煙草と悪魔(上)
芥川龍之介
煙草たばこは、本来、日本になかつた植物である。では、何時いつ頃、舶載されたかと云ふと、記録によつて、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあつたり、或は天文年間と書いてあつたりする。が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文禄年間になると、「きかぬものたばこの法度はつと銭法度ぜにはつと、玉のみこゑにげんたくの医者」と云ふ落首らくしゆが出来た程、一般に喫煙が流行するやうになつた。――
そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、歴史家なら誰でも、葡萄牙ポルトガル人とか、西班牙スペイン人とか答へる。が、それは必ずしも唯一の答ではない。その外にまだ、もう一つ、伝説としての答が残つてゐる。それによると、煙草は、悪魔がどこからか持つて来たのださうである。さうして、その悪魔なるものは、天主教の伴天連ばてれんか(恐らくは、フランシス上人しやうにん)がはるばる日本へつれて来たのださうである。
かう云ふと、切支丹きりしたん宗門の信者は、彼等のパアテルを誣しひるものとして、自分を咎とがめようとするかも知れない。が、自分に云はせると、これはどうも、事実らしく思はれる。何故と云へば、南蛮の神が渡来すると同時に、南蛮の悪魔が渡来すると云ふ事は――西洋の善が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されると云ふ事は、至極、当然な事だからである。
しかし、その悪魔が実際、煙草を持つて来たかどうか、それは、自分にも、保証する事が出来ない。尤もつともアナトオル・フランスの書いた物によると、悪魔は木犀草もくせいさうの花で、或坊さんを誘惑しようとした事があるさうである。して見ると、煙草を、日本へ持つて来たと云ふ事も、満更嘘だとばかりは、云へないであらう。よし又それが嘘にしても、その嘘は又、或意味で、存外、ほんとうに近い事があるかも知れない。――自分は、かう云ふ考へで、煙草の渡来に関する伝説を、ここに書いて見る事にした。
天文十八年、悪魔は、フランシス・ザヴイエルに伴ついてゐる伊留満いるまんの一人に化けて、長い海路を恙つつがなく、日本へやつて来た。この伊留満の一人に化けられたと云ふのは、正物しやうぶつのその男が、阿媽港あまかはか何処どこかへ上陸してゐる中に、一行をのせた黒船が、それとも知らずに出帆をしてしまつたからである。そこで、それまで、帆桁ほげたへ尻尾をまきつけて、倒さかさまにぶら下りながら、私ひそかに船中の容子ようすを窺つてゐた悪魔は、早速姿をその男に変へて、朝夕フランシス上人に、給仕する事になつた。勿論、ドクトル・フアウストを尋ねる時には、赤い外套ぐわいたうを着た立派な騎士に化ける位な先生の事だから、こんな芸当なぞは、何でもない。
所が、日本へ来て見ると、西洋にゐた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、大分、容子がちがふ。第一、あの旅行記によると、国中至る処、黄金がみちみちてゐるやうであるが、どこを見廻しても、そんな景色はない。これなら、ちよいと磔くるすを爪でこすつて、金きんにすれば、それでも可成かなり、誘惑が出来さうである。それから、日本人は、真珠か何かの力で、起死回生の法を、心得てゐるさうであるが、それもマルコ・ポオロの嘘らしい。嘘なら、方々の井戸へ唾を吐いて、悪い病さへ流行はやらせれば、大抵の人間は、苦しまぎれに当来の波羅葦僧はらいそなぞは、忘れてしまふ。――フランシス上人の後へついて、殊勝らしく、そこいらを見物して歩きながら、悪魔は、私ひそかにこんな事を考へて、独り会心の微笑をもらしてゐた。
が、たつた一つ、ここに困つた事がある。こればかりは、流石さすがの悪魔が、どうする訳にも行かない。と云ふのは、まだフランシス・ザヴイエルが、日本へ来たばかりで、伝道も盛にならなければ、切支丹の信者も出来ないので、肝腎かんじんの誘惑する相手が、一人もゐないと云ふ事である。これには、いくら悪魔でも、少からず、当惑した。第一、さしあたり退屈な時間を、どうして暮していいか、わからない。――
そこで、悪魔は、いろいろ思案した末に、先まづ園芸でもやつて、暇をつぶさうと考へた。それには、西洋を出る時から、種々雑多な植物の種を、耳の穴の中へ入れて持つてゐる。地面は、近所の畠でも借りれば、造作はない。その上、フランシス上人さへ、それは至極よからうと、賛成した。勿論、上人は、自分についてゐる伊留満いるまんの一人が、西洋の薬用植物か何かを、日本へ移植しようとしてゐるのだと、思つたのである。
悪魔は、早速、鋤すき鍬くはを借りて来て、路ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
丁度水蒸気の多い春の始で、たなびいた霞かすみの底からは、遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠むさうに、響いて来る、その鐘の音が、如何にも又のどかで、聞きなれた西洋の寺の鐘のやうに、いやに冴えて、かんと脳天へひびく所がない。――が、かう云ふ太平な風物の中にゐたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だらうと思ふと、決してさうではない。
彼は、一度この梵鐘ぼんしようの音を聞くと、聖保羅さんぽおろの寺の鐘を聞いたよりも、一層、不快さうに、顔をしかめて、むしやうに畑を打ち始めた。何故かと云ふと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々あいあいたる日光に浴してゐると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行はうと云ふ気にもならずにしまふ。これでは、折角、海を渡つて、日本人を誘惑に来た甲斐かひがない。――掌てのひらに肉豆まめがないので、イワンの妹に叱られた程、労働の嫌な悪魔が、こんなに精を出して、鍬を使ふ気になつたのは、全く、このややもすれば、体にはひかかる道徳的の眠けを払はうとして、一生懸命になつたせゐである。
