白居易
名の「居易」は、『礼記』「中庸」の「君子居易以俟命、小人行険而僥倖」(君子は安全な所にいて運が巡ってくるのを待ち、小人は冒険をして幸いを求めるという意)」に由来する。字は楽天。「楽天」は、『易』「繋辞伝」上の「楽天知命、故不憂」(天の法則を楽しみ運命をわきまえる。だから憂えることがないという意)に由来する。号は酔吟先生・香山居士。
生涯
大暦7年(772年)、父の白季庚と母の陳氏のあいだ鄭州新鄭県に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰で、5-6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。十代から二十歳代の世に出る前までは、父の任地である衢州・襄州等に移る時もあるが、多くは符離で暮らしていた。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、貞元16年(800年)、29歳で科挙の科目で礼部主催の進士科に試験官高郢のもとで合格した。貞元18年(802年)に、百条の判の模擬問題とそれに対する模範解答を作成して試験対策を行い、貞元19年(803年)に史部が主催する試験、書判抜萃科に合格。ここで初めての任官、秘書省校書郎についた。元和元年(806年)、受験準備のため校書郎をやめて、元稹と華陽観に住む。この時、天子の下問を想定して、治政の要諦・時事への対策等を研究し、「策林」75編(内容は、天子の心構え・経済政策・人材の登用法・臣下の掌握法・官吏の俸禄・官署の経費・軍の統轄・異民族及び辺境対策・刑と法の運用・学問・礼楽・祭祀・諫言ことなど諸般に及び、白居易の思想と官僚としての信念を知ることができる)を制作した。これは、当時の具体的な施策をも含んでおり、史料としても重要な価値を持っている。このような努力が実り、制科に35歳で合格し京兆府の盩厔(ちゅうちつ)県尉になった。同年の冬、七言古詩120句の長編歌行「長恨歌」を作る。その後は、元和2年(807年)11月5日に翰林学士、元和3年(808年)四月末に左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
元和5年(810年)五月翰林学士のまま、京兆府戸曹参軍に赴任。しかし元和6年(811年)、母の陳氏が亡くなり喪に服さなければならなかったため官を辞す。白居易は母を深く敬愛し、「襄州別駕白府君事状」にて「こうして十数年、子供たちはみな学問によって仕官し、官位は高位高官に到った。これは疑いなく、婦人の慈愛と訓導が導いた結果である。娘としてこれほどに孝行、嫁としてこれほどに順良、母としてこれほどに慈愛」と讃えた。そこから三年間は無位無冠の暮らしを送る。
元和9年(814年)に朝廷のある長安に戻り、太子左賛善太夫という職が与えられた。
元和10年(815年)、武元衡暗殺をめぐり、上書(暗殺者を捕まえるだけではなく、その暗殺者を裏で操っている存在を明らかにすべきだという内容)を送ったことが越権行為とみなされ左遷され、この年の冬江州司馬となる。多くの閑適詩が生まれたのはこの時期である。
長慶元年(821年)になり、中書舎人に転任することによって中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、長慶2年(822年)に杭州・蘇州の刺史となり、行政官として治水を進めるなどして業績をあげる。長慶4年(824年)五月、名誉職太子左庶子東都に任命される。宝暦元年(825年)三月四日に蘇州刺史に任命される。このとき、毎日の事務処理の他に、蘇州から郊外の虎丘に行く、武丘路を開通させるという大きな仕事を成し遂げた。しかし、病により半年で官をやめ洛陽に戻る。その後、秘書監になって長安に移る。
大和2年(828年)二月には、刑部侍郎に昇任するも辞し、太子賓客分司東都、洛陽を中心とする河南府の長官河南尹を歴任したのち、太子賓客分司東都を再任、大和9年(835年)太子少博分司東都に就く。最後は会昌2年(842年)に刑部尚書の官をもって「官人は70歳を持って致任すべきだ」という持論に従い71歳で退官。会昌5年(845年)、74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、会昌6年(846年)、洛陽履道里の邸宅にて、75歳で生涯を閉じる。
詩風
