向かった。陳友諒も南昌を囲む不利を悟って鄱陽湖に軍を移動し、両者は衝突した。

戦いの推移
陳友諒の船団は、巨艦を集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。一方、朱元璋の船団は、小型船が中心であり、火力を重視していた。さらには、朱元璋は決戦の4日前、ひそかに伏兵を湖口に伏せていた。朱元璋の軍は小型船が多く、陳友諒の巨艦に恐れをなして戦いは不利であり、陳友諒の配下の勇将張定辺が一時朱元璋の旗艦に肉薄するほどの苦戦となった。しかし陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、兪通海率いる火砲船団が鈍重な陳友諒の船舶を次々を火だるまに変えていき、戦いの主導権は徐々に移りつつあった。戦いの3日目、にわかに東北の風が吹くと、朱元璋は決死隊による火船七艘を陳友諒に突っ込ませたため、折からの強風により密集した巨艦は炎上し「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図と化した。陳友諒軍は斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北を喫することとなった。さらに陳友諒の弟で勇略を謳われた陳友仁が死亡したことで、士気は激しく低下した。陳友諒は逃亡を図るも、朱元璋が湖口の地を伏兵でふさいでいたため、数日の睨み合いとなった。兵站線を断たれたため、陳友諒軍からは寝返りが相次いだという。結局、陳友諒は湖口の突破を試みるが、矢に当たって戦死した。

戦いの結果
陳友諒軍の一部は武昌に戻るが、大将を失った穴は大きく、結局、息子の陳理が1364年に朱元璋に降伏した。一方、朱元璋側も、7千人余りの兵を失ったという。この結果、朱元璋の主要な敵は張士誠と、元朝政府を残すのみとなった。

中沢琴
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。

兄と共に「浪士隊」に参加

中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。

この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。

「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。

新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。

また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。

薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。

中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。

「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。

時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。

しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。

この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。

「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。

中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。

昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。

生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。

新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。

明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。

「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」

求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。

彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。

義姫
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義姫
刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 歴女必見!戦国武将を支えた女剣士 義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。
子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か
足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。

その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。

その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。

伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生
義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。

1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。

義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。

結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。

伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛
義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。

伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。
伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。

まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。

戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。

同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。

義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か
伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。

一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。

しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。

最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。

次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。

そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。

この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。
戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫
一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。

1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。
そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。
そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。

当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。

義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。

そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。

ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。
謎多き、義姫の心模様
義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。

実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。

1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。

義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。

伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。

ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。

なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。
そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。

義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。


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