悪魔は、とうとう、数日の中に、畑打ちを完をはつて、耳の中の種を、その畦うねに播まいた。
それから、幾月かたつ中に、悪魔の播いた種は、芽を出し、茎をのばして、その年の夏の末には、幅の広い緑の葉が、もう残りなく、畑の土を隠してしまつた。が、その植物の名を知つてゐる者は、一人もない。フランシス上人が、尋ねてさへ、悪魔は、にやにや笑ふばかりで、何とも答へずに、黙つてゐる。
その中に、この植物は、茎の先に、簇々そうそうとして、花をつけた。漏斗じやうごのやうな形をした、うす紫の花である。悪魔には、この花のさいたのが、骨を折つただけに、大へん嬉しいらしい。そこで、彼は、朝夕の勤行ごんぎやうをすましてしまふと、何時でも、その畑へ来て、余念なく培養につとめてゐた。
すると、或日の事、(それは、フランシス上人が伝道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出来事である。)一人の牛商人うしあきうどが、一頭の黄牛あめうしをひいて、その畑の側を通りかかつた。見ると、紫の花のむらがつた畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの広い帽子をかぶつた、南蛮の伊留満が、しきりに葉へついた虫をとつてゐる。牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留満へ声をかけた。
――もし、お上人様、その花は何でございます。
伊留満は、ふりむいた。鼻の低い、眼の小さな、如何にも、人の好ささうな紅毛こうまうである。
――これですか。
――さやうでございます。
紅毛は、畑の柵によりかかりながら、頭をふつた。さうして、なれない日本語で云つた。
――この名だけは、御気の毒ですが、人には教へられません。
――はてな、すると、フランシス様が、云つてはならないとでも、仰有おつしやつたのでございますか。
――いいえ、さうではありません。
――では、一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依きえして居りますのですから。
牛商人は、得意さうに自分の胸を指さした。見ると、成る程、小さな真鍮しんちゆうの十字架が、日に輝きながら、頸くびにかかつてゐる。すると、それが眩まぶしかつたのか、伊留満いるまんはちよいと顔をしかめて、下を見たが、すぐに又、前よりも、人なつこい調子で、冗談じようだんともほんとうともつかずに、こんな事を云つた。
――それでも、いけませんよ。これは、私の国の掟おきてで、人に話してはならない事になつてゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きつとあたります。あたつたら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。
牛商人は、伊留満が、自分をからかつてゐるとでも思つたのであらう。彼は、日にやけた顔に、微笑を浮べながら、わざと大仰に、小首を傾けた。
――何でございますかな。どうも、殺急さつきふには、わかり兼ねますが。
――なに今日でなくつても、いいのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて来ても、かまひません。あたつたら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀ちんたの酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利はらいそてれあるの絵をあげますか。
牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
――では、あたらなかつたら、どう致しませう。
伊留満は帽子をあみだに、かぶり直しながら、手を振つて、笑つた。牛商人が、聊いささか、意外に思つた位、鋭い、鴉からすのやうな声で、笑つたのである。
――あたらなかつたら、私があなたに、何かもらひませう。賭かけです。あたるか、あたらないかの賭です。あたつたら、これをみんな、あなたにあげますから。
かう云ふ中に紅毛は、何時いつか又、人なつこい声に、帰つてゐた。
――よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有おつしやるものを、差上げませう。
――何でもくれますか、その牛でも。
――これでよろしければ、今でも差上げます。
牛商人は、笑ひながら、黄牛あめうしの額を、撫でた。彼はどこまでも、これを、人の好い伊留満の、冗談だと思つてゐるらしい。
――その代り、私が勝つたら、その花のさく草を頂きますよ。
――よろしい。よろしい。では、確に約束しましたね。
――確に、御約定おやくぢやう致しました。御主おんあるじエス・クリストの御名にお誓ひ申しまして。
芥川龍之介
煙草たばこは、本来、日本になかつた植物である。では、何時いつ頃、舶載されたかと云ふと、記録によつて、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあつたり、或は天文年間と書いてあつたりする。が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文禄年間になると、「きかぬものたばこの法度はつと銭法度ぜにはつと、玉のみこゑにげんたくの医者」と云ふ落首らくしゆが出来た程、一般に喫煙が流行するやうになつた。――
そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、歴史家なら誰でも、葡萄牙ポルトガル人とか、西班牙スペイン人とか答へる。が、それは必ずしも唯一の答ではない。その外にまだ、もう一つ、伝説としての答が残つてゐる。それによると、煙草は、悪魔がどこからか持つて来たのださうである。さうして、その悪魔なるものは、天主教の伴天連ばてれんか(恐らくは、フランシス上人しやうにん)がはるばる日本へつれて来たのださうである。
かう云ふと、切支丹きりしたん宗門の信者は、彼等のパアテルを誣しひるものとして、自分を咎とがめようとするかも知れない。が、自分に云はせると、これはどうも、事実らしく思はれる。何故と云へば、南蛮の神が渡来すると同時に、南蛮の悪魔が渡来すると云ふ事は――西洋の善が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されると云ふ事は、至極、当然な事だからである。
しかし、その悪魔が実際、煙草を持つて来たかどうか、それは、自分にも、保証する事が出来ない。尤もつともアナトオル・フランスの書いた物によると、悪魔は木犀草もくせいさうの花で、或坊さんを誘惑しようとした事があるさうである。して見ると、煙草を、日本へ持つて来たと云ふ事も、満更嘘だとばかりは、云へないであらう。よし又それが嘘にしても、その嘘は又、或意味で、存外、ほんとうに近い事があるかも知れない。――自分は、かう云ふ考へで、煙草の渡来に関する伝説を、ここに書いて見る事にした。
天文十八年、悪魔は、フランシス・ザヴイエルに伴ついてゐる伊留満いるまんの一人に化けて、長い海路を恙つつがなく、日本へやつて来た。この伊留満の一人に化けられたと云ふのは、正物しやうぶつのその男が、阿媽港あまかはか何処どこかへ上陸してゐる中に、一行をのせた黒船が、それとも知らずに出帆をしてしまつたからである。そこで、それまで、帆桁ほげたへ尻尾をまきつけて、倒さかさまにぶら下りながら、私ひそかに船中の容子ようすを窺つてゐた悪魔は、早速姿をその男に変へて、朝夕フランシス上人に、給仕する事になつた。勿論、ドクトル・フアウストを尋ねる時には、赤い外套ぐわいたうを着た立派な騎士に化ける位な先生の事だから、こんな芸当なぞは、何でもない。
所が、日本へ来て見ると、西洋にゐた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、大分、容子がちがふ。第一、あの旅行記によると、国中至る処、黄金がみちみちてゐるやうであるが、どこを見廻しても、そんな景色はない。これなら、ちよいと磔くるすを爪でこすつて、金きんにすれば、それでも可成かなり、誘惑が出来さうである。それから、日本人は、真珠か何かの力で、起死回生の法を、心得てゐるさうであるが、それもマルコ・ポオロの嘘らしい。嘘なら、方々の井戸へ唾を吐いて、悪い病さへ流行はやらせれば、大抵の人間は、苦しまぎれに当来の波羅葦僧はらいそなぞは、忘れてしまふ。――フランシス上人の後へついて、殊勝らしく、そこいらを見物して歩きながら、悪魔は、私ひそかにこんな事を考へて、独り会心の微笑をもらしてゐた。
が、たつた一つ、ここに困つた事がある。こればかりは、流石さすがの悪魔が、どうする訳にも行かない。と云ふのは、まだフランシス・ザヴイエルが、日本へ来たばかりで、伝道も盛にならなければ、切支丹の信者も出来ないので、肝腎かんじんの誘惑する相手が、一人もゐないと云ふ事である。これには、いくら悪魔でも、少からず、当惑した。第一、さしあたり退屈な時間を、どうして暮していいか、わからない。――
そこで、悪魔は、いろいろ思案した末に、先まづ園芸でもやつて、暇をつぶさうと考へた。それには、西洋を出る時から、種々雑多な植物の種を、耳の穴の中へ入れて持つてゐる。地面は、近所の畠でも借りれば、造作はない。その上、フランシス上人さへ、それは至極よからうと、賛成した。勿論、上人は、自分についてゐる伊留満いるまんの一人が、西洋の薬用植物か何かを、日本へ移植しようとしてゐるのだと、思つたのである。
悪魔は、早速、鋤すき鍬くはを借りて来て、路ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
丁度水蒸気の多い春の始で、たなびいた霞かすみの底からは、遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠むさうに、響いて来る、その鐘の音が、如何にも又のどかで、聞きなれた西洋の寺の鐘のやうに、いやに冴えて、かんと脳天へひびく所がない。――が、かう云ふ太平な風物の中にゐたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だらうと思ふと、決してさうではない。
彼は、一度この梵鐘ぼんしようの音を聞くと、聖保羅さんぽおろの寺の鐘を聞いたよりも、一層、不快さうに、顔をしかめて、むしやうに畑を打ち始めた。何故かと云ふと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々あいあいたる日光に浴してゐると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行はうと云ふ気にもならずにしまふ。これでは、折角、海を渡つて、日本人を誘惑に来た甲斐かひがない。――掌てのひらに肉豆まめがないので、イワンの妹に叱られた程、労働の嫌な悪魔が、こんなに精を出して、鍬を使ふ気になつたのは、全く、このややもすれば、体にはひかかる道徳的の眠けを払はうとして、一生懸命になつたせゐである。
悪魔は、とうとう、数日の中に、畑打ちを完をはつて、耳の中の種を、その畦うねに播まいた。