白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷諭詩」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷諭詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。白氏文集に収められる諷諭詩については、「元九に与ふる書」中において、彼自身によってその意義が明言されている。そこでは、『詩経』を根元とする「詩道」が衰えていく中で、諫官たる左拾遺の職を授かって諫言を啓奏する立場に就いたとき、直接指摘して延べにくい事を『詩経』の精神に則って詠歌したことを語り、しかしそれらの詩が人々の誹謗を受けたことなどを顧みている。さらに、自身の詩を「諷諭」「閑適」「感傷」「雑詩」の四つに分類し、「諷諭詩」を「兼済(己の能力を発揮する道が開けているとき、そのような状況や立場にある時には広く手天下を救済することに努めるべきであるとすること)の志」に基づいて作ったもの、「閑適詩」を「独善(自分が世に容れられないときには名利に恬淡として自身を良く修めることに努めるべきであるとすること)の義」を詠んだものであると明示した上で、自分の詩作品の中で「諷諭詩」を最も重要なもの、それに次いで意義のあるものが「閑適詩」であると述べ、「感傷」「雑詩」と区別している。「感傷詩」の代表作は「長恨歌」「琵琶行」。他にも、無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩も名高い。
彼の「閑適詩」は日本において、理想の生活として愛され、様々な文学に引用された。一方、彼自身が一番重要とした「諷諭詩」もまた、菅原道真や紫式部をはじめとする平安時代の知識人に重く受けとめられた。いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。また、白居易の詩風に関して渡辺秀夫氏は、「四季折々に循環する風物に取材しながらその推移しゆく季節のなかに直進して再帰しえない時間をみて、ひるがえって我が身の人生の老いやすさを詠嘆する作例がきわめて多く、これが白詩の抒情様式の一大水脈をなしているといっても過言ではない」と述べている。
名の「居易」は、『礼記』「中庸」の「君子居易以俟命、小人行険而僥倖」(君子は安全な所にいて運が巡ってくるのを待ち、小人は冒険をして幸いを求めるという意)」に由来する。字は楽天。「楽天」は、『易』「繋辞伝」上の「楽天知命、故不憂」(天の法則を楽しみ運命をわきまえる。だから憂えることがないという意)に由来する。号は酔吟先生・香山居士。
生涯
大暦7年(772年)、父の白季庚と母の陳氏のあいだ鄭州新鄭県に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰で、5-6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。十代から二十歳代の世に出る前までは、父の任地である衢州・襄州等に移る時もあるが、多くは符離で暮らしていた。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、貞元16年(800年)、29歳で科挙の科目で礼部主催の進士科に試験官高郢のもとで合格した。貞元18年(802年)に、百条の判の模擬問題とそれに対する模範解答を作成して試験対策を行い、貞元19年(803年)に史部が主催する試験、書判抜萃科に合格。ここで初めての任官、秘書省校書郎についた。元和元年(806年)、受験準備のため校書郎をやめて、元稹と華陽観に住む。この時、天子の下問を想定して、治政の要諦・時事への対策等を研究し、「策林」75編(内容は、天子の心構え・経済政策・人材の登用法・臣下の掌握法・官吏の俸禄・官署の経費・軍の統轄・異民族及び辺境対策・刑と法の運用・学問・礼楽・祭祀・諫言ことなど諸般に及び、白居易の思想と官僚としての信念を知ることができる)を制作した。これは、当時の具体的な施策をも含んでおり、史料としても重要な価値を持っている。このような努力が実り、制科に35歳で合格し京兆府の盩厔(ちゅうちつ)県尉になった。同年の冬、七言古詩120句の長編歌行「長恨歌」を作る。その後は、元和2年(807年)11月5日に翰林学士、元和3年(808年)四月末に左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
元和5年(810年)五月翰林学士のまま、京兆府戸曹参軍に赴任。しかし元和6年(811年)、母の陳氏が亡くなり喪に服さなければならなかったため官を辞す。白居易は母を深く敬愛し、「襄州別駕白府君事状」にて「こうして十数年、子供たちはみな学問によって仕官し、官位は高位高官に到った。これは疑いなく、婦人の慈愛と訓導が導いた結果である。娘としてこれほどに孝行、嫁としてこれほどに順良、母としてこれほどに慈愛」と讃えた。そこから三年間は無位無冠の暮らしを送る。
元和9年(814年)に朝廷のある長安に戻り、太子左賛善太夫という職が与えられた。
元和10年(815年)、武元衡暗殺をめぐり、上書(暗殺者を捕まえるだけではなく、その暗殺者を裏で操っている存在を明らかにすべきだという内容)を送ったことが越権行為とみなされ左遷され、この年の冬江州司馬となる。多くの閑適詩が生まれたのはこの時期である。
長慶元年(821年)になり、中書舎人に転任することによって中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、長慶2年(822年)に杭州・蘇州の刺史となり、行政官として治水を進めるなどして業績をあげる。長慶4年(824年)五月、名誉職太子左庶子東都に任命される。宝暦元年(825年)三月四日に蘇州刺史に任命される。このとき、毎日の事務処理の他に、蘇州から郊外の虎丘に行く、武丘路を開通させるという大きな仕事を成し遂げた。しかし、病により半年で官をやめ洛陽に戻る。その後、秘書監になって長安に移る。
大和2年(828年)二月には、刑部侍郎に昇任するも辞し、太子賓客分司東都、洛陽を中心とする河南府の長官河南尹を歴任したのち、太子賓客分司東都を再任、大和9年(835年)太子少博分司東都に就く。最後は会昌2年(842年)に刑部尚書の官をもって「官人は70歳を持って致任すべきだ」という持論に従い71歳で退官。会昌5年(845年)、74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、会昌6年(846年)、洛陽履道里の邸宅にて、75歳で生涯を閉じる。
詩風
白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷諭詩」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷諭詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。白氏文集に収められる諷諭詩については、「元九に与ふる書」中において、彼自身によってその意義が明言されている。そこでは、『詩経』を根元とする「詩道」が衰えていく中で、諫官たる左拾遺の職を授かって諫言を啓奏する立場に就いたとき、直接指摘して延べにくい事を『詩経』の精神に則って詠歌したことを語り、しかしそれらの詩が人々の誹謗を受けたことなどを顧みている。さらに、自身の詩を「諷諭」「閑適」「感傷」「雑詩」の四つに分類し、「諷諭詩」を「兼済(己の能力を発揮する道が開けているとき、そのような状況や立場にある時には広く手天下を救済することに努めるべきであるとすること)の志」に基づいて作ったもの、「閑適詩」を「独善(自分が世に容れられないときには名利に恬淡として自身を良く修めることに努めるべきであるとすること)の義」を詠んだものであると明示した上で、自分の詩作品の中で「諷諭詩」を最も重要なもの、それに次いで意義のあるものが「閑適詩」であると述べ、「感傷」「雑詩」と区別している。「感傷詩」の代表作は「長恨歌」「琵琶行」。他にも、無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩も名高い。
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能登半島地震の復旧・復興に向けた政府の支援策まとまる
2024年1月25日 18時55分
能登半島地震の復旧・復興に向けた政府の支援策がまとまり、木造の仮設住宅も活用した住まいの確保策や、中小企業の施設復旧にかかる費用の補助制度などが盛り込まれました。また観光支援として、観光客の宿泊代の一部を補助する「北陸応援割」を実施するとしています。
25日開かれた政府の対策本部でまとめられた支援パッケージでは
▽生活再建に向けて、半壊以上の家屋を解体する際の費用の自己負担を、特例でゼロにするとともに
▽最大300万円の被災者生活再建支援金を迅速に支給するなどとしています。
また
▽従来のプレハブの仮設住宅だけでなく、比較的、耐用年数が長い木造の仮設住宅も建設するなどし、被災者のニーズに応じた住まいの確保策を講じていくとしています。
▽なりわい支援では、中小企業の工場などの復旧費用を、15億円を上限に4分の3まで補助するのに加え、ここ数年で被災し、今回も再び被害にあった事業者には、追加の支援を行うほか
▽農業用機械や漁船などの復旧も後押しするとしています。
このほか
▽「輪島塗」を含めた伝統産業の立て直しに向けて、必要な道具や原材料の確保を支援していくことも盛り込まれました。
さらに