それから、幾月かたつ中に、悪魔の播いた種は、芽を出し、茎をのばして、その年の夏の末には、幅の広い緑の葉が、もう残りなく、畑の土を隠してしまつた。が、その植物の名を知つてゐる者は、一人もない。フランシス上人が、尋ねてさへ、悪魔は、にやにや笑ふばかりで、何とも答へずに、黙つてゐる。
その中に、この植物は、茎の先に、簇々そうそうとして、花をつけた。漏斗じやうごのやうな形をした、うす紫の花である。悪魔には、この花のさいたのが、骨を折つただけに、大へん嬉しいらしい。そこで、彼は、朝夕の勤行ごんぎやうをすましてしまふと、何時でも、その畑へ来て、余念なく培養につとめてゐた。
すると、或日の事、(それは、フランシス上人が伝道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出来事である。)一人の牛商人うしあきうどが、一頭の黄牛あめうしをひいて、その畑の側を通りかかつた。見ると、紫の花のむらがつた畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの広い帽子をかぶつた、南蛮の伊留満が、しきりに葉へついた虫をとつてゐる。牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留満へ声をかけた。
――もし、お上人様、その花は何でございます。
伊留満は、ふりむいた。鼻の低い、眼の小さな、如何にも、人の好ささうな紅毛こうまうである。
――これですか。
――さやうでございます。
紅毛は、畑の柵によりかかりながら、頭をふつた。さうして、なれない日本語で云つた。
――この名だけは、御気の毒ですが、人には教へられません。
――はてな、すると、フランシス様が、云つてはならないとでも、仰有おつしやつたのでございますか。
――いいえ、さうではありません。
――では、一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依きえして居りますのですから。
牛商人は、得意さうに自分の胸を指さした。見ると、成る程、小さな真鍮しんちゆうの十字架が、日に輝きながら、頸くびにかかつてゐる。すると、それが眩まぶしかつたのか、伊留満いるまんはちよいと顔をしかめて、下を見たが、すぐに又、前よりも、人なつこい調子で、冗談じようだんともほんとうともつかずに、こんな事を云つた。
――それでも、いけませんよ。これは、私の国の掟おきてで、人に話してはならない事になつてゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きつとあたります。あたつたら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。
牛商人は、伊留満が、自分をからかつてゐるとでも思つたのであらう。彼は、日にやけた顔に、微笑を浮べながら、わざと大仰に、小首を傾けた。
――何でございますかな。どうも、殺急さつきふには、わかり兼ねますが。
――なに今日でなくつても、いいのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて来ても、かまひません。あたつたら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀ちんたの酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利はらいそてれあるの絵をあげますか。
牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
――では、あたらなかつたら、どう致しませう。
伊留満は帽子をあみだに、かぶり直しながら、手を振つて、笑つた。牛商人が、聊いささか、意外に思つた位、鋭い、鴉からすのやうな声で、笑つたのである。
――あたらなかつたら、私があなたに、何かもらひませう。賭かけです。あたるか、あたらないかの賭です。あたつたら、これをみんな、あなたにあげますから。
かう云ふ中に紅毛は、何時いつか又、人なつこい声に、帰つてゐた。
――よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有おつしやるものを、差上げませう。
――何でもくれますか、その牛でも。
――これでよろしければ、今でも差上げます。
牛商人は、笑ひながら、黄牛あめうしの額を、撫でた。彼はどこまでも、これを、人の好い伊留満の、冗談だと思つてゐるらしい。
――その代り、私が勝つたら、その花のさく草を頂きますよ。
――よろしい。よろしい。では、確に約束しましたね。
――確に、御約定おやくぢやう致しました。御主おんあるじエス・クリストの御名にお誓ひ申しまして。
老王讲糖第102讲:红糖与黑糖的区别
红糖与黑糖都是市场上常见的二种食糖,一般来说红糖颜色浅一些而黑糖颜色深一些。那么这二种糖到底有什么区别吗?
一、在传统医学上,红糖和黑糖是同一物品的不同名称。
【药名】赤沙糖
【别名】沙糖,紫沙糖,赤砂糖,黑沙糖,黑砂糖,红糖,片黄糖,青糖,黄糖,黑糖。
【来源】为禾本科植物甘蔗的茎汁,经炼制而成的赤色结晶体。
二、因文化的不同,红糖和黑糖是同一物品的不同称呼。
详见老王讲糖第40讲:日本为什么把红糖称为黑糖?
问:请问日本为什么叫红糖称为黑糖?
答:关于这个问题,目前并没有标准或权威的答案,以下为个人理解,内容仅供参考。
1、先看一段日本自己对黑糖历史的考证。
●歴史
日本に初めて黒砂糖が持ち込まれたのは、奈良時代に唐の僧・鑑真が来日したときといわれています。また、薬の目録である「種々薬帳」に、サトウキビから作った砂糖を意味する「蔗糖」という言葉が記されていることから、当時は甘味料としてではなく大変貴重な薬として使われていたと考えられます。
その後1610年、現在の奄美大島で直川智が黒砂糖の製造に成功し、国産の砂糖が誕生しました。