▽観光業を支えるため、被災地周辺の北陸地域を対象に、早ければ3月以降、1泊2万円を上限に、国が観光客の宿泊代の半額を補助する「北陸応援割」を実施し、能登地方でも復旧・復興の状況を見つつ、より手厚い支援策を検討するとしています。
政府は今年度予算や新年度予算案の予備費を活用し、一連の支援策を実行に移していく方針です。
「半壊」以上の家屋の解体費支援
今回の地震では、「半壊」以上の被害を受けた家屋について、解体にかかる費用を国や市町村が全額負担します。
災害で家屋が被害を受けた場合、自治体が発行するり災証明書で「全壊」と認められると、解体費用の全額を国や市町村が負担することになっています。
これについて、政府が、能登半島地震を「特定非常災害」に指定したことから、今回は、り災証明書で「大規模半壊」と「中規模半壊」それに「半壊」とされた場合も特例的に国や市町村が全額を負担することにしています。
同様の措置は、2016年の熊本地震や、2019年の東日本台風でもとられています。
仮設住宅の建設費負担
被災者の住宅の確保に向けて石川県は、従来のプレハブの仮設住宅に加えて、木造の仮設住宅も建設する方針を示していて、国も財政的に支援する方針です。
プレハブの仮設住宅は5週間程度の工期で完成することから、避難生活の早期の解消につながりますが、将来的には撤去するため、被災者は、いずれは転居する必要があります。
このため石川県は、入居者が希望すれば住み続けることができる木造の仮設住宅も整備する計画です。
木造の仮設住宅は2つのタイプを整備する予定でこのうち、
▽長屋タイプのものは、市街地や近郊の空き地に1か所当たり10戸から50戸ほどを建設します。
工期は2か月程度と見込まれています。
一方、
▽戸建てのタイプのものは、もとからある集落内の空き地などに建設され、今は離れた場所に避難している被災者がふるさとに帰ることができるようにするねらいがあります。
仮設住宅は、ことし3月末までに合わせておよそ3000戸が着工される計画で、国も財政的に支援する方針です。
北陸地方の観光業支援 「北陸応援割」実施など
政府は、北陸地方の観光業を支援するため、国が観光客の宿泊料金を補助する「北陸応援割」を実施します。
早ければ3月以降、▽石川県、▽福井県、▽富山県、それに▽新潟県の4県を訪れる観光客の宿泊料金の半額を、1人1泊当たり2万円を上限に補助します。
地震による被害が特に大きかった、石川県の能登地方については、
▽復興の状況を見ながら、より手厚い、旅行需要の喚起策を検討するほか、
▽地震で被害を受けた観光拠点や観光資源の復旧計画の策定や実行を支援します。
このほか、地震の影響で被災地周辺の観光地で宿泊施設のキャンセルが相次いでいることを踏まえ、来月から3月にかけて交通機関や観光地の現状に関する情報発信を重点的に行うほか、3月の北陸新幹線の金沢・敦賀間の開業にあわせた観光プロモーションも実施するなど、観光客の誘致を進めるとしています。
被災の中小・零細企業を支援へ 「なりわい補助金」適用
政府は、被災した中小・零細企業を支援するため、工場などの建物や設備を復旧する費用のうち、最大で4分の3を補助する「なりわい補助金」を適用します。
上限額は、▽石川県で15億円、▽富山県、福井県、新潟県は3億円です。
さらに、ここ数年で被災し、今回も再び被害にあった事業者には、全額となる場合も含めて、復旧費用の一定額を補助することにしていて、上限額は、▽石川県は5億円、▽富山県、福井県、新潟県は1億円となっています。
また、小規模事業者を対象とした「持続化補助金」の上限額をこれまでの50万円から4倍の200万円に引き上げ、展示会への出展や、新商品開発のための設備投資など販路開拓に向けた取り組みを支援します。
さらに、被災した商店街のアーケードや街路灯などの復旧費用を最大で4分の3補助するほか、にぎわいを取り戻すための復興イベントなどにかかる費用を最大100万円補助します。
このほか、深刻な被害を受けた輪島塗など、伝統産業の再建に向けては、はけや漆などの道具や原材料の確保に必要な費用を最大で4分の3を補助するとしていて、上限額は1000万円です。
また、資金繰りの支援としては、
▽コロナ禍で実施された、実質無利子・無担保の「ゼロゼロ融資」など、融資の返済計画を変更する際に発生する保証料を免除するほか
▽返済順位が低いことで資本と見なせる「劣後ローン」の金利優遇などを実施するということです。
農林水産業も 被災した生産者支援へ
政府は農林水産業の分野でも被災した生産者への支援策をまとめました。
このうち、農業や林業では
▽被害を受けた農業用機械や農業用ハウス、畜舎、それに木材加工施設などの再建や修繕にかかる費用の半額を補助します。
また、