大概意思是说:日本的黑糖最初在奈良时代由唐代高僧鉴真带到日本(鉴真东渡的历史,小伙伴们都学过的)。在药物目录(药物典籍)中,由甘蔗制作而成的“蔗糖”一词已有记载,当时不仅是作为甜味剂,而是非常珍贵的药物使用。
公元1610年,在现在的奄美大岛上,直川智成功制造出了黑砂糖,国产的黑糖诞生了。
2、红糖经过长时间的放置,到达日本时颜色就变的很深,呈棕褐色或棕黑色了。同时日本因为是岛国,四周全是水,在中国传统文化中,黑色的龙在五行中代表着水德,因此日本尚黑,以黑为荣。
3、个人认为,鉴真去日本带有红糖,可能仅仅是作为出海远航的必备品而非单纯用以交易的物资。因为自从三国时康僧会大师设立护生堂(沪生堂)把红糖生产技术引入国内并赠送给当地渔民后,出海打渔携带红糖就成了传统。就是到现在福建沿海每年开渔的时候,所有渔船还都会带着红糖出海的,其影响力可见一斑。
4、台湾之所以把红糖称为黑糖,是由于日统时期日本人在台湾建立了很多的糖厂,同时也把黑糖这个名称带入了台湾。至于北方部分地区把红糖叫作黑糖的原因,一方面和传统医书中也有黑砂糖的说法有关,另一方面也有可能是受日统时期的影响。
三、从标准的角度对红糖和黑糖进行区分。
目前国内相关标准对红糖定义如下:
GB 13104-2014《食品安全国家标准 食糖》以甘蔗为原料,经提取糖汁、清净处理后,直接煮制不经分蜜的棕红色或黄褐色的糖。
GB/T 35885-2018《红糖》以甘蔗为原料,经提取糖汁,清净处理后,直接煮炼不经分蜜制炼而成的红糖。
GB/T 35886-2018《食糖分类》以甘蔗为原料,经提取糖汁,清净处理后,直接煮炼不经分蜜制炼而成的金黄色至红褐色的糖。
QB/T 4561-2013《红糖》本标准适用于以甘蔗为原料,经提汁、澄清、煮炼、采用石灰法工艺制炼而成的红糖。
目前国内相关标准对黑糖定义如下:
QB/T 4567-2013《黑糖》本标准适用于以甘蔗、甜菜及其制品为原料加工而得的深褐色食糖。
根据以上相关标准的对红糖和黑糖的定义,可以看出红糖与黑糖的主要区别:
红糖生产的原料只能是甘蔗,而且是未通过分蜜直接生产而成的一种糖。
黑糖生产的原料则可以是甘蔗也可以是甜菜直接加工而成,也可以是用其它糖为原料再加工而成。
四、从生产的角度对红糖和黑糖进行区分。
1、综合以上内容,在一定程度上来说红糖和黑糖是同一种物品,只是叫法不同或颜色的不同而已。
2、从生产的角度来说,很多食糖企业同时生产红糖和黑糖,只是在生产工艺上进行一定的调整,使得红糖的颜色浅一些而黑糖的颜色深一些。比如通过生产过程中对PH值的调节,可以使成品的颜色呈现不同的深浅度;或者通过生产过程中温度的调整和生产时长的不同,使成品呈现深浅不同的颜色。
3、红糖在储存过程中,因接触空气而发生的氧化作用,及内部多种成分相互作用而发生的缓慢美拉德反应,也会使得颜色变深。这也是所谓老红糖颜色往往较深的原因。日本曾经有不少企业低价采购中国红糖放置一年后作为黑糖加工销售。
五、红糖和黑糖在功效和风味上有什么区别。
1、如果单纯是因传统医学或文化等因素对同一物品的不同称呼,则二者是同一种物品,功效和风味并没有任何区别。
2、使用不同工艺生产的红糖和黑糖,从成分和功效上来说,主要区别如下:
①通过调节甘蔗汁PH值的方式生产的红糖和黑糖,是普通工业化糖厂最常见的方式,二者生产的产品虽然颜色有所区别,但功效和风味基本相同。
②单纯通过提高熬制时的出锅温度生产的黑糖,是家庭作坊式糖厂最常采取的工艺,更多的是糖类焦化产生的焦糖的颜色,对产品品质的增加没有任何的益处。曾见过一些糖厂将黑糖制作成半焦糊的块状,食用起来有明显的焦糖味,甚至在水中溶解都有些困难。
③通过生产过程中合理的温度控制,主要通过增加美拉德反应产生的类黑精的方式使黑糖颜色变深,这种黑糖比红糖有更多的功效作用。目前上海沪生堂通过恒温熬制工艺生产的黑糖就属于这种类型。将熬制温度控制在蔗糖焦化的临界点以内,熬制过程中通过添加浓缩甘蔗汁的方式调控水分和沸腾度,使美拉德反应时间是普通红糖的3倍以上,从而产生更多的具有抗氧化作用的类黑精成分。
小贴士:红糖(黑糖)中的类黑精成分对人体的功效。
在红糖(黑糖)的熬制过程中,除了蔗糖分解产生的还原糖和甘蔗汁含有的氨基酸成分外,还存在美拉德反应。美拉德反应是一种糖类和氨基酸之间的化学反应,是烹饪、烘焙等食品加工中常见的反应。在红糖的熬制过程中,还原糖和氨基酸会发生美拉德反应,生成具有独特香味的化合物。不同种类的氨基酸和还原糖起反应时,生成的化合物不同,这也是市场上红糖具有不同风味的原因之一。
此外,红糖熬制过程中发生美拉德反应还会生成了一种名为“类黑精”的物质。类黑精是指由美拉德反应产生的一类大分子结构的物质,具有抗氧化作用。它可以帮助身体抵御自由基的伤害,进而发挥细胞保护作用,减缓衰老速度。
自由基是一种具有极强化学活性的分子,它们会与身体内的细胞膜、蛋白质、核酸等生物大分子发生反应,导致细胞损伤,加速衰老,甚至诱发多种疾病。而抗氧化物质则可以有效中和自由基,保护身体免受损伤。
类黑精具有很强的抗氧化作用,能够有效清除体内的自由基,保护细胞不受损伤,对于减缓衰老速度、预防多种疾病具有一定的帮助。
此外,类黑精还有一定的美白作用。当皮肤受到紫外线等刺激时,会产生大量的自由基,这些自由基会导致皮肤色素沉淀,加速黑色素的合成,进而导致肌肤暗沉、色斑等问题。而类黑精的抗氧化作用可以中和这些自由基,减缓色素沉淀的速度,帮助肌肤保持健康的白皙状态。
因此,常喝红糖(黑糖)水可以增强身体的免疫力,预防衰老和疾病,并对肌肤有一定的美容效果。
红糖与黑糖都是市场上常见的二种食糖,一般来说红糖颜色浅一些而黑糖颜色深一些。那么这二种糖到底有什么区别吗?
一、在传统医学上,红糖和黑糖是同一物品的不同名称。
【药名】赤沙糖
【别名】沙糖,紫沙糖,赤砂糖,黑沙糖,黑砂糖,红糖,片黄糖,青糖,黄糖,黑糖。
【来源】为禾本科植物甘蔗的茎汁,经炼制而成的赤色结晶体。
二、因文化的不同,红糖和黑糖是同一物品的不同称呼。
详见老王讲糖第40讲:日本为什么把红糖称为黑糖?
问:请问日本为什么叫红糖称为黑糖?
答:关于这个问题,目前并没有标准或权威的答案,以下为个人理解,内容仅供参考。
1、先看一段日本自己对黑糖历史的考证。
●歴史
日本に初めて黒砂糖が持ち込まれたのは、奈良時代に唐の僧・鑑真が来日したときといわれています。また、薬の目録である「種々薬帳」に、サトウキビから作った砂糖を意味する「蔗糖」という言葉が記されていることから、当時は甘味料としてではなく大変貴重な薬として使われていたと考えられます。
その後1610年、現在の奄美大島で直川智が黒砂糖の製造に成功し、国産の砂糖が誕生しました。
大概意思是说:日本的黑糖最初在奈良时代由唐代高僧鉴真带到日本(鉴真东渡的历史,小伙伴们都学过的)。在药物目录(药物典籍)中,由甘蔗制作而成的“蔗糖”一词已有记载,当时不仅是作为甜味剂,而是非常珍贵的药物使用。
公元1610年,在现在的奄美大岛上,直川智成功制造出了黑砂糖,国产的黑糖诞生了。
2、红糖经过长时间的放置,到达日本时颜色就变的很深,呈棕褐色或棕黑色了。同时日本因为是岛国,四周全是水,在中国传统文化中,黑色的龙在五行中代表着水德,因此日本尚黑,以黑为荣。
3、个人认为,鉴真去日本带有红糖,可能仅仅是作为出海远航的必备品而非单纯用以交易的物资。因为自从三国时康僧会大师设立护生堂(沪生堂)把红糖生产技术引入国内并赠送给当地渔民后,出海打渔携带红糖就成了传统。就是到现在福建沿海每年开渔的时候,所有渔船还都会带着红糖出海的,其影响力可见一斑。
4、台湾之所以把红糖称为黑糖,是由于日统时期日本人在台湾建立了很多的糖厂,同时也把黑糖这个名称带入了台湾。至于北方部分地区把红糖叫作黑糖的原因,一方面和传统医书中也有黑砂糖的说法有关,另一方面也有可能是受日统时期的影响。
三、从标准的角度对红糖和黑糖进行区分。
目前国内相关标准对红糖定义如下:
GB 13104-2014《食品安全国家标准 食糖》以甘蔗为原料,经提取糖汁、清净处理后,直接煮制不经分蜜的棕红色或黄褐色的糖。
GB/T 35885-2018《红糖》以甘蔗为原料,经提取糖汁,清净处理后,直接煮炼不经分蜜制炼而成的红糖。
GB/T 35886-2018《食糖分类》以甘蔗为原料,经提取糖汁,清净处理后,直接煮炼不经分蜜制炼而成的金黄色至红褐色的糖。
QB/T 4561-2013《红糖》本标准适用于以甘蔗为原料,经提汁、澄清、煮炼、采用石灰法工艺制炼而成的红糖。
目前国内相关标准对黑糖定义如下:
QB/T 4567-2013《黑糖》本标准适用于以甘蔗、甜菜及其制品为原料加工而得的深褐色食糖。
根据以上相关标准的对红糖和黑糖的定义,可以看出红糖与黑糖的主要区别:
红糖生产的原料只能是甘蔗,而且是未通过分蜜直接生产而成的一种糖。
黑糖生产的原料则可以是甘蔗也可以是甜菜直接加工而成,也可以是用其它糖为原料再加工而成。
四、从生产的角度对红糖和黑糖进行区分。
1、综合以上内容,在一定程度上来说红糖和黑糖是同一种物品,只是叫法不同或颜色的不同而已。
2、从生产的角度来说,很多食糖企业同时生产红糖和黑糖,只是在生产工艺上进行一定的调整,使得红糖的颜色浅一些而黑糖的颜色深一些。比如通过生产过程中对PH值的调节,可以使成品的颜色呈现不同的深浅度;或者通过生产过程中温度的调整和生产时长的不同,使成品呈现深浅不同的颜色。
3、红糖在储存过程中,因接触空气而发生的氧化作用,及内部多种成分相互作用而发生的缓慢美拉德反应,也会使得颜色变深。这也是所谓老红糖颜色往往较深的原因。日本曾经有不少企业低价采购中国红糖放置一年后作为黑糖加工销售。
五、红糖和黑糖在功效和风味上有什么区别。
1、如果单纯是因传统医学或文化等因素对同一物品的不同称呼,则二者是同一种物品,功效和风味并没有任何区别。
2、使用不同工艺生产的红糖和黑糖,从成分和功效上来说,主要区别如下:
①通过调节甘蔗汁PH值的方式生产的红糖和黑糖,是普通工业化糖厂最常见的方式,二者生产的产品虽然颜色有所区别,但功效和风味基本相同。
②单纯通过提高熬制时的出锅温度生产的黑糖,是家庭作坊式糖厂最常采取的工艺,更多的是糖类焦化产生的焦糖的颜色,对产品品质的增加没有任何的益处。曾见过一些糖厂将黑糖制作成半焦糊的块状,食用起来有明显的焦糖味,甚至在水中溶解都有些困难。
③通过生产过程中合理的温度控制,主要通过增加美拉德反应产生的类黑精的方式使黑糖颜色变深,这种黑糖比红糖有更多的功效作用。目前上海沪生堂通过恒温熬制工艺生产的黑糖就属于这种类型。将熬制温度控制在蔗糖焦化的临界点以内,熬制过程中通过添加浓缩甘蔗汁的方式调控水分和沸腾度,使美拉德反应时间是普通红糖的3倍以上,从而产生更多的具有抗氧化作用的类黑精成分。
小贴士:红糖(黑糖)中的类黑精成分对人体的功效。
在红糖(黑糖)的熬制过程中,除了蔗糖分解产生的还原糖和甘蔗汁含有的氨基酸成分外,还存在美拉德反应。美拉德反应是一种糖类和氨基酸之间的化学反应,是烹饪、烘焙等食品加工中常见的反应。在红糖的熬制过程中,还原糖和氨基酸会发生美拉德反应,生成具有独特香味的化合物。不同种类的氨基酸和还原糖起反应时,生成的化合物不同,这也是市场上红糖具有不同风味的原因之一。
此外,红糖熬制过程中发生美拉德反应还会生成了一种名为“类黑精”的物质。类黑精是指由美拉德反应产生的一类大分子结构的物质,具有抗氧化作用。它可以帮助身体抵御自由基的伤害,进而发挥细胞保护作用,减缓衰老速度。