▽種苗などの資材の調達や繁殖用の牛や豚を再度、購入するのに必要な費用も半額を補助します。
水産業では、
▽津波で被害を受けた漁業者の操業再開に向けて、漁業協同組合などが漁船や定置網を購入する費用を県とともに3分の2以上補助します。
さらに、輪島市や珠洲市の広い範囲で地盤が隆起して海底が露出するなどして使えなくなっている漁港については、被害の実態を調査する費用を盛り込むとともに、地元の自治体が復旧に向けた方針を策定するのを支援します。
さらに、工事を国が代行する制度も活用できるようにするということです。
このほか、生産者の資金繰りを支援するため、災害関連資金の融資制度で、貸し付けから5年間、実質無利子にするとしています。
岸田総理大臣は記者会見で「先が見えないという不安に応えるとともに、被災された方々が再び住み慣れた土地に戻ってこられるよう、そして一日も早く元の平穏な生活を取り戻せるよう、政府として全力で支援していく」と述べました。
そのうえで「施策の実行に必要な財政措置については令和5年度と6年度の予備費を活用し、復旧・復興の段階に合わせ、数次にわたり機動的、弾力的に手当てする。被災地、被災者の立場に立って、できることはすべてやるという決意で被災者の生活となりわいの再建支援に全力で取り組む」と述べました。
首相「今回にとどまらず中長期的に支えていく」
岸田総理大臣は記者会見で「今回の災害では広範囲にわたる建物の損壊や道路の寸断、ライフラインの途絶のほか、輪島の朝市の消失など地域社会や経済に大きな被害が生じている。能登の復旧・復興のためにやるべきことは山積しており、今回の支援パッケージの策定にとどまらず中長期的に支えていく」と述べました。
2024年1月25日 18時55分
能登半島地震の復旧・復興に向けた政府の支援策がまとまり、木造の仮設住宅も活用した住まいの確保策や、中小企業の施設復旧にかかる費用の補助制度などが盛り込まれました。また観光支援として、観光客の宿泊代の一部を補助する「北陸応援割」を実施するとしています。
25日開かれた政府の対策本部でまとめられた支援パッケージでは
▽生活再建に向けて、半壊以上の家屋を解体する際の費用の自己負担を、特例でゼロにするとともに
▽最大300万円の被災者生活再建支援金を迅速に支給するなどとしています。
また
▽従来のプレハブの仮設住宅だけでなく、比較的、耐用年数が長い木造の仮設住宅も建設するなどし、被災者のニーズに応じた住まいの確保策を講じていくとしています。
▽なりわい支援では、中小企業の工場などの復旧費用を、15億円を上限に4分の3まで補助するのに加え、ここ数年で被災し、今回も再び被害にあった事業者には、追加の支援を行うほか
▽農業用機械や漁船などの復旧も後押しするとしています。
このほか
▽「輪島塗」を含めた伝統産業の立て直しに向けて、必要な道具や原材料の確保を支援していくことも盛り込まれました。
さらに
▽観光業を支えるため、被災地周辺の北陸地域を対象に、早ければ3月以降、1泊2万円を上限に、国が観光客の宿泊代の半額を補助する「北陸応援割」を実施し、能登地方でも復旧・復興の状況を見つつ、より手厚い支援策を検討するとしています。
政府は今年度予算や新年度予算案の予備費を活用し、一連の支援策を実行に移していく方針です。
「半壊」以上の家屋の解体費支援
今回の地震では、「半壊」以上の被害を受けた家屋について、解体にかかる費用を国や市町村が全額負担します。
災害で家屋が被害を受けた場合、自治体が発行するり災証明書で「全壊」と認められると、解体費用の全額を国や市町村が負担することになっています。
これについて、政府が、能登半島地震を「特定非常災害」に指定したことから、今回は、り災証明書で「大規模半壊」と「中規模半壊」それに「半壊」とされた場合も特例的に国や市町村が全額を負担することにしています。
同様の措置は、2016年の熊本地震や、2019年の東日本台風でもとられています。
仮設住宅の建設費負担
被災者の住宅の確保に向けて石川県は、従来のプレハブの仮設住宅に加えて、木造の仮設住宅も建設する方針を示していて、国も財政的に支援する方針です。
プレハブの仮設住宅は5週間程度の工期で完成することから、避難生活の早期の解消につながりますが、将来的には撤去するため、被災者は、いずれは転居する必要があります。
このため石川県は、入居者が希望すれば住み続けることができる木造の仮設住宅も整備する計画です。
木造の仮設住宅は2つのタイプを整備する予定でこのうち、
▽長屋タイプのものは、市街地や近郊の空き地に1か所当たり10戸から50戸ほどを建設します。
工期は2か月程度と見込まれています。
一方、
▽戸建てのタイプのものは、もとからある集落内の空き地などに建設され、今は離れた場所に避難している被災者がふるさとに帰ることができるようにするねらいがあります。