自由基是一种具有极强化学活性的分子,它们会与身体内的细胞膜、蛋白质、核酸等生物大分子发生反应,导致细胞损伤,加速衰老,甚至诱发多种疾病。而抗氧化物质则可以有效中和自由基,保护身体免受损伤。
类黑精具有很强的抗氧化作用,能够有效清除体内的自由基,保护细胞不受损伤,对于减缓衰老速度、预防多种疾病具有一定的帮助。
此外,类黑精还有一定的美白作用。当皮肤受到紫外线等刺激时,会产生大量的自由基,这些自由基会导致皮肤色素沉淀,加速黑色素的合成,进而导致肌肤暗沉、色斑等问题。而类黑精的抗氧化作用可以中和这些自由基,减缓色素沉淀的速度,帮助肌肤保持健康的白皙状态。
因此,常喝红糖(黑糖)水可以增强身体的免疫力,预防衰老和疾病,并对肌肤有一定的美容效果。
幸福灰猪猪ラウレア要继续乖乖的,早日康复出院
けがと闘うマイネルラウレア ファンの人たちからの熱いエールを胸に
競馬の世界は常に死と隣り合わせだ。大きな馬体が膝から崩れ落ちる瞬間。突然の発作で、立っていることすらままならず、倒れ込んでしまう姿。まだ1年目の新人記者の私だが、今年のダービーでレース後、スキルヴィングが、必死に4本の脚で歩いている姿が今でも脳裏に焼き付いている。
栗東トレセンで取材をさせていただくようになり、普段から本当にいとおしそうに馬を見つめ、「この子ほんまに甘えん坊でかわいいねん」、と優しくほほ笑む厩舎スタッフの方々の姿を知っているからこそ、別れが訪れた時のことを思うと胸をギュッとつかまれるような思いになる。四六時中、真正面から一頭一頭と向き合っている方の気持ちを完全に理解しているなんて、口が裂けても言うことはできないが、きらびやかな世界の裏にある、たくさんの人の思いを一人でも多くの人に伝えたい。
10日に阪神競馬場で行われたオリオンS。1番人気に支持されたのは、菊花賞で7着に善戦したマイネルラウレアだった。父ゴールドシップ譲りの芦毛の馬体や、若駒Sで見せた豪快な末脚に、多くのファンの人が魅了され、菊花賞以来の実戦となった彼の走りを楽しみにしていた。
新馬勝ちをともに飾った横山武史騎手を背に、後方からじっくり脚をためるいつものラウレアの競馬。画面越しにレースを見ていた私は、ちょうど映像が切り替わるタイミングでラウレアを見失ってしまい、4コーナーに到達しても姿を現さない彼に、心の中がざわついた。
「何が何だかよく分からなかった」と、口にするのは担当する宮厩舎の荻須恭一郎助手。「ゲート裏からバスに乗って、検量室まで向かっていたから、レースを直接見ることができなくて、音だけ聞いていた。でも、検量室までに地下道を通るから、そこで1度音が途切れる。地下から出て、パッと3コーナーあたりを見ると、武史と痛そうにしているラウレアが立っていて、意味が分からなかった。本当に頭が真っ白だったね」。
普段、笑顔しか見たことがないと言っても過言じゃないくらい、常に明るく、ユーモアにあふれている荻須助手。それゆえ、いつもよりも1つ低い声のトーンで話す口ぶりから、その時の衝撃の大きさが感じ取れた。
血を流しながらも、ラウレアは自分の力で馬運車に乗り込み、すぐさまレントゲンで容体を確認した。その瞬間獣医師の方から出た、「うわ……」という声を聞き、また不安が襲い掛かってきた。
下された診断結果は左第3中手骨の骨折。応急処置をして、栗東トレセンへ輸送された。10日の18時30分ごろから、11日の0時30分までの約6時間に及ぶ手術が行われた。X(旧ツイッター)には、ラウレアの無事を願うファンの方々の、#マイネルラウレア#手術成功、という文字であふれかえっていた。たくさんの人の思いが届いたのか、手術は無事成功。管骨の亀裂が入っている側面にプレートを入れ、10本のボルトで留めて患部を固定する大掛かりなものだった。
手術後に荻須助手が再会したラウレアは、痛々しく大きなギプスを巻いていて、脚をつくことができない状態だった。無事に手術が成功したとはいえ、油断のできない2週間が続く。
「本当に強い馬だよ。1週間くらいするとだいぶ元気になってきた。だけど、腸炎や脚に入れているプレートやボルトからの細菌感染のリスクがあった。僕、ストレスがたまると首や顎のリンパが痛くなるんよね。手術から、入院して1週間くらいはずっとそこがこれまで感じたことがないくらい、最大級に痛かった」。
いつ何が起きてもおかしくない不安の続く日々。荻須助手を支えたのは、ファンの方から届いた、ラウレアの無事を願うお守り。そして、一通一通愛情のこもった手紙だった。
「全国各地からたくさん……びっくりしたよ。すごく辛かったけど、ファンのみなさんが応援してくれて、すごい励まされた。本当にありがとうございます」。
荻須助手からラウレアのすぐそばに、丁寧に並べられたたくさんのお守りや手紙の写真。そして、しっかりと自分の脚で立つラウレアの写真が届いた。話すことのできないラウレアの気持ちを知ることはできないが、ファンの方々の強い愛は、ラウレアと誰よりも長く時間を過ごす荻須助手へ。そして、ラウレアを優しくなでる温かい手の温度から、きっと届いているだろう。
有馬記念当日の24日。無事に区切りの2週間を乗り越え、感染症のリスクはかなり軽減した。今後は1カ月の入院生活を経て、経過が順調なら放牧に出る予定だ。
「頑張ってくれているのは馬。なんとか精いっぱいサポートして、やれるだけのことはしたい」。荻須助手の言葉に力がこもる。記者としてまだまだ新人の私が、分かったようなことは言えないけれど、競馬が大好きな一ファンとして、「命懸けで走ってくれてありがとう」。レースに向かう全ての競走馬に敬意を持って、この言葉を伝えたい。(デイリースポーツ・小田穂乃実)
けがと闘うマイネルラウレア ファンの人たちからの熱いエールを胸に
競馬の世界は常に死と隣り合わせだ。大きな馬体が膝から崩れ落ちる瞬間。突然の発作で、立っていることすらままならず、倒れ込んでしまう姿。まだ1年目の新人記者の私だが、今年のダービーでレース後、スキルヴィングが、必死に4本の脚で歩いている姿が今でも脳裏に焼き付いている。
栗東トレセンで取材をさせていただくようになり、普段から本当にいとおしそうに馬を見つめ、「この子ほんまに甘えん坊でかわいいねん」、と優しくほほ笑む厩舎スタッフの方々の姿を知っているからこそ、別れが訪れた時のことを思うと胸をギュッとつかまれるような思いになる。四六時中、真正面から一頭一頭と向き合っている方の気持ちを完全に理解しているなんて、口が裂けても言うことはできないが、きらびやかな世界の裏にある、たくさんの人の思いを一人でも多くの人に伝えたい。
10日に阪神競馬場で行われたオリオンS。1番人気に支持されたのは、菊花賞で7着に善戦したマイネルラウレアだった。父ゴールドシップ譲りの芦毛の馬体や、若駒Sで見せた豪快な末脚に、多くのファンの人が魅了され、菊花賞以来の実戦となった彼の走りを楽しみにしていた。
新馬勝ちをともに飾った横山武史騎手を背に、後方からじっくり脚をためるいつものラウレアの競馬。画面越しにレースを見ていた私は、ちょうど映像が切り替わるタイミングでラウレアを見失ってしまい、4コーナーに到達しても姿を現さない彼に、心の中がざわついた。
「何が何だかよく分からなかった」と、口にするのは担当する宮厩舎の荻須恭一郎助手。「ゲート裏からバスに乗って、検量室まで向かっていたから、レースを直接見ることができなくて、音だけ聞いていた。でも、検量室までに地下道を通るから、そこで1度音が途切れる。地下から出て、パッと3コーナーあたりを見ると、武史と痛そうにしているラウレアが立っていて、意味が分からなかった。本当に頭が真っ白だったね」。
普段、笑顔しか見たことがないと言っても過言じゃないくらい、常に明るく、ユーモアにあふれている荻須助手。それゆえ、いつもよりも1つ低い声のトーンで話す口ぶりから、その時の衝撃の大きさが感じ取れた。
血を流しながらも、ラウレアは自分の力で馬運車に乗り込み、すぐさまレントゲンで容体を確認した。その瞬間獣医師の方から出た、「うわ……」という声を聞き、また不安が襲い掛かってきた。
下された診断結果は左第3中手骨の骨折。応急処置をして、栗東トレセンへ輸送された。10日の18時30分ごろから、11日の0時30分までの約6時間に及ぶ手術が行われた。X(旧ツイッター)には、ラウレアの無事を願うファンの方々の、#マイネルラウレア#手術成功、という文字であふれかえっていた。たくさんの人の思いが届いたのか、手術は無事成功。管骨の亀裂が入っている側面にプレートを入れ、10本のボルトで留めて患部を固定する大掛かりなものだった。
手術後に荻須助手が再会したラウレアは、痛々しく大きなギプスを巻いていて、脚をつくことができない状態だった。無事に手術が成功したとはいえ、油断のできない2週間が続く。
「本当に強い馬だよ。1週間くらいするとだいぶ元気になってきた。だけど、腸炎や脚に入れているプレートやボルトからの細菌感染のリスクがあった。僕、ストレスがたまると首や顎のリンパが痛くなるんよね。手術から、入院して1週間くらいはずっとそこがこれまで感じたことがないくらい、最大級に痛かった」。
いつ何が起きてもおかしくない不安の続く日々。荻須助手を支えたのは、ファンの方から届いた、ラウレアの無事を願うお守り。そして、一通一通愛情のこもった手紙だった。
「全国各地からたくさん……びっくりしたよ。すごく辛かったけど、ファンのみなさんが応援してくれて、すごい励まされた。本当にありがとうございます」。
荻須助手からラウレアのすぐそばに、丁寧に並べられたたくさんのお守りや手紙の写真。そして、しっかりと自分の脚で立つラウレアの写真が届いた。話すことのできないラウレアの気持ちを知ることはできないが、ファンの方々の強い愛は、ラウレアと誰よりも長く時間を過ごす荻須助手へ。そして、ラウレアを優しくなでる温かい手の温度から、きっと届いているだろう。
有馬記念当日の24日。無事に区切りの2週間を乗り越え、感染症のリスクはかなり軽減した。今後は1カ月の入院生活を経て、経過が順調なら放牧に出る予定だ。
「頑張ってくれているのは馬。なんとか精いっぱいサポートして、やれるだけのことはしたい」。荻須助手の言葉に力がこもる。記者としてまだまだ新人の私が、分かったようなことは言えないけれど、競馬が大好きな一ファンとして、「命懸けで走ってくれてありがとう」。レースに向かう全ての競走馬に敬意を持って、この言葉を伝えたい。(デイリースポーツ・小田穂乃実)
✋热门推荐