仮設住宅は、ことし3月末までに合わせておよそ3000戸が着工される計画で、国も財政的に支援する方針です。
北陸地方の観光業支援 「北陸応援割」実施など
政府は、北陸地方の観光業を支援するため、国が観光客の宿泊料金を補助する「北陸応援割」を実施します。
早ければ3月以降、▽石川県、▽福井県、▽富山県、それに▽新潟県の4県を訪れる観光客の宿泊料金の半額を、1人1泊当たり2万円を上限に補助します。
地震による被害が特に大きかった、石川県の能登地方については、
▽復興の状況を見ながら、より手厚い、旅行需要の喚起策を検討するほか、
▽地震で被害を受けた観光拠点や観光資源の復旧計画の策定や実行を支援します。
このほか、地震の影響で被災地周辺の観光地で宿泊施設のキャンセルが相次いでいることを踏まえ、来月から3月にかけて交通機関や観光地の現状に関する情報発信を重点的に行うほか、3月の北陸新幹線の金沢・敦賀間の開業にあわせた観光プロモーションも実施するなど、観光客の誘致を進めるとしています。
被災の中小・零細企業を支援へ 「なりわい補助金」適用
政府は、被災した中小・零細企業を支援するため、工場などの建物や設備を復旧する費用のうち、最大で4分の3を補助する「なりわい補助金」を適用します。
上限額は、▽石川県で15億円、▽富山県、福井県、新潟県は3億円です。
さらに、ここ数年で被災し、今回も再び被害にあった事業者には、全額となる場合も含めて、復旧費用の一定額を補助することにしていて、上限額は、▽石川県は5億円、▽富山県、福井県、新潟県は1億円となっています。
また、小規模事業者を対象とした「持続化補助金」の上限額をこれまでの50万円から4倍の200万円に引き上げ、展示会への出展や、新商品開発のための設備投資など販路開拓に向けた取り組みを支援します。
さらに、被災した商店街のアーケードや街路灯などの復旧費用を最大で4分の3補助するほか、にぎわいを取り戻すための復興イベントなどにかかる費用を最大100万円補助します。
このほか、深刻な被害を受けた輪島塗など、伝統産業の再建に向けては、はけや漆などの道具や原材料の確保に必要な費用を最大で4分の3を補助するとしていて、上限額は1000万円です。
また、資金繰りの支援としては、
▽コロナ禍で実施された、実質無利子・無担保の「ゼロゼロ融資」など、融資の返済計画を変更する際に発生する保証料を免除するほか
▽返済順位が低いことで資本と見なせる「劣後ローン」の金利優遇などを実施するということです。
農林水産業も 被災した生産者支援へ
政府は農林水産業の分野でも被災した生産者への支援策をまとめました。
このうち、農業や林業では
▽被害を受けた農業用機械や農業用ハウス、畜舎、それに木材加工施設などの再建や修繕にかかる費用の半額を補助します。
また、
▽種苗などの資材の調達や繁殖用の牛や豚を再度、購入するのに必要な費用も半額を補助します。
水産業では、
▽津波で被害を受けた漁業者の操業再開に向けて、漁業協同組合などが漁船や定置網を購入する費用を県とともに3分の2以上補助します。
さらに、輪島市や珠洲市の広い範囲で地盤が隆起して海底が露出するなどして使えなくなっている漁港については、被害の実態を調査する費用を盛り込むとともに、地元の自治体が復旧に向けた方針を策定するのを支援します。
さらに、工事を国が代行する制度も活用できるようにするということです。
このほか、生産者の資金繰りを支援するため、災害関連資金の融資制度で、貸し付けから5年間、実質無利子にするとしています。
岸田総理大臣は記者会見で「先が見えないという不安に応えるとともに、被災された方々が再び住み慣れた土地に戻ってこられるよう、そして一日も早く元の平穏な生活を取り戻せるよう、政府として全力で支援していく」と述べました。
そのうえで「施策の実行に必要な財政措置については令和5年度と6年度の予備費を活用し、復旧・復興の段階に合わせ、数次にわたり機動的、弾力的に手当てする。被災地、被災者の立場に立って、できることはすべてやるという決意で被災者の生活となりわいの再建支援に全力で取り組む」と述べました。
首相「今回にとどまらず中長期的に支えていく」
岸田総理大臣は記者会見で「今回の災害では広範囲にわたる建物の損壊や道路の寸断、ライフラインの途絶のほか、輪島の朝市の消失など地域社会や経済に大きな被害が生じている。能登の復旧・復興のためにやるべきことは山積しており、今回の支援パッケージの策定にとどまらず中長期的に支えていく」と述べました。
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